保元から壇ノ浦まで


Re: 本題から外れますが…。   2009/ 5/12 19:10 [ No.401 ]
投稿者 : rarara_roadster
けいげつさん、申し訳ありません。こちらこそ、とっちらかしています。

いま、惟方と経宗についてまとめようと本を読み漁っている最中です。GWに集中してやっつけようと思っていたのですが、他のものにやっつけられてしまいました(謎)。

さて、少しお返事を返してみようと思います。

>信西の「強気」の背後には、清盛率いる平氏軍団があったと信西個人は確信していたかもしれません。
>清盛はそれを100%受け入れていたかどうか・・・(以下略)

この信西と清盛の関係が、一つのポイントになってくると思います。確かに、通説では(物語史観を別にして)信西と清盛の姻戚関係をはじめとして、かなり強固なものという印象があります。

これに対し、元木泰雄氏は、清盛は、信西・信頼の両者から少し距離を置いていたと考えています。と言うのは、前項の「信頼さん」のところで投稿したように、清盛は信頼とも姻戚関係を結んでいます(信頼の嫡男の妻が清盛の女)。もちろん、これだけで信西と清盛の関係をどうこうというわけではないのですが、少なくとも『信西一辺倒』というわけでもないようです。そして、もちろん信頼とも同様です。

>不思議なのが、清盛の熊野詣。

そうなんですよね。

396>信西は後白河の恋人に対する鋭い指摘を、こともあろうに後白河本人に直言します

これは平治物語にもある「長恨歌」に例えた絵まで書かせたという逸話ですね。元木氏はこれを「信頼暴発の警告」として捉え、自らとひいては後白河自身に災いが降りかかることを恐れていたとしています。このことについては、「西獄門」以降に改めて触れることになると思いますが、いずれにせよ、信西は信頼が事を起すことを予見していたようです。

そして、そのことが清盛との共通理解になっていたかどうか・・・。

もし、清盛と信西の関係が通説どおりならば、信西は清盛の熊野詣を引き止めたり、あるいは、清盛も信西に対し何らかの防御策を施すなどの動きがあっても不思議ではないように思いますが、どちらにせよ、清盛が熊野に行っている間に信頼が決起して、信西が殺されたことは事実です。ということは、信西は清盛の熊野詣を止めなかった(止められなかった)し、清盛もそのまま熊野に旅立っていった・・・。ということになります。

もっとも、信西自身は子息とともに三条烏丸御所に入っており、清盛も「まさかここまでは・・・」と思っていたのかも知れません。結果的にはその予測を超えた信頼の暴挙となってしまいましたが・・・。

で、すこし話が飛んでしまうのですが、「清盛が熊野から京へ無事に戻れた」ことの理解についてちょっと書いておこうと思います。今回の平治の乱のポイント、「3.清盛の帰還と反撃」に被さります。

信頼の油断。といっていいのかどうか、少し悩む部分はあるのですが、信頼は清盛と姻戚関係を結んでいた分、信西を討った後で清盛を取り込むことができると踏んでいたのではないか、と元木氏は考えています。つまり、清盛は信頼側にとって始めは味方ともいえないが『敵方』ではなかった。それが、「清盛が熊野から京へ無事に戻れた」ことの理由であるということのようです。

このあたりの解釈は、姻戚関係云々も含めて慎重になるべきだとは思いますが、事実ならば、まさに「オタクの甘さ」とでも言いますか。

もっとも清盛の内面、つまり彼が信西や信頼をどのように捉えていたのかわかりませんが、保元の乱、平治の乱を通して清盛の立場は一貫しているとわたしは思います。このことについては、上記のことも含め、いずれまた改めて考えてみたいと思います。
メッセージ 400 morikeigetu さんに対する返信


では、雑談。   2009/ 5/22 21:43 [ No.403 ]
投稿者 : morikeigetu
わざわざ、ご連絡ありがとうございます。
何のご遠慮も必要ありません。ゆっくりとご投稿なさって下さいませ。
私も、ほしい本が手に入らず、図書館へ行く時間もなく、いささかマイっております。
ろどすたさんのインターミッションをいい事に、ちと雑談など…。

信西法師を追いかけながら、いきなり清盛の熊野詣でにワープしてしまい、それに対してろどすたさんからお返事も頂戴して、何やら申し訳ない次第。

信西法師の新制案が、保元の乱以降の思いつきではないだろうという仮定から、いろいろと考えてみたわけなのですが、その後の古事復活や内裏修復など、たしかに乱後の信西に肩を並べる者がいなくなったという結果において、その信西の権勢のなせるワザであったのかもしれませんが、それが彼の私利私欲であったかというと、私は個人的に「?」をつけてしまうのです。

信西の大内造営について『愚管抄』は、

「メデタクメデタク サタシテ、諸国七道少シノワヅラヒモナク、サハサハト タダ二年ガ程ニ ツクリ出シテケリ。ソノ間 手ヅカラ終夜算ヲ オキケル。(中略)サテ ヒシト功程ヲカンガヘテ、諸国ニ スクナスクナト アテテ、誠ニ メデタクナリニケリ」

荘園整理を強力に推進し、朝廷の財政安定にメドが立った時点で、諸国の負担を可能なかぎり公平に分担した上での造営であったようです。
『愚管抄』のこの一文は、彼の功績を評価するものとみていいように思います。

昭和44年〜48年にかけて随時行われた平安博物館による発掘調査の中で、内裏の内廊回廊の西側基壇が発見されています。それは、内裏を囲む回廊の西南に位置する武徳門から南に伸びる回廊の基壇で、そこから出た軒丸瓦などから、まさしく信西法師の行った保元2年(1157)のものと想定され、その基壇は保存のために埋め戻され、国指定の史跡として石碑が建てられました。(角田文衛氏著『平安京散策』より要略)

むろん、これらの改革が信西ひとりによって行われたわけではなく、例えば荘園整理を行うにあたって設けられた記録所の首席には、公事に堪能で清廉な人柄と評される大納言藤原公教を起用し、その下で実務を担当する3人の弁官に藤原惟方、源雅頼、信西の子の俊憲があてられますが、これらも有能な官人として認められる人々です。
俊憲は、検非違使・蔵人など朝廷の実務機構の中枢の官職に任じられ、記録所の弁にもなりましたが、信西の家にはこのような官職の経験がなかったことから、俊憲は所々に尋ね聞いて、その勉強の結果が『新任弁官抄』や『貫首秘抄』などの著書として残っています。(五味文彦氏著『平清盛』より)

この俊憲をはじめ、貞憲・是憲あるいは成憲(成範)脩憲なども、それぞれが要職でその能力を発揮していたように見受けられます。
信西ひとりの権勢のもとで、無能な関係者をむやみに要職につけたというものではなさそうです。

今しばらく、雑談が続くかもしれません(ご容赦)
メッセージ 402 rarara_roadster さんに対する返信

投稿が滞っていたのでむほほ♪麻呂さん、ナンパ中

Re: では、雑談。   2009/ 6/ 9 22:23 [ No.407 ]
投稿者 : rarara_roadster
そろそろと「梅雨」の季節がやってきそうです。
ここのところ、インフルエンザ騒動をはじめとしていやな事件の報道も続きますが、みなさまおかわりありませんでしょうか?


さて、「平治の乱」を新興の院近臣(信西)と旧来の院近臣との争いと一言で括るのは簡単ですが、それでは何がどのようになって争っているのか?というと、そこがなかなかに難しい状態です。

ただ、藤原惟方については、一つの理由が見えそうです。

惟方の祖父顕隆(為房流)は、白河院政において、白河の重大な政務決裁を補佐し、中右記に「天下の政、この一人の言にあり」、今鏡に「夜の関白」などと書かれるほどの人物でした。その子の顕頼(惟方の父)、孫の光頼(惟方の兄)、惟方も、顕隆同様に代々三事兼帯の能吏(五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼ねる)で、この為房流が院政期の政治中枢を支えたとも言えるほどでした。

久安4年(1148年)惟方の父、顕頼が急死します。この時、光頼・惟方はまだ若年で、すぐに父の後を継ぐことができませんでした。

その間隙を縫って鳥羽院政の中枢に割り込んできたのが、ほかならぬ藤原信西です。

こんな感じでまとめていますが、まだ途中です(って、だめじゃん)。


以下次号(苦笑)
メッセージ 403 morikeigetu さんに対する返信


信親(のぶちか)。   2009/ 6/20 21:46 [ No.413 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさん、中間発表をありがとうございます。

史料大成の『兵範記』5が、ようやく手元に届きました。
で、早速それを使用するのですが、清盛の娘と藤原信頼の嫡男信親が婚姻(婚約)していたのは事実のようです。
『古事談』第4「勇士」の中で、このような話があります。

「平治の合戦の時、清盛が帰洛した翌日に、難波三郎経房・太郎貞安・平次郎允盛信・伊藤五景綱という四人の侍をつけて、聟の侍従信親(信頼卿息)を父(信頼)のもとに送遣した。四人は下腹巻に布衣といういでたちであったが、義朝は彼らを見てこう言った。皆一人当千の者達だ。あの者達は清盛のもとに戻ったら、我々が敵に値しないと伝えるに違いないと語ったという」

ところで、信親の年齢なのですが、『平治物語』では、

「子息新侍従信親とて、十一歳になるを、太宰大弐清盛の聟になして…」

とありますが、『平範記』嘉応2年(1170)5月16日条の裏書に、

「十六日、有流罪事。前侍従々五位下藤原信親(是、故右衛門督信頼息)、彼卿死罪之時、依五歳幼稚沙汰、成長之後更被行此罪云々。配伊豆国了」

というように、乱の当時は5歳であったと記しています。


角田文衛氏によると、この清盛の娘は、のちの建礼門院徳子のすぐ下の妹であったらしいとしています。
『愚管抄』補注によると、
「徳子は承安元年(1171)12月14日入内、時に17歳」
とあるので久寿2年(1155)生まれとなり、平治元年(1159)では信親同様5歳という事になります。
『公卿補任』に、清盛の5男重衡が初めて登場する治承5年(1181)で、宗盛35歳、知盛30歳、重衡25歳となっています。この3人はともに母時子とされており、建礼門院徳子とその妹も母は時子であろうと思われます。

その男子3名と徳子、そして時子の年齢を追ってみます。
久安3年(1147)宗盛誕生(1歳)・時子22歳
仁平2年(1152)知盛誕生(1歳)・時子27歳
久寿2年(1155)徳子誕生(1歳)・時子30歳
保元2年(1157)重衡誕生(1歳)・時子32歳

こうして見ると、信親と婚約させられた娘は、1156年か1158年以降の生まれという事になります。
平治元年(1159)時点において、1156年生まれであれば4歳、1158年生まれであれば2歳。
1156年生まれだと考える方が妥当かなと思います。

いずれにせよ、1159年において信親5歳、その妻とされた娘は4歳かもしくは2歳以下となれば、これはあきらかに政略的か、何らかの上意によるものとしか思えません。上意とすれば、後白河しか考えられません。

この年齢であれば、男女関係などありえませんし、現代の如く「バツイチ」というレッテルもないでしょう。
彼女は後に藤原隆房の妻となり、親平家の立場を公然と示し、壇ノ浦後の建礼門院の後見を続けた隆房の妻として、悲しい現実を見ながらも、幸せな生涯であったと推察される(『平家後抄』参照)

この清盛の娘と親親(信親の誤り)との婚約が、清盛にとって大きな拘束力を持ったとは考えにくいと思います。
むしろ、ろどすたさんのおっしゃるように、信頼にとって「油断」とまではいかなくても「楽観」的要素になっていたかもしれません。
メッセージ 407 rarara_roadster さんに対する返信


訂正です。   2009/ 6/20 21:56 [ No.414 ]
投稿者 : morikeigetu
『兵範記』を『平範記』と表記した箇所がありました。

お詫びと訂正を申し上げます。
メッセージ 413 morikeigetu さんに対する返信


更に、さらに…(大汗)   2009/ 6/21 22:19 [ No.415 ]
投稿者 : morikeigetu
「信親(のぶちか)」の最後から6行目あたり、「信親」と表記するところ、「親親」と書いてました。

それこそ、おやおや…という間違いでありましたぁ(泣)
メッセージ 414 morikeigetu にさん対する返信


アゲついでに…。   2009/ 6/29 20:27 [ No.416 ]
投稿者 : morikeigetu
当時の婚姻は、男がまず女性の家に入るという形態であったようですから、信親が清盛の六波羅邸にいた事は不思議ではありません。

帰洛した清盛は、信頼らに対し敵対しないという意志表示として名簿を差し出します。
『古事談』の話では、それと同時に家にいた信親をも送り届けたという事になります。
これは、信親を「人質」として確保するのではないという表明なのかと解釈できますが、案外清盛は「厄介払い」をしたと思っていたかもしれませんね。

ところで、義朝が自分の娘を信西の息子と結婚させようと申し込んで断られ、信西はその息子を清盛の娘と婚姻させたという事が、義朝の大きな恨みとなったと物語は伝えます。
その一方で、信頼は子息信親を清盛の聟にして清盛を自分の側に取り込もうと考えたが、平氏一門は国家に対して特に恨みを持っておらず、しかも信西と姻戚関係があるので「事悪しかりなんとて思ひ返す」とあります。

いや、既に聟としてるやん…と突っ込んでもしかたないのですが、この辺りの経緯がどうも『物語』のエジキになっているような気がするのです。
義朝が直接、信西に縁談を持ちかける事はありえないと思うのですね。
信頼の子息と清盛の娘の婚姻には成功した。
次は信西の子息と義朝の娘を…、とだれが考えたのでしょうね。

で、信西はそれを拒否したばかりか、清盛の娘と婚姻させた。
清盛という勢力に全幅の信頼と、己の運命をもかけた信西の「カケ」は、私は「ヘマ」にも見えると申しました。
とても難しい、清盛の思惑がそこに作用している気がします。


復活の予感(笑)信西の出家について   2009/ 7/ 7 18:30 [ No.417 ]
投稿者 : rarara_roadster
ひと月以上も空けてしまいました(ふかぶか)
さて、早速いってみたいと思います。
ひやういごー!

後白河親政の中枢としてその手腕を振るう信西ですが、その視線の先には、来るべき「守仁親王の治世」があったと思います。

そもそも保元の乱は、鳥羽院の正統な後継者である守仁親王の擁立を阻害する勢力を一掃するための政変でした。最終目標は「守仁親王即位」であり、後白河はあくまでそれまでの中継ぎに過ぎないことは、鳥羽院、美福門院、そして信西らにとって最も基本的な確認事項であったでしょう。

保元の乱後、信西がさまざまな政策(保元新制等)を相次いで打ち出したのは、ひとつには、乱により勢力のおとろえた王家の擁護と回復が主目的でしょうが、それは単に後白河親政の為だけではなく、やはり「守仁(二条)親政」を見越したものであったのでしょう。

さて、信西の子息達は、けいげつさんもご指摘のようにさまざまな役職に就くわけですが、大国の受領になった者もいれば、実務官僚になった者もいます。元木泰雄氏によると、実は、当時の院近臣家は家系によって大国受領系と実務官僚系(弁官)に別れており、この区別はかなり厳格に行われていたようです。従って、同一の家系(ここでは信西一門)から大国の受領と実務官僚が同時に出るということは当時としては異例のことでした。また、かつての為房流(惟方の家系)に取って代わり、信西一門は、鳥羽院政末期の院決裁補佐役の座を事実上獲得する存在となっています(保元・平治の乱を読みなおす)。

このあたりが、惟方が信西に対して大きな不満を抱く要因の一つであったとは思うのですが、それはともかく、以下のような考え方をしてみました。確かにこのような状態は、「信西一門の羽振りのよさ」を表していると思いますが、わたしはここに信西独特の想いがあったのではないか、と考えています。

はじめにお断りしておきますが、これは例によって妄想です(断言)。

もともと信西の家系は学者の家系で、祖父の季綱は大学頭に任じられていました。信西自身の実力も「学生抜群ノ者」だったわけですが、そこに着目してみました。

一言で言えば、『学者肌の政治家』だったのではないか、と・・・(苦笑)

学問の道を閉ざされた信西は、世の中を悲観して出家した、とする話は良く聞きます。ところが、これに対し元木泰雄氏は「信西の出家はそのような悲観的なものではなく、身分の違いを超えるために出家した」というふうに述べています。この「出家」という行為の概念については、ここでは深く触れませんが、つまり、学者として身を立てる道を断たれた信西は、実務官僚として院政の中枢を目指します。

しかし、そこには「身分の問題」という壁が存在していました。そこで、身分の低い信西は、あえて「出家」という道を選び、自身を現世と違うステージに置くことにより、居並ぶ公卿達と渡り合おうとした。おそらく、元木氏の言いたいことは、こういうことではないかと考えています。

それだけの覚悟を持っていればこそ、鳥羽院政末期の荒波を乗り切り、後白河親政を実現させるところまでたどり着くことができたのでしょう。もちろん、その覚悟の裏づけは「学生抜群ノ者」とまで言われた己の知識であったことは言うまでもありません。

そういったことがベースになっていると考えた場合、その政治センスはやはり『学者肌の政治家』だったのではないかと思います。

信西が「私利私欲のない聖人君子」とは思いませんが、自分の子息をそれぞれ要職に就けたことも、彼らが自分の政治構想を一番理解してくれる人々だったからなのかもしれません。彼らも「学者の家系」なればこそ、といったところです。

