DIARY.OF.THE.MADMAN

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12月28日(公務納)

今日で今年はお仕事終わり。明日からは年末年始の休暇となる。しかしご多分に漏れず、わが職場でもY2KがらみでF田(仮名)が元旦の日は出勤となった。わしも一応は当日自宅待機となっている。

世間では、何でもかんでも『ミレニアムなんとか』ってなカンジで、千年期を大騒ぎしているが、それにしても今年はいろんなことがありすぎた。それも、ロクデモナイことばかりだ。思えば、1月のベッチャンのバイク事故に始まり、お師匠の事故、マスターのおじさんの不幸、ハマチャの入院、親父の入院にと続き、挙げ句の果てには親父もハマチャも死んじまった。さすがに1999と「9」の字が3つも連なる年だけに、いやな年となってしまった。まさにアンゴルモアの大王が降ってきたぐらいのインパクトってところだ。

今年もいよいよ残り少なくなってきた。

きっちりとこの1999年にケリをつけて、来年は良い年にしたいものだ。



12月22日(水)

「親友」という言葉がある。

わし自身はこの言葉を使うのにすこし恥ずかしさを感じてしまうので、あまり使うことはないのだが、そう呼んでも差し支えない友人はもちろんいる。

彼の名前は「ハマチャ」という。

某映画監督とは幼なじみで、中学1年のときにわしと同じクラスになった。入学式が終わるといきなりわしのうちにカントクを連れて遊びにやってきた。以来、ほぼ26年間のつきあいだ。

結婚したのは去年の3月。以前、この日記でも紹介したことがある。

性格はぼくとつで律義、頑固で意固地、でも面倒見がいい。天文と物理のエキスパートで工学博士だ。ちなみにB型装備である。

余談だが「新世紀エヴァンゲリオン」のヤシマ作戦で使われたポジトロンライフルの仕様をカントクに伝授したのは、何を隠そうハマチャである。

そのハマチャが、今年の2月、病に倒れた。胃を全部摘出した。

闘病生活が続く中、10月には待望の男子が生まれ、ハマチャは名実ともに親父になった。

そして先日、12月20日、山口県に今年初めての雪が降った日の早朝、ハマチャは空へ一人旅立った。

昨日が通夜、そして今日は告別式だった。ハマチャの弟のベッチャンから友人代表の弔辞について相談があったが、わしは他の人間を推薦した。ハマチャの結婚式の友人代表のスピーチはわしだったからだ。

昨日の夜、通夜に行って、彼の親父さんからあいさつされた。

泣いた。

10月に自分の父親が死んだときにさえ、わしは泣かなかったのに、泣いた。



ハマチャ、ばいばい。






12月13日(月)12月といえば・・・

なんと言ってもやはり「忠臣蔵」でしょう。毎年12月14日が近づくと、どこかのTV局が必ず忠臣蔵がらみの番組を放送する。NHKは大河ドラマで「元禄繚乱」が、きのうの日曜日12日で最終回だし、日本TVでは「四十七人の刺客」を放送していた。この映画は市川昆監督の作品で、公開当時にはその解釈をめぐって、いろいろな議論がなされた。

わしは基本的にチャンバラが大好きなので、こういった作品は必ずチェックしている。もっとも最近のTVのチャンバラは、殺陣が気に入らない。おまけにストーリーがいかにも安直で、どの作品を見てもつまらない。例えば、あのマンネリの帝王とまでいわれた「水戸黄門」でさえも、はじめのころのシリーズは、そのマンネリの中にもキラリと光る見せ場があった。助さんや格さんも、きっちりと武士であるところを演じていた。最近の作品はあまりにも水戸黄門一行が町人や農民に迎合しすぎて、「ここにおわすお方をどなたと心得る!?」と言っても、真実味がまるで無いんだよな。やはり武士である部分というのは殺陣だけではなく、一行の身内だけの会話のときや、国元でのシーンなどはちゃんと武士をしてもらわないといけないのである。

