タイトル:保元から壇ノ浦まで

上段左から平教盛、経盛。下段左から平知盛、教経。

画像は下関市赤間神宮所蔵。上段左から平教盛、経盛。下段左から平知盛、教経。クリックすると拡大画像が表示されます。(Javaスクリプト使用)
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このコンテンツは、Yahoo!掲示板日本史カテゴリーにおける、HN“morikeigetu”氏主宰の保元から壇ノ浦までというトピックに、わたしことHN“rarara_roadster”が投稿したものを、morikeigetu氏の了承を得て他の投稿と共にweb上で保存するものです。

 検索エンジン等でここにたどり着かれ、記事を読まれてご意見等のある方、また、ご自身も討論に参加されたい方は、保元から壇ノ浦までをクリックしていただき、上記トピックまでお願いします。なお、書き込みには
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 ここの記事は
原則投稿時のままですが、明らかな誤字・脱字等は修正しています。また、投稿番号の抜けているところは、スパム記事等の大量投稿があり、著しく討論の流れを阻害すると判断されたので削除したことによるものです。

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編集 rarara roadster(ろどすた) since 2010/1/22

ろどすたのブログです



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最終更新日 2012/07/29
その壱・1〜148 その弐・156〜400 その参・401〜600 
その四・601〜800
 
保元から壇ノ浦まで   2007/10/31 9:31 [ No.1 ]
投稿者 : morikeigetu
こういう掲示板での意見交換・議論において、いつも消化不良・欲求不満が残るのです。
それは、まず最初のひとつのテーマが完結する事なく、次から次へと派生するタコ足・イカ足の話題に話が反れ、「ところで、あの話はどこいったんや?」と復元する気力も失せる。

まぁね、それがこういう掲示板の愛すべき所だと思いつつ、ひとつ果敢に挑戦してみようではないかと思ったのでありますね。

関連事項に話が反れたとしても、それはそれで完結させ、当初のテーマも完結させて次に移ろうではないか、とね。

1156年から1185年までの、いわゆる源平の合戦。
ひとつひとつ完結出来るか否や。

まずのお題『保元の乱』

おちゃらけ話は、御免蒙ります。


ルール   2007/10/31 10:13 [ No.2 ]
投稿者 : morikeigetu
そうね、ひとつの「ルール」を決めましょう。

「史学」的な見解は『史』、「文学」的な見解は『文』、「理数」的な見解は『理』、そして「私的」見解は『私』としましょうか。

さて、本棚の奥から数十年前の日本史小事典をひっぱり出しました。

『保元の乱』

古代末期京都に起こった争乱。12C中ごろ摂関家藤原氏では忠実次子頼長対長子忠通の争いが起こり、皇室でも鳥羽法皇4子後白河天皇対長子崇徳上皇の争いが生じた。
これらの争いが結びつき激化した末1156(保元1)鳥羽法皇の死去を機として爆発。崇徳は頼長と結んで源為義・平忠正らの武士を招き、後白河と忠通らは源義朝(為義長子)・平清盛(忠正甥)らをして崇徳方を攻めさせた。結果は崇徳側の大敗に終り、頼長は戦死、為義・忠正は斬罪、崇徳は讃岐に配流。この乱は貴族階級の権力争いの表面化であるが、結果的に貴族の無力を暴露し、武士の政界進出を促した。これを古代と中世を画する事件とみる説もある。

この事典の最終ページが欠落しているため、いつ刊行されたのかは不明ながら、第1枚目の「緒言」に昭和32年2月とあり、私が高校時代に使用していたものであるので、34年前のものでありますね。

さて、始めますか。
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 保元から壇ノ浦まで   2007/11/ 1 23:55 [ No.3 ]
投稿者 : rarara_roadster
こんばんわなのです。

本を読み込むようになって、一番最初に手をつけたのが元木泰雄氏の「保元・平治の乱を読みなおす」(NHKブックス)でした。このあたりから段階的に源氏と平家を追いかけることに大賛成です。

けいげつさんの足を引っ張るかもしれませんが、参加させていただいてよろしいでしょうか?(おそるおそる)
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


お待ち申し上げておりました。   2007/11/ 2 16:18 [ No.4 ]
投稿者 : morikeigetu
保元の乱から壇ノ浦合戦までの大小の合戦をひとつづつテーマとしながら、それぞれの話を完結させ、平家一門の生き様を追いかけてみたいと思うのです。もちろん源氏を疎外するものではありません。

そしてその過程において発生した「タコ足」「イカ足」の話すらも、その範疇の中で完結させたいと思っています。

ただ、これらの歴史も今すでに多くの専門書・論文・研究書あるいは小説等で語られているものですから、いまさら何をという所ですが、それを正しく知っている人の少なさに驚くばかり…。
ま、知らなくても日々の生活に困りませんけれどね。

さて、無事壇ノ浦まで到達出来るかどうか、ろどすたさんの力をお貸し下さい。


毎回、某テレビ局の番組の言葉を拝借しようと思っています。

第1回『保元の乱』は、
「その時」を、保元元年(1156)7月10日と定めましょう。
「その時」の場所は、平安京東西の二条大路と三条大路の間、南北の西洞院大路に面した東三条殿と高松殿を中心としたあたり、そして鴨川の東に位置した白河北殿としましょうか。

さてさて、「その時」に至る話をどこから始めたらよいか、ご意見を。
メッセージ 3 rarara_roadster さんに対する返信


第1回放送初号案   2007/11/ 3 0:27 [ No.5 ]
投稿者 : rarara_roadster
>第1回『保元の乱』は、
>「その時」を、保元元年(1156)7月10日と定めましょう。
>「その時」の場所は、平安京東西の二条大路と三条大路の間、南北の西洞院大路に面した東三条殿と高松殿を中心としたあたり、
>そして鴨川の東に位置した白河北殿としましょうか。
>さてさて、「その時」に至る話をどこから始めたらよいか、ご意見を。

それでは、同年7月2日申の刻、鳥羽院の死去あたりからというのはいかがでしょうか?このあたりが、乱勃発の大きなポイントだと思うのですが。
あと、必要に応じて摂関家の確執や、天皇家における美福門院の暗躍などをほじくりつつ、源平両陣営の思惑などを検証するという感じですかね。
そこから、一気に「その時」になだれ込むと・・・。
メッセージ 4 morikeigetu さんに対する返信