この学者肌ということ。場合によってはまわりの理解を超えてしまうこともあったりするわけですが、悪くすると、非常に独善的に映ってしまうこともあります。この信西一門のような状態は、その他の院近臣にとってはやはり眉をひそめることになったでしょう。

そのような風潮は、もちろん当の信西も感じていたでしょうが、それ以上に彼には『守仁親王の即位と親政の実現』に向けて自分が王権を補佐していくのだ、という自負があったのではないでしょうか。その自負心も、他人から見ればどうだったのでしょうね・・・。

方向性は異なりますが、このあたり、藤原頼長に通じるところもあるように思います。

(すみません。厳密には通憲時代のことも書いていますが、便宜上、「信西」に統一しました。)

メッセージ 416 morikeigetu さんに対する返信


ブレイク!   2009/ 7/15 21:47 [ No.418 ]
投稿者 : morikeigetu
お久しぶりです、ろどすたさん。

たまには妄想もいいですね(微笑)
私も、前回あたりから妄想に入り込んでますから…。

さて、
ろどすたさんのお言葉を借りると、”後白河の中継ぎ意識が、吹っ飛んだ”
あたりから信西入道の立場が微妙にグラついてきているような気がします。
逆に言うと、信西入道が粛清されなければならなかった理由は、後白河の
「オレは中継ぎなどではない」という自覚であったのかもしれない、とね。

だから、これも「妄想」ですよ。

後白河は、当初とにかく清盛も義朝も、信頼も信西もみんな自分の側に取り込もうと考えたのではないか、とね。
清盛はその点において、のちに言われたような「アナタコナタする」遊泳上手でしたが、信西はその後白河構想に真っ向反発してしまう。
その理由は、乳母の夫という立場であった信西入道が、学者として陥りやすい…、そう、後白河の父のような感覚の「上から目線」だったのかもしれない。

>同一の家系(ここでは信西一門)から大国の受領と実務官僚が同時に出るという事は、当時としては異例のことでした。

たしかに、乱前に信西が知行していたのは飛騨(下国)でしたが、乱後それに変わって脩憲が美濃守(上国)、保元元年(1156)閏9月に成憲が遠江守(上国)、保元3年(1158)8月に貞憲が攝津守(上国)となって信西の知行国は3ヶ国となります。
保元2年(1157)の大内造営で、脩憲の美濃国が弘徽殿、成憲の遠江国が蔵人所宿屋を担当しています(五味文彦著「平清盛」)

藤原頼長と信西入道の交誼については、私も以前から気になっていたいた事で、おそらくそれは、ほぼ間違いのない事であったろうと思っています。
そしてそれは、「日本一の大学生」と「学生抜群の者」どうしが共鳴するものであったのかもしれません。
それともうひとつの共通点として、二人とも「是非」に厳しいという事でしょうか。
それも、周囲の人々の反感をかう理由となったのかもしれません。
けれど頼長にしても信西にしても、源氏あるいは清盛という武力の後ろ盾があったればこそ、そういう強気な政治が出来たのでしょう。
ところが、頼長は為義と義朝の相克、信西は清盛の遊泳に敗れた、かな。

清盛は信西亡きあとも、信西家に対して変わらぬ交際を続けているように見受けられます。
信西入道の死は、「想定外の事故だった。自分としては、不本意な出来事だった」…というような。
おそらく信西自身もそう感じながら死んでいったのかもしれません。けれどどこかで「きっと清盛が援けに来てくれる」…というような。

信西と清盛、私は親友であったと思うのですね。
ただ、少しだけ定めた狙いにズレがあったかな。

タイトルの「ブレイク」は、つまりこういう事です。
妄想の鬼となってしまいました。(ひらあやまり)
メッセージ 417 rarara_roadster さんに対する返信


では、私もティーブレイクで。   2009/ 7/19 21:07 [ No.419 ]
投稿者 : morikeigetu2
ただ今こちら、梅雨前線と太平洋高気圧の壇之浦。
梅雨前線が、玉砕覚悟の総攻撃をかけてます。
この季節ならではの、風情。いよいよ本格的な夏の到来ですね。
あの当時の人々は、こういう雷雨の夜、どうしていたのかなと思いつつ、ティーブレイク。
失礼。私の「妄想」で、思わずお邪魔いたしました。
お二人に、暑中お見舞いを申し上げます。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


暑中お見舞い   2009/ 7/20 22:58 [ No.420 ]
投稿者 : rarara_roadster
けいげつさん、けいげつ2さん、他ロムしていただいている方々、暑中お見舞い申し上げますm(_ _)m

長門の国も赤間が関方面は風雨も凄かったようですが、このあたりはそうでもありませんでした。
美作のあたりは竜巻もあったとか・・・。被害にあわれた方、お見舞い申し上げます。

さて、いま平治の乱の当事者についてまとめようとしているところです。

ご承知のように、平治の乱の本質は、平治元年12月9日の三条殿焼き討ちの後に、本当の“政変”が起きることにあります。
その意味では、信西はまさに「乱の血祭り」に挙げられたといえましょう。
その中から、信西の殺された真相も見えてくるのではないかと考えています。

そこで、提案なのですが、ここらで一度妄想をまとめて、第一のその時、「平安京西獄門」に向かうというのはいかがでしょうか?


暑中お見舞いそして荒天お見舞い。   2009/ 7/21 17:15 [ No.421 ]
投稿者 : morikeigetu
皆さんから暑中お見舞いをいただく中、ご挨拶が一番最後になり、大変申し訳なく、失礼いたしました。

けいげつ2さんがおっしゃった梅雨前線と太平洋高気圧の壇ノ浦の日、激しい雷雨の中を首をすくめながらずぶ濡れになって帰宅した次第。

>玉砕覚悟の梅雨前線の総攻撃

まさしくその通りな状況で、ろどすたさんのお言葉のごとく、被害を受けられた方々にお見舞いを申し上げます。


さて、ろどすたさん。
ご提案、賛成です。

ひとくちに「平治の乱」といっても、なかなかどうして難しい。
妄想の力も借りねばなりませんね。
ろどすたさんが最初に言われたところの、

>なぜ信西が粛清されねばならなかったか

を追求しようとしたのですが、肝心なところの文献がないのですね。
つまるところ『物語』=「妄想」となって、とりとめがなくなりました。

ロードスター号の針のセットをお願いします!
メッセージ 420 rarara_roadster さんに対する返信


平治の乱 主な登場人物   2009/ 8/ 1 14:44 [ No.424 ]
投稿者 : rarara_roadster
なかなか人物関係の複雑な平治の乱ですが、信西に対し敵対した人々について、簡単にまとめてみたいと思います。その中から、争乱の背景などを探ってみたいと思います。

<右衛門督信頼>
前出のとおり(すみません。手を抜きました。)

<新大納言経宗>
関白師通の弟大納言経実の四男だが、兄の早世や出家で嫡男となる。妹の懿子が守仁親王の生母であったため、天皇の外戚の地位を得る。守仁の皇太子時代に春宮権大夫、権中納言を経て保元3年権大納言となる。愚管抄には、幽閉されていた忠実から政務を学び、そのため忠通から政治的野心を疑われたとある。。

<御乳人の別当惟方>
為房流権中納言顕頼の次男で、信頼は妹の子、信頼の弟武蔵守信説は女婿にあたる。母は二条天皇の乳母で、惟方自身も二条の皇太子時代に春宮大進の職を経験。愚管抄第五には「コトニ鳥羽院モツケマイラセラレタリケル惟方」とあり、鳥羽院の特別の計らいで二条の側近となったとされる。後白河の蔵人頭を経て二条即位とともに参議に昇進。

<中御門藤中納言家成卿の三男、越後中将成親>
後白河とは「男ノオボエニテ」な関係の側近。妹の一人が信頼の室となっている。

<伏見源中納言師仲>
左大臣源俊房を祖とする村上源氏。母は待賢門院の女房。後白河の側近で、平治物語では、師仲の伏見の所領で信頼が「馬にのり、はせひき、早足、ちからもちなど、ひとへに武芸をぞ稽古せられける」とある。元木氏は、義朝が東国から呼んでいた軍勢をここに駐屯させていた可能性を示唆している。

<出雲前司光泰(光保)>
源頼光を祖とする美濃源氏の一族。鳥羽院の北面で、鳥羽院近臣。娘が法皇の寵姫となっており、鳥羽院崩御の折には入棺役も勤めた(兵範記)。保元の乱では一貫して鳥羽殿を警護しており、その後、美福門院を通じて二条天皇の忠実な武力となったと考えられる。



さて、惟方が「為房流」、成親が「末茂流」、信頼が「道隆流」、そして平治物語にはありませんが、治部卿光隆が「良門流」(公卿補任に信頼の縁座で解官とある)というふうに、橋本義彦氏の言う白河以来の代表的院近臣家五流のうち、高階流を除く全てから争乱に加わった人物が出ています(元木泰雄氏)。

もちろん、閑院流の内大臣公教、惟方の兄である光頼、末茂流嫡男の左京大夫隆季、その弟内蔵頭家明、大宰大弐平清盛などのように、信西に対して特に敵愾心を示さなかった人たちもいます。

しかし、信西一門の躍進を快く思わない人たちは、当時の院近臣家の中に広く存在したということは事実のようです。「反信西」に走った理由を元木氏は、「権威の低い後白河の即位により、院近臣は鳥羽院政期とは違った独自の活動を始め、政治的野心を持つに至った」「それなりの地位を確保している嫡流と違い、彼らの多くが庶流である」ことなどを挙げています。

庶流とはいえ、信西より身分の高い人たちは、(信西一門の躍進により)プライドを傷つけられたと感じたでしょうし、『信西ごとき何ものぞ。本来ならば我こそが・・・』と政治的野心を燃やしたことでしょう。

源義朝の場合、信頼との提携関係により、反信西派の中心的武力として存在したのはもちろんですが、ただ隷属的に信頼に従っただけとは考えられず、やはりそこには何らかの野心的な考えがあったと思われます。また、物語のように、清盛に対抗意識を燃やしていたかどうかはともかく、仮に激突となった場合、勝敗に関わらず、大きな損害を生むということは十分理解していたでしょう。

で、その肝心の信頼ですが、まえに投稿したように『物語史観のように大将・大臣の位を望んで信西に拒否されたことを恨んだ』という理由で信西を討ったとは考えられません。

かといって、その他の理由もなかなか見つけ出せないでいるのですが、いずれにしても、信西に比べれば信頼のほうが身分が上です。おそらく、後白河の寵臣として官位が上昇していく中で、次第に信西に対する不満が蓄積していったのではないでしょうか。そのあたりは、他の院近臣たちと同じだと思います。また、伯父である惟方の影響も少なからずあったでしょう。

信頼が平治の乱の“首謀者”であることは、基本的にそのとおりだと思います。しかし、信西殺害後の流れを考えると、信頼・惟方・経宗の関係は慎重に考える必要がありそうですね。元木泰雄氏は、かつて平治の乱を「後白河側近と二条側近が反信西で野合。その後、対立を引き起こして離反した。」と定義づけていたのを、「保元・平治の乱を読みなおす」のなかで修正しています。それについては、また。改めて見ていきたいと思います。


平治の乱 前夜の更にイブくらい   2009/ 8/ 8 21:23 [ No.425 ]
投稿者 : rarara_roadster
このトピのテーマが「平治の乱」に移った頃、中央公論社の「日本の絵巻12 平治物語絵詞」を購入しました(微笑)

いよいよ第1の“その時”を迎えるにあたり改めて読み直しています。

なかなか筆が進まないのですが、今後ともよろしくお願いします。

では、しばしお待ちあれ。
メッセージ 424 rarara_roadster さんに対する返信


三条殿夜討   2009/ 8/14 23:12 [ No.426 ]
投稿者 : rarara_roadster
信西は、後白河の政務を補佐してきた人物ですが、守仁親王が成長し、親政を行うことが可能な年齢に達したら、後白河の政務に幕を引き、来るべき二条親政へと継承させる責任を負っていた人物であったと考えています。

後白河は急遽登板した中継ぎ投手。予定投球数に達したら、投手コーチの信西は、マウンドの後白河のもとへ行って彼の肩をたたき、グラブの中のボールを取って二条天皇へと渡さなければなりません。

タナボタ即位の後白河は、そのような信西と自分との関係を、もちろん周知していたでしょう。

なんとかして、自分の院政を確立させたい後白河、その後白河の政務を無事に軟着陸させたい信西。平治物語や愚管抄の描く二人の間の関係がギクシャクしていった原因は、このあたりにもあったように思います。

自分の寵臣である藤原信頼が、平氏や摂関家と姻戚関係を結んだ背景には、けいげつさんが413で述べられたように後白河の政略があったと考えられます。

平治元年(1159年)12月4日、平清盛が熊野詣に出立します。その5日後の12月9日の深夜、左馬頭源義朝を主力とし、藤原信頼率いる軍勢が、白河院の御所であった三条東殿を襲います。

中納言師仲により、後白河上皇と同母姉の上西門院は牛車に乗せられ、一本御書所に幽閉されます。
反乱軍は御所に火をかけ、ここで行われたのは、もはや一方的な殺戮でしかありません。
平治物語絵詞「三条殿夜討巻」には、紅蓮の炎に包まれて逃げ惑う人々、武者に押さえつけられ首をかかれる貴族、熱風から逃れるため飛び込んだ人々で溢れかえる井戸などが恐ろしいほどの迫力で描かれています。

しかし、上西門院の袖に隠れて脱出した信西の妻の紀ノ二位をはじめ、子息の俊憲、貞憲らはからくも脱出に成功します。信西自身も、左衛門尉師光、右衛門尉成景、田口四郎兼光、齋藤馬允清実らと南都方面に脱出しますが、田原というところ(伊賀の山中?山城と大和の国境付近か)で自害します。

信西は、従者の掘った地面の穴の中に入っていたといいますが、反乱軍の源光保によってあばかれ、首級を挙げられました。「愚管抄」では、胸に刀を突き立てていてすでに死亡、「平治物語」ではまだ目も開き、息もしていたとなっていますが、いずれにせよ、すでに信西は覚悟を決めていたように描かれています。

余談ですが、これに対し、「新・平家物語」の信西はあくまで生に執着し、穴を掘った従者には「ほとぼりが冷めたら、再びここへ来て自分を掘り出して助けるように」と命じ、呼吸用の“竹製シュノーケル(笑)”を咥えて穴に入ります。結果的には、同じ結末を迎えるのですが・・・。

平治物語には、信西の首級は、14日光保の宿所神楽岡にて信頼と惟方に実検され、翌15日西獄門に晒された、とあります。
メッセージ 425 rarara_roadster さんに対する返信


rarara roadster様へ   2009/ 8/21 21:31 [ No.427 ]
投稿者 : morikeigetu2
morikeigetuさんが当面、いや当分の間、投稿が出来なくなった事をお知らせいたします。
今、詳しい事はお話し出来ませんが、ご本人曰く「非常に悔しく残念で、ろどすたさんに申し訳ない」との事でした。
状況が可能ともなれば、彼の投稿を私が中継もいたしましょう。
たった二人の掲示板にしては稀に見るぶ厚いものですから、消滅させるのは惜しい。
私は個人的に文章投稿は出来ませんが、rarara roadster様のお話し相手にはなれるかと存じます。
どうか、このままお続け下さいますでしょうか?
私も、可能な限りのご協力をいたします。
とり急ぎ、上ご連絡まで。
メッセージ 1 morikeigetu にさん対する返信


Re: rarara roadster様へ   2009/ 8/22 19:57 [ No.428 ]
投稿者 : rarara_roadster
morikeigetu2さん。ご連絡ありがとうございます。

けいげつさんもお忙しいのだろうなと思っていたところでしたが、正直、驚いています。
ご様子が気にかかりますが、けいげつさんが戻ってこられるまで、morikeigetu2さんにもご助力を賜りながらなんとかこの「保元から壇ノ浦まで」を守っておりましょう。

当面は、現在の「平治の乱」について検証を続けていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
ここでのレスは、一部の投稿を除いて完璧に保存しておりますので、万一の場合もブログ・HPなどの手段で続けていくことも可能ですので、けいげつさんには安心してくださいとお伝えくださいませ。
メッセージ 427 morikeigetu2 さんに対する返信


感激しました。   2009/ 8/23 0:02 [ No.429 ]
投稿者 : morikeigetu2
ありがとうございます。
morikegetuさんの病床での言葉…。
「このトピが完結した時、 長門の国の人と会うのが楽しみなのです」
マイナーなこの時代を、冷静に見つめ直そうとするお二人を、これからも応援します。
この時代は、あるひとつの現代的・科学的発見によって劇的に変わる時代です。尊氏や頼朝画像がそうではないというのとは、次元が違います。
rarara roadsterさん、続けましょう。
「ヤツ」が帰ってくるまで、私もギリギリの線で、参加します。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 三条殿夜討   2009/ 9/ 2 21:01 [ No.431 ]
投稿者 : rarara_roadster
さて、12月9日深夜の三条東殿襲撃をあらためて見てみたいと思います。

このトピでは、信頼は、『信頼の前には、たとえ後白河の寵臣といえど(当時の慣例・常識では)超えられない壁があり、大臣や大将を望んだとは考えにくい。あくまでも物語上の脚色ではないか。(357)』というスタンスで書き込んでいるわけですが、このあたりを中心に見てみましょう。

