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9月14日(金)

いささか、時期はずれな気がしないでもないが、『ゲゲゲの鬼太郎』の話である。最近、また新シリーズの放送が始まった。5シリーズ目だそうな。1968年から放送の始まった、ファーストシリーズのモノクロ映像リアルタイム世代の人間にしてみれば、現行のバージョンは隔世の感がある。まあ、その一番大きな原因は、見ているこっちが「おやじ化」したからというのが真実だろう。などと言ってしまってはミもフタもない。

「ゲゲゲの鬼太郎」のイメージが大きく変わったのは、80年代に放送された3シリーズ目からだ。まず、主題歌は歌詞は変わらないが、リズムがとてもファンキーになり、イントロだけで鳥肌の立っていた初期作品のおどろおどろしさは影を潜めてしまった。そのシリーズでは人間の女の子がレギュラーキャラクターとして登場し、鬼太郎たちと一緒になって怪奇事件に巻き込まれていき、鬼太郎も、これまで以上に人間に対し、正義の妖怪として活躍する。

変わったといえば、鬼太郎の戦い方も昔に比べると、ずいぶん様変わりしてきた。鬼太郎の武器といえば、「髪の毛アンテナ」をはじめ「髪の毛針」「ちゃんちゃんこ」「リモコン下駄」「体内電気(電池?)」などが挙げられるが、新しい鬼太郎シリーズ(3シリーズ以降)では、サーベル状の武器や鞭を駆使して妖怪と戦う、まさに「正義のヒーロー」然としたキャラクターに成長している。「ゲゲゲの鬼太郎」は、すでに原作者の水木しげる氏の手のひらから飛び出し、TVという異世界の中でどんどん変貌してしまったかのようだ。そして、そこに恒常的な好敵手(ライバル)が現れる。それが誰あろう『ぬらりひょん』である。ぬらりひょんは、多少へっぽこな面もあるにせよ「日本悪役妖怪の総帥」的な立場で鬼太郎の前に立ちはだかる。

実は、個人的にこのぬらりひょんのスタンスに大きな違和感を感じている。というのは、子どもの頃に読んだ妖怪図鑑には、ぬらりひょんの紹介として「暮れの大掃除などの非常に忙しいときに、ふらりと現れて、いつのまにか客間に居座ってしまうようなへんな妖怪」などと書いてあったと思うのだ。そこでちょっと調べてみたのだが、やはり大筋ではそんな感じで、少なくとも「日本悪役妖怪の総帥」といった大それたことをしでかすようなキャラではなく、なんだかこの鬼太郎TVシリーズのなかで“捏造”された感さえある。

そういえば、鬼太郎の仲間の「正義の妖怪」とされている「子泣きじじい」「砂かけばばあ」「一反木綿」「ぬり壁」といった連中も、本来は決して人間の味方ではなかったはずだが、それは置いておこう。現行シリーズでは「ろくろ首」や「お歯黒べったり」といった連中も鬼太郎ファミリーとして活躍中で、みんな“妖怪横丁”にある「砂かけばばあ」のアパートの住人らしい。彼らは、たまりにたまったアパート代をおばばに支払うため、コンビニやファミレスで正体を隠してアルバイトをしている。「♪朝は寝床でぐうぐうぐう、お化けにゃ学校も、試験もなんにもない♪」と豪語していたのは、どこへいってしまったのだろう。この平成の世の中は、妖怪たちにとってもかなり暮らし難いらしい。

先日、鳥山石燕「画図百鬼夜行全画集」というものを買った。鳥山石燕(正徳2年(1712)〜天明8年(1788))は狩野派の絵師で、妖怪画を好んで描いた。聞くところによると、我々の知っているさまざまな妖怪の姿は、彼によって出来上がっていったといっても良いのだそうな。まあ、たしかに不気味な物の怪たちではあるが、よく見れば、どことなくユーモラスな表情を見せてくれるような気がしないでもない。そのあたりが鳥山石燕のテクニックなのだろう。鬼太郎の作者、水木しげる氏は鳥山石燕の作風を壊すこと無く、自分の作品の中でみごとに再現していると思う。昭和の鬼太郎、つまりファーストシリーズとセカンドシリーズには確かにそれが感じられた。