Re: 第1回放送初号案   2007/11/ 3 21:14 [ No.6 ]
投稿者 : morikeigetu
そうですね。では、それでいきましょう。

第1回のテーマ『保元の乱』

スタートの設定:保元元年(1156)7月2日申の刻(午後4時)
第74代天皇、鳥羽の崩御。
場所は、洛南の鳥羽離宮の安楽寿院。

「御目ヲ キラリト ミアゲテ ヲハシマシタリケルガ」『愚管抄』
その人の最期でありました。

なぜ臨終の鳥羽が、その目をキラリと見上げたのか…。
メッセージ 5 rarara_roadster さんに対する返信


安楽寿院のこと   2007/11/ 6 20:21 [ No.7 ]
投稿者 : morikeigetu
鳥羽法皇が臨終に際し、その目を「キラリと見上げた」理由の前に、その現場を見ておきましょう。
歴史というものを辿る時、当時の地形や景色あるいは季節・気候などというものに出来るだけ近づかなければ、思わぬ不覚をとる場合があります。

安楽寿院があった洛南鳥羽殿は、現在の名神高速道路京都南インターチェンジをその北西部分にすっぽりと含んで余りある広大な離宮でした。
今の鴨川はその南インターの西側を流れていますが、当時は1.5kmほど東を流れていたようです。

北殿・南殿・東殿・田中殿などという区割りの中に、数多の堂塔・殿舎が建てられていたようです。
しかし、南北朝の乱世、天文17年(1548)の大火、慶長元年(1596)の大地震などにより壊滅し、現在は寺院としての安楽寿院だけがそのなごりをとどめています。
角田文衛著『平安京散策』によると、この安楽寿院にある阿弥陀如来坐像は、保延5年(1139)鳥羽法皇が自らの葬所とするため藤原家成に造営させた安楽寿院三重塔の第一層に安置されたものである事が、その台座心柱の修理銘により明白である、としています。


さて、保元元年(1156)7月2日、危篤状態の鳥羽法皇を見舞うために来訪したにもかかわらず、追い返された人がいます。

第75代天皇、崇徳。
この時上皇となっており、新院と呼ばれていました。


ろどすたさん、タッチ(笑)
メッセージ 6 morikeigetu にさん対する返信


叔父子   2007/11/ 9 18:19 [ No.8 ]
投稿者 : morikeigetu
いやいや…、このあたりの事、ろどすたさんが非常にお詳しいと感じましたので、無責任にも「ホイッ」と投げてしまったのでありますね(反省)
大変失礼いたしました(汗)

今さらクドクド言うのもなんですが…、というような話になるのですね、この辺の話は。
けれど合戦というのは、それ自体を語るにはスペクタクルでなかなかなのですが、「なんでその戦いが起きたの?」という「理由」の部分がサナダムシのように長い(失礼)

で、『保元の乱』は、早くもめまいを発症しかけているのです。

日本史事典や古語辞典など、お手元の天皇家系譜などを見ると、白河・堀河・鳥羽と続いたあと、崇徳・後白河・近衛と横に並んでいると思います。
つまり、崇徳・後白河・近衛は鳥羽の子供だよという系図なのですね。

『愚管抄』の、75崇徳を見ても、

鳥羽院の第一子で、大治4年正月に11歳で元服、母は待賢門院璋子(白河院の娘、実は大納言藤原公実の娘)

と書かれています。

自分の長男が見舞いに来たのに、なぜ追い返すのか?
という事なのですね。

待賢門院璋子は正しく鳥羽の后であり、その人から崇徳が生まれたのも疑いのない事のようでありますが、その真の父が問題なのでした。

鳥羽は自分の子である崇徳のことを「叔父子」と呼んで憚りませんでした。
「叔父子」
つまり、あいつは私の子でありながら、実は私の叔父でもあるのだと。
叔父というのは、父の弟でありますね。

崇徳は、白河と待賢門院の子だと言うわけです。

自分の妻が産んだ子は、自分の祖父と妻の子だと…。
メッセージ 7 morikeigetu さんに対する返信


Re: 叔父子   2007/11/ 9 21:16 [ No.9 ]
投稿者 : rarara_roadster
すみません、公私ともどもドタバタしていて、書き込みが遅れました(大汗)。少々ダブります。

崇徳天皇は鳥羽天皇を父とし、中宮の待賢門院(閑院流藤原公実娘・璋子)を母として生まれました。彼女は、白河院の猶子として鳥羽天皇のもとに入内しますが、その後も白河院との密通が続いていたといわれています。そのため、鳥羽は崇徳の出生に疑念が生じ、崇徳のことを「叔父子」と称して忌み嫌っていたとされます。

鳥羽帝は21歳のとき(保安4年(1123))、祖父である白河院の指示により、当時わずか5歳の崇徳帝に譲位します。わたしはこれまで、崇徳帝が生まれたときから鳥羽院には疎まれていたと思っていましたが、河内祥輔氏らによると、必ずしもそうではなく、その根拠の一つに大治4年(1129)白河院が死去したとき、ただちに崇徳帝が退位させられていないことなどを挙げておられるようです。このあたりの経緯についてはわたしもまだ詳しく読み込んでいませんので、とりあえずご紹介のみとします。

しかし、上に書いたようなことが事実だとすると、鳥羽院が崇徳帝を疎むようになった経過が気になるところではあります。つまり、白河院と待賢門院の関係(事実かどうかはともかく)をにおわせ、崇徳帝の政治的立場を貶めた何らかの存在を感じざるを得ません。ま、あくまでわたしの「妄想」です(苦笑)。

永治元年(1141)土御門殿において崇徳天皇から養子の体仁親王に譲位され、近衛天皇が即位します。体仁親王は鳥羽院と美福門院の間に生まれた皇子で、このときわずか3歳。美福門院は末茂流の藤原氏出身で、父親は権中納言長実ですがもともと諸大夫層に属する人物です。そこで、中宮藤原聖子のもとで養育され、崇徳の養子となっていたわけですね。このとき、その宣命に「皇太子」とあるべきところに「皇太弟」とあったことから「コハイカニトマタ崇徳院ノ意趣ニコモリケリ」という事態になったと愚管抄は伝えています。