三条東殿襲撃後、信西の子息達はことごとく解官されます(12月10日)。つづいて除目がおこなわれ、義朝は播磨守に、嫡男頼朝は右兵衛権佐に補されました(同14日)。

これらは愚管抄第五には、次のようにあります。なお、便宜上、改行して記号をつけました。

Aサテ信頼ハカクシチラシテ大内ニ行幸ナシテ。
B二條院当今ニテヲハシマスヲトリマイラセテ。世ヲオコナイテ。
C院ヲ御書所ト云所ニスエマイラセテ。既ニ除目行ヒテ。
D義朝ハ四位シテ播磨守ニ成テ。子ノ頼朝十三ニナリケル。右兵衛佐ニナシナドシテ有ケル也。

このように愚管抄には信頼が大臣や大将になったというようなことは書いてありません。実は平治物語も、古態本には書いてなく、流布本になって『信頼が大臣や大将を望んだ』というふうに変わってきているようです。※一部修正

Dの義朝。かつて清盛が播磨守であったため、義朝がそれに対抗したかのようなイメージで語られることもあるようですが、平治の乱当時、清盛はすでに大宰大弐の職にあり、義朝も播磨守という“受領の最高峰”という実利を重視しただけというのが本音でしょう。前任者が信西の次男成憲であったため、解官された後釜に義朝が補任されたものと思われます。

頼朝については、以前けいげつさんがご紹介された『山槐記』保元4年2月19日の上西門院殿上始めの記事(105)にあるように、頼朝は上西門院の蔵人でした。頼朝の母は、待権門院と繋がりのある熱田大宮司家藤原季範の娘であり、幼い頃から彼の歩んだコースは、院近臣家の子息としてある意味定番のコースで、すでに生まれたときから「嫡男」として育てられていたものと思われます。次兄の朝長は、平治の乱当時には中宮大夫進の職にありましたが、この時点で頼朝は官職で朝長を抜き、名実ともに嫡男の座を得たことになります。

さて問題は、A〜Cをざっくりと要約すると、「信頼は二条天皇を内裏に据え、後白河上皇を一本後書所に据えて政務を取り仕切り、すでに除目を行った」といった感じでしょうか。

次はこのあたりを掘り下げてみたいと思います。

P.S けいげつさん、お加減は如何ですか?
メッセージ 426 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 三条殿夜討   2009/ 9/ 4 23:08 [ No.432 ]
投稿者 : rarara_roadster
一本御書所は内裏の東側にあり、その機能を今風に言えば「国会図書館」が近いでしょうか。京都市下京区には史跡があります。

後白河上皇は、ここに連れてこられ式部大夫源重成に『守護』されます。この重成は、保元の乱において後白河天皇の命により仁和寺の祟徳上皇を『守護』しますが(兵範記保元元年8月13日条)、今度はその後白河自身が『守護』されることになりました。この『守護』が実際には『監視』であることは言うまでもありません。

さて、保元3年(1158)8月11日に後白河天皇は守仁親王に譲位、同年12月20日に二条天皇が即位。後白河上皇は、一応「治天の君」という立場にあります。

信頼らは、その「治天の君」を“御書所”という政務とは直接関係の無い所に据え置いて、内裏の当今の二条天皇をして政務を行ったことになります。つまり、形式的なものであるにせよ“二条天皇による親政”の状態であったということがいえそうです。

実は元木泰雄氏は、この平治元年12月9日の信頼らの行動を「後白河院政の否定」ととらえています。このことは、信頼らが「武力行使」という方法を選択した理由にも関わってくるので、順次追いかけてみたいと思います。
メッセージ 431 rarara_roadster にさん対する返信


Re: 三条殿夜討   2009/ 9/ 4 23:10 [ No.433 ]
投稿者 : rarara_roadster
武力行使の理由、「それは信頼が“武門オタク”だったから」という冗談はさておき、まず、信西一門を葬るだけならば、適当な罪を着せて流罪にしてしまえばすむはず、ということを、元木氏は河内祥輔氏に対する反論の中で述べています(河内氏の「平治の乱」論はいささかトリッキーなので、ここでは触れません。ちなみに“河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館 2002年”)。確かに、これまでの歴史の中でも讒言により流罪になった例はありますし、また、反信西派の院近臣たちは、424に書いたように広範囲にわたって存在しており、その気になれば可能だったでしょう。

反乱派のうち、藤原惟方、同経宗はその経歴や血縁から明確な二条側近です。彼らにしてみれば、

・本来、鳥羽院の正統な後継者は、自分達の「二条天皇」である。
・後白河は所詮中継ぎだ。もう二条天皇に譲位したんだからさっさと引退しろ。
・そもそも信西でしゃばり過ぎ。信西のくせに生意気だゾ!←ほとんどジャイアンの理論ですね(苦笑)
∴あとは俺達がやる!!

といったような不満が鬱積していたでしょう。仮に、このままスムーズに後白河が引退して二条親政による政権が実現したとしても、その場所に信西一門がいるという場面は、惟方らにしてみれば我慢できないことだったのでしょう。実際に信西の長男俊憲は、二条の東宮時代に側近(東宮学士)として仕えており、このままだと二条政権にも信西一門が口を出す可能性は十分に考えられます。「信西のくせに生意気だゾ!」の裏には、惟方や経宗の政治的野心が見え隠れします(そもそも惟方は「夜の関白」の家系だし、経宗も家系を遡れば、摂関家の傍流。愚管抄第五には、経宗はかつて幽閉中の忠実を度々訪ねては世の習いをきき、忠通に野心を疑われたとある)。

そこで惟方、経宗は、「後白河院政の否定」というとんでもない計画を思いつくに至ったと考えられます。ここからは、多分に妄想を含みます。

・後白河上皇による院政が軌道に乗る前に事を起す必要がある。
・事は必ず短期間で一気にやり遂げなくてはならない。

この二つの条件のうち、ひとつでも欠ければ、自分達の望む「信西一門のいない二条親政」は遠く離れていってしまいます。その結果、行き着いた先が、「武力によるクーデター」だったのではないでしょうか。

もちろん、後白河上皇の身に直接危害を加えるようなことは想定していなかったでしょうが、仮にも「治天の君」を引き摺り下ろす為の謀略をめぐらすには時間もかかり、そうこうしている間に逆襲を食らうことも危ぶまれます。

そこで武力を用いて、信西一門を一気に葬り去り、同時に後白河と二条天皇を手中に収める。その「武力を統括」している存在が、まさに藤原信頼でした。鳥羽院の側近時代から二条天皇(守仁親王)に近侍していた惟方は、信頼の叔父でもありますし、案外早くから信頼に対してアプローチをしていた可能性もありそうです。
メッセージ 432 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 三条殿夜討   2009/ 9/ 4 23:11 [ No.434 ]
投稿者 : rarara_roadster
しかし、そうすると「信頼は、もともと後白河の側近ではないか。それが、なぜ後白河院政を否定する行動にでるのか?」という疑問も湧いてきます。

確かに、信頼は後白河の寵臣であり、彼の出世の状況や、平家や摂関家との姻戚関係の背後に後白河の影響があるのは、けいげつさんもご指摘のように、まず、間違いないでしょう。しかし、同時に後白河の影響力だけで出世したわけではないことは、以前356〜359あたりで述べたとおりです。

そもそも信頼が、後白河上皇の忠実な側近であるのならば、いざという時には武力を使ってでも後白河を守ることを考えるでしょう。それが真逆の行動に出たということは、信頼は後白河の“寵臣”ではあっても“忠臣”ではなかったということです。

か弱い公家の信頼が、後白河に対し“庇護”を求めていたわけではありません。すでに信頼は、武門の統括者として河内源氏を組織し、平家や奥州藤原氏ともパイプをもち、摂関家の権威も利用できる立場にあります。また、けいげつさんが418で指摘された、

>後白河は、当初とにかく清盛も義朝も、信頼も信西もみんな自分の側に取り込もうと考えたのではないか

というように、むしろ、後白河のほうが信頼を期待していたくらいでしょう。しかし、信頼が後白河に求めたのは、天皇家の権威としての「価値」以上でも以下でもなかった。とするならば、その「価値」が後白河から二条に変わっても、信頼としては大して変化は無かった。

という方向でわたしは考えています。
メッセージ 433 rarara_roadster さんに対する返信


rarara_roadster様   2009/ 9/14 0:14 [ No.436 ]
投稿者 : morikeigetu2
そもそも私がmorikeigetu氏と一ノ谷の謎を話すようになったのも、今rarara_roadster様が語っておられる内容と大きな差異はないかと存じます。
ひっくり返すという野望ではありません。
ただ、現在残されている史料から科学的に分析したら、「ん?」…という程度のもの。
そのために「保元」から必要だ、という事だったようです。
今rarara_roadster様が語り始めておられる事は、26年後の壇之浦に直結するのかもしれません。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: rarara_roadster様   2009/ 9/18 19:49 [ No.437 ]
投稿者 : rarara_roadster
>一ノ谷の謎

そもそもこれがけいげつさんの大命題でしたね。

わたしがけいげつさんと出会ったのは、もしかするとお聞きになっていらっしゃるかも知れませんが、以前放送された大河ドラマ「義経」の時のヤフー掲示板でした。

それがきっかけになって、自分でもいろいろと本を読んだり、日本史掲示板に顔を出したりし、その頃に出会った本が元木泰雄氏の「保元・平治の乱を読みなおす(NHKブックス)」でした。

ただ、わたし自身は、大学の専攻も史学や国文学とは全く縁のない素人で、今書き込んでいることも「語り」よりも「騙り」に近いかも知れません(自虐笑)

多少こじつけですが、大学の時、サークルの顧問の先生が国文学科で平家物語のゼミを持っておられ、飲み会の時にはいつも『平知盛』の話をされていました。その頃からわたしも、平家物語の時代に対する興味が湧いていったように思います。

ちなみにそのサークルは軽音楽部で、わたしはハードロックバンドをやっていました(笑)

その顧問の先生も、今は「学長」に“補任”されていらっしゃいます。

閑話休題。

しかし、ここまで振り返ってみると、わたしも素人なりにこれまで「保元物語」や「平治物語」のなかで感じていた“違和感”がなんであったのかが少しづつ見えてきたような気がします。

さて、もう少しだけ12月9日の様子にふれて、そろそろ清盛の様子を見てみようと思います。
実は、このあたりはけいげつさんにお願いしたいところではあったのですが、なんとか頑張ってみます(かなり不安)
メッセージ 436 morikeigetu2 にさん対する返信


ロードスター誕生20年!!   2009/ 9/20 17:39 [ No.438 ]
投稿者 : morikeigetu2
今日の読売新聞で、この記事を見ました。
記念のイベントなども開催されるようで、ひょっとしてrarara_roadster氏も参加されるのかな、などと思いつつ読み終えて掲示板を拝見すると、なんとご自身のお話が投稿されているではありませんか!
とても楽しく読ませていただきました。
「騙り」などとは、とんでもない。
むしろ、ずいぶん勉強なされたのだと感動します。
来月に入ったら、morikeigetu氏を見舞う予定です。
それでは、また。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


さて、roadsterさん。   2009/ 9/24 21:57 [ No.447 ]
投稿者 : morikeigetu2
また久しぶりに「ノイズ」が入ってますが、気にせずいきましょう。
平治の乱における清盛の初動(熊野詣)については、諸説入り乱れ、確定出来ていない事は、ご存知の通り。
実証史学は身動きがとれず、文献史学も手詰まりです。それ相当の検証を踏まえた文学世界のストオリがホームベースに滑り込んでいるような気配すらあると感じます。史学の連中が、それをタッチアウトにするかどうかですね。
イチローがよく「持っている」という台詞を口にしますが、この頃の清盛も「持っていた」のではないかと思えますね。
しかし、私は思うのです。イチローも清盛も、偶然ではない、と。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


清盛の初動(熊野詣)   2009/ 9/26 22:53 [ No.453 ]
投稿者 : rarara_roadster
>平治の乱における清盛の初動(熊野詣)については、諸説入り乱れ、確定出来ていない事は、ご存知の通り。

ここなんですよねぇ・・・。

まず、『信頼をおびき出すための陽動戦術』などといったトンデモ説はおいておきたいと思います(苦笑)

清盛の熊野詣は、純粋に宗教的な理由によるものだったのではないでしょうか。

わたしとしては、清盛と信西との関係は、政治的なものも含めてある程度のものはあったと思っていますが、強固なものではなかったと考えています。その根拠の一つが、三条焼討ちから脱出して六波羅に逃げ込んだ婿の成憲を、平家は内裏に引き渡していることです。

ところで、保元の乱と違い、平治の乱の場合は明らかな私戦ですから、信頼達も秘密裏に準備を進めていたと思われますが、問題は、むしろ信西自身が「反勢力」の動きをどの程度でつかんでいたのか?ということのように思います。9日の三条殿焼討ちから信西一門がとりあえず脱出することが出来たのは、間一髪とはいえ、ぎりぎりのところで信頼達の襲撃を察知することができたから、と考えています。

前にも少し書いたのですが、「長恨歌」になぞらえて信西の書かせた絵巻物は、九条兼実も玉葉に書き残している(元木泰雄氏)ということなので、信頼の空気を事前にある程度つかんでいたのは間違いないようです。

この時期の清盛の行動は、やはり信西の行動と併せて考察していく必要があると思います。ますます迷路にはまりそうな気もしますが・・・。

参考になるかどうかは微妙なのですが、清盛の熊野詣ツアー参加メンバーは、愚管抄によると「子ドモニハ越前守基盛ト、十三ニナル淡路守宗盛ト、侍十五人トヲゾ具シタリケル」となっており、平治物語と違い嫡男重盛は参加していません。

ということは、この時、重盛をはじめ一門のおもだった者は皆、六波羅にいた可能性が非常に高くなります。

以前、けいげつさんの述べておられたように、“武士のセンサー”といいますか、当然清盛は信西を取り巻く朝廷内の「反信西勢力」の空気は察知していたのは間違いないと思います。

それにも増して、熊野詣のほうが重要だったのでしょうが、自分が不在の時に不測の事態が生じた場合のことを考慮し、嫡男の重盛は六波羅に残し、「万一、信西やその一門が逃げ込んできた場合」も含めて対応方法を命じていた可能性は無きにしも非ず、と思っている今日この頃です。
メッセージ 447 morikeigetu2 さんに対する返信


清盛、行くか戻るか?   2009/10/ 9 21:35 [ No.455 ]
投稿者 : rarara_roadster
12月10日の早暁、紀州路の清盛に京の急変を知らせる早馬が出立します。この早馬が、何時、清盛に追いついたのかはわかりませんが、平治物語では「切り部の宿(現和歌山県印南町切目)」、愚管抄では「ふたかわ(二川)の宿(熊野古道中辺路の宿・現和歌山県田辺市中辺路)」で追いついています。

以下、愚管抄に沿ってみてみます。

まず、知らせを聞いた清盛は、少なからず動転したようで「是ヨリタダツクシザマヘヤ落テ、勢ツクベキナン・・・」と一旦九州へ落ちることも考えたとされます。

しかし、紀伊の国の武者、湯浅権守宗重は清盛に三十七騎の武者を揃え、さらに息子の紫皮の小腹巻を宗盛に着せるなどの支援をします。この湯浅宗重は、熊野参道中辺路一帯を管理していた豪族で、この後も平家の郎等として活躍します。

熊野別当湛快は弓矢も揃った鎧七領を提供しています。湛快は、熊野18代別当で、その妻である鳥居禅尼(源為義と立田御前(15代別当長快の娘)の娘、新宮十郎行家は同母弟)との間に生まれたのが、のちに壇ノ浦の戦に大きく関わることになる21代別当湛増となります。また、湛快は、別の女性との間に生まれた娘が、清盛の異母弟忠度の妻となっています。

このあたりの経緯は、鳥居禅尼をめぐる熊野の内紛が背景にあり、それらも湛快が平家を支援した一因と思われます。平治物語では、“熊野別当湛増が田辺にありけるに、使をたて給へば、兵廿騎奉る”と、湛増が別当として清盛を支援したようになっていますが、湛増が別当に就任するのは湛快没後、熊野での内紛・争乱を経た後のことです(参考:角田文衛「平家後抄」)。

緊急の状態にあった清盛が、このように諸勢力の支援を受けることができたのは、「伊勢平氏」と呼ばれるように平家の本拠地にも近く、郎等や家人を配置していたこと、白河院以来、院近臣として活動してきた中で、平家と熊野との関係が深かったこと、などが考えられると思います。

なお、平治物語では清盛が京に近づくにつれ、“和泉・紀伊国・伊賀・伊勢の家人等待うけて、はせくはゝり、大勢にてあんなる”とあります。異変を知った平家の家人や郎等が、清盛一行を待ち受け、あるいは追いかけて京へと向かったことは想像に難くありません。
そして12月17日、清盛一行は無事六波羅へ帰着します。
メッセージ 453 rarara_roadster さんに対する返信


報告、申し上げます。   2009/10/12 22:53 [ No.456 ]
投稿者 : morikeigetu2
rarara_roadster様の加持祈祷が功を奏したのかもしれませんよ。
もちろん、まだ起きてPCを打つのは無理ですが、その後のrarara_roadster様の投稿コピーを持参し、歓談…とまではいきませんが、少なくとも喜びと感謝の伝言を承りました事をお伝えいたします。
『平治物語絵巻』のご購入について、morikeigetu氏は喜んで、「実は、自分もあの本の解説を参考に投稿するつもりであった」という事でした。「遊び心がありましてね」と続け、「あの絵に、義朝の手の者が階を駆け下りる姿が描かれてるでしょう。右手と右足だったか、左手と左足だったかは覚えていませんが、それが一緒に出ている描写、つまり、あの当時の人達の走り方『ナンバ走り』を雑談として語りたかった」と。「能楽でね、右手をサシて止まる時は右足が出て静止し、左手でワケて止まる時も左足が同時に出て静止するんですよ」と言って笑ってました。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


