保元から壇ノ浦まで


Re:激闘の始まり その2   2008/ 6/18 19:43 [ No.156 ]
投稿者 : rarara_roadster
「為朝の馬」

なるほど。

確かに父親の為義が心配だというのもあるかもしれませんが、馬の能力というのはリアルですね。現実の戦の中では「馬の能力」は重要なファクターですから。

ところで、合戦の“場面”はひとつひとつがパラレルに進行していたとしても、それらに一連の流れを持たせるのが作者の脚色であり力量といえるでしょう。そこに「軍記物」の真骨頂があると思います。

ただ、戦闘状況の推移といえば、愚管抄に「時々剋々只今ハト候 カウ候トイササカノ不審モナク 義朝ガ申ケル使ハハシリチガイテ ムカイテ見ムヤウニコソヲボヘシカ」とあります。

元木泰雄氏は、保元の乱における源義朝の積極性を述べるときに、この義朝の「状況報告」をひとつのポイントとして捉えていますが、わたしはむしろ、その裏に控えている忠通や信西の存在に重きを置くことも必要と思います。

つまり、義朝の状況報告というのは、忠通や信西が保元の乱の戦略を進めるための情報収集として、前もって命じていたぐらいのことは、していたのではないかと。

>上皇方が南都からの援軍を頼みにしていた
>東及び南方面を押さえられる事に対しては無抵抗ではなかった

これらは、天皇方の最も危惧する事項だったわけで、万一その兆候が見えるようなことがあれば、電光石火の対応が必要になってきます。たとえ清盛勢を配していたとしても、油断はできません。そのためにも戦況の推移を把握するということは、参謀(信西)として絶対条件であったでしょう。戦局の推移はすなわち政局の推移ですから。

そしていよいよ、義朝VS為朝の戦いになります。
メッセージ 127 morikeigetu さんに対する返信


『激闘の始まり その3』   2008/ 6/20 18:51 [ No.161 ]
投稿者 : morikeigetu
>義朝の戦況報告というのは、忠通や信西が保元の乱の戦略を進めるための情報収集として、前もって命じていたぐらいのことは、していた…

確かに忠通はともかくとしても、信西は押さえていたでしょうね。
あの出陣の際の「焦り」は、とにかく一刻の猶予もならぬという態度でありましたし、その根拠は南都からの援軍に対する恐怖もさる事ながら、結果的に義朝と為朝の作戦が同じであったという事…。
もちろん『物語』上の「ものがたり」かもしれませんが、
”ヤツならやりかねん”
”オレならそうする”
という義朝のプロの予感が、信西の恐怖になっていたかもしれません。

遡って、あれほど入念に練り上げた「保元の乱」です。
上皇方に兵を挙げさせて終わりのはずがありません。
詰めて詰めて、詰めきった戦略だったでしょう。それを御破算にするのが南都からの援軍だったとすれば、清盛・義朝・義康に続き源頼政・重成、平信兼らを二陣として次々と出陣させ、直接的「砲弾」としての義朝からの状況報告を受けながら、信西が待っていたのは自分からは言えない「火をかける」というキーワードだったのかもしれません。

信西は、このセリフを清盛は言えないという事すら承知していたかもしれません。
メッセージ 156 rarara_roadster さんに対する返信


ただいま激闘中(苦笑)   2008/ 7/ 2 22:30 [ No.164 ]
投稿者 : rarara_roadster
すみません(大汗)
近いうちにちゃんと投稿します。

「なにい?伽藍が心配?なかなか殊勝やないかいな。
心配せんかて燃えたもんはまた建てたらよろし。どハデにやりなはれ。」
と信西さんがおっしゃっているようです。
怪しい関西弁ですみません。
関西の人ごめんなさい(ぺこり)
メッセージ 161 morikeigetu さんに対する返信


陣中お見舞い。   2008/ 7/ 2 23:32 [ No.165 ]
投稿者 : morikeigetu
お忙しい中、引き上げて下さり、ありがとうございました。

3時間ほど前に見た時、下から3番目になっていたので少し怠け過ぎたなと思い、このところ散乱気味であった史料を整理し始めていました。

…で、まあいいや、天気予報でも入れておこうかと開いてみると、ろどすたさんからの投稿でした。

何度助けられた事か。
本当にありがとうございます。
メッセージ 164 rarara_roadster さんに対する返信


『激闘の始まり その4』   2008/ 7/11 6:45 [ No.168 ]
投稿者 : morikeigetu
7月11日、陽暦と重なりました。
夏至は過ぎているので陰暦7月11日とは多少夜明けのタイミングはズレるのですが、今朝の午前4時半頃は曇り空ながらそこそこ明るい。
居残りコウモリが数匹飛びかっていました。

さて1156年陰暦7月11日午前4時頃、為朝に追いまわされた鎌田政清が鴨川西河原に控えていた義朝の元に戻り、やがて義朝みずから為朝の前に進軍します。

宣旨と院宣という互いの大義名分を唱え、一方が兄に弓引く非を責めれば、また一方は父に敵対する不孝を問う…、まさに「保元の乱」の縮図です。
義朝と為朝の距離は『物語』によれば5段(約55m)。
為朝は一矢で射落とす自信を示しますが、ふと父為義と兄義朝が敵味方にわかれたのは何か理由があるのかもしれないという思いを抱き、わざと矢を外すという行動に出たといいます。
放たれた鏑矢は、大音響とともに義朝の兜の星を削り、後ろの宝荘嚴院の門扉に深々と突き立ったとあります。

わざと外した矢を「腕が悪い」と義朝に言われた為朝は、
「ほんなら、顔でも胸でも当ててほしいとこを言え! 言うてみい!
思っクソ当てたるわ!!」
…、ま、くだけて読めば、果てしない兄弟喧嘩でありますね。
これはヤバいと感じたか、義朝は聞こえぬフリをして陣の中にまぎれます。

このあたりが午前5時頃とすれば、ここから約3時間、主として義朝軍と為朝軍の激突が続き、白河北殿の諸門においても戦闘が開始され、上皇方は兵力的に劣りながらも善戦…、いやどちらかというと天皇方を圧倒するかのようです。
『物語』はその後しばらく義朝配下の武士達と為朝軍との個々の戦いを述べていきます。
聞きなれた坂東武者の名、そして為朝配下の「異形の者達」が次々と登場します。


『激闘:首級を挙げる その1』   2008/ 7/12 17:15 [ No.169 ]
投稿者 : rarara_roadster
>『物語』はその後しばらく義朝配下の武士達と為朝軍との個々の戦いを述べていきます。
>聞きなれた坂東武者の名、そして為朝配下の「異形の者達」が次々と登場します。


では、その中から平家物語でも有名な「斉藤実盛」と、異形武者「悪七別当」の“別当決戦”について少々。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
斉藤別当すきまもなく懸よせたれば、悪七別当、太刀を抜て、斉藤が冑の鉢を丁どうつ。うたれながら実盛、内冑へ切前上りに打こみければ、あやまたず悪七別当が頸は前にぞ落たりける。実盛此頸を取(っ)て、太刀のさきにつらぬきさしあげて、「利仁将軍十七代後胤、武蔵国住人、斉藤別当実盛、生年卅一、軍をばかうこそすれ。我と思はん人々は、寄合や<。」とぞよばゝりける。
-------------------------------------------------------------------------------------------------

実盛は、兜に打撃を受けながらも「悪七の首級を一刀のもとに切り落とした」とあります。ところで、この保元物語に限らず、軍記物の合戦描写のなかでは、敵の首級を取る場面が多く描かれています。中には主人が倒した敵に駆け寄り、従者が首を切り取るという場合もあるようですが、いずれにせよ、乱戦の中で敵の首を掻き斬るということは容易なことでは無いようです。

この、“別当決戦”でも、「一刀のもとに切り落とし」たというよりも、実際には「一刀のもとに倒した別当の首級を切り取り」ぐらいの時間が流れていたのかもしれません。もちろん、「一刀のもとに切り落とした」可能性を否定するものでもないんですけどね。

ところで、この保元の乱からすこし下った時代になりますが、実際に合戦で討たれた首級が現存しています。それが、平泉中尊寺金色堂に眠る奥州藤原氏四代泰衡の首級です。この首級は、当初中尊寺の寺伝では泰衡の弟忠衡の首級であるとされていましたが、昭和25年3月に朝日新聞文化事業団と中尊寺の共催で、金色堂の藤原氏四代のミイラに関する学術調査が行われ、実は「四代泰衡」の首級であったことが判明しました。

っと、「話が長いわい」とYahooさんに叱られましたので分割します。
メッセージ 168 morikeigetu さんに対する返信


Re: 『激闘:首級を挙げる その2』   2008/ 7/12 17:17 [ No.170 ]
投稿者 : rarara_roadster
その首級には、吾妻鏡文治5年9月6日条にある安倍貞任にならって首級を釘打ちにした痕跡とともに、彼が河田次郎に裏切られ、おそらく奮戦むなしく首級を挙げられるまでに受けたであろう多くの傷跡が生々しく残っています。泰衡の首級を調査された東京大学助教授:鈴木尚医学博士(当時)が調査報告書に書かれた中から引用しましょう(引用元:中尊寺と藤原四代(中尊寺学術報告書)昭和25年8月朝日新聞社刊)。※注意・・・報告では、初め寺伝にそって「忠衡」となっています。

(引用)
眉間の左には縦1.8センチ、横1.5センチの楕円状の孔(外孔)があり、前頭洞後壁を貫いて脳頭骨腔に達する(内孔)。(略)後頭骨正中線より少し左によって第3切創の直上に円い小孔がある。脳頭骨腔に向いた入り口は直径1.2センチであるが、骨の外側の方に漏斗状に拡がっているので、ここでは直径約2センチある。(略)したがって何等かの利器を眉間より後頭に向かって打ち込んだことになるが、その利器の形状は両刺創の距離が18センチ(約六寸)あるから、直径約1センチ、長さ18センチ以上の極めて細く長い、ちょうど釘のようなものということになる。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
頚椎 第一より第四頚椎まで頭骨から遊離して発見されたが、総計五箇所の切創があった。第一頚椎:異常はない。第二頚椎:三箇所の切創がある。この切創の位置から判断すると、加害者は「忠衡」の首を切るべく、後方から二回太刀を加えたが、両回とも成功はしなかった。しかもそのうちの一回は太刀先が外れて、骨の左側面に第三の深い傷を与えた。この創の位置から考えると、左頚動脈は確実に切断され、同時に頭部の大血管をも切断したであろうから、仮にその時まで「忠衡」が生きていても、この創は正に致命傷であったろう。第三頚椎:異常はない。第四頚椎:「忠衡」の首は実に第四頚椎推体の上面すれすれに切断されたのである。但しこの場合も一回で成功したのではなく、「忠衡」の首の右側と左側とからそれぞれ一回ずつ太刀を加えて、遂に首が落ちた。
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彼は恐らく河田次郎に急襲され、その際多少の傷は受けたであろうが、致命傷となるには至らず、結局捕らえられた。河田は直に首を切ろうとしたが、(泰衡が)頭を動かすので、幾度か失敗したが、第五回目の創が致命傷となって、遂に首を落とすのに成功した。この首が源氏側に差し出されると、頼朝は刑罰として耳と鼻を削いだ後に、釘打ちの刑に処した。その後何等かの経緯を経て、泰衡の首が藤原氏の手に渡ると、遺族によって創は丁寧に縫合され、更にその上から創を押さえるように包帯がされ、第四代の家督相続者なるが故に金色堂内に安置された。
(引用終わり)

厳密に言えば、泰衡の場合は合戦の最中に首を討たれたわけではありませんが、それでも五太刀目にしてようやく胴から首が離れたことがわかります。合戦のさなかでは、いたるところでこのような場面が展開されていたのでしょう。
メッセージ 169 rarara_roadster さんに対する返信


とばっちりを受けた人(苦笑)   2008/ 7/25 20:05 [ No.173 ]
投稿者 : rarara_roadster
美福門院のいとこで院近臣の中納言藤原家成

頼長には邸宅を破壊され(仁平元年(1151))、保元の乱においては、義朝に白河殿焼き討ちのため火をかけられ・・・。

ご愁傷様です・・・
メッセージ 170 rarara_roadster さんに対する返信


激闘のさなか。   2008/ 8/ 3 11:48 [ No.174 ]
投稿者 : morikeigetu
>それでも五太刀目にしてようやく胴から首が離れたことがわかります。合戦のさなかでは、いたるところでこのような場面が展開されていたのでしょう。

「平安絵巻」とか「源平のロマン」とか様々な言葉で修飾されますが、合戦ともなると、まさしく”このような場面”ばかりの連続であったでしょう。
激闘の一例としてろどすたさんが挙げて下さった「別当対決」は『古活字本保元物語』にあり、悪七別当の首がいとも簡単に”前に落ち”ます。
斬首の場などで討たれる側がよほど素直に首を差し出さぬ限り、人の首をたやすく打ち落とす事は難しいでしょうし、たとえそれでも難しいという事を、近いところでは三島由紀夫氏の事件が証明しています。
また、吉川英治氏の『新・平家物語』でも、保元の乱後に平忠正らを処刑する場面で、時忠が討ち損じる場面が描かれています。
「合戦」というものをテーマにして平静に展開していますが、実際はそういうものなのだという事を、あらためて肝に銘じつつ続けていきたいと思います。

さて『物語』から、ざっと激闘を挙げてみましょう。
大庭平太景義・三郎景親VS為朝(景義、右膝負傷)
金子十郎家忠VS高間四郎・三郎(高間兄弟、討死)
関二郎・志保美五郎・岡六郎VS為朝(志保美五郎、討死)
根井大野太VS首藤九郎(根井大野太、討死?)
振津神平VS三町礫紀平次(紀平次、重傷)
木曽仲太・野仲太VS遠矢源太・大矢新三郎(双方負傷)
桑原・安藤二VS悪七別当(桑原・安藤二、負傷?)

以上、日本古典文学大系『保元物語』

コメントとして、
「矢庭にいらるるもの五十三人、疵を蒙る者二百余人とぞ。為朝の方には、三町礫紀平次大夫と大矢新三郎が大事の手負いたると、高間兄弟うたれたるよりほかは、薄手をだにもをはざりけり」
メッセージ 170 rarara_roadster さんに対する返信

続・ 激闘のさなか。   2008/ 8/ 3 12:51 [ No.175 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさんが「別当対決」を挙げて下さった『古活字本保元物語』では、また別なる戦いも描かれています。

斉藤別当実盛・三郎実員・片切景重・須藤瀧口VS悪七別当・手取の与次・高間三郎・四郎・吉田太郎(手取の与次、負傷)
深巣七郎VS為朝(深巣七郎、討死)
大庭平太・三郎VS為朝(大庭平太、左膝負傷)
豊嶋四郎VS須藤九郎(豊嶋四郎、負傷)
丸太郎VS鬼田与三(丸太郎、負傷)
海老名源八VS悪七別当(海老名源八、負傷)
斉藤別当VS悪七別当(悪七別当、討死)
金子十郎VS高間四郎・三郎(高間兄弟、討死)
中宮三郎・関次郎・山口六郎・仙波七郎VS三町礫紀平次・大矢新三郎(紀平次・大矢新三郎、重傷)
平野平太・吉野太郎VS為朝(平野平太、負傷)
塩見五郎VS為朝(塩見五郎、討死)
根井大弥太・宇野太郎・諏方平五・進藤武者・桑原安藤次・安藤三・木曽中太・弥中太・根津神平・志妻小次郎・熊坂四郎VS為朝軍(手取の与次・鬼田与三・松浦小次郎、討死)

「為朝のたのみ思はれたる廿八騎の兵、廿三人うたれて、大略手をぞ負うたりける。寄手も究竟の兵五十三騎討れて、七十余人手負うたり」


さて、大庭平太の負傷ですが、右・左どちらが正しいのでしょうか?
前者『物語』は、「めて(馬手)の膝」、『古活字本』は「左の膝」でした。
大庭平太の動き的には右かなぁと思うのですが…。
ただ、二人が同方向に進む形で平太が為朝の左側に出てしまったのか、すれ違う形でそうなったのかで変わってきそうですね。
メッセージ 174 morikeigetu さんに対する返信


弓手から馬手へと受け流す〜♪(おい)   2008/ 8/ 3 17:57 [ No.176 ]
投稿者 : rarara_roadster
>さて、大庭平太の負傷ですが、右・左どちらが正しいのでしょうか?
>前者『物語』は、「めて(馬手)の膝」、『古活字本』は「左の膝」でした。
>大庭平太の動き的には右かなぁと思うのですが…。

大庭景能自身の証言と言えるものは、吾妻鏡「建久2年(1191)8月1日条」の記事となりますね。

大炊御門の河原に於いて景能八男の弓手に逢う。八男弓を引かんと欲す。
景能潛かに以て貴客と為すてえり。鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか。景能東国に於いて能く馬に馴れるなりてえり。
則ち八男の妻手に馳せ廻るの時、縡相違し、弓の下を越えるに及び、身に中たるべきの矢、膝に中たりをはんぬ。

近藤好和「弓矢と刀剣 中世合戦の実像」(吉川弘文館)のなかに、保元の乱における景能と為朝の対決に関する考察があり、吾妻鏡「建久6年(1195)3月10日条」に頼朝東大寺供養の随兵として 「懐嶋平権の守入道(大庭景能)」の名前があり、その注釈で『弓手の鐙ハスコシミジカシ。保元ノ合戦ノ時イラルヽ故なり』とあることから、「景能は左膝を射られたらしい」と近藤氏はしています。

それがどのような状況であったのか、ということですが、ポイントは、

・景能は左膝を負傷したということ
・吾妻鏡の記事は、「景能と為朝の対決」というよりも、「景能が為朝の矢を避けた」こと。つまり、景能は攻撃していない。

の2点になると思います。

このことから、最も可能性の高いのは、『為朝の左横に位置してしまった景能は、とっさに馬を馳せて為朝の背後から妻手に廻ろうとした』と考えられます。(ア)

