家族のお出かけ日記

05/8/28更新

倉敷市周辺のファミリー向けお出かけポイントを紹介していこうと思っています。

「ご意見ご感想」または「おすすめ情報」をご存じの方はメールください.待っています.

このページは、下に行くほど日付の古い記事になります。最近日本史に凝っていまして、色々な史跡を見て歩いています。

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99/8/21-22(福井県白峰村;恐竜パーク〜岐阜県白川郷;合掌造り)

 現在、我が家の子供たちの興味の的である恐竜と、約10年前一人で訪れた世界遺産ともなっている岐阜県白川郷の合掌造りの民宿宿泊の旅へ行ってきました。(ラッキーなことに、夏休みに入ってからでも宿泊がとれたよ(^^;

 福井県白峰村にある手取湖は知る人ぞ知る(といっても私は恐竜マニアでも何でもないのですが)、恐竜の化石に関して日本の中心的場所です。なんといってもお隣りの福井県勝山市では来年夏に「恐竜EXPO」が開催されるようです。

 週末をフルに利用するために土曜日の朝4時半に倉敷を出発。山陽道を東へひた走ります。混雑が予想される大阪〜京都を早めに抜けるのがねらいです。神戸辺りで明るくなってきて、なんと交通情報で和歌山では地震のため、高速道路(正確には、高速道路から続く有料道路)が通行止めとなったとのことです。(いやな予感)でも山陽道〜名神は問題なしでした。近畿道が名神に合流してくるあたりから、車が増えます。まだ7時前ですよ!!三車線なので流れてはいますが、すいすいという感じではありません。7時ごろ大津出口SAで休憩&朝食としました。朝霧に少し霞んだ琵琶湖を眺めながら、なぜかそこに設置してある鉄棒に順番にぶら下がります。ストレッチにはいいですね。7時半頃大津出口SAを出発。少し走るとやはり京都から離れたせいか、車も少なくなり走り易くなりました。米原ジャンクションから北陸道へ。福井北インターまで走ります。しかしかなりかかります。インターを下りたのは9時過ぎでした。

 まずは勝山市を抜けて白峰村を目指します。ガソリンスタンドも少なくなるだろうからと福井市内でガソリンを補給。勝山市方面へは徐々に上り坂になっているのが感じられます。さまざまなスキー場の案内板が。道路中央には雪を溶かすための温水噴出口が設置されています。雪国である事が端々に見られます。10時をかなり回った頃、ようやく白山恐竜パーク白峰到着です。手取湖を見下ろす少し高い所に恐竜パークはありました。国道から少しばかりくねくね道を上がるのですが、途中に恐竜の卵や恐竜をモディファイした可愛らしいキャラクターが出迎えてくれます。道路にはわざわざ恐竜の足跡が描いてあり気分も徐々に盛り上がってきます。

 展示物は恐竜の骨の模型や化石で、その展示場では雰囲気を出すために恐竜のおどろおどろしい鳴き声が流れています。白峰村の紹介もこのパークの役割の一つのようで、短い映画の見られる場所では、白峰村の四季の様子が放映されていました。

 一番の期待は、発掘パークでの実際の化石発見体験です。化石が含まれているはずの石がばらまいてあるだけですが、発見したものは各自一つまで持ち帰りできます。(ただし学術的に貴重なものは駄目だそうです。)発掘パークの入り口で金槌と飛び散った石の破片から目を守るためのゴーグルが貸してもらえます。驚いた事に急に雨が降り出しました。ここについたときは嫌になるくらい太陽が照りつけていたのですが、山の天気は変わりやすいのでしょうか。それもパラパラでなくどしゃ降りです。発掘パークの所々に屋根が少しあるのですが、みんな耐え切れず建物の方へ非難してしまうほどの降り様です。来る途中神戸〜大阪の辺りで雨だったのですが、米原から北では降っていなかったのでノーケアでした。しかし強い雨は10分ほどだったでしょうか。小降りになったところで発掘再開です。化石なんかそう簡単に見つからないだろうと思っていましたが、ソテツとイチョウを発見しました。12時過ぎになったため、テーマパーク内の軽食コーナーで白峰うどん(特性のきのこの風味で味わう素朴なうどん。これがシンプルな味で美味しい。薬味に小皿にねぎが入って出てくるが、これは絶対に入れない方がいい。)と売店で買った栃餅(映像のコーナーでの白峰村の紹介で実にうまそうだった)で昼食を摂ります。天気が良ければ恐竜をかたどったアスレチックなどが野外にあるため、そこで遊ぶ予定だったのですが、早めに白山スーパー林道を通って白川郷へ向かう事にしました。