院政において、絶対視されているのは「父権」です。「治天の君」として権力を行使するためには、その子、また孫へと譲位し、自らは「院」となる必要があります。ところが、崇徳院は近衛帝に譲位したところ、「子」ではなく「弟」に譲った形となってしまった。これは崇徳の皇統が否定され、近衛に移ったことを意味し、たとえ崇徳上皇となっても鳥羽院の後、「治天の君」として院政を行うことが不可能になってしまいます。もちろん、この時点で鳥羽院は健在ですし、崇徳も近衛も鳥羽の皇子ですから、彼の「治天の君」の地位は揺るぎません。

ところが近衛帝は、眼病のためわずか17歳で亡くなり、そこでまた次の皇位に焦点があたることになります。一度は院政の可能性を否定された崇徳院ですが、ここでもし自分の子である重仁親王が次期天皇になることがあれば、自分が将来「治天の君」として君臨することも可能になります。

愚管抄では鳥羽院は次のように悩みます。

院(鳥羽)ハコノ次ノ位ノ事ヲ思シメシワヅライケリ。四宮ニテ後白河院。待賢門院ノ御腹ニテ。新院崇徳ニ同宿シテヲハシマシケルガ。イタクサタダシク御遊ビナドアリトテ。即位ノ御器量ニハアラズト思召テ。近衛院ノ姉ノ八條院姫宮ナルヲ女帝カ。新院一ノ宮カ。コノ四宮ノ御子二條院ノヲサナクヲハシマスカヲナドヤウヤウニ思召テ。

そして選ばれたのは、崇徳院と同じく待賢門院を母とする、雅仁親王こと29歳の「予想ガイ」後白河天皇でした。おまけに彼は、「ショートリリーフ」だったのです。

とりあえず、ここまででよろしいでしょうか?
メッセージ 8 morikeigetu さんに対する返信


お見事!   2007/11/ 9 22:21 [ No.10 ]
投稿者 : morikeigetu
お忙しい中、ありがとうございました。

白河院と待賢門院の秘め事については、角田文衛氏がその著『待賢門院璋子』等で彼女の生理日まで言及する報告をしておられますから、もうここでは置いておきましょう。

ろどすたさんがおっしゃる通り、「恨んでいたか否か」は亡くなった人の心の問題であるので、もはやなんとも論ずる事は出来ませんね。

ただ、第三者の意図により、そのような感情を持つに至らされた可能性があるのかもしれません。

「保元の乱」…、天皇家・摂関家・武家がそれぞれふたつにわかれた「六つどもえ」。
まずは天皇家の「断層」が見え始めました。
メッセージ 9 rarara_roadster さんに対する返信


激震の予兆   2007/11/11 22:11 [ No.11 ]
投稿者 : rarara_roadster
天皇家の『断層』について、もう少し見てみたいと思います。

まず、天皇になった3人の皇子の母親をもう一度あげます。

「待賢門院」第75代崇徳、77代後白河
「美福門院」第76代近衛

待賢門院の出身母体である閑院流藤原氏は、鳥羽・崇徳の外戚として当時の朝廷において大きな勢力を誇っていました。一方、美福門院は前回書いたように末茂流の藤原氏出身です。末茂流はもともと諸大夫層でしたが、美福門院の祖父顕季が白河院の乳母子として急速に台頭し、白河院の外戚だった閑院流の実季の養子となり公卿に列せられます。その子の長実・家保も院近臣として大国の受領を歴任し、公卿に昇進します。彼らは成功(じょうごう)により院に対し経済奉仕を行い、官職を進めていきます。言わば「新興勢力」悪く言えば「成り上がり」の一族(閑院流や摂関家から見れば)なわけですね。

院政において、天皇家の権限は「治天の君」に一極集中しますが、やはりその周辺においては勢力の駆け引きが繰り返され、ことに院近臣の中でも最大の勢力である国母(天皇の母)の一族、閑院流の「待賢門院」(旧勢力)と末茂流の美福門院(新勢力)の間にも、当然のごとくそれはあったと思われます。それらのことも踏まえながら、「叔父子」の問題は考えるべきだと思います。

そしてこの断層は、摂関家の断層と絡み合い、やがて予測不能の『大激震』を呼ぶことになります。
メッセージ 10 morikeigetu さんに対する返信


蓄積されたエネルギー   2007/11/13 21:10 [ No.12 ]
投稿者 : morikeigetu
このエネルギーは、恨み・焦り・欲望…とでも言えばよいのでしょうか。
天皇家における「断層」に蓄積されたエネルギーを整理してみましょう。

当時の政治形態「院政」は、ろどすたさんのおっしゃる通り上皇ないし法皇という「治天の君」に権力が一局集中する極めて恣意的な性格を持っていたようです。

白河院の御世では、保安4年(1123)に鳥羽が21歳で退位させられ、崇徳が5歳で即位しました。
絶対権力を持つ白河法皇と幼い崇徳天皇、そして無力な鳥羽上皇。

大治4年(1129)白河法皇が崩御。
「治天の君」となった鳥羽は、永治元年(1141)崇徳を退位させ3歳の近衛を即位させます。ここに、「治天の君」と幼い天皇と不遇な上皇がまたしても再現します。

じっと我慢を続けた鳥羽は、白河院の死後反白河の姿勢を明確にしていくようです。

簡単に時系列で追ってみましょう。

大治4年(1129)7月白河院崩御
           6月鳥羽、藤原忠実の娘泰子を女御とする
           8月、待賢門院、鳥羽を呪詛
さらに鳥羽は、藤原長実の娘得子を迎え、
保延元年(1135)得子、叡子内親王を産む
保延3年(1137)得子、ワ子内親王を産む
保延5年(1139)5月、躰仁親王(近衛)を産む
               鳥羽、生後3ヶ月の躰仁を東宮に立てる
永治元年(1141)12月、鳥羽、崇徳を退位させ近衛を即位させる
               美福門院、皇后となる
康治元年(1142)2月、待賢門院出家

ここに、待賢門院障子はその舞台を退去し、久安元年(1145)8月、45歳でこの世を去るのです。

後宮の争いに勝った美福門院得子…、ろどすたさんのおっしゃるところの「諸大夫の家の娘」。

すでに皇后となっていた美福門院得子を、

『母后たりと雖も、諸大夫の女たり』

と言っては憚らなかった者…、
左大臣藤原頼長。
メッセージ 11 rarara_roadster にさん対する返信


失敗、失敗(汗)   2007/11/14 9:49 [ No.13 ]
投稿者 : morikeigetu
編集するつもりが「投稿」を押してしまい、妙な段落と尻切れトンボになってしまいました。

ここで早くも藤原頼長、つまり摂関家に話題を移すつもりではありませんでしたので…。

もう少し天皇家の「断層」、退位させられた崇徳上皇の決定的な失望まで追いかけた方がよいと思うのですが、いかがでしょうか?
メッセージ 12 morikeigetu さんに対する返信


Re: 失敗、失敗(汗)   2007/11/14 21:21 [ No.14 ]
投稿者 : rarara_roadster
>もう少し天皇家の「断層」、退位させられた崇徳上皇の決定的な失望まで
>追いかけた方がよいと思うのですが、いかがでしょうか?