  2009/10/12 22:58 [ No.457 ]
投稿者 : morikeigetu2
あと、rarara_roadsterさんにお伝えする事は、とのという問いに、「申し訳ありません、もう少しの間、よろしくお願いいたします」との事でした。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


光頼、信頼?頼光、頼信???   2009/10/21 21:06 [ No.458 ]
投稿者 : rarara_roadster
遅くなりましたが、けいげつさんのお見舞い、ご苦労様でした。
わたしもかつて数ヶ月間入院した経験があり(三途の川の手前まで行きましたが、『渡し賃を持っていない』と言ったら追い返されました)、病床のけいげつさんのお気持ちも、多少なりともわかるように思います。

とにかく、今は治療に専念されることを祈念いたします。


>義朝の手の者が階を駆け下りる姿

早速探してみました。すると、「六波羅行幸」のところ、鎌田正清の従卒が逃げる蔵人を追いかける様子がありました。まさに左手と左足が同時に前に出ています。
平治物語絵詞(中央公論社)より
この「ナンバ走り」というもの、とりあえず「同側の手足を一緒に出す方法」ということはわかりますが、その詳細についてはネットで検索してみても諸説が入り乱れていて難しそうですね。

そういえば、いつだったかTV番組(なにかの雑学バラエティ?)で古代ギリシャの絵を持ち出して同じようにナンパ走りであることを説明していたように思います(古代オリンピアの競技だったかな)。

>「能楽でね・・・

うろ覚えですが、歌舞伎の足の運び方もこんな感じでしたよね。


さて、いよいよ反信頼派の攻勢がはじまるわけですが、平治物語ではご承知のように12月19日の公卿僉議において、惟方の兄「左衛門督光頼」が信頼を糾弾し、弟の惟方を諭して信頼から離反させるというながれになります。

この光頼の「物語」の背景を考えていきたいと思います。

※「左衛門佐光頼」となっていたのを修正
これは メッセージ 456 morikeigetu2 にさん対する返信


秋の夜長   2009/10/31 0:09 [ No.460 ]
投稿者 : morikeigetu2
ふと、思い出しました。
私はそもそも、歴史小説というものを読みませんでした。
騙されたと思って一度読んでみて、とmorikeigetu氏に強く勧められて、初めて読んだのが 「新・平家物語」でした。
前々回のrarara_roadsterさんの投稿を読んで、思い出したシーンがあります。勧修寺光頼が信頼を叱責するところ。
手に持った勺で自らの足を打ち、そのまま真っ直ぐに信頼を指して激烈な言葉を吐く。
有能な作家の文章というのは、恐ろしくも見事なものなのだと感銘しました。
ただの活字が、こちらの脳ミソの中で生きた人間になるのだと。
危ないアブない、と思いつつ読みきってしまいました。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 秋の夜長   2009/10/31 23:01 [ No.461 ]
投稿者 : rarara_roadster
新・平家物語を出されれば、わたしも一言書かずにはおれません(苦笑)

わたしがこの“保元・平治の乱から治承・寿永の内乱”という時代の虜となったのは、まぎれもなく、この「新・平家物語」であり、NHKの大型時代劇「武蔵坊弁慶」で、その下地になったのが、先日お話した学生時代の軽音楽部顧問の先生の「平知盛」のお話なのですね。

この物語、弁慶の姉の存在をはじめとしていろいろな伏線があるんですが、結局回収し切れないままに物語が終わってしまうんですよね。もともとは新聞の連載モノだったそうですが、作者の吉川氏も長い連載期間の中で伏線の存在を忘れてしまったのかもしれません。

とはいえ、

>有能な作家の文章というのは、恐ろしくも見事なものなのだと感銘しました。

わたしが唸らされたのは、屋島の合戦における「扇の的」の故事の解釈です。ま、これについては時を見てお話したいと思います。
それまでにけいげつさんが復帰されることを祈念しつつ・・・。
これは メッセージ 460 morikeigetu2 さんに対する返信


「新・平家物語」   2009/11/ 1 20:15 [ No.462 ]
投稿者 : morikeigetu2
実は私、「物語」は読んでなかったのですが、大河「新・平家」は1年通して見たのです。
morikeigetu氏は、高校2年だったと言ってましたね。
今から思えば、いい役者さんが勢揃いでした。


藤原公教   2009/11/ 9 18:35 [ No.463 ]
投稿者 : rarara_roadster
さて、ずいぶんと間を空けてしまいました・・・・。

なんだか、この一文が枕として定着してしまいそうな自己嫌悪(苦笑)

いよいよ清盛が表舞台へと登場してきますが、その前に、一人の人物を挙げておこうと思います。

信頼に対する攻勢について、一番のポイントとなるのが『六波羅行幸』ですが、その中心人物が内大臣左大将藤原公教と考えています。公教は、父親は太政大臣実行で北家閑院流の出身ですが、母親が藤原顕季(末茂流)の娘で、美福門院とはいとこ同士になります。

その関係もあり、鳥羽院政期には院庁別当として執務の中枢で活動しており、近衛天皇崩御により、後継を決める「王者議定」にも元右大臣源雅定とともに出席しています(この時、公教は権大納言)。

また、保元の乱の後は記録所の上卿として、信西の嫡男俊憲らとともに新制下で荘園整理に尽力します。そして、その俊憲は娘婿となっています。

このように公教は、美福門院や藤原信西と政治的に非常に近い位置にあった人物ということができます。当然、信頼の暴挙に対し、激しい怒りを感じていたことでしょう。

以下、次号。


ろどすたさん!!   2009/11/12 15:04 [ No.464 ]
投稿者 : morikeigetu
お久しぶりです、けいげつです。
morikeigetu2さんが来られまして、何やらマキムクの話ばかりするので放置して(笑)、携帯をお借りし、お詫びとお礼をまず申し上げます。
「ずいぶんと」が「間を」にかかる枕詞になりましたか。本当にすみません。
見えぬお姿ながら、能登守のような孤軍奮闘のご様子と有り難さを、morikeigetu2さんが届けて下さる投稿コピーによって痛いほどに感じ、深く深く感謝いたします。
リハビリに時間を要しますが、今しばらくご辛抱下さいませ。
末筆ですが、私ならば見落としていたかもしれない
藤原公教のお話、楽しみにしています。
そして、加持祈祷、ありがとうございます!
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: ろどすたさん!!   2009/11/14 20:33 [ No.465 ]
投稿者 : rarara_roadster
おお!けいげつさん。
お具合は如何ですか?
morikeigetu2さんから、けいげつさんの経過は伺っていたものの、やはり、このように直接ご本人の書き込みを目にすると、少しでもほっとした気持ちになれます。

とはいえ、

>リハビリに時間を要しますが、

リハビリはわたしも経験いたしました。要は気の持ちようです。
「前向きに」というよりも、ベッドの生活のストレス発散ぐらいに考えれば吉です。
・・・ま、実際大変ですけどね。

>能登守のような孤軍奮闘のご様子

そんなもったいないです。わたくしなど、せいぜい「ノートの紙」・・・。
・・・座布団取っていただいて結構です(苦笑)

>藤原公教のお話、楽しみにしています。

ありがとうございます。
平治の乱は、どうしても源平の直接対決に目がいってしまいますが、そのお膳立てというか、そこに至るまでのキーマンですので、がんばってみます。
ただ、なかなか図書館に行けないのが玉に疵です。

ともあれ、けいげつさんも本当に大切なのは、退院後の生活です。
そのためにも、リハビリがんばってください。

ではでは。
これは メッセージ 464 morikeigetu さんに対する返信


上げます。   2009/12/ 4 2:23 [ No.468 ]
投稿者 : morikeigetu2
個人的及びmorikeigetu氏的談話で…、「このトピ、いっその事rarara_roadsterさんのブログあるいはHPに譲渡した方がメジャーになるかもよ」と彼の入院時に言ったのですね。
『猛烈に面白いかもしれない』とは、morikeigetuの答えでした(笑)
実は私も「隠れファン(出てしまいましたが…)」として、泡沫な掲示板で展開するより、「表に出ろよ」と申していたのですが、彼は「マイナーな時代の話、しかもなかなか物証的に手詰まり。兵範記や吉記の欠落部分を早く見つけろ」と言われる始末。
「100年かかるな」とは彼の弁。「100年後、日本が日本としてあるかどうかは残念ながら疑わしい」と切り返しますと、「日本そのものが世界遺産になってるかもしれないね」と言ってました。
さて、morikeigetuは清盛の熊野詣を相変わらず疑っていて、「あれは捨て身(偽装)の徴兵やろ」と 言ってましたが、その辺りはまた後日。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


keigetu氏からの電話   2009/12/16 10:08 [ No.470 ]
投稿者 : morikeigetu2
今日の新聞を読んだ彼から先程電話がありまして、こう言っておられました。「歴ヒスで清盛一門をやるようだが、いや〜な予感がする」「近頃、敗者を取り上げて再認識するのはいいが、とかく美化し過ぎの感がある。草食系ねぇ…。ま、あの時間病院ではテレビを見る事が出来ないので幸い」と。
とりあえず見ておいてほしいと頼まれたので、気はすすみませんが、見てみます。
これは メッセージ 1 morikeigetu にさん対する返信


補足しておきますが、   2009/12/16 10:23 [ No.471 ]
投稿者 : morikeigetu2
彼の平氏、とりわけ清盛ら六波羅平氏観は、たしかに慕情もありますが極めて中立で、「何故そうなったか」を必死に探しているようです。そんな彼に私は直接なんの手援けも出来ませんが、「100年かかる」中で、手渡すバトンくらい残したいなと考えています。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: keigetu氏からの電話   2009/12/16 18:18 [ No.472 ]
投稿者 : rarara_roadster
ヤフーの番組紹介です。

歴史秘話ヒストリア「私たち、草食系武士です。〜新・平家家族物語〜」
日本史上初の武家政権を樹立した平清盛と一門。傲慢な一族と思われてきたが、大躍進の秘訣は優雅で文化的な武士になることだった。“草食系武士”平氏の実像とは?
平安末期、日本史上初の武家政権を樹立した平清盛とその一門。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉に代表されるように「極悪人」「ごう慢な一族」というマイナスイメージが強い。しかし実際には、武力で強引に出世したのではなく、家族一丸となって優雅で文化的な「草食系」路線を歩み、平和的に権力の座についた。“草食系武士”とは一体どんな武士なのか? 従来の「平家物語」とはひと味違う、平清盛とその家族の物語を描く。

だそうです・・・(苦笑)


ま、NHKですから。いろんな意味で。

それはそうと、

先日、忘年会があったのですが、隣のグループから漏れ聞こえたのが、

「実はわたしは蝦夷の末裔でね・・・」
「あら、それを言うならわたしも源氏の子孫ですのよ」

学校の先生たちのようでしたが、おもわず突っ込みたくなりました。


さて、ヒストリア。予約録画しておきましょう。
これは メッセージ 470 morikeigetu2 さんに対する返信


驚きました!   2009/12/17 0:15 [ No.473 ]
投稿者 : morikeigetu2
元木泰雄氏、高橋昌明氏という巨頭を引っ張り出してました。
そうしてまで「草食系」を強調する意図がまったく理解出来なかったのですが、だからこそ、知盛・重衡や教盛・教経らは登場しなかったのかな?
南都焼討ちを「大きな過ち」と言ってましたが、これをkeigetu氏に伝えると、怒るだろうなぁ。
rarara_roadster様のご感想は如何に。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 驚きました!   2009/12/18 18:41 [ No.474 ]
投稿者 : rarara_roadster
番組そのものは、むしろ最近流行の「草食系男子」という単語を使いたかっただけという印象。はじめにその言葉ありきだったことは否めず、それが為にけいげつ2さんが仰るように、

>知盛・重衡や教盛・教経らは登場しなかった

のだと思います。

>元木泰雄氏、高橋昌明氏という巨頭を引っ張り出してました。

ここだけは、以前放送された「その歴」の「保元・平治の乱」とは大きく違っていましたね。しかし、せっかくの巨頭を生かしきれていませんでした。あいかわらず、「武士は貴族に隷属する存在だった」のオンパレードでしたし、元木氏と高橋氏を出した意味が無いですよ。

「その歴」にしろ、今回の「歴ヒス」にしろ、この時代の『貴族』『武士』という言葉の使い分けが非常にあいまいという印象があります。正直な話、『清盛や頼朝は何者か?』と聞かれれば、「軍事貴族ですが、何か問題でも?」と答えるのですが、いや、やはり「武士」という言葉を使ったほうがわかりやすい、というのがNHKの認識なのかも知れません。

両巨頭に出演してもらうのならば、そのあたりをばっさりと切り込むような構成が欲しかったですね。そうすると、根本から今回のテーマが成り立たなくなってしまいますが・・・。それはそれでまずいのでしょうね(苦笑)

結局、むかしながらの「平家は貴族の社会に浸りきってしまっていたため弱体化し、荒々しい源氏によって滅ぼされた」という観念を、当世風に『草食系武士・肉食系武士』と言葉を変えて表現し、「管弦や和歌に熱心で、武芸を忘れてしまった平家」を『文化と家族を愛する平和的な一族』と言い換えて番組を作ったように感じました。

もっとも歴史バラエティーですから、昨今の流行り言葉と歴史上の事象を重ねて考察してみるという手法自体はありなのかもしれません。しかし、それによって除外されてしまったり、イメージに合わないからといって省かれてしまうと(今回で言えば、教経さんなど)、かたよったイメージで受け取られてしまいます。後に残ったのは、「捏造された(笑)平家像」

いや、笑い事じゃないですよね。

一の谷の映像で、例によって和平の勧告を源氏が無視して云々などとやっていましたが、今回紹介されていた、忠度、敦盛、経正が一の谷でどのように戦い、どのように死んでいったか、きちんと紹介するべきでした。

そこに、草食系の武士は存在しません。


と、ろどすたが喚いていたとけいげつさんにはお伝えください(笑)
これは メッセージ 473 morikeigetu2 にさん対する返信


お見事!   2009/12/19 0:07 [ No.475 ]
投稿者 : morikeigetu2
仰るとおりです。
あのお二人は、
〉武士は貴族に隷属する存在だった
という過去の概念を見直しておられるし、
〉軍事貴族
という位置を明確に主張しておられます。ところが、あれでは番組の「箔」に使われたとしか思えない。
歴史は、アニメではない。草食・肉食で歴史を語るのは、血液型で人を断じるのと似て、学問からますます遠ざかる。
落ち着きましょう。
今夜お話ししたかったのは「keigetu氏が、早ければ年明けに退院する」という事。
rarara_roadsterさん、今しばらくのご辛抱を!
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


おお!   2009/12/19 10:41 [ No.476 ]
投稿者 : rarara_roadster
>「keigetu氏が、早ければ年明けに退院する」という事。

そのお知らせを一日千秋の想いで待っておりました!
ただ、病は治りかけの油断が禁物。
あえて、「勝って兜の緒を締めよ」と、お伝えください。
(と言いながら、うれしくて転げまわるろどすたでした)
これは メッセージ 475 morikeigetu2 さんに対する返信


年忘れ映画特集?   2009/12/26 21:23 [ No.477 ]
投稿者 : rarara_roadster
平治の乱「六波羅行幸」といえば、どうしても連想してしまう映画があります。

かつて「大脱走」というハリウッド映画がありました。第2次大戦末期、東ヨーロッパのドイツ軍の捕虜収容所の床下からトンネルを掘って、70名もの連合軍捕虜が一度に脱走したという、実話にもとづいた作品です。

その中で、捕虜たちがドイツ兵の監視の目を盗んでトンネルを掘ったり、偽造の身分証明書や軍服を改造した民間人の服を作ってちゃくちゃくと脱走の準備を整えていきます。

最近の若い人たちにはなじみが薄いかもしれませんが、80年頃までは、年末になるとテレビの映画劇場で毎年のように放送していましたし、いまでもそのテーマ曲である「大脱走のマーチ(作曲エルマー・バーンスタイン)」は、CMなどでもよく使われており、“♪チャッチャッ、チャッチャーチャチャラーン”というメロディは、映画を知らずとも多くの人が耳にしていると思います。

この映画のクライマックスは、脱走に成功した連合軍兵士と、彼らを追いかけるドイツ軍将兵やゲシュタポとの対決がさまざまな場面で出てくるのですが、おなじみなのは、スティーブ・マックィーン扮するアメリカ空軍将校ヒルツ大尉がドイツ軍のオートバイ兵とバイクチェイスを繰り広げるシーンでしょう。

国境の丘陵地帯を疾駆する2台のバイク。ところが、逃げるのもマックィーンならば、追いかけるドイツ兵も実はマックィーンが演じていたということは、有名なエピソードです。バイクが大好きで、学費を稼ぐためにしょっちゅう草レースに参加していたマックィーンには、劇中でも「軍隊に入る前は、化学を専攻する学生で、バイト代わりにバイクレースに参戦していた」という台詞が用意されています。


さて、話は平安京に移って・・・。

清盛が帰京した3日後、信西の子息たちの配流が実行されます。いよいよ平安京でも天皇の「大脱走計画」が動き始めます。

あ、けいげつさんは、いくら年末だからといって病院を“脱走”しちゃだめですよ(微苦笑)


共犯者の反省付愚痴 元木泰雄   2009/12/27 9:45 [ No.478 ]
投稿者 : knzw45
「歴史秘話ヒストリー 私たち、草食系です」について、皆さんお怒りのようですね。
これに関して、元木泰雄氏が番組出演への反省の弁を述べています。
「宗文研ゼミ『紫苑』掲示板」http://donkun.ath.cx/~sion/bbs/
の2009/12/21(Mon) 09:21 No.6968で、タイトル名で投稿されています。
本掲示板は野口実氏が主催されているもので、中世史関係の方が多く投稿しています。


元木泰雄氏、諸行無常   2009/12/27 13:35 [ No.479 ]
投稿者 : rarara_roadster
knzw45さん、ご投稿ありがとうございます。

「トピ守(とぴのかみ)」さんに代わり、お礼申し上げます。わたしの記憶が確かならば、以前大河ドラマ版にあった「義経を検証する」トピでお見かけしたようですが、いかがでしたでしょうか?