 白山スーパー林道は昭和63年に整備されて一般に開放されたようですので、以前通ったときは開通して間もない頃だった様です。通行料は少し高めですが、帰路も通らないとかなり遠回りになるので往復で購入しました(かなりお得になります)。雨は先程のようなどしゃ降りではないのですが、断続的に続きます。途中でいくつも落差の大きい滝がありますが、車窓から眺めるのみにして明日の天気を期待します。岐阜県に入る少し手前で白山連峰が望めるビューポイントがありましたが、残念ながらここも雨のせいでまったく白山は見えません。白川郷の荻町を目指します。以前確か荻町側の白山スーパー林道を入った所に、合掌集落が箱庭のように見える絶好のポイントがあったはず。記憶をたどりながら近くになるとゆっくり車を走らせます。ありました、ありました。白川郷に近づくにつれて天候も良くなり、日も射してきました。ようやく家族で記念撮影です。

 やっと荻町の集落に入りました。見覚えのある光景です。観光客も多いですね。集落の中央辺りにある観光用駐車場は満車です。お世話になる民宿「きどや」さんの場所を駐車場のおじさんに尋ねて無事到着しました。午後4時を回った所でしょうか。お風呂(きどやさん自慢の総桧風呂!!)は5時からとのことなので、少し散歩する事にしました。町の中央を通っている国道(といってもセンターラインはない程度の幅)の両側に並んでいるお土産物屋さんを見て回ります。この度の目的の一つに、この辺りの民話に出てくる(だったと思う(^^;)サルのお化け「さるぼぼ」のマスコットの購入がありまして、いくつかお店を見て回ります。可愛いのが見つかり、家族みんな大満足。もう一つは、地元のお酒(飛騨高原ビール)を買いました。少し路地を入ると合掌造りの民家と水田ばかりです。水田用の用水路が間を縫う様にして走っています。なんとその用水路に大きな魚が行ったりきたりしています。私には種類は良く分かりませんでしたが、どうも鱒のようです。きっと水がきれいなのでしょう。

 もう少し早く到着できたら、少し南に行った所にある大白川ダムのほとりの露天風呂(以前きた時に入って良かったので・・・当然混浴です(^^;。しかしダムのすぐ側にあり、ダムの方側には何も囲いがなく女性は入りにくい感じですが開放感は最高です。ちなみに以前入ったときは、たった一人でした。)に入りに行こうと思ったのですが、ちょっと断念しました。あとで民宿の方に聞いたのですが、以前私が入った頃が出来たばかりで、その頃より大分良くなっているようです。次回(いつになるか解りませんが(^^;)ぜひ訪れてみたい場所です。

 5時には早速お風呂に入り6時から夕食です。名古屋が近いからでしょうか、みそ焼きも出てきました。川魚(ヤマメかな)の焼いたもの、あと山菜を使った料理がたくさん出てきました。他の宿泊客は小学生くらいの子供が二人いる家族だけでした。最近は民宿よりもペンション、ペンションよりもホテル、といった傾向なのかな。そこの民宿にはうちと同じような年齢構成の子供たちがいました。子供たちはすぐに仲良くなって遊び始め楽しかったようです。夜は9時ごろ早々と床に就きました。朝早かったせいか、子供たちも親もぐっすり眠りました。

 少し曇っていましたが、さわやかな朝です。帰宅にどれほど時間がかかるか解らないので、早めに出発です。9時過ぎには荷物を積み込んで白山スーパー林道を引き返します。県境を越え福井県に入る頃、やはり雲の多い天候です。高度が高くなるにつれて雲が下に見えてきます。やはり白山連峰は雲にはばまれて拝む事ができず、何ヶ所か滝の前で記念写真を取って勝山へ向かいました。帰路は日中の京都・大阪を避けたかったので、事前に計画していたように敦賀から舞鶴を通り時間があれば天橋立を見て帰るという、少し無謀かもしれない計画です。福井北から敦賀まで高速に、そこから国道27号を西へ向かいます。しかし小浜あたりで午後1時となりました。そこで昼食、時間的にも天橋立は無理そうです。明日もあることだし舞鶴自動車道にのって帰りました。少し強行軍でしたが楽しい旅行でした。

