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12月2日(土)

いや〜、やっとというか、ついに冬らしくなってきた。

ところで、この夏からダラダラと書いている「ナンチャッテ日本史」の続きだけど、最後の詰めがなかなか書けないでいる。というか、いろいろなネタ本を読みまくってはいるんだけど、それをまとめる時間が上手く取れていない。おまけに10月に「十二指腸潰瘍」が再発して3週間ほど入院する羽目になった(自滅)。これで3年連続で入院となってしまた。ま、去年は4週間で今年は3週間だから入院の期間は短くなって・・・などという問題じゃないな。職場の皆さん、スミマセンm(_ _)m。

で、そのネタ本を少し紹介しておこう。前九年の役・後三年の役から奥州藤原氏のあたりは中公新書の「蝦夷の末裔 前九年・後三年の役の実像」「奥州藤原氏 平泉の栄華百年」(ともに高橋崇)、保元・平治の乱のあたりはNHKブックス「保元・平治の乱を読みなおす」(元木泰雄)、治承・寿永の内乱のあたりは講談社選書メチエ「源平合戦の虚像を剥ぐ」(川合康)、講談社学術文庫「平家後抄 上下巻」(角田文衛)、NHKブックス「義経の登場 王権論の視座から」(保立道久)といったところ。あとはネットで「陸奥話記」「奥州後三年記」「保元物語」「平治物語」「平家物語」「源平盛衰記」といった軍記物や「吾妻鏡」を読んでいる。それに図書館から吉川弘文館人物叢書「藤原忠実」(元木泰雄)を借りてきた。

ま、読みゃあ良いってものでもないんだけどな(笑)。結局書きたいのは、“なぜ源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのか”ということだったんだけど、実はそのことは前出の本に『非常に詳しく』書いてある(爆)。それだけにまとめるのに苦労をしているってこと。なんとか年内には仕上げたいと思っている。


話は変わってばいざうえい。

今月はロードスターの車検がある。えーと、何回目だっけ?もう15年目だからね。かなりくたびれてきた所もある。もちろんまだまだ乗り続けるつもりだ。それでというわけではないけど、今日「でみ〜お2世」のステアリングを交換してしまった。といっても先代でみ〜おもステアは交換していたからね。でみ〜お2世のステアリングは、ともかく材質(ウレタン製)が個人的にいただけない。長時間運転しているとだんだんしっくりしなくなるんだよね・・・。それにデザインもなんとなく野暮ったい。それでも先代の4本スポークステアリングよりはマシだったんで今まで使ってきたけど、気分転換の意味も含め思い切って交換したというわけ。

奥にあるのがロードスター(NA6CE)

先週の土曜日に行きつけの市内のショップに行っていろいろとステアリングを物色。基本的にわしは「ナルディ信者」なので(笑)、物はすぐに決定した。ボスの在庫がなかったので注文しておき、今日の取り付けということに。それがこの画像。

ステア交換は自己責任で〜(マジ)

上の画像の左側が純正のステアリング、右側が交換後のナルディの物。ちなみにタイプ名はよく知らない(アホですな)。参考までに下の画像が先代。2世に乗り換える直前の画像。ステアリングはナルディの「スピード」モデル。カペラカーゴ、ロードスター、デミオと約10年間使用した。

やはりステアリングが変わると運転席のイメージがガラリと変わる。まるで別の車に乗り換えたくらいの感覚だ。ステアリングの直径は5ミリほど新しいほうが小さい(360ミリ径)。運転していると、この5ミリの違いが意外に影響している(わしがそう思うだけか?)。心持ちキレが良くなったように感じるよ。それにエアバッグが無い分ステアリング自体が軽くなって回転時の慣性マスが小さくなっているから、キレが良いと感じるのはむしろそっちの方が影響が大きいのかもしれない(いや、たぶんそうだろう)。

ところで、もし、これから自分の車のステアリングを交換しようと考えている人は、任意保険の契約条項の中に“エアバッグ特約”がどうなっているかを必ず確認して欲しい。もし、“エアバッグ特約”が付いていてそのままステアリングを“エアバッグ無し”の物に交換してしまうと、万一の時に任意保険が“契約条項非該当”となって保険が下りない場合があるから要注意。わしの場合は初めから“エアバッグ特約”を付けていないのでそのまま交換できたけど、特約が付いていたら“契約変更”をしておかないと洒落にならない事態となってしまうからね。


これから年末に向かい、お酒を飲む機会が増えると思うけど、「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」を徹底しようぜ。ま、わしは酒は飲まないから・・・。


9月5日(火)

朝夕が幾分涼しくなりましたな。日中の暑さも、少しだけ角が取れてきたような・・・。

やっぱ気のせい?

さて、いよいよ保元・平治の乱あたり

<六条判官源為義と左馬頭源義朝>

 さて、ながながと前九年・後三年の役について書きなぐってきたが、本筋はこの「なぜ頼朝は奥州を攻めたのか?」ということを考えてみたかったからだ。発端は今年の6月の

終わり頃、とある日本史のBBSで中尊寺にある藤原泰衡の首級のミイラが話題になった。そこでわしなりに図書館で本を借りたり、ネットを使ったりといろいろと調べてみたの

だが、そのうちいくつか腑に落ちない点があった。

 まず中尊寺の藤原四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡)のミイラについては、昭和25年3月に朝日新聞文化事業団と中尊寺の共催で学術調査が行われた。その時のようすは、朝

日新聞社から“中尊寺と藤原四代”という本が中間報告の形で刊行されている。この本は調査から5ヵ月後の8月に刊行されているので、もう50年以上前のものである。そん

な貴重な本を持っていた宇部市立図書館、GJ!