話を戻そう。

んで、金曜日、TVの「四十七人の刺客」を見た。以前一度ビデオを借りたこともあるのだが、この作品は『なぜ、大石内蔵助は、吉良上野介の屋敷に討ち入ったのか?』という部分がはっきり見えない。内蔵助は「吉良を殺す!!」としか言わないのだ。歴史学会では忠臣蔵の討ち入りについてはいろいろな説があって、最近のTVや映画では、『亡き浅野匠頭の敵討ちに名を借りた、公儀(幕府)へのクーデター』という説を採用している。「元禄繚乱」もそうだし、「赤穂城断絶」や「峠の群像」もそうだった。それは物語が始まって早い時機で明らかにされているのだが、この「四十七人の刺客」はそのあたりがどうもはっきりしない。大石たちに討ち入られ、土壇場で吉良は「ま、待て!なぜ浅野殿が刃傷に及んだか、その訳を知りたいとは思わんか!」と懇願するが、高倉大石は「知りとうない!!」と西村吉良を一刀のもとに切り、その首を掻き切る。それも他の浪士たちはその場所にはいなく、小屋の中で大石と吉良の二人だけでのシーンだ。通常忠臣蔵のシーンと言うのは「お約束」があって、この場合炭小屋に隠れていた吉良を、間十次郎の槍が突き刺し、庭に引き出されて浪士みんなの前で首を落とし、「えいえいおー!」の勝鬨を上げる。というパターンなのだが、この「四十七人の刺客」はまったく違う。ただ、吉良を追い込むために、いろいろ謀略を巡らせる大石内蔵助というのはなかなか斬新な設定だと思った。どうせならもっとどろどろした大石内蔵助であってもよかったような気もする。

それだけに討ち入りのモチベーションがはっきりしなかったのは、返すがえすも残念でならない。明日は14日。本所松坂町の吉良屋敷に、旧赤穂の浪士46人が討ち入った日である。

さて、今日は久しぶりに緒方さんから連載の新作が届いた。いよいよこちらもクライマックスに向かうようで・・・。




12月5日(日)

きょうは一日中くもりの天気で、気分もなんとなく晴れない日曜だった。それでもきょうは懸案事項だった、喪中のはがきをやっと準備できた。先日買ったエプソンのPM-800Cもインストールできたので、印刷も楽勝だ。さすがに以前使っていたキャノンのBJC-35Vとは比べるまでもなく、ほいほいさくさくと進んでいった。実際、大変だったのは、宛名のデータ作りの部分だ。昔は「筆自慢」を使っていたのだが、これはCSV形式のファイルに対応していたので、エクセルで作ったデータもインポートできたのだが、今年はアジェンダの「宛名職人」に買い換えたのでCSV形式が使えず、はじめから入力作業をする羽目になった。もっとも最近の年賀状ソフトは、郵便番号のほかに電話番号からも個人の入力ができるのでかなり楽にデータはそろえられた。おまけにBJC−35Vだと葉書が少しづつしかセットできないが、800Cは一度に50枚弱ぐらいまでセットできるのでよい。あしたは郵便局に出しに行こう。

ところで年賀状といえば、やはり学生時代のことが思い出される。実は、わしは学生時代、郵便局で葉書の仕分けのアルバイトをやっていたのだ。年末はもちろんだが、普段でもときどき郵便局に呼び出されては仕分けをやっていた。大学生の男子の場合は基本的に深夜勤(夜の10時から翌朝の6時まで)のバイトなので、冬休みはともかく、講義がある日は大変だった。

年末のバイトの場合、だいたい11月の中頃に学生課の掲示板に呼び出しがかかる。このバイトは一度経験すると、なかなか止めさせてもらえないのだ。というのは、ほかのバイトに比べて給料が少ないため、なかなか人を集めることができない。わしの場合には障害の関係でできるバイトがどうしても限られてしまうので、仕方が無いのだが、本音を言えばわしだってこんなワリの合わないバイトはやりたくなかった。しかしながら、年末という時期はどうしてもコンパやその他で出費がかさみ、名古屋から宇部までの旅費を稼ぐためには背に腹は変えられない。

それで各大学に「キャップ」と呼ばれる言わば『バイトを止めさせてもらえない不幸な学生』がいて、学生課から呼び出しを受けると、郵便局の言ってきた人数分の学生を確保するという任務を遂行しなくてはならない。わしはうちの大学のキャップを仰せ付けられて、同級生や下宿の後輩を、時にはおだて、時には脅し、毎年不幸な学生を集めて回っていた。>ほとんどタコ部屋の親方状態(笑)

ずぅっと立ちっぱなしで、端で見ているよりはつらい仕事なのだが、結構面白いエピソードがあったりする。例えば、わしが行っていた郵便局は名古屋市の中村郵便局というところなのだが、中村区の郵便番号は当時453だったのだが、時々郵便番号の読み取り機が間違えて753(山口市)の葉書が混じっていたりすることがあった。思わず懐かしい地名に巡り合い、妙に感動してしまったこともある。また、おかしかったというか、かわいそうだったのは、宛名のところには『名古屋のおばあちゃんへ』としか書いてない。郵便番号はちゃんと453とあるので、なんとかここまで(中村郵便局ね)まではたどり着いたのだが、これでは配達できるわけがない。こういった場合には、『事故』と書かれた棚にいれて、あとで差出人に返送するのだが、この葉書の差出人は『長崎のひろし』としか書いてなかった。これだと返送もできないよな・・・。きっとちいさい孫が一生懸命書いたのだろうが、年賀状は届けられない。やはりポストに入れる前に親がちゃんと確認してやらないとな!