>「宗文研ゼミ『紫苑』掲示板」

実は、この掲示板はわたしも以前からこっそりとロムをしていました。ご紹介いただいた書き込みですが、おそらく元木氏も大学を通じて依頼され、出演の運びとなったのでしょう。元木氏のお気持ちもよくわかります。最後の一言はちょっと・・・(以下略)

NHKは、教育テレビの「高校講座 日本史」では、元木氏や高橋氏の論にもとづいた内容をきちんと放送しているんですよね。にもかかわらず、総合のほうではあのざまです。

この「歴ヒス」は、いままでの「その時、歴史が動いた」よりはバラエティ色が強く、その意味では「草食系男子」という昨今の流行語をテーマに番組を作るということは、まあ、あっても悪くはないと思います。

先日、試しに「草食系武士」でネット検索をかけてみたらいくつかブログやHPがヒットしたのですが、今回の「歴史秘話ヒストリア」を比較的肯定的に取り上げているものが目立ちました。

しかし、実際にはコメンテーターとして出演を依頼した学者を「だまし討ち」にするような番組内容だったということは、そのブログやHPの管理者は気がついていないでしょう。

せめてこのトピではNHKのようにならないよう、しっかりとやって行きたいと思います。knzw45さんも、よろしければ今後とも書き込みをお願いします。
これは メッセージ 478 knzw45 さんに対する返信

お礼。   2009/12/31 10:47 [ No.480 ]
投稿者 : morikeigetu2
いよいよ大晦日となりました。
morikeigetu氏の不慮の入院でrarara_roadster様には大変お世話になり、また私のような者の相手をして下さった事に、心からお礼を申し上げます。
来年もまた、よろしくお願い申し上げます。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: お礼。   2009/12/31 15:30 [ No.481 ]
投稿者 : rarara_roadster
こちらこそ、けいげつ2さんには、ずいぶんと助けていただきました。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

よいお年を!
これは メッセージ 480 morikeigetu2 にさん対する返信


公教、師走に走る(1月ですが・・・)   2010/ 1/ 2 3:00 [ No.483 ]
投稿者 : rarara_roadster
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、六波羅行幸の背景について考えてみたいと思います。

例によって元木泰雄氏の「保元・平治の乱を読みなおす(NHKブックス)」をベースに進め、もう少し自分なりの解釈も交えながら書いていこうと画策していますのでよろしくお願いします。

清盛の帰京が17日。そのわずか一週間後には、天皇の内裏脱出と六波羅行幸。その日のうちに決戦が行われます。反信西派は、この短い時間に周到な準備と綿密な計画を立てたことになります。注目されるのが、信頼と同心と見られていた大納言経宗と検非違使別当惟方で、早くも反信頼派に寝返り、惟方も六波羅行幸の密議に参画します。

元木氏は“清盛の帰京にまず敏感に反応したのは、内大臣・左大将藤原公教であった”と愚管抄の記述をもとに六波羅行幸作戦を分析していきます。

公教は、保元新制以降「記録所の上卿」として、この時期にもっとも政治力の大きかった人物と考えられます。愚管抄ではその公教が、「世ハカクテハイカガセンゾ 信頼、義朝、師仲等ガ中ニマコトシク世ヲ行フベキ人ナシ」と憤慨したと伝えています。

また清盛について元木氏は、「信頼と姻戚関係があったものの、自分を無視して(留守中に突然蜂起され、一時は西国に落ち延びようかと考えるほどの)危機的な状況に陥れられるという強引な行動に反発したであろうし、(信頼が)義朝と結んで政治的地位を向上させることにも危険を感じたと思われる」という見解を示しています。

その清盛と公教の提携について私見を少々。

両者とも信西とは姻戚関係を有しており、そのことももちろん無関係ではないと思いますが、むしろ公教の立場から見れば、万が一にも清盛が信頼と結ぶようなことがあってはならないという意識もあったと思います。実際に、けいげつさんが413で指摘されたように二人ともまだ幼子だったとはいえ、清盛の娘は信頼の嫡男信親と結婚しており、そのことは公教も気がかりな部分であったはずです。

公教の最終目標は、一刻も早く朝廷の政務を元の状態に回復させることにあり、その為には、速やかに信頼を滅ぼさなくてはなりません。

その信頼に源義朝(河内源氏)という軍事貴族がついている以上、その信頼を圧倒するためには、最大の武力を有する平清盛一門(伊勢平氏)との提携は絶対条件であったといえます。それは、単に戦になった場合の戦術上の問題だけではありません。
これは メッセージ 481 rarara_roadster さんに対する返信


明けまして、おめでとうございます。   2010/ 1/ 4 14:13 [ No.484 ]
投稿者 : morikeigetu2
実は、rarara_roadsterさんが仰ったように、morikeigetu氏が年末に大脱走して来るのではないかと期待していたのですが、意外に真面目だったのだと驚きました。
さて、いよいよroadsterさんの投稿も再開され、楽しみな次第。今年も元気にやりましょう!
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


雑談。   2010/ 1/ 7 22:31 [ No.486 ]
投稿者 : morikeigetu2
いよいよ今年もまた、日常がスタートしました。
ところで、昨年の暮れに
keigetu氏を見舞った時、彼が手招きして喜んでいたのですね。彼は入院中、本とカセットテープに埋没してました。普通CDだろうと思うのですが、「僕はアナログだから」と言いながらあるテープを作動させたのです。それは、大河『新・平家』の「平家都落ち」のくだりのリアルタイムの録音テープでした 。私も思わず45分間聞き入りました。
「これ、ろどすたさんに聞かせてあげたいね」と言ってました。
夢…、でしょうか?
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 雑談&業務連絡   2010/ 1/ 9 19:26 [ No.487 ]
投稿者 : rarara_roadster
実はわたしも数年前の入院中には「新・平家物語」の文庫本をもちこんで読みふけっていました。いや、ほんと入院中なんて本を読むことぐらいしか楽しみがないんですよねぇ・・・。

大河ドラマ「新・平家物語」の頃は、わたしは小学校の高学年でした(苦笑)

その頃は、せいぜい「牛若丸物語」程度の知識しかなく、伯父の家に遊びに行ったときに何度かテレビで「見させられた」だけでした。まさか、今になってこれだけハマるとは、想像もつきませんでした。

しかし、現在ではたとえ音声だけとはいえ、当時の生のデータというのは貴重品ですね。わたしも子供のじぶんはテレビの前にカセットを置いて一生懸命録音したものです。「ライン イン」なんて“技”は知るよしもがな(笑)


さて、けいげつ2さんにお願いがあります。

実は、けいげつさんが入院されたときに少し書いたことなのですが、今、実験的にこのトピック記事をテキスト化しているところです。
けいげつさんが退院されたら、一度ベータ版を限定公開してみようかな、と考えています。

次にお見舞いに行かれたときに、そのことをお話しておいていただけますでしょうか?
これは メッセージ 486 morikeigetu2 にさん対する返信


おお、素晴らしい!   2010/ 1/ 9 22:36 [ No.488 ]
投稿者 : morikeigetu2
keigetu氏の了解を得る必要もないと思いますよ !
もちろん伝達はいたしますが、ふたつ返事ですよ。
実は私が業務上、具体的参加が出来ないので、彼は
roadsterさんの存在を「日輪のようや」と言ってました。
早々に伝えます。
ワクワクしてきました!
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 保元から壇ノ浦まで   2010/ 1/11 18:42 [ No.490 ]
投稿者 : wolfrayetstar136
この城は源平の昔(保元三年)、平家の手によって築城されました。 そのとき、杵島姫
の命 (弁財天厳島神社)を祀り、 居城を「弁財天」を戴して 「弁天城」と名づけました。
そして城主として「永野新九郎貞恒」が派遣されました。

今でもベザイテン(弁財天)の地名があり、 その近くには、ヤノドンやオコンドンなどの
屋号が残っています。 ヤノドンは矢野殿の意味で、矢野伝左衛門宗冬という武将の
屋敷跡と言われ、オコンドンは右近殿のことで、右近少監友房の屋敷跡と言われてい
ます。

永野新九郎貞恒は、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、その落人を導いて匿くまったそう
です。その場所は平家屋敷と呼ぶ地名で今も残っています。

また彼の一族は平家の滅亡によって武士を捨て、農民となって暮らすことにしました。
その家系は今も永野姓として弁城の地に残っています。また平家の落人も氏素姓を
捨て、武具を農具に変えて農民として生きる道を選びました。

当時「弁天城」と呼ばれたこの里も、のちの人々が地名に「天」は恐れ多いと「弁天城」
から天を抜いて「弁城」と呼ぶようになったそうです。
http://blogs.yahoo.co.jp/senri0220/60993237.html

ご老人の地元の平家落度伝説だそうです・・・
平家は俘囚を兵士として雇っていたことも分かってます。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


さて、roadsterさん。   2010/ 1/11 22:08 [ No.491 ]
投稿者 : morikeigetu2
keigetu氏に、電話を入れて先日のお話を伝えました。やはり予想通り、keigetu氏は大歓迎だと喜んでいたという事を、まずお伝えいたします。
彼は、今月中に必ず復帰の投稿をすると言っておりましたから、私もそれを待ちたいと思います。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


了解です。ベータ版、仮公開します。   2010/ 1/11 22:56 [ No.492 ]
投稿者 : rarara_roadster
お見舞いご苦労様でした。

いちおう、ベータ版ができましたので、目を通してみてください。
気付きがあれば、このトピにお願いします。

>今月中に必ず復帰の投稿をすると

よかったですね!
けいげつさんにも見ていただいてご意見を賜りましょう。

「保元から壇ノ浦まで データベース」ベータ版はこちらです。
ベータ版
http://・・・・・・

とりあえず、今月中はあげておきます。
これは メッセージ 491 morikeigetu2 にさん対する返信


Re: 了解です。ベータ版、仮公開します。   2010/ 1/14 20:06 [ No.496 ]
投稿者 : rarara_roadster
調子に乗ってブログでこのトピを紹介してみました。

http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai/6805176.html

ブログ、出来たてです。
これは メッセージ 492 rarara_roadster さんに対する返信


驚嘆・感動・大騒ぎ!   2010/ 1/17 23:18 [ No.498 ]
投稿者 : morikeigetu2
もっと早くに投稿するつもりだったのですが、公開されたベータ版を改めて読み込んでしまったりしつつ、それをフルコピーしてファイリングし、本日keigetu氏に手土産としてお届けいたしました。
それを手渡す前に、持参したPCでまずは公開。大喜びで改ページしながら「懐かしいなぁ」を連発してました。
「この知盛がええなぁ」と言いながら、「赤間神宮には、あと教経や教盛、経盛・資盛などがあってね、一般的にはマイナーやけど教盛の顔がええのよね。
この親あって、この子ありという感じ」などと大騒ぎ。
「ろどすたさんに、お伝え下さい」と言われたのです。
『ほんまに、ありがとう』
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


ガンダム大地に立つ。いや鉄人28号か?   2010/ 1/18 18:38 [ No.500 ]
投稿者 : rarara_roadster
ありがとうございます。

恥ずかしながら、HP作成に関しては技術も無い上に、絶望的なセンスの無さ・・・。近頃流行りの「煌びやかなHP」には程遠いですが、あくまでもデータベースであるということと、長時間読んでいても疲れが少ないように、明るさを落として緑とグレーでまとめました。

本音を言えば、作業効率最優先。作るときに400件以上のデータ移動があったので、デザインは二の次でした。

今にして思えば、テキストだけでなく、せめてエクセルか何かでデータ化しておけばよかったなと。

それと、トップにも書いていることですが、討論の投稿は基本的にはすべて載せています。ただ、時折やってくる“神輿振り”には検非違使を派遣しておきました(笑)

特に問題がなければ、「正式公開」に移行しようと思います。基本的なレイアウトはそのままですが、細かいところでちょこちょこ修正が入るかもしれません。もっとも、1月18日現在で、すでにVer.7くらいです。

早ければ今度の土日くらいか、いずれにしても今月中をメドにしたいと思います。


それで公開の方法ですが、ブログのトップにリンクを貼って、そこからデータベースに行けるようにしたいと考えています。もっともこのブログ自体、作ったばかりのしろものなんですが・・・。

一応、以前やっていたHPがあり(更新停止中)、そこからブログに行けるようにしていますので、まあ、旧HPを知っている人も見ていただけるのではないかと。ただし、旧HPの内容は日本史とまったく無縁なので、そこは問題かも(苦笑)
これは メッセージ 498 morikeigetu2 さんに対する返信  


roadsterさん、私ね…、   2010/ 1/18 22:31 [ No.501 ]
投稿者 : morikeigetu2
roadsterさんが「ベータ版」に書かれていたkeigetu氏の掲示板『大河』と、その後の『六波羅平家』の挫折の理由が「神輿振」だったというのを聞いていたので、驢鳴犬吠という私の乱入になったのですが、keigetu氏は、かねてより「近頃の雑学ブームは、極めて危険。受け手が知らない事を知るというのはいい事だが、知らない事を知って、そこから今度は自分で調べるという事をしない。また送り手も、例えば『大河ドラマ』を、まさしく『歴史』として視聴している人々に対して、これはドラマだという注意喚起をNHKはしていない」
「だから僕は投稿を始めたんやけど、叩く門を間違ぅたかなと思たんで、日本史に引っ越した。『六波羅』でコケたけど、それがまた力になった」と。
「うたかたの、はかない掲示板が 『碑』になった」と。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


おやおや。   2010/ 1/19 11:39 [ No.502 ]
投稿者 : morikeigetu2
最後の部分が欠落してますね。
タイトルと本文が繋がらず、大変失礼いたしました。
roadsterさんの多大なるご努力によって『碑』になった事を、keigetu氏が深く深く感謝している事。
そして、そういうお二人を見ていて、なんとも羨ましいかぎりだという事を申し上げたかったのです。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


正式版、公開秒読み開始   2010/ 1/21 19:19 [ No.503 ]
投稿者 : rarara_roadster
データベース正式版の公開を今週末に予定していましたが、早ければ金曜日の夜あたりに前倒しできそうです。本体はすでに完成していて、一応、ページのトップ部分は、ちょっとだけベータ版との差別化を図っています。

あとデータの部分は、そのままです。今後、できれば画像データも少しづつ本文中に差し込んでいきたいと思います。ただ、恥ずかしながらスキャナーを持っていないので、デジカメで写した「なんちゃってスキャン」仕様です(恥)

今回は、手始めに「平治物語絵詞」の“ナンバ走り”をご用意いたしております(笑)
流れとしては、456〜458あたりですね。

問題は、ブログとのリンク方法なのですが、そのあたり決着がつけば、同時公開に踏み切ります。
ま、決着がつかなくとも先に正式版は公開します。

もうしばらく、お待ちください。
これは メッセージ 502 morikeigetu2 さんに対する返信


お待たせいたしました!!   2010/ 1/22 19:34 [ No.504 ]
投稿者 : rarara_roadster
あっさりと公開開始です。

ブログトップのリンクからどうぞ。

“rarara roadsterの青空駐車場”
http://blogs.yahoo.co.jp/explorertukai
これは メッセージ 503 rarara_roadster さんに対する返信


大変、ご無沙汰をいたしました。   2010/ 1/23 18:45 [ No.505 ]
投稿者 : morikeigetu
ただ今、戻りました!!