しかし、それ以降の作品については、新しさに反比例して妖怪本来の「表情」が薄くなっていくように思えてならない。一番の理由は、作品の映像クォリティーがあがりキャラクターがきれいになった分、いい意味での泥臭さがなくなってしまったことが言える。怪奇ものである以上は、ある程度の泥臭さ、あるいは毒の部分といった「禁断の快感」が不可欠である。いまのお子様達に昔の鬼太郎を見せたらどのような反応を示すだろう・・・。




8月10日(金)

まず、報告書の性格について述べておこう。昭和25年3月の調査から5ヵ月後の同年8月、朝日新聞社から「中尊寺と藤原四代」という本が刊行された。これが一般に公開された調査報告なのだが、調査から発刊までの期間を考えると、『中間報告』といった性格が強く、論調にもそれは現れている。

高橋崇氏の「奥州藤原氏 平泉の栄華百年」(中公新書)によると、昭和30年に調査委員各氏の“最終報告書”ができていたが、未公開となっていた。それが中尊寺仏教文化研究所主任の佐々木邦夫氏のご尽力により、平成6年に中尊寺から「中尊寺御遺体学術調査 最終報告」として上梓された。しかしこれも、限定出版の非売品ということで、なかなか目にすることは難しいようである。

わしは「最終報告」は未見だが、幸いなことに地元の図書館に「中尊寺と藤原四代」があったので、昨年借りて読んだことがある。実はそれは、ネットで「中尊寺の首は経清だ〜」と主張している人を発見したのがきっかけだった。その時はこの本のことを知らなかったのだが、今年になってふとしたことからこの「金色堂は・・・」の存在を知り、昨年のこともあったので購入して読んでみたというのが真相である。

閑話休題。

ところで高井氏は、著作の中では「中尊寺編の最終報告書から引用した」としている。中間報告と最終報告の間で、調査報告にどれだけの差異があるのか不明だが、引用している文章を読む限りではほとんど違いは無いように思える。そこで高井氏の挙げている調査報告の解釈と、わし自身が読んだ調査報告の解釈を比べてみよう。引用は、P155から20ページにわたって書かれているが、その中には知ってか知らずか首級が秀衡の棺に入っていたことも含まれている。

そこでわしは、高井氏の引用していない部分を紹介しようと思っているが、その前にあえてその首級の画像をUPしよう。いささかグロテスクなのでお子様はお父さんやお母さんと一緒に見てほしい(ここをクリックすると新しいウインドウが出てくる)。「A」の傷が決め手になった釘打ちの跡である。「B」の傷が少々見難いが、眉間の辺りから鼻筋を通って(鼻は削がれているが)上唇のところまで一気に切り裂かれている。「C」の傷は、顔の骨まで削がれるほど深く、辛うじて顎のところで繋がっていたのを縫い合わせている(A・B・Cはわしが便宜的に付けたもの)。これらを含めて16箇所の傷が認められている。

つぎに調査委員の一人、東京大学の鈴木尚医学博士の傷の所見から見た「泰衡」の最期をご紹介しよう。

<彼は恐らく河田次郎に急襲され、その際多少の傷は受けたであろうが、致命傷となるには至らず、結局捕らえられた。河田は直に首を切ろうとしたが、(泰衡が)頭を動かすので、幾度か失敗したが、第五回目の創が致命傷となって、遂に首を落とすのに成功した。この首が源氏側に差し出されると、頼朝は刑罰として耳と鼻を削いだ後に、釘打ちの刑に処した。その後何等かの経緯を経て、泰衡の首が藤原氏の手に渡ると、遺族によって創は丁寧に縫合され、更にその上から創を押さえるように包帯がされ、第四代の家督相続者なるが故に金色堂内に安置された。>

つまり頭部の傷は泰衡の死の前後につけられたものというのが調査団の見解である。ところが、高井氏は次のように否定している。

まず「A」の釘打ちの跡について高井氏の主張はこうだ。「佳例として引き合いに出されているのは貞任ひとりのことだが、頼義は、貞任、重任、経清ら三人の首級をそろって釘打ちにしたはずである」とし、だから経清の額にも釘打ちの跡があったというのだ。なぜなら、陸奥話記を読むと頼義は経清をのこぎり挽きにするなど相当憎んでいたことがうかがわれる。ならば、貞任ひとりが釘打ちにされるはずがない、というのがその理由だ。

しかしその一方で高井氏は「泰衡の首級にも、経清の首級にも額から後頭部にかけて、おなじくらいの大きさの鉄釘の孔があいていたことになる」と泰衡の首に開けられた孔までは否定していない。で、「だからその痕跡だけでは首の主を決定することはできない」と書いているが、それならば経清であるという根拠にもならないではないか。

