保元から壇ノ浦まで


惟方の役目   2010/ 5/30 15:36 [ No.601 ]
投稿者 : rarara_roadster
神輿振りの多発があったとはいえ、気がつけば投稿数も600。平治の乱も、いよいよ天皇の脱出作戦が秒読みになってきます。

さて、公教が藤原惟方を引き込んだのは、もちろん信頼を孤立化させる作戦の一環なのですが、もうひとつ「惟方が必要な理由」がありました。

二条天皇脱出において大活躍をするのが、「内非蔵人尹明」という人物です。尹明の父親は、二条天皇の春宮学士であった知通という博士の子で、その姉ないしは妹が惟方の妻になっています。愚管抄第五には、「尹明は当時勅勘を受けていて内裏へ上がることもなかったので、人々に面が割れていないだろう」とあり、それ故この大役に選ばれたものと思われます。続いて「内侍ニハ伊与内侍。少輔内侍ノ二人ゾ心得タリケル。」とあるように、二条天皇の脱出に関しては、この三人が中心となって天皇を護りつつ行動したことが伺えます。ちなみに伊与内侍は、のちに六条・高倉天皇の勾当内侍を勤めています。

元木泰雄氏は「惟方は鳥羽院の特別の計らいによって二条天皇側近となった(愚管抄)」という立場から、著書の中で、「惟方は二条側近として天皇の女官も組織していたと思われる」としています。

つまり、信頼の周辺人物を剥がしつつ、二条天皇が安全かつ確実に内裏を脱出できるように天皇の側近中の側近である惟方は、必ず引き込む必要があったと考えられます。
とすると、後白河上皇はどうなんでしょうね?

<余談>

ちょっとブログで遊んでみました。よろしかったらどうぞ(微苦笑)

http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai/14684023.html
メッセージ 600 morikeigetu にさん対する返信


後白河の脱出   2010/ 6/13 22:59 [ No.606 ]
投稿者 : rarara_roadster
<脱出作戦の概要>

・12月25日の昼のうちに女房の乗る車を予め待機させておく。
・夜更けごろ、二条大宮辺りに火災が発生する。
・そこに武士たちが気を取られている隙に天皇を車に乗せて一気に六波羅を目指す。
・到着予定時刻は、丑の刻


<実行の様子>

・夜になると、惟方が院の御書所へやってきて「ソソヤギ申テ出ニケリ」と何かを密かに告げた。
・これを聞いた後白河は直ちに御所を脱出(とがめる者も邪魔するものも無く、スムーズに脱出成功)。
・非蔵人尹明、二条天皇を車に誘導。
・伊与内侍、少輔内侍により御筥宝劔、非蔵人尹明により玄象、鈴鹿、御笛ノハコ、ダイトケイノカラ櫃、日ノ御座ノ御太刀、殿上ノ御倚子などを持ち出す。 


二条天皇と後白河上皇が、別々に内裏を脱出したことは愚管抄や平治物語からも伺えます。平治物語では、源氏の武士、平山季重らが天皇の乗った車の中を検めようとしたり、上皇が殿上人に身をやつして脱出したりとスリリングな場面が描かれていますが、愚管抄ではかなりあっさりと脱出に成功したような記述になっています。

脱出のタイミングについて、元木泰雄氏は「保元・平治の乱を読みなおす」のなかで、上皇は惟方の来訪直後に脱出したとしています。惟方から二条脱出作戦を告げられた後白河は、「ぐずぐずしていたら取り残され、あたかも保元の乱の時の崇徳上皇のように信頼に利用されるだけの存在となってしまうことを恐れた」として、二条に先んじて内裏を脱出したと述べています。

後白河は、白河・鳥羽とは違い、二条天皇があってはじめて「治天の君」たりえる“棚ぼたの君”です。平治物語や愚管抄の中で、脱出の様子が二条に比べてあまりにあっさり描かれているのは、編者の意識の根底にそういった思いが残っていたのかもしれません。

惟方から二条脱出の話を聞いた途端、後白河の脳裏には結果的とはいえ、自分が追い落としてしまった兄の崇徳上皇のことが思い起こされたのではないでしょうか。

(以下後日に続く)
メッセージ 601 rarara_roadster さんに対する返信


後白河の脱出 後編   2010/ 6/20 16:29 [ No.608 ]
投稿者 : rarara_roadster
幼い頃に、祖父だったか父親だったか覚えていないのですが、「暢気な父さん」という歌を歌っていて、

暢気な父さん、お馬の稽古で、馬が走り出して止まらない
父さんどこ行く、「お馬に聞いてくれ〜」

ってな歌詞だったと記憶しています。

平治物語の“『院の御所仁和寺に御幸の事』の「供奉の卿相雲客一人なければ、御馬にまかせて御幸なる」”の部分を読むたびにこの歌詞が頭に浮かんでしまいます(苦笑)。

もう少し後白河の脱出について考えてみたいと思います。

御書所をからくも脱出した後白河。平治物語では仁和寺へと向かいます。これに対し、愚管抄では特にそのような記述はありません。このことについて元木泰雄氏は、「仁和寺に入ったのちに六波羅へと向かった」とし、その理由に、

1.百錬抄にも仁和寺に入ったとある
2.六波羅よりも仁和寺のほうが内裏から近い
3.二条天皇に遅れて六波羅へ到着している

などを挙げています。


そもそも、なぜ、後白河上皇と二条天皇は別々に内裏を脱出することになったのか。
そこに、朝廷の政治構造の様子が現れているのではないかと考えています。

通常、素人の感覚では、天皇・上皇は親子なのだから一緒に脱出するべきじゃないのか?と考えがちで、ずっと以前のわたしは、そのように考えていた時期もあります。

そこで、視点を変えて考えてみたのですが、ポイントは二条天皇とともに、天皇家の重宝を持ち出す様子が詳細に描写されるところにあると思っています。再掲になりますが

、持ち出されたのは、

・三種の神器のうち、「神璽」「宝剣」(伊予内侍・小輔内侍)

・「琵琶の玄像」「和琴の鈴鹿」「御笛」といった天皇家の楽器類
・「大刀契の唐櫃」「昼御座の太刀」「殿上の椅子」(以上、尹明)

などとなっています。また、神鏡は師仲が持ち出し、唐櫃の鍵も内侍たちが確保しています。

これらのことから、尹明らは二条天皇という人物だけでなく、“統治システムとしての天皇”を信頼一味から奪還したことが推察されます。持ち出された重宝は、天皇家の権威の象徴であり、これらを有することが統治者の条件であることは言うまでもありません。逆に言えば、二条のみを連れ出すことに成功しても、信頼が天皇家の重宝を抑えてしまえば、二条は正当な統治者としての権威が欠けた状態になってしまうことになります。

公教らの心痛は正にその事にあったと思われます。従って、後白河のことに優先して考える必要があり、なにがなんでも成功させなければなりません。かといって、信頼が上皇をおさえてかつての保元の乱における藤原頼長のようになることも懸念されます。その意味では、後白河の身の安全も考えなければならない。

そこで、後白河はとりあえず仁和寺に緊急避難させ、※二条を無事に六波羅へ到着させたのちに改めて保護するという作戦だったのではないでしょうか。仁和寺は、六波羅とは反対の方角ですが、皇族の門跡寺院でもあり「緊急避難先」として適切な場所ということを元木氏も指摘しています。

※※いくら後白河が「中継ぎ」とはいえ、暢気な父さんでは余りに可哀想です。

 二条が無事に六波羅へ
※※いくら後白河とはいえ
それぞれ修正
メッセージ 606 rarara_roadster さんに対する返信


二条天皇脱出を科学する(実は幻想)1.   2010/ 7/ 3 22:46 [ No.612 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、二条天皇と後白河上皇の脱出。
ろどすたさんの時系列的解説により、ぐっとリアルになってきました。

私は、当時の出来事を把握するにおいて重要視するのものがあります。
出来事の真偽は当然の事なのですが、次にこだわるのが天候と地形、そして月(お月さま)です。
陰暦の世界で生きている人々の生活に、月の存在は欠かせないと思っています。

さてさて、陰暦12月25日の天候はといえば『百錬抄』においても不明。その他の物語等からも、当日の天候がどうであったかは想定出来ません。
そして陰暦25日の「月」は月齢25前後で、全体の8分の1程度の左側の「月」になるわけですが、その程度の「月」なので「灯り」としての役割は期待出来るものではなく、当日の尹明ら脱出実行者達は真に暗闇の中での必死の行動であったと思われます。
そして、これは何の根拠もありませんが、月齢25前後の「月」の出の時刻を現在の暦などから推定するに、午前1時から3時頃のようです。
明るさもそれほどではなく、まして午前1時から3時という彼らの行動時間とはいえ、その「月」はおそらく東山連峰の影に隠れて見えないものであったでしょう。
加えて陰暦12月は晩冬とはいえ、最も寒さの厳しい時期であったと思います。温暖化や暖冬という言葉に慣れた現代人からは想像も出来ない、凍りつくような寒さの中での脱出劇であったと考えます。
平治元年(1159)12月25日深夜、これが当日の自然環境のセッティングです。

次に当日の当事者達と、持ち出された宝物などの位置を確認します。
『平治物語』の「光頼卿参内の事」を参照します。

二条天皇……黒戸御所(清涼殿)
後白河上皇……一品御書所
中宮……清涼殿
神璽・宝剣……夜のおとど(清涼殿)
内侍所……温明殿
藤原信頼……朝餉(清涼殿西庇)

というように記されています。
内裏の配置
今回はこれをそのまま採用してみると、天皇と中宮は共に清涼殿の内にあり、神璽・宝剣も天皇の身近にあります。
内侍所(神鏡)だけが、通常置かれている賢所から北側の温明殿に移動されているようです。
この神鏡は、二条天皇と共に内裏を出ませんでした。
その経緯はまた後ほどにしましょう。
信頼は、天皇と同じ清涼殿の西庇にある朝餉の間という、常は天皇が食事をする場所を「栖(すみか)」としていたとあります(『平治物語』)が、この25日もここに居たのかどうかは不明です。

尹明が、天皇を「莚道ニ南殿ノ廻廊ニ敷キテ」(『愚管抄』)とあるように、莚を南殿(紫宸殿)の廻廊に敷いて天皇を誘導したという事は、清涼殿を出て、東の紫宸殿の廻廊を経てどこかに用意された牛車か輿に乗り込んだということになります。
内裏のどの門から出たのかは確定できません。
可能性としては、女御など女性の参内に多く利用された北の朔平門かと思うのですが、それでは清涼殿からわざわざ南殿(紫宸殿)の廻廊を経ずともよかろうと思うのですね。
通常、朔平門から参内する女性達のうち、許しを得ていない者はそこで車を降りねばなりません。
おそらく脱出用の牛車は朔平門外に用意されており、天皇は紫宸殿の階下から輿に乗り朔平門に向かったのではないかと考えます。
『平治物語絵詞』のあの名場面はこのところになるのかなと考えるのですが、もう少し検証の余地がありそうです。


訂正します
>内侍所(神鏡)だけが、通常置かれている賢所から北側の温明殿に移動されているようです。

と書きましたが、賢所は温明殿に包含されると解釈すべきでした。
「温明殿の中の、賢所」という事で、神鏡が移動されていたわけではなく、
その点を訂正いたします。
申し訳ありません























(管理者注:平安京内裏の元図は、群馬県立共立女子大HPで公開のものを使用させて戴いた。)
メッセージ 611 rarara_roadster にさん対する返信


二条天皇脱出を科学する(実は幻想)2   2010/ 7/ 3 23:57 [ No.613 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、この二条天皇脱出をより安全に遂行するため、清盛たちはその脱出に合わせて火事を演出します。

「二条大宮辺ニ焼亡ヲイダシ…」て、信頼・義朝らの気をそらすうちに牛車を大内裏から外に出すという作戦です。
しかし、このタイミングは腕時計も携帯電話もない当時の人々にとって、極めて難しい作戦であったと思います。
複数の者たちが、伝令的役割を負って走りまわっていたのだろうと考えます。

二条大宮辺りというのは、大内裏の西南角にあたります。
そこに火事を出すという事は、この脱出がその反対方向で実行されたと考えるのが普通でしょうね。
そうすると『平治物語』の藻壁門から出て、金子十郎や平山武者所らに見咎められたという話には「?」がつきます。
藻壁門は大内裏の西に位置し、演出された火事は大内裏の西南ですから、それこそ飛んで火に入る…と同じ事になります。
しかも、目的地である六波羅とは見当違いの方向でもあります。

ところが『平治物語絵詞』では、その門が内裏の北の朔平門になり、そこに武士達がいたことになるのです。
そうだとすると、その朔平門のすぐ西隣にある式乾門の中の一品御書所に押し込められていた後白河上皇が、単身脱出したのを咎めなかったのは何故だろうということにもなります。
そして、朔平門で二条天皇の乗った牛車が検問を受けたとすると、二条大宮の火事は失敗だったという事にもなります。

『愚管抄』の記述、

「支度ノ如クニテ、焼亡ノ間、サリゲナシニテ、ヤリ出シテケリ」

何事もなく車を門外に送り出したという、あまりドラマチックでない方を選ばねばならないようです。
むしろ、ドラマチックなのは、闇夜の中の尹明の活躍と単身騎馬で脱出した後白河かもしれません。

そして後白河は上西門から、二条の牛車は上東門から大内裏を脱出。
後白河は闇夜に馬を走らせ、二条の牛車は土御門大路を東に進む。
二条の牛車には、雑色に化けた伊藤景綱、牛飼に化けた館貞泰がいたと『物語』は記しますが、おそらく清盛の二条脱出作戦はそれくらいの手をうっていたと考えます。まぁ、雑色や牛飼に化けさせたかどうかはわかりませんが、この牛車を重盛や頼盛らの軍勢が、土御門大路と東洞院大路の交差点で出迎えたと『物語』が記すような、要所要所に武士を配置して、万一追手が来た場合も、完璧に迎撃出来る態勢をとっていたと考えるのが妥当であるかなと思います。


(管理者注:平安京地図は、京都市埋蔵文化財研究所HPで公開のものを一部加工して使用)

さらに、『平治物語絵詞』の牛車検問の場面に、門のそばで眠っている武者が描かれていますが、実態はこのようなものであったのかもしれません。
200人程度の兵が、あの広大な大内裏に散らばっており、火事という演出によりその過半が移動したとすると、脱出は意外にもたやすかったのかもしれません。
ただ敵中であることに変わりはなく、しかも闇夜の行動ですから、その緊迫感は計り知れないものであったでしょう。


もう少し続けます。(すみません)


二条天皇脱出を科学する(実は幻想)3   2010/ 7/ 4 19:38 [ No.614 ]
投稿者 : morikeigetu
朔平門を出た牛車は大内裏の北東にある上東門に向かい、そこを出て土御門大路を東に走るわけですが、尹明はおそらくここまで同行した後、再び内裏に戻り、玄象・鈴鹿などの宝物を長櫃に入れて追っかけ六波羅に向かう事になります。

ところで、大内裏にある14の門のうち、この上東門・上西門のふたつは特殊であり、他の門のように屋根や基壇などがなく、大内裏外郭の築地塀を切り開いただけの門でした。
村井康彦著『図説・平安京』によると、

このニ門、じつは宮城門としての威容よりも実用性が優先された門であった。(中略)その大内裏拡張時に、旧一条大路(土御門大路)に新たに造られたのが上東・上西門であった。
簡素な造りにされたのは、倉庫への物資搬入路にあたっていたからである。

二条天皇らを乗せた牛車や、単身騎乗した後白河上皇らが出て行くには好都合な門であったと考えられます。
『平治物語絵詞』に描かれた二条の牛車検問の図は、少なくとも上東門ではないという事になります。

最後に、その脱出に要した時間を考えてみたいと思います。
二条天皇の六波羅までの脱出ルートは判明しません。
今、ひとつの仮説として、
上東門〜土御門大路を東へ〜東洞院大路を南へ〜五条大路を東へ〜六波羅
とすると、その距離は約6kmとなります。
人の歩みの目安速度は4km/h、牛の歩みの目安速度は3.5km/h。
どんなに急いでいるとはいえ、天皇や中宮の乗っている牛車を狂気のように走らせる事は出来ないでしょう。
牛の歩みの速度を採用して算出すると、上東門からの所要時間は約2時間となります。
丑の刻(午前2時)に六波羅に到着したとすると、深夜午前0時頃に上東門を抜け出たという事になります。
上東門に至るまで、おそらく1時間程度を要したと思われますから、清盛の指示を受けた者が二条大宮あたりで火事を出し、信頼らがその方面に移動を始めたのを確認した尹明が二条天皇達にGOサインを出したのが、午後11時頃となるのかもしれません。

前述したように尹明は再び内裏で宝物搬出作業を行います。
その頃信頼は蔵人を通じて伊予内侍に、
「先ほどの火事は、大した事ありませんでした」(『平治物語』)
と伝えていますから、脱出作戦は全く察知されていなかったという事になります。

その尹明が六波羅に到着したのが、

ホノボノトスル程ナリケリ(『愚管抄』)

という夜明け頃ですから、午前6時前後かなと思います。
つまり尹明の内裏での搬出作業や後始末は4時間程度を要した事になりますが、無理もなかろうとも思います。

この藤原尹明、この後平家一門とはずっと関わり続ける事になります。

延々と、しょーもない話を続けてしまいました。
最後に思った事…、
「ほんっとに、寒かっただろうな」


充実への誘い。   2010/ 7/14 9:36 [ No.619 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、平治元年(1159)12月は、

 4日、清盛熊野詣のため離京。『物語』
 9日、藤原信頼・源義朝、三条烏丸御所を焼討ち、後白河上皇を幽閉。『物語』『百』『愚』
17日、信西の首が西獄門の樹に懸けられる。『百』
      『物語』では15日。
    清盛、六波羅に戻る。『愚』
    『物語』では清盛帰京は25日。
25日、二条天皇・後白河上皇脱出。『百』『愚』

    『物語』は平治物語・『百』は百錬抄・『愚』は愚管抄


この掲示版は、ただ今「平治の乱」を以上のようにたどり、まもなく六波羅合戦に突入いたします。

ところで、この掲示板を時おり覗かれる皆さんにお知らせいたします。

この掲示板でご協力下さっている、ろどすたさんことrarara_roadosterさんが、ご自身のブログ『rarara_roadosterの青空駐車場』の中で『web版・保元から壇ノ浦まで』を展開しておられます。
これまでのこの掲示板での投稿を整理・充実させて大変読みやすく、加えて掲示板では掲載出来ない図解なども作成して下さっています。

掲示板には出てこない「打ち合わせ的裏話」などもブログではお楽しみいただけます(微笑)


さてさて、そういう「打ち合わせ」を経て、掲示板ではこれから視点を六波羅に移してまいります。
今しばらくお待ち下さいませ。


Re: 充実への誘い。   2010/ 7/14 21:42  [ No.620 ]
投稿者 : rarara_roadster
恐縮です(^^ゞ
なりふり構わない「すちゃらかブログ」ですが、多少なりとも役に立てば本望です。

保元の乱関係の画像も追加してみました。

http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai/16288363.html
メッセージ 619 morikeigetu さんに対する返信


夏休みの課題・六波羅合戦の予習材料  2010/ 7/17 13:40 [ No.621 ]
投稿者 : rarara_roadster
日本列島も一部を除き、どうやら梅雨も明けたようですが、災害に遭われた地域の方々、あらためてお見舞い申し上げます。

さて、六波羅合戦の考察にあたり、平治物語にある合戦場をおおまかな図にしてみました。細かい部分は今後の考察で明らかにしつつ、そのためのたたき台にはなるかと思います。



あくまで“暫定的”なものですので、「ここは違うぞ」というようなことがあれば、どんどんお願いします。
最終的に「保元〜壇ノ浦的平治の乱合戦図」が出来ればいいな、と思っています。


Re: 大河ドラマに「平清盛」?!  2010/ 7/24 18:24 [ No.627 ]
投稿者 : morikeigetu
梅雨明け前後の災害に対するろどすたさんのお見舞い投稿を読んで、そういえば昨年の今頃も大雨による災害が各地で起きていたのを思い出しつつ、今度は梅雨明けと同時の猛暑の中、投稿もいたさず、平治の乱を足踏みさせてしまい、大変申し訳ありません。

さて、ろどすたさんが『web版』の中で作って下さった「平治の乱合戦図」をもとに、いよいよ合戦当日の模様を見ていかねばならないと思うのですが、
ろどすたさん、ほんのちょっとチェックいれておきませんか?
1.尹明が六波羅に入った後、続いて参集した人々について。
2.開戦日の決定。
 『百錬抄』では26日、『平治物語』では27日、『愚管抄』は明記していません。
3.『物語』では、上皇は合戦の終わるまで仁和寺にいたように描かれていること。
4.三種の神器のうち、内侍所(神鏡)はいまだ信頼側の師仲が確保していること。
等々を押さえておきつつ、合戦直前の両陣営を整理しておきたいのですが、いかがでしょうか?


再来年の大河ドラマについては、それが事実であるならば興奮を禁じえません。ろどすたさんのブログで熱く語って「鬼を笑わせ」ましょう!


要始業点検   2010/ 7/25 17:18 [ No.628 ]
投稿者 : rarara_roadster
>ろどすたさん、ほんのちょっとチェックいれておきませんか?

>1.尹明が六波羅に入った後、続いて参集した人々について。
>2.開戦日の決定。
> 『百錬抄』では26日、『平治物語』では27日、『愚管抄』は明記していません。
>3.『物語』では、上皇は合戦の終わるまで仁和寺にいたように描かれていること。
>4.三種の神器のうち、内侍所(神鏡)はいまだ信頼側の師仲が確保していること。

了解です。
おっしゃるとおり、「物語」「愚」「百」では細かい部分での違いが挙げられます。

わたしも“予習準備”を急ぐあまり、錯綜してしまいました。お恥ずかしい限りです。

2.の部分は、六波羅行幸から出陣までどのくらいの時間があったのか、ということが鍵になってくるでしょうし、4.の師仲の行動も注目されますね。特に唐櫃の鍵を手に入れるところなど(愚管抄)は、ある意味芝居じみていますし。

暑い日が続きますが、じっくりとやっていきましょう。
メッセージ 627 morikeigetu さんに対する返信


毎日、暑いですね。   2010/ 7/31 18:16 [ No.630 ]
投稿者 : morikeigetu
あの忌まわしい事故から、まもなく1年。
レントゲン検査の結果も、良好でした。

ろどすたさんは、『愚管抄』と格闘中のご様子ですね。
私は私で、合戦の舞台となる大内裏・内裏や、そこから六波羅に至る都の様子を調べておこうと思ってあれやこれやをつなぎ合わせて、『物語』とすり合わせようとしているのですが…、はっきり言って疲れてます(泣)

ブログにお邪魔して、ティータイムするかもです。


『所信表明』、『初心表明』。 2010/ 8/ 6 19:08   [ No.632 ]
投稿者 : morikeigetu
再来年のNHK大河ドラマが「平清盛」に決定したというニュースを受けて歓喜したのもつかの間、NHK公式発表のコンセプトやストーリー等を見て、早くも「寒イボ」がたってしまったのですね。
ろどすたさんのブログ『rarara_roadsterの青空駐車場』において何度か交信しましたが、とりあえずこの話題は鬼も高笑いする再来年の話であり、遠い宇宙の出来事だという事で、さらりと流しましょうという事になっています。

で、この『保元から壇ノ浦まで』の掲示板において、敢えて表明しておかねばならないと思ったのは、良くも悪くも大河ドラマの与える影響は、さほど小さくはないということ。
これまでも何度か申し上げてきた事ですが、
「それを知らない人が、このドラマを見た時、それを歴史と思ってしまう」事実があるということで、その点をNHKは、ずっと知らんフリを突き通している。
かてて加えて、ドラマではない「その歴」も「ヒストリア」も学問とは程遠い。

再来年の事とはいえ、「平清盛」という大河ドラマの話題の発生は、うぬぼれではないが、この『保元から…』をチラリと訪れる方も今後出てくるかもしれない。
その方々に対しての「表明」であります。

NHK大河ドラマ「平清盛」に関するトピではないということ。
もちろん、それに迎合するものでもないということ。

再来年、このトピがどのあたりを語っているかは想像もつきませんが、大河ドラマの内容など何ら踏まえる事なく、粛々と当初の目的に沿って進めていくという事を、今の時点でまず表明しておきます。


再開。   2010/ 8/11 18:21 [ No.633 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、話を進めましょう。

No.627でチェック入れましょうと提案した4つの案件を放置していましたので、それから片付けていきたいと思います。

まず、1.尹明が六波羅に入った後、続いて参集した人々について。

『愚管抄』を参照します。
平治元年(1159)12月25日尹明の六波羅到着の後、院(後白河)、上西門院(統子・後白河の同母妹)、美福門院(得子・鳥羽天皇の皇后)が六波羅に入り、続いて大殿(藤原忠通)、関白相(藤原基実)父子も到着したと記しています。
この基実の子の基通が信頼の妹を妻に迎えていたため、周囲の人々は清盛の顔色を窺います。

三條内府、清盛方ヲ見ヤリテ、「関白マイラレタリト申。イカニ候ベキヤラン」

この三條内府とは、例の藤原公教のこと。
つまり、この時点で公教らはすでに六波羅に入っていたという事が判明します。
天皇脱出が清盛や公教の計画であったわけですし、天皇と皇后が六波羅に移動するというのに、その側近が供奉しないというはずはなかろうと考えます。もちろん、一団となって天皇と共に六波羅に入ったのではなく、相当綿密な準備を経て実行に移された計画ですから、供奉すべき人々の移動も、信頼らに覚られぬよう密かに、そして確実に行われていったのでしょう。

信頼の妹を妻に迎えている基実と父忠通の六波羅入りを気にする公教らに対し、清盛の反応は、
「全く問題ない。むしろ、こちらからお迎えしてでも来て頂かねばならぬ方々だ」
という単純明快なものでした。

その日の夜になって、天皇の六波羅入りが京中にアナウンスされます。
つまり、六波羅が臨時の皇居となり、内裏に籠る信頼・義朝らは賊軍となった事を明確にし、ここにきて初めて清盛は官軍として公然と信頼・義朝軍に宣戦布告をしたと言えるのではないでしょうか。

12月4日の熊野詣と称しての離京から20日余り。
この立場の逆転は、決して偶然の産物ではないと思います。


Re: 再開。   2010/ 8/11 23:01 [ No.634 ]
投稿者 : rarara_roadster
わたしが愚管抄でややこしいなぁと思っていたのが、天皇の六波羅行幸を『十二月廿五日亥乙丑ノ時』としているところなんですね。
おまけに日時がはっきりと書かれているのはこのことだけで、合戦の日時などが書かれていないことだったんです。

25日の午前2時頃に到着ということは、脱出は24日の夜中か?などと余計なことまで考えてしまい、このような表現はこの時代では一般的なのか、それとも慈円が書き損ねたのか?と無限ループに陥ってしまいました(泣)

わたしのような素人はこのあたりの解釈を難しく考えてしまうのですが、やはり25日夜半に内裏を脱出、六波羅に迎えられるまでを一連のものとして考え、それをもって「12月25日六波羅行幸」という理解でよろしいでしょうか。

メッセージ 633 morikeigetu さんに対する返信


大変失礼いたしました(陳謝)。   2010/ 8/12 9:08 [ No.635 ]
投稿者 : mori_keigetu
ろどすたさんの仰る日付の件では、実は私も確信が持てていません。
当時の人々の日付変更線は、現在の私たちのような午前零時ではなかったはずです。
そのあたりを、本日帰宅してから考えてみます。

不揃いな日付たち。   2010/ 8/12 19:08 [ No.636 ]
投稿者 : morikeigetu
>25日夜半に内裏を脱出、六波羅に迎えられるまでを一連のものとして考え、それをもって「12月25日六波羅行幸」という理解

…でいいと思います。
もちろん私も専門家ではありませんし、合戦の日時について調べようとしても、そもそも徴すべき史料が『百錬抄』における26日と『平治物語』の27日だけですから…。
『愚管抄』においては、ろどすたさんが仰るとおり「12月25日乙亥丑ノ刻」以降は明確な日付の表記がなく、やがて出てくるのは「次ノ日」に信頼が処刑されるところまで飛びますから。
『百錬抄』も26日に合戦が行われ、同日に信頼が斬首されたという記述ですからねぇ。

だいたい、あの当時の人々の「今日」という感覚がどのようなものだったのかは、まったく違うジャンルの本をもっと読み込まないと解らないような気がします。
私たちは午前零時になると新しい「日」ですが、あの人たちにとって夜中はまだ「今日」だったのかもしれません。
「1ヶ月」を月の満ち欠けによって、大きく朔・上弦・望・下弦と分け、毎日を十干十二支の組み合わせによって60日毎に繰り返す…。
人によって「今日」に誤差があったかもしれません。

『愚管抄』の「25日丑ノ刻」を信じ、『百錬抄』の「26日信頼斬首」を信じるならば、26日はずいぶん長い一日になります。
合戦そのものは、短時間で決着したのかもしれませんが…。

うーん、扉が開きませんね。
メッセージ 634 rarara_roadster さんに対する返信


♪夏の扉を開けて〜   2010/ 8/14 21:47 [ No.638 ]
投稿者 : rarara_roadster
六波羅行幸から合戦に至る“日付の違い”を、それぞれ『平治物語』『愚管抄』『百錬抄』について一覧表にしてみました。



元木泰雄氏は、「保元・平治の乱を読みなおす」のなかで、『百錬抄』を“信頼できる史料”と位置づけています。百錬抄は、ウィキペディアによると「公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉時代後期の13世紀末に成立した」とされており、元木氏が“信頼できる”としたのは、このように「公家の日記などの諸記録」が底本になっていることによるものと思われます。

・・・「信頼できる(のぶよりできる)」×

閑話休題(苦笑)

わたしも基本的には、この平治の乱の12月25,26日の各人の動向については元木氏の説に賛同しています。

しかし改めて見てみると、軍記物とはいえ『平治物語』の作者も、『愚管抄』の慈円もさまざまな資料やソースをもとに書き上げたのでしょうし、『百錬抄』と比べて劣るというものでもありません。ただ、百錬抄と違うのは、この2つの史料は作者のバイアスがかなり含まれることにあると思います。もっとも、それがこの日時の問題についてはどれほどの影響があるのかということは、わたしのような素人には判断できません。


“扉”の鍵を無理してこじ開けようと思ったのですが、ムリでした(泣)
ちなみに百錬抄では二条天皇は中宮と一緒に行幸となっていますので、表の「二条天皇以外の六波羅参集者」にはあえて含みませんでした
メッセージ 636 morikeigetu さんに対する返信


百錬抄の画像データ   2010/ 8/15 15:58 [ No.639 ]
投稿者 : rarara_roadster

平治元年12月分の一部です。


メッセージ 638 rarara_roadster さんに対する返信


開かぬ扉は、爆破しましょう!   2010/ 8/15 19:22  [ No.640 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさんが整理して下さった2史料1物語において、合戦は26日から27日にかけて、と拡大解釈も可能です。
『物語』が27日になっているのは、清盛が熊野詣から帰京したのを25日夜半としてしまった(敢えて「しまった」と言います)ための流れではなかろうかと思います。
もし清盛が25日夜半に六波羅に入ったとするならば、その後に二条天皇・後白河上皇の脱出という動かし難い事実があったわけで、それが深夜の出来事であるのも動かし難く、合戦は自動的に27日とせざるを得なかったか?