 この首級のミイラは、中尊寺の寺伝では当初「忠衡」の首級とされていた。しかし、この学術調査により実は「泰衡」のものであろうと

断定された。なぜならこの首級には、

<眉間の左には縦1.8センチ、横1.5センチの楕円状の孔(外孔)があり、前頭洞後壁を貫いて脳頭骨腔に達する(内孔)。(略)後頭骨正中線より少し左によって第3切創の

直上に円い小孔がある。脳頭骨腔に向いた入り口は直径1.2センチであるが、骨の外側の方に漏斗状に拡がっているので、ここでは直径約2センチある。(略)したがって何

等かの利器を眉間より後頭に向かって打ち込んだことになるが、その利器の形状は両刺創の距離が18センチ(約六寸)あるから、直径約1センチ、長さ18センチ以上の極め

て細く長い、ちょうど釘のようなものということになる。【東京大学助教授:鈴木尚医学博士(当時の調査メンバー)】>

というように、顔の前面から後頭部に突き抜けるように釘状の鋭利器で貫かれていたのである。そしてそれを裏付けるのが、吾妻鏡に書かれた頼朝の奥州攻めの一説である



文治5年9月6日 癸亥
  河田の次郎主人泰衡の頸を持ち陣岡に参る。景時をしてこれを奉らしむ。義盛・重忠
  を以て実検を加えらるるの上、囚人赤田の次郎を召し見せらるるの処、泰衡の頸の條、
  異儀無きの由を申す。仍ってこの頸を義盛に預けらる。また景時を以て河田に仰せ含
  められて云く、汝が所為、一旦功有るに似たりと雖も、泰衡を獲るの條、元より掌中
  に在る上は、他の武略を仮るべきに非ず。而るに譜第の恩を忘れ主人の首を梟す。科
  すでに八逆を招くの間、抽賞し難きに依って、後輩を懲らしめんが為、身の暇を賜う
  所なりてえり。則ち朝光に預け、斬罪に行わると。その後泰衡の首を懸けらる。康平
  五年九月、入道将軍家(頼義)、貞任の頸を獲るの時、横山野大夫経兼の奉りとして、
  門客貞兼を以て件の首を請け取り、郎従惟仲をしてこれを懸けしむ(長八寸の鉄釘を
  以て、これを打ち付く)。件の例に追い経兼の曾孫小権の守時廣に仰す。時廣子息時
  兼を以て、景時の手より泰衡の首を請け取らしめ、郎従惟仲の後胤七太廣綱を召し出
  しこれを懸けしむと(釘彼の時の例に同じ)。


 前述の“中尊寺と藤原四代”には巻頭にこの泰衡の首級の写真が掲載されているが、そこには釘を打たれた跡の他にいくつもの刀傷、そして首を落とされた後に耳と鼻を削

がれた跡が生々しく残っている。それよりもわしが注目したのは、この条の中ほど以降の記述、つまり、


  康平五年九月、入道将軍家(頼義)、貞任の頸を獲るの時、横山野大夫経兼の奉りとして、
  門客貞兼を以て件の首を請け取り、郎従惟仲をしてこれを懸けしむ(長八寸の鉄釘を 以て、
  これを打ち付く)。件の例に追い経兼の曾孫小権の守時廣に仰す。時廣子息時 兼を以て、
  景時の手より泰衡の首を請け取らしめ、郎従惟仲の後胤七太廣綱を召し出 しこれを懸けし
  むと(釘彼の時の例に同じ)。



の部分である。これによると頼朝は、わざわざ前九年の役の関係者の子孫を選んで、まるで泰衡を貞任になぞらえるように首級を処理している。確かに藤原泰衡は、前の項目

で述べたように母系とはいえ安倍頼時の子孫であるのだが・・・。



 頼朝が奥州をどれだけ意識していたか、ということは吾妻鏡にたびたび書かれている。と指摘する人はこれまでたくさんいた。わしも初めは通説に従って、奥州藤原氏は「鎌

倉の背後の脅威」であり、「義経の庇護者である」ことなどから頼朝が奥州を気にするのは当然だと考えていた。また、頼朝の先祖である頼義・義家親子以来、『奥州の制覇は

源氏の悲願』であり、それが頼朝の代になってついに達成された、という説もそのまま額面どおりに受け取っていた。

 ところが、昨年NHKの大河ドラマ「義経」が放送され、それを契機に久しぶりにこの時代のことを調べてみたら、これまでわしの抱いていた「平安後期」という時代のイメージ

が大きく変わっていたことに驚いた。もちろんこれは、個人的に不勉強であったこともあるが、これまでわしはいわゆる“軍記物”的史観とでもいうか、“保元物語”“平治物語”そ