ただ、近藤氏は、この建久2年8月1日の景能の思い出話に際し、頼朝から「御感の仰せを蒙」っていること。また、為朝の背後に廻るときに景能も弓を射て反撃することが可能だったはずとして、もしかすると景能は、為朝の左正面に位置したところから、そのまま為朝の正面を横切って為朝の右側に廻るという『特攻的』行動にでたのではないか(イ)、との見解も示しています。



しかし、それだと左膝を負傷するということがむずかしくなり、わたしはこの可能性は低いと思っています。それに基本的にまわりは乱戦状態だったでしょうからそういったことも加味する必要があるでしょう。

景能が為朝の弓勢に恐れをなしたとまでは思いませんが、この場面での景能は、為朝の弓を避けることが精一杯だったのではないでしょうか。
メッセージ 175 morikeigetu さんに対する返信


なるほど!   2008/ 8/ 4 18:51 [ No.177 ]
投稿者 : morikeigetu
『物語』では大庭平太が名乗りをあげていたので、平太と為朝は向かい合っていたと仮定、で、平太が抜刀して為朝に突進したところ、為朝にロックオンされたため、回避行動に出る。
私はその行動を「特攻的」なものと想定していました。
ところが、よくよく考えると、その時為朝はまだ白河北殿の門のあたりにいた可能性もありますから、為朝の正面(馬首)を横切って右側に回り込もうとしても、壁にぶち当たってしまうか敵陣に駆け込むという、まさしく特攻になってしまいそうですね。

いずれにせよ、
「景能於東国、能馴馬也者」
馬術に長けた大庭平太は、左膝を負傷しただけで命を拾いました。
メッセージ 176 rarara_roadster さんに対する返信


残暑お見舞い申し上げます。   2008/ 8/15 11:11 [ No.180 ]
投稿者 : morikeigetu

迂余曲折ふらふらと、それでもずいぶん勉強になりました。
保元・平治を語らずして源平は語れないという思いつきで始めたライフスタディですが、ろどすたさんには、ようも懲りずにお付き合い下さるものだと感謝の言葉もないほどの感激です。

「保元の乱」は、そろそろ着地の時がやってきたようです。
白河北殿の為義・為朝らは実によく守り戦いました。
感覚としては、後白河天皇方の圧勝のように思われますが、開戦以降から実際の戦闘は崇徳上皇方の善戦というか、見事に先制・中押しの形だったようです。
この時、南都からの援軍が到着していたならば、完全なダメ押しとなったのでしょう。

保元元年(1156)7月11日、辰の刻(午前8時)。
「東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々」
「清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電。白川御所等焼失畢」(『兵範記』)

為義の諦観、為朝の無念…、はかりしれませんね。

さて、ろどすたさん、「保元の乱」の終盤、どのように締めくくっていきましょうか?
メッセージ 176 rarara_roadster さんに対する返信


お見舞い返しの微苦笑   2008/ 8/20 17:43 [ No.187 ]
投稿者 : rarara_roadster
こちらこそ、妄想と受け売りしか能のないわたしの投稿に、お付き合いくださるけいげつさんに御礼を言わねばなりません。

さて、着地の方法ですね。

個人的には天皇家、摂関家の周辺を押さえておこうと思っています。つづく平治の乱の主要人物は藤原信西ですが、彼が保元の乱後に突出してくるのは、やはり天皇家・摂関家の権威の低下が原因の一つだと思います。

注目されるのは、藤原忠実です。瀕死の重傷の頼長との対面を拒み、今度は政敵となっていた息子忠通と共に摂関家の存続を図るという、まさに冷徹な政治家のすがたがそこにあります。そのあたりにすごく興味がありますね。

源氏と平家については、彼らが保元の乱で何を失い、何を得たのかを確認することでしょうか。従来の「物語史観」と、近年の研究成果による新しい認識との違いをあらためて勉強してみたいと思います。

余談ですが、大河ドラマ「新平家物語」で藤原頼長を演じていたのは故・成田三樹夫さん。“怪しげな公家”といえば、やはりこの人に限ります(後年、「柳生一族の陰謀」では烏丸少将役で登場)。

そして、「彼(頼長)が最後に手にしたのは、粗末な板輿ひとつであった。輿はそのまま棺となった・・・。」

合掌
メッセージ 180 morikeigetu さんに対する返信


役者!   2008/ 8/27 20:35 [ No.188 ]
投稿者 : morikeigetu
大河『新・平家物語』、今にして思えば、そのキャストは錚錚たる役者ぞろいだったですね。
故・成田三樹夫さんの頼長、本当にハマッてました。
今に残る頼長肖像はややまろやかですが、実際は成田氏に近かったのではなかろうかと思わせるものでした。

さて、「保元の乱」着地指針、ありがとうございます。

>やはり天皇家・摂関家の権威の低下…

第一は、まずそこですね。
『兵範記』は乱直後の11日午後、清盛・義朝らの帰参を記した後、多くの宣下を書き連ねます。
それらは乱の勝利を知ってからではなく、事前にすべて準備されていたものであろうと思われるのですね。
摂関家の権威の失墜も、『未曾有の事』としてこの11日に記録されます。
その結果、摂関家ではない傍流の登場…。

それまでの政治の中心であった者達をして『ムサの世』と呼ばしめる変化の主人公となる源氏と平氏。

>彼らが保元の乱で何を失い、何を得たのか…

おわりの押さえをキチンとしなければなりませんね。
メッセージ 187 rarara_roadster さんに対する返信


保元の乱」その後。   2008/ 9/ 4 23:10 [ No.190 ]
投稿者 : morikeigetu
保元元年(1156)7月11日、保元「合戦」は終結しました。
思えば、「天皇家断層」「摂関家断層」「都の武家断層」が同時に動いた平安京直下型大地震だったとでも申しましょうか…。
合戦の詳細については、まだ語り尽くせぬところもあります。
源頼政や四郎頼賢、あるいは平忠正などが、
「おい!!  俺らの事は無視か?」と大挙して詰め寄って来そうです。
わかっています、わかっていますと謝しつつ、「保元の乱、その後」。

まずはこの乱の勝者の中で最も痛手を蒙ったのは、と考えると…。
源義朝率いる源氏軍か摂関家藤原忠通のどちらかではないでしょうか。いや、いずれ劣らぬ痛手だったかな。
独断的に言い比べると、源氏軍は肉体的痛手、摂関家は精神的・経済的痛手。
「おのれ!!」と椅子を蹴りとばす力も度胸もない摂関家の方が、ガックリと疲れきった、勝者の中の最大の敗者かもしれません。
そして、それを顔の片隅で笑いとばしたのが信西入道だったのでしょうか。

『兵範記』7月11日条、
『令関白前太政大臣藤原朝臣、可為氏長者由、被宣下、此例未曾有事也』

つまり藤原忠通を氏長者にするという宣旨が行われた。
これを「未曾有の事」というのは、そもそも氏長者は摂関家内部の私事でありました。
『愚管抄』巻第三の初めに慈円は、『保元以後ノコトハ、ミナ乱世ニテ侍レバ』と記し、その途中で氏長者の事に触れ、
『藤氏長者トイフコトハ、上ヨリナサルルコトナシ。家ノ一ナル人ニ朱器台盤、印ナドワタシワタシスルコトナリ』
と述べています。
氏長者は、藤原氏の内部において、摂関家が独自に決定していた私事に対して、追認的に宣旨が下されていたようです。
保元の乱の直前に、忠実が忠通から氏長者を奪い、頼長に与えた事もそういう事情でした。
また、東三條殿を義朝ら「官兵」に検収させ朱器台盤を押収した事も、頼長を「動かす」という目的とは別な、将来的陰謀を感じずにはおれません。
摂関家のプライドと実際が、この乱の前後に公収されたのかもしれません。
メッセージ 189 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 「保元の乱」その後。   2008/ 9/12 18:48 [ No.191 ]
投稿者 : rarara_roadster
なかなか文章がまとまりません(泣)
この連休中にはなんとかできるといいなあ・・・(希望的観測)
メッセージ 190 morikeigetu にさん対する返信です


のんびりいきましょう!   2008/ 9/13 20:31 [ No.192 ]
投稿者 : morikeigetu
明日は。中秋の名月。
月齢的には月曜日が満月みたいですが…。

酒でも呑みながら、のんびりとね。

時候はちょうど、旧暦の保元の乱の後の十五夜かも。
メッセージ 191 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 「保元の乱」その後。   2008/ 9/18 21:16 [ No.193 ]
投稿者 : rarara_roadster
予定を大幅に過ぎてしまいました。
おまけにまとまりの無い投稿ですみません。

>椅子を蹴りとばす力も度胸もない摂関家の方が、ガックリと疲れきった、勝者の中の最大の敗者

元木泰雄氏は、保元の乱を天皇家・摂関家の複合権門同士の「激突」と捉えています。摂関政治から院政へと政治構造が変化し、摂関家はその勢力を弱めていきます。藤原忠実は、荘園を拡大することにより勢力の維持を図ります。そのなかで、河内源氏や多田源氏らを組織して独自武力とし、「公家・寺社・武家が一体」となった天皇家に次ぐ「複合権門」へとなりました。その結果、美福門院やその周辺の院近臣勢力との対立を惹起し、鳥羽院と摂関家の溝を深める結果になりました。

このように、独自の武力・経済基盤の構築が、朝廷の秩序や周囲の勢力との衝突をうんでしまったことが保元の乱の側面である、というのが元木氏の論です。

そして、11日には忠通に氏長者宣下、17日の奉勅では、公卿以外の預所職は、国司による監理とするとされ、18日には忠実、頼長の荘園没官の綸旨と矢継ぎ早に摂関家に対する処理が進み、あわせて忠通に氏長者として宇治の所領と平等院の管理が命ぜられます。これは事実上摂関家領の家産機構の解体を意味し、氏長者を含む摂関家の人事権まで朝廷の支配下にあることがわかります。これはけいげつさんが190で述べられた『将来的陰謀』であり、天皇家の「後白河・守仁の皇統」を阻害する要素の排除の一環だと思います。

以下は「私見」ですが、保元の乱の当時、「治天の君」は不在の状態ですから天皇家の権威は鳥羽院在世時に比べて著しく低下しています。また、後白河自身が急造の中継ぎですから、将来的にも天皇家の権威の低下は避けられません。そのなかで、追い詰められたとはいえ、天皇家と喧嘩をするほどの武力を有する複合権門『摂関家』は、危うい存在でしたでしょう。

また、同時に摂関家の権威そのものは、天皇家としても利用価値があったと思います。特に、自らの権威が低い後白河や、母后とはいえ、末茂流というけっして出自の高くない美福門院には、相反するものではありますが『摂関家の権威』というカードを支配することは必要だったと思います。そのためにも、摂関家の力を削いでおくことが必要だったのでしょう。

忠通は、そんな後白河や美福門院をどのように見ていたのでしょうか。

結局、その隙間を上手く立ち回ったのが信西入道だったのですが・・・。


すみません。摂関家の消息については、あらためて投稿します。m(_ _)m
メッセージ 191 rarara_roadster さんに対する返信


「保元の乱」その後。   2008/ 9/19 21:55 [ No.194 ]
投稿者 : morikeigetu
>天皇家と喧嘩をするほどの武力を有する複合権門『摂関家』
>天皇家・摂関家の複合権門同士の「激突」

なるほど…。
そもそも「保元の乱」という古代末期の内乱を、教科書で習ったままの「武士」にのみ注目した戦乱とみるには勿体ない、いや、むしろ「武士」がかすんで見えるほどな「天皇家」と「摂関家」の、そして長きにわたって「摂関家」の下に抑えつけられてきた者たちの煮えたぎるような破裂だったのだと認識し直さねばならないようです。

「武士」が自分たちの力を自覚したとか、天皇家を含む貴族の問題を「武士」の武力が解決したとか安易なコメントで締めくくられる「保元の乱」ですが、いやいや源氏・平氏に代表される「武士」は、政治の舞台ではまだまだ脇役にすぎないぞと…。

ろどすたさん、「保元の乱」はまだ終わりそうにないです。
メッセージ 193 rarara_roadster さんに対する返信


摂関家の黄昏   2008/ 9/24 21:13 [ No.195 ]
投稿者 : rarara_roadster
乱で矢傷を負った頼長の消息が知れるのは、21日に出頭した興福寺の僧玄顕の証言によります。13日に南都まで逃れてきた頼長は、図書允俊成を使者として忠実のもとに遣わしますが、対面を拒まれたため、母親の兄弟である律師千覚の房に運び込まれ、一夜を苦しみぬいて14日巳刻に亡くなります。

頼長は、若い頃から摂関家嫡流として位置づけられ、その才能は「日本一の大学生」として期待されてきました。そして、兄の忠通が忠実によって義絶された後は、内覧として律令制の原点に立ち返り、貴族政治の再生に邁進します。しかし、それはもはや時代の歯車を逆に回そうとすることに等しく、結局、鳥羽院やその近臣たちとの軋轢を大きくするばかりで次第に孤立化を深める結果になりました。その後の流れは、これまで見てきたとおりです。

さて、その父である忠実が、かつて白河院の逆鱗にふれ(勲子入内問題)、宇治に蟄居していたおりの心の支えとなっていたのが生まれたばかりの頼長です。摂関家の既定路線を反故にし、実子の基実を嫡子とした忠通を義絶までして頼長を支えてきた忠実が、最後の最後に見せたのは「父親の顔」ではなく、摂関家という「イエ」を守る“大殿”であり、「冷徹な政治家の顔」でした。

この『対面拒否』は、保元物語での忠実は「氏の長者たる程の者の、兵杖の前に懸る事やある。左様に不運の者に、対面せん事由なし。音にもきかず、ましてめにもみざらん方へゆけと云べし。」と言って頼長を追い返しますが、新・平家物語ではこれに加えて「わし(忠実)は、氏の長老として一族を守らねばならん」ということを言わせています。

忠実は、当初から頼長に同心していると認識されており(兵範記)、頼長が敗北した今、災いが自分に降りかかるのは明らかで、それは忠実自身だけではなく、摂関家家産機構の崩壊を意味します。残された道は、頼長を拒絶することによってあくまで「中立」であることを表明し、資産崩壊を最小限に押さえなくてはなりません。

ひょっとすると、7月8日に東三条邸が没官された時点から、忠実は最悪のシナリオを予想していたのかもしれません。その場合、忠通との和解ということも忠実の頭の隅っこにはあったと思います。実際、忠実は15日に「今日自入道殿被献御書於殿下」(兵範記)と、忠通に書状を送っており、時間的にみると頼長との対面拒否とシンクロして書かれたと考えられます。

この手紙の内容はわかりませんが、いずれにしても、忠通を通じて朝廷への工作を図ったものと思われます。11日に忠通に対して氏長者の宣下が下っていますが、忠通は「吉日を選んであらためて受ける」と称し7月19日まで延期しています(兵範記7月19日条)。おそらくこの間に、忠実の赦免や摂関家の忠実らの名義の荘園処理について、忠通らが奔走していたのであろう、と元木泰雄氏は考察しています。

そして翌20日、忠実の荘園目録が忠通に送られ、久安6年(1150)忠通の義絶に際し頼長に与えられた荘園(長者領)と、忠実が管理していた高陽院領の荘園が忠通に献上されます。これにより、没官されたのは、頼長領の荘園のみということになり、摂関家の荘園の大半は残されたことになるのですが、その勢力に鳥羽院政期の面影はすでに無く、為義らの滅亡により独自の武力も失い、『複合権門摂関家』は事実上崩壊してしまいます(保元・平治の乱を読みなおす 元木泰雄 NHKブックス)。

さて、天皇方の忠通ですが、政治的対立が招いたものとはいえ、自分の「イエ」を潰そうとする計画に信西や美福門院とともに参画し、その一方ではその「イエ」は自分が継がねばならず、そのためには「潰し」をなんとか最小限に留めなくてはならない、というなんとも矛盾した立場といえますね。けいげつさんのおっしゃるとおり「保元の乱」の幕引きで、最も翻弄された人物の一人です。

ちなみに忠実は27日の罪名宣下からははずされ、これにより公式に中立の立場が認められましたが、その身は洛北の知足院に幽閉され、応保2年(1162)85歳の生涯を閉じます。
メッセージ 194 morikeigetu さんに対する返信


Re: 摂関家の黄昏   2008/ 9/26 19:31 [ No.196 ]
投稿者 : morikeigetu
わたの原 漕ぎ出て見れば ひさかたの
  雲居にまがふ 沖つ白波

百人一首の法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の歌。

もともと『詞花集』巻十に「新院(崇徳)、位におはしましし時、海上眺望といふ事を詠ませ給ひけるに詠める」という解説でおさめられている歌です。
忠通を評するに、「生まれつき寛厚で長者の風があり、詩歌に秀で、歌道の復興に力をつくし、その歌風は高尚で人麻呂にも比せられる程であった」(文法解明叢書『百人一首』)「理想的な公卿であった。政治家としては冷徹そのもので、明鏡のように判断を誤らなかった」「詩歌や書蹟の面でも抜群であり、また筝の名手としても聞こえていた」(角田文衛著『平安京散策』、以下『同書』)など、およそ悪評には縁のない平安貴族であったようです。