了解です。実はわたしも「ショートリリーフ」登板の経緯をもう少し掘り下げてみたいと思っていましたので、いろいろと質問するかもです(微苦笑)
メッセージ 13 morikeigetu さんに対する返信


ありがとうございます。   2007/11/14 23:47 [ No.15 ]
投稿者 : morikeigetu
「歴史」というのは、人為の及ばぬ化け物かなと思う時があります。
しかしながら、一部のごく特定の人間によって「歴史」が動かされてしまう事実もまた存在するのだという事を、身の毛がよだつごとく学ぶのも「歴史」であります。

「古代」と「中世」を区分するかのごとくいわれる『保元の乱』…。
その大きな歴史のウネリを起こしたのは、はたして時代の流れであったのだろうか…?
否、人間の、それもごく限られた一部の人間の「業(ごう)」なのではなかったかと思ってしまうのです。
しかし、その路線で話を進めると「歴史」は解明されない。
冷静に、ごくごく努めて冷静に、少ない史料の中からせめて自分の国の「歴史」くらい、まずは知ろう。その正誤の議論はそれからだよ…とね。

その点において『保元の乱』は、語っても尽きるものではないですね。
これから進めていく、例えば「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」とはあきらかに違うと思いませんか。
次なる『平治の乱』とも、その性格を異とします。

『保元の乱』をとことん語り尽くさないと「源平は語れない」と思うのですね。
私は、その点において、まだまだ勉強不足です。

ろどすたさん、とことんいきますか(笑)
メッセージ 14 rarara_roadster さんに対する返信


やっちゃいましょう   2007/11/15 23:14 [ No.16 ]
投稿者 : rarara_roadster
>その点において『保元の乱』は、語っても尽きるものではないですね。
>これから進めていく、例えば「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」とはあきらかに違うと思いませんか。
>次なる『平治の乱』とも、その性格を異とします。

実は、今回このトピに参加させていただいてから、改めて自分で思っていることがあります。それは、けいげつさんがbP2に書かれた

>じっと我慢を続けた鳥羽は、白河院の死後反白河の姿勢を明確にしていくようです。

という部分についてです。思わず「おっ!」と叫んでしまいました。

今、検証している、『天皇家の断層』についてですが、「鳥羽院の“反白河の姿勢”」ということが大きな“鍵”なんじゃないかなと。
保元の乱において、一番悲劇的なのはやはり崇徳上皇でしょう。そしてそれは、崇徳の責任ではなく、鳥羽院や美福門院によってもたらされたもの。
そして、鳥羽院にもそれなりの理由があったのかも・・・・。といった具合に糸が複雑に絡んでいるところがややこしい(苦笑)。
でもその糸の先は、白河院に結びつくような気がしています。鳥羽院が崇徳のことを「叔父子」と呼んだのは、その出生にまつわる疑念からですが、それだけではない“何か”があったように思えてなりません。どこまでそれに近づけるかわかりませんが、とても気になっています。

そして、それは平治の乱、ひいては治承・寿永の内乱へと続くように思います。やはり戦争と政治は切り離せませんからね。保元の乱がそれ以降の戦乱に比べ性格が異なるのは、「終わりの始まりの乱」といったスタンスを有しているからではないでしょうか。

>『保元の乱』をとことん語り尽くさないと「源平は語れない」と思うのですね。
>私は、その点において、まだまだ勉強不足です。

うひゃあ!けいげつさんが勉強不足なら、わたしのメッキはすぐに剥がれてしまいます。

>ろどすたさん、とことんいきますか(笑)

はっ。剥げたメッキは糊で貼り付けながらでもけいげつさんを追いかけましょう。ユーノスロードスターに乗って(平成3年式のオンボロ車ですが・・・)。

ま、それはともかく、保元の乱の時代は、それまで吉川英二の「新平家物語」くらいしか読んだことはありませんでした。新平家・・・では、決戦前夜に為義が義朝のところに源家累代の「源太産衣」「膝丸」の鎧を密かに送り届けるところなど、心に残るシーンがいくつもあるのですが、実際に自分でこの時代のことを調べてみると、まあギャップの大きなこと(苦笑)

それでもなぜかこの時代に惹かれています。
メッセージ 15 morikeigetu さんに対する返信


ユーノスロードスター   2007/11/16 13:14 [ No.17 ]
投稿者 : morikeigetu
専門家でない私がどこまで出来るのか、もちろんそのような野心もありませんが、ろどすたさんの支持を得たので心強く壇ノ浦を目指します。
あたかもユーノスロードスターがタイムマシンとなりますか!
同乗させていただければ、光栄です。

かつて大河ドラマ『義経』の掲示板でつくづく思ったのです。
「知っている人々がドラマとしてそれを見る」ことと違って、「知らない人がそれを見て歴史と思う」ことの恐ろしさを…。
個人的に「合戦」一の谷を追いかけているうち、「歴史」としてどんどん遡らねばならない必要を感じたのですね。
…で、行き着く所が「保元の乱」。
そして「保元の乱」を考えた時、その時点では既にこの世にいない白河法皇にまで遡らねばならないと…。

>それだけではない”何か”があったように思えてなりません。どこまでそれに近づけるかわかりませんが、とても気になっています。

このトピに締め切りはないですから、じっくりとタイムトラベルを楽しみましょうか(笑)

>「終わりの始まりの乱」

言い得て、妙!