して“平家物語”や“源平盛衰記”などに描写されるイメージを抱いていた。



 しかし、いろいろ調べていくうちに、この保元・平治の乱から治承・寿永の内乱期については、近年かなり研究が進み、例えば「保元の乱における源為義と源義朝の関係」や

、平治の乱において『日本一の大不覚人』と称された藤原信頼の再評価、あるいは後白河法皇の政治能力など、動乱の発生要因からしてこれまでのわしの持っていたイメー

ジが叩き壊されてしまった(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』NHKブックス)。

 そこで思い起こされるのが、清和源氏のカリスマ的存在『八幡太郎義家』こと源義家である。義家は前九年・後三年の役においてさまざまなエピソードを残し、全国の『武門の

棟梁』とされてきた。なかでも東国武者との関わりは、そののち子孫の源義朝に受け継がれ、ついにその子の源頼朝の挙兵に多大な効果を表した・・・ということが半ば通説に

もなっていた。事実、20年前の歴史雑誌などはそのような表現だった。また、黄瀬川の頼朝の陣に、奥州からはるばる駆けつけた九郎義経に対し、頼朝は『かつて後三年の

役のおり、八幡太郎義家公の苦境を救うため京から奥州まで駆けつけた弟の新羅三郎義光公の故事にも匹敵する』として大感激をしたというエピソードは、ドラマ化されるとき

でも“お約束のシーン”である。そして頼義・義家親子はそののちもさまざまな軍記物の中で事あるごとに引き合いに出されてくる。

 さて、頼義・義家親子の、奥州への野望が達成されなかったことは前項で書いたとおりである。そしてそれは、いつの間にか『奥州の制覇は源氏の悲願』という言葉で語られ

るようになった。はたしてそれは、ほんとうに『悲願』だったのだろうか。言うまでもないが、ここで言う『源氏』とは、清和源氏の中でも頼義・義家らのいわゆる「河内源氏」と呼ば

れる一族の系統のことである。



 後三年の役の後、義家の子義親は、対馬守在任中に反乱を起こし隠岐に流される。また、流された後にも再び謀反を起し、天仁元年(1108年)平正盛(清盛の祖父)に討

たれる。これにより軍事貴族としての源氏の勢力は減衰し、かわって伊勢平氏が白河院政における軍事貴族の地位を確立することになった。また、義親の家督を継いだ源為

義は、政治的にも武略の面でもあまりぱっとせず、おまけに今度は息子の為朝が九州で暴れ、そのために検非違使を解官されるに至った。一方で為義は摂関家の配下にもな

っており、そこからのちの保元の乱における崇徳院・頼長軍の武力となった。

 その為義の長男が義朝だが、実は早くから父親の為義からほとんど『廃嫡』同然の扱いを受けていたようだ。個人的には、保元物語の有名な一節、乱の前夜、為義が密か

に雑色を呼びよせ、敵味方に分かれてしまった嫡男の義朝に源氏累代の宝である“八領の鎧”のうち、嫡男に与えられる『源太産着』と『膝丸』『沢瀉』『八龍』の鎧を届けさせる

くだりは胸に来るものがあるのだが(苦笑)。



 そんなわけで義朝は先祖と関わりのあった東国に下り、独自に力を蓄えていった。義朝配下の武士団は、配下であると同時に各々が国衙の在庁官人であったり、いずれか

の権門(摂関家や院、または天皇家など)に属する荘官であった。義朝は当初彼らを摂関家の家産機構を媒介にして取り込んでゆき、やがて鳥羽院の近臣や美福門院を通じ

て鳥羽院に近づき、ついには摂関家の機軸を離れ、その結果父親の為義を追い抜いて『下野守』に任官されるに至った。その鳥羽院の近臣の中に、あの『日本一の大不覚人

』とまで言われた“藤原信頼”がいたのである。信頼の兄基成は、奥州の藤原秀衡と姻戚関係にあり、義朝は信頼を通じて奥州から武具の材料である鷹の羽や毛皮などを手

に入れていたとみられる。つまり、平治の乱以前から信頼と義朝は関係が深かったのである。また、前出の元木氏は、信頼の保元の乱以降の官位昇進の状況に着目し、決し

て『大不覚人』などではないとしている。



 保元元年(1156年)と平治元年(1159年)に相次いで保元・平治の乱が起こる。保元の乱では為義をはじめとして頼賢・為朝らが滅亡。平治の乱では義朝は敗走中に知

多半島で横死、長男義平は六条河原で斬首、次男朝長も矢傷がもとで命を失い、三男の幼い頼朝は捕らえられて伊豆の蛭が小島に配流となった。壊滅的な打撃を受けた河

内源氏の一族は、頼朝が再び表舞台に登場するまでおよそ20年の歳月を要することになる。



 ところで『頼朝の配流先』の伊豆は「東国」である。なぜ、頼朝は平治の乱の謀反人となった父義朝の勢力圏に流されたのだろうか。これについては、確かに結果論から言え

ば、朝廷や清盛の失策と言えなくもないだろう。しかし、実際には前に書いたように義朝配下の東国武士団というのは、あくまで義朝と中央の権門の関係があって、はじめて成

立するものであったということ。従って平治の乱で義朝が敗北したことにより、東国武士団の土台は瓦解してしまっている。そして彼らは自分達の権益を守るため、義朝に替わ

る新たな盟主の配下となっていく。その盟主こそ、後白河院政期において新たな複合権門※を目指す平家一門である。もともと桓武平氏の祖、高望王は平姓を賜って坂東へ

下向し、そこに土着した。その子孫が坂東平氏で、義朝配下の東国武士も、先祖をたどればそこへ行き着くものは多かった。もちろんそれだけが理由ではないが、平治の乱が

終わり、河内源氏も壊滅状態となった今、東国は頼朝にとって父祖縁の地とはいえ、決して安住の地ではなかったのである。わしらは現代から逆方向に歴史を見ているので、

その後頼朝が旗揚げし、平家が滅びることを知っているからいろいろと余計なことを考えてしまうが、当時の時点では伊豆に頼朝が流されたということは、決して朝廷の失策や

清盛の甘さなどではない、ということは理解しておく必要がある。(※「複合権門」とは、前出の元木泰雄氏の提唱する言葉で、公家・武家・寺社を一体に包み込んだ新しい権

力体構造を表す)