けれど『同書』は続けます。
「このように卓越した人物であったが、女癖の悪いことだけが彼の欠点であって、それが命取りともなった」

「女癖」と言うにはかわいそうな、当時の貴族習慣のようなものだったと思うのですが…。

『同書』によると、忠通には藤原宗子・源信子などの妻があったが、家の女房や雑仕女にも手を出していた。
久寿2年(1155)妻の宗子が他界したので、忠通は妾の丹波と共に法性寺の西に接した別邸の法性寺西殿で過ごしていた。この丹波も家の女房で、摂関家職事の源盛経の娘であった。
保元3年(1158)に関白を長男の基実に譲り、自らは法性寺西殿に隠退し、激動する世運を見守っていた。
この丹波は加賀と名を変えていたが、兼実や慈円も彼女を母として産まれた。
隠退後の忠通の悩みは、若い加賀との肉体的年齢差であった。
長寛2年(1164)のはじめ、忠通の不安は的中した。
加賀が彼女の異母兄弟である源経光と密会している現場を発見、忠通は激怒し、加賀とは二度と会おうとせず、部屋にこもりきってしまった。
さすがの英傑の忠通も、この憂悶から脱しきれず見る見る間に衰弱し、同年の2月19日、火が消えるように入滅した。(以上要略)

>(忠実との)対面を拒否されたため、母親の兄弟である律師千覚の房に運び込まれ、一夜を苦しみぬいて14日巳刻になくなった……、弟頼長。

>その身は洛北の知足院に幽閉され、応保2年(1162)85歳の生涯を閉じた……、父忠実。

ろどすたさん、『摂関家の黄昏』というタイトルは、涙を誘います。
平安時代のメインストリートを驀進した「藤原摂関家」の終焉の中で、静かに消えていった三つの人生は、親子・兄弟であったという事を改めて感じずにおれません。

国宝『藤原忠通筆書状案』
忠通の公私書状の案文29通を収めたもの。
法性寺流という、書の祖ともなった忠通の筆蹟をながめていると、いささか感傷的になってしまう秋の夕暮れでありますね。
メッセージ 195 rarara_roadster さんに対する返信


さようなら緒形拳さん   2008/10/ 8 10:21 [ No.198 ]
投稿者 : rarara_roadster
タイトルを修正します(陳謝)

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/obituary/?1223367006

この方を抜きにして大河ドラマは語れません。

新・平家物語では阿倍麻鳥でしたが、息子の直人さんと一緒に源為義・義朝親子で「保元物語」が観てみたい気もします。

個人的には「風と雲と虹と」の藤原純友を演じられたときが好きでした。

合掌
メッセージ 196 morikeigetu さんに対する返信


Re: さようなら緒形拳さん   2008/10/11 19:53 [ No.199 ]
投稿者 : morikeigetu
実に惜しい。
数少なくなった本当の役者さんの一人でした。
『新・平家物語』では、崇徳院の水守り安倍麻鳥がやがて医師となり、清盛の最期を見取り、平家滅亡後、清盛と時子が果たせなかった吉野の花見を麻鳥夫婦が行うという最終回だったと思います。

架空の人物ながら、平家の時代を中立の立場でじっと見つめ続けるという難しい役どころを見事に演じておられました。
個人的には、吉川英治氏ご本人が麻鳥の姿を借りて作中に自身を登場させたのかなと思っていました。

まだまだ、ずっと活躍していただきたかった。
メッセージ 198 rarara_roadster さんに対する返信


今日、小学館の…、   2008/10/22 21:07 [ No.200 ]
投稿者 : morikeigetu
日本の歴史・新視点中世史『躍動する中世』五味文彦著、を購入しました。
どういう所が新視点なのか、まだ読んでいないので何とも言えませんが…。


さて、「保元の乱」のその後に戻そうと思っていろいろ考えたのですが、安倍麻鳥で崇徳を思い出しました。
「保元の乱」後の新院崇徳、少し追いかけてみます。


Re: 今日、小学館の…、   2008/10/22 21:27 [ No.201 ]
投稿者 : rarara_roadster
おおっと。けいげつさんの書き込みが(微苦笑)

>「保元の乱」後の新院崇徳、少し追いかけてみます。


では、邪魔をしない程度にすこしだけ・・・。

白河北殿を脱出した崇徳は、13日に同母弟である仁和寺の覚性法親王を頼ります。しかし、その時鳥羽殿にいた覚性は崇徳を拒んだため、止む無く寛遍法務の旧房に入ります。後白河は式部太夫源重成に命じ、崇徳を守護(実際には監視)させました。

翌14日には、崇徳の近臣右京太夫教長らが出家して出頭。そして23日には崇徳は讃岐へと流されていきました。また、皇子の重仁親王は仁和寺にて出家しましたが、応保2年(1162)に死去。ここに崇徳の皇統は完全に途絶えたことになります。そしてその2年後の長寛2年8月、帰京の願いは叶わぬまま、崇徳院は讃岐にて崩御しました。

崇徳院を排除しようという意思のトップが鳥羽院である、ということは否めないでしょう。しかし、そこには美福門院や院近臣らの思惑や利害が複雑に絡み、結果として当時の貴族社会の軋轢が、崇徳院一人に集中してしまったかのようなイメージが見えてきます。それゆえに、この保元の乱の中での崇徳院の悲劇は際立ってしまいます。

一方で鳥羽院は、自分の後継者に恵まれなかったのも事実です。近衛天皇は17歳で早世し、結局、崇徳と同腹の後白河を擁立せざるを得ませんでした。それも、その子守仁(のちの二条天皇)即位までの「中継ぎ」というもの。そして、やがて二条派・後白河派という派閥を形成し、平治の乱の遠因となっていきます。
メッセージ 200 morikeigetu にさん対する返信です


おやおや、   2008/10/22 22:43 [ No.202 ]
投稿者 : morikeigetu
ほぼ同時でしたか(驚)

ほとんどアゲついでの投稿でしたので、気にしないで下さい。

>長寛2年8月、帰京の願いは叶わぬまま、崇徳院は讃岐にて崩御しました。

長寛2年といえば、保元の乱の8年後。
この年の出来事のいくつかを挙げてみると、2月に藤原忠通が死去、4月に清盛は、忠通の子の関白基実に娘盛子を嫁がせます。
9月に平家納経が厳島に奉納される…等々。

この8年間、いや、その後も都の人々の心には、怨霊としての崇徳がどっしりと実在するようです。
次回、簡単に見てみようと思ってました(謝)
メッセージ 201 rarara_roadster さんに対する返信


となりの怨霊。   2008/11/ 2 22:26 [ No.203 ]
投稿者 : morikeigetu
この時代、現代においては科学的になんの根拠もない「怨霊」とか「生霊」というものが本気で信じられ、「鬼」とか「化生(けしょう)のもの」という表現で、あたかも我が身の影や、鏡の中の虚像と戦うごとき日常があったようです。

長寛2年(1164)8月26日、新院崇徳は46歳で崩御するのですが、『保元物語』は、このように語ります。

さしも御意趣深かりし故にや、焼上奉烟の末も都をさして靡けるこそ怖けれ

「御意趣」とは、配流されて後3年をかけて書写した五部の大乗経を平治元年春、仁和寺の守覚法親王を通じて石清水八幡宮か高野山金剛峯寺、あるいは許しがあれば安楽寿院(鳥羽天皇陵)に奉納したいと申し入れたが拒絶された事をさすのでしょうか。
彼はこの経を魔道に回向し、魔縁となって遺恨を散ぜんと決心し、それを大乗経の奥書として海底に沈めたといいます。

その遺骸は白峰山上に運ばれたが、途中で柩から血が流れ出た。その場所に建てられたのが血の宮であるといい、火葬場に建てられた祠を煙の宮というのは、荼毘に付された遺骸の煙りが、あたりにたなびいたからだといいます。
その真偽はともかく、あまりにも露骨な策略にはまったお人でありますから、配流後の8年という時間を尋常な精神状態で過ごしたと考えるのは難しいかもしれませんね。

乱後の平治元年(1159)には兵乱が起きて信西入道が斬られ、永暦元年(1160)美福門院が死去、応保2年(1162)平基盛、長寛2年(1164)藤原忠通が死去します。
崇徳の死後も、永万元年(1165)二条天皇、仁安元年(1166)藤原基実が死去、治承元年(1177)4月死者数千人に及ぶ大火で内裏が焼失、6月に鹿ヶ谷事件が起き、ついに7月29日、それまで讃岐院と呼ばれていたのを崇徳院という院号を奉り、頼長には太政大臣正一位が贈られる事となるのです。

その後も崇徳の御願寺である成勝寺で安元3年(1177)、寿永2年(1183)に供養が行われたり、元暦元年(1184)保元古戦場に、崇徳・頼長を祭神とする霊社が建立されたりします。


怨霊といい祟りといい、そもそも政争や合戦の直接的・間接的当事者たちが自分の心の中で見るものであろうと思うのですが、そこにはまた「煽る」者も存在するのでしょう。
そして、心当たりのある者にとっては、あたかもすぐうしろに立っているかのごとき実在感をもって迫っていたのかもしれません。

文句ったれの兼実はその日記『玉葉』で、「崇徳院というのはどんなものかの。土御門院でいいのではないか」と言っています…。


出典を…、   2008/11/ 7 19:46 [ No.212 ]
投稿者 : morikeigetu
書き忘れていました。

bQ03「となりの怨霊」で、

”「御意趣」とは、配流されて〜あたりにたなびいた”
”乱後の平治元年から〜霊社が建立されたりします”

これらは、飯田悠紀子著『保元・平治の乱』が出典です。


さて、ろどすたさん、そろそろ清盛と義朝の「得たもの・失ったもの」に移りますか?
メッセージ 203 morikeigetu さんに対する返信


ラジャー!   2008/11/ 8 20:29 [ No.214 ]
投稿者 : rarara_roadster
了解です。

それでは、まえに義朝をまとめた関係上、源氏について書いてみましょうか?
平家はよろしくお願いします(ぺこり)
メッセージ 212 morikeigetu さんに対する返信


良う候!!   2008/11/ 8 21:03 [ No.215 ]
投稿者 : morikeigetu
お願いします!

平家の方については、言い尽くされて、あまり自信がないのですが…。
得たものばかりのように思われますが、本当に失ったものがないのかどうか、勉強してみます。
メッセージ 214 rarara_roadster にさん対する返信


久しぶりに謡曲をやりまして…。  2008/11/21 15:50 [ No.227 ]
投稿者 : morikeigetu
このところ謡う機会がなく、声の出がもうひとつでした(笑)
曲名は『鵺』、『平家物語』巻4に取材した曲です。
いささかこのトピの話の流れを戻してしまいますが、ご紹介。

旅の僧が摂津国の蘆屋の里で一夜を明かしていると、うつほ舟に乗った異様の者が漕ぎ寄せて来たので、名を訊ねると、頼政の矢先にかかって死んだ鵺の亡魂であると答え、回向を乞うた後に消え失せた。(中入)
僧が読経していると、鵺の亡魂が本来の姿で現れて成仏出来そうだと感謝する。
鵺は再び頼政に退治された時の事を語り、それは君の天罰があたったのであると懺悔し、その後はうつほ舟に入れられて流されたので成仏出来なかったと、なおも回向を乞いながら消えるという曲です。

曲の最後の部分(キリ)に、近衛天皇・頼長の名が登場します。

「その時、主上(近衛)御感あって。獅子王といふ御剣を頼政に下されけるを、宇治の大臣賜はりて、階(きざはし)を下り給ふに、おりふし郭公訪れければ、大臣取りあえず、

ほととぎす 名をも雲居に 揚ぐるかな

と仰せられければ、頼政、右の膝をついて左の袖を広げ、月を少し目にかけて、

弓張月の いるにまかせて

と仕り、御剣を賜り御前を罷り帰れば、頼政は名を揚げて、我は名を流すうつほ舟に、押し入れられて淀川の、淀みつ流れつ行く末の…」

と続くのですが、『平家物語』ではこれを「仁平のころほひ」としていますから、1151〜1153年の話と設定しているようです。
やがて近衛は崩御、頼長は陥れられ、頼政は後白河天皇方に加わり、それぞれの「保元の乱」の位置についていきます。

やれやれ、雑談してしまいました。
季節はもう「木枯らし1号」が吹いたというのに、虫(無視)がいっぱいで、これもまた異状気象なのだなと、お茶を一杯(笑)

ろどすたさん、ではまた。
メッセージ 214 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 久しぶりに謡曲をやりまして…。   2008/11/24 12:54 [ No.229 ]
投稿者 : rarara_roadster
久しぶりにけいげつさんの謡曲のおはなしにふれることができました。

>うつほ舟に乗った異様の者が漕ぎ寄せて来た

この「うつほ舟」というものは、「虚舟」とも表し、このように「異類異形のもの」が乗って現れるようです。この平家物語のほかにも出てくる文献がいろいろとありますが

、実際にはどのような舟なのか、はっきりしたことはわかりません。一説には、「箱舟」のようなものであろうと言われています。

だいたいにおいて、この「うつほ舟」は、異界と現世を行き来する手段として考えられているようです。つまり、この世のものではないものが、うつほ舟に乗ってこの世にやって来るというわけですね。

一方で、『補陀落信仰』との関連もいわれているようです。補陀落は、観音菩薩の住まうところとされ、はるか南方の海のかなたにあるとされています。

ここで思い起こされるのが、寿永3年3月28日、那智の沖での平惟盛入水です。これもまた、補陀落信仰によるものですね。


さて、源頼政は父祖の代より内裏守護についており、保元・平治の乱ではその立場で参戦していますが、その後の頼政には、「武人」というよりも「歌人」としてのイメージが先行するように思います。

その頼政が、この平家物語巻四では以仁王の挙兵によせて鵺退治のヒーローとして描かれています。引き合いに出されたのは八幡太郎義家で、「堀川天皇の御世にも鵺が現れ、人々は恐れおののいたが、義家がこれを退治した」と続きます。これは「寛治のころ」とされていますが、このときに義家は「前陸奥守、源義家」と名乗ったとされることから、おそらく後三年合戦が終わって義家が陸奥守を解任された寛治2年以降という設定でしょう。

この後、河内源氏は一族の内紛が多発し、次第に勢力が傾いていくことになります。

そして、そのことは保元の乱において、源氏が失ったもの・得たものと無関係ではありません。

と、思わせぶりに(苦笑)
メッセージ 227 morikeigetu さんに対する返信


「虚舟」   2008/11/26 21:40 [ No.233 ]
投稿者 : morikeigetu
「うつほ舟」を旺文社の古語辞典でひくと、

大木をくりぬいて作った舟。丸木舟。

と短くありました。
小学館古典文学全集『謡曲集2』の「鵺」においても、「うつほ舟」については同様の校注でした。

ちなみに「鵺」は「トラツグミ」という全長30cmほどの小鳥の異名で、手元の鳥類図鑑(世界文化社『生物大図鑑・鳥類』)によると、

平地から山地の、よくしげった広葉樹林・針広混交林に生息し、地上でミミズ・昆虫を食べる。なわばり性。高木の比較的低い叉状の枝の上に蘚苔類を主につかって、わん状の巣をつくり、4〜7月に淡緑青色有斑の卵を4〜5個産む。約10日間抱卵。(中略)薄暗い場所をこのむ。単独またはつがいで生活する。日本全国に分布し、高地や寒冷地のものは平地の暖地で越冬する留鳥。

とあります。

大河ドラマ『新・平家物語』総集編の前編で、傷ついた頼長が宇治の忠実の所にたどり着いたあたりから、忠実が対面を拒否するあたり、バックで口笛のような、あるいは鈴のような音が聞こえていますが、あれが「鵺(トラツグミ)」の鳴き声なのです。
私も信州での夏の夜に何度か耳にした事がありますが、初めて聞いた時は、なにやらゾクッとしたのを覚えています。
個体によって、鳴き声の音階が違うようです。

平安の昔、あれが鳥の声であると承知していた人がいたのかどうかはわかりませんが、夜、どこからともなく聞こえてくる悲しげな、あるいは怖ろしくも聞こえる声の主を「頭は猿、からだは狸、手足は虎、尾は蛇」というようなモノにしたために、その声を耳にした、たとえば近衛天皇が「主上、夜な夜な御悩あり」という事になったのかもしれませんね。

>「うつほ舟」は、異界と現世を行き来する手段として考えられているようです。
>『補陀落信仰』との関連もいわれているようです。

これらの当時の慣習・信仰についても、平家一門の都落ち以後に多く触れることがあろうかと思います。

いやそれにしても、ろどすたさんはなかなかの語り手ですね。
見事な予告に至る文章でありました。

わくわくとして、楽しみにしています。
メッセージ 229 rarara_roadster さんに対する返信


左典厩源義朝   2008/11/27 20:08 [ No.237 ]
投稿者 : rarara_roadster
>「うつほ舟」を旺文社の古語辞典でひくと、
>大木をくりぬいて作った舟。丸木舟。

お手間をかけさせました。なんともあいまいな情報で書き込んでしまい申し訳ありません。

>大河ドラマ『新・平家物語』総集編の前編で・・・

おお!そうだったんですか・・・。ぜんぜん気がつきませんでした。あらためて見直してみましょう。

>当時の慣習・信仰についても・・・

これが一番大切なことだとわたしも思っています。ここを理解していないと見えないことは多いですからね。でも、むしろこういった部分の研究が楽しいんですよね。

>わくわくとして、楽しみにしています。

ご勘弁なのです(泣)
完成度ウン十パーセントですが・・・


保元物語では、為義親子と義朝の悲劇がひとつの柱となっています。奇しくも敵味方に分かれてしまった父と子ですが、合戦前夜にも父は子に重代の鎧(源太産衣、膝丸)を送り、戦いのなかで弟は一度は兄に向かって矢を番えますが、もしかすると父との密約があるかもしれぬと思い直し、矢を射ることを止めます。そして、戦いに敗れた父は、子を頼って出頭しますが、子は父を助けることができず、結局父や弟達の首をはねることを命令されてしまいます。

乱の後、義朝の得た官職は「左馬権頭」。義朝はここで父親に弓まで引いて朝廷のために働いたことを訴え、あらためて「左馬頭」に任じられます。しかし、清盛に比べると待遇の差は歴然。後々までこの不満はのこり、平治の乱へ向かってしまう原因となりました。