99/5/15-16)早良親王を訪ねて

平城京から長岡京、そして平安京へと遷都されるなかで、桓武天皇の策略で悲運の死を遂げ、そしてその後も怨霊として後世に影響を与えた人です(平安遷都の大きな理由とも考えられています)。淡路島へ流される途中、自ら食を断ち憤死しましたが、そのご遺体は淡路島に葬られているとあります。しかし色々調べましたが早良親王が淡路島のどこに葬られているのか(どこかの寺だと思うのですが)、なかなか記載がありません。とりあえず淡路島へ行ってみればなんとかなるだろうと思い、急遽行ってみることにしました(ラッキーなことに子連れ歓迎のペンションも直前にとれたよ)。

土曜の午後出発。ペンションは津名一宮ICの近くなので、時間の関係もあり明石大橋から淡路島へ入ることにしました。どこかの寺へ行けば何か情報があるかなと考え、淡路ICより降りて本福寺へ。これがまた全然寺臭くないモダンな本堂のお寺です。コンクリート作りなのですが、本堂の屋根に当たる部分に池が造ってあります。有名な建築家(安藤忠雄)の作品だそうです。運の悪い?ことにちょうどお茶会が催されていて、受付に女の人がいます。できればちょっと住職さんにお話を聞いて・・・と思っていたんですが。受付に方に事情を話すと奥で聞いてきて下さいましたが、解らないということでした。岩屋の方の道の駅で各町の情報が見られるので行ってみたらとアドバイスを受け、行ってみましたが一般の観光案内だけでした。どうも手がかりはなさそうなので、開鏡観音寺、観音寺などを訪ねて北淡の方を回りながら見かけたお寺に行ってみましたが手がかりなし。生福寺という看板を見かけ、これを最後にしようと話しながら行ってみることにしました。が、どこで道を間違えたのか迷ってしまった。しかし常隆寺という看板を発見。そういえばキャンプ場などが近くにあるお寺です。かなり山を登らなければなりませんが、だめもとで行ってみることにしました。かなり急で狭い道を10分ばかり走ったでしょうか。常隆寺が見えてきました。入り口の看板に「桓武天皇が・・・」と書かれているではありませんか。ひょっとして?と、急いで車を停めて見に行きます。早良親王のことも書かれています。偶然とはいえラッキーでした。お寺の方と思われるおばあさんがおられたので、「早良親王のお墓へ参りに来たのですが・・・」と告げるとたいそう驚かれました。常隆寺は実際に桓武天皇の勅願寺として早良親王の魂鎮めの行われたところだが、お墓はここにはなく少し離れたところにあるとのこと。住職さんらしき人を呼ばれて詳しく地図を書いて頂きました。山を車で5分ばかり降りた「仁井」というところにあるようです。(詳しくは別に地図を掲載;仁井小学校の裏の辺りです。実際に行かれる場合は、常隆寺で尋ねられるか、仁井小学校の付近で尋ねられると良いでしょう。)教えて頂いた通りの場所に、ありました早良親王の御陵。しかしあまりにみすぼらしく、社も荒れ放題で(本来なら宮内庁管理でも良さそうなものですが)本当にかわいそうなくらいです。見た感じは神社の形態をとっているようです。目の前に池があり、早良池と呼ばれているようです。まだ明るいうちにお参り出来て良かった。どうにかペンションにも6時にチェックインできました。

翌日は、南の方へ回って「淡路島牧場」でバター作り体験、その後、淳仁天皇陵へ。中が見学できるかと思ったのですが、宮内庁管理の看板と共に立入禁止となっていました。周りにはお堀がめぐらされ、その周囲はのどかな田園風景でした。この時期はタマネギ畑が広がっていました。最後に鳴門の渦潮観光をして大鳴門橋を渡って帰りました。徳島−高松間の国道11号沿いでおいしそうなさざえを売っていたので衝動買い。その日の晩は、さざえの壷焼きで一杯。あ〜、おいしかった。