 少々話が横道にそれた気もするが、メインテーマの『源氏と奥州』の関わりについては、この為義・義朝の時代には「野望」といった大それたたくらみを見出すのは難しそうで

ある。ただ、保元物語には次のような一節がある。

(為義)廿八歳にて検非違使五位尉になる。日比中御門中納言家成卿に付て、陸奥守を望申けるに、「祖父伊与入道頼義、此受領に任じて、貞任・宗任が乱によ(っ)て前九

年の合戦ありき。八幡太郎義家、又彼国守に成て、武衡・家衡をせむるとて、後三年の兵乱ありき。然れば猶意趣残る国なれば、今、為義陸奥守に成たらましかば、定て基衡

を亡さんと云志有べきか。かた<”不吉の例也。」とて、御ゆるされなかりしかば、為義、「しからば自余の国守に任じてなにかはせん。」とて、今年六十三まで終に受領もせざ

りけり。

 ここでは、為義がたびたび陸奥守任官を望むも、「頼義の時には前九年の合戦があり、義家の時には後三年の合戦があった。このように陸奥は源氏にとって意趣の残る地

である。いま為義を陸奥守にすれば(藤原)基衡を滅ぼすつもりか。(源氏を陸奥守にするのは)不吉なことだ。」と拒絶されている。おそらくこれは後世の脚色であろうが、この

ように物語の世界にしか為義の「野望」を見出すことは出来ない。平治の乱においても義朝は、清盛に官位・経済力・都における兵力の動員力とすべてにおいて負けていた。

陸奥の国は「夢のまた夢」だったのかもしれない。



8月14日(月)