そしてこのことは声を大にして言いたい!!

書道家ぶった達筆の年賀状(とくに行書や草書で書いたやつ)は自己満足の極みだ!

せめて宛名は楷書で書いてほしいものだ。とはいえ、プロの郵便屋さんはこういった葉書もちゃんと宛名を読んで届けるのだからすごいと思う。でも、年末年始はバイトの学生がやっているんだから、年賀状を書く人も自己満足だけで終わらないようにしようよね。

ほかにもあーんな話や、こーんな話があるのだが、それはちょっとネット上では書けないのでこの辺で止めておこう。わしがこのバイトで得たものは年賀状のトラウマだ。おかげで今でも年賀状は必要最小限しか書かない。だって、ずーっと人の年賀状ばっかみてたらイヤになるって・・・。


ところで、3日の日記に書いたM女史は、「好き嫌いはないけど、ゲテモノは食べられない」ということを言いたかっただけで、決してヘンな女の子じゃありませんので・・・。や、実際いい子ですよ、旦那。




12月3日(金)あしたはアスカさんのばーすでー(笑)

きょうは職場の忘年会だったりする。場所は市内の某中華料理店。

郊外にある、ちょっとしゃれた感じの雰囲気のお店だ。四川風のピリカラ味は、やけに食欲をそそった。

そんななかでのちょっとした会話。

実はわしは、刺し身があまり好きではない。まったく食えないわけではないのだが、赤身の刺し身はどうも苦手である。今日の前菜に出てきたのは、ヒラメの中華サラダ風盛り合わせだったのだが、そこでこの話になった。

たまちゃん「そういえば、創さん、刺し身苦手ですよね。」

わし「うむ。しかし、赤身は食えなくても白身の魚は問題ない。すべてシナリオどおりだ(ニヤリ)」

新人G「魚、嫌いなんですか?」

わし「何を言う。火さえ通っていれば、ぜんぜんOKだ。」

F田(仮名)「でもそれってかなりわがままじゃありません?」

わし「そんなことはない。肉も魚も食えない奴に比べれば、ずいぶんとまともだぞ。」

らぶりーケンボー「なんか納得いかないなー・・・。あ、ところで、M女史さんは、好き嫌いってなさそうですね?」

M女史(B型装備)「ほへ?わたし?」

わし「そうだな。君の場合にはたしかにそういう雰囲気だ(断言)」

M女史「えー?やだなー。わたしにも食べられないものぐらいありますよー。」

ケンボー「何が食べられないんです?」

M女史「えーとねー。バッタ。」

一同「「「・・・・・・・・・(絶句)」」」

M女史「だってさー、なんかモシャモシャってカンジでおいしくなさそうだしー・・・」


そりゃまあ確かにそうかもしれんがだ、いきなりバッタはないだろう・・・。

幸いにも今日の料理の中には、バッタは出てこなかったのだが・・・。



11月28日(日)軟弱者!!byセイラさん

どうも最近、某氏はガンダムにこっておられるようで・・・。

実は何を隠そうこのわたし、学生時代は隠れガンダマーだったんさ。

きっかけは、同じ学生寮にいた滋賀県出身のF井くんがけっこうオタッキーな奴で、彼に乗せられてガンダムのTV放送を見始めたところ、ものの見事にハマってしまったのだ。ガンプラもよく作ったものだ。もともとプラモデルはわたしの趣味で(せっかく作った作品をたびたび某映画監督に破壊されたこともあったが・・・)、それまではタミヤの1/35ミリタリーミニチュアシリーズしか作ったことの無かったわたしが、1/144シリーズのガンプラはいちおう一通り作ってしまった。もっとも、現存するのは「木馬の白い奴」が一体となぜがズゴックが二体(うち一体はシャアのカラーリング)しかないのだが、当時のバンダイのプラモは、成型のアワセが悪く(タミヤと比べるからだけど)、パテで修正しながら細部までカラーリングした、かなり力の入った作品に仕上がっている。

とは言いながら、ハマったのはあくまでも一作目の「機動戦士ガンダム」だけで、その後の「ゼータガンダム」とか「ガンダムZZ」とかまでは見ていない。あ、そう言えば今年は20周年記念らしいね。このあいだTVでやってて、懐かしく見たのを思い出した。

また今年うちの係に新採で入ってきたGくんは、かなりのガンダムオタクな青年で、ときどき熱っぽく「1年戦争がですねえ・・・」とか、「サイド7では・・・」とか説明してくれる。ちなみに彼はエヴァな話題も得意であることを付け加えておこう(笑)。先日NHKの課外授業、ようこそ先輩で、庵野チャンが『オタクに年齢と国境は無い』といっていたが、ガンダムも世代を超えて浸透している作品であることは間違いなさそうだ。

などとコ難しいことは置いといて、いい作品はイイ!