この乱で何が終わり、何が始まるのか。
それが判明するのは、源実朝が暗殺された時かもしれません。

「保元の乱」における「天皇家の断層」、まだまだ掘り下げねばなりませんね。
メッセージ 16 rarara_roadster にさん対する返信です


では、再開といきますか   2007/11/19 17:51 [ No.18 ]
投稿者 : rarara_roadster
さあ、わたしも前回はおもわずテンションが上がってしまいました。しかし、ここで調子に乗って妄想の世界に突入してしまっては元も子もありません。頭は冷静にして事実をひとつひとつ追いかけていきたいと思います。

まずは崇徳帝に関連することを見てみましょう。たたき台としてお願いします。

 保安4年(1123)崇徳天皇即位(5歳)
 大治4年(1129)白河院死去
 大治5年(1130)摂政関白忠通の娘藤原聖子、崇徳帝の中宮となる(皇嘉門院)

◎保延5年(1139)体仁親王生まれる(母・美福門院)→ 皇嘉門院の養子となる

 長久元年(1140)重仁親王生まれる(母・兵衛佐局)→ 美福門院養育
 永治元年(1141)土御門殿において崇徳天皇から養子の体仁親王に譲位。近衛天皇即位

 康治元年(1142)2月、待賢門院出家

崇徳帝は、摂政関白忠通の娘聖子を中宮に迎えます。が、やがてその寵愛は兵衛佐局(大蔵卿源行宗養女)に移り、重仁親王が生まれます。結局このことが忠通が美福門院に接近するようになった理由のひとつであろうと元木氏は書いておられます。

皇嘉門院が中宮となって9年経っても皇子の誕生が無く、その間に美福門院は体仁親王を生みます。妄想の危険性があるかもしれませんが、美福門院が我が子体仁親王を皇嘉門院の養子としたのは、案外、忠通とのギブアンドテイクというのは考えられないでしょうか。なぜならそのことによるお互いの利益を考えた場合、

【忠通】
白河院により摂関家が弱体化している今、自分の娘(皇嘉門院)に皇子が生まれれば天皇家の外戚となれるが、崇徳帝の寵愛は兵衛佐局に移っておりそれもむずかしい。しかし、体仁が娘の養子となり、将来即位すれば、形の上では天皇家との姻戚関係が生まれる(もちろん摂関時代のようにはいかないが、それでも天皇家とのパイプは魅力的)。

【美福門院】
崇徳院に皇子が生まれれば、もともと「諸大夫の家」に繋がる皇子(体仁)が将来天皇になる可能性は非常に少なくなる。そこで一旦、摂関家出身の皇嘉門院の養子とし、東宮となりうる資質をレベルアップする。もちろん、閑院流は問題外。

【おまけの鳥羽院】
とにかく、崇徳の皇統は否定したい。しかし、体仁、重仁と皇子が相次いで生まれ、いろんな作戦が実行できそうな予感中。

ま、それでも鳥羽院の後ろに誰かが居そうな気もします(苦笑)。
如何でしょうか。
メッセージ 17 morikeigetu さんに対する返信


ちょっと修正させてください(泣)   2007/11/20 17:51 [ No.19 ]
投稿者 : rarara_roadster
【美福門院】のところですが、崇徳に皇子が生まれても、鳥羽や美福門院はその皇子を皇位に就ける気はさらさらありませんよね。
崇徳院の皇統は否定したいのですから。

だから、体仁の即位の障害にはならないのですが、体仁自体の「東宮としての資質」はやはり美福門院の出自と無関係ではありませんので、一旦、皇嘉門院の養子としたということです。

前にけいげつさんが書かれたように、体仁親王は生まれて3ヶ月ほどで東宮となっていますので、いかに重仁親王が阻害されていたかがわかりますね。
メッセージ 18 rarara_roadster さんに対する返信


『私』 しばし妄想に、おつきあい。   2007/11/21 9:57 [ No.20 ]
投稿者 : morikeigetu
実は私、この保元の頃というのはそれほど詳しく勉強していなかったのですね。ですから『玉葉』は読んでも『台記』をしっかり読んでいないのですね(汗)
メッセージ 19 rarara_roadster さんに対する返信


続 『私』 しばし妄想に、おつきあい。   2007/11/21 14:15 [ No.21 ]
投稿者 : morikeigetu
で、ろどすたさんの「妄想」、つまり「こだわり」に私もとらわれてしまったのですね。

たとえば、「叔父子」。
ろどすたさんの注意喚起によって、少し史料を整理し直してみました。

まず、『古事談』によって有名になったこの話も、はたして鳥羽自身が「叔父子」と口に出して言ったのかどうか、もし言ったとするならば、それはいつ頃からだろう…。

鳥羽と待賢門院の間には、元永2年(1119)第一子崇徳、天治元年(1124)第二子通仁、天治2年(1125)第三子君仁、大治2年(1127)第四子雅仁、大治4年(1129)7月に白河が崩御した翌閏7月に第五子本仁が生まれています。
これだけをみれば鳥羽は待賢門院に対して、とりたてて悪感情を抱いていないように思えます。
しかしそれは、まだ白河の在世中であったからかもしれません。

通仁は大治4年(1129)白河没後に死去、君仁も康治2年(1143)に死去、本仁は仁和寺に入り覚性法親王となり、雅仁だけが残ります。

重要なのは、鳥羽はいつ崇徳が「叔父子」と知ったのかではないでしょうか。
『人みな これを知る』
事実を鳥羽だけが知らなかったのではないかと、私は思ってしまったのです。

鳥羽の恨みは、当時待賢門院や崇徳に対するものではなく、21歳の自分を退位させた白河に対するものではなかったでしょうか。
上記のように、退位した鳥羽と待賢門院の間には4人の子が生まれています。
白河と崇徳の間で無力となった鳥羽は、白河が崩御するまでの6年間は「叔父子」の当事者である待賢門院とトラブルがなかったように思えます。
それが「我慢」であったのかどうかはわかりませんが…。
待賢門院にとっては、女として幸せな時間だったかもしれません。

ところが白河崩御のあと「治天の君」となった鳥羽は、長承元年(1132)白河に排除された忠実に内覧を与え復活させ、翌2年(1133)6月、これも白河の遺言によって禁止されていた忠実の娘泰子を入内させます。これをうけて、8月に待賢門院が鳥羽を呪詛するという事件も起きます。

長承3年(1134)泰子が皇后となった頃、得子(美福門院)が鳥羽の寵愛を受けている事を、得子の母方の叔父源師時の日記『長秋記』が記しています。
保延元年(1135)得子は叡子内親王、保延3年(1137)ワ子内親王、そして保延5年(1139)体仁(近衛)を生みます。