ホントに暑い日が続く。体調もチョットやばいです(をいをい)。や、さすがにね、これだけ暑いとバテ気味でしてな・・・。

さて、第2弾をアップなのです。今回は、アノ人。



<八幡太郎義家>

 前九年の役からおよそ20年後。清原氏も武則の子、武貞を経て孫の真衡の代になっていた。この頃には清原氏の勢力は、出羽の山北から陸奥の

奥六郡へと移っていたようである。といっても、前九年の役の勧賞で清原武則が鎮守府将軍に叙されて直ちに勢力の移動があったわけではないらしい。

 高橋崇氏によると、安倍氏もそうだったが、清原氏も“同族同格連合支配体制”であった。これが前九年の役の功により武則が鎮守府将軍になると、一

族の中心が光頼から弟の武則に変わり、武則の孫の真衡の代になると“嫡宗単独支配体制”、つまり宗家が中心となって決定権を占有し、他の一族がそ

れに服従する体制に変化しつつあったという。そのなかで、清原氏の勢力も出羽から奥六郡への移動もあったのではないかと思われる。



 そしてこの支配体制の推移が遠因となり、永保3年(1083年)清原真衡と清原一族の長老格である出羽国の吉彦秀武(真衡の叔父にあたる)との間に

諍いが生じた。真衡の養子の婚礼の日、秀武が真衡に蔑ろにされ、腹を立てた秀武はそのまま席を蹴って出羽へと帰ってしまったという。この諍いは紛争

へと発展する。まず、秀武は真衡の二人の弟、清衡と家衡を焚きつけて兄の真衡から離反させた。

 ここでこの兄弟3人について整理しておく。まず、真衡と家衡の父親は清原武貞だが、母親が違う。そして、清衡と家衡は母親は同じだが、父親が違う。清

衡の父親は、前九年の役で源頼義に首を鋸引きにされた藤原経清である。経清の死後、その妻(安倍頼時の娘)は息子の清衡と一緒に戦利品同様に清原

武貞のもとへと送られた。だから清衡は、清原の姓は名乗っているが、その血は受け継いでいない。そして清衡の母と清原武貞との間に生まれた子が家衡

なのである。この複雑な兄弟関係が、後三年の役に大きく関わることになる。



 さて、清衡たちは白鳥村の家々を焼き払うなどの行為を行い真衡に敵対する。そういった中で新たな陸奥守が赴任してきた。新国司の名前は、源義家。前

九年の役の時の国司源頼義の嫡男「八幡太郎義家」である。義家の着任早々、真衡は「三日厨」と呼ばれる盛大な宴を催して新しい国司を歓迎し、その時に

は秀武や清衡・家衡兄弟の行状も報告しただろう。



 さっそく義家は紛争の調停に乗りだし、真衡も出羽の吉彦秀武討伐のため、あらためて軍備を整える。ところが、この間に真衡は病を得て急死してしまった。

義家は清衡・家衡と一戦交えるが、清衡らはすぐに降参し、恭順の意を表す。こうして『後三年の役』の前哨戦とも言うべき戦いは、ばたばたと終わってしまった。

義家は、陸奥守として真衡亡き後の奥六郡の仕置きを裁定した。



 義家は奥六郡を南北に分け、南の三郡(胆沢・江刺・和賀)を清衡、そして北の三郡(稗貫・紫波・岩手)を家衡の預かりとした。これは少し不可解な裁定で、真

衡には養子の成衡という人物がいた。しかし義家はこの成衡をはなから除外し、あくまでも清衡・家衡について沙汰を下している。もとはといえば、吉彦秀武にそ

そのかされ、当主である真衡に背いたのは清衡・家衡兄弟であり、本来ならば清衡・家衡は罰せられ、真衡の跡は成衡が継ぎそうなものだが、そのようにならな

かったのは『本来ならざる』何らかの理由があったのか?などと勘ぐってみたくなる。



 ともあれ、陸奥守として以上のように裁定した義家だが、ここにまた火種が生じた。家衡である。家衡は自分の北三郡よりも、清衡の南三郡の方が土地も肥え、

実りも豊かであることに不満を感じていた。その他にも義家の裁定は、明らかに清衡に有利であった。そしてついに家衡は清衡殲滅に決起した。家衡は清衡の豊

田館を襲い、清衡の妻子を殺害する。清衡は義家に窮状を訴え、ついに応徳3年(1086年)後三年の役は本格的な紛争となっていった。



  同年9月、沼の柵において両軍は激突した。この戦いは秋に始まり、ついに冬になってしまった。大雪の中の戦いで大打撃を受けたのは、義家の軍であった。翌

寛治(4月7日改元)元年、家衡は清原武衡(家衡の伯父)と共に沼の柵から金沢の柵に移動する。一方、義家にも京にいた弟の新羅三郎義光が、官職を放り出して

奥州へと駆けつけた。ここでの戦は凄惨なものとなった。「奥州後三年記」はその様子を克明に描く。そしてついに11月、金沢の柵は落ち、武衡は捕らえられ首を斬ら

れた。また、家衡は下人に身をやつして逃げようとしたが発見され首を斬られた。



 翌12月、義家は朝廷に武衡・家衡追討の官符発給を要請し、翌寛治2年(1088年)の春には武衡・家衡の首級と共に京に向かった。しかし、その途中で朝廷から届

いた知らせは、「義家の陸奥守解任」の知らせだった。即ちそれは、後三年の役はあくまで私戦であり、官符の発給は認められないということである。当然、恩賞もなに

もない。知らせを聞いた義家は、武衡と家衡の首を道端に打ち捨ててむなしく京へと帰っていった。なお、義家は、部下に報いるため身銭を切って部下に恩賞を与えたという。



 そして清衡は、父親の仇敵であった源氏は陸奥で失脚し、清原氏も実質的に滅んだ今、なんの憂いもくびきも無くなった。彼は「清原」の姓を捨て、父の姓であった「藤原」

を名乗った。奥州藤原氏の初代、“藤原清衡”の誕生である。

 幼い頃、母と一緒に清原武貞のもとへ戦利品同様にやって来た清衡だが、真衡や家衡との抗争を生き抜いてこられたということは、清原氏の中にも清衡の成長と共に、次

第に『清衡シンパ』ともいうべき集団が形成されていったのは間違いないだろう。それがどのような人たちで、どのように形作られていったのかということにも興味は尽きない。

 少なくとも初めは清衡母子は、清原氏の中では孤立無援だったはずである。

 もともと清原氏の中には、内紛の起きる要素があったことは初めに述べたが、一つのきっかけは、家衡が生まれたことだろう。家衡は清原の血を受け継いでいる。これは清衡

と決定的に違うところだ。そこに嫡男の真衡を快く思わない勢力が集まってくるということは十分ありうると思う。また、真衡が自分の後継として成衡という養子を迎え、さらにその

妻をこれまた清原以外のところ(常陸国の多気権守宗基の娘)から迎えるとなると、反真衡派の不満は決定的になったはずである。もしかすると、婚礼の席での事件も吉彦秀武

の計算ずくだったのかもしれない。ま、これは確証が無いので脳内妄想としておく。話を戻そう。その後、真衡の急死、義家の奥六郡二分割の裁定、そして家衡との決裂と清原氏

のパワーバランスは激変することになる。とにかく、清衡の一番の苦労は、「よそ者」の身で、清原氏の中でいかに自分のシンパを形成していくか、というその一点であったといって

も過言ではないだろう。



 さて、ここまでの経過を駆け足で見てみたが、一口に「清原氏の内紛」といっても、それは真衡・清衡・家衡という複雑な兄弟関係を経て、そこに一族の支配体制の変化に伴う進

歩派と守旧派がそれぞれ入り乱れたものであった。そこにつけこんで介入してきたのが陸奥守義家であり、その結果が『後三年の役』であった。



 義家はかつて父頼義に伴い、前九年の役を経験しており、父親の陸奥に対する野望・思い入れをもっとも身近で感じていたと思う。そして、その見果てぬ夢を残して頼義・義家父

子は陸奥を後にした。時を経て、今度は義家自身が国司として、再び陸奥の地を踏んだ。少なからず義家にも陸奥への夢なり野望はあったに違いない。ただ、一連の介入の跡をた

どってみると、少々『手間をかけ過ぎ』ているという印象が残る。もちろん、その時どきの事情や状況もあったであろうから簡単には言えないが、父親の頼義が露骨と言ってもいいほ

ど手段を選ばなかったのに比べると少しイメージが違う。もっとも、前九年の役と後三年の役とは、その発生の状況からして異なっている。前者は名目上は『反逆者の追討(もちろん