いつものパターンのわが家の小旅行でした。

資料

早良親王(750-785

天智天皇の孫、光仁天皇の皇子。母、高野新笠は帰化人の子孫。光仁天皇は経歴と時代背景から皇位につけるとは思っていなかったため、二人の皇子(兄;山部親王、後の桓武天皇、弟;早良親王)の将来を考え、兄は官僚の道を、弟は僧侶の道を選ばせた。しかし即位後、光仁天皇は強い希望で早良親王を還俗させ桓武天皇の皇太子となった。早良親王は還俗する前、東大寺運営の主導権を握る立場にあった。天智系である光仁天皇は政権基盤が弱く、そのためにも東大寺を押さえておくことは重要だとの認識があったのであろう。また光仁天皇の皇后には天武系の井上内親王がおり、その子、他戸親王がいた。しかし、山部親王はいずれ自分が天皇に、そして実子の安殿親王に皇位を継承しようと考えていた。そこで光仁天皇の即位に力を尽くした藤原百川と共に井上・他戸母子の追放に成功した。また785923日夜、長岡京造営工事現場で藤原種継(百川の甥)が暗殺された。取り調べの結果、大伴家が早良親王を担いだ謀反であると断定された。早良親王は廃太子させられ、淡路島へ流されることになったが、無実を訴え抗議の断食をし、高瀬橋(淀川の橋)のあたりで憤死。淡路に埋葬される。桓武天皇は実子、安殿親王を皇太子としたが病弱であった。またこの頃、桓武天皇の周囲で不幸が相次いだ。そこで792610日、陰陽師に占わせたところ早良親王の祟りと出る。早速、諸陵頭調使等を淡路国に送って魂鎮めを行うと共に617日、親王の墳墓の周囲に堀をめぐらした(これが早良池か?)。その後、桓武天皇は崩御するまで魂鎮めを精力的に行い、800年には崇道天皇の尊号を追贈し墓を山陵と追称した。また後に八島陵(奈良市)に改葬した。

 

淳仁天皇(在位758-764

実質的には藤原仲麻呂に完全に操られていた天皇。仲麻呂の横暴に対し孝謙太上天皇が対立し、藤原仲麻呂の乱の後、廃帝させられ淡路国の公として淡路島へ流された。翌年、密かに島から脱出を図るが失敗し、翌日に謎の死を遂げたと伝えられている。称徳天皇はこの時諡を与えておらず、「淳仁」は明治になってから政府が与えた諡である。


99/5/3(吉備真備〜吉備寺)

昨日は遅くに帰宅したというのに、天気がいいとつい出掛けてしまいます。今日も以前から気になっていた「吉備真備」にゆかりのある「吉備寺」を訪問です。

インターネットで倉敷の北西の真備町にある事は確認しました。真備在住の人に聞いたところ、看板があるからすぐ解るとのこと。連休中でもありチボリ公園への渋滞を避けるため、山手村から清音村を回ることにしました。途中清音村の地域ふれあいセンターのようなところで、おむすびと朝摘みイチゴを購入して真備へ向かいます。車の中は甘酸っぱいイチゴのにおいでいっぱいです。真備町のかなり西側に「まきび公園」というのがあり、その中に吉備寺と真備記念館がありました。吉備寺の前の庭は芝生が敷きつめられ、池とそのそばに中国風の休憩所があります。中国で長く過ごした真備にちなんだものなのでしょう。右手奥の方に記念碑があり、カタカナの発明にちなんでカタカナ五十音の石碑がありました。記念碑の前で先ほどのおむすびをみんなで食べます。ただのおむすびなのに外で食べると味が違います。食事が終わって、一人で真備記念館に入ってみることにしました(とても子供には不似合いだったので(^^;)。真備の年表、遣唐使に使った船の模型、中国での真備の生活の様子、遣唐使の航路および年表等が展示してあります。兵学の書、六稲の写しも展示してあり、ちゃんと所々にカタカナが使われていました。昨日のこともありますので、今日は早い帰宅を目指し、少しばかりイチゴを摘みながら家路につきました。

資料

吉備真備(695775

吉備の豪族下道国勝の子で第8回(717年)の遣唐留学生に選ばれて、阿部仲麻呂らとともに長安に赴きました。そして19年の間、当時世界最高といわれた中国の様々な文物(政治・軍事・文化・仏教など)を我が国へもたらし奈良時代の諸制度、文化の繁栄に貢献しました。カタカナの発明や囲碁の伝来も真備によるといわれています。