▼私信です

takeoさんへ

さすがにガチャガチャまではやったことないんだけどね(笑)

しもまきさん

>エンジンの音轟轟と・・・

う〜む。そのテーマミュージックはうちのF田のバイクのほうが、あってるってゆーか・・・



11月27日(土)

う〜〜〜〜!寒かった〜〜〜!

今日は市内某所にて、半日を過ごす。

いと、寒し。

以上(笑)



11月25日(木)

ようやっとホームページビルダーをインストールした。これでHPの管理はOKなんだが・・・。

それよりも早くプリンターをセットアップしなくてはいかんのだ。今年とうとうプリンターを買い換えた。これまでは、キャノンのBJC−35Vという、なんともなさけないプリンターしか持っていなかったのだが(いや、実際の話、これまでプリンターを使うことといえば、年賀状ぐらいしかなかったので・・・)、たいして不便を感じてはいなかったのだが、親父のことがあったりしたものだから、思い切ってエプソンの新しいプリンターを買ってしまった。偶然なのだが、友人のしゃあさんと、職場の後輩「らぶりーO本」も同じ機種を購入した。

うーん・・・。やはりこれもLet’s散財の感は否めないなぁ・・・。



11月24日(水)

きのうついにシンクパッド600(初号機)のOSを再インストールした。今年の夏頃から、メモリーの競合が頻繁に起きたりしていたのだが、先日PHS用のデータカードをインストールしたら、どうもうまくいかない。仕方がないから、手動でIRQを割り振りしたりしたのだが、どうもいかん。ええい!ならばいっそ・・・、ということで、リカバリーディスクなるものを使用してリセットしたのであった。

いや〜、昔に比べればOSの再インストールもずいぶん楽になったもんだ。メッセージ毎にほいほい進んでいく。昔もっていた755CDV(零号機)などは本当に面倒だった。

実はこの600、まだホームページビルダーをインストールしていない。この日記は昼休みに職場においてある弐号機(770E)で書いてます。PHSで繋げてアップロードできるのだが、うちのプロバ、まだPHSは32Kしか対応していないんだよな・・・。

近日中には600も完全仕様となるのでもうすこしの辛抱だ。



11月17日(水)

先週からの風邪が、この月曜にとうとう噴火してしまい、月曜日は休んでしまった。とにかく咳が出る。きのうも職場で電話に出ている最中に激しくせき込んでしまい、電話の相手の人に「だいじょうぶですか?」などと心配されてしまった。きょうはきのうに比べるとだいぶ咳も収まって来たのだが、それでもときどきゴホゴホとなってしまう。幸い熱も下がったので、明後日の親父の四十九日はなんとかなりそうだ。

ところでご存知だと思いますが、緒方さんの連載第九話、15日にUPしてます。

そういえば、エヴァ手話ってどうなったんだろう?誰か知ってます?(笑)

私信

緒方さんへ

や、その質問はしてはいけません(爆笑)



11月13日(土)

おととい、東京で映画監督などというヤクザな仕事をやっている友人が帰って来た。昨日の金曜日、彼の出身校で創立80周年だかの記念式典があり、記念講演をすることになったのだそうだ。で、今日は二人で出かけることがあったのだが、その時のこと。

たまたまお昼になったので、なにか食べようか?ということになった。実は彼は、肉も魚も食えない(笑)。

私「なー。昼飯なにを食べようか?」

彼「うどんでもいいよ。」

私『それはうどんが食べたいということだな・・・。』「おっけー」

かくして、国道沿いのとあるうどん屋へと、わたしたちは入っていった。中にはかなりのお客さんがいたが、幸いにも二人分の席が空いていた。

すると、座った席の隣では、高校生の女の子が二人座っている。

瞬間、私が思ったこと・・・。

『あ。どうしよう・・・。もし、こいつの正体がバレて(バレると言っても、べつに変装しているわけではないのだが・・・)『あ〜〜〜!!●●カントクじゃ〜ね〜〜〜!!サインしてもらおうや〜〜!!』とか言いながら大騒ぎになったらどうしよ〜〜!!』

などと心配したのだが、どうやら女の子たちは彼のことなど知らないらしく、美味しそうにうどんをすすっていた。幸い宇部市からはすこし離れた町だったし、某アニメを放送した某TV局の放送は入らない地域だったので事無きを得た、というところ。