というのが、いわゆる「物語史観」です。

さて、では兵範記に沿ってみてみましょう。

まず、11日。合戦の後の勲功賞で義朝は「右馬権頭」に任じられ、昇殿を許されたとあります。その後、すぐに左馬頭に転じたようで、30日の記事では「左馬頭義朝」となっています。ここで義朝が保元物語のような不満を述べたかどうかはわかりませんが、左馬頭に任じられるまでに(「右」と「左」の違いがあるにせよ)ワンクッションあったことは間違いないようです。

「新訂 官職要解(講談社学術文庫)」によると、左右の馬寮の「頭」は、大宝令に「閑馬(うまやうま)の調習・養飼、供御の乗具、穀草を配給し、及び飼部の戸口の名籍の事を掌る」とあり、その後、諸国の牧も掌るようになったとあります。位階は従五位上相当ですから、義朝のこれまでの従五位下・下野守という官職と比べると、単純な比較はできませんが、確かに「大出世」とは言えないように感じます。かたや、平清盛は熟国、播磨守という受領の中での最上限に任じられています。

このことについて、元木泰雄氏は、

<<すでに、安芸守という大国の受領であった清盛と違い、義朝は先年ようやく下野守に任じられたばかり。それも都から遠く離れた東国の辺境の地の受領である。おまけに、父親・弟達は国家に刃向かった「大罪人」である。にもかかわらず、河内源氏始まって以来、初めて内昇殿を許され、東国に勢力の基盤を築き武士団を組織した義朝にとって、朝廷の馬や牧を統括する「左馬頭」という役職は由緒もあり、まさに「武家の棟梁」に相応しい。つまり、その意味からすれば、破格の出世と言ってよい(概略 「保元平治の乱を読みなおす NHKブックス)。>>

というふうに考察しています。

わたしとしては、『破格の出世と言ってよい』のかどうか、いささか判断が難しいところではありますが、内昇殿を許されたということは、河内源氏の嫡流となった義朝が、有力な軍事貴族としてあらためて後白河の信任を得たと言っていいと思います。

続きます
メッセージ 233 morikeigetu さんに対する返信


Re: 左典厩源義朝   2008/11/27 20:09 [ No.238 ]
投稿者 : rarara_roadster
そして逃亡中の上皇方の探索が続く中、16日になって、流浪の末、横川の辺りで出家した為義が、義朝のもとに出頭してきます。軍記物語である「保元物語」と違い、兵範記はその出来事を淡々と記すのみなのですが、このことについては、親子の情というものを感じてしまいます。

為義と義朝が決裂してしまった状況はbS1〜43で述べたとおり、摂関家と天皇家の軋轢が深まるにつれ、坂東にあった義朝の周りの状況が変化し、摂関家に臣従する立場から、直接院近臣と結びつく立場へと変わっていったことにあります。その結果、ついに久寿2年8月に義朝の長子・義平が武蔵国大蔵館の叔父・義賢を急襲し、秩父重隆とともに殺害するに至ります。そして保元の乱では双方が正面から激突するわけですが、劣勢の上皇方は敗れ去り、ちりぢりに白河北殿から落ち延びてゆきます。

やがて、ある者は捕縛され、また、ある者は骸となってゆくなかで、為義は敵であった息子のところに出頭するという道を選択するわけです。兵範記から為義や義朝の心の動きを読み取ることはできません。が、保元物語のように「父と子の密約」があったのかどうかはともかく、単なる「息子への命乞い」などではなく、どのような結果になるにせよ、「最後は息子にこの身をゆだねよう」といった気持ちは少なからずあったのではないだろうかと思いたいです。例によって『平安妄想族・ろどすた』の思い込みですが、この16日の記事を読んで、ふとそのように感じました。

そして27日には罪名宣下があり、30日には「為義、頼方、頼仲、為成、為宗、九郎、已上左馬頭義朝、於船岡山辺斬之」と、義朝は父と弟の首を斬ることになります。為朝は、8月26日に近江で捕縛されます。


さて、いたずらに感傷的になる前に元に戻しましょう。

野口実氏あたりの言葉だったと思いますが、『河内源氏の共喰い』という表現をする人がいます。同族間の争いは、なにも河内源氏に限ったことではないのですが、源義家の晩年から鎌倉の源実朝まで、河内源氏の歴史はそのまま一族の命の奪い合いの歴史でした。そして、そのほとんどに「謀」とか「暗」という言葉が見え隠れしています。

そのなかで、為義が河内源氏の嫡流を継いだ当時は、いわば「どん底」の時代でした。そこで為義は摂関家の忠実・頼長に接近して再興を図ろうとするわけですが、そこから離れてしまったのが義朝です。結果、為義と義朝は正面から激突して為義は敗れ、傍流だった義朝は嫡流となり、左馬頭の官職と、河内源氏として初めて内昇殿を許される存在となります。逆に言えば、二人の決裂が無かったら、保元の乱で族滅の可能性もあったことになります。
(ただし、為義三男の義範は、どちらの陣営にも参加していない。また、十郎(義盛、のちの行家)は熊野に匿われていたのか?ちなみに保元物語にある「義朝幼少の弟悉く失はるる事」の乙若、亀若、鶴若といった幼い弟達の死刑については、兵範記に記事がない。元木氏は、物語のフィクションか、または、義朝が独自で「私刑」として行った可能性もあるとしている。)

また、野口氏たちの論では、頼義や義家、為義は基本的に京武者で、本拠地に下向し、そこに定着して在地の武士団を組織したのは義朝が画期であるとしており、bV3より再掲ですが、元木氏もこれを「義朝の独自性、あるいは京周辺の所領の武力に依存する、院政期的な武士団編成を脱却した新しさを看取することができるのではないだろうか(保元・平治の乱を読みなおす)」としています。

為義と義朝の争いは、謀殺や暗殺のように一方が一方を陥れようとするものではなく、互いの存亡を賭けたいわば「ガチンコ勝負」です。それはすなわち、上記のように「(為義までの)古い源氏」と「(義朝からの)新しい源氏」の争いという側面を有していたといえるでしょう。そしてそれは、30日の船岡山で最終的に決着がつくことになりました。
メッセージ 237 rarara_roadster にさん対する返信


ろどすたさんの話は、深い。   2008/12/ 1 22:51 [ No.242 ]
投稿者 : morikeigetu
次なる自分の投稿を考える以前に、どっぷりと考えさせられました。

勝者の歴史は残るが、敗者の歴史…となると、なかなか難しい。

>いたずらに感傷的に」なる前に…、

「物語史観」と「実証史学」とのせめぎあい。
苦しいですね。

「保元の乱」を検証する時、次なる「平治の乱」を切って考えられないところが、「保元の乱」だけを独立させて結論出来ない特殊性があるのだと、個人的に思うのです。

『保元・平治の乱』と、ひとことで言われる所以かな。

ところが「保元の乱」と「平治の乱」とは大きく違うという事を、ろどすたさんと会話するうちに解明されるかなと思っています。
そういう事も含めて「ワクワク」しているのですよ。

「保元の乱」で平家が失ったもの…。

「摂関家」というライバル複合権門。

なんとなく、そんな気がするのですよ。

先走りしてはいけないので、今はそこまで。
メッセージ 238 rarara_roadster さんに対する返信


コーヒータイム『落人伝説』   2008/12/17 19:18 [ No.249 ]
投稿者 : rarara_roadster
平家の伝説は、それこそ日本各地に点在していますが、こちらは平家滅亡のご当地でもあり、安徳天皇の墓所(赤間神宮とは別の場所)、二位の尼の遺骸が流れ着いたという海岸、また悪七兵衛景清が隠れ住んだという洞窟などいろいろと残っています。

先日、地元テレビのニュースで「広実申し(ひろざねもうし)」という奇祭が紹介されていたのですが、実はわたしもよく知りませんでした。6年ごとに行われるのだそうです。

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毎日新聞 2008年12月5日〔山口東版〕

広実申し:「平家一族」が夜通しの宴 あす6年に1度の奇祭−−周南 /山口
 ◇450年以上続く−−−−周南・須金地区
 客人を高さ20〜30センチにもなる山盛りのご飯でもてなし、夜中も鉦(かね)や太鼓を鳴らして眠らせない−−。平家の落人伝説が残る山深い周南市須金地区で6日から7日にかけ、平家の武将、広実(ひろざね)左近一族の子孫とされる人たちが宴(うたげ)を繰り広げる「広実申し」がある。峠を挟んで隣り合う岩国市錦町向畑地区と接待、客人役を6年交代で務め、450年以上続くとされる奇祭。過疎と高齢化が進む集落の祭りを、都会暮らしの一族も里帰りして盛り上げる。

 12世紀末、源平の合戦に敗れた平家の広実左近は、一族の残党を引き連れて向畑に落ち延び、その子孫は須金で四つの集落を開拓したと伝えられている。広実申しは16世紀半ばから、別々に住む一族が6年に1度、子(ね)年(須金)と午(うま)年(向畑)に集まり、先祖を祭りながら互いの無事と結束を確かめ合ったことに由来するという。
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この祭りに参加された方のブログもありましたので参考までに。(12月6日以降の記事)
http://blog.livedoor.jp/trz_xx/archives/51191872.html

さて、この平家の武将「広実左近」なる人物は“広実左近頭(ひろざねさこんのかみ)”とも呼ばれており、どのような武将であったのかはよくわからないのですが、この祭りの歴史が「450年以上」というあたりにひとつのカギがありそうな感じはあります。

ただ、伝説の由来はともかく、テレビで紹介されたこの「広実一族」の方々が祭りの中で見せた表情が実に生き生きとしていたのが印象的でした。
メッセージ 242 morikeigetu さんに対する返信


保元の乱後の清盛一門(その1)   2008/12/19 20:59 [ No.250 ]
投稿者 : morikeigetu
保元の乱のおいて、清盛をはじめとする平氏一門が失ったもの……、それは摂関家というライバルであったと申しましたが、この言い方は10年・20年後からの結果論であり、この時点では適切ではなかったですね。
ただこののち「平治の乱」によって、一時的ではありますが、河内源氏を追い落とした結果、天皇家という複合権門の最大のライバルであった摂関家(ろどすたさん名言)が無力化していたため、ほぼ自動的に清盛たちが天皇家(院)と真っ向から対決せねばならなくなった…、それが失ったものになるのかなと、ふと思ったのです。

では実際に失ったものはといえば、叔父忠正一家とその所領という事になるのでしょうが、結論を言えば、清盛にとってこの失ったものは、義朝のそれと比べて極めて小さなものだったと言わざるをえません。いや、それぞれが失ったものの大小と、得たものの大小を合わせると大変な差となったようです。
没官された忠正の所領は、37で書きましたように散在する田畠数ヶ所であり、それを記録している『兵範記』保元2年3月29日条に併記されている頼長や家弘の所領と比べると、量的にも性質的にも劣っているのは明白で、つまり忠正一家を失った事による影響はほとんどなかったと言えそうです。

私は思うのです。
清盛勢が崇徳側についていたなら、この乱の勝敗のゆくえは五分と五分、どちらに転んでいたかわからない。それは美福門院も信西も承知していたでしょうし、清盛は清盛でおのれの政治的判断で天皇側に走ったのではありますが、「勝った天皇方についた」からではなく「崇徳側に行かなかった」から(同じ事のようですが…)こんな大きなモノを手にする事が出来たのだという結果を、弟頼盛やその母池禅尼に示さねばならないという重い課題を背負っていたのではないでしょうか。

乱後、清盛は播磨守に移り、安芸は経盛が後任、そして頼盛が常陸介となり知行国が3ヶ国になったのに加え、藤原忠実の知行国であった淡路も教盛が国司にとどまった事で4ヶ国の知行を獲得します。
7月17日には頼盛と教盛が清盛の申請によって昇殿を許され、9月4日検非違使左衛門尉基盛が侍中となり、さらに基盛は9月17日従五位下となります。

先日NHKの「その歴」で桓武天皇の平安京を放映していましたが、平安遷都後400年近くが経過して、大内裏もずいぶん荒廃していたようです。
信西は、閏9月11日に7ヶ条の新制を出し、後白河天皇のもとで国政改革を進めながら、大内裏の復興をも成し遂げていきます。
この乱後の実権者信西入道の強力なパートナーとなれた事が、清盛の得たものの中で最も大きかったのではないでしょうか。
メッセージ 249 rarara_roadster さんに対する返信


保元の乱後の清盛一門(その2)   2008/12/19 21:36 [ No.251 ]
投稿者 : morikeigetu
保元2年(1157)の大内の造営では、清盛は播磨国の知行により「仁寿殿」を、頼盛は安芸国で「貞観殿」を、経盛は常陸国で「淑景舎」を、教盛は淡路国で「陰明門」というそれぞれ主要な殿舎の造営を負担しました。
この時義朝が負担したのは、下野国で造営した「北廊」のみでありました。(五味文彦著『平清盛』)
むろん、これら平家一門による造営負担も、単に保元の乱によって得たもので行われたのではなく、正盛・忠盛以来の蓄財が大きく寄与したのであろうと思います。
(注・保元元年9月22日に安芸は頼盛、常陸を経盛が知行)


さて、話はかわって『広実申し』
おもしろく、興味深く読ませていただきました。
私もこの祭りについては、全く知りませんでした。
「平家伝説」については、語り始めるといささか難しい問題もあるので控えますが、「落人以来」という事ではなく、長年にわたって受け継がれてきた「文化」として大切にしていかねばならないと思います。
とかく重いものをひきずるような印象のある「平家伝説」の今後は、

>「広実一族」の方々が祭りの中で見せた表情が、実に生き生きとしていたのが印象的でした

というろどすたさんの一文が、すべてを指し示すかな。


いきなり訂正(汗)

(その1)の初っ端、「保元の乱のおいて」は、もちろん「保元の乱において」です。申し訳ありません。


12月28日。   2008/12/29 1:26 [ No.255 ]
投稿者 : morikeigetu
この日は、毎年私にとって特別な日でありまして、感慨深い日であります。

重衡による南都焼討ち。

その時にまた、深々とお話ししましょう。

陰暦12月28日には、彼の墓所に詣でます。


ろどすたさん!!   2008/12/31 19:45 [ No.258 ]
投稿者 : morikeigetu
お世話になりました。
また来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

よいお年を!!


けいげつさん   2008/12/31 20:16 [ No.259 ]
投稿者 : rarara_roadster
こちらこそ、一年間お世話になりました。

年末年始は、ネタを集めておきたいところなのですが、未だに年賀状を書いています(苦笑)

では、良いお年を!
メッセージ 258 morikeigetu さんに対する返信


あけまして、おめでとうございます。   2009/ 1/ 2 12:26 [ No.260 ]
投稿者 : morikeigetu
ふとしたきっかけで始めた『保元から壇ノ浦まで』でしたが、ろどすたさんの参加のおかげでここまで続ける事が出来ています。
あらためて、お礼申し上げます。

今年もまた、ご助力のほどをよろしくお願いします。
メッセージ 259 rarara_roadster さんに対する返信

憤怒の麻呂さん麻呂さんが「神輿振り」を追捕されました。

いやいや、よくもまあ   2009/ 1/ 3 21:50 [ No.276 ]
投稿者 : morikeigetu2
正月そうそう、くだらん投稿をする馬鹿者がいるもんだ。
私ゃ、morikeigetu氏とrarara_roadster氏のやりとりを、本職としてなかなか面白く拝見しておりますが、まあこのような掲示板ではありがちな「アラシ」によってヤラれているなと気の毒な次第 。 ま、そういう連中は自分でトピを立ち上げる度胸もない者ばかり。 お気になさいますな!
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: あけまして、おめでとうございます。   2009/ 1/ 3 23:56 [ No.280 ]
投稿者 : rarara_roadster
遅くなりました。

あらためて、新年おめでとうございます。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
メッセージ 260 morikeigetu さんに対する返信


Re: いやいや、よくもまあ   2009/ 1/ 4 0:03 [ No.281 ]
投稿者 : rarara_roadster
え?けいげつさん??じゃありませんよね?
とりあえず初めまして(で、よろしいのでしょうか?)

>本職としてなかなか面白く拝見しておりますが

なんと!それはぜひ本職ならではの投稿をお願いいたします。
なにぶん、わたしなどは素人の付け焼刃でありまして・・・(大汗)
今後ともよろしくお願いいたします!