これは正確ではない)』であるのに対し、後者は『内紛の調停』であり、その延長線上で起きた紛争だからだ。気になるのは、清衡への接触である。清衡の父、藤原経清を鋸引きにし

たのは、他ならぬ義家の父、源頼義である。そういった因縁を考えても、二人の間に軋轢が皆無だったとは言えないだろう。しかしながら、後に義家は清衡に肩入れするようになるの

だから、それもまた不思議な話だ。いずれにせよ、義家の介入は真衡の死後、本格的に始まる。そして最大の誤算は、朝廷から戦の官符が発給されなかったということだ。そして後に

保元・平治の乱を経て治承・寿永の内乱では、再びこの清和源氏と奥州藤原氏の因縁が繰り返されることになる。




8月5日(土)

半年ぶりの日記なのです(苦笑)。みなさん、暑い日が続きますがお元気ですか〜?

さて、このところずっと“似非日本史まにあ”の本領発揮で図書館で本を借りたり、ネットで取り寄せたりとそんなことばかりだった。

きっかけは、6月ごろだったか、とある掲示板での討論に触発され、奥州藤原氏のことについていろいろと調べていた。そのなかで、あらためて奥州藤原氏と清和源氏の因縁みたいなものに興味を持ってしまった。

そのあたりのことについて、少々この日記の中で紹介していこうと思う。ま、興味のある方はどうぞ(微笑)。

ちなみに不定期連載の予定です。ではでは。

第1回配本:プロローグと源頼義

  藤原秀衡は文治3年(1187年)10月29日に突如この世を去り、嫡男泰衡が跡を継いだ。これにより、義経の運命は決した。頼朝は、秀衡の死後、泰衡にプレッシャーをか

け続け、とうとうそれに耐え切れなくなった泰衡は、文治5年閏4月30日衣川の義経の館を襲う。武蔵坊弁慶や伊勢三郎らも奮戦するが、郎党達は次々と倒れ、ついに義経は

持仏堂で自刃した。

 頼朝の次の標的は、奥州そのものだった。頼朝は泰衡追討の院宣を願い出ていたが、院からの返事はなかなかこなかった。すると大庭平太景能が、「奥州の泰衡は、もとも

と累代の家人の名跡を継いでおります。軍中では、将軍の命こそすべて。家来を誅するのに、いちいち院の了解を得ることはありますまい。」と、とってもナイスなアドバイスを頼

朝に呈した(吾妻鏡:文治5年6月30日条)。おそらくこれは、頼朝のヤラセに間違いないだろう。なぜなら頼朝は、古参の老武者である景能を、わざわざ呼びよせたうえで相談

をしている。もしこれが、北条時政や梶原景時であれば、『院のおぼしめしがどうのこうの』となっていただろう。頼朝には「景能ならば、きっとこう答えるに違いない。」という確信

があったと思われる。

 ついに同年7月19日、頼朝は奥州攻めの兵を発する。同29日には、早くも白河の関を越え、阿津賀志山(福島県伊達郡国見町。現在は厚樫山)では泰衡の異母兄弟であ

る国衡の軍を蹴散らし、国衡は討ち死にする。そしてついに泰衡は8月21日、藤原氏の館に火をかけて逃亡した。頼朝がその焼け跡となった平泉に入ったのは、翌22日。鎌

倉発向からわずかひと月の後に、初代清衡から100年にわたり栄華を誇った奥州の黄金文化もここに事実上滅亡した。泰衡の最期の様子については、また後ほど触れること

になる。ともあれ、奥州藤原氏は頼朝によって滅ぼされた。ところが、この奥州藤原氏の発祥にも頼朝の先祖が大きく関わっているのである。

<陸奥守兼鎮守府将軍 源頼義>
 話は100年と少々遡った11世紀の頃。陸奥の国において『前九年・後三年の役』とよばれる大きな戦いが起きた。陸奥の国奥六郡(現在の岩手県の一部)の豪族、安倍頼