承治元年(1141)12月、鳥羽は崇徳を退位させ3歳の体仁を即位させます。同時に美福門院得子は皇后となります。
体仁は当初崇徳の中宮聖子(忠通の娘)の子とされ、忠通は自分の真の孫のように愛育していたといわれています。
ろどすたさんが指摘された近衛即位時の事情、鳥羽は体仁を崇徳の養子として体仁に譲位するよう命じ、崇徳もそれを承諾。
ところが体仁の立太子宣命には、崇徳の「皇太子」ではなく「皇太弟」と記され、これにより崇徳は近衛の父として院政を行えなくなったこと。

崇徳の恨みはこの時点で具体化したかもしれませんが、はたして崇徳が鳥羽にとって「叔父子」だからそうしたのでしょうか。

仁平3年(1153)忠通が鳥羽に奏請します。
「天皇(近衛)は眼病で失明寸前であり、天皇自身が雅仁親王の子守仁に譲位したいと考えている」

しかし鳥羽はこれを許容しなかった。
理由は、頼長によると、
「忠通が我が意で帝を立て、政を摂り、威権を専らとせん」(『台記』仁平3年9月23日)と鳥羽が疑ったためであるとしています。

これ以前に忠通の養女呈子と頼長の養女多子の入内争いがありましたが、ここでようやく近衛のあとの皇位継承問題が具体化してきます。

崇徳の子重仁も雅仁の子守仁も、美福門院は養子としていました。
しかし重仁が即位すると崇徳の院政も可能となり、美福門院としてはおいしくない。
このあたりで鳥羽の崇徳家排除を決定的なものとしておかねばならない必要が出てきたのではないでしょうか。
近衛に呈子を入れた忠通、多子を入れた頼長、近衛に皇子誕生を希求する美福門院得子。

「叔父子」の事もうすうす感じながら、自分の中で消化していた鳥羽の逆鱗を「我が手」ではなく「他人の手」で逆なでした人がいる。
誰なのだろう…。
メッセージ 20 morikeigetu さんに対する返信


白河・鳥羽、そして忠実   2007/11/23 16:10 [ No.22 ]
投稿者 : rarara_roadster
いかん〜。妄想爆発中ですね(苦笑)。

国母が実子以外の親王を養育するということ自体は、十分ありえることだと思いますが、院政において皇位継承に関わることは「治天の君」の最重要専決事項でもありますので、崇徳の子である重仁親王を美福門院が養育したことは、とても重要な意味合いを含んでいると思っています。ちなみに重仁親王の母である兵衛佐局は、保元の乱に敗れた崇徳上皇が讃岐に流されたときに同道しています。

かつてこの最重要専決事項の禁忌を犯し、関白を事実上罷免された人がいました。藤原忠実です。吉川弘文館人物叢書「藤原忠実」(元木泰雄)から要約します。

承徳3年(1099)摂政関白藤原師通が急死します。その子忠実はその時わずか22歳の若年で官職も権大納言と大臣経験もなかったため、すぐに関白を継承することができませんでした。よって忠実は内覧にとどめられています。摂関不在で内覧のみというのは、一条・三条のころの道長の摂政就任以来、ずっと続いてきた摂関が断絶したことになります。こうした状況で忠実は、政治経験も未熟なまま「内覧・氏の長者」となりました。

しかし、内覧という立場は関白よりも当然弱く、決裁を下せない忠実はたびたび政務において白河院に従属する形となりました。そしてようやく長治2年(1105)12月25日関白に就任しました。しかし、院に従属する状況はその後も続き、氏寺である興福寺に対する白河院の度重なる介入に際しても氏寺を統率しきれず、忠実は苦境に立たされます。そのことは、嘉承7年(1107)堀川天皇の崩御に伴う鳥羽天皇の即位のときに表面化します。鳥羽天皇の摂政就任について閑院流の藤原公実(権大納言・鳥羽の外伯父・待賢門院実父)が名乗りを上げます。しかし、このときは院に対し民部卿源俊明の諫言があり、なんとか無事に忠実が就任する(愚管抄)というありさまでした。このことは白河院に対する忠実の負い目を増幅させ、彼の政務はつねに白河院の圧迫を受け続けることになります。

天永4年(1113)忠実は鳥羽天皇の元服において加冠役を勤仕します。同年(7月に改元があって永久元年)忠実は娘勲子(泰子)の入内を考えていました。このことは当初白河も同意していたのですが、忠実はなぜか一旦停止しています。愚管抄では『鳥羽天皇の乱暴な性格のため(だろうと人々は噂した)』とありますが、元木氏はこれに続いて書かれている、息子忠通と藤原公実娘璋子(のちに待賢門院となる)との縁談に躊躇していたためであろうとしています。この縁談は白河院から勧められたものでしたが、忠実は明らかにその気はなかったようです。元木氏はこの理由を「養父白河との密通の噂など璋子にまつわるさまざまな醜聞のため」としていますが、わたしはむしろ璋子の実父公実が閑院流で、鳥羽帝即位の時に忠実を抑えて摂政になろうとしたことが大きな理由ではないかと思います。摂関家から見れば、閑院流はせいぜい極官が権大納言程度の家柄ですし、公実が摂政になれなかった理由もそこにあります。これに対し、白河院は永久5年(1117)12月13日璋子を鳥羽のもとに入内させ翌元永元年正月中宮に冊立。これで勲子の入内計画は危機的状況になってしまいました。そして保安元年(1120)11月、事件が起きます。
メッセージ 21 morikeigetu にさん対する返信です


Re: 白河・鳥羽、そして忠実   2007/11/23 16:13 [ No.23 ]
投稿者 : rarara_roadster
この年、白河院が熊野参詣のため不在のときに、忠実は鳥羽帝から娘勲子の入内について勧誘を受けます。計画が破れ、また、璋子入内という白河の策謀に焦っていたのか、忠実はこの勧誘を白河院をスッ飛ばかして受けようとしました。このことが白河院に讒訴され、白河は激怒します。保安元年11月9日院の使者治部卿源能俊から勲子入内を禁ずる院の意向が通達され、12日には左大臣源俊房を上卿として忠実の内覧停止が命ぜられます。

天皇家の婚姻・後宮の人事はあくまでも「治天の君」の最重要専決事項です。その禁忌に触れてしまった忠実は、内覧停止により事実上関白を罷免されたに等しいことになり、こうしてあっという間に失脚してしまいました。閉門から二ヶ月の翌保安2年正月17日、一旦内覧に復帰しますが、22日に関白を息子忠通に譲渡、以後は宇治において謹慎し、復帰するのは白河没後、鳥羽院の時代になってからとなります。