それから、ご覧いただいている方々へ。
「荒らし」については、Yahooへの報告もしていますが、掲示板オプションの“便利な機能”などもあわせてご活用くださいませ。
メッセージ 276 morikeigetu2 さんに対する返信


こちらこそ…、   2009/ 1/ 4 5:56 [ No.282 ]
投稿者 : morikeigetu2
突然失礼いたしました。 ずっと拝見していたのですが、あまりにも傍若無人な投稿に怒りを覚えまして、ネームもmorikeigetu氏を無断でお借りしてしまいした。 本職と申しましても、たかがしれています。しかしながら、学問を愚弄する投稿は許せませんので。
メッセージ 1 morikeigetu にさん対する返信


ただ今、戻りました!   2009/ 1/ 4 21:18 [ No.289 ]
投稿者 : morikeigetu
ひと風呂浴びて、一杯いただきながら掲示板を開きますと…、
いやいや、大変な虫喰いですね。

それよりも、驚きましたmorikeigetu2様。
ネームなんてどうでもよい事ですが、恐縮かつ痛快(讃)。
アラシに荒らされるのは私の管理不足でありまして、投稿に時間がかかり過ぎ「空き家」同然にしておりますので、荒らされても仕方ないかなと…。
ただ、あの類のヤカラは、喰いつくのを待っているわけですから、無視するに限ります。
ろどすたさんがおっしゃたように、本職としてご鞭撻いただければ幸甚です。

ま、私も少々へそ曲がりでありまして、抵抗されればされるほど無視して勉強に力が入るタチでありまして、「虫」が増えれば増えるほど絶対に続ける所存であります。

morikeigetu2様、くれぐれも相手になさいませんように。

現在ろどすたさんとたった二人の語り物ですが、今回のご参加、感激至極であります。
今後とも、よろしくお願いいたします。

さて、ろどすたさん、
新年を迎え、そろそろ再開といきましょうか(乾杯)


たしかに、   2009/ 1/ 7 18:48 [ No.293 ]
投稿者 : morikeigetu2
驢鳴犬吠、無視するに如かず。 このトピックスの内容に関する投稿をして論ずるのは、個人的に種々の規制もありなかなか難しいのですが、差し障りのないところでお邪魔させていただこうかなと考えております。 その際は、どうぞよろしくお願いいたします。 morikeigetu氏、rarara_roadster氏の試みは、決して無駄ではないと感じております。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


やっと投稿します(大汗)   2009/ 1/17 15:24 [ No.303 ]
投稿者 : rarara_roadster
bR8
>保元の乱において清盛の去就が懸念されたというのは、それほど深刻なものではなく、むしろ頼盛の去就が清盛にとっての懸念ではなかったでしょうか

bQ50
>「勝った天皇方についた」からではなく「崇徳側に行かなかった」
>結果を弟頼盛やその母池禅尼に示さねばならない



池禅尼が重仁親王の乳母であったこともあり、信西や美福門院にしてみれば、平家、つまり「池禅尼・頼盛」が上皇方に同情するという懸念があったかもしれません。そのあたりが清盛が6月1日の高松殿への動員に漏れたことに影響していたのでしょうか。

しかし、たとえ急造の中継ぎとはいえ、後白河は王権の正当な後継者であるわけですから、平家が父祖の代から培ってきた白河・鳥羽両院との関係、清盛自身の政治的判断は、この騒乱においてはそのスタンスはすでに決定していたと思います。

池禅尼が「ヒシト 兄ノ清盛ニ ツキテアレ」と頼盛に告げたのは、そういった平家の立場を理解していたからこそなのでしょう。

まえの所で、『河内源氏の場合は生き残りを賭けて「骨肉の争い」を戦った』と書きましたが、平家の場合は、『生き残るために「分裂」を危惧した』という印象がないでもありません。

余談ですが、保元平治の乱において、清盛の政治的スタンスの特徴は、『相手との距離のとり方』に妙があるように感じます(微笑)。


ところで、NHKの「その時歴史が動いた」が、3月いっぱいで終了するそうです。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/090116/med0901160709000-n1.htm

その後任番組が

「歴史秘話ヒストリア」
http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20080723_doc.html

なんだか、とってもいや〜な予感がします(苦笑)。
メッセージ 289 morikeigetu さんに対する返信


ヒストリア(驚)   2009/ 1/17 17:40 [ No.304 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさんからの情報、見させていただきました。
(驚)というより、たしかに「いや〜な」感じがありますね。(苦笑)が理解出来ます。

「その歴」のあと番組ですから、なんぼなんでも滅法なものではないでしょうが…。
「物語」なのか「歴史」なのか微妙な線を、どう捉えるかでしょうね。
古代・中世を題材にするのは、キツイかなぁ。

さて、ろどすたさん。
今回のろどすたさんの投稿が、いいきっかけになりました。
「保元の乱」を簡単に対談総括しませんか?
その中で、次の「その時」を決めたいと思うのですが、いかがでしょう?
メッセージ 303 rarara_roadster にさん対する返信です


足掛け3年(微笑)   2009/ 1/19 22:46 [ No.305 ]
投稿者 : rarara_roadster
>「保元の乱」を簡単に対談総括しませんか?
>その中で、次の「その時」を決めたいと思うのですが、いかがでしょう?

了解です。
しかし、振り返ってみれば戦闘は7月11日だけでしたが、そこに至るまでのそれぞれのエネルギーの蓄積に改めて驚かされますね。

どうも白河院のツケをみんなで払わされたような・・・。
メッセージ 304 morikeigetu さんに対する返信


ツケの代償は…、   2009/ 1/19 23:46 [ No.306 ]
投稿者 : morikeigetu
大きかったようですね。
摂関家がワリカン負けしたような感があります(笑)

>エネルギーの蓄積

これは確かに感じます。
その解決に使われた「組織的な武力」もまた都の中では初めての経験で、たった一日だけに、よけい爆発的に思えるのでしょうね。

ところで、後白河天皇は自分が中継ぎだという自覚というか、そういう立場であるという事の認識はあったのでしょうか?
メッセージ 305 rarara_roadster さんに対する返信


「院政」のゆらぎ   2009/ 1/20 21:05 [ No.307 ]
投稿者 : rarara_roadster
保元3年(1158)、後白河は守仁親王(二条帝)に譲位して上皇になっていますね。
このことは、兵範記に「仏と仏の評定」とあり、あきらかに美福門院と信西の意図していたことであると認識されています(五味文彦氏ら)。

あくまで「院政という政治システム」という面で考えた場合、これにより後白河は王権(二条帝)の庇護者である「治天の君」となったわけですから、その意味からすれば中継ぎ云々に関わらず、一応天皇家のトップになったことになります。

個人的には、この時点で後白河の頭の中から“中継ぎ”という単語は吹っ飛んだように思っています(苦笑)。

しかし、美福門院や信西の思惑はあくまで『鳥羽院の最終的な後継者』としての二条帝擁立であり、彼らにとってあくまでも後白河は『そのための中継ぎ』に過ぎません。鳥羽院の荘園も美福門院や皇女である八条院に大半が継承されており、「治天の君」といっても、その権威は著しく低いものといえます。

一方で、形式的に後白河は二条帝の庇護者であり、新しい王権は「中継ぎの(権威の低い)治天の君に擁護された王権」という難解な構図になってしまいました。そこまでして崇徳の皇統を否定したかったということなのでしょうか・・・。
メッセージ 306 morikeigetu さんに対する返信


「思惑」のゆらぎ。   2009/ 1/21 10:39 [ No.308 ]
投稿者 : morikeigetu

なるほど。
後白河の譲位は「仏と仏の評定」、つまり当初の予定通りであったと。

>この時点で後白河の頭の中から"中継ぎ"という単語は吹っ飛んだ

いいですね(笑)、私の「足掛け3年」のモヤモヤも吹っ飛びました。

彼(後白河)の院政はこの後(一時中断はしましたが)建久3年(1192)までの長きにわたり、その間の天皇は二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と続きます。
まさしくこのトピで語ろうとしている時間。
彼抜きでは語れない、私の頭の上の黒雲のような存在なのですね。

すみません、話が「ゆらぎ」ました。

「保元の乱」といえば…、
例えば平成16年度教科書見本(実教出版)の「保元の乱」は、
『12世紀のなかころ、天皇家・摂関家では、それぞれの内部で争いがたえなかった。やがて、鳥羽法皇・後白河天皇と、崇徳上皇との不和が、摂関家における関白藤原忠通と弟頼長との対立に結びつき、1156(保元元)、鳥羽法皇の死をきっかけに、ついに都における合戦にまで発展した。崇徳上皇と頼長は、源為義・平忠正らを味方にして政権をにぎろうとしたが、後白河天皇と忠通は、源義朝・平清盛をまねいてこれをうたせ、合戦は後白河天皇側の勝利に終わった(保元の乱)』(高校日本史B)

ま、だいたいこのような感じで把握されている平安時代末期の事件ですね。
「赤組」「白組」という合戦での敵対関係が強調されるあまり、それぞれの「組」内部の思惑や事情、特に勝ち組のそれが見えないですね。

後白河と信西の関係が、難しいですね。
信西の大内裏復興が後白河天皇のおん為ではなく、二条天皇のおん為であったという事で、ようやく理解出来ます。
後白河天皇新政がスタートして大内裏も復興、途絶えていた内宴・内教坊の舞姫御覧や相撲節会などの復活、それ以前に強力な荘園整理を行い、まさしく新時代の到来を貴賎ともども感じていたでしょう。

予定通りの事とはいえ、後白河が譲位した時点で信西は「燃え尽き症候群」になったのかもしれませんね。
逆に、後白河は「燃え始め中毒」(笑)
メッセージ 307 rarara_roadster さんに対する返信


義経は天才戦術家か?   2009/ 1/22 14:17 [ No.309 ]
投稿者 : abyz50008
一の谷の戦の鵯越にしても屋島の戦の嵐の渡海も一つ間違えば無謀な作戦になっていたかも知れません、義経の戦術を 高く評価しない評論家もいます
私は壇ノ浦の海戦に注目しています、時の運もあるでしょうが、この海戦に勝利したことはやはり評価すべきだと思います、 奥州時代も含め平家との戦以前は一度も戦の経験の無い義経がこの海戦に勝ったのはすごいと思います
それとも義経は奥州時代に海戦の経験があったのでしょうか、例えば安東水軍と行動を共にしたことがあるとか
Re: 義経は天才戦術家か? 2009/ 1/22 20:38 [ No.310 ]


Re: 義経は天才戦術家か?   2009/ 1/22 20:38 [ No.310 ]
投稿者 : rosskemp09
壇ノ浦の合戦の勝因は、私は以下のように考えまする。
1.源氏の船数が、平家の船数を上回っていたこと。2.戦闘中に、平家方から源氏方に寝返った部隊が出たこと。3.合戦の最終局面で、義経が平家方の水夫を射殺させたこと。

壇ノ浦の合戦は、義経の指揮能力とは関係ないところで勝敗が決まったのではないでしょうか。
それよりは、一の谷の合戦や屋島の合戦は、義経戦術の真骨頂ではないだろうか。騎兵による長距離機動にしろ、鵯越えの奇襲にしろ、よほど騎馬の扱い方に習熟していなければ、ああはいかない。馬どころの奥州で成人した義経ならではの戦ぶりじゃないですか。
メッセージ 309 abyz50008 にさん対する返信


Re: 義経は天才戦術家か?   2009/ 1/22 22:55 [ No.311 ]
投稿者 : abyz50008
一の谷の鵯越の逆落としなんかは織田信長の桶狭間の合戦を思い出します、後世の武将は義経の戦法を真似ているようなところもありますから、後白河法皇の和平勧告にすっかりだまされた平家は油断していました、今川義元も初戦の戦勝に一瞬の油断を見せてしまいます、この油断を突いた義経と信長はやっぱり偉かったのかもしれません、
山本五十六の真珠湾奇襲攻撃も義経の奇襲作戦が頭にあったのかもしれません
壇ノ浦合戦は戦闘員でない船の漕ぎ手を討つという当時としてはルール違反の戦法を用いました、この辺が海戦での義経を評価しないという見方になったのではないでしょうか
メッセージ 310 rosskemp09 さんに対する返信


Re: 義経は天才戦術家か?   2009/ 1/23 3:35 [ No.312 ]
投稿者 : rosskemp09
壇ノ浦の戦いは大船団同士の正面衝突で、源氏方が数で押し切った戦いです。義経らしからぬオーソドックスな戦い。
決してそれが悪いわけでは無いが、所詮水軍まかせの戦いです。義経ならではの独創的戦術が見られないと思いませんか?
私は一の谷や屋島での戦闘ほど、評価はしません。
メッセージ 311 abyz50008 さんに対する返信


Re: 義経は天才戦術家か?   2009/ 1/23 10:23 [ No.313 ]
投稿者 : abyz50008
壇ノ浦の戦いは松浦水軍、伊予水軍、熊野水軍等の水軍の戦いでもありますが、やはり武蔵坊弁慶の説得により熊野水軍を味方につけたことが大きな勝因のひとつになりました、弁慶のような人物を家来に持ったのも義経の才です
確かに貴方の言うように義経の采配は勝敗には直接影響はなかったかもしれません
メッセージ 312 rosskemp09 さんに対する返信

いらっしゃいませ。   2009/ 1/23 18:32 [ No.314 ]
投稿者 : rarara_roadster
さて、非常に過疎っているこのトピに書き込んでいただき、ありがとうございます。
僭越ですが、トピ主さんに変わり、ご挨拶のかわりに書き込みに際し、ご協力をお願いしたいことがあります。


このトピの「投稿番号bP〜4」のあたりを参考にしていただくとよろしいのですが、ここでは「保元平治の乱」から「治承寿永の内乱における『壇ノ浦の戦』」までを考察し、平家一門の興亡をおいかけることがテーマです。

そのために、平家を取り巻くさまざまな要因、たとえば源氏であり、朝廷や院の様子についても考察をしているところです。ですから、義経ももちろんその中に含まれます。

ただ、ランダムにいろんな合戦や事件を取り上げるよりは、“時系列に沿って”討論・考察を行うほうがこのトピの趣旨にそうだろうということで展開しています。いずれは壇ノ浦の合戦もテーマにすることになりますが、現在は保元の乱のまとめをしつつ、平治の乱に向けて準備をしている状態です。

そのあたりをご理解いただければさいわいです。保元の乱でネタがありましたら、ぜひ投稿をお願いします!


それからもうひとつ。

ときどき脱線することもありますが(苦笑)、基本的には「愚管抄」「兵範記」「玉葉」「吾妻鏡」といった史料を参考にし、または「保元物語」「平治物語」そして「平家物語」といった軍記物も“文学・史学”といった史料性格を考慮しながら使っています。なお、研究・論説の引用に際しては、誰のどの本によるものかを明記していただければみんなが参考にし易いですね。

せっかくですから義経について少しだけ。

安東水軍との関わりを例に挙げておられますが、実は「安東水軍」というものは現在ではその存在は否定されています。そもそもこれは、「大乗院文書」にあった“関東御免の津軽船”が、「青森県の歴史(山川出版・昭和45年1版)」などで「津軽十三湊にあった」とされ、それが当時十三湊に栄えた豪族「安東氏」と結びついて「安東水軍」となってしまったものです。

ところが、本来は越中放生津(富山県)のものであり、「津軽十三湊にあったとされたのは文書の誤読である」ということが網野善彦氏らに指摘され、のちに安東水軍は否定されるに至りました。新版の「青森県の歴史」には、もう安東水軍のことは記載されていないそうです。

>例えば安東水軍と行動を共にしたことがあるとか

これは高橋克彦氏原作で大河ドラマにもなった「炎立つ」にもこのような描写がありますが、作者の高橋氏はこの時期、偽書である『東日流外三郡誌』に傾倒しており、その影響下で「炎立つ」も執筆されています。三郡誌の世界では安東水軍が大活躍します(苦笑)。

以上のことから、義経と、存在しない「安東水軍」が一緒になることはありえない、ということが結論となります。

また、あまり先走ってもいけないのですが、「源義経」という人は、あまりに謎が多く、その実像はわからないことも多いと思います。その分、伝説が先行してしまっている部分もあり、壇ノ浦の戦における“「戦闘員でない船の漕ぎ手を討つという当時としてはルール違反の戦法」という通説”も含め、慎重に扱いたいと思っています。
メッセージ 309 abyz50008 さんに対する返信


Re: いらっしゃいませ。   2009/ 1/23 19:07 [ No.315 ]
投稿者 : abyz50008
ご指摘ありがとうございます
通説と史実とは違うこともありますので、私も慎重な書き込みを
これからは心掛けたいものです、でも素人の歴史愛好家の限界というか
通説に従わざるを得ない部分もあります、これからも最新の説を紹介して頂ければ幸いです
メッセージ 314 rarara_roadster にさん対する返信


Re: いらっしゃいませ。   2009/ 1/23 20:55 [ No.317 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさん、申し訳ない。
よくぞ、仰って下さいました。

ここ数日の訪問者の投稿は拝見しておりましたが、はっきり申し上げて、挨拶抜きの突然の投稿とこれまでの経緯を無視した内容に関しては、トピ主として無視させていただきます。
もちろん、この掲示板の所有権はYahoo!JAPANにありますから、我が物として主張するものでもありません。

>なお、研究・論説の引用に際しては、誰のどの本によるものかを明記…。

これは、絶対に必要な「礼儀」であります。
「私説」であっても、現在「通説」とされている著書や記録に対してのものですから、まずその「通説」とされている根拠になるものを具体的に挙げ、それに対する「私説」の根拠を述べなければならないと考えています。

私の知人に埋蔵文化財調査指揮に携わっている人がいます。
彼の言葉に、かつて私は大きな感動を受けました。
『私は自分が学んできた歴史に興味を持ち、この道に進んだ。歴史は生き物であるから、いつか必ず変わる。しかしそこに私情は、ない。
実証史学の苦しみは永遠に続き、感激は生涯に一度味わえるかどうかの奇跡に近い』

このトピは、そこまでの野望を持ちません。
けれど、検証と研究には真摯に臨みたいと考えています。

義経の登場までには、まだまだ時間がかかりますが、一の谷から壇ノ浦にかけては「伝説」との闘いになると腹をくくっています。


さて、ろどすたさん。
対談というおもしろさに、まさに「中毒」になりかけていますが、次なる「その時」を、またさぐりましょうか。
メッセージ 314 rarara_roadster さんに対する返信


Re: いらっしゃいませ。   2009/ 1/23 22:33 [ No.318 ]
投稿者 : abyz50008
横からすみません
このトピへの突然の乱入まことに申し訳ありません、お許しください
トピ主さんの気分を害したのであれば私にあったトピへ引っ越しします
これからも皆さんの書き込みを横から拝見させていただきます
このトピがいつまでも続くことをお祈りいたします
メッセージ 317 morikeigetu にさん対する返信


abyz50008様。   2009/ 1/24 18:07 [ No.319 ]
投稿者 : morikeigetu
あらためて、ご挨拶承りました。

引っ越すとおっしゃいますが、このカテゴリーの中には適当な引っ越し先もなかろうかと思います(笑)

保元の乱でさえ「足掛け3年」です。
義経の登場には気の遠くなる時間がかかると思いますが、ろどすたさんの仰る通り、このトピなりのルールをご承知いただいた上であれば、どうぞ遠慮なくご参加下さい。
メッセージ 318 abyz50008 さんに対する返信


Re: abyz50008様。   2009/ 1/24 19:21 [ No.320 ]
投稿者 : abyz50008
お気遣いありがとうございます
保元の乱については詳しくありませんので、勉強して書き込みできるようになりたいものです、
メッセージ 319 morikeigetu さんに対する返信


義経といえば・・・   2009/ 1/24 19:43 [ No.321 ]
投稿者 : rarara_roadster
次は「平治の乱」ですから、義経(牛若)の誕生はもうすぐの予定です(微苦笑)。

いや、予定日は未定ですが・・・。

しかし、平治の乱後の牛若たちの処遇に関しては、通説にすこしメスを入れるようになると思います。

ちょっと予告です(笑)
メッセージ 320 abyz50008 さんに対する返信


思うに、「保元の乱」の発生は…、   2009/ 1/26 17:36 [ No.322 ]
投稿者 : morikeigetu
人為的要素が、かなりあったかなと感じます。
むろん、何の動機も不満もあるいは野望もない人々に向けて人為的策謀をしかけても、合戦にまで至る確率は低いでしょう。
「窮鼠」が「猫を噛む」かどうかは、わからない。
噛もうとするところまで追いつめて噛ませなかった、「変」に近い「乱」という印象を持ちました。

その終結も、戦後処理も早かった。
乱の発生は11日鶏鳴、午後には決着。
13日崇徳上皇を守護(確保)、22日に頼長の死を確認、23日崇徳上皇配流、28日平忠正ら斬首、30日為義ら斬首、8月3日上皇方の公卿ら配流…。
そして6日、20日と鳥羽院の仏事が行われ、閏9月18日に乱終結ともとれる新制の宣旨が発せられます。

人為的要素が強いと思って見るためか、その片付け方も整然として怜悧。
そして私は、ふと思ったのです。
保元元年(1156)閏9月18日、ここから「平治の乱」は始まるのではないかと。

「平治の乱」の「その時」をいつにするか…。
候補が多いです。
12月9日清盛不在時に起きた藤原信頼・源義朝による三条烏丸御所襲撃か、12月17日の清盛六波羅帰還か、12月25日の二条天皇の六波羅行幸か、26日の源平激突か、あるいは翌年3月11日の頼朝配流にするか…。
これ以外も含め、ろどすたさんに任せようかな(笑)
メッセージ 321 rarara_roadster さんに対する返信


業務連絡(笑)   2009/ 1/30 18:52 [ No.323 ]
投稿者 : rarara_roadster
ついに「その歴」で保元・平治の乱です!!