それで今度は、その他の傷の所見について高井氏は反論を繰り広げていく。彼によると、首級の傷にはそれぞれ受傷の時間差があって、古傷や治りかけのもの、受傷したばかりのものとさまざまだというのである。調査時にはレントゲン画像も撮られているのだが、それによる頭頂部と後頭部の傷について、高井氏は傷が治りかけている跡と主張するが、少なくとも調査報告書の中には『治りかけの傷』若しくは『過去の古傷』であることを示唆するような表現は一切書かれていない。

また、今回アップした画像の「B」及び「C」の傷についてだが、実は顔の左側面にも(左耳まで削がれるほどではないが)「C」と同じような傷がある。仮に「C’」としよう。この「C」「C’」の傷は糸で丁寧に縫いつけられている。高井氏は例によって触れていないが、この縫い方は『くけ縫い』という「まつり縫い」の一種であることも調査報告書には明記されている。まつり縫いといえば、小学校の家庭科で習った記憶のある人も多いだろう。できるだけ糸が目立たないように縫い付ける手法である。

高井氏はこの縫い跡に対しても異論を続ける。「顔の正面の「B」の傷を放っておいて「C(及びC’)」の傷を縫うのは違和感がある。傷を縫うのならば、まず「B」からと考えられる」というのである。そして、「C」の傷は死後につけられたものではなく、生前につけられたもので、「(厨川で)生け捕りにされたとき、経清は頭や顔に包帯を巻いたままで、鼻骨から上顎まで刀で割られ、鮮血が顔面をまっ赤に染めていた、という姿ではなかったろうか」と想像する。つまり傷は生きているときに縫われたというのである。それならばわざわざ『くけ縫い』で縫いつけるわけがない。

彼は「調査団のメンバーは、歴史状況をそれほど精細に検討したうえで泰衡であるという結論を導き出したわけではない」と言い切っているが、調査団は法医学や自然科学のエキスパートが集まり、サンプルの首級を実見したうえで判断した結果、『泰衡の首級』であると導き出したのである。

それに対して高井氏のものは、自分の頭の中で作り上げた「藤原経清は歴戦の勇士で、度重なる合戦により傷跡も多数あるに違いない」というストーリーに調査結果を曲解してこじつけているだけである。確かに経清は、前九年の合戦において主要人物のひとりであり、手傷を負ったこともあるだろう。しかしその傷の様子は、「陸奥話記」をはじめ、どんな史料にも載ってはいない。従って、中尊寺の首級と高井氏の妄想は結び付けようがないのである。余談だが、「陸奥話記」といえば、経清が鈍刀で斬首されたと書いてある。もし、ほんとうに刃こぼれのした刀でのこぎり挽きにされたのならば、首の切断箇所にその痕跡が残りそうなものだ。中尊寺の首級の調査報告には“第四頚椎推体の上面すれすれに切断されたのである(鈴木尚博士)”“第四頚椎は斜に『鮮鋭』に切られている(足澤三之介博士)”となっており、少なくとものこぎり挽きではないようである。

そして、吾妻鏡には泰衡の傷、つまり“眉間の釘穴”のことがハッキリと書かれている。現時点ではこのことが最大の証拠となり、「中尊寺の首級は忠衡ではなく、泰衡である」と認定されたのである。これを覆すには、吾妻鏡以上の史料の発見なくしては不可能なのはいうまでもない。

「B」「C 」の傷についてわしなりにこんなストーリーを考えてみた。

頼朝から泰衡の首級を下げ渡された奥州藤原氏の遺族は、なんとか父秀衡のもとで泰衡を眠らせてやろうと考えた。しかし、いくら頼朝から首を返してもらったとはいえ、釘打ちにまでされた首級である。やはりそのまま金色堂に葬るのは憚られた。それでやむを得ず「忠衡」と称して須弥壇に納めることにした。ついてはせめて無残に傷ついた首級を綺麗にしてやりたいと考えるのは当然のことだ。なかでも顔の正面の傷や両側の垂れ下がった皮膚は悲惨である。そこでまず、垂れ下がった皮膚を顔に縫い付けることから手を付けた。しかし、彼らにはあまり時間がなかったのではないかと考えられる。「忠衡」と謀って収められたくらいである。死に化粧も密かに行われていたに違いない。残念ながら縫い終えたところで時間がなくなってしまった。止む無く顔の正面の傷は手をつけられずにそのまま錦の包帯で巻かれて首桶に収められ、父の傍へと安置されたのだろう。頼朝も首級を下げ渡したのは、情けからというよりも今後の平泉に対する鎌倉勢の占領後の懐柔政策の一部だと考えられる。遺族が首級を金色堂に葬ったのは、せめてもの反抗だったのかもしれない。