『物語』のこのあたりの信頼度(しんらいど)は、あの二条天皇脱出時の「藻壁門」記述で、個人的にダウンしています。
ただ、25日清盛六波羅入り−27日辰の刻(午前8時)源氏勢揃…という『物語』の慌ただしい動きは、25日二条天皇六波羅入り−26日合戦という急変を、ある意味証明しているようにも思います。
第三者が見れば急変でしょうが、清盛と公教の練りに練った作戦はそれほど周到であったと言えるのではないでしょうか。

日付の差異を言うならば、信頼(これは、のぶより)の斬首の日。
『百錬抄』は26日、ところが『公卿補任』二条院保元4年、権中納言信頼の脚注に、

12月26日、被下追討宣旨。27日、伏誅。

とあり、『百錬抄』の

26日斬首

とは、また差異が生じます。
しかし「26日、追討宣旨」は、合戦26日と解釈してよかろうと思います。
メッセージ 639 rarara_roadster さんに対する返信


さて、六波羅。   2010/ 8/25 11:22 [ No.642 ]
投稿者 : morikeigetu
平治元年(1159)12月25日の深夜に二条天皇と皇后、信西入道の妻である紀の二位が六波羅に脱出、それと同時かあるいは相前後しながら藤原公教ら側近も六波羅に入り、夜明け頃には藤原尹明が、ろどすたさんがbU08で述べられたごとく、

>人物だけでなく、”統治システムとしての天皇”

を象徴する天皇家の重宝を持って六波羅に入りました。

>二条のみを連れ出すことに成功しても、信頼が天皇家の重宝を抑えてしまえば、二条は正当な統治者としての権威が欠けた状態

になる事をこの尹明の命がけの行動によって回避され、六波羅は臨時の皇居となり、後白河上皇や藤原忠通父子らも続々と参集します。おそらくは即時に信頼・義朝の「追討宣旨」が出され、清盛は軍事行動を開始することになります。
しかし「追討宣旨」が出てから軍勢を集め、陣編成や作戦会議などをしておれば間に合わぬでしょう。
脱出した二条天皇を重盛や頼盛の軍勢が出迎えたり、二條大宮辺で火事を演出したり、あるいはまた仁和寺に逃れた後白河上皇を六波羅に移動させたりという、ほぼ同時多発的に行われたこれらの出来事は、清盛にとってはもはや軍事行動の開始であり、遂行であったと思います。
26日の開戦が重盛・頼盛らの大内裏攻撃による事を思えば、彼らの軍勢は二条天皇を迎えるのが目的であったのではなく、その後に発せられる「追討宣旨」を臨戦態勢で待つという命を受けていたのではないでしょうか。
二條大宮方面隊、仁和寺方面隊も同様であったとすれば、六波羅も皇居というよりは、伝令が頻繁に出入りを始めた本陣城塞の態を示していたでしょう。

さて、六波羅…。
高橋昌明氏著『平家の群像』に、平家最盛期の六波羅エリアが書かれています。
「北は五条末、つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、南は同じく六条大路延長ラインで、南北約500メートルに及び、東西は現鴨川東岸約100メートルの地点から東に約600メートル以上、積算して廿余町の面積があった」

もちろん平治元年当時は最盛期ではありませんから、六波羅というのは地名であり、あるいは正盛・忠盛以来の都を代表する軍事貴族の長の居館を示すものであったのでしょう。
しかしながら、ここに示されたエリアはこの平治の乱における清盛側の防衛ラインに含まれるでしょうし、西に流れる鴨川も現在より川幅は広く、堤を越えても川との境界というものは、さほど明確ではなかったろうと考えています。
『平治物語』に、

五條の橋を、こぼちよせて…

とあるように、清盛側は五條の橋を落として、六波羅側に楯を並べたようです。
当時は道に穴を掘って通行を遮断しただけ、あるいはまた楯を並べただけでもそれを「城」と表現しますから、この日の鴨川の東、六波羅一帯はこのような「城」と化していたのだろうと思われます。
どの時点で五條の橋を落としたのかは不明ですが、「追討宣旨」が発せられる以前から清盛の布陣は着々と進んでいたのかもしれません。
メッセージ 640 morikeigetu にさん対する返信


一方、内裏では・・・   2010/ 8/28 16:58 [ No.643 ]
投稿者 : rarara_roadster
>彼らの軍勢は二条天皇を迎えるのが目的であったのではなく、その後に発せられる「追討宣旨」を臨戦態勢で待つ

なるほどですね。同時に、万一、信頼方から追っ手がかかった場合は迎撃の必要もありますし、そこから一気に本格的な戦闘に発展する恐れも十分にありますからね。戦闘部隊と天皇の護送部隊の同時行動というわけですね。

>どの時点で五條の橋を落としたのか

考えられるのは、天皇・中宮をはじめとする皇族が六波羅に到着した後ですよね。まさにこれから橋を落とそうとする六波羅工兵隊に急かされる中を、公卿たちが続々と六波羅にやってくるといった光景が繰り広げられたのかもしれません。


ここで少し天皇脱出後の内裏の様子を述べた愚管抄を見てみましょう。師仲の後日談として書かれています。


------------------------------------------------
その時、内裏の南殿では信頼・義朝・師仲が『目の抜けた虻』のような状態であった。おそらく失望、後悔、怒りといったものが入り混じり、混乱の巷にあったのでしょう。
義朝は、「日本一の不覚人をたのんで、このような事をしてしまった」と信頼を罵った後は一言も喋らず、紫宸殿の大床に立ってひとり鎧を纏い始めた。そして守刀に大刀契の唐櫃の小鉤を付けようとした時、内侍所の御体(神鏡)を懐に入れた師仲が「その小鉤はわたしが持っていよう。守刀につけていても無益であろう。」と義朝に声をかけた。

義朝は、「誠に」と小鉤を師仲に投げて渡し、「決して肌身から離されぬように」と言って藍摺りの直垂をつけた。やがて義朝は甲の緒を締めて打ち出でた。
------------------------------------------------

その後、百錬抄永暦元年(平治2年正月に改元)4月29日条によると
(略)
師仲卿御辛櫃奉取御体於桂辺経一宿
其後渡清盛朝臣六波羅亭造假辛櫃奉納自師仲卿姉小路東洞院家取還御温明殿也
(略)

師仲は乱のあと一夜を桂川の近くで過ごし、その後六波羅へ出頭。なお、神鏡は姉小路東洞院の師仲の自宅に保管していたようですね。


師仲は、平治物語ではその伏見の在所で信頼が武芸の稽古をしたとされています。また、元木泰雄氏は、義朝が東国から呼び寄せた武士たちを密かに師仲の伏見の別荘に駐屯させていたのではないか(保元・平治の乱を読みなおす)としています。これらのことから、どちらかというと惟方・経宗よりも、信頼や義朝に近い「なんちゃって体育同好会」の人物と考えられます。

ところが、この26日の師仲ですが、「懐に神鏡を入れていた」「小鉤を義朝から受け取る」といった行動を、元木氏は『保身のための裏切り行為』と位置づけています。つまり、この時点ですでに信頼・義朝を見限っているというわけですね。

神鏡を持ち出し、義朝からまんまと大刀契の唐櫃の小鉤を奪い取る。これは大殊勲ですが、そう世の中は甘くありませんでした(苦笑)
メッセージ 642 morikeigetu さんに対する返信


歴史秘話ヒストリア   2010/ 9/ 1 19:25 [ No.644 ]
投稿者 : rarara_roadster
今夜10時から

「源義経 in the DARK」

その真の姿は復しゅうに命を燃やす“ダークヒーロー”だった。「義経が心に闇を抱くきっかけとなる11歳の衝撃体験」「源平合戦で公家を戸惑わせた復しゅうの鬼・義経の闇の顔」「神出鬼没! 全国指名手配となった義経が、幕府の追っ手をかわし続けた大脱走劇の秘密」「北行伝説・チンギスハン伝説の実体」とは? 謎めいた逸話の向こうに秘められた“闇のヒーロー”義経の素顔に迫る。

だそうですよ。

http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai/18153522.html#18153522

ブログに感想を書いてみました。


『橋弁慶』。   2010/ 9/10 17:14 [ No.648 ]
投稿者 : morikeigetu
突然進路を変えた台風のせいで帰宅が水曜日にズレ込み、その後の予定を片付けるのに、自分自身が台風になったようでした。
ともあれ、ひと段落して例の「歴ヒス」を見ましたが…。
感想は、よしましょう。
ろどすたさんが、そのブログにおいて充分語って下さっています。
ただ、「何でエコーきかせて喋る必要があるねん!」
と、まぁ、内容に関係のない所まで怒ってしまいました。

さて、ろどすたさんがブログでご質問下さった能楽の『橋弁慶』について。

>遮那王は、夜な夜な京の町中で喧嘩を吹っかけていた。(中略)
…といったように剣術の稽古に没頭したとある。少なくとも、ここには町で喧嘩をしまくる「悪がき遮那王」の姿はない。平治物語の諸本ではこのような記述があるのだろうか。

>もし、平治物語や義経記ではないとすると、NHKは何を根拠にそのような表現を作ったのか。

>しかし、それにしても何かの元ネタがありそうなものだと考えていたら、ひとつ思い当たるものがあった。謡曲「橋弁慶」である。

ろどすたさん、ふと『橋弁慶』を思いつくだけでも大したものですよ(驚)
先に、ろどすたさんのブログを読まずに「歴ヒス」を見ても、私しゃ思いつかなかったでしょう(泣)

観世流謡本『橋弁慶』の資材解説に、

(この曲は)義経記に取材したもので、同書巻三「辧慶洛中にて人の太刀を取りし事」に牛若と戦って負けた事が見え、叉「義経辧慶と君臣の契約の事」に、翌18日辧慶は再び清水坂で牛若に出会い、大長刀を以って戦ったがまた打敗れ、遂に主従の契約を結んだ由が記されてゐる。尤も原據には辧慶が太刀強盗をするのであるが、本曲ではそれを牛若がしてゐる事に作り変えて脚色してゐる。

とあります。
つまり、ろどすたさんの推察通り「ケンカ遮那王」は『平治物語』や『義経記』が出典ではなく、それらから取材して作られた謡曲『橋弁慶』の作者の脚色であると、はっきりと書かれています。


>この「橋弁慶」については番組のHPに載っていないので「それこそ、ろどすたの妄想じゃん」と言われればそれまでなのだが、少なくとも放送を見た限りではこの「ケンカ遮那王」は平治物語の伝えるところなのだろうと見られてしまう。

まさしくその通りで、「芸能」と「軍記物語」を比較して、「軍記物語」のステイタスを取ったのかどうかは知りませんが、NHKの能楽『橋弁慶』に対する失礼は謝罪に値するものだと思います。
だいたい、ひどい物語史観の助長に学者のコメントを都合よく利用し、時おり『玉葉』などの史料をチラつかせて学問のように見せかけているとしか感じませんね。


ちなみに、観世流現行曲の中で義経(牛若)を登場させているのは、
『橋弁慶』『船弁慶』『鞍馬天狗』『烏帽子折』『安宅』『正尊』『忠信』『摂待』『屋島』の9曲で、同一人物がこれほど多くの曲に登場するのは、おそらく義経(牛若)だけかなと思います。
ただ、最初の5曲の義経(牛若)は全て子方(こかた)と言って、子供が演じます。『正尊』『忠信』『接待』は成人が義経を演じますが、能楽の主人公である「シテ」ではなく、「ツレ」として登場し能面も着用しません。
唯一、義経が亡霊として登場する『屋島』のみが能面を着用した「シテ」として登場するのです。
なんだかこの辺に「伝説義経」ひとり歩きのカギがあるのかなぁ…と、いっこうに涼しくならぬ空を見上げて、めまい。


さて、ろどすたさん。
六波羅合戦、どのように再開しましょうか?
私はちょっと個人的に、ろどすたさんの投稿、

>まさにこれから橋を落とそうとする六波羅工兵隊に急かされる中を、公卿たちが続々と六波羅にやってくるといった光景…

この文章に猛烈にリアリティを感じ、前田青邨の絵を見るような感動を覚えておりました。
…ので、
おお、そうだ。六波羅合戦だったという目覚め状態。
ちと巻き戻して、シャキッとします。
メッセージ 646 rarara_roadster さんに対する返信


この「源義経 in the DARK」の投稿は、短いものをまとめてるでおじゃる。

平治物語と愚管抄   2010/ 9/11 22:26 [ No.651 ]
投稿者 : rarara_roadster
「平治物語」は軍記物ですから、当然その様子はかなり誇張されたものであるわけですが、中にはその設定すら「?」マークが付くところもあったりします。そのひとつが、官軍となった平氏の軍勢が“3つに分かれて”内裏に侵攻していくところです。

重盛・中御門大路を待賢門へ
頼盛・大炊御門大路を郁芳門へ
教盛・近衛大路を陽明門へ


この内、戦いの様子が描かれているのは待賢門の重盛と郁芳門の頼盛の二人で、教盛は、仁和寺に逃れていた信頼を捕縛する場面まで出番がありません。

これに対し、「愚管抄」では、

平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛、清盛嫡男。三河守頼盛、清盛舎弟。コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ。

とあり、教盛の名前はありません。

じゃあ、教盛は六波羅に残っていて、平治物語は寄せ手の軍勢を誇張して描かれたのか?という可能性もありますが、そもそも愚管抄の戦いの様子は平治物語とは違い、義朝の軍勢は内裏に立て篭もらず、甲の緒を締めて打ち出た後、

馬ノシリニウチ具シテ有ケレド、京ノ小路ニ入ニケルウヘハ、散散ニ打ワカレ・・・

堀川周辺などの市街戦を経て、決戦のため六波羅を目指します。

このあたりを、どのように料理するか、ですねぇ。


まとめられないメモたち。   2010/ 9/24 12:53 [ No.653 ]
投稿者 : morikeigetu
>このあたりを、いかに料理するか

ろどすたさんの、このコメントはとても重い。


ご指摘の通り、六波羅合戦については『愚管抄』と『平治物語』に頼るのみ。特に合戦現場の描写については、保元の乱の時もそうでしたが、『物語』や『絵巻・絵詞』がその有様を現在に伝える唯一のモノとなっているので、どうしてもそれに沿って話を進めざるをえないですね。
しかし、ろどすたさんのbU51の平教盛のように、検証すべき余地・崩せる可能性は点検していきたいですね。

私もろどすたさんのコメントを受けて取り組んではいるのですが、どうにもまとまっていません。
そこでまず、そのメモを投稿してみたいと思います。
(「メモかい!!」…と言わないで)

1.『百錬抄』
26日、遣官軍於大内。追討信頼卿已下輩。官軍分散。信頼兵乗勝襲来。合戦于六條河原。信頼義朝等敗北。(以下、ここでは略)

官軍は分散して大内裏に攻め寄せた?
大内裏に攻め寄せた官軍は分散した?

いずれにせよ、勝ちに乗じて信頼らは六波羅近くまで襲来し、六條河原での合戦となった。

2.「勝ちに乗じて」について、『平治物語』
六波羅での公卿僉議において、頭中将実国(公教の二男)が、
「皇居(内裏)は新造されたばかりであるし、火災は避けねばならない。
攻め寄せた官軍が偽りの撤退をすれば、義朝らは追い討ちをかけるであろう。その時官軍が入れ替わりに内裏を守護すれば、火災をのがれる事が出来る」と清盛に伝えた。

3.『愚管抄』
義朝は自ら大内裏を出、そこでの衝突はなく京の街なかに進んだように記したのち、「サテ六波羅ヨリハ、ヤガテ内裏ヘヨセケリ」と続く。そして市街戦を経て重盛・頼盛らが六波羅に戻り、義朝軍が来襲したので清盛自らが出陣し、義朝らはわずか10人程に討ち破られた。

4.『平治物語』
二条天皇・後白河上皇の脱出発覚あたりから、すでに信頼と義朝のコミュニケーションが破綻していた様子。
加えて、出陣に際して義朝が「もしこの合戦に負けた場合、皆で東国に下り、後日再び都に攻め上る」というような事を言ったため、頼政・光泰・光基・末実らは保元の乱の時の為義の言葉と最期を思い出したか、しらけた様子が表情に出たので、義朝はその連中を討とうと考えたが、ここでの同士討ちは無意味であると思いとどまった。
ここでも軍内破綻が見受けられる。

5.bU42
土御門大路と東洞院大路の交差点まで重盛・頼盛の軍勢300が二条天皇を出迎え、天皇を六波羅に進めたのちも、彼らはそのまま追討宣旨が出るまで待機したのではないかと仮定したが、『物語』では重盛・頼盛らも一度六波羅に戻ったと記す。

6.『平治物語』清盛軍
追討宣旨・公卿僉議の後、重盛・頼盛・教盛は再度出陣、賀茂川を渡って西の河原に布陣、やがて全軍を三手にわけて近衛・中御門・大炊御門より大宮おもてへ出て、陽明・待賢・郁芳門を攻撃。

7.『同』義朝軍
大内裏の南・西・北側の門を閉ざし、東側の陽明・待賢・郁芳門を開放して
「待ち受けて」いた。
昭明・建礼の小門を開き、紫宸殿の前庭に馬百疋をそろえていた。


合戦が始まるまでの両軍の様子。
これらのメモを並べて、時間の推移や距離的な行動の可能性などを考えていたら、秋になってしまいました。
合戦開始、というか大内裏での義朝軍が勢揃完了したのは『物語』によると「辰の剋(午前8時)」。二条天皇と後白河上皇の脱出という清盛側の作戦成功により、合戦準備において義朝側はかなりの後手をとっていると考えます。
「矢合わせ」という約束事が交わされたかどうかは判明しません。

う〜ん、すみません、こんな投稿で(泣)


大将軍には悪右衛門督信頼   2010/10/ 1 19:08 [ No.654 ]
投稿者 : rarara_roadster
もともと戦術とかそういった方面に詳しいわけではありませんが、ちょいと『義朝が内裏で平氏の軍勢を待ち受ける』ということについて見てみたいと思います。なお、かなり的外れなことを書くこともあるかもしれません(苦笑)。

物語では、この時の義朝は現存勢力を整理して、内裏の守りを固めます。けいげつさんが書かれたように「門を開け放ち、待ち構える」ということは、この時点では内裏に敵を誘い込んで殲滅する戦法を選んだように見受けられます。

しかし、これはやはり物語の脚色ではないか、と考えています。それは、

「キーマンとなる天皇も上皇も手元にいない」
「天皇家の重宝もほとんど持ち出されている」
「完全な賊軍に転落しており、外からの援軍も無い」

などのことから、義朝が内裏に固執する理由を見出すのは難しく、すでに味方の中に離反していくものもおり、平氏に比べて寡兵状態のなかで、要塞でもない内裏に立て篭もって戦うことは至難の業だと思うからです。

では、なぜ平治物語の作者は内裏を合戦の場として選んだのだろう?という疑問も生じるわけなのですが、こんなことを考えてみました。

平治物語の作者は、義平対重盛という源氏と平氏の長子同士の戦いを演出するに際し、単純に京の街中で戦うのではなく、最高の場所として紫宸殿の前の「左近の桜・右近の橘」という舞台を選び、そこに話を持っていくために義朝勢が内裏で平氏を迎撃するようにしたのではなかろうか、などと思っています。

戦闘が始まると、待賢門でははやくも信頼が重盛に突破され、それを見た義朝が義平を援軍に差し向けます。元木泰雄氏は『保元・平治の乱を読みなおす』のなかで日下力氏の「そもそも郁芳門から義朝が待賢門を見渡すのは、その間の大膳職や大炊寮が邪魔になり、難しいと思われる。これは鎌倉時代にはこれらの建物が無くなっており、見渡せるようになった頃に物語が書かれたのであろう」という見解を紹介しています。

(ここで分けます)
メッセージ 653 morikeigetu さんに対する返信


Re: 大将軍には悪右衛門督信頼   2010/10/ 1 19:09 [ No.655 ]
投稿者 : rarara_roadster
(続きです)

ここでのポイントは、信頼が待賢門を守護するということです。いくら寡兵状態といってもこの場面で戦闘経験の無い信頼が一方の門を守護するということ自体疑問が生じます。本来ならば、義朝と義平がそれぞれ郁芳門・待賢門を護ったほうが堅実でしょう。

しかし、信頼は仮にも『大将軍には悪右衛門督信頼』という立場であり、それを考えれば、まあ、待賢門守備隊長の任も止む無し。おまけに重盛も容易く門を突破できるでしょうから(笑)、物語の進行上あえて待賢門の守護としたと考えることもできるとおもいます。つまり重盛の待賢門突破は必然として用意されたものであり、その直後の義平の追撃からが物語のクライマックスといえると思います。


以前、保元の乱の検証で義朝のプロフィールを探ったとき、彼の戦法は基本的に『攻撃型』の人であるという印象を受けました。まあ、これはあくまで個人的な印象に過ぎませんが、上記の理由を鑑みても、内裏で相手を待ち受けて戦うということは義朝勢にとっては不利な戦いになると思います。清盛らの官軍がまさか内裏を火攻めにするとは思いませんが、義朝にしてみれば火攻めは自分の得意な戦法であり、万一、自分が火攻めを受けた場合の危険性も十分承知しているでしょうから、内裏にこもること自体が疑問です。

しかし、作者も最終的に義朝勢を六波羅へ肉薄させるために、賊軍を内裏から引っ張り出さないといけない。そこで物語では、『攻め寄せた官軍が偽りの撤退をすれば、義朝らは追い討ちをかける・・・』という作戦を官軍に与えるというように書かれたのではないでしょうか。

“皇居(内裏)は新造されたばかりであるし、火災は避けねばならない。”というのは、現実に官軍首脳部の懸案事項でもあったのでしょう。愚管抄にあるように、義朝らがそのまま京の街中に飛び出てきたのであれば、少なくとも火災は免れたということになります。そのように義朝のことを考えると、やはり待賢門の戦いや内裏内部での戦闘は疑問点も多く、むしろ物語の脚色であると考える余地は十分にあると思います。戦闘の虚実よりも、場所の華々しさを選んだという感じでしょうか。

平治物語の合戦場所図解
メッセージ 654 rarara_roadster さんに対する返信


『物語』の行方。   2010/10/ 3 19:14 [ No.658 ]
投稿者 : morikeigetu
>待賢門の戦いや内裏内部での戦闘は疑問点も多く、むしろ物語の脚色であると考える余地は十分にある

>戦闘の虚実よりも、場所の華々しさを選んだ


たしかに『平治物語』を読むと、『保元物語』よりも更に「物語」に磨きがかかったなという印象を受けます。
迂闊に流し読むと、「なるほど、このようにして合戦は始まり、そして終わったのだな」と…。
もはや、作者の術中(笑)。

「物語」の中のひとつひとつのイベントを括弧で括り、それをストーリーという時間の推移に乗せ、かつ「合戦」という命懸けのやりとりを考えた時、

>内裏で相手を待ち受けて戦うということは義朝勢にとっては不利

である事は明白であり、保元の乱でも先手・火攻めを主張した義朝です。
清盛勢に比べて兵数も劣り、いささか後手をとっている以上、一気に六波羅を目指すか、一目散に東国へと逃げるか…。

結局『物語』では、括弧で括ったイベントとイベントの接着部分が不鮮明というか、不自然に感じるのです。


もうひとつ、ろどすたさんが仰った、

>義平対重盛という源氏と平氏の長子同士の戦いを演出

という事。

義平は長子でありながら、嫡男の座は頼朝。
重盛は長子であり、この頃はすでに嫡男として認識されています。
しかし、その重盛と並ぶ大将として頼盛を描いているところが、意図的かなぁ。
作者は、これらの人々にそれなりの舞台を用意する必要があったのかもしれませんね。

それと、もうひとつ。
頼政はいつ内裏を出て、どの時点で六條河原に布陣したのか。
そして、彼の楯はどちらに向いていたのか。
『物語』に振り回されてます。
メッセージ 655 rarara_roadster さんに対する返信


軍記物語と『大河ドラマ』   2010/10/ 9 21:43 [ No.659 ]
投稿者 : rarara_roadster
>迂闊に流し読むと、〜もはや、作者の術中(笑)

軍記物語というものは、ある意味、当時の“大河ドラマ”のようなものですからね(苦笑)
そのあたりをしっかりと認識していないと大やけどをすることに・・・。
というか、むしろ気づかないうちに重症化してしまう「低温やけど」かも。