で、何を書いていいのかがわかりません(泣)

しかし、ろどすたさんには、まず『お礼と、お祝い』を申し上げねばなりません。
6ヶ月近くも留守にしたにもかかわらず、よくぞお守り下さいました。
正直、あの8月の時点で「消滅」を覚悟しました。
儚い掲示板の夢、「ま、いいか」という諦念の中で、ろどすたさんの投稿の数々を思い出しながら、どうしたらいいんやろうと考えても答えは出ず、下半身麻酔の激痛の中、先のわからぬ休業を決めました。

どのように参加すればよいかと悩むmorikeigetu2氏を騙すように(失礼)説得し、立秋の頃から大寒まで…、ここまで長くなるとは私も想定していませんでした。
浦島太郎どころか、浦島(うしろの?)百太郎のごとき状態です。
「右脚ポッキリ」という「もらい」事故、歩けるという幸せをかみしめながら、汗と泥にまみれたろどすたさんが『保存版・保元から壇ノ浦まで』という城を背に笑っている現在に戻れた事を、本当に、心から嬉しく思います。

戻れたとはいえ、まだ頻繁に病院に通い、リハビリを続けねばなりません。
出来るだけ早く本格的に復活投稿をしたいと思っておりますが、間があくかもしれません。その前に、morikeigetu2さんからいただいたフルコピーをもう一度読み返し、リアル参加を試みねばなりません。

ろどすたさん、本当にありがとうございます。
morikeigetu2さん、わがまま申し上げ、すみませんでした。

なまった頭もリハビリし、本格的復活を目指して勉強しますので、今しばらくご容赦のほどを(恐々)

これは メッセージ 504 rarara_roadster さんに対する返信


おかえりなさい!!   2010/ 1/23 22:30 [ No.506 ]
投稿者 : rarara_roadster
まずはけいげつさん、おかえりなさいませ!!

こちらでは詳しい状況がわからず、かといって、けいげつ2さんにあれこれとお尋ねするのも憚られ、とにかくけいげつさんが元気になられることを祈っておりました。

>6ヶ月近くも留守にしたにもかかわらず、よくぞお守り下さいました。

なんの!これも武者奉公のならい。大殿様の御躾にございます(微笑)

しかし、災難だったのですね・・・。でも、復活できて本当によかったです。

お話したいことはそれこそやまほどありますが、わたしも何から書いてよいのやらさっぱりわかりません(苦笑)
しばらくは、ご自宅の感触をじっくりと味わってください。

そしてゆるゆると再開しましょう!!
これは メッセージ 505 morikeigetu さんに対する返信


武者奉公のならい、   2010/ 1/25 20:53 [ No.507 ]
投稿者 : morikeigetu
「これも、大殿様のお躾にございます」

大河『新・平家』、木工助家貞のセリフですね。

ドラマではこの後、清盛が都にとって返し、平治の乱へと流れますね。
ろどすたさんがこのセリフを入れてくれた事、清盛が都に帰還したごとく、「早く平治の乱に戻れ」と激励してくれているのだと感じました。

頭のリハビリです。
家臣の木工助家貞が事前に用意していた甲冑等の武具によって、清盛は都に戻る事を決心した…、という話。
物語としては、感動シーン。
この場面の事実をとやかく言うのではなく、清盛に都への帰還を決意させたものは、本当にそれ?

信西急襲の報と、はっきり言って見事なまでの帰還。
同時に思いつきとは思えぬ天皇・上皇救出。
間髪入れぬ攻撃…。

いったい、何?

ろどすたさん、私、病院の中で妄想だらけになってしまったかも(泣)
これは メッセージ 506 rarara_roadster にさん対する返信


抜け忍の独白   2010/ 1/27 21:36 [ No.508 ]
投稿者 : morikeigetu2
keigetu氏の復帰、掲示板上において、私もお祝いを申し上げます。
お気づきの通り、私はkeigetu氏を以前から存じ申し上げておりました。
ずっと隠れファンとして読み続けていたのですが、初めての投稿をしてからずっとkeigetu氏から「あれは、あなたではありませんか?」と言われるようになりました。
冷や汗モノでしたね(笑)
keigetu氏が「一度投稿したら、もう隠れファンではないですよ。どんどん出て下さいね」と言われ、私は『抜け忍』となったのです。彼が入院する時、「頼みます。ろどすたさんに伝えて下さい。『保元から』を消したくない。出て下さい」と。
「決してバラさないか?」「約束します」
これが、『その時』です。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 武者奉公のならい、 2010/ 1/31 1:43 [ No.510 ]
投稿者 : rarara_roadster
けいげつさんが復帰されましたので、ひとつお題を提供してみたいと思います。
というか、素朴な疑問なのですが・・・。

実は、けいげつさんが入院しておられたときにけいげつ2さんが書き込まれたことなんですが、「清盛の熊野詣」に関することです。

平治の乱の中でも、この清盛の熊野詣の背景については、平治物語はもちろんのこと、愚管抄においても詳細を表わしてはいません。ただ、信頼が三条東殿を襲う直前に清盛一行が熊野へ立ち、今日の急変を知った清盛が、あざやかに帰京して信頼と対決するということが書いてあるのみです。

わたしは、この清盛の熊野行きについて、単に「宗教上の理由ではないか」と書き込みましたが、正直、ほかに理由が見つかりません(泣)
そんな中で、けいげつ2さんが468で“morikeigetuは清盛の熊野詣を相変わらず疑っていて、「あれは捨て身(偽装)の徴兵やろ」と 言ってましたが、・・・”

と書き込まれていました。

ということは、清盛はやはり信頼の暴発についてかなり前の時点で危機感を抱いており、そのために密かに畿内周辺の郎党や武士たちに話をつけておくことを考え、その上での12月4日の熊野詣ということなのでしょうか?

で、それは清盛と信西の関係をかなり濃密なものであったということもその一因であるということになるでしょうか。

これは メッセージ 507 morikeigetu さんに対する返信


改名(泣)   2010/ 2/ 3 16:04 [ No.512 ]
投稿者 : mori_keigetu
PCが使用不能になりました。で、携帯から投稿しようとしたら、morikeigetuは不可。ろどすたさんから無断で御名(記号)を頂戴し、mori_keigetuと改名いたします。携帯では、原稿用紙たったの1枚なので、連続投稿となりますが「お題」を考えてみたいと思います。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 改名(泣)   2010/ 2/ 3 20:29 [ No.513 ]
投稿者 : rarara_roadster
>PCが使用不能になりました

うわ・・・
厳しいっすね〜。

>連続投稿となりますが「お題」を考えてみたいと思います

了解&よろしくおねがいします!
これは メッセージ 512 mori_keigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その1。   2010/ 2/ 4 17:39 [ No.514 ]
投稿者 : mori_keigetu
かねてより私は、漠然と平治の乱を眺めた時、「何で?」と思う事がいくつかありました。ひとつはもちろん「清盛の熊野詣」、そして信頼・義朝らの信西急襲時における「執拗なまでの殺戮」、そして「清盛の鮮やかな帰還」と「流れるような鎮圧までの動き」です。「熊野詣」については、ろどすたさんが仰る「宗教上の理由」が最も妥当だと、私も思います。

単純に「詣」であるならば、将来への祈願か過去の御礼が動機であるのかなと思います。清盛がこの時点で、死後の極楽往生願いはないだろう…と。
保元の乱で勝ち組となり、軍事貴族としての平氏の発展を実感していたのは間違いないと思います。

例えば保元の乱直前は安芸・常陸の2ケ国であった知行国は乱後播磨・淡路を加えて4ケ国となり、平治の乱までに大宰府・大和を加えて6ケ国となりました。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その2。   2010/ 2/ 4 18:28 [ No.515 ]
投稿者 : mori_keigetu
知行国が増えた事により、信西が推進した大内裏造営に寄与するところも大きく、それにより国司はひとつ位を上げられ、頼盛・教盛・経盛らが昇進します。
「飛ぶ鳥をおとす勢い」だったかどうかは判りませんが、少なくとも時の実力者であった信西に強く買われた清盛にとって、御礼と共に「ますますの発展」を祈願する意味合いはあっただろうと思います。

ただ、今後も検証した上でないと何とも言えないのですが、保元の乱後の信西による新制や改革推進がそろそろ結実しようかという時、他方ではその反発も、地底から発するガスのようにブツブツと不気味な音をたて始めているように感じます。
清盛が「熊野詣」に出発した日から帰還した日の間に『物語』は東国から義平が駆けつけたように描いています。義朝が「いつ」義平に向けて「上京」を指示したのでしょうか。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その3。   2010/ 2/ 4 19:18 [ No.516 ]
投稿者 : mori_keigetu
清盛の「熊野詣」出発に関する史料は…?です。実際に信頼・義朝らの信西急襲についての当時の日記は、何故かありません。『兵範記』もブッ飛んでます。
『百練抄』が平治元年(1159)12月9日の三条烏丸御所急襲を記します。(五味文彦氏『平清盛』)
清盛はこれより前に都を出て、12月17日に六波羅に帰還。

さてここで、いくつかの例を挙げてみましょう。
「富士川に向かう維盛」9/29京都発…10/18富士川(両端入れで20日)。「捕虜宗盛が鎌倉へ」5/7京都発…5/16鎌倉(同10日)。「捕虜宗盛鎌倉発」6/9…6/21近江篠原(同13日)。「捕虜重衡、鎌倉発」6/9…6/22木津川(同14日)。
維盛の進軍の遅さが目立ちますが、この検証はのちほどにして、出発点と到着点の相違、そして義平がどこにいたかという問題もありますが、だいたい10〜15日(片道)を要するようです。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その4。   2010/ 2/ 4 20:17 [ No.517 ]
投稿者 : mori_keigetu
義朝から義平へ「エマージェンシー」が発信されたのはいつか…という事なのです。
『物語』によれば、義平は信西急襲後しばらくして入京し、帰還する清盛を阿倍野あたりで迎え討つと主張したといいます。
義平の入京を12月9日〜17日の間を取って13日と仮定した場合、最速の片道10日を採用しても義朝のエマージェンシーは11月24日前後。たぶん清盛の「熊野詣」出発日時が確定した時期でしょうか。…で私は思うのです。清盛のセンサーが、そういう動きを見落とすのかな…と。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その5。   2010/ 2/ 4 20:36 [ No.518 ]
投稿者 : mori_keigetu
当時の「熊野詣」は、事前準備に相当の時間と労力を要したと思います。現在の「旅行の予約」感覚では語れないでしょう。清盛が「熊野詣」を計画しているという情報は、かなり以前から信頼たちも把握していたと思います。ただ、「本当に行くのかどうか」が信頼たちにとって重要であり、それを確認するまではヘタな動きが出来ないというブレーキが作用したために、エマージェンシーボタンを押すタイミングを逸したかなとも思います。清盛は、たしかに都における軍事貴族として最大兵力を誇ってはいますが、保元の乱でも見た通り、300と200という僅差です。
危うい時勢の中で、表立って兵を募ると自爆する。
信頼の敵は信西、義朝の敵は清盛だったと思います。この目標不一致が、清盛を救ったのかもしれません。で、信頼と義朝の上下関係は、やはり信頼が上。
私は、清盛が鼻歌うたいながら「熊野詣」に出発したように思えてならないのです。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その6。   2010/ 2/ 4 21:00 [ No.519 ]
投稿者 : mori_keigetu
清盛の「熊野詣」を、『何でまたこの時期に?』と思った人はいなかったのでしょうか。
信西その人が、最もそう思ったかもしれない…、ま、これはその後の結果を承知している後世の人間だから、そう憶測してしまう欠陥かな。
ただ、「何となく」「危ないぞ」という「感じ」の中で、最大兵力所有トップが都を出て行くという実際を、人々はどのように受けとめたのでしょうね。
清盛という人は、ここぞという時に都を離れるクセがあるように思います。
それが彼の自信によるものなのかどうかは判りません。ただ、この時の清盛の離京によって、人々の注視が信頼・義朝に集中したのは間違いないと思います。
彼らが善政を敷けば、清盛などどうでもよかった…のかもしれません。

ところがここで、ろどすたさんが仰るごとく藤原公教が動かねばならない事態となる。
清盛は、それすらも承知していたか。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


平治の乱『物語』その7。   2010/ 2/ 4 21:19 [ No.520 ]
投稿者 : mori_keigetu
清盛にとって重要なのは、信西の生死ではなく、信頼・義朝らの兵力と、彼らが都の中でどう受けとめられているかであったのではないでしょうか。そして彼らが自分を討とうとしているかどうか。内裏中枢の感情は、そこに居る者でないとわからない。それらを正確な情報として把握せねば、ウカツに帰るわけにもいかない。それが『物語』における「戻るか、落ちるか」であって、「戻る」に決断させたのは、湯浅や熊野の援軍のみならず、公教らの「情報」ではなかったか。そこに偶発的・奇跡的帰還ではなかったと思ってしまう…、結局「入院中の妄想」でありました。
オチが…、オチが…(泣き)
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「オチ」探しの旅 その1。   2010/ 2/ 5 13:29 [ No.521 ]
投稿者 : mori_keigetu
ろどすたさん、申し訳ありません。今しばらくお付き合い下さい(平身低頭)。
「お題」に対して書いているうちに、ふと過去のろどすたさんの投稿が頭に浮かび、しばしペン(実は指)を置いて読み返しておりました。
当初、ろどすたさんが提起した「平治の乱」のポイントは、No.329

1.平治の乱相関図(なぜ信西が粛清されたのか)
2.三条烏丸御所襲撃と上皇天皇の幽閉(井戸は
官位をもらえるか?)
3.清盛の帰還と反撃
4.戦後処理の虚実(頼朝・義経について)

でありました。
このうち、2と3が私の疑問と重なります。
そしてNo.85において、
>この戦闘における清盛勢の脆弱性は、物語の作者のバイアス、または成立時の社会通年を考慮する必要があるでしょう。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「オチ」探しの旅 その2。   2010/ 2/ 5 14:07 [ No.522 ]
投稿者 : mori_keigetu
ろどすたさんのこのコメントは、「物語史観」にさりげなく警鐘を鳴らすという一貫した姿勢を認める部分です。
そして、No.357
>保元物語の為朝と、平治物語の義平も同様にネタの使いまわしを感じさせられるところがあるように思います。

ここなのですよ(微笑)
為朝の「先手の夜討ち」という進言を退けた頼長、義平の「帰還する清盛の迎撃」という進言を退けた信頼は、共に敗者となって世を去ったというストーリーです。
書き手の感情としての「ここで為朝の言う通りにしていれば、勝ったのに」、「ここで義平の言う通りにしていれば、勝ったのに」という内心の現れなのか、はたまたその逆の「そうならなくて良かった」というものなのか、それとも連続小説として源氏の不運を合わせ鏡としたか、私は判断出来ませんが、少なくとも清盛は脇役です。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「オチ」探しの旅 その3。   2010/ 2/ 5 14:36 [ No.523 ]
投稿者 : mori_keigetu
『保元物語』における為朝、『平治物語』における義平が何を象徴しているのかを解明する必要があるかもしれません。
私は、為朝・義平が共に単身で駆けつけたという点、しかしそれでも、為義や義朝は喜んだというところから、為義・義朝の寡兵を表しているのではないかと考えてしまいます。
むろん清盛も同様。

義朝はなにも義平だけを呼んだのではなく、東国の兵を呼んだはずです。もちろん義平が入京したのは事実でしょうが、残念ながら東国軍団ではなかった。
それは、あたかも『保元物語』における南都からの援軍にも似ています。
実際の清盛は朝廷を守護する軍事貴族として、「漠然とした危ういモノ」を既に察知していたと思います。そこで、ろどすたさん投稿のNo.156を引用させていただきます。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「オチ」探しの旅 その4。   2010/ 2/ 5 14:57 [ No.524 ]
投稿者 : mori_keigetu
>元木泰雄氏は、保元の乱における源義朝の積極性を述べるときに、この義朝の「状況報告」をひとつのポイントととして捉えていますが…
>わたしはむしろ、その裏に控えている忠通や信西の存在に重きを置くことも重要
>義朝の状況報告というのは、忠通や信西が保元の乱の戦略を進めるための情報収集として、前もって命じていたぐらいのことはしていたのではないかと。

「情報収集」…、現代語のように思いますが、決してそうではないと、私も思っています。いや、むしろ現代のように便利な通信機器がないだけに、そしてその収集を怠った場合、ヘタをすると死に直結する時代、彼らの五感は現代人以上に研ぎ澄まされていたと想像します。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


胴体着陸(無理矢理かい!   2010/ 2/ 5 15:35 [ No.525 ]
投稿者 : mori_keigetu
清盛の「熊野詣」という離京から信西急襲とその死。そして、清盛帰還までの経緯と上皇・天皇の脱出から最後の源平激突について「日記」の存在がないという不運。しかし、学問はそういう不運の中で泣き濡れたり、諦めたりはしないと思っています。私はそういう学問の当事者ではありませんが、ろどすたさんやmorikeigetu2さんという知己を得た幸せをつくづく感じています。
この胴体着陸の言い訳(言い訳するんかい!)になるかどうかはわかりませんが、川合 康氏の『源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)の壇ノ浦の段落における一文を引いておきます。

「義経軍における短期決戦は、非戦闘員である女性や子供をも巻き込んで終結したのであり、この悲惨な結末を必然視したり、ロマン化したりすることは決して許されないであろう。」

『物語史観』への痛烈な一撃だと私は受けとめていますが、「文学」の否定ではないと思っています。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


ストレスを溜めては、いけません。   2010/ 2/ 5 16:19 [ No.526 ]
投稿者 : mori_keigetu
光栄にも「お題」を頂戴し、久しぶりに投稿しようという矢先にPCお陀仏。
「妄想」とはつまり、史料が無いがゆえの「悶え」であります。「利用」ではありません。
「お題」に対する答えとなったかどうか…。
「さんざん喋って、胴体着陸かい!」
「はい(号泣)」
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


胴体着陸どころか、墜落でした(泣)。   2010/ 2/ 6 20:58 [ No.527 ]
投稿者 : mori_keigetu
まとめねばなりません。

清盛は、なぜ離京したのでしょう。
座して都の内にあれば巻き込まれる。信頼とは娘が婚約(婚姻?)関係にあるので、断るのは難しい。
信頼がそれを意識しているのは、清盛も感じていたのではないでしょうか。