他にもこまかいことに突っ込めばきりがないのでこのあたりで打ち止めとしよう。とにかく、定説である藤原泰衡の首級であるということを否定し、初代清衡の父親である藤原経清の首級であると主張するにはこの「金色堂はなぜ建てられたか」における論証は適切ではない、とわしは判断した。

最後に、「奥州藤原氏百年の栄華をぶっ潰したヘタレ息子」として評判のよくない泰衡だが、前に紹介したブログにも書かれているように地元では必ずしも人気がないとは言い切れないようである。確かに、あの吉良上野介にしても木曽義仲にしても地元では評判がよかったりするが、高井氏も貞任伝説だけではなく、泰衡の伝説ももっとあたってみればまた違った結果にたどり着くこともあったかもしれない。また、中尊寺の建立理由にしても、清衡の心にあったのは、間違いなく父経清、母方の安倍氏一族、弟家衡の清原氏一族をはじめ、多くの血を流した生きとし生けるもののことがあったはずだ。そこに誰の首級があろうがなかろうが、それは変わらないと思いたい。それが金色堂の金色堂たる所以ではないだろうか。

<番外編>

今回の一連の「いちゃもん」の冒頭に書いた、安倍貞任の首級について、少々考えてみようと思う。

例えばネットなどで「安倍貞任」を調べると、だいたい「首を刎ねられ、長さ八寸の鉄釘を打ち込まれ・・・」といったことが書いてあり、それが定説になっている。いうまでもなく、これは吾妻鏡の文治5年9月6日条にある藤原泰衡の処刑にあわせて書かれていることである。

わしが気になるのは、この吾妻鏡の他に貞任の首級に釘が打たれたことを書き残している史料はないのだろうか、ということなのだ。

有名どころの史料といえば、まずは「陸奥話記」だろう。しかし、この中にその記述はない。それから左大臣源俊房の日記「水左記」があるが、貞任らの首級が京に運ばれてきたことが書いてある康平6年2月16日条には、西獄門に掛けられたことは書いてあるが、「鉄釘で打ち付けられた」とは書いていない。もしかすると、釘を打たれたのは奥州でのことかもしれないが、そのことを確認できる史料はあるのだろうか。わしも機会があるごとに探してはいるのだが、見つけられずにいる。

しかし、「獄門」のこととなると、なかなか調べるのが大変である。ざっと調べた限りでは、例えば後三年合戦絵巻では、切り取られた首級は髪の毛を括られて晒されているし、平治物語絵巻では信西の首は紐か何かに括られてぶら下げられているようである。

泰衡の首級に釘が打たれたことは、現物が残っているし、まず間違いはない。しかし、貞任にいたっては、この泰衡のいわば「おまけ」で書かれている状態なのである(わしの知る限りという限定だが)。

まさか頼朝がその時のノリで「ひゃっほー釘打っちゃえ〜」とか言いながらやっちゃったものだから、吾妻鏡の作者が「いくらなんでもヤバくね?」とかいいながら、実は貞任には釘など打たれてなどいなかったのに「あれは貞任の時のパクリなんだよね〜」と捏造して書き加えたとか・・・(失笑)。

もっとも頼朝の奥州攻めに関しては、川合康氏(源平合戦の虚像を剥ぐ 講談社選書メチエ)をはじめ多くの研究者が前九年合戦の模倣を指摘しているのでやはりそのあたりから攻めていくしかなさそうである。もし、なにかご存知の方がいらしたらぜひご教示ねがいたい。

(8月12日 一部加筆修正)




8月9日(木)

では、百歩譲って、もし、経清の首級が平泉に帰りついたとして、金色堂の首級が経清のものだという説が成り立つのかどうか、高井氏の主張を検証してみようと思う。そのまえに、大切なことを確認しておきたい。