ここで注目されるのは、鳥羽帝が勲子入内について直接忠実に持ちかけたということ。つまり鳥羽自身も院の最重要決定事項の禁忌を犯しているということです。実は鳥羽帝は永久4年12月の除目においても白河院と対立するなど、自立の動きを示していたといいます。これが直ちに天皇親政を目指したものではないにせよ、院と天皇の亀裂は徐々に大きくなっていったようです。天に二日無し。唯一無二の天である「治天の君」は、そろそろと昇り始めた二つ目の「天」が目につき始めたようです。保安4年(1123)白河院は鳥羽を退位させ、当時5歳の崇徳に譲位することを命じます。

天皇が成長し、自立の様子を見せ始めたら退位させて無力な上皇とし、幼い天皇を即位させて治天の君が引き続き実権を握るということが「院政」という政治システムを存続させる方法であると同時に、『天皇VS上皇』という対立の構図が生まれる危険性を常にはらんでいるという、実は矛盾したシステムであったといえるでしょう。

若くて勢力も満ちていた天皇が、その力を発揮することなく奪った前任者の遺産を快く思わないのも道理であるように思います。

そして鳥羽院は、今度は永治元年(1141)土御門殿において崇徳天皇から養子の体仁親王に譲位を命じ、近衛天皇が即位します。ところがここで例の「皇太子・皇太弟」事件が起きてしまいます。

ま、少々ベタベタというかコテコテというか、そんな展開ではありますが、案外そうせざるを得ない状況だったのかもしれません。そのあたりの検証は次に回すとして、しかし、このことによる崇徳側の衝撃は大きく、元木泰雄氏は『母の待賢門院の側近源盛行と巫女朱雀の夫妻は、早速翌年の正月に摂津国広田社で得子(美福門院)を呪詛した。しかし、これは逆に待権門院が出家に追い込まれる原因となり、閑院流藤原氏の公卿達もなにかと理由をつけて支障を訴え政務を放棄した』と書いておられます。

これで崇徳上皇は、「治天の君」になれない“素の上皇”となったあげく、母方の勢力に大打撃を受けたことになります。おまけに皇子の重仁は美福門院のもと。新院の御心いかばかりか・・・。
メッセージ 22 rarara_roadster さんに対する返信


bQ2修正(謝)   2007/11/23 17:40 [ No.24 ]
投稿者 : rarara_roadster
×嘉承7年(1107)堀川天皇の崩御に伴う鳥羽天皇の即位
○嘉承2年(1107)堀川天皇の崩御に伴う鳥羽天皇の即位
メッセージ 22 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 白河・鳥羽、そして忠実   2007/11/23 19:04 [ No.25 ]
投稿者 : morikeigetu
勉強になります。

以前にも書きましたように、私はこの時代を平清盛に主軸を置き、合戦としての「保元の乱」という「表面」しか見ておらず、極めて浅学でありました。
ですから藤原忠実や頼長といった人々をしっかりと見ていなかったのです。

日記などの史料、あるいは埋蔵文化財などの発掘・発見によってのみ語る事をゆるされる実証史学に妄想は許されないですが、仮説として置いて考える事は可であると個人的には思っています。
ただ「伝説」と呼ばれるものを、どの時点で切り捨てるかに苦慮するのですね。「伝説」といえども、それが生まれた後の時代の背景がありますからね。

話がそれました。

ろどすたさん、『保元の乱』における「天皇家の断層」。
そろそろ佳境に近づいてきたかのように思うのですが、いかがでしょうか?

崇徳の決定的な失望は目前ですね。
まだ勝てるかもしれない、と一縷の望みを持っていた崇徳の前に出てきたのが、予想もしなかった「ショートリリーフ」だったのですね。
メッセージ 23 rarara_roadster さんに対する返信


Re: 白河・鳥羽、そして忠実   2007/11/23 22:21 [ No.26 ]
投稿者 : rarara_roadster
なにぶんにも「素人の妄想&受け売り」で恐縮です(大汗)

>ろどすたさん、『保元の乱』における「天皇家の断層」。
>そろそろ佳境に近づいてきたかのように思うのですが、いかがでしょうか?

はい。わたしもそう考えています。ただ、近衛帝の入内問題で少しだけ摂関家の兄弟に触れておきたいと思います(前フリ程度)。
次期天皇決定の王者議定のこともありますし。

って、すでに書く気満々なろどすたでした(自滅)
メッセージ 25 morikeigetu さんに対する返信


お願いします。   2007/11/24 18:13 [ No.27 ]
投稿者 : morikeigetu
実は私も、「天皇家の断層」が終わりました、はいでは次の「摂関家の断層」に移りましょう…というのは、ちと無理があるなと思っていたのです。
やがて二つの陣営に分かれて戦う者たちが、それを知ってか知らずか、この時期複雑にからみ合いながら明滅しているのですね。

いずれも、いずれも命ある人間の必死の生き様だけに、せつない想いでふと魂だけが850年前に飛んでいってしまいそうになるのですね。

ろどすたさんのおっしゃる通り、そろそろ摂関家の兄弟とその親に具体的に登場してもらって、「天皇家の断層−分裂」とどのように重なっていくかを見ていった方がいいと思います。
メッセージ 26 rarara_roadster にさん対する返信です


天皇家の断層 完結編(簡潔か間欠も可)   2007/11/25 2:41 [ No.28 ]
投稿者 : rarara_roadster
忠実の後を継いだ関白忠通には子どもがいなかったため、23歳年下の弟左大臣頼長が養子となっていました。この時点では、将来の摂関家当主は頼長の予定でした。ところが、忠通に実子の基実が生まれたことから様子がおかしくなります。忠通は、弟よりも実子に後を継がせたくなってしまったわけですね。父親の忠実は、年をとって生まれた頼長をかわいがっていたため、忠通に対し大いに不満を持つようになります。また、すでに現在は摂関家当主・氏の長者になっている忠通にしても、白河院の没後、鳥羽院によって復権を果たした「大殿」忠実の存在は、次第にプレッシャーとなっており、「忠通VS頼長・忠実」という構図ができつつありました。