いや、有名人と一緒に行動するのも疲れるということを再認識した一日だった・・・。



11月10日(水)きゃっち あ こーるど

う〜〜〜〜。のどが痛い〜〜〜。鼻水でる〜〜〜。熱っぽい〜〜〜。

でもKJさんのは更新しておこう・・・。

明日から、庁内の手話講習会が始るです・・・。


11月8日(月)今日のレインボー♪

じゃーんじゃーんじゃーじゃじゃじゃじゃーじゃーんじゃーんじゃーん♪

いきなりオーバーザレインボーで始る今日の日記。え?そんなこといったてじゃーんだけじゃ、わかるわけねーだろって?そりゃそーだけどさー・・・。いや、いまニュースステーションでこのあいだのサッカーオリンピック予選のことをやってるんだけど、「今日のレインボー」というコーナーがあって、そのオープニングにかかっている曲、これがオーバーザレインボー(アスカが乗って来た空母じゃなくて、「オズの魔法使い」でドロシーが歌うやつ)なんだが、演奏しているのはレインボー。初来日の時のライブ版だ。え?そんなバンドしらん?なんちゅうことを・・・。

レインボーというのは、もういまから20年以上も前になるが、ディープパープルを脱退したリッチーブラックモアが元エルフのロニー・ジェームス・ディオとともに結成したハードロックバンドなのだ。このバンドはその後メンバーチェンジを繰り返し、80年代後期頃まで活動をしていた。ディオはレインボーを離れてからはブラックサバスを経て自らのバンド「ディオ」を結成。ドラムのコージーパウエルは、MSGやホワイトスネイク、EL&Pを経て一時期はサバスでドラムを叩いていたが、昨年4月自動車事故で他界してしまった。

ちなみに以前わしがNo Fear!に投稿した「命の価値は:外伝 Catch the Rainbow」は、このレインボーの同名曲からインスパイアされたものだ。自分でも気に入っている作品なのでいっぺん読んでみそ。読んでから泣くぞ。

んで、きょう言いたかったこと。

ニュースステーションのスタッフには絶対にオールドハードロックファンがいる!!

だからなんだ?というツッコミは却下だ。

さて、今週の金曜日は親父の納骨だ。


11月3日(水)リリンの生んだ文化の日>去年もそう書いただろう?君は・・・)

緒方さんから当HP開設2周年の記念SSをいただきました。早速UPしましたのでお楽しみください。

最近色々とあって停滞気味です。すまんです。でもきっとだいじょうぶ。なんとかなるよ!>しもまきさんネタ


11月1日(月)霜月突入

いまニュースステーションで沖縄の様子を写しているがレポーターはまだ半袖だ。うらやましい・・・。

さて、昨日を持ってエヴァSSサイトの更新チェックHPのうち『Going Round EvaSS』が終了となった。管理者のなーくさんはマスターへの道に専念されるそうだ。がんばっていただきたい。いままでお世話になりました(ぺこり)。


10月18日(月)秋の日は釣瓶落し・・・

釣瓶とは・・・。井戸から水をくみ上げるための装置なのよ、takeo君。ほら、木で出来た桶が綱で結んであるでしょう。これで滑車を介して井戸の水をくみ上げるの。ほら、試しに手を放してご覧なさい。勢いよく井戸の底に桶が落ちていくでしょう。つまり秋の日はこのくらい日暮れが早くやって来るというたとえなのよ。わかった?>by似非金髪科学者

きょうはこれだけ(笑)



10月17日(日)

さすがにこの頃は、寒さを感じるようになった。なんだか夏を飛び越していきなり冬真近というかんじだ。

ところで、来週の日曜日24日はいよいよNHKの『課外授業・ようこそセンパイ:庵野秀明編』が放送される。宇部市では、市の広報誌までがこのことを取り上げている。わしのまわりでも、「24日はゼッタイ見るからね!」とか、「ビデオに撮らなくちゃ!」とか騒いでいる人たちが多い。わしはそんな人たちに、「必ず17日の予告編から見るように!!」とお願いした。

と言うのはこの「ようこそセンパイ」だが、わしは実は『予告編』が大好きなのだ。この予告編というのは、次回の放送も必ず見てもらうためにネタバレに成らない程度にギリギリの内容紹介をしなくてはならない。その構成は非常に微妙且つ大胆さが求められる。この「ようこそセンパイ」の予告編は創さん的には非常に好ましい仕上がりになっていると思う。いままでは時々しかこの番組は見なかったのだが、庵野ちゃんの出演が決まって以来、毎週見るようになった。その中でも本編よりも、予告編の方を毎週楽しみにしている。

今日17日の放送は、ラグビーの元日本代表大八木選手だった。しかし来週の予告編では庵野ちゃんが登場するのだ。本編もしっかり見てはいたのだが、やはり心は予告編の方を待ちかねていた(汗)。

問題のその予告編。いきなり電車の中で庵野秀明が突っ立っていた(笑)。ちなみにこの電車は宇部線だ。「てっちゃん」と呼ばれる人たち(例えば、ぺんぺんの常連、まなさん)は涙を流して見た事だろう。ところでこの電車のシーンでも解るように、製作側はやはり『エヴァンゲリオンの庵野秀明監督』ということを意識している。教室の黒板にもエヴァのポスターが張りまくってあったし、教卓のうえには初号機と弐号機のモデルが置いてあった。