高井氏はたびたび首級の安置してあった場所を、『須弥壇の下』と表現している。確かにそうなのだが、実はここに重大なレトリックが隠されている。問題の首級は、三代藤原秀衡の棺の中に安置されていたのである。金色堂の中の須弥壇は三つあり、中央に初代清衡、向かって左側に二代基衡、右側に三代秀衡と首級の入った首桶が納められていて、それぞれの須弥壇は製作された年代も違う。あえてここで書くが、経清は初代清衡の父親、泰衡は三代秀衡の息子である。

高井氏は、「平安京西獄門に晒されていた藤原経清の首級は何らかの方法で息子清衡の手に戻った。清衡は、亡き父を弔うために金色堂を建立した」と述べる。もし経清の首級が金色堂建立の直接の理由ならば、その首級は中央の須弥壇に納められると考えるべきではないか。高井氏は、首桶が秀衡の棺から出てきたことにどのような説明をつけるというのだろう。本の中には何も語られていない。ちなみに当初寺伝にあった首の主「忠衡」は、泰衡の弟で源義経のシンパとされ、そのため兄の泰衡に謀殺された人物である。

それから、これは最近見つけたブログだが、「金色堂は〜」について述べていて、中尊寺のミイラに関する興味深いことが書かれている。くわしくは読んでもらうとして、この「奥州平泉黄金の世紀」はわしも図書館で借りて読んでみた。これによると、やはり首級の主は、清衡よりも秀衡との関係が深そうである。

ところでこの本のカバーには、『資料・文献を渉猟して定説・四代目泰衡説を覆す』とあるが、上に書いた項目はとても見過ごしにはできないものである。そして藤原四代の資料といえば、なんといっても昭和25年3月に行われた学術調査の資料が第一級のものであることは間違いない。

秀衡の棺の中で眠っていた忠衡のものとされてきた首級は、この学術調査によって泰衡のものであるとされた。その結果に異を唱えて「いや、経清の首級だ」と主張する高井氏は、当然、学術調査の結果に異論を唱えることになる。




8月6日(月)

さて、経清の首級はいかにして奥州へと帰りついたのか、ということは、金色堂の首級の主は藤原泰衡であるという定説を覆すための重要なポイントである。高井氏はそのことを指し示す新たな史料の存在に気がついたとでもいうのだろうか。少なくともわしは、いままでそのようなうわさは聞いたことが無い。もっともそれはわしが単に不勉強なだけなのかもしれん。

そんなことを思いながら読み進めると、なぜか経清ではなく安倍貞任の伝説の紹介が始まった。確かに貞任は、父である安倍頼時が死して後、安倍氏の棟梁として前九年の合戦を戦い抜いた。その意味では、藤原経清よりも重要人物といえるのだが、ここで必要なことは経清の首級がどうなったのか、ということだ。

しかし、ここでの高井氏の筆は、貞任賛美でぐいぐいと進んでいく。ここから経清の首級にはどのように続くのだろうと思っていたら・・・

『真相は闇の中と言うしかないが、何らかの方法で、重任と経清の首級は、奥六郡に無言と無念の帰還をしたと想像される。(中略)経清の首だけは、京都と古代みちのく岩手をむすぶ不思議な回廊をたどって、いつの日にか、妻のもと、そして息子の清衡のもとに確実にとどけられたにちがいないのである』

どうやら高井氏は、新史料どころかなんの根拠も無く、単に自分の思いだけで経清の首を奥州へと脳内運搬してしまったらしい。

そして金色堂の建立について、

『金色堂は、おそらく首級の主であったひとの妻が発想し、その子が砂金を中心にした豊富な財力と当時の建築・工芸技術のすべてをかたむけて造った、阿弥陀堂の姿を借りた葬堂なのである』

と結論づけている。

実は、ここまでで本の約2/3ほどを費やしていて、いよいよ「御遺体学術調査報告」への批判へと続いていくのである。



8月5日(日)

[最近読んだ本]

金色堂はなぜ建てられたか -金色堂に眠る首級の謎を解く- (高井ふみや著 勉誠出版)

金色堂というのは、言うまでも無いが、岩手県の平泉にある中尊寺金色堂のことである。平安時代後期、奥州藤原氏の初代清衡によって建立されたものだ。ここにはその清衡をはじめ、二代基衡、三代秀衡のミイラと一つの首級が須弥壇の下に眠っている。

この首級については、はじめ寺伝によって「忠衡」の首級とされていたが、昭和25年の朝日新聞文化事業団と中尊寺の合同調査により、眉間に釘を打ち付けた跡が認められ、吾妻鏡の文治5年9月6日条に頼朝によって泰衡の首級は前九年の合戦における安倍貞任にならって眉間に鉄釘を打ち付けられたという記述と一致するため、首級は忠衡ではなく、四代泰衡であることが判明し、以後それが定説となっている。