その後、遣唐使(第10752年)として再度中国に渡り、わが国へ初めて律宗を伝えた鑑真とともに帰国しました。ちょうど東大寺大仏が完成し、盛大な開眼供養の儀式が行われた頃です。真備は、東大寺大仏造立にも関わっていたようです。聖武天皇の死後、実際に権力を握ったのは藤原氏の血を引く光明皇后でした(ここにももう一つ事件があります。聖武天皇の後継の最有力候補は正二位左大臣長屋王でした。しかし長屋王は藤原氏とは縁が薄く、政界への藤原氏の影響力の低下を恐れた藤原4兄弟は、729年策謀により長屋王を自刃させました:長屋王の変)。その後藤原氏の中で光明皇后とつながりを深めていた藤原仲麻呂が力をつけ、758年に強引に淳仁天皇を即位させます。藤原仲麻呂は光明皇后より笑美押勝(笑美は「見る度に微笑ましい」という意味))の名を賜ると共に数々の特権を得ていきました。しかし後ろ盾であった光明皇后が亡くなると、淳仁天皇を操り人形のように使う藤原仲麻呂の横暴に、弓削道鏡を参謀に持つ孝謙太上天皇が対立するようになりました。ついに764年、仲麻呂は兵を挙げましたが(藤原仲麻呂の乱)、孝謙太上天皇側が真備の巧みな作戦で勝利を収め、淳仁天皇は廃帝させられ淡路に流され、孝謙太上天皇が再び即位して称徳天皇となりました。真備はその後正二位右大臣まで出世しました。しかしその後の道鏡の政界での動きに危機感を感じはじめた藤原氏が、称徳天皇の崩御に伴い策略で後継に天智天皇系の光仁天皇を即位させると道鏡と共に歴史の表舞台から姿を消しました。


99/5/2(五色台そして開通2日目のしまなみ海道)

今回の連休のメインイベントが、坂出の天皇寺、五色台の白峰寺訪問です。共に悲運の天皇、崇徳天皇にゆかりのあるお寺です。朝は早目に出て宇野港よりフェリーで高松に渡る事にしました。直前のフェリーが出たばかりだったので、車で簡単に朝食をとり8時20分のフェリーに乗りました。以前乗ったときはがらがらでしたが、さすがに連休だけあって車も6−7割の乗車です(でも積み残しはありませんでした)。出港してからたくさんのカモメの群れがついてきます。時々海の上で休みながら、再び飛び出してフェリーを追ってきます。どうやら乗客のなげるお菓子が目当てのようです。

1時間ちょっとで高松につきました。まずは根香寺を目指します。このお寺は白峰寺への途中にあるのでついでという感じでしたが、雰囲気の良いお寺でした。まず入り口の門を入ると石段を降りて新緑の紅葉のトンネルを通ります。暖かい初夏の日差しが緑の葉を通して差し込んでおり、空気が透き通った緑色のように見えます。少しだけ石畳を進むと今度は上りの石段です。本堂に向かう回廊にたくさんの仏様がならべてありました。次の白峰寺に向かう前に五色台スカイラインへ寄り道しました。途中の展望所からは瀬戸大橋が見えるのですが、少し霞んでいました。少しおやつを食べて休憩、白峰寺へ向かいます。お寺への道は坂出側に降りる山道の途中にあります。門を入って正面に護摩堂、左に折れたあと右に本堂への石段を見て直進した所に崇徳天皇を祭った頓証寺があります。お参りした後本堂への石段を登ります。面白い事に干支毎にお参りする場所が異なるらしく、それぞれの場所に干支が記してありました。次は天皇寺を目指します。どうも地図で見ると住宅地の中にあるようで分かるかな。五色台を下りて少し道に迷ったのが返って幸い。思いのほか早く到着しました。駐車スペースも少ないのですが、運良く停める事が出来ました。崇徳天皇にまつわるお話を書いた案内板がないか探し回ってみましたが、見つかりませんでした。残念。

せっかく讃岐にきたんだから、という事でお昼はうどんに決まりです。本当は高松市近辺のお店にしたかったのですが、金刀比羅宮へお参りすることにし、その途中にあるうどんやさんへ入りました。さすがに連休の昼時は多いです。15分ほど待ったでしょうか。早速思い思いのうどんを食べました。金刀比羅さんは多いかなあとびくびく向かいましたが、それほどでもありません。近づいた所で、手招きされるままお土産屋さんの駐車場に停める事になりました。なんせ初めてのお参りなものでこれで良かったのかなあ。聞いていたように石段は長いです。途中ようやく門かなっという所でラムネやジュース、冷やし甘酒を売っています。帰りには飲もうねと話してもうひと頑張り。最後の石段は急でした。上がったところで「お茶の接待」とあります。冷たい麦茶かな?10人くらいが並んでいます。こういうのには弱いんですね。つい私たちも並んで「お茶!!」しかし残念ながらただの水でした。がっくり。しかし眺めは良かったですね。讃岐富士がきれいに見えました。帰りは約束通り、門の所で休憩です。車を停めさせてもらった(っていうか、停めさせられた(^^;)お土産物屋さんでお買い物。さあ帰ろう。