武者の世になりにける
〜保元・平治の乱 源義朝の戦い〜

平成21年2月4日(水)22:00〜22:43 総合


本郷 和人(東京大学史料編纂所准教授)

平安時代の末、京都で繰り広げられた「保元・平治の乱」。この戦乱に乗じて政権を取ろうとした人物が源義朝である。彼の原点にあったのは、貴族に都合良く使われる武士、という屈辱感だった。義朝は武士の立場を変えようと兵を挙げ、権力を握る有力貴族を倒すが、それは義朝の武力を利用し、後で使い捨てようと企む貴族の罠だった。己の境遇と闘い、武士を歴史の表舞台に押し上げるべく戦った源義朝の信念に迫る。

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html
メッセージ 322 morikeigetu にさん対する返信


Re: 思うに、「保元の乱」の発生は…、   2009/ 1/31 15:06 [ No.324 ]
投稿者 : rarara_roadster
>「変」に近い「乱」という印象

これはわたしもそう思います。上皇派(摂関家主流)はすでに7月11日以前の時点で政治的には完全に敗北しており、武力衝突は必ずしも決着の最終手段ではなく、あくまで事件のプロセスの一過程として捉えてもいいと思っています。

そうしてみると、保元の乱の本質は武力衝突ではなく、あくまで「政変」として見ることが妥当ではないでしょうか。

後白河が二条に譲位した後も院政は続きますが、それは白河・鳥羽院政期のものとは大きく違ってきていると思います。


>人為的要素が強いと思って見るためか、その片付け方も整然として怜悧

保元の乱を、あえて勝者・敗者にこだわらずに見てみると・・・

天皇家、摂関家という二大権門はその力を大きく削がれ、ある意味「痛み分け」の状態です。また、義朝も左馬頭の官職や昇殿を許されたとはいえ、父親、弟たちを失いました。

平家、というか清盛は、この保元の乱においてはあまり表には出てきませんが、前にも少し触れたように「自分の立ち位置」を慎重に見極めようとしている印象があります。

対照的なのが藤原信西で、保元の乱から「鎌首をもたげ始めた」といったところでしょうか。

もちろん、それをもって「信西が保元の乱の黒幕」などと短絡的に結びつけるつもりもありませんが、果たして「燃え尽き症候群」なのでしょうか(微笑)。
もしかすると、後白河以上に燃えていたのかも知れません。


>「平治の乱」の「その時」をいつにするか…。
>候補が多いです。
>これ以外も含め、ろどすたさんに任せようかな(笑)

いや、わたしもいろいろと考えているんですが、もしよかったら今度の「その歴」保元・平治の乱を見た上で改めて考えてみてもよろしいでしょうか?
NHKの予告を見ると、なんだか「突っ込みどころ」が結構ありそうな予感(悪寒?)がするんですよねぇ・・・。
メッセージ 322 morikeigetu にさん対する返信


同感!   2009/ 1/31 19:07 [ No.325 ]
投稿者 : morikeigetu
>NHKの予告を見ると、なんだか「突っ込みどころ」が結構ありそうな予感(悪寒?)がするんですよねぇ…。

ろどすたさんの紹介して下さった「その歴」のサイトを見ました。

「保元・平治の乱」を「義朝の信念」で語る…。
う〜ん、切り口は斬新ですがねぇ。
我々の「その時」は、ろどすたさんの仰る通り、2月4日以降に決定しましょう。

あ、それと…、
信西の「燃え尽き症候群」(笑)

いささか思慮の足りない発言でした。
確かに乱後の信西の見事な政策は、「燃え尽きて」いては無理ですね。
それに彼の最期における行動も、「生に対する執念」のようなものを感じますからね。
メッセージ 324 rarara_roadster さんに対する返信


こんばんわ、星一徹です。   2009/ 2/ 4 23:14 [ No.327 ]
投稿者 : rarara_roadster
>「保元・平治の乱」を「義朝の信念」で語る…。
>う〜ん、切り口は斬新ですがねぇ。

どうもNHKは、この時代は「鬼門」なんでしょうかねえ・・・。
以前、「義経」の時のその歴(ゲストは宮尾登美子氏)もグダグダの内容でしたが、今回の放送も最近の研究成果はほとんど生かされていないように思いました。

まだ教育テレビの高校講座「日本史」のほうがマシでしたね。「軍事貴族」の概念もきちんと盛り込んだ内容でしたし。

それにしても、あまりに酷すぎる。まるで「大河ドラマ」のような作り方。

平治の乱の首謀者が義朝?
熊野から帰ってくる清盛を待ち受けるように義朝の“家来”が進言する??

どこの国の平治物語なの?

今、わたしの目の前のちゃぶ台、ひっくり返っています(笑)
メッセージ 325 morikeigetu さんに対する返信


開いた口が塞がらないどころか…、   2009/ 2/ 5 19:29 [ No.328 ]
投稿者 : morikeigetu
顎が外れた!!

悪寒のせいだったのだ。
風邪をひいてしまって、昨日リアルタイムで見られなかったので、今見終わりました。
ろどすたさんの投稿を既に読ませていただいていたので、腹をくくって、怒るまい怒るまいと念じながら…。

目の前に「ちゃぶ台」はなかったのですが、手に持った芋焼酎の椀をぶちまけそうになりました(大笑)

本当に、どうしたのでしょうね。
番組終了だから「えいや!」でいったのでしょうか。
それとも今の流行の「行列」的、雑学歴史に媚びようとしているのか…。
「その歴」本来のスタンスを失って、遠い所に行ってしまいましたね。
源為朝も藤原信頼も源義平も、クソくらえでしたね。
それよりも何よりも、「歴史」は実証された点と点をいかに真摯に結びつけるかという点線の部分が最も弱点であり、そここそが安易に扱われる部分であるという事を実感して「その道」の人々が頑張っているのに、なんという体たらく。

「保元・平治の乱」を知らない(事があるのかどうか知りませんが…)人がこれを見た時、『貴族と武士』という前時代的日本史に逆戻りですよ(怒)

きちんと学んでいる学生たちが、鼻で笑ったと思いたいですね。


…、もういいや。
ろどすたさん、我々の『平治の乱』。
提案です。
二部に分けませんか?
ひとつは「三条烏丸御所襲撃」、そしてもうひとつをどうするか…(悩)
メッセージ 327 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 開いた口が塞がらないどころか…、   2009/ 2/ 6 18:57 [ No.329 ]
投稿者 : rarara_roadster
>ろどすたさん、我々の『平治の乱』。
>提案です。
>二部に分けませんか?
>ひとつは「三条烏丸御所襲撃」、そしてもうひとつをどうするか…(悩)


平治の乱は、保元の乱以上に人物の相関図が複雑ですからねえ・・・。いずれにしてもそのあたりを掘り下げておかないと、乱そのもののなりたちがあやふやになってしまいますしね。

特に最近では藤原信頼の人物像についても再評価されていますし。
あのような「その歴」を見てしまった後では、なおさらこういったことに重点をおく必要があると思います。
先日放送された「その歴」制作に際し、NHKが用いた史料は、天井から突然落ちてきた長持ちの中にあったのでしょう。
「その歴」については、できれば、morikeigetu2さんあたりのご意見も書き込んでいただきたいですね。


個人的に考えていたのは、以下のポイントです。

1、平治の乱相関図(なぜ信西が粛清されたのか?)
2、三条烏丸御所襲撃と上皇天皇の幽閉(井戸は官位をもらえるか?)
3、清盛の帰還と反撃
4、戦後処理の虚実(頼朝・義経について)

すみません。2、については多少壊れています(苦笑)
4、については、頼朝・義経の名前を出してはいますが、むしろ、乱直後の清盛の立場を再点検するためのネタになると思います。
そこから次なる戦いにも繋がると思いますし。

これらのポイントを踏まえつつ分けるとしますか。
メッセージ 328 morikeigetu さんに対する返信


rarara_roadster様   2009/ 2/ 6 23:29 [ No.330 ]
投稿者 : morikeigetu2
ご勘弁ご勘弁 。 そんな「魔法のランプ」を擦るような事を言わないで下さいませ。 私、結構嬉しがりでございまして。 …でね、前回のあの番組は私も拝見いたしましたが、史学側の人間が「物語」を完全排除して、鎌倉以降の見地から「必然」を求めたら、ああなるのではないでしょうか。 どなたかの「逆・・…」という著者を想起させますが、あの著者には保元から治承寿永にさほど触れていなかったと記憶します。 唯一信頼出来るモノを『愚管抄』の「ムサノヨ」に求め、NHKはテレビ的に面白くないので困っているなという印象。 rarara_roadster様、morikeigetu様、お続け下さい。あなた達の方が、よほど面白く、わくわくする。
メッセージ 1 morikeigetu にさん対する返信です


あっと驚く………。   2009/ 2/ 7 3:33 [ No.331 ]
投稿者 : morikeigetu
ただ今戻りまして、openしたら…。
来られてましたね、morikeigetu2様。

ろどすたさん、ひょっとしたらこのお方、私知っているかもなのです。
この掲示板上ではこれ以上申し上げる事が出来ないのですが…。
もちろん確信はないですが、こう書くとPCの向こうでニヤニヤしておられるかも。
ろどすたさんの挑発にまんまとひっかかって投稿されてますが、まだネコかぶってますよ。(私の思っているお方ならば、ですが)

面白いから、放っておきましょう。
そのうちウズウズと出てこれずにはおれなくなるはずです(微笑)


さてさて、『平治の乱』に関わる人的相関図。
仰るとおり、かなり「しんどい」。あまり触れたくない部分もありますけど、それ抜きでも語れないし…。

>井戸の官位

藤原伊通、この人もまた、ある意味重要。

我々の『平治の乱』における「その時」の設定は、NHKの轍を踏まないようにしましょう。ドラマティック兼スペクタクルな合戦「その時」より、もっと重要な「その時」がありそうなのです。

>乱直後の清盛の立場

いいですね。
微妙なのですよ、清盛自身がまだ自分で自分を確定出来ていないレアな時間だと思うのです。

ともかく、私個人的に『平治の乱』をひとつの「その時」に集中させるのは、かえって論点が現首相のようにブレてしまいそうで…。
ろどすたさんの「押さえ」を尊重したいのです。
メッセージ 329 rarara_roadster さんに対する返信


「平治の乱」その時設定(案)。   2009/ 2/10 23:16 [ No.336 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさんの1〜4のポイントを、じっと眺めながら「その時」を考えてみました。

1と2は、ひとつになるかな、いや、ならないか…。
1が結構重要な気がして、しようがない。
そうすると、ひとつ目を「三条烏丸御所襲撃」と考えたけれど、ふと「信西の死」が、ひとつの区切りになるのかも。もっと言えば、彼の首が西獄門に掛けられた時かも…。

>なぜ信西が粛清されたのか?

「平治の乱」の人的相関図を一本一本解していくと、まずは信西の死に到達するかもしれないと思ってしまったのです。

ふたつ目…。

ひとつ目を検証していく中で決まるかもしれないけれど、そのひとつ目の人的相関図がゴロリと180度変わる「二条天皇六波羅行幸」。
つまり、3「清盛の帰還と反撃」に続くのですね。

そして、その外側を、まるで通行人のような役を演じている大物がいる事に気付く。

「平治の乱」、思ったより大変な事件だったかもしれないですね。
メッセージ 329 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 「平治の乱」その時設定(案)。   2009/ 2/17 19:23 [ No.344 ]
投稿者 : rarara_roadster
>morikeigetu2さん
わたしのことは、「ろどすた」で結構ですよ。
なるほど。「魔法のランプ」とは上手いことをおっしゃる(微笑)
これからもときどき「すりすり」させていただきましょう。

と、思っていたら・・・

>ひょっとしたらこのお方、私知っているかもなのです。

な、なな、なんですとー!?
マジっすか?

ひょっとしてわたし、包囲されてます?


ま、それはともかく。

>ふと「信西の死」が、ひとつの区切りになるのかも

同意です。ここまでを、まず、まとめてみると言うのは如何でしょうか。

藤原信西に不満を持つ人たちが、彼を葬り去ろうとして、事を起すわけですが、その中心人物が藤原信頼になります。まあ、信頼が中心であることは間違いないのですが、あながちそうとは言い切れない部分もありますので難しいところではあります。

で、その藤原信頼という人物についてなのですが、平治物語や愚管抄では・・・

<平治物語>
文にもあらず、武にもあらず、能もなく芸もなし。只朝恩にのみほこって・・・
<愚管抄>
アサマシキ程ニ御寵愛アリケリ・・・、「日本第一ノ不覚人」ナリケル・・・

などと散々な状態です。
このような人物と源義朝はなぜ提携するに至ったのか?

従来の物語史観では、信頼は信西の謳歌を苦々しく思っていて、同様に源義朝が、信西と姻戚関係を結ぼうとして拒否され、保元の乱で平家に大きく官職の差をつけられ、挙句に清盛が信西と姻戚関係を結んでいる、といった不満を持っていることに目をつけて声をかけたとされます。

元木泰雄氏の平治の乱「読みなおし」のひとつが、そのような信頼と義朝の関係の再点検です。詳細は追ってご紹介していきますが、信頼の官途を再点検し、その中で源義朝との接点を洗い出していきます。

もうひとつむずかしいのが、藤原経宗、惟方といった人たちになりますか。なんせ、二条天皇の叔父や警察長官といった立場の人たちが乱の首謀者というわけですから。

平治の乱を、「院近臣と天皇親政派の争い」といった観点でくくる人もいますが、簡単に分けることもできない気がします。

項目のポイントはこういった部分でどうでしょう?
メッセージ 336 morikeigetu さんに対する返信


それでいきましょう!   2009/ 2/18 13:52 [ No.345 ]
投稿者 : morikeigetu
では、ロードスター号の針を平治元年(1159)12月17日にセットしましょうか?

そこに至るまでの話がかなり長くなりそうですが、私達が学んできた平清盛と源義朝の「平治の乱」というのは実はこのあとの事であって、信西の死に至るもうひとつの「平治の乱」をじっくり検証していきましょう。


あ、それと、私はろどすたさんを包囲するつもりなど微塵もありません。
このトピは、ろどすたさんあっての続け甲斐です。

morikeigetu2さんは、ふと感じるところがありましたので…(笑)
もちろん問うてもyesもnoもないでしょうから、確定のしようがありません。
どなたであろうが、大きな味方であるかなと思っています。
メッセージ 344 rarara_roadster にさん対する返信
生存証明   2009/ 2/25 0:18 [ No.349 ]
投稿者 : rarara_roadster
いま、藤原信頼についてまとめています。
セオリーからすれば、まず、信西から手をつけるべきかもしれませんが、平治の乱をほじくるには、やはり信頼の検証が不可欠だと思いまして。

それに、そこから信西を逆に見つめてみるのもおもしろいのでは、などと勝手に考えています。

>私はろどすたさんを包囲するつもりなど微塵もありません。
>このトピは、ろどすたさんあっての続け甲斐です。

いやいや、むしろ包囲していただきたいくらいです。
基本的にわたしは「ほめられて伸びるタイプ」なのですが、やはり刺激も必要ですし(微笑)


・・・墓穴、掘ってしまったかも。
メッセージ 345 morikeigetu さんに対する返信


いいですね、それ。   2009/ 2/25 18:07 [ No.350 ]
投稿者 : morikeigetu
では、藤原信頼に関してはろどすたさんにお任せして、私は保元の乱直後からの信西の政策を『兵範記』に沿って見てみましょうか?