ろどすたさんのNo.483
>(公教としては)万が一にも清盛が信頼と結ぶようなことがあってはならないという意識もあったと思います。

私も、そう思います。
「では、どうするか」
この時の清盛は「公教」と「信西」に対する二重人格を徹底したかもしれない。信頼と義朝と信西と清盛。この複雑な敵意を含む四角関係の精算と、軍備拡充。木工助家貞の「大殿のお躾」は、まさしく清盛の徴兵行動ではないかと思ってしまうのです。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「妄想」は、ここまで。   2010/ 2/ 7 10:40 [ No.528 ]
投稿者 : mori_keigetu
あとは、新たな『平安遺文』や『紙背文書』のような真正史料が発見されるのを待つしかないのでしょう。
ろどすたさん、迷走させてしまったロードスター号の立て直しをお願いいたします(平に、ひらに)。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「妄想」さらに暴走(苦笑)   2010/ 2/13 20:15 [ No.529 ]
投稿者 : rarara_roadster
携帯電話からの投稿、大変だったでしょう。ご苦労様でした。その後、お加減はいかがでしょうか。
今回けいげつさんの投稿された部分は、平治の乱における初動期の重要な部分でありながら、謎の多いところですよね。
そもそも「平治の乱」は、例えがいささか不謹慎ですが、「保元の乱という激震が引き起こした、揺り返し的な事変」というふうに考えています。

>信頼と義朝と信西と清盛。この複雑な敵意を含む四角関係の精算と、軍備拡充。

この四角関係も保元の乱によって生じたものですが、少し視点を変えてみれば保元の乱が「乱」になった遠因ともいえます。信頼は保元の乱の主要メンバーではありませんが、義朝や美福門院との関係を考えればあながち無関係とは言えないと思います(386)。関係が複雑なものになったのは、そのあたりにも原因があるのではないでしょうか。

>清盛が鼻歌うたいながら「熊野詣」に出発した

おそらく“狐と狸の化かし合い”状態だったのでしょうね。
そこで問題になってくるのが、

>義朝から義平へ「エマージェンシー」が発信されたのはいつか…
>義平だけを呼んだのではなく、東国の兵を呼んだはず

基本的に領地を離れることが出来るものは、すでに義朝と共に京にあったのでしょうね。元木氏は「義平が率いたのは17騎程度」としていますが、これは平治物語の「待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事」あたりを意識しているのでしょう。わたしはちょっと首をひねっていますが、いずれにしても少数であったことは間違いないと思います。

それ以上のものとなると、保元の乱のときのように国家総動員となれば別でしょうが、京と坂東の距離に加え、この時期の坂東武士団の結合の度合いを考えると義平にはこれが精一杯だったのではないかとおもいます。

ただ、問題はそれが何時なのか????
なんですよね・・・。

>藤原公教が動かねばならない事態
>湯浅や熊野の援軍のみならず、公教らの「情報」ではなかったか

そうか!そこまでは考えが至りませんでした。確かに公教の立場からすれば、何時帰るともわからない清盛をボーっと待っているだけではありませんでしたね。
実は公教と清盛のことを書こうとして、いまひとつ書き出しが上手くいかなかったのですが、何か一つ殻が取れたような思いです。
もう一度、改めて考えてみたいと思います。
これは メッセージ 528 mori_keigetu にさん対する返信


おはようございます。   2010/ 2/14 9:00 [ No.533 ]
投稿者 : mori_keigetu
「加減」はですね、周囲から「あんよは上手」と囃される状態。まるで幼児です(苦笑)。
さて…、

>揺り返し的な事変

この「素敵な表現」に、私も暴走を続けるとですね、清盛さんには失礼なのですが、大地震を察知して家から出る鼠を想起しました。

>自分が爆弾の信管である事に気付いていない

信頼は、結局気付かぬまま暴れすぎた?
ろどすたさんの着眼がなければ、おそらく私は素通りしたであろう「藤原公教」。この人、100年後とても有名になってるかもですよ(微笑)。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


追記。   2010/ 2/14 10:45 [ No.534 ]
投稿者 : mori_keigetu
携帯からの投稿というのは、不便ですね。改行とかが不本意な結果になります。読みづらくて体裁も悪いですが、お許し下さい。
さて、「お題」の中に信西との関係が濃密であった事が、乱前において清盛に何らかの影響を与えたかという点ですが、それを考えるためには信西の理想と公教の理想を比較せねばならないかもしれません。信西が公教を高く評価していたのは、ほぼ間違いないと思います。

ただ清盛は、信頼の持つ信管と質は違えども、信西も持っていると感じていたのではないでしょうか。
以下は「妄想」ですが、清盛に「帰還を前提とした離京」を勧めたのは公教かもしれないと近頃思うようになりました。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「雑談」。   2010/ 2/24 21:18 [ No.538 ]
投稿者 : mori_keigetu
今日、まったく別の目的でJR明石駅周辺を歩きました(兵庫県明石市の話ね)。
で、驚くべき「史跡・旧跡」と出会いました。

まず、一ノ谷合戦で逃れて来た平経正の馬を埋めたという馬塚。
忠度と岡部がその川を挟んで戦ったという両馬川跡、忠度の腕塚及び胴塚…。
明石に胴塚があるというのは知っていましたが、腕塚まであるとは、勉強不足でした。
神戸の長田区にある腕塚には行った事があるのですが…。もちろん、経正の墓と伝えられる塚も神戸にあります。
面白いな、と思いました。明石に伝えられる根拠がどこからのものなのか、このトピで「一ノ谷」を展開する頃までには取材をしておきたいなと思います。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 「雑談」。   2010/ 2/24 23:06 [ No.539 ]
投稿者 : rarara_roadster
>今日、まったく別の目的でJR明石駅周辺を歩きました

だいぶん足の具合も良くなられたのかな?と推察いたしております。

あらためて神戸と明石の位置を地図で確認してみました。

距離的な問題はもちろんなのですが、明石のものがいつ頃からあったのか、ということも興味がありますね。

このような言い伝えの場合、かなり後世になって言い出したりする場合もありますし。

さて、いま「保元の乱・平治の乱」河内祥輔(吉川弘文館)という本を読んでいます。

この本は、わたしがいまネタ本にしている「保元・平治の乱を読みなおす」を書いた元木泰雄氏が、この河内氏の本を読んで触発され、また同時に反論も生じて「読みなおす」を書き上げたという、いわく付きの本です。

少々、エキセントリックなので、これまで積極的に使ってはいなかったのですが、藤原公教と後白河の関係をはじめとして興味深い部分もあるので、これからの投稿の参考にしてみたいと考えています。

これから年度末になりますが、なんとか時間を作ってやっていきたいと思います(大汗)
これは メッセージ 538 mori_keigetu にさん対する返信


続・「雑談」。   2010/ 2/25 11:14 [ No.541 ]
投稿者 : mori_keigetu
ずいぶん歩いたと印象を与えてしまったようですね(微笑)。

子午線の通る明石天文台のすぐ近くの歩道に、まず「馬塚」の石標、そから20m足らずのJR高架下に「川跡」の碑。
そこから西へ数十mに「腕塚」、通りを挟んだ南側に「胴塚」という「ひとかたまり」でした。昔、小さな古墳でもあったのかなという感じですね。

ご紹介の本、二冊セットで読むと面白そうですね。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


妄想合体!まとめです。   2010/ 3/24 19:54 [ No.550 ]
投稿者 : rarara_roadster
ここらでけいげつさんとわたしの“妄想”を合体させ、整理してみたいと思います。


A、おそらく、二条天皇譲位が近づくにつれて清盛は、朝廷の中に不穏な空気を感じていたのではないか。それはつまり、後白河と信西の関係が悪化する一方で、藤原信頼が急速に台頭してきたことによる。

1、清盛は、信西とも信頼とも姻戚関係を結んでいた。
2、信頼と連携する軍事貴族のライバル、源義朝の存在

この複雑な関係の中で清盛は対応を模索する。


B、清盛が“武士のセンサー”でAの不穏な空気を感じていたとするならば、公教は“政治家のセンサー”でそれを捉えていたと考えられる。そこで公教の懸念としてAの1及び2があったのではないだろうか。ことに1、の背後にはけいげつさんご指摘のように後白河の政治的意図も考えられる(413)。


C、ならば、公教は清盛に対するアプローチを当然考えたと思われるが、この時期の清盛は、信西・信頼の両者から着かず離れずの距離を置くことによって事態を見据えようとした、とも考えられる。

また、けいげつさんの“(清盛を)決断させたのは、湯浅や熊野の援軍のみならず、公教らの「情報」ではなかったか(520)”を考えると、清盛も朝廷内のことについて、早くから公教を通じて情報を分析していたのではないか。


D、藤原公教は、閑院流ながら美福門院に近い位置にあり、近衛天皇崩御後の後継者選定の王者議定にも参画し、保元新制においては記録所の上卿として信西やその息子とともに、荘園の整理をはじめとする政治の建て直しに奔走した。また、娘を後白河の中宮として入内させている。


E、公教や信西は、中継ぎである後白河の政務においてその中枢を形作るとともに、来るべき二条天皇の親政(と言い切っていいのか?)に向けて朝廷の政治体制、経済基盤などを整備していく役目を帯びていたのではないか。そして、後白河の親政・院政を軟着陸させることが真の命題だったのではないか。


このように藤原公教は、当時の朝廷において政治力の大きい人物で、信西や信頼と距離は置きたいが様子も掴んでおきたい清盛にとって両者のことも含めて、朝廷のさまざまな情報を得るには最適の人物だと言えるでしょう。その意味で、けいげつさんの520は、鋭いご指摘だと思います。

実は、Eについては以前ご紹介した河内祥輔氏の「保元の乱・平治の乱」(吉川弘文館)でも述べられていました。そこでは、鳥羽院崩御後の朝廷内において、Eの事項は貴族の共通認識であったとしています。そのうえで河内氏は、平治の乱の機軸に「皇位継承問題」を据えて、

「後白河はあくまで中継ぎであり、近衛天皇の正統な後継者は後白河の息子二条天皇である。それを定めたのは父である鳥羽法皇だが、元来、天皇は父(祖父)院に対しある種の反感を持っている。鳥羽院が白河上皇に反発したように、後白河もまた鳥羽院に逆らおうとしたのではないか。信西らは今は確かに後白河の政務を補佐しているが、その先に見ているのは二条天皇による政務である。つまり、信西が健在のうちは、後白河による院政の確立はないと考え、鳥羽による二条ではなく、もう一人の後白河の息子である守覚法親王の擁立を目指したのではないか。それで信西を排除しようとしたのが12月9日の事件である」

少々ざっくり過ぎますが、こんな感じです。くわしくは、本をどうぞ(苦笑)。つまり、12月9日事件の黒幕は、なんと後白河自身だと言わんばかりの論調です。

これは氏の研究スタイルにもよるのかもしれませんが、平治の乱を京の中だけで語ろうとしており、元木氏や野口氏の指摘している信頼と義朝の関係などにはまったく触れていません。もっとも、元木氏の本のほうが後発ではあるのですが・・・。

結局、天皇・上皇の意思に集中しすぎてしまうきらいがあり、そこが非常にエキセントリックに感じてしまう原因となります。しかしながら、Eは当時の朝廷の一面として見過ごすことはできない部分だと思い、良いとこ取りの嫌いはありますが、わたしは参考にしています。続く、清盛帰還後の公教の行動にも通じることだと思っていますので、そのあたりを押さえながらまとめたいと考えています。

いささか、無理やり感もありますが、まとめて見ました。いかがでしょう?


「主覚」法親王を守覚法親王に修正
これは メッセージ 548 rarara_roadster さんに対する返信


「清盛の帰還後」に向けて。その1   2010/ 4/ 4 18:59 [ No.560 ]
投稿者 : mori_keigetu
悲しむべきは、史料の欠落ですね。

しかしながら、少なくとも何らかの目的によって清盛が都を出ていた間に、信頼・義朝が平治元年(1159)12月9日謀反を起こし、三条烏丸御所を急襲・放火。男女を問わず多数を殺戮し、後白河上皇と上西門院を内裏の一本御書所に幽閉、自らも内裏にあって二条天皇のもとに除目等を行う。それと並行して、間一髪で都を脱出した信西(これもまたナゾのひとつですが…)を追跡・殺害(自害とも)し、その首を西獄門の樗の木に晒す…。

こういう激しい初動のあと、彼らの動きはピタリと止まる(かのように見える)。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「清盛の帰還後」に向けて。その2   2010/ 4/ 4 19:20 [ No.561 ]
投稿者 : mori_keigetu
おそらく三条烏丸あたりの焼け焦げた火事場のにおいが、いまだに充満している中で、人々が息をひそめて「どうなるんや。一体、どうなるんや」と上目遣いに事の推移を窺っている状態のまま、さしたる事もなく、清盛が六波羅に帰還するのですね。

さて、入京する清盛にとって最も重要なのは何だったのだろうと考えると…。
私は、信頼・義朝らに疑われない事、だったと思います。

『物語』あるいは『愚管抄』においても※、清盛は帰還後に敵意のない事を示すため名簿を差し出したとありますが、そんな事は、おそらく都に入る前に済ませていたと、私は思います。むろん、湯浅や熊野の援軍があったとしても、それらはどこかに待機させていたでしょうし、公教らとの入念な打ち合わせが、すっかり終わった時点での入京だったと考えます。(※追加修正)
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


「清盛の帰還後」に向けて。その3   2010/ 4/ 4 19:39 [ No.562 ]
投稿者 : mori_keigetu
公教は、たぶん不眠不休の機密活動を行っていたのだと妄想しています。
彼は、翌永暦元年(1160)7月に58歳で急逝します。※(8月を7月に修正)
50代後半における彼の活動は、その命を縮めるに何の不思議もないものだったのかもしれません。
藤原公教のこと、もっと深く知りたいと思う今日この頃です。

さて、これで妄想は終わり。ろどすたさんの「妄想合体!まとめ」は、私の妄想によってキリモミ状態になったロードスター号を、見事に立て直して下さったと感謝する事、この上もありません。

ろどすたさん、しばらく無沙汰をいたします。
このあとの雑談は、「青空」で(微笑)。

※『物語』では…の部分、<<『物語』あるいは『愚管抄』においても>>に訂正。
※公教の急逝は7月ですね。
大変失礼いたしました。
これは メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


長らく失礼をいたしました。   2010/ 4/21 18:24 [ No.578 ]
投稿者 : morikeigetu
P/Cも使用可能となり、足の方もずいぶん良くなりました。
ろどすたさんやmorikeigetu2さんには大変お世話になり、またご迷惑をおかけしました。
ろどすたさんの大作『web版・保元から壇ノ浦まで』のおかげで、参考にしたい過去の投稿も簡単に見つける事が出来るようになりました。

さて、再開の号砲をろどすたさん、お願いいたします!


再開の号砲・・・   2010/ 4/22 22:03 [ No.579 ]
投稿者 : rarara_roadster
ともかくお疲れ様でした!