夕方4時過ぎくらいだったでしょうか。「昨日開通したしまなみ海道を通って帰ろう!!」この一言が悪夢の始まりとは知らずに(^^;。善通寺インターから高速に乗り、西へ向かって走ります。「いよ小松〜新居浜 渋滞7km」いやな予感です。「よし一つ手前の、いよ西条で降りて下から行こう」この作戦は成功でした。ちょうど「いよ西条」のインターチェンジから渋滞になっていました。降りてから国道もさけ海岸沿を目指します。東予有料道路を通って国道196号に入ります。後は北西に向かい今治インターから「しまなみ海道」に乗るだけです。伊予桜井の辺りから今治の方へ国道196号のバイパスが出来ています。こちらを走れば、そのままインターに入れそうです。しかしここからが渋滞でした。ちょっと行っては停まり、またちょっと進む、といった具合です。夕方6時を過ぎました。やはり少し道を変えた方が良いな。バイパスと国道の間の県道を走る事にしました。どうにか見当を付けてインター入り口に近い信号からバイパスに戻る事が出来ました。そこからインターに入るまでも大渋滞です。いよ西条でインターを降りた頃は「橋の上で夕日が見れるかも」なんて思っていましたが、インターから入ったのは午後7時ですっかり日も落ちてしまいました。まずは「来島大橋」ライトアップされてきれいです。しかし車は進みません。来島大橋を渡り大島の島内は一般道を走ります。当然ここも大渋滞。大島島内で午後9時を過ぎました。対向車線側も当然大渋滞。そこで対向車の方に何時ごろ尾道から入ったか聞いてみました。「聞いたらびっくりしますよ。午後1時から乗ってます。」本当にびっくりしました。それまで車の中で子供たちは大騒ぎしていましたが、車の中で寝せる事にします。後ろのシートを倒して熟睡体制としました。ようやく大島の北からもう一度自動車道に乗ります。伯方島から大三島へ渡ります。聞いていたラジオも終了しました。上浦パーキングでトイレに行きます。きちんとした駐車スペースには到底停められません。仕方なく出口付近に路上駐車という格好です。用を済ませて合流。これがまた大変です。午前1時をとっくに過ぎてようやく生口島です。ここも島内は一般道です。でもどうやらようやく流れているようです。生口島の北側からもう一度自動車道へ。因島から向島をすぎ、ようやく本州到達です。1時半過ぎにようやく福山西インター、2時半についに帰宅。長い長い一日でした。

資料

崇徳天皇

保元の乱(1156年)にて、すでにこの時上皇であった崇徳上皇は、弟である後白河天皇によって讃岐に流された。崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子ということになっているが、実際は曾祖父にあたる白河法皇の実子という説が有力。このことは当時公然の秘密であったのであろう。鳥羽天皇の譲りをうけて五歳にして即位したが、実際には祖父である白河法皇が実権を握っていた。しかし大治4年(1129年)白河法皇が崩じて鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変。異母弟にあたる鳥羽上皇の第八皇子体仁親王(近衛天皇)が皇太弟となり、二年後(23歳時)には譲位を強要されてわずか二歳の近衛天皇が即位した。つまり崇徳天皇は自分の最愛の子に天皇位を継がせる事は出来なかったのである。そこで当時の反主流派を糾合して政権奪回のクーデターを起こした。これが保元の乱である。

天皇寺(四国第79番札所)

保元の乱で敗れ、讃岐に流された崇徳天皇は1164年崩御された。その時この寺で遺体を21日間八十場の霊水に浸して腐敗を防ぎ、安置したことで知られている。その後白峰寺で荼毘に付された。天皇寺に併設されている神社があり「白峰宮高照院」となっていました。江戸の終わり、明治天皇が大政奉還に先立って崇徳院へ使者を送ったという記録があるようですが、この高照院をさすのでしょうか。敷地内を歩き回ってみましたが、そのような案内板はありませんでしたし、御陵のようなものも見あたりませんでした。

白峰寺(四国第81番札所)

本堂への階段を右に見て直進した所に崇徳天皇を祭った頓証寺がある。荼毘に付されたというのはこのお寺の方なのだろうか。


99/4/29(総社、鬼ノ城の山登り)