良と陸奥国司藤原登任の間に紛争が生じ、永承6年(1051年)鬼切部(おにこべ)で両軍が激突した。この戦いで登任の国府軍は惨敗する。これにより登任は陸奥守を解任

され、翌永承7年5月、替わって新たに『陸奥守兼鎮守府将軍』として赴任してきたのが源頼義である。

 ところが頼義の着任早々、都では上東門院(一条天皇中宮・藤原道長の娘)の病気平癒の大赦が行われ、安部頼良の罪はチャラになってしまった。頼良はひたすら恭順の

意を表し、新国司と名前の読みが同じ『よりよし(頼義・頼良)』では憚られるとして、自ら“安倍頼時”と改名までしたのである。

 そんな中、もう少しで頼義の陸奥守の任期も終わるという頃、阿久利川の陣屋が何者かに襲われ、人員が殺傷されるという事件がおきた(阿久利川事件)。頼義はこれを頼

時の嫡男安倍貞任の仕業と断定し、頼時に貞任の引渡しを要求する。しかし、頼時はこれを突っぱね、ついに戦闘状態に入った。戦は長期戦となり、一進一退を繰り返した。

天喜5年9月の合戦では、頼時に流れ矢があたり、鳥海の柵までたどり着いたが命を落とす。そして頼時の死後は頼時の嫡男貞任が奮戦し、同年11月の黄海の戦いでは頼

義が大敗北を喫し、僅か6騎で戦場を離脱する有様だった。

 安倍軍の武将の中に、亘理(宮城県の一部)の豪族で藤原経清という人物がいた。彼の妻は安部頼時の娘で、同じく頼時の娘婿であった平永衡という人物とともに初めは

国府軍に属していた。ところが永衡が頼義に謀反の疑いをかけられて謀殺されたため、『このままでは自分も同じ目に遭う』と身の危険を感じ、ついに戦いの最中に自分の軍

勢とともに安倍氏の陣中へと走りこんでしまった。その後も経清は、国府の徴税を妨害するなどしたため、頼義の経清に対する憎しみはもはや頂点に達していた。



 一向に埒のあかない頼義は、ついに出羽の豪族清原光頼にあの手この手で助力を要請する。はじめは渋っていた光頼だが、やがて弟の清原武則が1万の軍勢を率いて頼

義軍に合流した。これにより、ついに安倍軍は厨川の柵で貞任が敗死、弟の重任も命を落とす。貞任の息子、13歳の千世童子も柵の外で戦ったが捕らえられて頼義の前に

連れてこられた。頼義は憐れに思い一度は命を助けようとしたが、武則が「小さな義にとらわれて、大きな災いを生んではなりません」と進言したため、千世童子は斬られた。

また、貞任の他の兄弟や一族の者も捕らえられ、各地に配流となった。藤原経清も捕らえられた。以下に「陸奥話記」の語る経清の最期を紹介しよう。

  經清、伏首不克言。將軍深惡之。故以鈍刀、漸斬其首。是欲經清痛苦久也。
 (將軍とは頼義のこと)

「<大意>(頼義がいくら経清の罪を責めても、)彼は黙ってうつむいたままだったので、頼義は憎しみをいっそう深くした。そこで鈍刀で彼の首を斬った。これは経清の苦痛を

長引かせるためであった。」また、経清の妻は息子とともに清原氏の許へと送られ、息子は清原清衡として成長する。こうして安倍氏は滅亡し、ようやく康平5年(1062年)9

月に前九年の役は終わりを告げた。


 当時の都人にとって、「みちのく」は“エミシの国”という恐怖すべき対象であると同時に、豊富な資源を抱える宝の国という“一種の憧れ”もあったのではないだろうか。陸奥国

司に任ぜられても、何だかんだと理由をつけて、いつまでも赴任をしない人もいれば、反対に多額の賄賂を使ってわざわざ『陸奥鎮守府将軍』になった平維良の例(藤原実資『

小右記』長和3年(1014年)2月7日条)もあるという。歴史を振り返ると、奥羽からは馬・砂金・絹などがたびたび朝廷に貢がれている。そこに一攫千金を狙う人も決して少なく

は無かったはずだ。

 ところで、前九年の役といえば、俘囚の安倍氏が勢力を拡大し衣川を越えて南下してきたため、それを陸奥の国府軍が迎え撃つという図式で語られる。確かに安倍氏の勢力

に対する危機感も国府側にはあったかもしれないが、藤原登任が解任された後、陸奥守として着任してきた頼義の行動に、彼の陸奥の国に対する執念というか執着を指摘す

る研究者もいる。早い話が頼義は『陸奥に居座りつづけた』といっていい。ここではその詳細は省くが、源頼義という人はこの陸奥の国に対して非常に強い野望を持っていた可

能性は決して低くはない。したがって阿久利川事件にしても、頼義が仕掛けた安倍氏への罠である疑いも拭いきれない。つまり、平穏に陸奥国司の任期が終わってしまっては

、頼義は安倍氏に対して介入することが出来ないからである。

 ただ、あくまで恭順の姿勢を貫こうとした安倍頼時に対し、武力介入をした源頼義の真意は果たして何だったのか。将来必ず争うことになるのなら、いまのうちに決着をつけ

ようとしたのか・・・。いずれにせよ、康平6年2月27日の戦に関する朝廷の勧賞では、頼義は正四位下伊予守、嫡子義家は正五位下出羽守に叙せられた。肝心の鎮守府将

軍に任じられたのは、清原武則であった(源威集)。

 結局、頼義は足掛け11年間戦をしたにもかかわらず、陸奥の国での野望は果たせないまま終わってしまったのである。これについては、「夷をもって夷を制す」という『対俘

囚政策』もあっただろうし、頼義に対する朝廷の牽制も少なからず視野に入れて考える必要があるかもしれない。


2月12日(日)

さて、NHKの大河ドラマ「功名が辻」もはじまった。あいかわらず賛否両論まきおこっているようだね。ま、反対意見の多くは「原作のイメージが損なわれている」という原作重視派の意見だが、なかには「史実と違う!」という意見もかなりある。しかし、そもそも史実とはナンなのか、叫んでいる本人すらよく解かっていないのではないかというものも少なくない。

ところで、昨年の「義経」のとき、わしもナンチャッテ平家物語ファンでもあるし、4月の入院中に吉川英治の「新・平家物語」をずっと読んでいたこともあり、ネットを利用して当時の歴史をちょこちょこ調べていた。

今更ながら、ネット環境というものはありがたい。平家物語だろうが、義経記だろうが、吾妻鏡だろうが、ちょっと検索すれば簡単に原典に当たることができる。いちいち図書館に行って探すことを考えればずいぶんと便利になったものだ。もちろん、ネットの情報というものは、基本的に「玉石混合」である。その正確性については、慎重に対応する必要があるのはいうまでもない。