>セオリー

になってしまうので、せっかくのろどすたさんの意図に水をさす事になりますか?

とりあえず、信頼という人物をまったく意識していなかった時の信西と、その時信頼はどこで何をしていたのか…、知りたいところですね。

>むしろ包囲していただきたいくらい

実は私もそう思っていたのです(笑)
でも、「本職」の「論」は資産ですからねぇ。なかなか引っかかりませんよ、きっと(微笑)
メッセージ 349 rarara_roadster にさん対する返信


Re: いいですね、それ。   2009/ 2/25 21:20 [ No.351 ]
投稿者 : rarara_roadster
>保元の乱直後からの信西の政策を『兵範記』に沿って
>信頼という人物をまったく意識していなかった時の信西と、その時信頼はどこで何をしていたのか…、

おお、ぜひお願いいたします。
そして、お互い提示した上で突き合わせながら検証してみましょうよ。
保元の乱を「序」とするならば、平治の乱は「破」。
そして来るべき治承・寿永の内乱が「急」・・・。


ちょっと違うか・・・。
メッセージ 350 morikeigetu さんに対する返信


Re: いいですね、それ。   2009/ 2/25 21:39 [ No.352 ]
投稿者 : hn2602mk2
 横レス失礼します。

>とりあえず、信頼という人物を全く意識していなかった時の信西と、その時信頼はどこで何をしていたのか…、知りたいところですね。

 私も信頼が何処で何をしていたかは、大いに関心がありますが、ただ、「信西が信頼を全く意識していなかった」ということは有り得ないように思うのですが・・・。
 二人が交流があったというほどではないにしても、同じ藤原氏傍流出身者として、互いに気にかかる存在ではなかったかと思いますが。
メッセージ 350 morikeigetu さんに対する返信


Re: いいですね、それ。>待ってました!   2009/ 2/25 21:52 [ No.353 ]
投稿者 : rarara_roadster
>同じ藤原氏傍流出身者として、互いに気にかかる存在ではなかったかと思いますが

hn2602mk2さん、お久しぶりです!
あまりネタばらしになってはまずいのですが(微苦笑)
実は、このあたりのことにも元木泰雄氏は言及しています。
それも含めて、今、仕込んでいる最中ですので(微笑)

やばい・・・
墓穴が広がったかもなのです(やや泣)
メッセージ 352 hn2602mk2 さんに対する返信


いいぞ、いいぞ!   2009/ 2/26 11:38 [ No.354 ]
投稿者 : morikeigetu2
良い参加者が増えると、良い仮説が増える。 良い仮説が増えると、それを真摯に研究・探索し、実証しようとする姿勢が生まれる。 いいぞ、いいぞ。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


本当に、お久しぶりです。   2009/ 2/26 19:26 [ No.355 ]
投稿者 : morikeigetu
>とりあえず、信頼という人物を全く意識していなかった…

誠に申し訳ありません、言葉足らずでした。
一般的な「たぶん」、という想定のもとでのスタートの立ち位置として書きました。
それが、どうコロんでいくか(微笑)

倍ほども年齢の違う信西と信頼。
官位とは別の「権勢」という部分で圧倒的優位に立っていた信西が、気がつけば「トラック勝負」に持ち込まれていたわけですから、意識せずにはおれないと思います。そしてそれが「いつ」からなのか…。
ろどすたさんの「仕込み」が楽しみなところです。

hn2602mk2さん、今後ともどうぞよろしくお願いします。
メッセージ 352 hn2602mk2 さんに対する返信


信頼「誰がカバやねん?!」   2009/ 2/26 22:06 [ No.356 ]
投稿者 : rarara_roadster
さあ、墓穴にはまることを恐れずに行ってみたいと思います。

あえて「藤原信頼」を引っ張り出してきました。
というのは、平治の乱において大きなポイントとなるのが「信頼と義朝」の関係だと思うからです。
わたしの種本である「保元・平治の乱を読みなおす」元木泰雄(NHKブックス)をベースに探ってみたいと思います。

平治物語によると、藤原信頼は“天津児屋根の尊の御苗裔、中関白道隆の八代の後胤、幡磨三位季隆の孫、伊与三位仲隆が子なり”となっていますが、正しくは祖父は「基隆」、父は「忠隆」となります。御堂関白藤原道長の弟が中関白道隆で、その子の隆家(寛仁3年(1019)太宰権帥として赴任中に刀伊の入寇を撃退)が信頼の先祖となります。

祖父の基隆は、母が堀川天皇の乳母だったこともあり、白河院近臣として伊予・播磨の大国受領を歴任、従三位に昇進します。父の忠隆は院近臣の子弟として6歳で叙爵。10歳で丹波守に就任し、その後は基隆のように播磨・伊予の受領を経て従三位になっています。

ここで信頼の任官の様子を簡単に見てみましょう。

康治3年(1144)美福門院御給により叙爵
久安6年(1150)武蔵守
久寿2年(1155)美福門院司昇殿
保元2年(1157)3月左近権中将兼任(その後、武蔵守は弟の信説に譲る)、10月蔵人頭
  3年(1158)2月参議、8月権中納言、11月検非違使別当

信頼は、叔母が後白河の乳母ですが、初期の段階では美福門院を後ろ盾にしている様子が見てとれるかと思います。おそらく、彼女を通して後白河に近づいていったのではないでしょうか。

そして、保元の乱後に左近権中将を兼任してからは急速に官位が上昇し、位階も従四位下から正三位と一気に進み、平治の乱直前には権中納言右衛門督まで上りつめています。

ここでエピソードを一つご紹介しましょう。これは、元木氏が保元の乱後の摂関家の凋落を表すエピとして挙げているのですが、同時にこの時期の信頼の様子を垣間見る好例だと思います。

<保元3年4月、関白忠通が賀茂祭使の行列を見物中に、新宰相中将藤原信頼の車が前を横切ったので、忠通の従者達がその無礼を咎め、信頼の車を壊した。直ちに信頼は後白河に訴えたところ、激怒した後白河は、忠通家司の平信範、藤原邦綱の殿上を除籍、謹慎処分とした。>

忠通の前を横切るという「無礼をはたらいた信頼」の方が訴え出て、罰を受けたのは「(方法はともかく)それを咎めた忠通側の方」となっています。摂関家の弱体化とともに、藤原信頼の羽振りを印象付ける事件といえるのではないでしょうか。この年の8月、後白河は二条天皇に譲位し、後白河上皇となります。

いささか短絡的かもしれませんが、美福門院の立場は鳥羽院健在なればこそ、という面があったと考えています。近衛天皇が倒れるようなことが無ければ「国母」としての権威と地位は約束されていたでしょうが、初めから権威の低い後白河や、立太子間もない守仁親王の擁護者というだけでは、彼女自身の出自の限界もあり、その勢力(権威)は、保元の乱後は次第細りになっていたのではないでしょうか。

一方で、後白河は権威が無いとはいえ、いずれ鳥羽院の正当な後継者である守仁親王(二条帝)が即位すれば、治天の君となることは明白です。ならば、それを見越して後白河に接近するものもいたと考えられます。

信頼もその中の一人だったのではないでしょうか。
メッセージ 353 rarara_roadster さんに対する返信


信頼「誰がカバやねん?!」の2   2009/ 2/26 22:09 [ No.357 ]
投稿者 : rarara_roadster
さて、信頼ですが、この急激な昇進と、平治物語や愚管抄が伝える“後白河の寵愛”ということについて考えていきたいと思います。

右衛門督となった信頼は、“家にたえてひさしき大臣の大将に望をかけて(平治物語)”とされています。このことについて、元木泰雄氏は以下のように考えています。

・大将になれる家柄は定まっており、当時の信頼はその地位ではなかった。
・大臣は摂関家、大臣家の子息・天皇の外戚・皇胤に限定され(官職秘抄)、院近臣の極官は大納言とされていた。
・この当時の、大納言・大将・大臣といった役職に空席が無い。

など、信頼の前には、たとえ後白河の寵臣といえど(当時の慣例・常識では)超えられない壁があり、大臣や大将を望んだとは考えにくい。あくまでも物語上の脚色ではないか。上席に空きがない以上、権中納言右衛門督で昇進が頭打ちになるのは当然のことで、信西が昇進を阻んだというのは如何なものか。

というのが元木氏の考察です。そこでは、日下力氏の平家物語と平治物語における「ネタの使いまわし」の指摘を例に取っています。それが、平家物語の鹿ヶ谷事件における「宗盛と右大臣(ホントは右大将が正しい)を争って敗れた成親」と、この平治物語における「大臣・大将を望んで信西に蹴られた信頼」なのです。

余談ですが、保元物語の為朝と、平治物語の義平も同様にネタの使いまわしを感じさせられるところがあるように思います(為朝が頼長に夜討ちの案を却下されるところと、義平が阿倍野における清盛迎撃案を却下されるところ・官職を与えようとすると、二人ともにべなく「そんなものは要らん」と断ってみたり)。


繰り返しになりますが、保元の乱前後の時期において、鳥羽法皇崩御の保元元年7月から後白河天皇が二条天皇に譲位する保元3年8月までの間、「治天の君の不在」であったということ。中継ぎの後白河には、親政を行うだけの権威も経験も無く、朝廷の貴族も「笛吹けど踊らず」というか、そもそも美福門院や信西が後白河には笛を持たせなかったでしょう。その意味で、「後白河天皇」が朝廷において人事を含む政務にどれほど関与できたかとなると、やはり疑問が生じます。少なくとも、自分の寵臣を好き勝手に補任することは不可能と考えてもいいのではないでしょうか。

鳥羽院政末期の朝廷において、藤原信西が朝廷の人事面において深く関与していたことは、竹内理三氏の指摘があるということです。だとすると、信頼が実際に上記の官職に補任されている以上、少なくとも保元3年の昇進までは、信西もそれを容認していた可能性があります。また、保元3年には前年の正四位下左近権中将から参議に列しており、高橋昌明氏によると「公卿昇進に際し、正四位下のまま参議に昇進することは、実務能力を評価された証拠である」のだそうです。

だからと言って、信頼が「実務能力に長けたやり手だった」と言い切れるものではないのですが、愚管抄や平治物語のように「能もなく芸もなし」と断定することもできないと思います。そうして考えた場合、美福門院・後白河、そして信西の三者の間には信頼の昇進について、何らかの了解事項があったのではないでしょうか?

元木氏はそこに「源義朝」を登場させています。

とぅびぃこんてぃにゅー(微苦笑)
メッセージ 356 rarara_roadster にさん対する返信


ミリタリーな信頼さん   2009/ 3/ 1 2:08 [ No.359 ]
投稿者 : rarara_roadster
ここで信頼の人物像を見てみましょう。

まず、先祖の隆家は、「寛仁3年(1019)博多湾に来襲した刀伊を、武士を叱咤して撃退した武人肌の人物」で、また、信頼の父忠隆も信西の『本朝世紀』に、大きな度量の好人物で、「性、鷹・犬を好む」「馬癖あり。もっとも控御を巧む」と、狩猟や乗馬を得意とする人であったと記されています。

信頼も、平治物語の中で「馬にのり、はせひき、早足、ちからもちなど、ひとへに武芸をぞ稽古せられける」と描かれており(中身は「へっぽこ」ですが)、元木氏は家系的な“体育会系気質”を示唆しています。そのことを「つかみ」としながら、しばらくお付き合いください。

前に源義朝について投稿した41〜43と重複しますが、久寿2年(1155)8月16日、源義平の率いる軍勢が武蔵国比企郡大蔵館を急襲し、叔父の義賢と秩父重隆を討ち取るという事件が起きました。この時の武蔵守が藤原信頼です(久安6年(1150)補任)。

元木氏は、「坂東で活動していた義朝は、古くから軍事貴族にとって重要拠点であった武蔵の国衙とも当然提携していたと考えられ、義平のこの軍事行動が朝廷で大事件にならなかったのは、武蔵守である信頼の黙認のもとに行われた可能性がある」と考えています。

調子に乗って、若干の妄想を加えてみたいと思います。

義朝は、坂東に下向後、摂関家に従属する河内源氏の傍流という立場から、国衙を通じて院近臣に接近する立場へと方向転換しており、天養元年(1144)義朝が大庭御厨に乱入した事件も、摂関家の権威を背景にしつつ、義朝は国衙側に立って行動しており、その後、下野守に任官するに至ります(仁平3年(1153))。

そこで、この大蔵館の事件ですが、義賢と共に討たれた秩父重隆は、留守所惣検校職を家職とする秩父平氏一族の家督で、武蔵国衙随一の有力在庁でした(吉川弘文館「源氏と坂東武士」野口実)。そんな人物が、摂関家主流である頼長に「身も心も」臣従している義賢を、養君として迎えるということは、美福門院に支援されている武蔵国司の信頼としては、やはりおもしろくなかったのではないでしょうか。また、秩父重隆は留守所惣検校職を巡って同族の畠山氏とも争っており、隣国の新田氏や藤姓足利氏とも長年争い続けていました。そのことも、国衙の懸案事項だったと思います。

信頼が義平の軍事行動を黙認したのは、このように摂関家と美福門院の対立を根幹とする河内源氏主流と傍流の内紛に、在庁の対立や抗争が面白くない武蔵国衙が絡んだ(または便乗した)ギブアンドテイクだったといえるかもしれません。そしてそれは、やはり義朝と信頼の提携関係があったればこそ可能だったのでしょう。

もうひとつ、義朝が信頼と提携することのメリットとして、信頼の兄である基成が挙げられます。

基成は、康治2年(1143)から2期にわたり陸奥守に在任し、この間に陸奥鎮守府将軍も兼任しています。また、彼は娘を藤原秀衡に嫁がせて泰衡をもうけ、自身は奥州藤原氏の政治顧問的な立場にいたと考えられています。

武蔵は古代から官牧も多い代表的な馬の育成地であり、同様に陸奥も馬をはじめ、鷹の羽や海豹の毛皮といった武具の材料の生産地です。また、産出される砂金も重要な財源となります。源氏は為義の時代から、近江武士の佐々木秀義を専仕として奥州藤原氏のもとに派遣し、これらの調達に当たらせていたといいます(野田文書「□□奉公初日記」)。義朝は、信頼を通じて陸奥から物資を供給していたと考えられます

信頼は保元2年(1157)に弟の信説(のぶとき)に武蔵守を譲ります。同様に兄の基成も、自分の後の陸奥守は兄弟や一族が続いて任官します。これらのことから元木氏は、当時の武蔵、陸奥の両国は信頼が知行国主であった可能性を想定しています。坂東武士団を形成する義朝にとって、武蔵・陸奥を知行国とする信頼との提携は必要不可欠であったと考えられます。

さて、いささか義朝側の視点に寄りすぎたきらいもありますので少々もどしましょう。

実は、信頼は平家とも姻戚関係があります。信頼、基成の兄である長男の隆教は平忠盛の女婿となっており、また、信頼の嫡男信親も清盛の娘と結婚しています。このように、源義朝と政治的に結びつき、平家と姻戚関係で結びつく信頼を、元木氏は“武門の貴族”として認識しています。ま、個人的には、「体育会系」ほど無骨ではなく、「体育同好会系」の「武門オタク」な貴族という印象が強いです。

次は、そんな武門オタクの信頼に、なぜ後白河が「寵臣」と周りから認識されるほどの処遇を与えたのか、ということを考えてみたいと思います。
メッセージ 357 rarara_roadster さんに対する返信


Re: ミリタリーな信頼さん   2009/ 3/ 1 23:59 [ No.363 ]
投稿者 : hn2602mk2
 また横レスです。(横レスばかりで申し訳ありません)。

 秩父重隆についてですが、

>また、秩父重隆は留守所惣検校職を巡って同族の畠山氏とも争っており、隣国の新田氏や藤姓足利氏とも長年争い続けていました。

 畠山氏と留守所惣検校職を争っていたことは、おそらく確かでしょうが、秩父氏の家督と関係しているらしいこの惣検校職が、比企大蔵館襲撃後に畠山氏(重能)に渡った

可能性は認められないのはなぜか?(河越氏が保持?) もう一点、秩父重隆が対立した隣国の豪族として、新田氏と「藤姓足利氏」を挙げておられますが、秩父足利合戦の解

釈としては、義朝・新田氏・源姓足利氏(それに小山氏も?)対義賢・藤姓足利氏という対立を考えたほうが良いのではないでしょうか?
 勿論、秩父氏内部には、重隆に対する反発が高まっていて、畠山氏の他、重隆の子・孫たる河越一族、児玉党や地元の比企氏なども、義平の襲撃を通報しなかった・・・<

義朝側?)。

 信頼が武ばったことが好きな「体育同好会系・武門オタクな貴族」というのには、思わず噴出しました。
この調子でお願いいたします。
メッセージ 359 rarara_roadster さんに対する返信


中間報告…、というか。   2009/ 3/ 2 19:32 [ No.364 ]
投稿者 : morikeigetu
信西を追いかけますと言った事を、今悔やんでいます(泣)

彼の人物像が見えてこないのです。
いろいろひっくり返して彼を追いかけているのですが…。

権謀術数に長けた強かな少納言法師?
何か違うような気がしてきました。

今この時間、庭に出ると、西の空に大きな宵の明星とやや西に傾いた月齢5.1の五日月…。
こういう空を眺めて信西は何かを思い、信頼は何も思わなかったという違いくらいかなと、今のところ妄想と戦ってます。

もう少し、時間下さい(陳謝)


墓穴に入らずんば、故事を得ず?   2009/ 3/ 5 18:59 [ No.367 ]
投稿者 : rarara_roadster
hn2602mk2さん

>秩父足利合戦の解釈としては、義朝・新田氏・源姓足利氏(それに小山氏も?)対義賢・藤姓足利氏という対立を考えたほうが良いのでは

ご指摘、ありがとうございます。
まず、この部分については、野口実氏の「源氏と坂東武士」(吉川弘文館)からの引用です。そこで野口氏は、「秩父重隆は、新田氏や“藤姓足利氏”と争っていた」としています。

わたしはこのあたりの事情には暗かったので、とり急ぎざっとネットを調べてみました。すると、わたしの引用のように秩父氏が藤姓足利氏と争っていたとするものもいくつかありました。

ただし、よく見たらそれはどうも“ソースがわたしと全く同じ”もののようでした(苦笑)

考えてみたら、義国流はそもそも藤姓足利氏と争っていたわけで、その結果、源義康や新田氏は義朝・義平と同盟を結び、藤姓足利氏は秩父氏と結んで対抗しようとしたと。

それからすると、hn2602mk2さんご指摘のような対立構図のほうが、その状況にはあっていると思います。

そうすると、野口氏の本との齟齬が気になりますが、ひょっとすると本の「校正ミス」で、正しくは“源姓足利氏”となるはずだったのかも知れません。そこに気付かず、わたしがそのまま引用してしまったものだと思います。

坂東平氏や秀郷流藤原氏については、これまで突っ込んで調べたことが無かったのですが、今後このトピで治承・寿永の内乱期になればいやでも出てきますので、これをきっかけに少し手を伸ばしていこうと思います。


留守所惣検校職については、難しいですね・・・。
わたし自身、確かな史料にあたれていないのですが、留守所惣検校職はご指摘のように河越氏に継承されたように思えます。大蔵合戦により、畠山重能は秩父平氏の惣領的存在になったようですが、惣検校職に就いたわけではない。畠山氏が惣検校職に就くのは、義経問題で河越重頼が滅んだ後で、その畠山氏も重忠が滅びれば再び河越氏が惣検校職に復帰したようですね。

もしかすると、その時の国司との関係にもよるのか・・・、とも思ったのですが、根拠が無いので(泣)
一応、宿題ということにさせて頂いてよろしいでしょうか(おそるおそる)。

>「体育同好会系・武門オタクな貴族」というのには、思わず噴出しました。
この調子でお願いいたします。

応援ありがとうございます(微笑)


さて、けいげつさん

>彼の人物像が見えてこないのです。(信西)

これはわかるような気がします。
信西の行ったことは見えるのですが、そのときの「顔」がわからない。
どのような「顔」をしていたのでしょうね?