>その重盛と並ぶ大将として頼盛を描いているところが、意図的かなぁ

これはわたしも思いました。やはり平治物語が成立した時期における“源氏と平氏”あるいは“嫡流とその対抗者”という二項対立史観を反映している部分もあるように思います。


>源頼政

頼政については、平治物語の記述から完全に離れて考察したほうがいいように思います。

物語では、義朝が“源氏一門の大将”で、頼政・光泰(光保)・光基・季実等は「一門の中の大将、すでにしたがひ奉るうへは、左右にあたはず」と信頼の誘いに同意したように描かれていますが、そもそもこれは平治物語における『大河ドラマ的設定』です。

それから、時間軸が前後しますが、平治の乱が収束し、関係者の処罰が行われた時、信西の首級を挙げた源光保は配流先で殺害されます。光保は六波羅行幸の後は信頼・義朝を裏切る行動をした人物ですが、やはり12月9日に三条烏丸御所を襲撃した一人であったことが問われたのでしょう。

これに対し、頼政はその後も生き延び、平氏政権の中で晩年には従三位の公卿となって「以仁王の挙兵」に至ります。
このことから、平治の乱の源頼政は、六波羅合戦の義平との戦闘以外は信頼や義朝とは距離を置く存在だったのではないでしょうか。

そういった面から

>頼政はいつ内裏を出て、どの時点で六條河原に布陣したのか。
>そして、彼の楯はどちらに向いていたのか。

これらは考察してもいいように考えています。
メッセージ 658 morikeigetu さんに対する返信


ここでしばらくブログにて今後の展開方針を協議

打ち合わせ終了。再開、六波羅合戦。   2010/10/29 17:47 [ No.666 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、六波羅合戦展開についてのろどすたさんとの打ち合わせが終わりました。
なぜ打ち合わせを必要としたかは、ろどすたさんがNo.651で、まず『平治物語』(以下『物語』)と『愚管抄』のひとつの差異を指摘されました。それを受けて私もNo.653で『物語』と『百錬抄』『愚管抄』を比較、続けてろどすたさんがNo.654・655で『物語』における義朝軍の戦術的不自然さを検証し、私も『物語』を点検しました。(No.658・659)

その結果、『物語』に沿って六波羅合戦を検証する事の危うさに立ち止まったのです。
もちろん、『物語』以外に六波羅合戦を詳細に述べているものはありませんから、それを全否定するものではありません。

二条天皇と宝物、後白河上皇という「掌中の珠」を失って賊軍となった信頼・義朝らが内裏を出て清盛の六波羅館を攻撃(信頼は参加していない様子)し、やがて敗北したという結果に何ら変更はありません。
ただ、まずは『物語』のストーリーを棚上げして、六波羅合戦を考えてみようという事になりました。
そして、打ち合わせの中でろどすたさんが指摘された『愚管抄』と『物語』の共通点、

@.弓杖をついて立ち上がる重盛
A.六波羅に肉薄する義朝と、迎え撃とうとする清盛

この、たったふたつの共通点から出発し、『物語』をチェックしながら義平・重盛・頼盛・教盛・頼政らを見ていこうという事になりました。

私の『物語』チェックもまだ完全に終わってはいませんが、まずひとつだけ
「ん?」
と思った部分を挙げておきます。
『物語』「義朝敗北の事」の半ばあたりに、

「巳の時にはじまりたる軍、おなじ日の酉の刻には敗れにけり」

とある記述。
”巳の時(午前10時)”とは、同じく『物語』「待賢門の軍の事・付けたり信頼落つる事」の中に、重盛がすでに二度までも大内裏に攻め入った後、最終的に義平や鎌田政清の追撃を、かろうじて逃れた二条堀川あたりの戦いの時刻として表記しているということ。
そして、この時こそが「弓杖をついて立ち上がる重盛」でした。


まずは、ここまで。
メッセージ 661 rarara_roadster さんに対する返信


Re: アゲネタです(苦笑)   2010/11/14 22:38 [ No.674 ]
投稿者 : hn2602mk2
 場違いな横レスですが、10月初めに高橋昌明氏の『清盛以前』(文理閣)という本を購入し、その中に、平正盛の娘婿の一人が、河内源氏嫡流の源義忠と書いてありました。浅学にしてこのことは全く知りませんでしたが、そうだとすると、伊勢平氏嫡流(正盛以降はそういってもよいと思います)と河内源氏嫡流との関係について考え直す必要があるように思います。

 皆さんはとっくにご存知のことと思いますが、例えば、義忠の養嗣子としての為義と正盛の子の忠盛の交流なども含め、どのようにお考えでしょうか?
お時間があればレスいただければ幸いです。
メッセージ 672 rarara_roadster さんに対する返信


Re: アゲネタです(苦笑)   2010/11/16 18:16 [ No.675 ]
投稿者 : morikeigetu
>場違いな横レス

など、とんでもない。
ただ、源義家や義忠となると、私こそ浅学の徒になります。

義忠が正盛の娘婿のひとりというのは把握しておりましたが、私の中ではそこまでのものでした。
当時は、一夫多妻(多夫多妻?)の婚姻関係や養子・猶子など様々な思惑によって「縁」が生じていますし、解消もされています。

>義忠の養嗣子としての為義と正盛の子の忠盛の交流

というご質問には、きわめて抽象的で漠然としたお返事はできるのですが、それでは失礼になりますので、きちんと整備した投稿をするためにお時間を頂戴したく存じます。
ただ私の個人的な考えとしては、『義忠と正盛の「交流(?)」』は、義忠の死によって終了したと自己完結しています。

義忠に関する史料が少ないのは、つらいですね。
メッセージ 674 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: アゲネタです(苦笑)   2010/11/17 22:33 [ No.677 ]
投稿者 : rarara_roadster
hn2602mk2さん、お久しぶりです。

いつも刺激的な一発をいただき、ありがとうございます(微笑)

さて、実はわたしもこの「清盛以前」は読みたかった本なのですが、未だ手に入れていません。本来ならば、きちんと本を読んで理解したうえでお返事を差し上げるべきなのですが、とりあえず、現時点での意見を書き込んでおこうと思います。

基本的には、忠盛と為義のあいだの事については、「交流」というようなものは、ほとんど無かったのではないかと思います。というのは、ご存知のように忠盛・為義の世代ではすでに伊勢平氏・河内源氏という2つの軍事貴族の格差はかなり大きくなっており、“義忠”という接点がなくなった以上は、仮に正盛・義家の時代に交流があったとしても、その後まで続いたという事は非常に考えにくいのでは、と思っています。

平正盛が院に荘園を寄進したのが1097年、源義家が院昇殿を許されたのが1098年。義忠と正盛の娘の婚姻には白河上皇が一枚かんでいるようにも思います。野口実氏の言うように、白河上皇も、為義が河内源氏の家督を継いだばかりの頃までは目をかけていたようですが(幼い堀川天皇の警護や義朝の生母を娶わせている)、その後、為義自身の粗暴な行動や、彼の統制を聞かない家人の乱暴が相次ぎ、次第に白河上皇の信をなくしたとしています。その一方で、忠盛は白河上皇の信任を得て大国の受領を歴任していったことも上記のことに拍車をかけるのでは、と考えています。

また、本を読んだうえであらためてお返事したいと思います。
メッセージ 674 hn2602mk2 にさん対する返信


早速のレス有難うございました。   2010/11/21 16:16 [ No.680 ]
投稿者 : hn2602mk2
>>義忠の養嗣子としての為義と正盛の子の忠盛の交流

>という質問には、きわめて抽象的で漠然としたお返事はできるのですが、それでは失礼ですので、きちんと整備した投稿をするためにお時間を頂戴いたしたく存じます。

 皆様のお考えだけで十分な質問のつもりでしたが、かえってご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありませんでした。「きちんと整備した投稿」と仰られると、時間などいくらでも待ちます。しかし、本当にご迷惑をおかけしました。重々、お詫び申し上げます。

>ただ私の個人的な考えとしては、『義忠と正盛の「交流(?)」』は、義忠の死によって終了したと自己完結しています。

 なるほど、そうすれば当然、次世代の「忠盛と為義の交流」などはあり得なかった、と言う結論になりますね。義忠の養嗣子としての、為義には義弟となる義忠の実子達がいますし、家長として後見も務めた可能性もあり、義忠の子らの中に正盛娘の子がいれば、交流は間接的にでも続いた可能性もありますが、私は『尊卑分脈』は持っていませんので、この点は不明です。ただ、『清盛以前』には、『異本忠盛集』収載の和歌からの引用(190)にて、

  おはりに下向し侍りけるに、為義がかみといふところにて、馬をひきたりれば
 こころざしみやこのほかに見へぬれば、たびたび人をうれしとそ思ふ

 を挙げています。これは忠盛の尾張守在任中の話だろうと高橋昌明氏は推測し、またこの「為義」は、源為義ではなく、尾張の在庁官人クラスの、同名の他人だと考えられています。しかし、一方高橋崇氏『奥州藤原氏 平泉の栄華百年』(中公新書1622、2002年)には、「『尊卑分脈』によれば、源為義は、「尾張介をはじめ伊与(ママ)・相模・河内・下野各国守を歴任したとある。」と書かれています。忠盛の作歌が何時頃から始まったのか不明ですが、為義の受領としての初任らしい尾張介時代に、(おそらく忠盛は尾張守ではなかったでしょうが)義忠の義弟としての忠盛に礼を尽くした可能性があり得るのではないか?と感じました。

 後は、色々妄想があり、熱田大宮司家が院の近臣としての立場からのみではなく、尾張での源氏の武力を必要とした可能性(伊勢平氏の尾張進出への牽制?)を考えて、義朝を婿に迎えた可能性のでは?と考えたりもしています。
メッセージ 675 morikeigetu さんに対する返信


河内源氏と伊勢平氏   2010/11/21 17:52 [ No.681 ]
投稿者 : hn2602mk2

 早速のレス有難うございます。

>ご存知のように忠盛・為義の世代ではすでに伊勢平氏・河内源氏という2つの軍事貴族の格差はかなり大きくなっており、“義忠Wという接点がなくなった以上は、仮に正盛・義家の時代に交流があったとしても、その後まで続いたという事は非常に考えにくいのでは、と思ってます。

 この点では、ほぼ同感なのですが、しかし、為義が義忠の死後、家督(こんな概念が果たして、当時あったかは問題ですが、「兵の家」としての「家職」という考えはあったでしょう)相続時はまだ弱年でもあり、しばらくは(数年程度?)正盛・忠盛との関係はあったのではないでしょうか?院の近臣として官位が上昇しててとはいえ、白河院政期は伊勢平氏もそう家格の上昇はなかったと思われます。

>平正盛が院に荘園を寄進したのが1097年、源義家が院昇殿を許されたのが1098年。義忠と正盛の娘の婚姻には白河上皇が一枚かんでいるようにも思います。

 『清盛以前』では、正盛娘と義忠の婚姻は、早ければその時期は康和三年((1101年)頃まで遡る可能性がある、とされています。
 もう一つ、気になるのは、義忠の養子が、為義・盛義と二人とも「○義」と頼義流の通字化していた「義」が、いみなの下になっている事です。これを私は、上位貴族から「偏諱」を受けた(当時としては珍しい?)可能性があるのではないか?というものです。この考えは、以前にもこの掲示板の中世トピに投稿したことがあり、高階氏のだれかの「為」を受けたのではないか?と推測したのですが、平賀冠者盛義については、見当も付きませんでした。しかし、正盛と義忠の関係から見れば、平賀盛義の「盛」は、まさに平正盛から一字を貰い受けた、と考えることが可能です。義家・義綱・義光三兄弟の男子は、みな「義」字を諱の一字に持っていますが、ほとんどは諱の上の字であり、義忠の子・孫でも同様ですが、為義と、義光の二子平賀盛義と岡田親義(他に孫の佐竹昌義)が、三兄弟の子・孫世代では例外です。系譜にはないようですが、義光の四男とされる岡田冠者親義も(佐竹昌義も??)或いは、義忠の養子か或いは猶子だったのかもしれません。

>白河上皇も・・・(幼い堀川天皇の警護や義朝の生母を娶わえている)

 これについては、morikeigetuさんへのレスでも触れましたが、伊勢平氏の正盛やその与党(同族で正盛の家臣化しつつあった者)が、尾張に進出しようとして、宿敵の致頼流平氏(長田氏)や或いは熱田大宮司家と衝突する可能性があり、尾張氏から藤原氏に代った大宮司家としても、有力な武力を必要とした、という事情があったのではないでしょうか?
 季範の院の近臣としての立場のみならず、母方祖父の尾張氏から「家職」として相続したと考えられる「大宮司職」の重みも考えるべきだと思います。長田氏が、義朝の乳母子の鎌田正清(山内首藤氏)を娘婿に迎えていることも、長田氏が伊勢平氏の勢力伸張を警戒し、河内源氏嫡流の庇護を必要としていた事の現われと解釈できないでしょうか?
メッセージ 677 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 河内源氏と伊勢平氏   2010/11/23 17:33 [ No.682 ]
投稿者 : rarara_roadster
源義家-義忠-為義と続く後継者の問題については“お勉強”に首を突っ込み始めた当初からよくわからない部分があったのですが、正直いままでスルーしていました(苦笑)。

それはともかく、ウィキペディアの「源義忠」の項目を覗いてみたら、すこしおもしろいことが書いてありました。それによると、義忠の官歴について2010年11月21日の版で父親の義家に早くから後継者と位置づけられ、『若年より帯刀長・河内守・検非違使などを歴任したが、その背景には父源義家の力があったものと思われる』とあります。ちなみに同ページの一覧を見ると、

別名 河内判官、源大夫判官、大夫判官
官位 従五位下[1]、帯刀長[2]、検非違使[3]左衛門大尉[4]、河内守[5]、左兵衛尉[6]、右兵衛権佐[7]

※[1]〜[7]は尊卑分脈

となっています。

編集の履歴を見ると、この義忠の官歴はずっと指摘をされていて、本文のノートページ(編集の意見を書き込むところ)にも次のようなことが書いてありました。

------ウィキ「源義忠」ノートページより抜粋(2009年7月25日署名分)-------

義忠自身についてですが、權中納言藤原宗忠(後に右大臣)の日記『中右記』や攝政右大臣藤原忠實の日記『殿暦』によると、天仁元年十二月廿七日に使宣旨を蒙り(『中右記』)、天仁二年二月三日に殺害される(『殿暦』同六日條)まで檢非違使を務めていましたが、官は左衛門尉でした。位階も正六位上であった可能性が高く、續群書類從完成會『検非違使補任 第一』の天仁元年から天仁二年までの頁には、「左衛門尉正六位上源義忠」とあります。

---------------------(引用終わり)-------------------------------

これによると、義忠が亡くなった時の位階は“正六位上”、官職も検非違使“左衛門尉”ということになり、上記の「別名・官位」には大きな疑問が生じます。「新訂・官職要解」によると『国守には、蔵人、式部、民部、外記、検非違使などが、叙爵の巡によってなる例であった』とあり、正六位ならば叙爵すら受けていない可能性があり、受領である河内守には?マークがついてしまいます。

「尊卑分脈」は重要な史料ですが、後世の加筆も多く、単独で使うには要注意の史料ともいわれています。為義の受領歴も同様で、為義が叙爵されたのは50歳近くの康治元年(1142)、その翌年に藤原頼長に名簿を提出して摂関家の家人となっています。その後、久安2年(1146)に衛府に復帰、検非違使左衛門大尉に任じられていますが、久寿元年(1154)再び検非違使を解官(元木泰雄:「保元・平治の乱を読みなおす」)。その2年後が保元の乱ですから、為義に受領の経験はありません。

高橋昌明氏の『この「為義」は、源為義ではなく、尾張の在庁官人クラスの、同名の他人』というのは、そのことを踏まえたうえでのことと思います。ちなみに、高橋崇氏『奥州藤原氏 平泉の栄華百年』(中公新書1622、2002年)は、以前中尊寺の泰衡首級について別トピで討論した時に手に入れていたので改めて読み返してみました。

ご紹介いただいた「偏諱」のことは、浅学の身にとって、とても示唆に富んだご意見でした。わたしはまだまだその域には達しておりませんが、いずれにせよ、天仁元年(1108)の正盛による義親追討、翌年の義忠暗殺が大きなポイントであることは間違いなく、そのうえでもう一度上記のことを踏まえながら、いただいた宿題に取り組んでみたいと思います(微苦笑)。

提出はだいぶ先のことになりそうです(陳謝)
メッセージ 681 hn2602mk2 にさん対する返信


Re: コーヒータイム『落人伝説』   2010/11/28 10:01 [ No.684 ]
投稿者 : yoshytime
広実申しって、お金(費用)はどっからでているの?
ただの里帰り(盆正月の帰省)とどう違うの?
メッセージ 249 rarara_roadster さんに対する返信


Re: コーヒータイム『落人伝説』   2010/11/28 15:21 [ No.686 ]
投稿者 : rarara_roadster
わたしもこの祭りの詳細までは存じません(苦笑)

(メッセージ 249)に祭りに参加された方のブログのリンクがありますので、そちらでお尋ねになられてみてはいかがでしょう?
メッセージ 684 yoshytime さんに対する返信


『宿題』…、hn2602mk2様。   2010/11/29 22:26 [ No.687 ]
投稿者 : morikeigetu
歌人としての忠盛研究は、私も取り組んだ事がないので、

>忠盛の作歌が何時頃から始まったのか

は、私も存じておりません。

あと、正盛と義忠の系図上の関係が、実際の人間関係としてどうであったか、そしてその縁を踏まえて、あとに続く忠盛と為義がどのような接触を持ったかは『宿題』とさせていただくのですが、おそらく素人努力では判明しないだろうと思います。

ろどすたさんがbU82で指摘されたごとく、『尊卑分脈』はそれを裏付ける確証となる史料が更に必要な史料でありますから、その他複数の史料と重ね合わせながら点検するのがよろしいかと思います。
『宿題』としてお受けした以上、どこかで提出せなばならないと思っておりますが、このトピックを進めていかねばならぬのも、最優先の『宿題』でありますので、どうかご理解いただきたく存じます。


さて、六波羅合戦がピタリと止まってしまいましたが、再起動させねばなりません。
しかし、私どもが意図する六波羅合戦の検証は、『平治物語』を参照しながらも、そのストーリーをなぞるものではありませんので、再起動もなかなか容易くないのであります。

『物語』における最も華々しい場面、重盛と義平の紫宸殿前庭での一騎打ち(?)。
『物語』は、ここで「椋の木」を中心にしてというような表現で描いていますが、この「椋の木」が不明です。
「椋の木」あるいは「樗の木」がどこかにあって、その木のあたりで重盛と義平が走り回ったのかもしれませんが…。
ふと思い出すのが、「信西の首」が掛けられた木。

だいたい『物語』では、二条天皇たちが内裏を脱出した時、義平は賀茂詣に出かけていて、六波羅からの「天皇・上皇脱出!!」というアナウンスを聞いて、義朝の所にそれを告げています。
じゃあ、大宮あたりの火事の時、義平あんたどこにいたの?…ってね。

失礼しました。
ともかく、『物語』における義平の行動描写が突出していて、総大将義朝の影がうすい。
何故『物語』が、敢えてこのようなストーリーにしたのかを考えつつ、注意深く読まないと本当のところの六波羅合戦が見えてこないと感じています。

うーん。
再起動どころか、再起不能?
メッセージ 680 hn2602mk2 にさん対する返信


六波羅合戦:前半戦   2010/12/ 8 19:16 [ No.694 ]
投稿者 : rarara_roadster
内裏を脱出した義朝らは、平氏の軍勢と遭遇し市街戦に突入します。

先だって指摘の2点のうち、「堀川で弓杖を突いて立ち上がる重盛」について。

まず、愚管抄では『重盛が馬をいさせて、堀河の材木の上に弓杖(ゆみづゑ)つきて立て、のりかへにのりける、ゆゝしく見へけり』とありますが、その後は六波羅へと帰還しています。書かれているのはこれだけで、この戦闘の状況の詳細、例えば重盛が誰と交戦していたのか、ということなどはわかりませんし、愚管抄に義平は出てきません。

一方、平治物語では、全般的に重盛VS義平で進行している関係上、この堀川の交戦も二人の戦いとして描写され、そこに互いの従者が主を助けて奮戦する様子を盛り込んでいます。

(平治の乱合戦場所「平治物語」)


で、肝心の場所なのですが、愚管抄では「堀河」とあるだけ。平治物語を見てみると、義平は(紫宸殿前の戦のあと)大宮大路を下って二条大路を東に向かい、堀河で重盛を追い詰めて、そこから源平主従が入り乱れての戦闘になります。

仮にこの場所で実際の戦闘が行われたとすると、義朝の軍勢は大内裏からはさほど離れないうちに、官軍である平氏の軍勢と遭遇した可能性があります。また、愚管抄の『京の小路に入にける上は、散々にうちわかれにけり』とあるのをみると、義朝の軍勢は内裏脱出後に散開したようですから、その中の一部の部隊が堀河で重盛らと衝突したのかもしれません。官軍も敵が散開した以上は、それに対応するごとくやはり散開したと考えられます。

問題は、ここから賊・官両軍がどのように戦いながら主戦場である六波羅まで移動したのか、ということにあります。そのキーポイントは、まず愚管抄の『(重盛が)鎧の上の矢どもおりかけて各六波羅に参れりける』の一文。続いて平治物語にも『官軍いつは(っ)て引しりぞかば、凶徒さだめて進いでん歟。しからば官軍を入かへて、内裏を守護せさせ、火災なきやうに思慮あるべし』という頭中将実国の言葉。

いずれにしても、官軍はすこしでも内裏から離れたところで戦闘を行いたかったということはいえると思っています。愚管抄の重盛は、鎧に矢が刺さってはいますが、堀河での様子は『ゆゝしく見へけり』とあり、余裕すら感じられます。ここはやはり義朝勢が官軍を六波羅まで押し返したのではなく、逆に官軍によって誘い込まれたと見たほうが妥当でしょう。もちろん、義朝の選択肢としては勝ち目のない戦闘よりも、とっとと坂東へ脱出して捲土重来を期すということもあったと思いますが、思った以上に早く官軍に遭遇し、そのまま戦闘になだれ込んでしまったのかもしれません。

ただ官軍も、どうせ兵力に格差があるのは最初から分かっていたのだから、六波羅までおびき寄せなくとも散開した敵を各個撃破することも可能だったのでは、という意見もありそうですが、あらかじめ遭遇地点がある程度予測できるのであればともかく、ほとんど両軍が市中でばったり鉢合わせ、そのまま乱戦に突入というのが真相なのかも知れません。そのなかで、官軍が当初の作戦(だったかもしれない)の「六波羅まで敵を誘い込む」という方針を実行できたのは、やはり官軍のほうにアドバンテージがあったからでしょう。

ところで、平治物語にはこの合戦を見物していたかと思われる人々の様子が描かれています。彼らは、頼盛と八町次郎の戦いに喝采を送り、斉藤実盛と後藤兵衛に敵の首級を預けられ、びびりながら日が暮れるまで生首の番をする羽目になったりと大騒ぎです。もしかすると、実際に合戦のギャラリー達がいたのかもしれませんが、平治物語の描写は兵(つわもの)同士の戦の様子も非常にエンタメ性が強く、けいげつさんご指摘のように保元物語以上にエキサイティングです。

一応京都市中の戦について書いてみました。

けいげつさん、及びギャラリーの皆様のツッコミを待っています。
いや、お手柔らかに・・・。


尊卑分脈の信頼性   2010/12/ 9 1:57 [ No.695 ]
投稿者 : hn2602mk2
については、特にその官位官職については、誇大に記載されている、と言う認識は私も持っています。したがって、高橋崇氏の『奥州藤原氏』記載の源為義の受領歴については疑問を持ちましたが、「国守」ではなく、「尾張介」というのはあり得るか?と思いました。また、いわゆる「在庁官人」としての現地豪族の「介・大掾」自称ではなく、正規の介・掾であれば、知行国主との関連などで、任命され現地に赴任(或いは有力な家人を代官派遣しても良い)する、といった事例もありえるのではないか?と考えたのです。これには高橋昌明氏の『清盛以前』に「五位の郎等」の存在が記されており、高橋昌明氏は、平正盛が、「蔵人五位の執鞭」を務めた、すなわち受領の郎党をとなっていた可能性を示されており、それが当時の習慣でもあったと説明されています。(p45)
 『中右記』の一節を引用して、高橋氏は

「およそ外記・史叙爵の後、受領の執鞭として遠国に赴く、巡年の時参上してその賞に関わる、近年の作法也」
つまり、外記・史などの太政官の職員たちは、叙爵(五位に叙せられる)の後、受領に任命されるまでの間、その実務能力をかわれて、受領の配下となり、遠国に赴くのが近年の通例だという。」

 と解説し、受領の目代層の供給源の一つががこれらの太政官の事務吏僚層であるならば、同じく受領任命を待つ検非違使が受領の従者として、遠国に赴任した可能性を指摘されています。私はこれは採るべき説だと思います。これらの「五位の郎等」は、受領の代理人・パートナーとして位置づけるべきだ、との氏の指摘は首肯できるものであり、特に遠国の公権力の及ばない地域では、事務能力の長けた外記・史などよりも、武威の方が重視され、検非違使(現職者は無理でしょうから、前検非違使尉や馬寮・衛府官人など)などが受領目代などになった可能性は高いと思います。まあ、現代で言えば、受領の請負業といったところでしょう。
 「散位」と称される武官の多くは、或いは、このような受領の下請け(「執鞭」)を行なっていた可能性があります。

 高橋昌明氏は「五位の郎等」と表現されていますが、勿論、「六位」でも当面京官に就かずに(或いは就任していても、余力があれば、自身の子弟や郎党などに代理させて)、目代ヲ務める事は可能だった、大いにあり得たことだと思います。源為義等になると、検非違使を解任されている間に、摂関家や上級貴族の依頼で、そのような勤めを果たしていたのではないでしょうか?