高井氏はこの定説に異論を唱え、「泰衡ではなく、初代清衡の父親である“藤原経清”の首級である」と主張する。従って、合同調査の報告に書かれていることについては、「調査団のメンバーは、歴史状況をそれほど精細に検討したうえで泰衡であるという結論を導き出したわけではない。当時の報告書の記載を読めばよくわかるが、意外にも、メンバーの全員が、いささか短絡的ともいえる勇み足的推理と思い込みで結論をくだしているのである。」と豪語する(苦笑)。

しかしそうすると、新たな問題が出てくる。まず、肝心の経清の首級は、厨川で源頼義に斬首された後、貞任、重任の首級とともに康平6年(1063)2月16日に京の西獄門で晒し首にされている。それが、どのようにして再び奥州まで戻ってきたというのか。

そしてもうひとつ。首級の額に開いている鉄釘を打ち付けた穴の問題。京で晒し首になった前出の3つの首級のうち、額に釘を打たれたと考えられるのは、貞任の首級である。もっともそれは、例の吾妻鏡の文治5年9月6日条にある“安倍貞任にならって(泰衡の)眉間に鉄釘を打ち付けられた”という一説が主な根拠である。実は、この件についてはわしもちょっと思うところがあるので、それはまた別に述べようと思う。




2月17日(土)

唐突だけど、マクドナルドのメガマックは食い難い(苦笑)

と言うかだな。いい歳こいてジャンクフードでもないが、やはりハンバーガーといえば、「ポパイ」に出てくるウインピーの「なあポパイ。火曜日には必ず返すから、ハンバーガーおごってくれないか?」以来の憧れを抱き続けているわしにとって、マックの新製品は無視できない存在だ。ちなみに人生初マクドナルド体験は、大学生になったばかりの時、名古屋市内のマクドナルド中村公園店だった。

何日か前、一日限定30個の時に買いに行ったら、「すみません。今日はもう販売終了なんです。来週からは一日80個の販売になるのですが・・・」と、かわいいお姉さんが申し訳なさそうにクーポン券を渡してくれた。

で、今日の昼にそのことを思い出し、財布の中を覗くとちゃんとクーポン券があるではないか。ま、限定が30個から80個になったからといって価値が下がるわけでなし、それよりも食べずに販売が終了してしまってももったいない。いや、別にクーポン券のことじゃなくて・・・。そもそもハンバーガーの価値って何だよ・・・。

そんなこんなで雨の中、市内のマックまで車を走らせた。時間は午後1時を少しまわった頃。時間的に店内が混んでいそうだったので、ドライブスルーで念願の「メガマック」を無事にゲット。

うちに帰って袋を開け、早速現物を取り出す。ちなみに今回はデジカメには収めていない。

ご存知の方もあると思うが、メガマックというのは、あのビッグマックの肉が倍増したバージョンと思えばいい。つまり上から「パン・肉・肉・パン・肉・肉・パン(レタス等は省略)」の状態で構成されている。テレビのコマーシャルでは、かなり大きなイメージがあるが、実際の見た目は、ビッグマックとほとんど変わらない。だいたいハンバーグ(肉)の厚さがテレビみたいにぶ厚いわけじゃないからな。

しかしながら、その食べ難さはやはりビッグマック以上だ。

一口では噛み付けない。仕方が無いから少しづつかじることになるが、そのうちにハンバーガーの形も崩れてきて悲惨な状態となってしまった(泣)。

肉が倍増したからといって味も倍増するわけもなく、基本的にはビッグマックを食べている時の感触と大差は無い。ま、確かにハンバーグ自体の量の違いはあると言えばあるな、という程度。

やはりジャンクフード業界は、いかにお客に飽きを感じさせないかということが重要課題なのだろう。ハンバーガーのような舶来の食品はその最右翼ともいえる。

そんな戦略は、こっちもわかっちゃいるが、この歳になってもまんまと乗せられる自分が情けない(微苦笑)。




1月27日(土)

[最近読んだ本]

偽書「東日流外三郡誌」事件(新人物往来社 斉藤光政著) 

去年の日記で、この「東日流外三郡誌」について少し取り上げたことがある。この古文書が引き起こした事件について十数年にわたり取材を通して関わってきた筆者の回顧録とも言うべき一冊。