じゃあどのような情報を選べば、正確なのかというと、これはもう自己責任において調べるしかない。あることを調べようと思ったら、いくつかサンプルを選んでそれぞれを比べ、そのなかで信憑性の高いものを選んでいくなどの注意が必要になってくる。

例えば、中世期のあることを調べていたとしよう。ネットでググって引っかかったデータを調べてみると、その出所がある自治体の郷土史の史料によるものだということがわかった。もちろんその郷土史は、自治体が公刊した出所の確かなものだ。

だがしかし、その郷土史編纂の史料である<古文書>が現代人の偽作によるもので、その疑いを自治体が知りつつも、そのまま公刊していたとしたらどうであろう。およそ信じがたいことだが、これは日本で実際にあったことで、その悪影響はそのままいまでも続いているのである。

昭和40年の中ごろ、青森県の津軽半島にある市浦村(しうらそん:現在は五所川原市の一部)が村史を編纂することになった。その時、五所川原飯詰在住の和田喜八郎という人物が所蔵する古文書群を「みちのくのあけぼの 市浦村史資料編 東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」として編纂し、「市浦村史」とともに昭和50年に公刊された。

この古文書群というのは、昭和22年の夏、和田喜八郎氏宅の天井が突然破れ、大きなつづら箱が落ちてきた。おどろいた和田氏がその箱を開けてみると、大量の古文書が出てきたという。そこに書いてあったのは、これまでの歴史を覆すような内容で、それによると古代東北地方には大和朝廷に匹敵するほどの王朝が存在し、それは大和朝廷を向こうにまわして大暴れしたアテルイや安倍氏に繋がるという。また前九年の役で敗れた安倍貞任の遺児:高星丸(たかあきまる)は津軽に逃れ、中世の豪族安藤氏の祖先となった。安東氏は津軽の十三湖(じゅうさんこ)の十三(とさ)港を中心に繁栄し、安東水軍として日本中はおろか大陸まで活躍したが、興国2年に突如十三湖を襲った大津波で十三湊は壊滅。安東水軍も一夜にして滅び去ったということが書かれていた。これらのことは、江戸寛政年間に安東氏の子孫である三春秋田藩ゆかりの秋田孝季という人物が、藩主の密命で諸国を巡り、妹婿の和田長三郎吉次とともに書き残したということである。そしてその、吉次の子孫が五所川原の和田喜八郎氏で、代々密かにその古文書を隠していたということだった。

そしてこの東日流外三郡誌に続き、和田喜八郎氏のところからは次々と古文書が“発見”され、「和田家文書」と総称されるようになった。当初からその真偽についてはさまざまな意見もあった。そして90年代に入ると当時昭和薬科大学教授の古田武彦氏が、「真実の東北王朝」という著書を出し、「東日流外三郡誌は真書である!!」との見解を発表、それに対しライバルの産能大教授安本美典氏は「東日流外三郡誌は偽書である!!」として大論争の火蓋が切って落とされた。

この頃、わしは歴史読本という雑誌を定期購読していたが、このこと自体もほとんど興味は無く、「東日流外三郡誌」の存在と、偽書であることがほぼ証明されたという記事は読んだ記憶がある程度だった。それが1年ほど前、たまたまネット上で「東日流外三郡誌」の記事をみつけ、一種の懐かしさも覚え何の気なしに調べてみたら意外なことが解かった。

当時の論争で敗れたはずの古田氏やその後援者の間では、未だに「真書」だと固く信じていて、HPや機関紙では論考が続いている(なお、和田喜八郎氏は99年に真相を語らないまま病死している)。それはそれでかまわないのだが、困ったことに当時書かれた論文や、大元の「市浦村史」を引用している文献が巷に相当数残っているということだ。

始末が悪いのは、それとはしらずにその文献を孫引きした論考もねずみ算式に存在しているという現実である。

今は市浦村は無くなってしまったが、当時の市浦村が結局自治体としてこの「和田家文書騒動」にどのような決着をつけたかは定かではない。もし、ご存知の方があれば教えていただけるとうれしい。

今回、わしがこんなことを書いたのは、地方自治体が公費を使って自らの歴史を汚すようないいかげんな村史を公刊してしまったという、なんともやるせない事実に対する気持ちからだ。

わしも地方自治体職員の末席を汚すものとして、自戒としたい。

いずれこの「和田家文書騒動」は「創さんのほめぱげ」の中でも顛末を整理して残しておこうと考えている。それまでは下記のHPを見ていただきたい(新しいブラウザが開きますねん)。

余談だけど、わしは「古代史」にはほとんど興味は無いのでゴメンネ。


新・古代学の扉

 (未だに「真書だ!」といい続けている古田武彦氏を応援する“古田史学の会”HP)

邪馬台国の会

 (「東日流外三郡誌」がバッタものであることを暴いた、安本氏の主宰するHP)

原田実 Cyber Space幻想研究室

 (原田氏は当初「偽書派」だったが、昭和薬科大にて古田教授の助手として勤務するようになり「真書派」となる。しかし、実際に和田家文書に触れる中で「やっぱりバッタ物やん!」と確信。結果古田氏と袂を分かつ。)

あれこれそれ博物館 「お宝」自作派 お宝を造る人たち 東日流外三郡誌

 (騒動のダイジェスト版としてオススメ)




1月1日(日)

さてさて、2006年になりましたねえ・・・・。

今年はどんな年になるのやら?

とりあえず今夜は宴会です(笑)

またのちほど。