 このような事態を考えると、為義と義朝の関係で、義朝が必ずしも父に疎んぜられたという理由のみではなく、当初はその代理人として、関東の受領の「執鞭」ヲ勤め、それによって、院の近臣を含む貴族層に認められる契機になった、と言う事も考えられます。

 猶、12月4日に河内祥輔氏の『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館)を購入し、7・8の2日間で一気に読み終えました。得るところ大でした。
これを種本に?少し突っ込みを入れるかもしれません(笑)。
メッセージ 682 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 『宿題』   2010/12/ 9 23:29 [ No.696 ]
投稿者 : hn2602mk2
>あと、正盛と義忠の系図上の関係が、実際の人間関係としてどうであったか、そしてその縁を踏まえて、あとに続く忠盛と為義がどのような接触を持ったかは『宿題』とさせていただくのですが、おそらく素人努力では判明しないだろうと思います。

 正盛と義忠の関係については、当時の風習としては、娘婿の面倒を見るのが義父の義務ともみなされていた時代ですから、かなり尻押しはしたと思いますが、確かに次世代の二人の関係については、突き止めようがないのではないか?と私も思います。それで、忠盛の歌の詞書きの「ためよし」がひょっとして源為義であり、養父の義弟たる平忠盛に礼を尽くしたのではないか?という可能性を考えたのです。二人はどうも同い年だったそうですが、既に明瞭な家格差の如きものが生じていたとすれば、ライヴァル意識を抑えて院近臣の有力者となっていた忠盛に甥分としてかえって礼をすることは容易だったのかも知れません。
 尚、『宿題』などと肩苦しくお考えにならず、頭の片隅に置いて戴き、何かの折に関係のありそうな文献やアイデアがあれば、その時にコメントしていただければ幸いです。

>ともかく、『物語』における義平の行動描写が突出していて、総大将義朝の影が薄い。

 それがまさに『物語』つまり「史書」ではない故だ と私などは特に疑問を持たないのですが。
メッセージ 687 morikeigetu さんに対する返信


Re: 六波羅合戦:前半戦   2010/12/10 0:18 [ No.697 ]
投稿者 : hn2602mk2
 最初の突っ込み?です。

>ここはやはり義朝勢が官軍を六波羅まで押し返したのではなく、逆に官軍によって誘い込まれたと見たほうが妥当でしょう。もちろん、義朝の選択肢としては勝ち目のない戦闘よりも、とっとと坂東へ脱出して捲土重来を期すということもあったと思いますが、思った以上に早く官軍に遭遇し、そのまま戦闘になだれ込んでしまったのかもしれません。

 私としては、河内祥輔氏が『保元の乱、平治の乱』で展開された平治の乱の構図にしたがって、先ず最初は信頼が信西を除こうとする後白河の意を受けて源義朝の武力を用いて、信西を除いたが、その後公教が二条天皇側近派などと謀議して、反(後白河・)信頼の動きに成功して、彼らを孤立せしめた、と考えます。この段階で、義朝は、自らが謀反人とされ、死罪を以って償わされる事を悟り、『愚管抄』による師仲の証言

 さて六波羅よりは、やがて内裏へよせけり。義朝は又。「いかさまにも六波羅にて尸をさらさん。一あてしてこそ」とてよせけり。

 に見るが如く、坂東に逃げるのではなく、むしろ決死の覚悟で六波羅を攻め、事態の打開を図る心算だったと思います。
 二条天皇を初め、公卿たちこそ六波羅にいますが、後白河は仁和寺に逃れ、信頼らもそちらに走りました。ここで劣勢とはいえ、活路を求めて平氏の軍を撃破すれば、後白河が翻意する可能性に一縷の望みをかけたのだと思います。
 朝敵となれば、仮に坂東に逃れても没落は必至だったと思われますし、義朝もそう考えていたのでしょう。
メッセージ 694 rarara_roadster にさん対する返信


お説について(河内祥輔氏の)。   2010/12/10 6:46 [ No.698 ]
投稿者 : morikeigetu
突っ込み(?)、ありがとうございます。

根本的な部分において、私たちは「学者」ではありません。
展開している『保元から…』も、素人的「妄想」であり「趣味」であり、史学ならぬ「私学」であります。
専門家の方々が、日々研鑚し研究・発掘された結果に注目しつつ、そのどれを支持するかは「個人の自由」かなと思っています。
「元木泰雄氏vs河内祥輔氏」の議論は、あちこちで展開されています。
『保元から…』は、その議論のフォローを主たる目的とはしておりません。
ただどちらかと問われれば、元木泰雄氏の方を支持しておりますので、どうしてもそれに関する突っ込みは避けられないでしょうね。
「学会の議論」に私たちが結論を出すのは不可能ですし、そんな野心もありません。
難しいですね(微笑)。
ろどすたさんとは「好きな話」をしているだけ。
本名を明かさぬ掲示板なんて、その程度の理解でいいのではないかなと思っています。
hn2602mk2様、どうぞその点だけはご理解下さい。
今、ご指摘は義朝の六波羅特攻の意図に迫りました。
次の私の投稿は、また混ぜ返す投稿になりかもしれませんが、おもしろくなってきたぞと喜んでいます。
メッセージ 697 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: お説について(河内祥輔氏の)。   2010/12/12 16:37 [ No.701 ]
投稿者 : hn2602mk2
>専門家の方々が、日々研鑽し研究・発掘された結果に注目しつつ、そのどれを支持するかは「個人の自由」かなと思っています。

 これはそのとおりですが、しかし、どちらが真実に近いか?は素人といえども議論により了解し合える可能性があると考えています。まあ、古代史など、決め手がないものですから、言い放しになっていますが(笑)。

>「元木泰雄氏vs河内祥輔氏」の議論は、あちこちで展開されています。

 それは全く知りませんでした。実は、このトピで元木氏の説に基づいて話が進んでいるとのことでしたので、本屋で元木氏の著書で読みやすそうな(値段も手ごろな)ものを買おうと思い、一月前物色したのですが、探し方が悪いのか、難しげな専門書が一冊あるのみで断念したのです。で、12/4同じ本屋で今度は河内氏の『保元の乱、平治の乱』を発見し、読みやすそうなのでとりあえず購入し、しばらくしてから読んだのです。

 河内氏の説で納得したのは、私が平治の乱の構図で、源義朝の挙兵の動機がどうもよく理解できなかったのが、腑に落ちたからです。義朝が平氏にそれなりの対抗意識を持ってはいたでしょうが、既に受領・院の近臣として、大きな差を付けられており、それを彼一代で信頼と組んで無謀な賭けをしてまで挽回するという考えが果たしてあったのか?そういう強い動機があったのか?ということです。むしろ、義朝は自らが院の近臣として、正盛・忠盛のように歩もうと考えていたのだと思います。勿論彼は坂東育ちですから、平氏と違って武勲を立てるチャンスは大いに待ち受けていたでしょうが。
 清盛に対する強いライヴァル意識があったかも正直疑問です。清盛がその特に初期の昇進振りなどから考えて、どうも尋常な生まれではなさそうだ、という認識は義朝も持っていたのではないか?と考えています。合戦ではなく、朝廷での出世競争については、清盛に遅れてもある意味当然だと考えていたのではないでしょうか?
メッセージ 698 morikeigetu さんに対する返信


まとめてレスいたします。   2010/12/12 18:58 [ No.702 ]
投稿者 : rarara_roadster
お答えがランダムになってしまいますが、御了承願います。

>「六位」でも当面京官に就かずに(或いは就任していても、余力があれば、自身の子弟や郎党などに代理させて)、目代ヲ務める事は可能だった
>源為義等になると、検非違使を解任されている間に、摂関家や上級貴族の依頼で、そのような勤めを果たしていたのではないでしょうか・・・

手持ちの本の中から抜き出してみました。

保安4年 1123 源義朝生まれる(母・藤原忠清娘)
大治4年 1129 為義等、鳥羽院の命により悪僧を追捕
天承2年 1132 忠実、内覧復帰

保延2年 1136 近江の宇多源氏佐々木氏系の源行真を郎等として組織
康治元年 1142 興福寺僧15名奥州配流(為義が護送)。為義、叙爵される。
康治2年 1143 為義、頼長に名簿を提出。
久安2年 1146 為義、衛府に復帰。左衛門大尉就任。

久寿元年 1154 為義、検非違使解官
保元元年 1156 鳥羽院崩御、保元の乱勃発(7月11日早暁)


ご指摘のことについては、やはり有力な権門の庇護の下でないと実現は難しいでしょう。

保延2年(1136)に郎等として組織した近江の宇多源氏佐々木氏系の源行真が藤原忠実の舎人であることから、為義が摂関家と結びついたのはこの時期であろうと思われます(元木泰雄)。hn2602mk2さんの説によると、これ以降の時期が「エージェント・タメヨシ」が登場可能になると思います。また、久安2年(1146)には衛府に復帰、検非違使左衛門大尉に任じられていますので、以降はエージェント業の従事は難しいと思います。従って、エージェント・タメヨシの活動可能な期間は保延2年(1136)から久安2年(1146)のおよそ10年間と仮定できますね。

忠実が為義と結合した大きな理由のひとつに興福寺悪僧の統制があります。白河院の度重なる興福寺に対する介入に際し、年若くして摂関家を継承した忠実は氏寺の統制に苦慮します。また、白河院に更迭された忠実の後を継いだ忠通も同様でした。

鳥羽院により復権を果たした忠実は、興福寺悪僧の首魁信実を取り込むことに成功し、その押さえとして為義の武力に期待したわけです。康治元年(1142)に奥州に配流された15名の興福寺僧は、頼長に言わせれば「法を知る者たち」、つまり悪僧の反対勢力だったのですが、そういった人たちを排除することによって興福寺の統制を図っていたとすると、それがいかに苛烈であったか伺えます。そういった中で、同年に為義がようやく叙爵。おそらく、興福寺統制などで一定の功績をあげることができ、摂関家の推挙なり根回しがあったのでしょう。

わたしは、このエージェント可能期間の前半は、興福寺統制の主要武力としての任務がかなりのウエイトを占めていたのではないかと考えています。もちろん摂関家の警察武力として、摂関家領荘園の警備などの仕事も含めた上でのことです。そのような中で、為義自らが目代や受領の補佐官として他国へ下向するのは少々難しいと思っています。

いずれにせよ、台記や殿暦を徹底的に読んでみないと確たることは言えないので、現時点ではここまでがわたしの精一杯です(苦笑)。


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/12 19:05 [ No.703 ]
投稿者 : rarara_roadster
>12月4日に河内祥輔氏の『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館)を購入し、7・8の2日間で一気に読み終えました。得るところ大でした。
>これを種本に?少し突っ込みを入れるかもしれません(笑)。

これは武者震い。と言いたいところですが、少々ビビッています(微苦笑)
539にも書きましたが、この河内氏の『保元の乱・平治の乱』は、わたしが種本にしている『保元・平治の乱を読みなおす』元木泰雄氏(NHKブックス)とは因縁浅からぬ本で、その「あとがき」で元木氏は、

>同書(河内本)の衝撃なくして、本書(元木本)で提示した新たな論点は生まれなかったと思われる。

としたうえで、

>反面、河内氏は新解釈を目指すあまり、それまでの学説を無視した面もあるし、天皇・上皇の主体性を過度に重視して他の政治勢力を顧慮しないなど、政治史の方法論を否定するかのような極端な評価も見られた。こうした点については、強い反感を感ぜざるをえなかった。

>氏の書物に対しては、感謝と同時に不満を抱いたというのが偽らざるところである。

と述べています。

わたしはこの2冊を読み比べた結果、元木説に傾倒するに至ったわけですが、河内氏の本もなかなか興味深い面もあり、このトピにおいては「良いとこ取り」で使っています。まあ、8:2〜9:1くらいでしょうか。

河内氏は平治の乱において、(12月)9日の事件「三条烏丸殿焼討ち」と25・6日事件「六波羅合戦」を分けて考え、そのなかで、

>最初は信頼が信西を除こうとする後白河の意を受けて源義朝の武力を用いて、信西を除いた

550の「妄想合体!まとめです」でも書きましたが、「後白河はあくまで中継ぎであり、近衛天皇の正統な後継者は後白河の息子二条天皇である。それを定めたのは父である鳥羽法皇だが、元来、天皇は父(祖父)院に対しある種の反感を持っている。鳥羽院が白河上皇に反発したように、後白河もまた鳥羽院に逆らおうとしたのではないか。信西らは今は確かに後白河の政務を補佐しているが、その先に見ているのは二条天皇による政務である。つまり、信西が健在のうちは、後白河による院政の確立はないと考え、鳥羽による二条ではなく、もう一人の後白河の息子である守覚法親王の擁立を目指したのではないか。それで信西を排除しようとしたのが12月9日の事件である」

この時点で『謀反人』とされたのは『信西』で、信頼ではない。としていますね。
メッセージ 702 rarara_roadster さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/12 19:07 [ No.704 ]
投稿者 : rarara_roadster
すみません。字数が多すぎてケラれました。続きです。

注目されるのは、河内氏は「火攻め」について『二 9日事件の様相』のなかで、

--------------------------------------------------------------------------------
『愚管抄』は、信頼方は襲撃作戦の一環として計画的に放火したというが、それは実情にそぐわないのではないか。むしろ、火災のために襲撃は不首尾に終わったように見受けられる。
(中略)
実際は失火であったのではないか、と想像してみたくもなろう。
そもそも、信西父子を襲うために放火は必要であろうか。なぜ信頼方は三条烏丸殿に放火しなければならないのか、釈然とした説明がつくようには思われない。
--------------------------------------------------------------------------------

と書いています。

坂東武士団の棟梁で、保元の乱でも火攻めを進言した義朝です。しかし、だから三条烏丸殿においても、というのはいささか短絡過ぎで、義朝が「火攻め」を行ったのは、やはりそれ相応の理由があると考えるべきでしょう。

それには『陰暦の9日、深夜』ということが重要なファクターになると思います。つまり、「火によって戦場を明るくする」ということです。また、火から逃れるために建物に隠れていた人は外に飛び出てきます。また、戦場が明るければ、『同士討ち』を防ぐこともできます。

確かに、信西一族は信頼・義朝の襲撃からからくも逃れています。「北のたいの縁の下」に隠れていて助かった信西の息子俊憲について河内氏は、

--------------------------------------------------------------------------------
火事であれば、屋外に飛び出すのが普通であり、縁の下に逃げるのはおかしい。俊憲が縁の下にもぐりこんだのは、信頼方の襲撃から逃げるためであろう。まず信頼の襲撃があり、縁の下に隠れたところ、次に火災が起き、(略)縁の下から飛び出し、三条烏丸殿から脱走した。
--------------------------------------------------------------------------------

と述べています。

しかし、信西は信頼の謀反を予測しており(だからこそあえて一族で三条烏丸殿にいた)、その場合、義朝が先頭切って攻めてくるのは必定です。そして、保元の乱の際に義朝の進言した「火攻め」を公認したのは他ならぬ信西自身。当然、一族に『もしもの場合』を想定して、避難方法を徹底していたことは想像できます。

と、素人なりに考える次第です。

さて、

>義朝は又。「いかさまにも六波羅にて尸をさらさん。一あてしてこそ」とてよせけり。

これについてはもちろん仰るとおりなのですが、結果的に義朝は六波羅の合戦場から落ち延びているということが、どうしても引っ掛かってしまうんですよね。出撃時は決死の覚悟だったのが、どのように心変わりしたのか、と。それであくまでも『選択肢』としてさっさと坂東を目指すというのもありでは、ということを捨てきれないでいます。

もうひとつ、官軍としてはやはり『平安京』の中に戦のケガレをできるだけ撒き散らしたくない、という意識があったのではないかと考えています。それに自暴自棄になった賊軍がそれこそ市中に放火するようなことがあれば、それこそ一大事です。それでいたずらに市街戦で殲滅を図るよりも、鴨川の河原に誘い込んで一気に殲滅という作戦だったのではないかというのが、わたしの妄想です。

ちょっと待った!いまは六波羅が皇居だがね。天皇さんのそばで戦をするのはええんかい?

と言われれば、「それでいいのだ(byバカボンのパパ)」とお答えしておきます(自滅)
メッセージ 703 rarara_roadster さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/13 17:49 [ No.706 ]
投稿者 : rarara_roadster
今回のタネ本です(微笑)


メッセージ 704 rarara_roadster さんに対する返信


種本・参考文献   2010/12/15 17:04 [ No.707 ]
投稿者 : hn2602mk2
 種本ならぬ参考文献のご紹介、有難うございました。
私は、貴族社会にはほとんど関心がなく、武家についてはそれなりに興味を持っているので、人物叢書の類では、かなり昔に『源頼政』とかを読んだ覚えがありますが、今は(転居を2回繰り返した事もあって)本の行方が不明となっており、比較的最近読んだ『畠山重忠』ぐらいしか記憶にありません。
源平角逐関係の他の本も何冊か読んでいますが、『藤原忠実』など貴族物は全く手を出していません。
 ご紹介の本のうち元木泰雄氏の本はこのトピの基礎文献ですから、ご紹介されてから近所の書店を覗いたのですが、発見できませんでした。多分NHKブックスだと思いますが、今度の土曜日に大きな本屋で探し出し購入する予定です。『源氏と坂東武士』『武家の棟梁の条件』の2冊については、何と無く書名に覚えがあり、立ち読みで目を通していた可能性があります(昔の本であれば購入して読み、どこかにしまいこまれている可能性もありますが、最近の出版であれば、まず購入していないでしょう)。

 本来なら、元木氏の本を読了後にレスを付けるべきですが、武家〜武士については、もう少しその前に質問〜コメントさせて戴きます。
メッセージ 706 rarara_roadster にさん対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/17 0:37 [ No.708 ]
投稿者 : hn2602mk2
私のトンデモな考えをご検討戴き、有難うございます。
トピ主のmorikeigetsuさんも憂慮されておられるように、枝葉末節の話で本筋の平治の乱の話が進展しないようであれば、放置して戴いてもかまいません。ただ、私としては、今後続く予定の源平争乱での特に「源氏」の実態がどうであったか?はたして源頼朝が「源氏の嫡流・源氏の棟梁」(の後継)を称し得る存在だったのか? 改めて考える契機ともなったことであり、しばらくは、河内祥輔氏の考察を重視したいところです。
 さて、源為義が「受領の五位(或いは六位?)の郎等」としてその請負と言うか代行と言うか、まあ「執鞭」業?を行なっていたか?ということですが、

>ご指摘のことについては、やはり有力な権門の庇護の下で無いと実現は難しいでそう。

 については、十分な武力を持ち、本人自身が現場に出張らなくても、家嫡の長子義朝、或いはそれ以外の義賢、義憲、頼賢、更には為朝あたりでも、国司(受領)のバックアップがあれば、「執鞭」業務は可能だったと思います。ましてや、河内源氏一門内では、為義を棟梁として仰ぐもの等ほとんどいない状況(特にその若年時)であったとしても、祖父義家の後継指名や鎌倉館(義家の母方祖父平直方からの相伝の所領)相続が在った可能性が高く、それが事実であったとすれば、義国流の上野・下野、義光流の常陸・甲斐などの同門の先住者が基盤を確立している地域以外の相模・武蔵等では、受領と手を組めば、成果を十分にあげられたと思います。まさに義朝の坂東下向とその成果こそ、彼が「執鞭」としての行動を示し、成功を収めて(五位の郎等であったかどうかは別にして)評価されて「受領」下野守に起用される一因にもなったのではないでしょうか?勿論、「権門」この場合は「院の近臣」レヴェルかも知れませんが、の推挙はあったでしょうが、彼らにも十分な見返りを払い、或いはそう信じ込ませるに十分なものが義朝にはあったのでしょう。残念ながら父為義にも弟達にもそれはほとんど欠けていた資質だったのかもしれません。唯一、資質のありそうな義賢が同じ事を試みた時、義朝は直ちにこれを排除したのだと思います。

>従ってエージェント・タメヨシの活動可能な期間は保延2年(1136)から久安2年(1146)のおよそ10年間と仮定できますね。

 受領の目代や代理人としての「執鞭」は、有位者(官職についていなければ、散位ということになります)であれば、任国の在庁官人や豪族に押しが利くでしょうが、強力な武力を当人もしくはその一族が持っていれば、「力」として行使できます。従って、「エージェント」業としての為義本人が高橋氏の言う「五位(〜六位?)の郎等」として直接の「執鞭」業を営むとすれば仰るとおりほぼこの10年間だと思いますし、彼が護送業務などで京を離れた他は、基本的に在京していたらしいことを考えれば、彼自身が「執鞭」を務めたとすれば、有力な権門、特に名簿を差し出した摂関家に近い貴族の知行国や任国だっただろと思います。おそらくは、畿内・近国でしょう。しかも、畿内・近国は院政期に入り、受領の甘みのある国衙領は減少し、荘園が多かった時代ですから、むしろ、他の貴族や地元豪族から「依頼主の荘園を守る」のが主だったかもしれません。ご紹介の宇多源氏の郎等化もそのような仕事との絡みで生じたものだと思います。武力提供者としての「兵」の仕事は、護衛の他は荘園の防衛(隣の荘園との境界争いに勝つ事も含め)だったと考えられます。
 まさに

>もちろん摂関家の警察武力として、摂関家領荘園の警備などの仕事も含めた上でのこと

 で有り、この点では、皆の意見が一致する点だろうと思います。
で、有力な武士の場合は、本人の代わりに影響力のある地域(為義の場合には主に東国ですが)に子弟や腹心の郎等を派遣したのでしょう。要するに、受領に頼まれた場合には「執鞭」と言う事になりますが、機会を得れば自ら押領する、という行為そのものは、「兵の家」のそれこそ「家業」だったというべきだと思います。
メッセージ 702 rarara_roadster さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/18 0:04 [ No.709 ]
投稿者 : hn2602mk2
河内氏のご本も読破された上での元木説採用ということであれば、まだ元木氏の本を読んでいない私の出る幕でもありませんが、以前から源義朝の挙兵の動機とされる「清盛への対抗意識」なるものが本当にあったのか?また「信頼に組した理由」が彼が後白河の最側近であったからとするならば、仮に信頼が信西を除いた後も後白河の寵愛を受け続けるという確信がない限り、その誘いに乗るはずがない、と言う疑問に対する「明解な答え」を、河内氏は提示した、と感じたからです。

 この当時、既に平正盛・忠盛父子二代の院の近臣としての務めにより、為義・義朝の「家格」とは大差がついており、その上、清盛個人も若年時のその急速な出世振りは忠盛のお蔭と言うレベルを明らかに超えており、義朝が嫉妬心を持つ水準ではありえません。義朝としては、自身が正盛・忠盛父子と同様なコースを辿ろうと考えていたと思います。順調に計画通りに運んでいるのに謀反などに踏み切るわけは無いと思います。勿論、解官とか何らかの処分を受け、追捕される、といった可能性があれば別ですが、たかが信西の子息を婿にし損なった程度で、信西を殺すための挙兵など馬鹿げた事です。
 信西を殺そうとするのであれば、郎等に命じて暗殺させ、犯人を口封じに坂東に奔らせれば済むことです。そのあたりの事は、高橋昌明氏の『清盛以前』の始めに武士の持つ「職業的殺し屋」的性格が活写されていますが、参考になります。

 12月9日の事件について、河内氏の

>この時点での『謀反人』とされたのは『信西』で信頼ではない。としていますね。

 という考察は、私は全く正しいと思います。
メッセージ 703 rarara_roadster さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/18 0:27 [ No.710 ]
投稿者 : hn2602mk2
 信西が、信頼の謀反を予測していたのなら、あえて一族で三条烏丸殿に集まるのではなく、子息達は(自身は覚悟していたとしても?)里方に各個に避難させれば良いでしょう。また、清盛や源義忠の子供達(母方祖父の正盛や叔父の忠盛に養われて伊勢平氏と親しかった)などに護衛を依頼するなどの計画を立ててこそ、信西らしいと思います。全く何の準備もせず、義朝が兵力を集める予測があるなら内偵させる、とかの手も打たないのは、明らかに「信頼・義朝の謀反」を予期していなかったからでしょう。
メッセージ 704 rarara_roadster さんに対する返信


正盛・忠盛父子と義忠・義清父子の関係   2010/12/18 1:21 [ No.711 ]
投稿者 : hn2602mk2
>正盛と義忠の系図上の関係が、実際の人間関係としてどうであったか、

 についてですが、ざっとネットで調べた範囲ではどうも、平忠盛の「忠」は、源義忠の偏諱を受けたものであり、これは義忠が忠盛の「烏帽子親」(忠盛が義忠の「烏帽子子」)だったことを意味するようです。
 同様に、平清盛も、義忠の四男義清の烏帽子子だと考えられます。
義忠の死後、その養嗣子だった為義を除く義忠の実子五人(経国・義高・忠宗・義清・義雄)は母方で養育されたか、為義が養育したと考えられますが、正盛娘所生と思われる義高・義清・義雄は正盛邸か忠盛邸、或いはその双方で成人したと思われます。三男忠宗の「忠」が、父義忠の「忠」を受けたのではないとすれば、平忠盛が烏帽子親で、その「忠」を烏帽子子として受けたのかもしれません。その場合でも、義「忠」⇒「忠」盛⇒「忠」宗と言う関係になりますが。長子経国は「河内源太」と称し、河内源氏の通字「義」がその諱に含まれておらず、従って正盛の娘の子では無く、義忠の庶長子だったのではないか?(多分忠宗も庶腹?)と私は考えます。その養育は一応義兄為義が当たったのかもしれません。「河内源太」は確か『平治物語』では義朝側に参戦していたように思いますが、義朝の一門としては、その三子以外には、弟義盛(行家)、大叔父義隆(陸奥六郎、森冠者)、平賀義信しか見えておらず、別人かもしれません。
メッセージ 687 morikeigetu さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/19 2:38 [ No.712 ]
投稿者 : rarara_roadster
>十分な武力を持ち、本人自身が現場に出張らなくても、家嫡の長子義朝、或いはそれ以外の義賢、義憲、頼賢、更には為朝あたりでも、国司(受領)のバックアップがあれば、「執鞭」業務は可能

義朝の場合、最初に受け入れられた上総介常澄は頼信に臣従した平忠常の子孫で、摂関家領菅生荘の荘官です。また、三浦氏、波多野氏もそれぞれ摂関家領三崎荘、波多野荘の荘官で、中村氏も摂関家と関係の深い早河荘の荘官でした。波多野氏の祖佐伯経範は前九年合戦の折、頼義戦死の誤報に接し殉死したことで知られていますが、彼は秀郷流に属する在京の軍事貴族でした。それが摂関家領の荘官として下向したもので、頼義との主従関係は在京中に形成されたらしく、そこに源氏が伺候していた摂関家の家産機構の媒介が想定されます(元木氏:「保元・平治の乱を読みなおす」)。

彼らは摂関家領の荘官であると同時に相模国衙の在庁官人でもあり、天養元年(1144)義朝は三浦氏や中村氏を率いて大庭御厨に乱入しています。この時、義朝は国衙側に立って行動しており、これによって長年三浦氏と大庭氏の間にあった紛争が調停され、義朝は大庭氏を傘下に組み入れることに成功しています。当時の相模守である藤原頼憲は、鳥羽院近臣であると同時に摂関家の大殿忠実に従属する立場でした。

これらには河内源氏の武門としての権威や、豊富な合戦・戦術知識など、伝統的な武威も存在したと考えられますが、官位の低迷する為義や、無官の義朝の「権威」のみで調停が実現することは難しく、そこにはやはり忠実や院のバックアップがあったといえます。義朝は中央の権威に依存して武士団を把握しており、それゆえに、中央の情勢の変化とともに、彼の政治的立場も変容した、と元木氏は同書で述べています。

つまり、忠通VS頼長・忠実の対立が深刻化するにつれて地方においても摂関家の権威が低下し、摂関家領の荘官たちも次第に在庁官人としての立場を明確にするようになり、同様に彼らを統率する義朝も次第に院近臣に接近していったわけです。その結果、頼長に従属する父の為義を追い抜いて受領へと任官するに至りました。

保元の乱の前年久寿2年(1155)8月、武蔵国大蔵館を義平が急襲します。これは自分の統率を離れて独自の活動を始めた義朝を牽制するため、為義が義賢を北関東へ派遣したことに端を発します。義賢を庇護する秩父重隆は武蔵国衙の有力在庁で、長年、新田氏らと争っていました。元木氏は、この事件が朝廷内で大問題にならなかったのは、義朝と提携する武蔵国守の藤原信頼が事件を黙認していたためとしています(元木氏:同書)。

(以前hn2602mk2さんが書き込まれたのはこのあたりの論議の時でしたね(微笑))

この合戦をわたしは、「心身ともに頼長に臣従」していた義賢(河内源氏嫡流)と、美福門院と結ぶ義朝・義平(河内源氏傍流)という“中央の対立を反映”した争いであり、信頼も、もともと美福門院に支援されていることから(彼女の御給により叙爵)、有力在庁の紛争を調停したい武蔵国衙(信頼)と義朝・義平の『ギブ アンド テイク』であると考えています。

まえに「有力な権門の庇護の下」と書いたのは、以上のような状況を意識しているんですよね。
メッセージ 710 hn2602mk2 にさん対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2010/12/19 2:43 [ No.713 ]
投稿者 : rarara_roadster
>源義朝の挙兵の動機とされる「清盛への対抗意識」なるものが本当にあったのか?また「信頼に組した理由」が彼が後白河の最側近であったからとするならば、仮に信頼が信西を除いた後も後白河の寵愛を受け続けるという確信がない限り、その誘いに乗るはずがない

元木氏は、『義朝の挙兵』については、これまでの通説のように「義朝が自分の娘と信西の息子是憲の婚姻を望んだが信西に拒絶され遺恨に思った」ということは否定しており、「保元3年の時点で信西一門はすでに公卿並みであり、五位に過ぎない義朝がはなから婚姻を望める状態ではなかった。また、学者・官僚の信西一門の是憲を武門である義朝の婿とするのは、信西もふさわしくないと考えたはず。これに対し、清盛一門は家格も同格で、武門とはいえ、大国受領系でもある平家一門ならば家柄も相応と言える」