筆者は青森県の地方紙である「東奥日報」の記者として(現在は編集委員)、事件に関わってきた。

わしがこの事件を通して一番関心があったことは、実際に地元青森ではどのように「東日流外三郡誌事件」を見つめていたのか、ということだった。三郡誌の真贋論争についてはさまざまな著書が刊行されており、その中の数冊はわしも購入して読んでいた。

この本も、もちろんそうした本の中の一冊であり、事件の概要については諸本と重なる部分も多い。しかし新聞記者の目から見た“事件の側面”は、地元の人たちの声を伝えてくれる。

これを読めば、いかに多くの東北の人たちがこの東日流外三郡誌に翻弄されてきたかがわかる。その一方で、このバッタ物の古文書を世に送り出してしまったのもまた、青森の人たちなのである。

東日流外三郡誌の刊行に関わった人たちのなかで、そのことを後悔している人たちは多い。しかし、厳しいことを言えば、その人たちがもっとしっかりしていれば、事件を未然に防ぐ、というか、そもそも事件は起きなかったのである。実際のところ、和田喜八郎氏の持ち込んだ古文書(和田家文書)に対して疑問を持っていた関係者も多かったのだから。

市浦村が村史刊行を計画した昭和40年代といえば、東京オリンピック(1964)の後に大阪万国博覧会を控え、高度成長期の真っ只中だった。人々は都市型の生活に憧れ、地方に比べ都市の様相は急激に変化していった。しかし、やがて石油ショックが起こり、消費から倹約の時代へと移行してゆく。

その中で、地方への関心が高まり、自治体は自らのアイデンティティの確立の必要性に迫られてきた。青森県の寒村であった市浦村が、“日本史を覆しかねない謎の古文書”に飛びついたのは、そういった時代の背景もあったのかもしれない。そんな時代の背景と、市浦村村史編集委員会のいい加減な対応が生み出したのが、この「東日流外三郡誌事件」といえよう。

また、わしが偉そうに言えることではないが、『蝦夷』の時代から中央に対して蓄積されたコンプレックスやルサンチマンの裏返しでもあったろう。

さて、三内丸山遺跡といえば、外三郡誌の熱心な擁護者の一人である故藤本光幸氏が、遺跡の高層やぐらが復元された際に「和田家文書から、三内丸山遺跡の高層やぐらを描いた古文書が発見された。だから、東日流外三郡誌は本物だ!」といって主張したこともあったが、遺跡発見の前ならいざ知らず、後からでてきてはもう苦笑するしかない。もっとも、この手の「遅だしじゃんけん」は、和田家文書に限らず、偽書の特徴でもある。

この本の中で印象的な言葉があった。それは、国立民族学博物館名誉教授(民族考古学)の小山修三氏の言葉だ。

「(中略)でも、これだけは言えるんじゃないかな。三内丸山遺跡という、日本の基層文化につながる素晴らしい場所、誇れる遺産がある以上、もう、青森県民や東北の人たちには『(東日流)外三郡誌』なんて必要ないんじゃないか、と。三内丸山遺跡をきっかけに、縄文フィーバーみたいな社会現象が生まれた背景には、そんな要因があると思うよ。『外三郡誌』というフェイクとは、そろそろおさらばしなきゃね」 [()はわし]

また、東北芸術工科大学教授の赤坂憲雄氏は、

「自分たちの歴史を、ヤマト王権によって征服されて以降の千数百年ではなく、縄文を抱いたはるか一万年前の時間の中で語ることができるようになった」

と、語る。

“「真実の東北王朝はなかった」”のだ。(某書のパロディ)

追記

「偽書」とは、「デタラメの書かれた書物」という意味ではない。こう書くと意外に思われるかもしれないが、偽書とは、『先人に“仮託”して、その書物の来歴や由来を偽ったもの』と定義される。「東日流外三郡誌」は、江戸寛政年間に三春藩秋田氏の縁者、秋田孝季によって編纂されたとしながら、筆跡が発見者の和田喜八郎氏と同じであるということ、近代以降でないと知り得ないような語句や事柄が書いてあったことなどから、戦後に書かれた“偽書”であるとほぼ断定された。ちなみに和田喜八郎氏は1999年9月に真相を話さないまま病死した。



1月25日(木)

たまには“手話”がらみのことも書いてみよう(たまにかよ!)