「ようこそセンパイ」は、NHKの外注で、『NHKエンタープライズ』と『テレコムスタッフ』という製作会社が作っている。庵野編はテレコムスタッフの製作だ。先日、宇部市でロケがあったとき、わしらSHADOは庵野ちゃんと共にスタッフの方々と夕食会をやった。色々と裏話を聞く事が出来たので、その一部を紹介しよう。

まず、企画の段階で、『庵野監督にどんな授業をやってもらうか?』ということは、スタッフと庵野ちゃんもかなり議論を繰り返したらしい。まず、庵野ちゃん自身がなにをやったら良いのか掴めない。これは今日の予告編でも少し本人が触れていたね。中には子供たちに、『君は地球を護れるか?!』という事を考えさせようという案もあったそうだ(実は創さんはぜひこのテーマでやるようにスタッフにお願いした(笑))。

つぎにNHKといえば、やはり『不思議の海のナディア』だと思ったのだが、これはNHK自身の意見で、『ナディアに拘る必要無し』とテレコムスタッフに言って来たとの事。したがって先に書いたようにエヴァ全開となったらしい。やはり庵野秀明が世の中に認知されたのはエヴァンゲリオンだしね。おかげでわしもこんなHPを作る事になったのだが・・・。

もうひとつ番外編。スタッフの中に女の子(AD)が居たのだが、なんとあの天気予報の森田さんの娘さんなのだそうだ。

このときの模様は、喫茶SHADOのHPでも紹介しているのでみるよろし。(食ってなんぼのディレクトリ。キーワードは「豆腐」)

ところで、このロケの様子はNHK山口で取材するだろうと思ってテレビのニュースをチェックしていたのだが、とうとう放送される事はなかった。その理由は先日明らかになった。

ついでに番外編ぱーと2。金曜日の夕方、NHK山口の記者の女の子に庁内であった。彼女に「ようこそセンパイ」の事を話したところ、このようにいっていた。まず、事前に東京のNHKからはなにも情報が入ってこなかったという事。直前に別ルート(たぶん宇部市の広報課)から情報が入り、彼女(宇部の駐在員なので)が山口局に問い合わせたところ、「(東京からは)話も何も聞いていないんだから取材の必要無し。」といわれたそうだ。こんなところで妙なセクト主義をだすところが田舎者の典型だな。

とにかく来週はみんなでTVを見る事!!



10月13日(水)

「日向君、お願いがあるの・・・。」

「なんですか?葛城さん。」

「ちょっちわるいけど今週の土曜と日曜日、あたしとリツコとマヤちゃん、福岡に出張になったから。」

「はあ・・・。かまいませんが、何事ですか?」

「ん?ちょっちね(汗)。じゃ、そゆことでこれからリツコと打ち合わせがあるから。」

すたすたすたすた・・・・・・・・・

「なあ、シゲル。葛城さんたちのこと、何か知ってるか?」

「いや。おれも何も聞いてはいないぞ。それより、そろそろMAGIの定期保守の時間だ。」

「お、了解了解。ん?・・・なんだ?」

「どうしたマコト?」

「いや、たいしたことじゃないんだが、さっきからMAGIが頻繁に一般回線にアクセスしてるんだ。」

「一般回線?どういうことだ?」

「わからん。これを見てくれ。九州地区へのアクセスばかりなんだ。」



そのころ第二発令所では、3人の美女が必死になって日本シリーズ第1戦のチケットを手に入れるため、MAGIを使って●ーソンに電話をかけまくっていた・・・。

世はすべて事もなし・・・。



10月12日(火)

職場に完全復活しました。きょうは緒方さんから連載の第8話をいただいたのでさっそくUPします。それにしても、緒方さんの執筆ペースは順調ですな。某所にもHIT記念小説がUPされていたけど・・・。見習わなくてわ。

しもまきさんへ

新しい職場、なかなか大変そうですね。お体を壊さないように。ところでしもまきさんとこの2222HITいただきました。

さあ、明日もまた仕事なのでここらで寝るです。くう・・・



10月11日(月)A CHI CHI A CHI

昔から日本のポップス界では、洋楽の歌に日本語の歌詞を付けて歌うという事が頻繁にある。ふるくは戦後のロカビリーの時代からだ。最近で有名なのは、郷ひろみの例の『♪あっちっち〜♪』だな。まあ、ゲリラライヴ事件などもあったが、そこそこ売れているようだ。

しかしこの和製ポップス、元歌を知っているぶんには非常に聴きづらい。逆に日本版を先に聞いていて、あとから本家の歌を聴くぶんには別に違和感なく聞く事が出来るのだから面白いものだ。創さんの場合だけなのかもしれないけどね。