とし、「こうした事情から考えるならば、いくら縁談を断られたからといって、義朝が信西を打倒しようとするほどの憤懣を有したとはとうてい考えがたい」と述べています。義朝は、信頼と提携する関係上、彼に従って挙兵したに過ぎず、そこには清盛に対する対抗意識や信西に対する不満よりも、それをきっかけに自身の立場を躍進させることが目的だったと考えられます。このあたりは、hn2602mk2さんと差異はないと思います。

さて、平治の乱に対する元木説と河内説の大きな違いのひとつに、「藤原信頼」の人物像と彼が義朝と提携するに至った経緯があります。元木氏は、以前書き込んだように(356〜)信頼の官歴や竹内理三氏の言葉を引いて「平治物語や愚管抄の述べるような後白河の寵愛だけを頼りとするような人物ではない」としています。

元木氏の平治の乱、主に「9日事件」についての捉え方は、

「保元の乱による王家・摂関家の解体と、院近臣家の自立による政治混迷の所産」であり、その中で伝統的院近臣家と新興の院近臣である信西一族の対立が表面化。二条天皇側近である藤原経宗・惟方は、後白河側近で伊勢平氏・河内源氏・奥州藤原氏という軍事貴族とパイプを持ち、尚且つ摂関家の後見という立場にある藤原信頼を取り込み、後白河・二条両者の側近という位置にある信西一族を排除した」

と同時に

「後白河を政務から隔離し、二条天皇に政務を行わせるにいたった」

としています。

まあ、六波羅行幸時の後白河の様子から察するに、「幽閉」というよりは「放置プレイ」と言ったほうが適切かもしれませんが、いずれにせよ、院の御所である三条烏丸殿が襲われ、その後は内裏の片隅で「放置プレイ」ですから、政務から隔離されたのは事実です。

河内氏の説のように後白河の意を受けて信頼が挙兵したのであれば、9日から25日の六波羅行幸までの間に仮の院御所を用意するのが筋でしょう。元木説の9日事件の結論は、「信西一族の排除と後白河院政の停止」です。

そして信西の首級が獄門に掛けられたということは、河内説と同様に“信西一族は謀反人”として扱われたことを意味する、としています。


>明らかに「信頼・義朝の謀反」を予期していなかったからでしょう。

これについて元木氏は、

信西とともに二条側近の長男の俊憲が院御所にいたことから、おそらく経宗・惟方らによって信西一族は天皇周辺から排除され、院に依存せざるをえなくなっていたのであろう。

としており、

すでに「長恨歌」の絵巻を作成し、信頼の危険性を後白河に訴えた信西のことだから、日ごろから政変の 勃発をある程度予知していただろうし、直前に武士の動きなどから信頼の攻撃を推測した可能性は高く、息子たちにも父から危険は知らされたのかも知れない。そうであれば、一族にも緊急事態に際して脱出する準備があったのではないだろうか。
(信頼方も)急遽、隠密裡に行動したのであるから、人数も少なく(略)見張りも不十分となり、主要な人物を取り逃がすことになったのであろう。

と述べていますね。

しかし、その「長恨歌」の絵巻を後白河に見せたのは、平治元年(1159)11月15日。事件の三週間前なのですが、元木氏は、上記を書いたわずか3ページ後に、しかし、絵巻を通して発した信西の警告を後白河院は無視した。おそらく、院は信頼を信用していたのであろう。そうであれば、信頼に信西の告発を伝えた可能性もある。院がそのような態度を取る以上、もはや信西を保護してくれるものは存在しない。

と書いていて、それならば、信西は後白河に見放されてなおかつ3週間も院御所に居続けたんかい?となってしまうのですが・・・(苦笑)
メッセージ 710 hn2602mk2 さんに対する返信


今年もいよいよ・・・   2010/12/30 17:58 [ No.716 ]
投稿者 : rarara_roadster
大晦日を残して少々早い気もしますが、今年一年間お世話になりました。

けいげつさんをはじめ、お忙しい中をサポートしてくださったけいげつ2さん、いつも刺激的な『カンフル剤』を投稿してくださるhn2602mk2さん、また、ロムしてくださっている方々、どうぞ来年が皆様にとってより良き年となりますよう、お祈り申し上げます。

新年のご挨拶は、またブログでもさせていただきたいと思います。


Re: 今年もいよいよ・・・   2010/12/31 11:04 [ No.717 ]
投稿者 : morikeigetu
ご挨拶、ありがとうございます。

まぁ、個人的に大変な1年でした。
この掲示板も、ろどすたさんやmorikeigetu2氏のおかげで生き延びました。
心からお礼申し上げます。
特に、ろどすたさんのご努力によってバージョンアップした『保存版』が残されているのが、最大の喜びです。
目下「平治の乱」はだるまさんがころんだ状態ですが、hn2602mk2さんのご参加により、私も新たな勉強の必要性を感じております。

本当にありがとうございました。
来年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
メッセージ 716 rarara_roadster にさん対する返信


Re: 今年もいよいよ・・・   2010/12/31 18:07 [ No.718 ]
投稿者 : hn2602mk2
 12/18に元木泰雄氏の『保元・平治の乱を読みなおす』を購入するつもりで、書店に出かけたのですが、なんと、店頭にあったNHK出版の目録を調べると、巻末の「品切れ」のところに載っていました。トホホ。
 で、ご紹介の文献の内の一冊『藤原忠実』が書棚にあり、著者が元木氏でしたので、とりあえず購入しました。が、何と無く貴族の伝記は読む気がせず、しばらく放置していましたが、20日に今年最後の本屋覗きに新開店の大規模書店に行き、小島毅『義経の東アジア』(株式会社トランスビュー)、鈴木国弘『日本中世の私戦世界と親族』(吉川弘文館)、湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟 @鎌倉党』戎光祥出版)の三冊を買い込みました。とっつきやすそうな『相模武士』を斜め読みしましたが、余り得るところがなく、完全に読む気が失せ(金を出した以上勿論いつかは最後まで読みますが、多分一月以上先でしょう)、遂に昨日『藤原忠実』を読みました。これは一気に読め、末尾の年表も全部読みました。う〜ん、それにしても『保元・平治の乱を読みなおす』が読みたかった。

 No712,713には何れレスしますが年内はちょっと時間が取れません。

 トピ主さま初め、ろどすたさん、morikeigetsu2さん、皆様方来年も宜しくお願い申し上げます。
メッセージ 716 rarara_roadster さんに対する返信


今年はいよいよ・・・   2011/ 1/ 8 14:45 [ No.720 ]
投稿者 : rarara_roadster
平治の乱に決着をつけられるといいなと思っています(微苦笑)

>NHK出版の目録を調べると、巻末の「品切れ」のところに・・・

https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00910172004
そのようですねえ・・・。
アマゾンも「お取り扱いできません」となっていたので、「あれれ?」と思っていたのですが・・・。
まあ、アマゾンの場合、マーケットプレイスに出品されてはいますが・・・。

この元木本・河内本は、どちらの説を採るかということは読み手によって違ってくるでしょうが、両書とも『保元・平治の乱』という時代のターニングポイントといえる事件に対し、一石を投じた良書として位置づけることができると思います。

ブログにも書いたのですが、2冊をあわせて読んでこそ意味があると思っています。なんとか元木本も読んでいただければ、と思っています(苦笑)。

>湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟 @鎌倉党』戎光祥出版

実はわたしもこの本を購入しようと思っているところでした。

>余り得るところがなく、完全に読む気が失せ・・・

え〜?そうなんですか?うーむ、どうしようかな(苦笑)

ところで、

>貴族の伝記

わたしも基本的にはこの時代の、特に平家一門を中心とした「武士・軍事貴族」というものに興味を持っていろいろと調べているのですが、どうしても「貴族」との関わりが出てきます。「人物叢書:藤原忠実」も「保元・平治の乱を読みなおす」を読み進めていくうちに、なかば読まざるを得ない状況、つまり白河院時代の摂関家の様子が知りたくなったんですね。それで、初めは地元の図書館で借りてきて読んだのですが、借りたものは返さないといけないので(笑)、後日思い切って買った次第です。
メッセージ 718 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2011/ 1/10 19:20 [ No.721 ]
投稿者 : hn2602mk2
>義朝の場合、最初に受け入れられた上総介常澄は頼信に臣従した平忠常の子孫で、摂関家領菅生荘の荘官です。また、三浦氏、波多野氏もそれぞれ摂関家領三崎荘、波多野荘の荘官で、中村氏も摂関家と関係の深い早河荘の荘官でした。

 しかし義朝は、上総(御)曹司と言われ、上総介氏と組んで、相馬御厨に介入し、結果的に千葉氏を家臣にしていますが、鎌倉御曹司としては鎌倉に居住しているとほぼ確認されるものの、上総については居住したのではなく(一時的滞在?)、上総介氏のために何か相馬御厨の利権を千葉介から割譲せしめた、という気配もなさそうです。結局義朝は房総平氏を掌握するための行為を行なったのであり、それは成功しました。大庭御厨侵入についても、同様に鎌倉党を従属させています。鎌倉党の系譜はわかりにくく、義朝の相手だった平景宗が大庭氏だったのか、長江氏だったのか、或いは鎌倉党ですらなかった(「平」を中村氏の通字とする?)のかも一概には決められません。(実は『相模武士@鎌倉党』を購入したのは、そのあたりの新しい知見が得られるのかと期待した。)

>波多野氏の祖佐伯経範
>秀郷流に属する在京の軍事貴族
 
 佐伯氏は古来の大伴氏の支族か、俘囚の佐伯部の後孫であり、秀郷流藤原氏というのは、仮冒であろうと考えていました。何か、史料が波多野氏の系図以外にあるのですね。

>義朝は中央の権威に依存して武士団を把握しており、

 勿論、中央の権威を利用したでしょうが、在地、特に東国の事情を元木氏は軽視し過ぎているように思います。まだ第一編しか読んでいませんが、鈴木国弘氏が『日本中世の私戦世界と親族』(吉川弘文館)で言う「自力救済世界」としての東国では、おそらく国郡規模の武士団同士の対立の調停者として源義朝が求められていたのではないか?と思われます。それには、義家以来の河内源氏の嫡流、という立場は、摂関家の家産機構と言う背景に劣らず重要な要素だったと思われます。
メッセージ 712 rarara_roadster さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2011/ 1/10 23:13 [ No.722 ]
投稿者 : hn2602mk2
 義朝の挙兵の動機について、先ず信西一族を除く最初の9日事件については
@河内説では、後白河院の意図を体した信頼に、義朝も従った(この場合、清盛は信西・信頼双方との婚姻関係があり、信西一族に急を知らせる可能性がないとは言えないので、必然的に義朝の軍が使用されることとなった)
A元木説では、二条親政派(後白河排除派)に丸め込まれた信頼が 義朝に工作した
 と言う流れになり、どちらにしても信西排除は、義朝にとっては信西との縁がない自分にとっては、不利益にならないし、リスクも少ない、と判断でき、特に信西を女婿としている清盛に対する得点になる、と言う事で、河内氏も元木氏も義朝の動機には十分だと判断されているわけですね。
 後もう一つ、忘れ去られている源義忠以降の河内源氏の家督(と言うか代表権のようなもの)の決着を明確にする意味もあったのではないでしょうか?
 既に保元の乱で戦功を上げ、昇進を果たした義朝が、義家以来の河内源氏の正嫡と見做されていたと考えられますが、しかし、清盛の従兄にあたる義忠次男義高は従四位下左兵衛権佐にのぼり、当然、義朝より年長でもあり、義朝の叔父(為義の弟)に相当することになります。また他にも義親の長男義信(為義の兄)の系統もあり、清盛は、義忠の子の官位を引き上げて、義朝にの対抗馬を作ることも可能だったでしょう。
もし義朝が清盛に対し、脅威を覚えたとするならば、むしろこのような術策を行なわれる事があった場合だと思われます。そのためにも義朝には、朝廷に自らの価値を認識させる必要があり、後白河・二条何れの意図にせよ、信頼の誘いに応じる動機になったのかもしれません。

>元木説の9日事件結論は、「信西一族の排除と後白河院政の廃止」

 う〜ん、これも十分にありそうですが、一旦院政に入った上皇をそう簡単に排除できる、とか、或いは、白河院政以降、天皇親政が公家の公論に成り得たのか?は気になります。
 第一、その場合、二条親政を信頼がどのように受けとめ、またどのような立場で参画しようとしたのかが見えてきません。
要するに元木説に従えば、信頼は結局『愚管抄』や『平治物語』の言うような愚鈍な人間、と言う事になり、元木氏の信頼像が矛盾してきます。 信頼が後の事件で、何故後白河の下に奔ったか?も整合性がなくなります。
メッセージ 713 rarara_roadster さんに対する返信


次回のヒストリア   2011/ 1/12 23:53 [ No.723 ]
投稿者 : rarara_roadster
NHK 歴史秘話ヒストリアが「藤原頼長」を取り上げるようです。

http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai/21697136.html


hn2602mk2さんのレスは今書いています。もう少しお待ちください m(_ _)m
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2011/ 1/15 15:44 [ No.724 ]
投稿者 : rarara_roadster
>上総については居住したのではなく(一時的滞在?)、上総介氏のために何か相馬御厨の利権を千葉介から割譲せしめた、という気配もなさそうです

元木氏や野口氏によると、少年期の義朝の居所は上総国畔蒜荘(千葉県君津・袖ヶ浦・木更津のあたり)と考えられ、「康治2年(1143)上総常晴は義朝と結託して、常晴の叔父常重が持っていた相馬御厨支配権を強引に奪取。義朝は相馬御厨下司職を得、同時に千葉氏を服属させることに成功」としていますから、この事件は両者の利害が一致したものと見ていいと思います。同様に天養元年(1144)の大庭御厨乱入事件も、「義朝は国衙と結託して行動」しており「その結果、長年大庭氏と国衙の間で起きていた紛争が調停され、義朝は大庭氏を傘下におさめることに成功」と述べています。

これらのことから、義朝の東国における軍事行動は、もちろん武士団組織という目的が第一だと思いますが、「支援者の利害と抱き合わせ」という側面が存在することは確かなようです。


>在地、特に東国の事情を元木氏は軽視し過ぎ
>義家以来の河内源氏の嫡流、という立場は、摂関家の家産機構と言う背景に劣らず重要な要素

う〜む、特に元木氏が東国の事情を軽視しているような印象は無いのですが、わたしは「河内源氏の武威」も「摂関家や院の権威」も、義朝にとっては言わば『車の両輪』あるいは『エンジンとガソリン』と理解しています。どちらか一方のバランスが崩れると、あさっての方向に迷走したり走行不能に陥ってしまう。東国の武士たちは自分たちの棟梁として『中央にパイプを持ち、なおかつ紛争を調停できるだけの武威を有する』人物を求めていたと考えています。


>>波多野氏の祖佐伯経範
>>秀郷流に属する在京の軍事貴族

>秀郷流藤原氏というのは、仮冒

藤原氏との直接の血縁は無いようです。野口実氏の著書「源氏と坂東武士」の波多野氏の系図を見ると、佐伯経範が秀郷から五代の公光(在京の軍事貴族)の娘を妻にしています。経範の父経資は源頼義の相模守補任に際し、目代として相模に下向しており、このころから佐伯氏と相模との関係が始まったようです。

もしかすると、佐伯経範が「入り婿」のような形で婚姻を結び、そのまま藤原氏を称するようになったのかもしれません。藤原氏との婚姻もあるいは頼義の意思が反映された可能性もあるかもです。
メッセージ 721 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2011/ 1/15 16:01 [ No.725 ]
投稿者 : rarara_roadster
>一旦院政に入った上皇をそう簡単に排除できるか
>白河院政以降、天皇親政が公家の公論に成り得たのか

再掲になりますが、

「保元の乱による王家・摂関家の解体と、院近臣家の自立による政治混迷の所産」であり、「その中で伝統的院近臣家と新興の院近臣である信西一族の対立が表面化。二条天皇側近である藤原経宗・惟方は、後白河側近で伊勢平氏・河内源氏・奥州藤原氏という軍事貴族とパイプを持ち、尚且つ摂関家の後見という立場にある藤原信頼を取り込み、後白河・二条両者の側近という位置にある信西一族を排除し、後白河の院政を停止させた」

以上が元木泰雄氏の述べる平治の乱・三条烏丸御所襲撃の様相です。ただ、この9日事件の後、25日深夜には六波羅行幸となったので後白河も内裏を脱出しており、信頼らが最終的に後白河をどのように扱うつもりだったのかは不明ですが、9日事件により院御所は焼失、後白河の院政は事実上停止しています。

「経宗・惟方」の動機について元木説では、

惟方・・・顕隆以来の政務補佐の地位を信西に取って代わられた
経宗・・・摂関家の傍流であり、白川院の逆鱗に触れて蟄居していた忠実に「常ニ世ノ事ナラヒマイラセ」ており、忠通に「摂関狙ってるんじゃねーの?」と危惧されるほど政務への関心がある。

などのことを挙げ、このときの信頼は摂関家の後見的立場にあったことから、二条天皇の政務を関白が支える形態を考えていたのではないかと考察しています。もちろん経宗自身は天皇の外戚であり、惟方も父祖以来の「夜の関白」のような位置を目指したということになると思います。

先の議論において、けいげつさんより『「平治の乱」の不思議のひとつに、信頼・義朝らによる三条殿焼討ちと信西梟首の後の彼らの行動停止があります(584)』というご意見の提示もあり、9日事件発生の経緯について次のようにまとまりました。

・保元の乱以降、朝廷内に信西に不満を持つ人たちのサロンのようなものが形成され、そのなかで中心となっていたのが、惟方・経宗などといった人物
・反信西のサロンは、“反信西”の意識はあっても具体的なビジョンは持っていなかった。
・信頼も加わったが、清盛の動向がいまいちハッキリしない。
・そうこうしているうちに二条天皇が即位。
・平治元年12月9日清盛の留守をついて信頼・義朝が暴発的に三条烏丸御所を急襲

しかし、惟方・経宗らにすれば、結果的に「非戦闘員に対する大量殺戮」となった(信頼・義朝の)軍事行動に「ドン引き」してしまった。(583-584)

このうち、二番目の「具体的ビジョンを持っていなかった」ということと、最後の「暴発的軍事行動」がけいげつさんのおっしゃる『行動停止』に繋がるのではないかと考えています。同時に、経宗や惟方が信頼から離れ、公教に同調する一因となったと考えられます。これについては、また、六波羅合戦後信頼が滅んだ後に改めて考察するようになると思いますが、彼らにとって後白河は、「所詮、中継ぎ」的存在だったと思っています。

河内説では皇位継承問題に拘るあまり、この経宗・惟方が少々「外野的」あつかいに感じられます。

(つづく)
メッセージ 722 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: まとめてレスいたします。   2011/ 1/15 16:02 [ No.726 ]
投稿者 : rarara_roadster
>二条親政を信頼がどのように受けとめ、またどのような立場で参画しようとしたのか

叔母が後白河の乳母であったことから信頼は後白河に接近したと思われますが、もともと美福門院の支援を受けていたことを考えると、そのことをダシにして惟方や経宗が信頼を引き込んだ可能性は十分にあるとおもいます。

そして信頼についてですが、わたしは信頼は後白河に対し「寵臣ではあっても忠臣ではなかった」ととらえています。信頼が後白河に求めたのは、天皇家の権威としての「価値」以上でも以下でもなかった。とするならば、その「価値」が後白河から二条に変わっても、信頼としては大して変化は無かったと考えます。しかし、軍事貴族とパイプを持ち、尚且つ摂関家の後見という立場にありながら、それを有効的に機能させることができなかったのは『武門オタク』の限界だったのでしょう。

最後に再び後白河に頼ろうとしたのは、『武門オタク』には「自力救済」の道も無く、盟友であったはずの経宗や惟方にも裏切られた以上、二条派には頼る縁も無く、そこにしか行きようが無かったということではないでしょうか。その意味では「不覚人」のそしりは免れないと思います。
メッセージ 725 rarara_roadster さんに対する返信


仮説・六波羅合戦。   2011/ 1/23 22:22 [ No.727 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、六波羅合戦がなかなか進みませんが、それは義朝の意図であるとか、信頼のイデオロギーのようなものが課題になっているので止むを得ないと思っています。今後もこの点については、議論を重ねていかねばならないかもしれません。

ろどすたさんのブログで紹介されていましたが、源為義が義家の実子であったかもしれないという研究報告もあり、「嫡子」「嫡流」という立場での内部抗争(内面的なものも含む)、あるいは対外意識なども今後問題としなければならないかと思います。
高橋昌明氏も『平家の群像』において、清盛-重盛-維盛という『平家物語』の中での嫡流ストーリーに一石を投じられています。

さてさて、ただ今のこの『保元から…』は、『平治物語』と『愚管抄』によりそれを検証しているのですが、まずは平重盛と源義平の紫宸殿前庭における一騎打ちに代表される『平治物語』の内裏戦闘を切り捨てています。
その理由は、ろどすたさんがbU54・655で端的に述べられており、私もそれを支持しています。
そして内裏戦闘を経ずして義朝らが六波羅攻撃を決断して討って出た時、重盛・頼盛らの軍勢と二条堀川あたりでぶつかったのが、『物語』で言うところの「12月27日(この『保元から…』では26日に設定している)の巳の刻(午前10時)」。
そして重ねて『物語』は、この合戦は「巳の時にはじまりたる軍(いくさ)、おなじ日の酉の刻(午後6時)には破れにけり」と記します。
この都合8時間の人馬の行動可能性につては、まだ検証出来ていません。

今回、私は仮説として、
1.六波羅合戦における清盛邸攻撃は、義平の捨て身の単独攻撃であった。
2.その目的は、義朝を撤退させるための殿軍的役目。
3.なぜそれを義平がやらねばならなかったかというと、すでに頼政らが信頼・義朝に同調せず、従来言われている「中立」ではなく、明らかに「叛意」を示し、六波羅側の前線守備にあたっていたのではないかという疑問。
4.『物語』の合戦直前の「源氏勢汰へ」の中に頼政の名が見え、義朝の檄に対してシラけた様子の頼政らを討とうと思ったが、ここでの同士討ちは無意味だと思いとどまった。そしてこの直後には、押し寄せた重盛らのトキの声が聞こえている。
5.この『物語』をそのまま信じると、頼政らは重盛・頼盛らの軍勢と衝突する事なく、義平らよりも先に六条河原に布陣したことになる。
6.六条河原といえば、六波羅の西南に位置する。清盛の意識は、重盛らを派遣した北西の内裏方向に向けられているはずである。しかし頼政が西南の六条河原に敵として着陣したならば、清盛としてはどうであろう。
7.重盛・頼盛軍という副主力を出陣させている中で、もう一方の敵を放置する理由はなんだろうと考えると、
@とるに足らない脆弱な敵
Aすでに内通
保元の乱において、二陣として出陣する以上100〜150の軍勢は有するであろう多田源氏頼政は、決して脆弱とは言えないはずである。

…というところで今、とまっています。


Re: 今年はいよいよ・・・   2011/ 1/27 23:12 [ No.728 ]
投稿者 : hn2602mk2
>平治の乱に決着をつけられるといいなと思っています(微苦笑)

 えっ、そんなゆるいペースでよいのですか?
とは言うものの、私が若干遅延に貢献?しているような気もします。
適宜、レスを飛ばしてもらって結構です。

元木泰雄氏の本について

>ブログにも書いたのですが、2冊をあわせて読んでこそ意味があると思っています。何とか元木本も読んでいただければ、と思っています(苦笑)。

 といっても『保元の乱・平治の乱を読みなおす』は入手不可能のようですし、図書館で借り出す、というのもしばらく時間が取れそうにありません。
と言うわけで、1/22に、書店で見つけていた専門書の『院政期政治史研究』(思文閣史学叢書、定価本体7,800円)を泣き泣き購入しました。
現在、序論、第一章を何とか読み終え、第二章の途中です。実は、もう1冊ありましたが、その本は、元木氏は編者で保元の乱のところのみ書いておられたので、買いませんでした。そちらの方がとっつきやすそうで値段も安かったのですが、トホホ。
 これまで読んだところで引っかかったのは、平安時代の政治をミウチ政治とする規定事態は問題ないのですが、「母系制」社会であるかのように説いた先行説を不用意にそのまま引用しているように思えたことです。母后や母方外祖父の力が強かったりするのは、父系制社会でも良くあることであり、どうも日本史では、民俗学・民族学領域での父系制・母系制との用語の理解が異なっているようにしか思えません(これは以前から感じていたことですが)。

>>湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟@鎌倉党』戎光祥出版

>実は私もこの本を購入しようと思っているよころでした。

>>余り得るところがなく、完全に読む気が失せ・・・

>え〜、そうなんですか?う〜む、どうしようかな(苦笑)

 読破しましたが、相模国内の荘園の内、河内源氏の所領と思われるものが挙げてあり、得るところがありました。義朝が当初から相模(鎌倉)に下向した、とする根拠に使えそうな気がします。
ただ、何と無く誤植か誤記らしい気のするところがあちこち見当たり、チェックが必要なのように思います。
メッセージ 720 rarara_roadster さんに対する返信


義朝は上総に居住していたか?   2011/ 1/28 22:59 [ No.729 ]
投稿者 : hn2602mk2
>>上総については居住していたのではなく(一時滞在?)、上総介氏のために何か相馬御厨の利権を千葉介から割譲せしめた、という気配もなさそうです

>本木氏や野口氏によると、少年期の義朝の居所は上総国畔蒜荘

 義朝の少年期の住居が京ではなく、「上総」であったとは考えられません。元服後は別でしょうが、義朝の坂東下向時期がいつか?が問題になりますが。

>「康治2年(1143)上総常晴は義朝と結託して、常晴の叔父常重が持っていた相馬御厨支配権を強引に奪取、義朝は相馬御厨下司職を得、同時に千葉氏を服属させる事に成功」としていますから、この事件は両者の利害が一致したものとみていいと思います。

 だから、義朝にとっては、祖馬御厨下司職と千葉氏の郎等化、と言う明白な利益がありますが、上総介氏がどのような利益を得たのかが不明です。義朝の目代として、相馬御厨の利権の一部を得た、と言うのならわかりますが、そのあたりが不明なので、「上総介氏のために何らかの利権を千葉介から割譲せしめた、と言う気配もなさそう」だ、と書き込んだのですが。

>同様に天養元年(1144)の大庭御厨乱入事件も、「義朝は国衙と結託して行動しており「その結果、長年大庭氏と国衙の間で起きていた紛争が調停され、義朝は大庭氏を傘下におさめることに成功」と述べています。

 大庭御厨乱有事件の評価については、異論は全くありません。
さて、義朝が先ず鎌倉に住んだ(下向)したのか、それとも上総が先で、後に鎌倉に移ったのか?と言う点についてですが、少し時系列を追いますと、
@義朝の長子「鎌倉悪源太義平」の誕生が、永治元年(1141)で、母は三浦氏か遊女ですが、何れにしろ養育は三浦氏で、その前年には義朝は相模にいたと考えられる。義朝の年齢は19歳。
A義朝の次子朝長が、多分相模の波多野氏の娘との間に生まれたのが、天養2年(1145)。
 この@1141年とA1145年の間に、問題の「1143年の相馬御厨事件」が挟まります。義朝が、相模国で三浦氏や波多野氏の娘に子どもを生ませてその間、上総に住んでいた、と言うのは考え難いと思います。やはり彼は、父祖から受け継いだ鎌倉館に下向したのであり、おそらく、相模国内の義家以来の所領の庄官ヲ郎等として当初より掌握し、次いで、三浦・波多野・中村諸氏を従属せしめた上で、三浦氏と縁の深い上総介氏(広常の弟金田頼次だったと思いますが、三浦氏から妻を迎えています)からの情報を元に、相馬御厨に介入したのだと思います。
 尚、湯山学氏は、相模国愛甲・毛利(森)両荘は、義家以来の河内源氏所領であろう、と推測しています。毛利荘は、義家六男義隆が相続したと思われますが、愛甲荘については、為義が相続したのではないのかと私は考えています。もう一つ、鎌倉郡内の山内庄(長講堂領)も、義家が両種だったのではないか?戸湯山氏は推測されていますが、私も荘であり、下司職は山内首藤氏としても、領家など何らかの形で河内源氏本宗の利権があったと考えています。義朝の乳母子で腹心の鎌田正清が山内首藤氏の出身である事も傍証に成り得ると思います。
メッセージ 724 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 義朝は上総に居住していたか?   2011/ 1/31 23:05 [ No.730 ]
投稿者 : rarara_roadster
はじめに訂正があります(大汗)