ひょんな事から休日となった4・29、かねてから行きたいと思っていた鬼ノ城へ出掛ける事にしました。聞く所によると登るのに30分くらいかかるという事なので、昼前に登頂を開始して頂上でゆっくりお弁当を食べる計画です。天候も快晴、気候もさわやかでぐっと気分が盛り上がる日でした。11時過ぎに倉敷を出発、以前確認しておいた血吸川沿いを上がった所の登頂ポイントに到着しました。ここは登山口の付近に路上駐車しておくらしく、そのスペースは、3〜4台分しかありません。12時前についたとき、2台停まっていてセーフでした。早速登頂開始。最初はなだらかな草地でしたが、10分ほどで徐々に道幅は狭くなり険しい山道となってきました。岩がむき出しの場所、荒土が堆積している上に急斜面な場所(非常に滑りやすい)、水が流れている所など難所の連続です。しかしやまつつじが咲いていたり、鶯やその他の鳥の鳴き声が聞こえたりといい気分です。子供たちが滑って上がれない所もあり、引き返そうかな思った事もありましたが、徐々に高度が増してくると見晴らしが良くなります。頂上に上がると東門のところにたどり着きました。子供たちがいたため、1時間かかりました。ついた所に老年の夫婦が。御主人の方はリュックサックを背負い、奥さんの方も軽快なパンツ姿です。御主人が何やら詳しく門の事や石垣の事などを説明されていました。登ってくるまで誰にも出会わなかったし、やはり古代の歴史なんかに興味もある人しかこないよね、それにしてもうちの子供たちは頑張った、とかなんとか言いながら昼食ポイントを探しに第一展望台の方へ向かいました。

す・る・と、前から赤ちゃんを抱いた人、杖を突いた老人(それもスカート)の人たちが来るではありませんか!どう考えても自分達が登ってきたコースをそのような格好で登ってこれるとは思えません。と、そこに鬼ノ城全体を示した案内板がありました。どうやら登頂コースは2つあるようです。1つは私たちが登ってきた東門へ上がってくるコース、もう一つは西門の付近に上がってくるコースがあるようです。なんか少し失敗したかな、と思いながらも、まずは第一展望台付近で昼食。なんせ頂上の遺跡をぐるりと見て回るには、2時間近くかかるようです(確か一周2.3km)。昼食後、南門から西門の方へと向かいました。現在、各門とその周辺の遺跡の一部が修復されていますが、どうもこの事業も平成6年頃から始まったようです。鬼ノ城の南側を回るコースは眺めが最高です。この日は空気も澄んでいて岡山空港から岡山市内のビル、川崎医大、水島の工場地帯、遠くは讃岐富士まで望む事が出来ました。西門の所で「駐車場まで300m」という看板を発見。整備された砂利道があり、よちよち歩きの子供でも歩いて登っていました。どうも最近になって整備されたもののようです。家にある観光用の雑誌は10年くらい前のものでさすがに載っていませんでした。少し悔しいような・・・。でもなかなかスリリングな山登りが出来て良かったと思う事にしました。少し北の方へ回って帰りましたが、山の頂上というのに湿地帯があったり、水が流れていたりしています。不思議な事ですが、城を構える以上水の供給は重要な事です。所々に軍事目的の水門もあり、そこである程度生活するにも不可欠な条件だったのでしょう。でも「まむしに注意」にはぞっとしました。下山も当然東門付近から帰ります。登るのに苦労した道は、やはり下山の苦労しました。1時間弱はかかったでしょうか。しかし鳥の鳴き声はいいもんだと強がりながら、でも膝はがくがくで下山しました。

帰りに西門下の駐車場を探してみようという事になり、見当を付けて車を走らせます。どうも「砂川公園」の奥の方にあるらしい。砂川公園は、最近整備されたキャンプ場を備えたアウトドア用の施設のようです。この日は大勢の人がバーベキューなどをしていました。公園を超えて奥へ車で5分ほど登った所に駐車場がありました。そこは3台どころではなくたっぷり停められます。

鬼ノ城の奥に岩屋という、これまた山があるようなのですが、そこへ行くときはこちらから行くことにしようと話しました(^^;

帰りにコウモリ塚古墳へ。場所がなかなか分からず、国分尼寺の方から入りました。国分尼寺跡は、うっそうとした森の中にあり車をその付近に止めて歩いて探す事にしました。森はそう続いていなくてすぐに菜の花畑に出ました。畑の間のあぜ道を案内板通りに歩くこと約5分、こんもりとした丘の下の古墳が簡単に見つかりました。石室およびそこへの通路は天井が高く立って歩けます。黒媛や仁徳天皇にまつわる話が書いてあることを期待したのですが、残念ながらありませんでした。