「再開の号砲」といきたいところですが・・・
すみません。大砲の弾丸の装填が遅れています(謝)

目標は、惟方・経宗をロックオンしているのですが・・・。
これは メッセージ 578 morikeigetu にさん対する返信


作戦スタート!   2010/ 4/29 14:18 [ No.581 ]
投稿者 : rarara_roadster
前回までの議論において、公教と清盛は、以前からお互い情報交換をしながらきな臭い朝廷の不穏な動きに対し、それぞれ危機管理を行っていたのではないか、という方向にまとまりました。

その結果、公教と清盛は、信頼の起こした「三条東殿焼討ち」という暴挙の鎮圧行動、そして天皇・上皇を奪還し、正常な政治空間を復活させることを決意します。

公教にとって、信頼の起こしたことはこれまでの朝廷内における規定路線の破壊、つまり、鳥羽院の遺志のもとで信西とともに行ってきた保元新政の否定にほかなりません。しかも、それは源義朝らの武力による行動である以上、対抗措置として武力の裏づけなしには鎮圧行動も不可能です。それもできるだけ短期間に決着を図る必要があります。

当時、清盛率いる平家が最大の武門とはいえ、義朝もそれに次ぐ武力を有しています。従って、戦いを優位に進めるには、“戦の根回し”が必要になります。

公教らがとった作戦は、「藤原信頼、そしてだれもいなくなった作戦」です。

以下ゴールデンウィークに続く予定(苦笑)
これは メッセージ 579 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 作戦スタート!   2010/ 5/ 5 22:31 [ No.583 ]
投稿者 : rarara_roadster
公教らの反撃を考えたとき、清盛の帰京からわずか一週間後に二条天皇の脱出を敢行しているということが、あまりに手際が過ぎるという印象がありました。

しかし、前述のように公教と清盛が早い時期から提携関係にあり、もしもの場合の危機管理計画について共通認識を有していたと考えると、決してそのようなことは無いといえるでしょう。

公教が、惟方や経宗を迅速に味方に引き込んだのは、おそらく既定の行動だったと思います。

惟方や経宗の略歴は424に書き込みましたが、惟方は「夜の関白」藤原顕隆の子顕頼の次男で、代々白河・鳥羽院政の中枢に関与する程の家系でした。しかし、父親の顕頼が早世したため、その地位をすぐに継ぐことができず、そこを信西に割り込まれたことになります(407)。

惟方は、保元新制において記録所の弁官として信西の子俊憲とも一緒でした(403)が、今を時めく信西親子の様子を横目に見ながら、来るべき二条政権下において信西一門が栄華を誇ることへの危機感と不満を募らせていたものと思われます。

さて、公教の「そして誰もいなくなった作戦」ですが、そもそもこの反信西勢力自体がはっきりとした形を持っていたものではなかったのではないでしょうか。またまた妄想になってしまうのですが、保元の乱以降、朝廷内に信西に不満を持つ人たちのサロンのようなものが形成され、そのなかで中心となっていたのが、惟方・経宗などといった人物ではなかったかと考えています。

そして550のように当時の朝廷内の基本意識として「後白河=中継ぎ、二条=真の後継者」というものがあったとすれば、自然と発言の大きくなるのが惟方・経宗といった二条側近の連中だと思います。

公教は、内大臣・左大将という職にあり、また、記録所の上卿として信西や惟方の上司にあたるわけですから、当然このような空気は感じていたはずです。ただ、不満だけで終わっていればまだ問題は少なかったでしょうが、ここに藤原信頼が加わったことにより、話が変わってくることになります。

信頼が後白河の寵臣であることは、朝廷内の誰もが知っていることです。この時期、後白河と二条の関係はまだ悪化しているとは言えませんが、“中継ぎ”の寵臣が、“真の後継者”の支援団体に近づくということは、やはりきな臭いことに違いはありません。ただ、惟方が信頼を引き込んだのか、信頼が惟方に接近したのか(一応、伯父甥の関係ではありますが)、となると、そこは不明ですねぇ・・・。

以前、433を投稿したときには惟方らが積極的に「武力クーデター」を企んだと考えていましたが、最近は9日の事件について、はたして惟方や経宗がどこまで積極的に関与していたのか疑問を持っています。この二人は、公教の工作により即座に寝返ったと考えられますが、よく考えると、あまりに変わり身が早すぎるきらいがあります。そこで以下のような仮説を考えてみました。

まず、

・反信西のサロンは、“反信西”の意識はあっても具体的なビジョンは持っていなかった。
・信頼も加わったが、清盛の動向がいまいちハッキリしない。
・そうこうしているうちに二条天皇が即位。

ここで一番ポイントになるのが、清盛の動向なんですね。信頼は清盛と姻戚関係があるとはいえ、どうもいまひとつはっきりとしない。記録所の弁官の一人である惟方には、当然のごとく公教の動向も気がかりであったでしょう。すると、清盛が熊野詣のために京を留守にするという情報が入った。

ここで信頼と、惟方・経宗の意見が分かれ、もしくは、暴発気味に信頼が行動を起こしてしまったのではないか、という仮説です。

すみません。ゴールデンウイークを利用してもっと書き込む予定だったのですが、一旦ここまでとします。
ごめんなさい。
これは メッセージ 581 rarara_roadster さんに対する返信


「作戦」了解!   2010/ 5/ 7 13:16 [ No.584 ]
投稿者 : morikeigetu
「そして誰もいなくなった作戦」とは、言い得て妙。

ろどすたさんが藤原惟方・経宗をこの時点でロックオンされたのは、正解だと思います。
「平治の乱」の不思議のひとつに、信頼・義朝らによる三条殿焼討ちと信西梟首の後の彼らの行動停止があります。

事実がどうであったのかは知るよしもありませんが、少なくとも現在の史料において、彼らがその後、自分達の行動を正当化するような政治を行った形跡はうかがえないし、戒厳的な布陣を徹底した様子もありません。
ろどすたさんのお言葉をお借りして言うならば、「サロン的発想による謀叛」に、勢力的には清盛に劣るが武力・殺人能力に勝る義朝の参加によって惟方・経宗らにすれば、結果的に「非戦闘員に対する大量殺戮」となった軍事行動に「引いて」しまった可能性はあるかな、と。
公教はもちろんですが、惟方も教宗も当時の貴族として「政治意識」はあったと思います。
結局、信頼・義朝には、その後の

>具体的ビジョンがなかった

事が、清盛帰還を許してしまったのかもしれません。

そして、この時点における「信親」の存在に対する信頼と清盛の「見解の相違」も、ある意味重要なファクターのような気がします。
これは メッセージ 583 rarara_roadster さんに対する返信


ジョーカーの使い方   2010/ 5/10 22:58 [ No.587 ]
投稿者 : rarara_roadster
>惟方・経宗らにすれば、結果的に「非戦闘員に対する大量殺戮」となった軍事行動に「引いて」しまった可能性はあるかな

まさに「そこ」を考えています。そして、公教がそこにつけこんで惟方・経宗を引き込むことに成功したのではないでしょうか。その大きなポイントとなるのが、「平清盛」その人だと思います。

結局最後まで清盛を完全に取り込むことが出来ず、清盛の留守をついて決起した信頼ですが、嫡男信親のこともあり、事を起こしてしまえば清盛も味方につかざるを得ないだろうという目論見だったのかもしれません。しかし、予想以上に信頼・義朝はやり過ぎてしまった。

そこに公教が近づいて、

「あのな、大宰大弐の熊野みやげ、あんたらには無いで・・・。そこんとこ、よう考えや(にやり)」

などと耳元で囁かれた日には、二人とも「Oh!My god!」

もちろん、公教自身も清盛との提携がなければ惟方・経宗を引き込むことが出来なかったでしょう。

結局、信頼はエースのカードを三枚手に入れることに成功しました。しかし、公教は早くから「平清盛」という“ジョーカー”を隠し持っていたため、信頼のエースをすべて取り上げることに成功します。

さて、エースのカード。残りの一枚は何処に(含笑)
これは メッセージ 584 morikeigetu さんに対する返信


平安ラスベガス(手持ち札の応酬)。   2010/ 5/12 18:28 [ No.588 ]
投稿者 : morikeigetu
『公卿補任』二条院の保元4年(1159)の要略を見ると、

「4月20日に改元されて平治元年となる。2月13日に皇后宮を上西門院と為し、同21日に中宮を皇后宮と為す。(中略)12月10日、太上天皇(後白河)の御所が焼亡、26日に主上(二条)は太宰大弐清盛の六波羅宅に臨幸した」と記します。

いささか煩雑になりますが、この時の「閣僚」メンバーを列記しておきましょう。

太政大臣従一位・藤原宗輔(83歳)
左大臣正二位・藤原伊通(67歳)
関白右大臣正二位・藤原基実(17歳)
内大臣正二位・左大将・藤原公教(57歳)
大納言正二位・藤原宗能(76歳)
権大納言正二位・藤原重通(61歳)
同・右大将・藤原公能(45歳)
同・季成・(48歳)
同・経宗(41歳)
権中納言従二位・左中将・藤原基房(16歳)
中納言正三位・藤原忠雅(36歳)
権中納言正三位・源雅通(42歳)
同・藤原伊実(35歳)
同・藤原光頼(36歳)
同・藤原実定(21歳)
同・藤原雅教(47歳)
同・藤原信頼(27歳)
同・藤原師仲(44歳)

以下に続く参議の中に惟方や、信西の子の俊憲の名が見えます。
ここで気付くのが、太政大臣以下大納言までが、関白右大臣の藤原基実17歳という極端な若年以外、すべて60歳以上という高齢であるという事です。公教の57歳という年齢に、逆にほっとするような安堵感をおぼえます。
公教の存在感は、おそらく自他ともに認めるものであったのではないでしょうか。
経宗や惟方に「oh! my god!」と叫ばせる事など、公教にすれば朝メシ前だったと思います。
『新・平家物語』では、権中納言藤原光頼をして、信頼に一発ガツン!とやらせていますし…(微笑)

そもそも経宗や惟方は、二条天皇親政グループであったわけですから、その意味で信西とて、彼らの真の敵ではなかったはずです。
木を見て森を見る事の出来なかった彼らを寝返らせるのは、公教にすれば簡単な事だったのかもしれません。

さて、熊野詣と称して都を離れた清盛が帰京したのは、12月17日。
信頼・義朝らは、内裏という密閉された空間に、天皇・上皇を取り込んで閉塞してしまっています。そうする事が、一番安全だと考えたのでしょうか。
義朝としては、200〜300という軍勢の大半を内裏の守護に割かねばならず、天皇・上皇を手中にして天下をとったような気分の信頼を横目に、貧乏ゆすりの毎日ではなったかなと思います。もちろん、東国の兵を徴集出来ていないため、義平の進言のような清盛迎撃も不可能であったでしょう。
むしろ、義平は「六波羅を討つ」と言ったのかもしれません。
しかし、そこで信頼の制止に」あったのでしょう。
「わしの息子が、婿入りしてますんやで」

妄想ですが、公教は清盛帰還の前に、
「彼(清盛)に敵意がないこと」を、情報として信頼の耳に入れる事くらいはしていたのではないでしょうか。
もちろん義朝のセンサーはそれを疑い、清盛の動向には神経をつかっていたでいたでしょうが、「信親」カードに対する信頼の過信が、義朝の不安を取り上げなかった。そして、その信頼の過信はおそらく、公教のリークが大きく作用しているのではないでしょうか。

帰還した清盛は清盛で、その証拠として「信親」を丁重に信頼の元へ届けさせます。つまり、「信親」を人質にするのではないという態度ですが、清盛にすれば、
「もう、このカードは、いらんな」
てなところでしょう。

内裏という広大な大本営に閉じこもったため、自らの五感を失ってしまった義朝は、検非違使別当惟方や源頼政らを駆使して情報収集をしたのでしょうが…。

公教、恐るべし。
これは メッセージ 587 rarara_roadster にさん対する返信


静かな戦   2010/ 5/17 18:44 [ No.589 ]
投稿者 : rarara_roadster
それは清盛の帰還した17日、いや、三条東殿が焼けた9日直後から始まっていたと言ってもいいでしょう。

公教の抜き放った刃は、ゆっくりと、しかし確実に信頼の喉もとに迫っていきます。


作戦名「そして誰もいなくなった」


平治の乱の本質は、ここにあるのかもしれません。
これは メッセージ 588 morikeigetu さんに対する返信


「フツー(普通)」に考えてみます。   2010/ 5/19 14:42 [ No.590 ]
投稿者 : morikeigetu
平治元年(1159)12月17日の時点で、信頼・義朝が内裏に閉塞しているとはいえ、清盛が離京した時の都とこの12月17日の都は、明らかにその様相を異にしています。

内裏と六波羅との距離は、直線距離にして5km程度。
いくら義朝が直接的に六波羅を監視出来ていないとはいえ、「やんや、やんや」の歓声のの中、お祭り騒ぎのように六波羅帰還したわけではないと思います。
「とにかく、彼ら(信頼・義朝)を刺激しないように…」
と、公教が清盛に申し含めたかどうかはわかりませんが、「信親の返還」と「名簿の提出」という、見ようによっては、極めて平身低頭な恭順の態度をこの時点の清盛は示します。
もしかすると、洛外(淀や宇治にあたり)から、六波羅帰還の「おうかがい」くらいしているかもしれません。
そして、その伝達者は公教でありましょう。
信頼側から出された条件が、「信親返還」「名簿提出」だったのかどうかは知るよしもありませんが、帰還に先立つ条件が信頼側から出された可能性はあると考えています。
公教がそれを清盛に伝える時、もしかすると清盛は激怒するかもしれないと、びくびくしながら伝えたかもしれません。
ところが、清盛はそれらの条件を、いとも簡単に受け入れた……、のかもしれません。
この時点で、公教は清盛に対して舌を巻いたかな。
だからこそ、このあとの重大作戦が、清盛に対する絶大な信頼のもとに決行されたのではないかと思います。

二条天皇の六波羅入りの後、後白河をはじめ主要な人々が続々と集結した事は、清盛の軍備がそれほどまでに充実した事を示すと考えます。
私は、これこそが清盛離京の成果だと思うのです。
湯浅・熊野のみならず、伊賀・伊勢・大和…。
おそらく、二条天皇脱出成功と同時に、洛外待機していた軍勢が一斉に六波羅を固めたのではないでしょうか。

『愚管抄』の著者が、源平激突の際の清盛の様子を、

「時ニトリテ、世ニ、タノモシカリケレ」

と記した感想は、その時六波羅に集まった人々の共通の思いであったのではないかと考えます。
そしてそれは、保元の乱の時の300という清盛の勢力を、はるかに上回るものになっていた事を示していると思うのです。

これこそが、奇跡的・偶発的ではない、清盛の「熊野みやげ」ではなかったのかな…と。
 



これは メッセージ 589 rarara_roadster にさん対する返信


18日と25日   2010/ 5/19 23:39 [ No.591 ]
投稿者 : rarara_roadster
「信親返還」と「名簿提出」について少し見てみます。

グーグルで「清盛・信親・名簿」といったキーワードで検索をかけてみると、平治の乱をテーマにしたブログやHPがいくつか引っ掛かります。

それらの記事を見てみると、Wikipediaを筆頭として「25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した」というように、名簿の提出と信親の返還を、あたかも同時のように捉えていました。

以前けいげつさんが413「信親」で紹介されたように、信親の返還は「平治合戦の時、六波羅入道、南山より帰洛の翌日、聟の侍従信親(信頼卿の息)を父の許に送り遣はす」と古事談にあり、一応Wikipediaにも注釈として記述してありました。そして愚管抄では、公教が書いた名簿を清盛の郎従家貞が携え、25日の早朝、つまり六波羅行幸当日の朝に信頼に提出した、とあります。


わたしも、この古事談・愚管抄の時系列の方が、作戦として納得できると思います。

熊野帰洛と同時に信親を送って、信頼に対し敵愾心がないことを表明する。

それにより、信頼の警戒心を緩めさせ、公教の政治工作の時間を稼ぐことができる。

そして、※本作戦決行直前に名簿を提出してダメ押しをしておく。

というふうな感じですね。



>帰還に先立つ条件が信頼側から出された可能性はあると考えています。

確かにその可能性も考えられますね。しかし、案外清盛や公教にしてみれば、「あー、信頼墓穴堀よった」と小さくガッツポーズ(by忠通)したかもしれません。


>二条天皇の六波羅入りの後、後白河をはじめ主要な人々が続々と集結した事は、清盛の軍備がそれほどまでに充実した事を示すと考えます。

同時に六波羅が臨時とはいえ皇居となったことの“相乗効果”もあったでしょうね。それまで日和見だった武士たちも「官軍」の名の下にぞくぞくと参集したことでしょう。

>保元の乱の時の300という清盛の勢力を、はるかに上回るものになっていた

実質的な意味において、保元の乱の時の勢力を上回ったのは間違いないでしょうね。保元の乱の時は、あくまで「公的な武力」としての300。今回は、「官軍」という立場に加え、「皇居の提供者」としての立場を兼ねていますので、その影響は保元の乱の時とは比べ物にならないほどかもしれませんよ。


※「本作戦結構直前」 を修正
これは メッセージ 590 morikeigetu さんに対する返信


18日から25日。   2010/ 5/22 19:24 [ No.596 ]
投稿者 : morikeigetu
「フツー(普通)に考えて」に誤りがありました(苦笑)。
「フツー(普通)に妄想してみます」でしたね。

ろどすたさんの仰る「18日と25日」の時系列は、そこしか判明(100%ではないが)していないけれど、非常に重要だと思います。
この8日間が、「平治の乱」における最も濃密な時間のようです。

以前、ろどすたさんと「保元の乱」を総括した時(bR22・324・329等)、「変に近い乱」という結論を得ましたが、bR29でろどすたさんが、

>平治の乱は、人物の相関図が複雑で(中略)、そのあたりを掘り下げておかないと、乱そのもののなりたちがあやふやになってしまう。

と仰ったように、当事者達の立ち位置(思惑?利害?)が転々とする。

こうして話を進めてきて、ふと思ったのですね。
「平治の乱」と、ひとことで言ってしまっていいのかな、と。

前半は「藤原信頼の乱」あるいは「三条御所の変」、そしてこの18日からが「平治の乱」ではないのだろうか…とね。

公教とて、日記はつけていただろうに…と思う。
『物語』を濾過しながら、妄想するしかないのでしょうか(悔)。
これは メッセージ 591 rarara_roadster さんに対する返信


雑談、『平家の群像』。   2010/ 5/28 20:39 [ No.600 ]
投稿者 : morikeigetu
家にある、古い本ばかりペラペラと読んでいるとですね、突然「新・活字禁断症」が起きます。

ペラペラと申しましたが、歳をとると指の水分というか油分が枯渇して、新聞や本をペラペラとめくる事が出来なくなるのですね。
だからといって、指を舐めるという動作だけはしたくない。
かつて紙幣を(他人様の)数えるという仕事をしていた時、「メクール」という滑り止め小道具…(当時は「海綿」というのが当たり前でしたが)、が発売され非常に重宝したのを思い出し、100均に行くと…、ちゃんと売っているのですよ。
で、嬉々としてそれを購入し、禁断症状を緩和すべく大規模書店に足を運びました。

物色するうちに、目に飛び込んだのが『平家の群像』という文字。
筆者は高橋昌明氏。
ん…?
と思ったのですね。
家の本棚には、安田元久氏の『平家の群像』がある。
え…?
と、本当に声を出してしまい、その本を手にして目次から序章の数ページを読んで、私はまるでカブトムシかクワガタムシを捕った子供のようにレジに向かっていました。

学問は大丈夫。
まだ、脈々としています。
これは メッセージ 596 morikeigetu さんに対する返信

いよいよ「平安大脱走」じゃ

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