No.724において、
『康治2年(1143)上総常晴は義朝と結託して、常晴の叔父常重が持っていた相馬御厨支配権を強引に奪取』と書きましたが、

“康治2年(1143)上総常澄は義朝と結託して、常晴の甥常重が持っていた相馬御厨支配権を強引に奪取”が正しいです。


>上総介氏がどのような利益を得たのかが不明
>義朝の目代として、相馬御厨の利権の一部を得た、と言うのならわかりますが

上総常澄は、父親の常晴が相馬郡を甥の常重(千葉氏)に譲ったことを不満に思っており、当時相馬の地が国守の介入などで支配権の安定していなかったことに目をつけ、義朝と結託して失地の回復をもくろみます。

その結果、義朝はこれによって相馬御厨の下司職を得るとともに、千葉氏の服属を達成し、相馬御厨は一部に千葉氏の得分を残しつつも、義朝の代官的立場を得た上総常澄の手に帰することになった(「源氏と坂東武士」(吉川弘文館)の90〜91ページ)と野口氏は述べています。


さて、天養記にも『字上総曹司源義朝』とあり、義朝は「上総曹司」として上総氏との関係も相応のものがあったと考えられ、「曹司」とあるからには、義朝は少年期に上総氏の庇護下にあったと考えることに不自然さは無いと思います。

そこで義朝の関東下向について、元木・野口説に沿ってもういちど整理してみようと思います。

ポイントは、白河院と藤原忠実です。

義朝の外祖父に当たる藤原忠清は、白河院の近臣で、彼の娘を源為義に娶わせたのも白河院でした。その後、白河院に遠ざけられた為義と、失脚させられていた藤原忠実が結びつくのですが(保延2年(1136)頃)、ここにカギがあると考えています。

義朝が坂東武士団編成の目的を持って為義に派遣されたのは確実ですが、そこにもうひとつの要素を元木氏は指摘しています。それが白河院と忠実の関係なのですが、「明確ではないが為義が忠実に仕えるに際して、忠実を蟄居に追い込んだ白河院近臣の娘を母とする義朝が忌避されたとみるべきであろう」とし、それが次男の義賢が「嫡男」とされ、義朝が坂東へと派遣された理由ではないかとしています。義朝の下向にはそういった側面があり、彼の元服の前後にはすでに上総に下向していたのではないでしょうか。

末弟の為朝が13歳で九州へ派遣されていることを考えると、年齢的な問題もないと思います。

(1)保安4年(1123)義朝生まれる(母 藤原忠清娘)
(2)保延2年(1136)為義、忠実と結ぶ
(3)永治元年(1141)義平生まれる
(4)康治2年(1143)相馬御厨事件、同年為義、頼長に名簿提出
(5)天養元年(1144)大庭御厨乱入
(6)天養2年(1145)朝長生まれる

おそらく(2)前後には坂東(上総)へ下向していたものと思われます。ただし、ご指摘のように義平の生年を考えると、上総に居たのは長くても3〜4年程度で、鎌倉の舘に移ったのでしょう。
メッセージ 729 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: 義朝は上総に居住していたか?   2011/ 2/ 7 22:01 [ No.731 ]
投稿者 : hn2602mk2
 元木泰雄氏『院政期政治史研究』(思文閣史学叢書)を読破しました。論理は明晰であり、その権門体制論による政治史の分析は鮮やかであり、従来の領主制論を凌駕するものと感服しました。しかし、同時に東国と、畿内近国および西国との地域差についての軽視があり、それこそ、東国世界では「領主制論」や或いは「武家棟梁」論がもっと加味された解釈を必要とするのではないか?というのが、私の感想です。そのあたりを含んでの表題の義朝の上総居住の真偽について、議論をもう少し続けたいと思います。(合意に達するのは難しいかもしれませんが)。

>上総常澄は、父親の常晴が相馬郡を甥の常重(千葉氏)に譲ったことを不満に思っており、当時相馬の地が国守の介入などで支配権の安定していなかったことに目をつけ、義朝と結託して失地の回復をもくろみみます。

>その結果、義朝はこれによって相馬御厨の下司職を得るとともに、千葉氏の服属を達成し、相馬御厨は一部に千葉氏の得分を残しつつも、義朝の代官的立場を得た上総常澄の手に帰することになった(「源氏と坂東武士」(吉川弘文館)の90〜91ページ)と野口氏は述べています。

 先ず、ここで、義朝の介入の名目が何であったのか?と言う疑問が生じます。結果的に彼は、千葉氏から譲り状を責めとって、強引に自身のものとした上で、改めて伊勢神宮に寄進し、下司職を得ることになったと私は理解していますが、つまり義朝は下司職ではなく、それこそ「領主」としての権利を主張して、介入したのであり、それにはその根拠があったと思われます。その根拠こそは、おそらく千葉・上総介両氏の先祖平忠常父子と、義朝の先祖源頼信・頼義父子の主従関係とそれに伴う房総平氏所領の河内源氏嫡流への寄進があったと思われます。勿論、それは、房総平氏の所領全域に及ぶものではなく、一部であったと思われますが、その中には平治元元年に伊勢神宮に義朝が寄進した丸御厨(安房)や或いは源義忠が相続して、その子に渡ったものなども含まれていたと思いますが、相馬御厨については、頼義⇒義家と一応伝領し、その後は不明となっていたものを実際の開発領主である忠常の後裔である上総常澄が、おそらくそのあたりも勘案して弟・甥の千葉氏に譲ったものでしょう。つまり、河内源氏が房総に土着しなかった為、その一門による在地支配権(の得分)が喪失された状態であり、これは相模を含む為義所領についてもそのような所領喪失の危険性があり、それこそが、為義が長子義朝を東国に派遣した主な理由であったと思われます。勿論、「所領」の所有権は、荘園の場合に典型的に見られるように、何重にも重複しており、それが、荘園領主(本所や領家)や、預所、下司職など様々であり、公郷においては館やそれに付随する田畠などであった事は勿論です。このような状況を想定すると、先ず、義家以来の居館が存在し、現実に確保され、近隣に郎等が居住し、直ちに武力動員可能な鎌倉こそが、おそらく13〜15歳前後で元服しただろう義朝の下向地として、上総に比し、ふさわししいと思われます。

>さて、天養記にも『字上総曹司源義朝』とあり、義朝は「上総曹司」として上総氏との関係も相応のものがあったと考えられ、「曹司」とあるからには、義朝は少年期に上総氏の庇護下にあったと考えることに不自然さは無いと思われます。

 鎌倉のように源家の居館が上総にあった形跡がないこと、また上総氏やその庶流出身の義朝の妻妾の存在が確認されず、@「上総曹司」と称されたこと、とA相馬御厨に上総介氏とともに介入した事、の二点だけが義朝上総居住の根拠であるならば その否定は容易だと思います。石橋山の敗走後、安房に渡り、次いで北上した頼朝のもとに参向した上総介広常や千葉(介)常胤が、義朝の上総居住時代の館に触れようともしないのは、極めて不審です。『吾妻鑑』あたりに全くその記事が見られないと思います。相馬御厨事件については、明らかに義朝が鎌倉居住時代の出来事です。
 では、何故義朝が「上総曹司」と呼ばれたのか?と言う問題が残ります。とりあえず、これについては、湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟A三浦党』(戎光祥出版)p15に引用されている峰岸純夫氏の、曽祖父頼義が上総介平直方の娘を妻として 直方から譲り受け(代々伝えられた)た鎌倉の館で育ったことから上総介の子孫という意味で「上総曹司」と言われた、との説を紹介されています。この説は無理筋だと思いますが、直方以来伝領した鎌倉の館が、他の鎌倉郡内の館やその附属の田畠と区別するために、上総(介)館」と呼ばれており、そこから義朝が「上総曹司」と呼ばれたと考えれば、一応説明可能だと思います。

 (続く)
メッセージ 730 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 義朝は上総に居住していたか?   2011/ 2/ 9 18:58 [ No.732 ]
投稿者 : hn2602mk2
続きです。
 河内源氏嫡流(この場合、義家流をそう見做します)の房総半島内所領としては、源義忠の三男忠宗の所領とされる上総国飯富庄(飫富荘)があります。この荘園の立荘時期は不明ですが、忠宗が伯父義宗の継嗣となって飯富源太を称したと言う伝えからすれば、実際には、義家から長子義宗に譲られた上総国望陀郡内の館や付随する田畠が、その死後義家の嫡子とされた四男義忠に譲られ、義忠から三男忠宗に譲られた経緯から、そのような伝承が生じたのかもしれません。或いは、義家の計らいで、実際に義宗の継嗣とされ、その遺領を継承したのかもしれません。義忠が当初から義家の嫡子と定められていたとすれば、兄対馬守義親の二子義信や為義を猶子〜養子としたように、一族の結束を固めるために、義宗(庶子や娘がいたかもしれません)の後を義忠の子に継がせた可能性もあります。
 相馬御厨の土地もおそらく頼義・義家父子に何らかの権利(所有権の一部)があり、それが義家・義忠父子没後の没落期に権利喪失状態となり、相馬御厨が成立したが、坂東に下向して所領回復運動を開始した義朝が、相模国内所領確保と郎等の組織化が進展した時点で、上総介常澄の誘い?もあり、失地回復運動を房総地域でも(相模での一層の所領回復・拡張の試みとともに)開始したのが、相馬御厨事件であり、その交渉相手は、現地の千葉氏のみならず、領家や預かり所を務める伊勢神宮神官の口入神主(権禰宜あたり)やそのその代理人の神人でもあったと考えられます。義朝は千葉氏や伊勢神宮との交渉能力を強めるためには、利用できるものならば国司やその目代、在庁官人、郎等・家人など何でも利用したでしょうが、勿論最大の彼の武器は「暴力」そのものであり、つまりは彼が主張を押し通せたのは、「武力」行使能力による事は明白でしょう。相馬御厨事件について、義朝は、@現地の大豪族千葉氏と拮抗以上の武力を持つ上総介常澄の協力が得られる、A東国では、畿内近国に比して弱いとはいえ国衙(国司とその目代)の干渉がない、か、もしくは、国司が相馬御厨を公領化しようとする圧力をかけている情勢、B相馬御厨周辺では千葉氏を圧伏できるだけの武力を動員できない上総介氏の兵力に加えて、相模国内(および武蔵や安房も)で(再)組織した家人・郎等の兵力の誇示、及び、C組織化したこれら南関東や伊豆・駿河あたりの大豪族の人的ネットワーク(血縁・地縁による鈴木国弘氏の言う「縁者」)、を背景として、D源義家嫡流としての相馬御厨地域の所有権継承主張、を展開したものであり、更に翌年の大庭御厨侵入事件も、相模国内のみならず、南関東一帯の伊勢神宮御厨に在郷する口入神主(給主、領家、権禰宜)やその代理人達に対する示威でもあったと考えられます。
 義朝の相馬御厨領有主張は成功し、改めて義朝が伊勢神宮に寄進する形で義朝は、「下司」職を得ますが、伊勢院宮側も彼の実力を認識し、以後は協調に向かったのではないか?と思われます。義朝は平治元年曽祖父頼義以来相伝の所領丸御厨を嫡子頼朝の昇進を願って伊勢神宮に寄進するに至りますが、それも一つの根拠に成り得るのではないか?と思います。

 相模ではおそらく、河内源氏嫡流の所領としては、鎌倉楯のほかに、山内庄、毛利(森)庄、愛甲庄などがあった(多くは寄進されて別に本所を持ったでしょうが)などがあったと考えられます。毛利庄については、義家の六男義隆が相続したと考えられますが、山内庄は荘司の山内首藤氏の出身の鎌田正清が義朝の乳母子であったことから考えても義家⇒為義に相続されたことは間違いないでしょう。愛甲庄など横山党の相模国内における所領は、おそらく、源氏の所領にその家人として下司に任じられて入部したのが契機ではないか?と思われます。また、横山党本宗が三浦氏と縁戚関係となっているのもその初期は源氏を通してではないでしょうか?

 坂東下向後の義朝は、「京武者」として基本的に京を離れずその領地拡張志向も摂津・近江・美濃或いは河内といった畿内近国に拘った父為義とは異なり、坂東での所領確保⇒拡大、郎等の再組織、東国での武威の増大による諸豪族間の上にたっての調停機能の発揮、他の軍事貴族の抑圧・排除と言った行動を示し、まさに「武家の棟梁」へと成長したと考えられ、それを決定的にしたのは、父為義を越えて受領(下野守)に任官した時点ではなかったか?と思います。
メッセージ 730 rarara_roadster にさん対する返信


Re: 義朝は上総に居住していたか?   2011/ 2/ 9 19:50 [ No.733 ]
投稿者 : hn2602mk2
 義朝が坂東に下向した、或いは父為義によって下向させられたのが、弟義賢が嫡子に定められた事同様、摂関家との結び付きが契機になったと考えられるのは、そのとおりだと思います。

>(1)保安4年(1123)義朝生れる(母藤原忠清 娘)
(2)保延2年(1136)為義、忠実と結ぶ
(3)永治元年(1141)義平生れる
(4)康治2年(1143)相馬御厨事件、同年 為義、頼長に名簿提出
(5)天養元年(1145)大庭御厨乱入
(6)天養2年(1146)朝長誕生

>おそらく(2)前後には坂東(上総)に下向していたものと思われます。ただし、ご指摘のように義平の生年を考えると、上総に居たのは長くても3〜4年程度で、鎌倉の舘に移ったのでしょう。

 (2)の時点で数え年14歳ですから、元服していたでしょうし、坂東下向をこの年前後として良いと思います。ただし、上総には、為義所領があった形跡がなく、また、上総介氏が京武者の為義と特別な接点をもち理由がはっきりしません。もし、この時点で、上総介氏が為義の家人だとすれば、既に為義は京武者レヴェルを越えていたことになります。千葉氏の本宗家である上総介氏が為義の家人であり、千葉氏が家人ではない、とする理由がわかりません。やはり、義朝は、為義の所領である「字鎌倉之楯」に下向し、名代清原安行、郎等新藤太らに養われ、譜代の郎等山内首藤氏や三浦氏(在庁官人でもある)を次第に掌握し、波多野氏、中村氏等を組織化し、田所目代源頼清らとも誼を通じ、相模と武蔵の所領(後の大河戸御厨など)も確保した上で、三浦氏の「縁者」である上総介氏や伊豆の工藤・伊東・狩野氏や武蔵の秩父平氏庶流(畠山氏、これも三浦氏の縁者)などの家人・郎等化」をすすめつつ、上総介氏の誘いに応じて、千葉氏の家人化を目指して相馬御厨に介入・進出したと考えたいです。
メッセージ 730 rarara_roadster さんに対する返信


野口実『武家の棟梁の条件』読了しました   2011/ 2/17 22:23 [ No.734 ]
投稿者 : hn2602mk2
 上げを兼ねてのレスです。

 2/11、湯山学氏の『相模武士 全系譜とその史蹟B中村党・波多野党』が2月発売予定であったのをそのAの帯で見ていたので、書店に出向いたのですが、店頭に並んでなく(@の帯だと昨年12月既に刊行されているはずでした)、新書コーナーで中公新書の目録を見て、検索して上記書籍の記載を発見、探したものの見つからず、店員に問い合わせ、近隣の店舗に一冊だけ表紙が少し汚れた本があるとのことで、早速取り置いてもらい、二時間後に入手し、翌12日読了しました。
 これで、ご紹介戴いた参考文献五冊中、元木泰雄氏『藤原忠実』、河内祥輔氏『保元の乱、平治の乱』と今回の野口氏の本の合わせて三冊を読んだ事になります。元木氏の『保元の乱、平治の乱を読みなおす』は絶版であり、当面入手困難ですので、後は野口氏のもう一冊『源氏と坂東武士』を探したいと思っています。

 その代わりと言うか、元木泰雄氏の『院政期政治史研究』(思文閣史学叢書)と、鈴木国弘氏『日本中世の私戦世界と親族』(吉川弘文館)、及び湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟』の@Aを購入して読みました(高橋昌明氏の『清盛以前』も)。しかし三年前の転居時に全巻持っていた日本古典文学全集か何かの『保元物語・平治物語』は手放しましたので、文庫本での入手を考えていますが、どうも簡単にはいかないようです。
メッセージ 706 rarara_roadster さんに対する 返信


鎌倉直行?上総経由?一旦京へ戻る?   2011/ 2/19 23:01 [ No.735 ]
投稿者 : rarara_roadster
>@「上総曹司」と称されたこと、とA相馬御厨に上総介氏とともに介入した事、の二点だけが義朝上総居住の根拠?
>上総には、為義所領があった形跡がない

もちろん、野口氏や元木氏がこれらだけで判断しているとは思えません(苦笑)。最大の理由はわたしの勉強不足であり、図書館にもなかなか東国関係の資料も無く、現在手元にある書籍やネット検索である程度(個人的に)信頼をおけそうな史料を当たってはいるのですがまとめきれないでいます。

ご承知のように、野口・元木説では為義や義朝の活動は権門の家産機構に食い込むことによって勢力を広げていったという立場ですから、その点から見ますと、例えば、上総国畦蒜荘は熊野山領であり、その立荘について源為義の仲介を想定しています。為義と熊野の関係は周知のことですが、上総氏が在地の管理者として考えられており、また、上総常澄は摂関家領菅生荘の荘官です。(野口:元木)。義朝が当初上総に下向したという説の下地としては、これら権門の家産機構が挙げられます。

問題は、義朝の上総への下向理由と、その確たる証拠(例えばhn2602mk2さんのおっしゃる「源家の居館が上総にあった形跡、上総氏やその庶流出身の義朝の妻妾の存在など」)ですが、まさにそこで迷っている状態です。ひとつ考えられるのが(といっても素人の妄想の範疇ですが)。熊野山領や摂関家領の荘園立荘もしくは管理について、為義と上総氏の間で何らかの取り決めがあり、その証し的な意味で「義朝が上総に派遣」されたのかもしれません。

この場合、為義と上総氏の間に明確な主従関係は見出されませんが、熊野山や摂関家を介しての関係は考えられます。その一方で、義朝を派遣することにより房総への足掛かりと「摂関家の大殿、忠実への遠慮」としたと考えることは可能かもしれません。主従関係や「源家の居館」が無くても上総氏の館の中に義朝の居住する館があれば、それこそが「上総曹司」の由来と考えて(妄想して)います。

いずれにしても義朝は、遅くとも義平の生まれる永治元年(1141)のほぼ一年前には鎌倉に居住していたことは明白です。上総の滞在期間はあくまで一時的なものであり、長くても3〜4年程度でしょうが「上総曹司」の呼称は、『その期間、上総氏の養育下にあったことの証し』と考えてよいと思います。そこに為義と上総氏の関係のヒントがありそうな気がしています。

そこでhn2602mk2さんの提示された、

>上総介広常や千葉(介)常胤が、義朝の上総居住時代の館に触れようともしない(吾妻鏡に記載無し?)
>直方以来伝領した鎌倉の館が、他の鎌倉郡内の館やその附属の田畠と区別するために、上総(介)館」と呼称

ですが、わたしは義朝の大庭御厨乱入を訴えた同時代史料の「天養記」に『字上総曹司源義朝』と「書いてある」ことを重視しています。もっとも、上総下向の絶対的な証拠があるわけではありませんので、推測の域を出ないのは言うまでもありません。ですから、直方の館が実際にそのように呼ばれていたことが判明すれば有力な証拠になりますね。

ただ、この時代、中央では伊勢平氏が「武門の棟梁」としての地位を確立しており、いかに頼義・義家以来の河内源氏の嫡流とはいえ、検非違使左衛門大尉に過ぎない為義の権威だけでは地方の武士団を統合することは非常に難しい状況にあったと思います。当然そのことは、在地領主にも無関係ではありません。だからこそ、摂関家や熊野などの権門に接近することによってその家産機構を媒介とし、地方の武士団の統合に乗り出していきます。

今回の議論は、義朝の下向が上総経由なのか?鎌倉直行なのか?ということを、為義や義朝の活動のバックボーンとして「武家の棟梁・領主制論」を重視する説(hn2602mkさん)と「さらにそこに権門の家産機構を加えた車の両輪」説(ろどすた)という、それぞれの立脚点からみています。従ってすぐに結論の出る話ではありませんが、非常に有意義な議論だと思います。

このまま続けることはやぶさかではありませんが、そろそろ本筋の平治の乱に一旦戻って、そちらの決着をつけて、あらためて治承・寿永の内乱に向かっていく中でもう一度見つめなおすことを提案させていただきたいと思いますが、いかがでしょう?(おそるおそる)
メッセージ 734 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: 鎌倉直行?上総経由?一旦京へ戻る?   2011/ 2/21 1:08 [ No.736 ]
投稿者 : hn2602mk2
>そろそろ本筋の平治の乱に一旦戻って、そちらの決着をつけて、あらためて治承・寿永の内乱に向かっていく中でもう一度見つめなおすことを提案させていただきたいと思いますが、いかがでしょう?

 こちらこそ、トピの進行を妨げて申し訳ありませんでした。どうぞお進め願いします。このトピに書き込んだお蔭で、久しぶりに、源平時代についての眠っていた関心が刺激され、多くの本を読み、興奮する事が出来ました。トピ主さまはじめ、書き込まれた皆様に、深謝いたします。
 ところで、2/19に野口実氏の『源氏と坂東武士』を購入でき、20日午前1時ごろから読み始め、一気に読んでしまいました。そのため、日曜日は昼前に起き、生活リズムが崩れました(昨年九月末退職後は、午後のパートを週に何回かする程度なので大分リズムは崩れていましたが)。
 これで、ご紹介を受けた本のうち、元木氏の『保元の乱、平治の乱を読みなおす』のみ読んでおりませんが、代りに19日に元木氏の『平清盛の闘い』(角川学芸出版)を購入しました。野口氏の本の隣に載っていたもので、出版が平成13年2月とかなり古いので迷ったのですが…。この本はもう少し後に読みたいと思っています。

 尚、野口氏の『源氏と坂東武士』p81収載の図27「上総国小櫃川水系沿いの荘園」地図で、菅生荘と畔蒜北荘の北方に隣接して、飯富荘が記載されています。前に述べた源義忠の三男忠宗(飯富源太)の苗字の地であり、従って、河内源氏義家流の所領が間違いなくこの地方にあった事になります。ただし、それは吉宗あるいは義忠に伝えられ、為義系に渡ったとは思いませんが、もし菅生荘や畔蒜南北両荘が河内源氏に何らかの得分があったとすれば、為義の所領も考えられます。何れにしろ、何らかの文献がでれば、はっきりしますが…。
メッセージ 735 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 仮説・六波羅合戦。   2011/ 2/24 19:08 [ No.737 ]
投稿者 : rarara_roadster
頼政については、以前ここでもちょっと触れたことがありますが、けいげつさんのおっしゃる「六条河原の頼政の位置」について考えてみたいと思います。けいげつさんの投稿とかぶることになるかもしれませんが、その点はご容赦をお願いします。

ちょっと孫引きになりますが頼政の官歴は、だいたいこのような感じです。

保延2年(1136)蔵人 のち叙爵従五位下
仁平3年(1153)美福門院昇殿
久寿2年(1155)兵庫頭
保元4年(1159)従五位上
仁安元年(1166)内昇殿(六条帝)
嘉応2年(1170)右京権大夫
承安元年(1172)正四位下(院御給)
承安2年(1173)伊豆国知行国主(玉葉)
治承2年(1178)従三位、翌年出家
治承4年(1180)以仁王挙兵

いちおう、公卿補任、百錬抄などがもとネタですが、あくまでここは参考程度です。

頼政は父祖の代から内裏守護の京武者として活動してきました。武人としての実績はさることながら、歌人としても『千載和歌集』や『新古今和歌集』などの勅撰和歌集にも歌が残されています。また、美福門院や鳥羽院近臣の藤原家成らとも親交があり、保元の乱では有力な武士のひとりとして後白河天皇の守護を務めています。

で、平治の乱における頼政の動向ですが、愚管抄や百錬抄では具体的なことがわかりません。平治物語には、頼政の名前が見えますが、これは後の「源氏神話」を意識している部分が見受けられるため、そのまま受け入れることは躊躇われます。しかし、ここにひとつのヒントがあるようにも思いました。

まず、頼政の名が出てくるのは、『信頼信西を亡ぼさるる議の事』で義朝が信頼に、決起に先立ち「頼政・光泰・光基・季実等をもめされ候へ」と進言するところが最初です。その後はしばらく名前が見えず、次に出てくるのはもう『源氏勢汰への事』になります。つまり、三条烏丸御所襲撃から六波羅行幸までは頼政の描写がありません。

上記の武士のうち、頼政を除く「光泰・光基・季実等」と佐渡式部大夫重成・周防判官季実は、後白河上皇を一品御書所に移して守護する描写があります。そして乱の収束後、信頼・義朝といった首謀者は、獄門・斬首などとなっており、光泰・光基・季実等らもそれぞれ配流等の罰を受けています。ところが、頼政に関してはここではなにもありません。

ここで注目されるのは、首謀者の信頼・義朝はともかく、“心がはりして見えければ(寝返った?)”とされた光泰らまで処分の対象となっていることがわかります(ちなみに光泰(光保)は、乱の後に謀反の噂がたち配流先で殺された)。その中で、同様に召集されたらしい頼政だけはなんのお咎めも無いということは、やはり頼政は三条烏丸御所襲撃から二条天皇の六波羅行幸までの行動は、義朝らと一線を画していたと見るべきでしょう。

続きます。
メッセージ 727 morikeigetu にさん対する返信


Re: 仮説・六波羅合戦。   2011/ 2/24 19:10 [ No.738 ]
投稿者 : rarara_roadster
続きです。

ここからは推測なのですが、頼政は一貫して『二条天皇の守護に徹した』と考えています。この三条烏丸御所襲撃の時に頼政が参加していたとしても、おそらく虐殺(ジェノサイド)には参加していなかったのではないかと思います。それがたまたまそういう形になってしまったのか、それとも頼政の判断によるものなのか、そこまでは不明です。

しかし、代々、内裏の守護を本分とした一族であり、美福門院とも近い存在であったならば、なによりも鳥羽院の正当な後継者である二条天皇の安全を最優先させるのが、頼政の最大の使命だと思います。信頼や義朝が信西を必死になって探している最中に、頼政は天皇周辺にあって戦のケガレから二条を守護していたのではないでしょうか。

そしてその後も頼政の立ち位置は変わらず、12月25日を迎えます。ここで内大臣左大将藤原公教らにより、「六波羅行幸・そして誰もいなくなった作戦」が決行。この中に頼政がメンバーとなっていたかどうか、つまり事前に知らされていたかどうかはともかく、二条天皇の行幸とあらば、必然的に頼政も警護しながら移動することになるでしょう。作戦実行時には、頼政は二条天皇とともに六波羅へ移動したものと思われます。

そして六波羅の清盛の屋敷はそのまま「皇居」となったわけですから、そこに天皇を守護する頼政がいるということは自然なことと言えるでしょう。六波羅合戦において頼政は、朝敵・謀反人から天皇を護るために敵に向かって対峙していた、と考えればけいげつさんの疑問のうち、3,5,6,7、について一応の決着がつくと思います。4.についてはまさに「物語の脚色」と考えています。