資料 

鬼ノ城

飛鳥時代、天智天皇が白村江の戦い(663年)に敗れて、唐新羅連合軍が日本に攻めてくることを恐れて各地に造らせた防衛のための古代朝鮮式山城のひとつ。天智天皇は都を飛鳥から近江の大津宮へ遷都したことからも分かるように、真剣に日本の存亡の危機を感じていたのであろう。古代朝鮮式山城は北部九州(太宰府周辺)に多く造られているが、中国地方では西から山口県下関市彦島の辺り(長門城)、山口県徳山市の辺り、広島県府中市(常城)、広島県福山市(茨城:「茨」は実際の字はくさかんむりに「欠」という字)、今回訪れた岡山県総社市(鬼ノ城)がある。四国には愛媛県東予市(栄納山)、香川県坂出市(城山城)、香川県高松市屋島(屋島城)、関西では難波の辺り(高安城)が知られている。

唐新羅連合軍に対し日本と同盟を組んだ百済とは、以前より親密な交流があった。吉備国とも繋がりがあったらしく、大陸からの工業技術(製鉄など?)が百済人によってもたらされていた。それにより吉備国の国力は畿内匹敵するほど大きく、古墳時代の中期;4−5世紀には、日本で4番目に大きい造山古墳が造られている。そういった背景がある為、白村江の戦いののち大量の百済の難民が日本、そして吉備国に流れてきたのは容易に想像でき、鬼ノ城および各地に造られた古代朝鮮式山城は百済人の指揮の下に建造されたのであろう。

こうもり塚古墳

5世紀前半の天皇と推定されている仁徳天皇(日本で最大の古墳、底面積では世界一の大阪府堺市の仁徳天皇陵は出土した埴輪の形態などから5世紀中頃の古墳と考えられており、時代的にやや異なり、別の人が葬られている可能性が高い)に、吉備国から黒媛という黒髪の美しい娘が召し出され、大和の宮廷に仕えていた。天皇があまり可愛がるので皇后から妬まれ、とうとう生まれ故郷に帰ってしまった。しかし天皇は恋しさのあまり、淡路に行くと偽って黒媛のもとを訪ね、しばしの逢瀬を楽しんだ。でもやはり天皇は皇后のもとへと帰らなければならない・・・・・。こうもり塚古墳は、この伝説に登場する黒媛の墓と伝えられている。古代の時代は、鬼ノ城の山裾辺りまで海(吉備の穴海)だったそうで、仁徳天皇も船で黒媛のもとまでやってきたのであろう。

こうもり塚古墳は全長100mを超す前方後円墳で、横穴式石室の大きさは全国第4位。古墳名は、発見された時に多くのコウモリがいた事に由来する。


98/10/6(山彦)

皆さん、最近山彦を聞いたことがありますか?先日、子供と話しているうちに、山彦を探しに行こうということになりました。9月のある日曜日、まずは山奥の方へ出かけてみることにしました。何度か行ったことのある新見の奥の大佐山を目指すことに。いつものように高梁川沿いを上流へ向かいます。途中少し険しそうなところで小高いところに上がって「ヤッホー」。でも山彦は聞こえません。とうとう大佐山の山頂に到着しました。電波塔の上で「ヤッホー」。声は響くのですが、いわゆる遅れて聞こえる山彦は聞こえません。その日はとうとう諦めて帰りました。

またしばらくたったある日曜日、川上町の方で山彦が聞こえるという情報を元に、また山の方へ出掛けました。その情報の元は「だってやまびこの里っていうのがあるから」というものです。真備の方から井原、矢掛の方へ向かい、美星を抜けて川上町へ行くルートをとりました。美星から川上町へ抜ける途中、かなり高いところを通ります。下の方に湖が見える小高い場所から、湖の対岸の山へ向かって「ヤッホー」。少し遅れて向こうの方から「ヤッホー」。ついに山彦に会えました。初の我が家の山彦ポイントです。ある人(小さい頃から山彦を聞いて育った)によると、2回、3回と響いてくる山彦もあるとのことですので、是非次回はもっと沢山の山彦を見つけに出掛けるぞ。ちなみに「やまびこの里」は、そういう名前の青年自然の家でした。そこでは残念ながら山彦には会えませんでした。

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