この郷ひろみのあっちっちは、はっきりいって耳障りだ。なのにそこら中でかかってるんだよなー。そういえば、過去に西条秀樹もグラハム・ボネットのナイトゲームを歌っていたし、としちゃんだかマッチもショーン・キャシディの歌を歌ってたなあ・・・(お、お、おオーナイトローングってやつ)。まあ、いいんだけどね。

あ、もう一つ思い出した。なんだか青春ドラマか何かの主題歌が、ボン・ジョビの『RUNAWAY(日本語ヴァージョン。女の子が歌っていた。)』だったな。


10月10日(日)2周年記念

ついにこのHPも、開設2周年を迎えるに至った。いちおー、いろいろと2周年ネタは考えていたのだが、9月からこっち下記のような事情で間に合わなかった。親父の初七日も終わったのだが、いまだドタバタは続いている。そのうちなにかネタはUPするつもりだけど・・・。どっちにしても年末年始もワイワイやるわけにはいかないので、その分じっくりと書けるといいなあ・・・。

ところで、おとといの金曜日、ひさしぶりに手話サークルに顔を出した。サークルや聴覚障害者福祉協会からも葬儀には来ていただいたので、そのお礼も兼ねてというところ。その時の出来事だ。

いま、サークルにスリランカからの留学生が見学に来ている。名前は忘れた(スマン)。サークルの例会が始ってしばらく経った頃、ひとりのおっさんがカメラを携えて部屋に入って来た。一目で新聞記者と分かる格好だ。いきなりパチパチと写真を撮り始める。「どこの新聞社だろう?なんの取材だろう?」と思って、受付の女の子(うちは会員が多く、サークルの時には受付を作って参加者の確認やいろいろな連絡事項の資料を渡したりしている。)に聞いたところ、「さあ・・・。なにも聞いていませんけど。よくしりません。」とのたまった。

おっさんは、相も変わらず写真を撮りつづけている。それも件の留学生の写真だ。わしは、呆気に取られてしまった。いったい何者かわからないおっさんを、何の疑いもせずに例会の部屋で写真を撮らせている受付にも驚いたが、おっさんもおっさんだ。一言自分が何者であるか、受付に断るのが人間の常識ってもんだろう。幸い、同じことに気が付いた別の年配の会員が、すぐに会長に報告したため以後は会長がそのおっさんに応対したので、最終的には問題はなかったのだが・・・。

結局おっさんは3大新聞社のなかのある会社(プロ野球よりも高校野球に関わりが深い新聞社)の地元駐在員で、手話の勉強をしている留学生がいると聞いて取材にやって来たらしい。この際だからはっきり言う。

わしはこういうカンジの新聞記者がだいっ嫌いだ!

よく居るんだよ、年配の新聞記者には。いかにも『取材に来てやったぞ』って雰囲気の、どんなところでも自分は顔パスで入れると錯覚しているバカ親父がさ。妙なジャーナリズム絶対主義で、自分が正義の使者だと勘違いしている奴。

別にお伺いを立ててからでないと取材お断りなどと言ってるわけじゃない。ジョーシキってもんがあるだろーが・・・。おまけに外国人を取材するんだろ?勝手にカメラ向けてエチケットの事とか・・・、考えた事も無いんだろうな、この親父は。

ほんとはね、わしはすぐに文句を言ってやろうと思ったんだよ。しかし、創さん的にはいまはサークルはほとんど顔を出していないし、もしかするとわしの勘違いかもしれないって思ったからね。すぐには行動しなかったんだ。でも昔サークルの事務局長を数年間やったわしには、なんとも信じられない出来事だった。



10月6日(水)

親父の葬儀の後、3日間仕事を休んだ。一応明日からは職場に復帰の予定。しかし人間一人この世からいなくなるということは、いろいろと手続が要るものだ。普段窓口でそういった応対をする時には気がつかないが、いざ自分がその立場になるとその事が良く分かった。いまはパソコンを使って葬儀の時に参列いただいた人たちのデータベースを作っている。これから初七日、四十九日、初盆、一周忌と迎えるにあたり必ず必要になってくるだろうからね。

さて、その葬儀についてだが、今回は本当にたくさんの人達のお世話になった。親族や、親父の仕事の関係の人達はもちろんだが、創さん的にはまずSHADOのみんな、そして職場のみんなに随分助けられた。通夜の時には創さんと義弟が葬儀場に泊まり込んだのだが、フルタニ氏は夜中の0時過ぎまで付合ってくれた。スイケンとマスターはみんなに連絡してくれたし、サムは広島から駆けつけてくれて、親父の棺桶も担いでくれた。受付では職場のF田(仮名)をはじめ、らぶりーO本や、新婚Dちゃんが応対してくれた。せっかくの休日だったのにね。