ただ、この時点で清盛と頼政の間に提携関係を想定するには、情報が少なすぎますので、まあ、「官軍つながり」ぐらいではないかと思っています。もちろん、頼政と義朝の間も、清和源氏としての同族意識などは絵に描いた餅であることは、言うまでもありません(苦笑)。
メッセージ 737 rarara_roadster さんに対する返信


京武者、源頼政(その1)。   2011/ 3/ 4 19:48 [ No.740 ]
投稿者 : morikeigetu
まだまだ舞台は東国から都に戻らないだろうとタカを括っていたら、突然ろどすたさんから「仮説」に対する投稿があり、うろたえています(汗)。
ろどすたさんとhn2602mk2さんの東国議論に、私は白目が黒目に黒目が白目になるような思いで、いろいろな書物をひっくり返しながら、ただただついて行くのに必死でした(泣)。
お二人の見識に頭が下がるばかりです。
己の浅学を、これから如何に克服するかを命題にしつつ、恐る恐る投稿いたします。

さて、hn2602mk2さんの733、ろどすたさんの737で「京武者」という言葉が出てきましたが、その「京武者」について、川合康氏の『源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)から引きます。

「近年の中世武士論は、11世紀後半以降の軍事的緊張が高まった京において、院・摂関家などの公家権門や荘園領主にしたがって軍事活動を展開した五位クラスの軍事貴族層を、当時の史料用語に基づいて「京武者」という概念でとらえようとしている。京武者は諸国の武士を広汎に組織した平清盛・源義朝などの「武家の棟梁」とは異なり、小規模な所領を基盤に京を主要な活動舞台としており、白河・鳥羽院政期には数多く存在したが、保元の乱において活躍する平清盛・源義朝が台頭するにいたり、その役割は決定的に低下したと理解されている。(元木1984)」

 *元木1984とは、1984年の『史林』67巻6号の元木泰雄氏の「摂津源氏一門」参考文献。

「(中略)後白河院世期のこの段階においても、京の武士社会には、のちに挙兵することになる摂津源氏一門の源頼政をはじめ、摂津多田源氏の多田行綱や伊勢平氏の平信兼、美濃源氏の源重貞、上野の新田義重など、平氏と協調関係にありながら、平氏軍制から基本的に自立する軍事貴族=京武者が存在した。彼らは地方の所領と京を往来し、京では南都北嶺の強訴などに際し、朝廷や院から直接に命を受けて「官兵」として防衛にあたった。また源頼政の一族などは、この時期に平氏一門を中心に整理された高倉天皇の里内裏である閑院内裏の警固役とは別に、大内(大内裏のなかの本内裏)を警固する大内守護を鎌倉幕府成立後まで担い続けており、京において独自の軍事的役割を果たしていた」

 *引用文中の「この時期」とは、高倉天皇の即位後、清盛が京都での政務  を重盛に託し、自身は福原に居住していた時期。

いささか長くなりましたが、ろどすたさんがbV37・738で解説下さった頼政の「立ち位置」は、まさに京武者頼政としての面目躍如。
二条天皇の内裏脱出の図は、大きく変わりますね。
藤原尹明の個の活躍は、その後の彼が平家一門と行動を共にした事からしておそらく事実であったと思われますが、薄氷を踏むような二条天皇脱出は源頼政を抜きにしては語れないようですし、彼の存在によって二条天皇の移動は、むしろ安全に行われたといってもいいのかもしれません。
メッセージ 738 rarara_roadster さんに対する返信


京武者、源頼政(その2)。   2011/ 3/ 4 20:59 [ No.741 ]
投稿者 : morikeigetu
>虐殺(ジェノサイド)には参加していなかった。

私も、そう思います。
参加していたとすれば、二条天皇脱出にどれほど功績があったとしても、情状酌量はされないでしょう。

頼政の年齢は『公卿補任』によると…、といっても『平家物語』によって治承4年(1180)75歳、『源平盛衰記』によって77歳と記されていますが、それで逆算すると平治元年(1159)の頼政は54〜56歳ということになります。
この年齢の分別で、京武者頼政がジェノサイドに積極的に参加するとは思えませんし、ろどすたさんが仰るとおり、彼の意思は頑ななまでに天皇の守護に徹していたのかもしれません。
能楽『鵺』においても、天皇を悩ませる「鵺」を射落とすのは頼政です。

京武者の行動理念は、ある意味単純で簡潔なのかもしれません。
そういう行動を「ふたごころ」として罵った義朝や義平とは、所詮「立ち位置」を異にして当然だったと思います。

平治元年(1159)12月9日以降の激しい重心の移動の中で、ひとり取り残されてしまったのが、悲しき信頼?
結局、信頼は何がしたかったのだろう…。
義朝は何をしたかったのだろう…。
信頼は義朝に何を託し、義朝は信頼に何を期待したのだろう。
この部分において、「平治の乱・前編」は大きなナゾがあると思っています。
その解明のためには、ろどすたさんとhn2602mk2さんが展開された東国議論が今後とも必要なのだと痛感する次第。

そして、ろどすたさん曰くの「そして誰もいなくなった作戦」…。
これ、抽象的ですが「アタリ」だと思っています(微笑)。
「平治の乱・後編」のキーマンをフォーカスするでしょう。
「平治の乱」は、平清盛VS源義朝のみで語れないな…、という事ですね。

う〜ん、六波羅合戦に戻れない。
メッセージ 738 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 京武者、源頼政(その2)。  2011/ 3/13 17:28 [ No.744 ]
投稿者 : hn2602mk2
 源頼政の行動について

>そういう行動を「ふたごころ」として罵った義朝や義平とは、所詮「立ち位置」を異にして当然だったと思います。

 美福門院、二条天皇、八条(女)院に仕える頼政の立ち位置は、坂東からのポット出の義平はともかくも、義朝には十分わかっていたと思われますので、義朝が「ふたごころ」と罵ったとは考え難いのですが、公家の日記等にそう記されているのでしょうか?
義朝自身、嫡子頼朝を後白河の同母姉妹上西門院の蔵人として仕えさせていますから、そのような京武者の感覚は理解できていたと思いますが。
メッセージ 741 morikeigetu さんに対する返信


そうですね(苦笑)。   2011/ 3/13 18:52 [ No.745 ]
投稿者 : mori_keigetu
出典は、ありません。
『平治物語』の脚色・演出から想定すると…、と言う文言をつけ加えるべきでした。
『物語』は、マクロな意味での「源氏対平氏」を前面に押し出し、あたかも頼政が源氏の棟梁義朝の下に参集したにもかかわらず、その後明確な説明もなく、義朝・義平と対立させてしまいます。
『物語』のこの「無理やり」は、あとに続く『平家物語』を意識していると考えています。
また、私は源氏に関しては浅学なのですが、『物語』の義盛(行家)などの参加もやはり『平家物語』を意識していると考えています。いずれにせよ、今般の私の「仮説」は、すべて『物語』の私的検証であり、何らかの史料によるものではありませんので、ご容赦。


がんばれ東日本!   2011/ 3/20 1:36 [ No.746 ]
投稿者 : rarara_roadster
地震から一週間が過ぎました。

坂東、ならびに陸奥の国の方々、心よりお見舞い申し上げます。

これからが正念場でしょう。被災地のみなさま、どうかがんばってください。

現地で復旧・救援にあたっておられる方々、ほんとうにご苦労様です。


「歴史」と「文学」の間で、ふと立ち止まる   2011/ 3/21 18:42 [ No.747 ]
投稿者 : morikeigetu2
私、今、被災地に入っています。
詳しく申し上げる事は出来ません。言葉を失っています。歴史とは何だろう、史実とはこれか?
文学や物語が、ここから発生するのであれば、それもまた歴史として敬意を表したい。


大地の怒り、空の涙、でも日はまた昇る   2011/ 3/22 22:52 [ No.748 ]
投稿者 : rarara_roadster
>被災地に入っています

そうでしたか・・・。
メディアを通してしか情報に接することのできないことがもどかしいです。

こちらは西国の果てですが、日本の空はひとつに繋がっています。
メッセージ 747 morikeigetu2 さんに対する返信


義朝の敗走ルート図を作ってみました。   2011/ 4/ 3 15:53 [ No.749 ]
投稿者 : rarara_roadster
いささか、気が早いかもしれませんが(苦笑)

なかなか書き込めずにすみません。
公私ともども立て込んでいますが、少しづつ書き込んで行きたいと思います。

義朝敗走経路


Re: 仮説・六波羅合戦。   2011/ 4/16 21:26 [ No.751 ]
投稿者 : rarara_roadster
けいげつさんの提示された仮説のうち、

「六波羅合戦における清盛邸攻撃は、義平の捨て身の単独攻撃であった」

という項目について。

実は、このことについては、わたし的にかなり肯定的でいます。


その理由のひとつが、また、平治物語に関係してくるのですが、先日ブログにアップした義朝の敗走経路です。途中のこまかいエピソードは省きますが、堅田で義朝は「思うところがある」として、“一同解散”を宣言します。その結果、嫡子悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝、佐渡式部大輔重成、平賀四郎義宣、義朝の乳母子鎌田兵衛政家、金王丸ら八騎を残し、波多野次郎義通、三浦荒次郎義澄、斎藤別当(実盛)、岡部六弥太(忠澄)、猪俣小平六(範綱)、熊谷次郎(直実)、平山武者所(季重)、足立右馬允(遠元)、金子十郎(家忠)、上総介八郎(広常)らは個々に落ちていきます。その後、義朝一行は美濃の国青墓の宿にたどり着きましたが、その中に途中ではぐれた頼朝の姿はありませんでした。

青墓で義朝は、長男義平・次男朝長をそれぞれ山道(飛騨方面か)及び信濃・甲斐に派遣しようとします。しかし、ここから先のエピソードは、平治物語の脚色であると考えています。

その理由は、合戦に破れ、武門の棟梁としての権威を失った義朝の息子たちが、奥美濃や甲信方面の武士を糾合するだけの武威を有するとは考えにくいからです。また、これらの地方には義光流をはじめ、小規模武士団が独自に活動しており、全盛期の義朝の武威も届いてはいません。

「義平は山道をせめてのぼれ。朝長は信州へ下り、甲斐・信濃の源氏どもをもよほして上洛せよ。われは海道をせめのぼるべし。」という義朝の言葉は、この後、治承4年に以仁王の令旨に呼応して挙兵する各地の源氏の姿という平家物語のエピソードを暗に結び付けようとする作者の思惑が見え隠れしないでもありません。

さて、この青墓でのエピソードを創作とした場合、義平や朝長はどうなってしまうのか、ということが問題になります。そこで、まず、義平の動向を再考してみましょう。

義平については、愚管抄にも百錬抄にも出てこないので、仮に平治物語を見てみます。それに沿って、行動の履歴をまとめてみましょう。

平治元年(1159)12月26日 六波羅合戦に破れ落ちていく(物語では27日)
           同月29日 義朝、内海荘に到着
永暦元年(1160) 1月 3日 長田庄司忠致、義朝・政清を討ち取る
           同月 9日 義朝らの首級京で獄門
           同月18日 三条烏丸付近に潜伏していたところを見つかるが、からくも脱出
           同月25日 近江国石山寺付近で難波三郎経房に捕縛される。同日斬首。

ちなみに近江国石山寺は、近江国府の南西方向約2キロの地点にあり、国府をはさんで鏡の宿とほぼ反対の位置になります。

まずはここまで・・・


Re: 仮説・六波羅合戦。   2011/ 4/20 17:15 [ No.752 ]
投稿者 : hn2602mk2
 義平が、義朝に同行せずに京に残っていた(逃げそびれてた)とお考えなのですか?
もう一人の朝長の同伴についてのお考えが不明なのですが、やはり義朝は単身(勿論家臣はいたでしょうが)で逃避行を続けたと考えられているのですか?
一族としては義隆・平賀義信・佐渡重成が同行しているとすれば(これも個々に検討する必要はありますが)、三子も可能な限り同行するのが、筋のようにも思えるのですが。
メッセージ 751 rarara_roadster にさん対する返信


義朝と義平   2011/ 5/ 5 20:49 [ No.754 ]
投稿者 : rarara_roadster
体調がまだまだ本調子ではありませんが、けいげつさんが再登場されるまでのつかの間、2602mk2さんへのお返事も加えつつ書き込んでみたいと思います。

さて、最終的に義朝は尾張の内海荘まで敗走するのですが、そのルートについては平治物語をベースにせざるを得ません。その物語のとおりに一行が青墓までたどり着いたとしても、その後、義朝が子どもたちと別行動になったのは、愚管抄第五の義朝が討たれた時の様子に、義朝と蒲田正清の他には義平や朝長の名前が無いことからも推察できます。

この場合、頼朝については実際に捕縛され、朝廷で裁きを受けているわけですから除外します。また、朝長については、ほぼ物語に準拠してもいいのではないか、と考えています。おそらく、青墓で亡くなったのでしょう。

そこで肝心の義平ですが、なぜ、義朝と別行動になったのでしょうか?

一番考えられるのが、義朝とあえて別ルートを取って鎌倉を目指したというパターンでしょう。物語では、義朝は、青墓の長者大炊の弟である尾張国鷲の栖の玄光(源光)の助力により、舟で内海へとたどり着いたとあります。ブログにも書いたのですが、この玄光という人物は、鷲の栖(現在の名古屋市緑区大高町鷲津)あたりの顔役らしく、舟を使って一帯の水上交通を取り仕切っていたと考えられます。その一方で『強盗名誉の大剛の者(平治物語)』とあるように“業界の仕事”っぽいこともやっていたのでしょう。

http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai/23346065.html

ですから、青墓の長者と玄光は、おそらく木曽川を舟を使って行き来しており、751に書いたタイムテーブルから考えても陸路ではなく舟を使って義朝を内海まで送り届けたものと思われます。物語では、鷲の栖からは海上を舟でとなっていますが、わたしは、青墓から鷲の栖までも木曽川を船で下って行ったのではないか、と思っています。

もっとも、これは完璧な妄想でして、もっと木曽川の水上交通の歴史や、当時の地形、木曽川の流域の様子など多くのファクターを必要とします。根拠は751のタイムテーブルのみです(泣)。

ただ、この場合、義平がオトリとなって陸路を鎌倉へ向かったということは、十分想定できると思いますし、物語にあるように義朝が青墓で子どもらを分散させたのは、このあたりが真相だったのではないか?と思います。

さあ、いよいよ本題へと入っていきますが、今宵はここまでとしとうございます・・・。
メッセージ 752 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: 次期大河「平清盛」第1次キャスト発表   2011/ 5/23 17:59 [ No.756 ]
投稿者 : hn2602mk2
 しかし、それにしても、平氏一門と河内源氏の当主や次期当主が、若い時からの知り合いだったと言うストーリーは、どうなんでしょうね?
平正盛の娘婿の源義忠、その養子の為義と烏帽子子?の忠盛、と言う関係の史実から、源平両氏の関係を説くのが良いのではないでしょうか?
 源義家・義親父子あたりも初回あたりで、さらっと紹介しないといけないと思います。


Re: 次期大河「平清盛」第1次キャスト発表   2011/ 5/25 20:35 [ No.757 ]
投稿者 : rarara_roadster
>若い時からの知り合いだった

昨今の大河ドラマでは“定番”の設定ですね(苦笑)

>史実から、源平両氏の関係を説く

今のNHKの大河ドラマにもっとも望めないことだと思います(T T)ゞ

明日の夕方には、女性陣のキャストが発表されるようです。
こちらも楽しみですね
メッセージ 756 hn2602mk2 にさん対する返信


Re: 義朝と義平   2011/ 5/29 14:53 [ No.758 ]
投稿者 : rarara_roadster
六波羅合戦において、義朝や義平がどのように戦ったのか、不明の部分も多いのですが、愚管抄第五にある

『義朝ハ又六ハラノハタ板ノキハマデカケ寄テ』

の部分。平治物語では義平が六波羅の門の中へ突入します。

合戦の様子となると、情報も錯綜し、正確なところはわからない部分も出てきます。また、義朝勢は堀川などでの戦闘を経て、乱戦のなかで六波羅まで到達したと考えられます。史料の使い方にはもちろん慎重を期すべきですが、ここは「義朝とかいてあるのだから・義平とあるから」と拘る必要もなく、『義朝勢は、六波羅のハタ板の際まで攻め寄せた』と考えてよいのではないでしょうか。

この六波羅合戦について、愚管抄・平治物語は共通のソースに取材している可能性も含めて、ある程度、当時の合戦の様子を反映していると考えています。

物語ではその後、次から次へと新手を繰り出す平氏勢に対し、義朝勢は消耗も激しく、義平はついに鴨川の西へと押し返されたとします。

さて、鎌倉では無位無官の兄が武士団の要となり、都における父と嫡男である弟を支援する。
この構図が、義朝から義平へと受け継がれ、平治の乱に突入することになります。

義平が、この構図のごとく父や弟たちの支援に徹し、父たちを無事に落ち延びさせることを第一に考えていたとしたら、けいげつさんの提示された「義平特攻説」が浮上してくることになります。

この場合、義平は義朝を逃がす時間を稼ぐために六波羅に突撃、一時は門の際まで攻め寄せたが、やがて兵が消耗し、鴨川西の河原へ押し返された。その間に、義朝は河原を上って落ち延びていった、といった状況になるでしょうか。

そうすると義平は、義朝・朝長・頼朝の3人とは別に落ち延びていった可能性も生じます。遅れて青墓にたどり着いたのか、京付近のどこかに潜伏している中で義朝の訃報に接したのか、そこのところはなんともいえません。確実にわかっているのは、いずれかの時点で義朝と義平は離れ離れになってしまったということ。義平の最後の様子は、平治物語によるしかなく、愚管抄や百錬抄に義平の記事はみえない、ということです。

<平治物語>
永暦元年(1160) 1月18日 三条烏丸付近に潜伏していたところを見つかるが、からくも脱出
           同月25日 近江国石山寺付近で難波三郎経房に捕縛される。同日斬首。
メッセージ 754 rarara_roadster さんに対する返信


信頼最期   2011/ 6/11 22:26 [ No.762 ]
投稿者 : rarara_roadster
藤原信頼の去就について。

天皇・上皇に逃げられ、一気に賊軍に転落してしまった信頼・義朝。愚管抄や百錬抄によると、六条川原の合戦に敗北した信頼は、義朝と別れて仁和寺に逃げ込みます。この期に及んで・・・と思わないでもありませんが、これはやはり後白河上皇を頼ったものと思われます。

しかし、このとき仁和寺に後白河がいたかどうか?

愚管抄では、後白河は天皇に遅れて上西門院・美福門院に前後して六波羅に御幸しています。一方で、河内祥輔氏のように「愚管抄の記載は誤りである」とする研究者もいます。元木泰雄氏は「そのあたりは不明」としたうえで、いずれにせよ覚性法親王に取り成しを願い出たものとしています。

その後、六波羅から常陸守経盛が仁和寺に赴き信頼を捕縛(百錬抄)。これまで大同5年(810)平城上皇の乱の藤原仲成以来、貴族が処刑されたことはありませんでしたが、

・自ら武装して蜂起し、義朝以下の軍兵を率いている
・院御所を襲撃して多くの人命を奪い、天皇の政務空間である京の街中にケガレ撒き散らし汚した

といった理由、特にその武門性ゆえに“自力救済”の延長線上である「斬首」が適用されたと考えられます。ただし、公卿であったため「獄門」は免れています。

愚管抄では、処刑は清盛が担当し、六波羅の裏手の清水が流れるところに処刑場を仕立てられました。刑の執行にあたり、信頼は最後まで抵抗し騒いだようですが、清盛は「ナンデウ」と首を振り、刀を振り下ろしたと伝えています。
メッセージ 761 rarara_roadster にさん対する返信


経宗・惟方の暗躍   2011/ 7/15 21:28 [ No.766 ]
投稿者 : rarara_roadster
けいげつさんが六波羅合戦において挙げられた「物語」の

“この合戦は「巳の時にはじまりたる軍(いくさ)、おなじ日の酉の刻(午後6時)には破れにけり」と記します。この都合8時間の人馬の行動可能性についての検証”(727

が待たれるところではありますが、一応合戦後の様子について述べていこうと思います。


さて、戦闘も収束し首謀者の一人である藤原信頼も誅され、一応の平静を取り戻した朝廷では12月29日二条天皇は八条の美福門院邸に移ります。また、後白河上皇も八条堀川の藤原顕長邸へと移動しました。(百錬抄・愚管抄)

年が明けて、尾張からは源義朝・鎌田正清の首級が届き、1月9日、東獄門に主従ともども晒されてしまいます。(百錬抄)

ここから平治の乱は、また新たな局面を迎えることになります。



そもそも、この騒乱は、保元の乱により解体された王家・摂関家に変わって台頭してきた新興の院近臣の勢力争いという側面を有しています。なかでも乱後、名実ともに朝廷の実力者となった藤原信西一門に対し、後白河近臣の信頼・義朝や二条側近の経宗・惟方ら反信西派が結託。信西の排除を画策する中で、突如清盛の留守を狙って信頼・義朝が軍事行動を起こします。信西を葬った彼らは、続いて上皇を幽閉し、天皇による政務を主導、つまり「後白河院政」を否定します。そこに信頼らと経宗らが結合した理由がある、と元木泰雄氏は考えています。

しかし、三条東殿での大惨事を経て、信頼・義朝と経宗・惟方らの間に決定的な亀裂が生じたと考えられます。内大臣右大将藤原公教・太宰大弐平清盛らは経宗・惟方と結び二条天皇・後白河上皇の脱出作戦を敢行します。その結果、二条天皇の六波羅行幸を経て事態は六波羅合戦へと流れて行き、冒頭の状態へとつながります。

ところが、経宗・惟方はその後も後白河に対する圧力をかけ続けていたようです。そのひとつの例が「愚管抄第五」にあります。

<<上皇が堀川の藤原顕長邸の桟敷から大通りを眺めていると、突如、経宗・惟方らが命じて桟敷の外から板を打ち付けて視界を遮った。>>

「圧力ってこれ?」と思われるかもしれませんが、その後にこう続きます。

“カヤウノ事ドモニテ大方此二人シテ世ヲバ院ニシラセマイラセジ”

つまり経宗と惟方の二人が、世のことを上皇に知らせない、わからないようにしてしまったと愚管抄は述べています。前出の桟敷の板打ちエピソードは、実際にそのようなことがあったのかもしれませんが、むしろ上皇を政務から隔離したことの象徴的な表現と考えてもいいかもしれません。


Re: 岩手では、   2011/ 9/ 5 18:12 [ No.772 ]
投稿者 : hn2602mk2
 何時の間にか、日本史掲示板の最後尾に・・・。
 大河ドラマの始まる前に消滅するようでは大変なので、不肖、私めが、upさせていただきます。

 最近、PCが不調だったり、意外と書き込みの時間が取れず、古代史掲示板にもレスが月遅れ寸前の状態ですが、中世史の方がストップしているのは、その意味では歓迎しますが、消滅は避けたいものです。中世関係では、元木泰雄編と言う名に惹かれて、『古代の人物E王朝の変容と武者』(清文堂出版、2005年6月20日発行)を購入し、現在読んでいますが、中世史なのか古代史なのか、藤原道長から源義家、平正盛まで扱っています。純粋に中世史と言えそうな本としては、一応、田中大喜編著『上野新田氏』(戎光祥出版、2011年6月発行)を読みました。新田氏関連の本としては、赤澤計眞『越後新田氏の研究』(高志書院)、奥富敬之『上州新田一族』(新人物往来社)に次いで、3冊目です。
メッセージ 771 rarara_roadster にさん対する返信


Re: 岩手では、   2011/ 9/ 6 20:43 [ No.773 ]
投稿者 : rarara_roadster
hn2602mk2さん、おひさしぶりです。
ここのところ、いろいろとなんやかんや身辺でありまして〜。
ひとまずは上げていただきありがとうございました(ぺこり)

さて、ここで平治の乱後の平家の人々について少し触れておきます。

平治物語によると、

 大弐清盛は正三位
 嫡子左衛門佐(重盛)は伊与守
 次男大夫判官基盛は大和守
 三男宗盛は遠江守
 清盛舎弟三河守頼盛は尾張守
 伊藤武者景綱は伊勢守

のとおり。

尾張守となった舎弟頼盛。このことは、後に源頼朝の命運に関わってきます。

清盛は、ついに父忠盛の成しえなかった公卿へと昇進します。昇進前の位階は正四位下。通常は正四位上を飛ばして従三位になるところ、一気に正三位に叙せられ、そこに平清盛という人物の特異性を指摘する研究者もいます。ただし、この時点では清盛は大宰大弐のまま。参議にはなっていません。


そして、平治の乱はもうひと波乱があります。

一品御書所では「放置プレー」に甘んじ、今度は「目隠しプレー」と散々な目に遭わされる後白河上皇。ついに堪忍袋の緒が切れます。
メッセージ 772 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: 経宗・惟方の暗躍   2011/ 9/16 9:09 [ No.774 ]
投稿者 : oni_sakuza_mark2
いつも勉強させていただいております。

結果的に経宗・惟方の政治生命を奪ってしまう同事件ですが、あるいは信西排除に味をしめ、後白河院政の停止、二条親政の確立を主導しようと試みた、換言すれば、暴力の行使に酔って、その匙加減を誤ったと理解すべきでしょうか。
メッセージ 766 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 経宗・惟方の暗躍   2011/ 9/18 1:30 [ No.775 ]
投稿者 : rarara_roadster
>いつも勉強させていただいております。

>結果的に経宗・惟方の政治生命を奪ってしまう同事件ですが、あるいは信西排除に味をしめ、後白河院政の停止、二条親政の確立を主導しようと試みた、換言すれば、暴力の行使に酔って、その匙加減を誤ったと理解すべきでしょうか。


書き込みありがとうございます。

平治の乱においては、さまざまな解釈がありますが、いちおうこのトピでは次のように解釈しています。

・保元の乱以降、朝廷内に信西に不満を持つ人たちのサロンのようなものが形成され、そのなかで中心となっていたのが、惟方・経宗などといった人物ではなかったか
・反信西のサロンは、“反信西”の意識はあっても具体的なビジョンは持っていなかった

ただし、武力による信西排除を経宗や惟方がどこまで考えていたか、それはなんとも言えません。結果として信頼・義朝が行動を起こしたことは事実なのですが、その後の経宗・惟方の変わり身の早さを考えると、少なくとも方法論においては経宗らと信頼らは一線を画していたのではないか、と考えています。

従って、

>暴力の行使に酔って、その匙加減を誤った

これはむしろ、信頼・義朝らと言えるでしょう。

経宗・惟方と信頼・義朝との結びつきは、さほど強固なものでは無かったものと考えています。経宗・惟方は、むしろ12月9日の惨劇を見て、一転して『保身』に走ったのだと考えています。信頼や義朝の周りから9日の事件後は、まるでくしの歯が抜けるように人が居なくなってしまったということは、彼らの行動についてくる者がいなかった事を物語っています。

経宗・惟方の不満は、

・後白河院政が確立されると、二条親政が遠退いてしまう。
・信西のやつは後白河だけじゃなく、むすこを二条の側近にしている。このままじゃ、奴の天下が続く。
・結論:信西はやっぱうざい!