それと対照的なのが「武門オタク」の信頼卿。
いろいろと想像(妄想)の翼を広げさせてくれます
メッセージ 363 hn2602mk2 さんに対する返信


「焦・汗…」。   2009/ 3/15 22:15 [ No.383 ]
投稿者 : morikeigetu
もう少し時間下さいと言い、ずいぶん時間を頂戴したにもかかわらず、実は、何ら進展していないのです。
ろどすたさんが、果敢に墓穴に入り、種々の故事を手繰り寄せながら進んでいるのに比べ、私は未だ物語的妄想の世界でさまよっている次第。

そもそも信西こと藤原通憲は、ご存知の通り武智麻呂から11代を経た実兼の子。いわゆる南家の流れの一員であり、周囲を見まわしても多くは僧籍に入っています。
通憲の祖父季綱は大学頭か…とか、お決まりの如くその系統を追いかけても、通憲その人の成長環境は「学問」の家であったようだ…と。
父実兼が天永3年(1112)に急逝した時、通憲は5〜6歳であったようです。
その後彼は、祖父季綱の従兄弟で白河近臣の長門守高階経敏の養子となり、保安3年(1122)中宮権少進、天治元年(1124)待賢門院判官代、天治2年(1125)左近衛将監と進みますが、驚くような昇進ではありません。

ところでこの高階経敏なのですが、ろどすたさんがbR59「ミリタリーな信頼さん」で言及された「武蔵守」にひっかかってくるのですね。
この経敏も天永3年(1112)〜元永2年(1119)まで武蔵守であったのですが、
「せやから、どないやっちゅうねん!?」と言われても、わかりません(泣)

…で、何が言いたいのかというと、通憲の育った環境と、彼自身が当初望んだ未来、それはやはり「学」とか「学問」という世界で活躍する自分であったような気がします。
彼の人物像を追う時、藤原頼長との交友(?)というか、その道同士の交わりをハズせないのですね。
頼長は『愚管抄』において「和漢の才に富んだ、日本一の大学生」と記された人物ですが、彼の日記に度々通憲法師、信西法師が登場します。

頼長が彼の日記の中で語る信西法師の姿は、まだ政治的野心を感じさせない学者としての信西が、その才能を認められた喜びのようなもの、またあるいは、その才能を披露出来た至福のようなものを、同じ学問の道における実力を自負する頼長が、しっかりと認めているという印象を受けます。

久安4年(1148)4月22日
「法皇と共に頼長や信西が聖霊院に7日間参詣した還御の日、法皇から我が朝の故事を問われた。」
『信西、コレニ対シ、停滞スル所ナシ。余(頼長)一言モ加ヘズ』

また『本朝世紀』の製作を命ぜられたと思われる時、信西が頼長にその事を語ります。
仁平元年(1151)5月30日
「信西法師と久しく語り交わした。」
『法皇ヨリ密カニ詔ヲ奉リ、去年ノ冬ヨリ国史ヲ製作ス。宇陀ノ御代ヨリ堀川院ニ至ル』

このような事を話し合っている二人の間に、やがて「保元の乱」で激突する予感はありません。
国史製作を命じられたという信西の喜びと、それを同志にうち明けられたような筆致で日記に記した頼長の快さを、私は感じてしまいます。

まだいくつかあるのですが、まず投稿遅れのお詫びかたがた、ここまで。

通憲法師が、政治家信西入道に変身したのは、どういう理由なのか。
あるいは、本当に政治家になりたかったのだろうか…。
私の中では、まだ結論が出ません。
メッセージ 367 rarara_roadster さんに対する返信


藤原信頼 終章   2009/ 4/10 20:11 [ No.386 ]
投稿者 : rarara_roadster
えらく長い間空けてしまいました(陳謝)
言い訳ではありませんが、さすがにこの時期はそれなりに多忙となってしまいます。
今回は非常にまとまりが悪いです。


信頼は、もちろん軍事貴族ではありませんが、前述のように早くから源義朝と提携していたと考えられ、清盛と姻戚関係にあり、また、奥州の藤原氏にもパイプを持っています。つまり、当時の代表的な武門貴族ベスト3に顔が利く人物であったと考えられます。

保元の乱により、鳥羽院の正当な後継者である守仁親王の擁立を阻害する勢力は一掃され、皇統は一応の安定を得ました。しかし、乱による混乱と治天の君の不在、後白河という権威の低い中継ぎ天皇の即位は、天皇家の「権門」としての機能低下を余儀なくされ、勢力は著しく衰退してしまいます。

鳥羽院の遺領は美福門院と八条院に継承され、後白河は北面の武士も満足に組織できない状態です。藤原信頼はこのような状態のなかで、“武士に顔が利く武門の貴族”ということを背景に後白河に接近することになった、と思われます。おそらくそこには、美福門院の後押しもあったのでしょう。

信頼は久寿2年に美福門院の院司として昇殿を許されますが、この翌年に保元の乱が起こります。北面も組織できない後白河を擁する美福門院や信西にとって、“武門の貴族”である信頼との提携は、重要な意味があったのではないでしょうか。乱に先立つ6月1日の動員において、高松殿の後白河の警護に義朝・義康が配されたのは、二人が熱田大宮司家から妻を迎えているのが最大の理由ではあるのでしょうが、(義朝と連携する)信頼も無関係ではなかったのかもしれません。

で、信頼の昇進が始まるのが、保元の乱の翌年から。この様子は後白河が治天の君に近づくにつれ加速度的に進んでいきます。

まず、保元2年の時点で武蔵守から3月に左近権中将兼任、10月に蔵人頭となります。その翌年の保元3年8月に後白河は守仁親王に譲位し(二条天皇即位)、自らは治天の君(後白河上皇)となるわけですが、信頼も正三位権中納言右衛門督まで進みます。信頼は、議政官を兼ねない散三位だった父や祖父を越えたことになります。

また、それに先立つ4月には、前述の賀茂祭における藤原忠通との事件があったわけですが、その後、忠通は息子の関白基実の妻に信頼の妹を迎えます。摂関家の嫡子ともなれば、その妻は皇女もしくは大臣家の息女であるべきところですから、これは衝撃的な結婚といえます。ただ、元木氏によれば、(保元の乱により)家政機構が解体された摂関家は、荘園の監理や警護の武力を失っており、信頼の持つ“武門のコネ”に期待せざるを得ず、この屈辱的な結婚に了承した、としています。

後白河が治天の君となる保元3年、信頼は人生のピークを迎え、後白河の頭の中からは、「中継ぎ」という単語は吹っ飛んだようです。信頼が後白河の“寵臣”であったのは恐らくそのとおりなのでしょう。しかし、後白河に接近できたのは、たとえ「なんちゃって武門オタク」であろうと、河内源氏・伊勢平氏・奥州藤原氏とのパイプを有していたということが大きかったのでしょう。そして、そこに注目していたのは後白河や摂関家だけではなかった、ということが今後の信頼の運命に関わってきます。

鳥羽院政期の体制は保元の乱により解体され、藤原信西をはじめとする新しい院近臣の台頭を惹起します。それは旧世代の院近臣との新たな軋轢を呼び、「治天の君」後白河と、「鳥羽院の正当な後継者」である二条帝との確執の火種となっていきます。そして藤原信頼は、自分が「(爆弾の)信管」であることに気がついていません。


というところで、一旦信頼さんのお話を置きたいと思います。今後の信頼の動向については、平治の乱へと進むに従って再び追いかけてみましょう。
メッセージ 383 morikeigetu さんに対する返信


Re: 藤原信頼 リベンジの予告(苦笑)   2009/ 4/11 0:25 [ No.387 ]
投稿者 : rarara_roadster
いささか尻すぼみになってしまいました(大汗)
何度も何度も書き直し書き直しましたが、旨く纏まらず己の文才の無さを呪うばかりです。

いま、けいげつさんも信西について纏めておられると思いますが、投稿を待って改めて信頼さんに登場いただきたいと思います・・・。
メッセージ 386 rarara_roadster にさん対する返信


Re: 藤原信頼 リベンジの予告(苦笑)   2009/ 4/20 6:15 [ No.393 ]
投稿者 : morikeigetu

ろどすたさん、ご多忙の中、ご投稿をありがとうございました!

私も目のまわるような状況の中、ようやくこの水曜から金曜まで完全オフの連休をとりましたので、なんとかそこで投稿したいと考えております。

とりあえず、お詫びとお礼まで。
メッセージ 387 rarara_roadster さんに対する返信


さて、信西法師 1   2009/ 4/24 17:25 [ No.395 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさんの投稿により、藤原信頼の人物像がうかび上がってきています。
さて信西法師、どうなるかわかりませんが…。

保元の乱前後の信西の活動を、簡単にまとめておきます。
「学生抜群ノ者」(『愚管抄』)と言われた信西は、鳥羽法皇崩御の儀式を取り仕切り、同時に起こる(起こす?)であろう事件に対しても着々と態勢を整え、狭い都の内とはいうものの、種々の思惑を持った多くの人々が、マクロで言えば敵と味方という2種類に分かれて対峙したその舞台の動きを、まるで碁盤の上の石を動かすが如く決着させた感があります。
そんな彼の「動機」は、今はさておきます。

乱後は死刑の復活、崇徳上皇の配流という大ナタを振るい、後白河天皇親政のもと、すぐさま新制を発令し、乱の事を人々が顧みるヒマなどなくなっています。
保元の乱によっていわゆる反対勢力を一掃し、摂関家とその爪牙であった河内源氏を弱体化させ、頼長らの没官領を後院領とするなど後白河天皇譲位後の経済基盤充実にも着手しています。

まず政策面での新制7ヶ条ですが、これは保元元年閏9月18日に発せられます。その全文は『兵範記』同日条に記録されています。転記は極めて煩瑣となるので省略しますが、内容は2ヶ条からなる荘園整理令、3ヶ条からなる神人悪僧統制令、2ヶ条からなる神社寺院の所領・用途注進令で構成され(五味文彦氏著『平清盛』)要略は、
1.久寿2年(1155)7月24日後白河天皇即位以降の宣旨を帯さぬ荘園を停止する事。
2.本免および宣旨ならびに白河・鳥羽院両庁の下文を帯するもの以外の、
加納田・出作田を停止する事。
3.伊勢・石清水・加茂・春日・住吉・日吉・祗園諸社の神人の濫行と新加の神人を停止する事。
4.興福寺・延暦寺・園城寺・熊野山・金峰山の悪僧の濫行を停止する事。
5.諸国司は国内の寺社の濫行を停止する事。
6.伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉・日吉・梅宮・吉田・広田・祗園・北野・丹生・貴布祢の諸社は、社領及び神事の用途を注進する事。
7.東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺・延暦寺・園城寺・天王寺の各諸寺は、寺領及び仏用途を注進する事。

これらは第1条本文冒頭の、
「九州之地者、一人之有也。王命之外、何施私威」
九州(全国)の地は天皇の支配に服すべき王土であるという主張をもって括られています。

7月11日に起こった乱から3ヶ月。
いくら信西が「学生抜群ノ者」であっても、この短い時間の中で構築できるプランではなかろうと思います。
メッセージ 387 rarara_roadster さんに対する返信


さて、信西法師 2   2009/ 4/24 18:19 [ No.396 ]
投稿者 : morikeigetu
思えば、雅仁(後白河)は大治2年(1127)誕生し、保延5年(1139)に元服しているのですが、彼の帝位につく望みというのは、その保延5年に体仁(近衛)が誕生したこと、翌保延6年に崇徳の皇子重仁が誕生したことと重なって、ほとんどその可能性を失っています。
通常ならば出家しても不思議ではない立場にあった事を思えば、この頃から信西は自分の妻が乳母となったこの雅仁がいつの日か…という僅かな可能性を信じ、雅仁の出家をおしとどめ、自分は自分で『本朝世紀』などの製作の中で理想国家のイメージを創りあげていたのでしょうか。

また少し話を藤原頼長に戻してしまいますが、久安6年(1150)9月忠実が忠通から奪った氏長者を頼長に与えた頃から、その頼長の政治の中にいくつかの古事復興が認められます。
例えば仁平元年(1151)3月の勧学院での曲水の宴・5月の僧綱の儀式の復活などですが、信西も保元2年(1157)11月に断絶していた「漏刻器」を置き、保元3年(1158)1月に内宴、6月に相撲節会を復活しています。
頼長の理想は、自分が摂関の地位につく事による摂関政治の再現だったかと思います。では信西の理想は何だったのか…。
大内裏の修復・古事の復活は、乳母の夫という立場と自分の能力をもって補佐する後白河天皇親政という理想の王政だったのか。
後白河が譲位しても、「治天の君」のそばにあって充分自分の能力を発揮できるのであれば、それもまた良しとしていたのか。
右に行こうが左に行こうが、信西ほどの人物ならばその双方に手を打っていたと思われますが、さすがの彼にも予測できていなかった事があったようです。
ひとつは寵臣藤原信頼の出現と、もうひとつは「今様」。

帝位につく可能性がほとんどなくなっていた後白河の日常の慰めだった今様狂いくらい、帝位につけば何とかなるとタカをくくっていたかもしれません。
イライラッとしたか、信西は後白河の恋人に対する鋭い指摘を、こともあろうに後白河本人に直言します。信頼と組んでいるらしい源義朝に対しても、ツラ当てがましい事をしてしまう。
これまでの信西とは思えぬヘマをしているように思えてなりません。

信西だけを追いかけても判明しないこのあたりの事は、信西の奢りなのか、焦りなのか…。

当初のろどすたさんのテーマのひとつであった「なぜ信西は粛清されねばならなかったのか」に向いたいと考え投稿しましたが、妄想に走ってしまい、まだ到達にいたりませんでした。
メッセージ 387 rarara_roadster にさん対する返信


本題から外れますが…。   2009/ 5/ 9 20:37 [ No.400 ]
投稿者 : morikeigetu
今日、兵庫県立考古博物館の特別展「王朝国家の光芒」と並行して行われる講演のひとつ、高橋昌明氏の『摂津・播磨と平家』を拝聴して来ました。

高橋節健在で、六波羅幕府などという言葉も飛び出し、なかなか興味深くて楽しい講演でした。


さて、信西法師を言及するつもりが、なんだか中途半端でしたね。
私が何度か信西法師と頼長を因数分解のように()で括ろうとしたのは、そこに信西が「粛清されるべき」理由を仮定しようとしたためです。

信西の「強気」の背後には、清盛率いる平氏軍団があったと信西個人は確信していたかもしれません。
で、清盛はそれを100%受け入れていたかどうかは、うーん、わかりません。

角田文衛氏は『平家後抄』の第6章の文頭において、こう書かれています。

(前略)平忠盛・清盛親子と中納言・藤原家成との交誼は、想像以上に緊密なものがあった。実際、これに信西入道こと藤原通憲を加えた三者の連繋はまことに堅固であって、平安時代末期の政治史を理解する上での要諦のひとつは、常にこのトリオを念頭におくことである。

と、言いきっておられます。
たしかに、平家西走後も親平家公卿が多く存在しており、それらはこの「トリオ」の系譜に少なからず関わっています。

…となると不思議なのが、清盛の熊野詣。

保元の乱でも言いましたが、「プロのセンサー」を持つ清盛と交誼のあった信西が、信頼と義朝の動きに気付かないという事はありえないと思いますし、その清盛の熊野詣を「見送った」信西は、いったい何を企んだのか、あるいは覚悟したのか。

信西法師、逃走の準備「万事怠りなし」?

麻呂さん次は「平治の乱」でおじゃるな

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