閑話休題

大勢の方から、『元気出しなさいよ』とか『さびしくなるけど、しっかりな』とか声をかけていただいた。確かに親父が死んだことは寂しいことではあるのだが、はっきりいって落ち込んではいない。むしろ落ち込んでいたのは、一昨年の親父の手術前の方がひどかった。手術そのものは成功だったけど、いまから考えれば、そのころからこのたびの事は覚悟していたと思う。だから直接親父の死で落ち込んではいないんだ。まあ、もうすこしして時間が経つとまた変ってくるのかもしれないけれどね。ってことでわたしは元気ですからご心配なく。


10月3日(日)父死す

昨日、10月2日親父が死んだ。

一昨年、肺ガンを宣告され、左肺の半分を切除した父だったが、手術後は主治医の先生もびっくりするぐらいの回復ぶりだった。その後は定期的に検査に大学病院へ通っていたのだが、今年の春頃身体に異変が生じた。いわゆる再発というやつだ。それからは放射線による治療が続いた。

そして今年の夏休み。山梨から帰省して来た孫を引き連れて、秋芳洞や牧場を回ったりしていた父が盆をすぎて孫達が帰っていった頃、体の不調を訴えるようになった。微熱が下がらず、ものが食べられなくなった。9月に入っていちど家の隣町の病院(もともとかかりつけの病院。肺ガンの手術のときにもここで紹介状を書いてもらった。)で診てもらい、その後13日に入院することになった。

それからは、やはり少しづつではあったが、体力が日増しに衰え、夜は呼吸困難に悩まされる回数が増えて来た。それでも生来の気性から、苦しいことは人には言わず(後から聞くと、母にだけは素直に言っていたようだった。)、見舞いのお客が来ると、ニコニコしながら応対していた。そして10月1日の夜には、山梨から妹が子供を連れて帰って来たが、そのときにも笑顔で出迎えていた。さすがにこの頃は、もっても今月いっぱいは無理か?とも感じるようになったその矢先、2日の早朝、病院から連絡を受けて駆けつけると、ベッドのうえには両手を組んで、二度と開くことの無い目を瞑った親父の姿があった。結局家族は死に目には会えなかった。

主治医の先生が発見した時には、親父はベッドの下に座り、ベッドにうつ伏せになるように寄りかかったまま事切れていたらしい。母は、「おとうさんは苦しくなるといつもこの格好になっていた。」といっていた。たぶん夕べも苦しくなって、いつもの格好になったところが、心臓がそのまま止まってしまったようだ。死亡時間は朝の6時30分と告げられた。

あっけない死。いや、ほんとうは親父にとっては命の炎が消えるまでは、ものすごく苦しんだのかもしれない。しかし、そのことを家族はおろか、病院の人達にも知られずにひとりでさっさと逝ってしまった。最期までエエカッコしいの親父らしい死に様だ。

死に顔は本当に眠っているかのような、耳をすませば寝息が聞こえてきそうなほどおだやかな死に顔だった。

10月31日の66歳の誕生日は迎えられなかった。



10月1日(金)

もうすぐこのHPも2周年を迎える。ということに先日気がついた。

普通は2周年記念のいろいろな企画を考えるところだろうが、はっきりいって何にも考えてない。

コンテンツも停滞してるしなあ・・・。いちおー少しづつは書いているんだけどなあ・・・。

それにしても最近、物騒なことが多発する。山口県のような田舎町でも通り魔事件が起きたり、茨城県では放射能漏れときたもんだ。この事件で気になったのは、事故現場の作業員だけでなく、救助に向かった消防隊員までもが被ばくしてしまったということだ。こういう言い方は大変失礼だとは思うが、東海村の人々は放射能と常に隣り合わせで生活している。その中で消防のレスキューの装備にはそういった関係の装備は必ず準備してあったはずだ。それが救助隊員が被ばくするということはそのシステムの中のどこかに欠陥があったのではないか。事故の起きた会社は、正確に救助隊員に放射能漏れによる事故であるということを最初の通報のときに伝えていたのか。連絡を受けたとき、消防署は事故の詳細をどこまで正確につかんでいたのか。はたして事故を起こした会社は、消防署のレスキューの装備でコトが済むとでも思っていたのだろうか。カンぐる事しかできないが、このたびの事件はあまりにも不用意さが重なってしまったとしか言いようが無いように思う。住民の避難を告げる村や自治体の広報車を運転している職員は、どのような状態で回って歩いたのか?相変わらず政府に情報が入るまでは時間がかかるし、自衛隊への災害出動の要請も事故が起きてから1時間も経った後だという。

来年はセカンドインパクトが起きるんだぞ!!

危機は常に身近にある。


しもまきさん

新天地での活躍。>月並みな言葉だな<応援してます(ふれーふれー!!)