というところにあり、

・信頼によって信西が滅び、後白河の院政が停止したので、ここは二条を救い出して六波羅へ脱出させる立役者になったほうが後々得である。
・このまま信頼といっしょにいて、ジェノサイダーの仲間と思われたらえらいことだ。

と損得勘定がはたらいたものと思われます。
“都の貴族”ですから、オタクとはいえ『武門貴族』の信頼とは違い、極端な軍事行動にはついて行けなかったのでしょう。
メッセージ 774 oni_sakuza_mark2 さんに対する返信


経宗・惟方の矛盾   2011/ 9/18 8:22 [ No.776 ]
投稿者 : oni_sakuza_mark2
信頼と経宗・惟方の乖離というご指摘は首肯できます。

とは言え、経宗・惟方がやらかした桟敷打付事件も、広義の暴力であり、信頼の同類と見なされかねない行為です。むしろ、義朝クラスの「暴力装置」を欠くだけに、より反撃を招きやすい軽挙ですらあります。
経宗・惟方の両人とも、自覚してはいないにせよ、少なからず暴力に酔い、しかも信頼のような軍事オタクではないだけに、十分な「暴力装置」を確保することもせず(できず?)、致命的な勇み足を犯してしまった印象です。
メッセージ 775 rarara_roadster さんに対する返信


upついでに近況報告   2011/10/ 4 1:11 [ No.779 ]
投稿者 : hn2602mk2
 元木泰雄氏の新刊『河内源氏』(中公新書2127,201年9月5日発行、実際はもっと前に出ています)と峰岸純夫氏『新田岩松氏』(戎光祥出版、中世武士選書F)を購入読了。10/1に書店で、「限定出版!」と言う帯に踊らされて、中世武士選書『@武田信重』、『A安芸武田氏』、それに黒田基樹氏『北条早雲とその一族』(新人物往来社)、やっと出版された湯山学氏の『相模武士四海老名党、横山党』の一挙四冊を衝動買い。

 時間の関係でこの4冊は、当面2週間は読めない予定。既に時代小説2冊(上下)を前に買ってあり、それを読む予定なのと、10/8からの三連休は、大学の同窓会が東京であり、東下りの予定で、その前にSF一冊購入します。
う〜ん、衝動買いの四冊は、、どう見ても3週間先でないと、読み出せそうにない。
メッセージ 778 rarara_roadster さんに対する返信


経宗・惟方の逮捕!   2011/10/28 23:59 [ No.782 ]
投稿者 : rarara_roadster
経宗・惟方によって抑圧を受けていた後白河上皇ですが、ここにいたって反撃に転じます。『愚管抄』によれば

「ワガ世ニアリナシハコノ惟方。経宗ニアリ。是ヲ思フ程イマシメテマイラセヨ」

と“泣く泣く清盛に命じた”とあります。

「思フ程イマシメテ(思いっきりやっちまえ!)」ってな具合で清盛に命じたところ、永暦元年(1160)2月20日、清盛は忠景・為長という二人の郎党を内裏に派遣して、経宗・惟方を逮捕。その後、内裏の陣頭に御幸した後白河の御車の前に引きすえて、

“ヲメカセテマイラセタリケルナド世ニハ沙汰シキ。ソノ有サマハマガマガシケレバカキツクベカラズ。”

つまり、(恐怖や苦痛で)泣き喚くほどの拷問を二人に加え、その様子は禍々しくて文章にできないくらいの酷さであったと慈円は残しています。

この事態について元木泰雄氏は「保元・平治の乱を読みなおす」のなかで、『経宗・惟方は事件惹起の責任を取らされたのである』とし、以下のようにまとめています。


もともと彼らは、信頼と並ぶ『反信西派』の中心であり、政変の首謀者でした。しかし、三条殿襲撃事件の後、内大臣藤原公教によってこちら側に引き込まれると、二条天皇の六波羅行幸や後白河上皇の脱出において重要な役目を果たした『立役者』となります。

そして信頼・義朝が滅ぶと、政務の重要メンバーとして君臨し、なおかつ後白河上皇に対し圧力をかけるようになりました。元木氏の言葉を借りると『これぞまさにマッチポンプ』の行動であり、このことは、当初平治の乱の政治的混迷のなかで中立の立場にあったものも含め、多くの貴族の不満や批判となったと思われます。

また、後白河が清盛に経宗らの捕縛を命じた場面には、藤原忠通も同席しており(愚管抄)、衰退してしまった摂関家の大殿である忠通は、摂関の地位を狙っている(と思われる)経宗の失脚を狙っていたと考えられます。

結局、これらのことが要因となり、そこに後白河の憤懣が重なって経宗・惟方の逮捕となったと考えられるのではないでしょうか。

>抑圧を受けていた後白河法皇 とあったので
  抑圧を受けていた後白河上皇 に修正


Re: 経宗・惟方の逮捕!   2011/11/ 2 18:33 [ No.784 ]
投稿者 : rarara_roadster
経宗・惟方逮捕の2日後、流されていた信西の息子たちが赦免され、帰京が許されます。

長男の参議俊憲は越後、次男の権右中弁貞憲は土佐、紀二位の息子成憲は下野、脩憲は隠岐に流されていました。

帰京後の彼らは、配流時にすでに出家していた俊憲のほか、消息不明の貞憲、またその他のものは、政界に復帰し公卿に列するも、政治的影響力はほとんど無く、風雅の道に生きるものもいました。

元木氏は、「彼らの(政界での)華々しい活動は、父信西の庇護のもとで可能となった」としています。

次はいよいよ平治の乱直後の源義朝のむすこたち、頼朝や義経について書いていこうと思います。
メッセージ 782 rarara_roadster さんに対する返信


すけどのについて   2011/11/19 15:49 [ No.787 ]
投稿者 : rarara_roadster
2月9日、源頼朝が、尾張守平頼盛の郎等宗清によって六波羅へ連れてこられます。平治物語によると、頼朝は関が原の付近で尾張から上洛中の宗清に遭遇し、そのまま捕らえられてしまった、とあります。

頼朝は、平治の乱においては武装し、父義朝と共に参戦していました。保元の乱では敗者となった戦闘員はことごとく斬られ、今回の乱においても公卿である藤原信頼も武装戦闘員とみなされて斬首されています。たとえ14歳とはいえ、乱の中心人物の一人である源義朝の嫡男ならば同様の末路となるはずでした。

さて、ここでこのいたいけな14歳の少年の生殺与奪権はどのようになっていたのでしょう?

通説、というか一般的なイメージでは、『捉えられた頼朝を見た池禅尼が、死んでしまった息子の家盛に頼朝が生き写しだと言い、清盛に対して頼朝の助命を申し出る。その結果、「清盛」は池禅尼に従って頼朝を伊豆へ流すことにした』というように考えている人は多いと思います。

つまり、清盛が頼朝の生殺与奪権を握っていたというイメージではないでしょうか。

数年前に、ある日本史掲示板で平治の乱における戦後処理が話題になったことがあり、そこでのことを少しご紹介したいと思います。

まずその前に、頼朝の助命嘆願について。彼が※家盛に生き写しだったのかどうかはともかく、彼は年少の頃より後白河の同母姉の上西門院の蔵人として出仕しており、その方面からの助命嘆願があったのでは、ということが最近では提示されています。

※家盛については37〜38を参照

では、清盛と頼朝について。清盛は平治の乱における戦闘の一方であり勝者ですから、敗者に対する扱いについて深く関与する存在であります。通常の戦闘であれば、自力救済の原則、つまり将来に禍根を残さないように敗者の首を斬りおとして自己完結を図ることになります。源義朝の嫡男であり、自ら武装して戦闘に参加した頼朝は、そうなって然るべき対象者です。

ところが頼朝はこの時点で「従五位下右兵衛佐」という官職にあり(乱の直後に停止)、また、天皇や上皇の政務空間を汚した謀反人の一味でもあります。処遇については清盛の独断ではなく、やはり朝議の場で決められた可能性が高いのではないか、というのが件の掲示板で示された意見でした。

同時期の清盛は、太宰大弐の職でまだ参議にはなっておらず、朝議メンバーではありません。しかし、上記のように清盛は戦闘の当事者ですから、頼朝の処遇にまったく無関係ということも無かったと思われます。あるいは朝議に際し、意見を求められるようなことがあったかもしれません。

しかし、頼朝の配流が、経宗・惟方の配流と同日に執行されているところから考えると、やはり頼朝の審判も朝議で行われたと見るべきでしょう。

上西門院は、朝議については後白河を通じて、清盛に対しては池禅尼を通じて頼朝の助命を画策したのではないでしょうか。

池禅尼はもともと待賢門院や上西門院に近い存在で、清盛には継母にあたりますが、平忠盛未亡人として「平家のゴッドマザー」的なポジションにあります。また、頼朝を捕縛した宗清が頼盛(池禅尼の実子)の郎等ということで頼朝は宗清のもとで保護されていた、つまり頼盛の監視下にあったようで、そこで頼朝と池禅尼が遭遇する機会があったかもしれません。

このように上西門院の旧交による助命嘆願に加え、もうひとつ頼朝の命が救われた理由が提示されています。

六波羅合戦後、義朝や信頼が滅び、義平のように残党が制圧されていく中で、経宗・惟方らが政務の重要メンバーとして台頭し、後白河に圧力をかけるようになります。これにより、他の貴族から『あいつらってそもそも信頼とつるんでたんじゃね?』『中坊(頼朝)なんかよりそっちの詮議が重要だろ』という会話があったかどうかはともかく、経宗や惟方に対する関心が高まっていったこともあると思われます。彼らに対する反発が強まるにつれ、頼朝に対する関心は徐々に縮小し、その分助命の方向に進んでいった可能性は、あるのではないでしょうか。

このように頼朝の運命は、かつて仕えていた上西門院、そして池禅尼の実子である頼盛の郎等に発見・保護されるという幸運、なにより平治の乱後の政情不安定が頼朝にとっていい方向に作用したと考えています。

つづいて上西門院が頼朝の助命に動いた理由を別口から見てみたいと思います。


上西門院が頼朝の助命に動いた理由   2011/12/ 1 21:57 [ No.788 ]
投稿者 : rarara_roadster
頼朝生母の実家、熱田大宮司家は平治の乱により婿と外孫が謀反人になってしまいました。それだけではなく、大宮司家からも家人・郎等が義朝勢に参加しており(平治物語)、このままでは謀反人の与党として認定される可能性が生じています。

当然のことながら、大宮司家は事態の打開に向けて躍起になったと思います。それこそありとあらゆる人脈を使ってイエの存続を図ったと考えられます。そのひとつが上西門院に対するアプローチではなかったかと思うのです。

熱田大宮司家の女性の中には、待賢門院や上西門院に仕える女房となったひとが多く、頼朝が上西門院の蔵人になったのもそのあたりの人脈が無関係ではないと考えられます。そのアプローチもあって上西門院が頼朝助命に動いた可能性もあるのではないでしょうか。そしてここで一番期待されるのは、「頼朝助命」の先にある、上西門院から後白河上皇へかけてのアプローチ、つまり、熱田大宮司家の存続に対する後白河上皇の手形だと思います。頼朝の命が助かるかどうか、ということは熱田大宮司家存続のひとつの指針となっていたとも考えられます。

もちろん、上西門院もかつて自分に仕えていた少年を不憫に思う気持ちもあったでしょうが、やはり熱田大宮司家の運動がバックにあったと思います。

大宮司家にとっての優先順位はあくまでも『イエの安泰』と考えられます。頼朝の同母弟、希義は平治物語のなかで(母方の)伯父の手によって「からめ出て、平家へ奉れば」とあります。つまり年端もいかない頼朝の弟(「希義」の名は配流の時についた)を捕まえて差し出すことによって朝廷に対し恭順の意を示したと考えられます。この行動は程度の差こそあれ、保元の乱において藤原忠実が最後に頼長を見限ったことに通じるものを感じさせます。

頼朝の処遇と希義を差し出したことの関係は定かではありません。頼朝の死罪を取りやめる条件が希義の出頭だったのか、頼朝の助命が決まってさらに大宮司家に謀反の心が無いことを示す目的で希義をあえて差し出したのか、そのあたりはなんとも言えません。

結果的に頼朝・希義の兄弟は死罪は免れましたが、大宮司家が希義を犠牲にしてまで「イエ」の存続を図った可能性は十分にありそうです。

そして、頼朝は伊豆に、希義は土佐へと配流されます。

つぎは常磐のこどもたちについて・・・
メッセージ 787 rarara_roadster さんに対する返信


常磐のこどもたち  2011/12/23 10:17 [ No.790 ]
投稿者 : rarara_roadster
常磐という女性は九条院に仕える雑仕女で、義朝との間に今若、乙若、牛若の三人の男子を生んでいます。今若、のちの阿野全成が生まれたのが仁平3年(1153)、乙若、のちの義円が久寿2年(1155)、そして牛若、のちの義経が平治元年(1159)の生まれとなります。

九条院とは、近衛天皇の中宮呈子(関白藤原忠通の養女。久安6年(1150)に左大臣藤原頼長の養女多子と入内競争となった)です。雑仕女とはいえ九条院に仕える女性との間に子をなすということは、義朝が美福門院や忠通周辺に接近していたことをにおわせます。

義朝の子どもを順番に見ていくと、義平・三浦氏、朝長・波多野氏、頼朝・熱田大宮司家とそれぞれ母方の実家が義朝の政治的支援者の推移を表していることが見て取れます。常磐の身分は低いですが、前述のようにこの時期の義朝のバックには美福門院や忠通がいたことは想定できると思います。


常磐の三人の子どもたちはそれぞれ今若は醍醐寺へ、乙若は園城寺で出家し、後に八条宮円恵法親王のもとへ、牛若は鞍馬寺と仏の道に入ることになります。

彼らの命が助かったのは、頼朝が助命されたからに他なりません。つまり、義朝の嫡子であり自ら武装して戦闘に参加した頼朝が助命されたのですから、乱とは関係しなかった同腹の希義はもちろん、妾腹でしかも幼子の三兄弟が死罪になる道理がありません。とは言え、希義は「流罪」という刑罰を受けることになるのですが、この三兄弟が出家となったのはどうしてなのでしょう。

ときどきこの出家を、「刑罰」としているかのような主張を見かけます。頼朝や希義の受けた「流罪」は律令で定められた刑罰ですが、出家は刑罰ではありません。刑罰ではありませんが、無罪のための“条件”的な措置だったと考えられます。妾腹の幼子とはいえ、そこにも自力救済の原理が働いたものと思われます。
メッセージ 788 rarara_roadster さんに対する返信


謹賀新年   2012/ 1/ 3 19:46 [ No.791 ]
投稿者 : rarara_roadster
本年もよろしくお願いします。

来週からは大河ドラマ「平清盛」も始まります。時代考証に高橋昌明氏・本郷和人氏の両名のほか、スタッフにもその道のエキスパートが結集とのこと。

それはそれとして、ここの「平治の乱」は、3月11日の配流の日をもって一応の区切りとしたいと思います。

というのは、ここから治承・寿永の内乱が起こるまでの間をどうするかが未定なのです。まあ、まだ日にちもありますし、もう少し頼朝やその周辺について書き込む予定です。


Re: 謹賀新年   2012/ 1/ 9 17:44 [ No.792 ]
投稿者 : morikeigetu
正月気分などすっかり消えているのに、気の抜けたような新年のご挨拶を申し上げます。

ご無沙汰いたしました…というか、大河ドラマで「平清盛」が決定し、時代考証を高橋昌明さんが担当するのが判明した頃から、morikeigetuはフェイドアウトを考えていました。

『保元から壇ノ浦まで』を起こし、即座にろどすたさんのご参加をいただき保元の乱だけで3年、いったいどうなるのかと思いつつ実に楽しかった。
ところが大河「平清盛」決定以降、世に氾濫する平家情報や平家本は大河ドラマに擦り寄ったものばかり。
神戸ではイケメン(?)を集めた清盛隊なども誕生する始末。
大河に抵抗するのは造作ない事でありますが、時代考証を高橋さんがされるので二の足を踏んだのです。

「平清盛」が終了した後、ろどすたさんのお許しを得てから再度参加させていただこうと考えました。
しかし、…そう、しかし。
昨日の第1回を見て、「これは、アカン」と。
『保元から』は、そんな雑音など無視して進めていくべきでしょうが、1年間ノーコメントではすませられない、いや、すませてはいけないと感じました。
『保元から』の主題から外れる事なく、しかしNHK及び脚本家の「ドラマだから」という大上段から振り下ろされるヒストリーならぬストォリーを、せめてこのトピでは指摘していかなければ高橋さんは犬死するでしょう。

直垂のまま海に飛び込むなど、いかに水練達者でも自殺行為だなどという指摘(笑)をするつもりはありませんが、後の保元の乱を説明するための伏線だとしても、あれじゃあねぇ。では後白河天皇はどうして生まれたのかが楽しみです。
白河法皇の前(おそらく院御所)で、架空の人物とはいえ人が殺される。
人を殺すのは「武士」?
では、あの武士たちは、源氏?平氏?
などとね……。

ろどすたさん、ずっと勝手しながら、しょーむない投稿ですみません。
メッセージ 791 rarara_roadster にさん対する返信


♪風は吹いている by AKB48   2012/ 1/11 19:21 [ No.793 ]
投稿者 : rarara_roadster
けいげつさん、お久しぶりです。

六波羅合戦以降、結局ずるずると投稿を続けています。

さて・・・。

>大河ドラマで「平清盛」
>世に氾濫する平家情報や平家本は大河ドラマに擦り寄ったものばかり。
>神戸ではイケメン(?)を集めた清盛隊なども誕生する始末。

>昨日の第1回を見て、「これは、アカン」と。
>『保元から』は、そんな雑音など無視して進めていくべきでしょうが、
>1年間ノーコメントではすませられない、いや、すませてはいけないと感じました。

兵庫県知事のコメントといい、わけのわからない横槍といい、このたびの大河は、外野の声もちょっと風の方向があさっての様な気がします。

わたしのブログでも書いてきましたが、時代考証についても何か喉に異物感を感じていました。これについては、意外な方のコメントもあったりしましたが、いずれにせよ、考証の結果はお話が進まないと確認することも出来ませんので、しばらくは様子を見ようと思っています。


>白河法皇の前(おそらく院御所)で、架空の人物とはいえ人が殺される

このシーンはどうしますかねえ(苦笑)
法皇が露骨に「ころせ」ってのはいかがなものかと・・・。

>1年間ノーコメントではすませられない、いや、すませてはいけないと感じました。

そこで提案なのですが、いちおうこのトピの「平治の乱」はかなり強引ではありますがとりあえず惟方・経宗の逮捕、頼朝の捕縛までは書き込んでいます。あとは彼らの配流についてと、エピローグ的に頼朝・義経について少し書いておこうかなと考えていたところです。

で、791にも書いたのですが、今後の方針について大河ドラマ「平清盛」を肴にしながら(検証していきながら)決めていくというのは如何でしょう。
メッセージ 792 morikeigetu さんに対する返信


ありがとうございます。   2012/ 1/14 17:28 [ No.794 ]
投稿者 : morikeigetu
『保元から…』における「平治の乱」については、途中放棄のような形になりました事をお詫び申し上げます。

私的な時間がほとんどなくなったという理由もありますが、このところ本も史料もホコリまみれです。
ふと、「大河ドラマ」における「時代考証」とは何なのだろうと思った事もありましたが、最近は「ま、あれはNHKの護符みたいなものなのだ」と割り切っています。
高橋さんが「時代考証」に入ると知ってからは、期待と不安…、どちらかというと「高橋さんにキズがつく」というような不安が日増しに強くなっていました。第1回放送時に、「時代考証」から高橋さんのお名前が消えていればいいのにとまで思っていました。

先日、久しぶりにろどすたさんのブログも拝見いたしました。
「通りすがりの天野さん」のご投稿を読んで、少しほっとした部分もありますが、グランドデザインとしての「時代考証」が脚本の中で埋没し、六波羅平家の滅亡とオーバーラップしないよう祈るばかりです。

『水滸伝』に出てきそうなあの「剣」が、壇ノ浦で時子と共に海に消えた三種の神器の宝剣と関わってきたり、まさかとは思うけれど、息をひきとった清盛の手からふたつのサイコロがころがり落ちる、なんてシーンはいらないもんね。

>このトピの「平治の乱」はかなり強引ではありますが…

「平治の乱」については、そもそもろどすたさんが仰ったところの、
『そして誰もいなくなった』というフレーズが、最も端的に言い表していると思います。
信西が消え、信頼・義朝が消え、そして経宗・惟方が消える。
残ったのは、強烈な個性を持った側近を失った天皇二条と上皇後白河、弱体化した摂関家と、そして清盛。

>大河ドラマ「平清盛」を肴にしながら…

なんだか悪酔いしそうですけど、肴には事欠きませんね。
『保元から…』で取り上げるべき次の事件まではひと休みの感がありますから、「保元・平治の乱」を総括する意味でも、ご提案の通り座談(検証)するのもいいですね。
メッセージ 793 rarara_roadster さんに対する返信


断念(アゲに代えて)。   2012/ 1/28 19:54 [ No.796 ]
投稿者 : morikeigetu
今度の1月30日、神戸ポートピアホテルにおいて高橋昌明氏のセミナーが開催されます。
テーマは「清盛と大輪田泊」でありますが、大河「平清盛」放映後の高橋氏の何らかのコメントがあるかなと大変楽しみにしていたのですが、当日16:00に神戸へ戻る事がほぼ不可能となりました。
抽選にも当たり、ろどすたさんにもご報告が出来ると思っていたのですが…。

第3回において、まだ高橋氏のお名前は消えていません。
まだ、喧嘩別れはしていないようです。

30日の情報は、またどこからか流れてくるでしょう。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 断念(アゲに代えて)。   2012/ 1/28 22:09 [ No.797 ]
投稿者 : rarara_roadster
ありゃあ〜、それは残念でした・・・。

>第3回において、まだ高橋氏のお名前は消えていません。
>まだ、喧嘩別れはしていないようです。

撮影自体は、かなり進んでいるでしょうからねえ。
しかし、第3回までの内容で名前が出ると思うと「ガクガクブルブル〜」状態ですね(苦笑)
メッセージ 796 morikeigetu にさん対する返信


番外編・義経奥州下向   2012/ 1/28 22:14 [ No.798 ]
投稿者 : rarara_roadster
“吾妻鏡”
治承4年(1180)10月21日 庚子
  
(前略)
今日、弱冠一人御旅館の砌に佇む。鎌倉殿に謁し奉るべきの由を称す。
(中略)
この主は、去る平治二年正月、襁褓の内に於いて父喪に逢うの後、継父一條大蔵卿(長成)の扶持に依って、出家の為鞍馬に登山す。成人に至るの時、頻りに会稽の思いを催し、手づから首服を加う。秀衡が猛勢を恃み、奥州に下向し、多年を歴るなり。而るに今武衛宿望を遂げらるるの由伝え聞き、進発せんと欲する処、秀衡強いて抑留するの間、密々彼の館を遁れ出て首途す。秀衡悋惜の術を失う。追って継信・忠信兄弟の勇士を付け奉ると。
(以下略)  

これは、治承4年、富士川の戦いで平惟盛の軍勢を破った頼朝のもとへ、奥州から義経が駆けつけた場面の抜粋です。これによると、牛若こと義経は、鞍馬では『継父一條大蔵卿(長成)の扶持に依って』とあるように、母常盤の再婚の相手、藤原長成によって扶持を得ていたと記されています。

そのまま出家していれば、なにも問題は無かったのでしょうが、自分のアイデンティティに目覚めたのか、牛若は出家を拒否して鞍馬を出てしまいます。

ここで奥州の藤原秀衡が登場し、義経を平泉へと迎えることになります。が、そのあたりの背景について、元木泰雄氏の著書「源義経」を参考にみてみたいと思います。

最終的に秀衡が義経を迎えたこと自体は、間違いないと思います。ただし、その前にもう一人関与したと思われる人物が平泉にいます。それが秀衡の岳父、藤原基成です。基成は、平治の乱の首魁信頼の兄で、康治2年(1134)より陸奥守に就任、一時帰京した後、平治の乱により信頼が謀反人となったあおりで陸奥へ配流となり、そのまま平泉に移り住んでいました。彼の娘は秀衡の妻として泰衡を生み、基成は秀衡の政治顧問的な立場で平泉と京の仲介役をしていたと考えられています。また、彼は大蔵卿一条長成とも姻戚関係にあり、角田文衛氏はこのことも義経の奥州下向に影響を与えたとしています。

元木氏は、鞍馬に居れなくなった義経(牛若)の処遇について、継父である一条長成から奥州の藤原基成に打診があり、基成から秀衡へと要請があがり、最終的に秀衡が承認したのであろう、としています。

少々面倒くさい図式ではありますが、元木氏によると、「当時の奥州は藤原氏が強大な地域勢力として存在しており、かつての坂東のように各種勢力が争うなかで義朝のような“武威と権威(背景)を持つ棟梁”が求められていたわけではないし、義経には政治的権威も無く、武力も無いばかりか、謀反人(義朝)の息子として朝廷から目をつけられる可能性すらある存在である。」ということになります。

そんな状況ですから、秀衡が積極的に義経を迎えたというのは、少々考えにくいであろうということになります。強いてあげるとすれば、義経は奥州藤原氏成立のきっかけとなった「八幡太郎源義家」の子孫であり、そこには一定の権威も見出すことができるだろう、とし、その義経を庇護することにより秀衡自身の権威を高める効果をねらったのではないか、と結んでいます。
メッセージ 791 rarara_roadster さんに対する返信


リハビリティション。   2012/ 2/ 6 20:31 [ No.799 ]
投稿者 : morikeigetu
「平治の乱」の途中で逃走しましてずいぶん時間が経過し、義平の六波羅攻撃という「物語」的クライマックス以降、ろどすたさんに丸投げしてしまいました(陳謝)。
結局、自分の中で何ひとつ検証整理する事なく、現在「平治の乱」の戦後処理までろどすたさんにお任せしてしまいました。
投稿するにも頭の中が未整理の状態でしたので、ともかくもろどすたさんの投稿を繰り返し、繰り返し読ませていただき、追いつこうとしています。

「保元の乱」の時もそうでしたが、この「平治の乱」も、
“結局、何だったのだろう”という幼稚な疑問が残るのですね。
信西がやろうとした事は殺されるような事だったのだろうか?
で、信西を殺した信頼・義朝は、何をしたかったのだろう?
信西のSOSは、誰にも受信されなかった?
二条・後白河はどうか知らないけれど、公教たちのSOSは清盛が受信した?

信頼が大臣・大将を望んだのを信西が邪魔をしたとか、義朝の娘を信西の息子の嫁にという申し入れを断ったとか…というのは事実であったとしても、直接の原因ではないような気もします。
信頼も、落ち着いて周囲を見ればあと2年ほど我慢すれば大臣・大将の機会もあったのに、どうしても待てなかった理由があったのでしょうか。

それはともかく、リハビリという事で「平治の乱」を、記憶のままに年表的に整理してみます(間違ってたら、すみません)。

平治元年(1159)12月9日 信頼・義朝三条烏丸御所焼討ち。
          12月17日 清盛帰京。
          12月26日、重盛・頼盛らが内裏に向けて出陣。
          12月27日、信頼斬首。
          12月29日、源朝長自害。
                 除目により、重盛伊予守・頼盛尾張守
                 宗盛遠江守・教盛越中守・経盛伊賀守
平治2年(1160)1月4日、義朝死。
          1月6日、経宗・惟方の桟敷事件。
          1月9日、義朝の首獄門。
          1月10日、改元、永暦元年。
          1月18日、義平捕らわれる。
          1月21日、義平斬首。
          2月9日、頼朝捕らわれる。
          2月10日、経宗・惟方捕らわれる。
          2月28日、惟方の武蔵国を清盛に。知盛武蔵守。
          3月11日、頼朝配流。
                経宗・惟方配流。
          6月14日、源光保・光宗配流(途中で殺害)
          7月9日、藤原公教死去。
          8月5日、清盛厳島詣。
          8月11日、清盛参議。

個人的には、藤原公教の死に感慨深いものがありますね。
『公卿補任』によると58歳、「赤痢」とあります。
彼としては、全てを見届けたのかな…と。
メッセージ 798 rarara_roadster さんに対する返信


大河ドラマ(笑) 2012/ 2/14 21:01 [ No.800 ]
投稿者 : rarara_roadster
何か書こうと思っているんですが、どこから手をつければいいのか(苦笑)

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