最近の話題といえば、やはりアカデミー賞のことになるかな。ま、もちろん他にも色々あるのだけどね。「バベル」から女優の菊地凛子さん(26)が助演女優賞にノミネートされ、彼女がテレビに映らない日は無いくらいだ。

で、毎日新聞のWeb版からかいつまんだんだけど、彼女はNHKの朝ドラ『ちゅらさん』に出ていたらしい。や、わしも実はちゅらさんのファンでな(笑)。

そういえば、主人公えりぃ(国仲涼子)の後輩看護師の役ででていたわ。うんうん。

バベルでの彼女は、ろうあの女子高生役なんだけど、なんでもオーディションの前から実際にろう学校に通って手話をマスターしたらしい。

いや、いちおうかつて手話通訳ボランティアの端くれだったわしの目から見ても、彼女の手話はちょっと凄いと思う。

いままでも役者さんがドラマや映画の中で手話を使うことはなんどかあったけど、やはりそれは、言葉は悪いが『お話の中の手話』の限界を超えることは無かったといえる。

でも。バベルのプロモーションフィルムで見た彼女の手話は、一瞬ほんとうのろうあ者かと思ったくらいネイティブに近かった。

手話はもちろんだけど、表情の見せ方というか、聴覚障害者のコミニュケーションの手段としての“表情”を、かなりリアルに表現していると思う。

それは、彼女がいかに努力して聴覚障害者のコミニュケーションを勉強したかということだ。

ぜひ、アカデミー賞を獲って欲しいねえ。



1月7日(日)

遅ればせながら、みなさん、明けましておめでとうございます。さて、今年は2007年。気がつけば、このHPもいよいよ10周年を迎えることになった。とはいいながら、最近の更新状況は目も当てられない(苦笑)で、今年もらった年賀状の中にもHP更新の督促が・・・。

そんなわけで(どんなわけだ)、今年もほそぼそとした更新になるとは思いますが、みなさまよろしくお願いします(ぺこり)。

でもって、最近の思うことをつらつらと。といってもまたまた大河ドラマがらみの話になってしまうことがすでにワンパターン。

昨年の「功名が辻」に続いて、今年は「風林火山」といわゆる“戦国物”の作品。原作は、井上靖の同名小説ということだけど、今回の大河では、原作には無い山本勘助の武田に仕官する前の諸国放浪時代を描くらしい。わしとしては、かつて東宝が制作した映画版の「風林火山」(主演:三船敏郎)のイメージが強いので、このたびの大河版がどのように描かれるか興味がある。

ところで昨年は、TVで戦国時代を取り上げた作品が妙に多かったようなイメージがある。テレビ朝日の正月時代劇が「風林火山」、大河ドラマが「功名が辻」、そんで秋にはまたテレビ朝日で「太閤記」、スペシャル物の「信長の棺」、フジテレビの「神に愛されなかった男 明智光秀」とたびたび放送された。おまけに各作品の出演者がカブっていて、石田三成がいつのまにか豊臣秀吉になっていたり、山内一豊が織田信長になっていたりと非常にせわしない一年間だった。

このあたりの調整というか、制作側や各俳優の所属事務所は問題なかったのかねえ。そりゃまあ、俳優さんたちは作品に出演してナンボだろうから、給料を稼ぐためには「いや、わたしこのあいだまで三成でしたから、秀吉はチョット・・・」なんてわけにはいかないのだろうけれど、TVを見ているこっちの立場としては、違和感ありまくり。

あと気になったのが、番組の前宣伝の作りかた。たぶん本作品と宣伝番組を作るスタッフが別々なんだろうけれど、番宣スタッフも日本史をモチーフにした番組なんだから、もうちょっと気を遣って欲しい。テレ朝の「信長の棺」の番宣番組の中で「お屋形さま」のテロップが出てくるたびに萎えてきた。信長は屋形船のおやじか?

まあ、わしらみたいな「ナンチャッテ歴史おたく」ばかりが見ているわけではないからある程度はしかたないとしても、こういったあからさまな間違いはきちんと修正していただきたい。

あと、昨日の細木数子氏の日本史バラエティなどはもう何をかいわんやだ・・・。


と、一通り毒づいた後で、今年もまた皆さんに支えながら細々とがんばって生きたいと思っております。今年もよろしくお願いいたします(ふかぶか)。

ちなみに昨年取り付けたデミオのステアリング。型式はナルディのGARA3TYPE4と判明(笑)。