そんななかで、近衛天皇の入内問題が起こります。

久安6年(1150)頼長は養女多子を入内させようとしたところ、忠通は美福門院と提携して養女呈子の入内を強行します。これにより、兄弟の対立は決定的なものとなりました。美福門院が忠通を支援した理由は、元木泰雄氏によると、忠通の娘聖子が崇徳上皇の中宮で、近衛天皇がかつて養子となっていたこと、美福門院の支持勢力である村上源氏や中御門流と忠通が密接な姻戚関係を有していたことを挙げておられます。そしてやはり、頼長の養女となった多子が、閑院流の出身であるということが大きな理由でしょう。

結局、国母と提携することにより忠通の養女呈子は、近衛天皇の中宮として入内します。しかし、頼長の養女多子も、忠実が奔走したかいあって皇后として入内に成功。こうして近衛天皇に二人の后が並立することになりました。

並立とはいえ、近衛天皇は忠通邸の近衛殿で中宮の呈子と暮らすようになり、実質的にこの入内競争は忠通の勝利となりましたが、それで収まらないのがオヤジの忠実です。激怒した忠実は、同年9月東三条殿とその御倉町を接収、正邸と摂関家累代の家宝で氏の長者の証である朱器台盤などを奪って頼長に与え、ついに忠通を義絶するに至りました。こうして事実上摂関家の当主及び氏の長者は、頼長ということになりました。翌年正月鳥羽院は忠実の奏請を受けて頼長に内覧を与えます。摂政は院が任じたものであるため勝手に奪うことはできず、そのかわりに忠実は、頼長を内覧に進めることにより忠通への対抗策としたものです。

愚管抄のなかで、慈円は頼長のことを「和漢の才に富む日本第一の大学生」と評すと同時に「ハラアシクキハドキ人ナリケル」とも言っています。“悪左府”と呼ばれた頼長は、内覧になって以後、度重なる騒乱を引き起こします。ざっとあげただけでも、

仁平元年(1151)美福門院のいとこで院近臣の藤原家成の邸宅を家臣に命じて襲撃、破壊する
同年  7月    源為義の摂津旅亭を源憲頼に焼却させる
仁平2年6月    南都の殺人犯を追捕するため、検非違使を仁和寺に派遣し紛争を引き起こす
仁平3年5月    岩清水八幡宮にて興福寺僧源勝の従者を捕らえるため厩舎人を派遣して殺害する
同年  6月    所領の裁判に不服を唱えた興福寺僧を上賀茂神社で捕らえ、神域で流血騒ぎを引き起こす

といったことが挙げられます。これは結果的に他の権門の猛烈な反発をまねき、頼長が孤立してしまう原因にもなりました。また、朝廷内においても厳格な処罰を実行しますが、旧儀を重んじた結果、旧勢力と新興勢力の摩擦を大きくし、それがまた院近臣の不満を蓄積させてしまいます。特に藤原家成の邸宅を破却した事件は鳥羽院の信を失うことにもつながり、近衛帝も、

仁平2年元旦  頼長が公卿を引率して天皇に対する正月の挨拶である小朝拝に赴いた際、近衛天皇は姿を現さなかった
同年10月1日 白河泉殿への方違行幸の際、不参の関白忠通に代わり左大臣頼長が牛車を降りる天皇の裾をとろうとしたら、天皇はそれを拒み自ら裾をとって御所へ入った

というふうに頼長に対し嫌悪感をあらわにするようになります。そしてその翌年、近衛天皇は眼病により病の床に伏せるようになります。9月にはけいげつさんがbQ1に書かれたように、

>仁平3年(1153)忠通が鳥羽に奏請します。「天皇(近衛)は眼病で失明寸前であり、天皇自身が雅仁親王の子守仁に譲位したいと考えている」
>しかし鳥羽はこれを許容しなかった。理由は、頼長によると、
>「忠通が我が意で帝を立て、政を摂り、威権を専らとせん」(『台記』仁平3年9月23日)と鳥羽が疑ったためであるとしています。

ということがあり、鳥羽院は忠実に、「わたしとあなたが亡くなった後は、皇位をめぐって天下が乱れるであろう」と嘆息したとされています。
メッセージ 27 morikeigetu さんに対する返信


天皇家の断層 完結編(簡潔か間欠も可)   2007/11/25 2:44 [ No.29 ]
投稿者 : rarara_roadster
そしてついに久寿2年(1155)7月24日、近衛殿にて天皇は17歳の生涯を終えます。ここで退位したままであった崇徳上皇に一気にスポットライトが当たります。たとえ自分が退位していても、実子が天皇に即位することがあれば、父院、つまり「治天の君」として君臨することが可能になります。そしてこの時点で次期天皇に最も近い人は、他ならない我が子「重仁親王」その人でした。

そして運命の「王者議定」が鳥羽殿で開催されます。

出席したのは美福門院の近臣元右大臣源雅定、権大納言藤原公教の両名。公教は閑院流ながら、美福門院や藤原信西と姻戚関係があり、いわば“本籍:閑院流、現住所:美福門院系列”という人物です。この他に関白忠通のところにも2、3度使者が送られ諮問があったとされます。しかし、父親の忠実はもちろん、内覧の頼長も妻の服喪中であったとはいえ、議定に呼ばれることはありませんでした。つまりこの議定は、“中継参加”の忠通を含めて「美福門院一派」で占められていたことになります。

選ばれたのは、崇徳と同じく待賢門院を母とする四の宮雅仁親王、後白河天皇でした。雅仁親王は、愚管抄にも「イタクサタダシク御遊ビナドアリトテ即位ノ御器量ニハアラズ」とあり、そもそも皇統が崇徳から近衛に移った時点で皇位継承とは無縁の存在でした。

こうして、崇徳上皇は鳥羽院や美福門院に翻弄され続けた挙句、最後の望みも絶たれ、政治生命は完全に終わってしまいました。


では、なぜ雅仁親王の登場が「ショートリリーフ」なのか整理してみましょう。

まず、鳥羽院が「反白河」の姿勢を見せていたことは、前に藤原忠実について投稿したように白河院政のときから少しづつあったということ。そして、白河没後は忠実の内覧復帰(天承2年(1132)1月14日)、娘勲子(泰子)の入内(長承2年(1133)6月)と立后(その翌年3月)といった具合に、かつて白河院の実行したことを覆しています。それに続くのが崇徳天皇の退位と近衛天皇の即位であり、止めがこの後白河天皇の即位による崇徳皇統の完全否定でした。おそらく白河院に対してずっと燻っていたものがあり、最終的に引き金を引いたのが、あの「叔父子」だったのでしょう。

また、美福門院は、待賢門院への対抗意識、もちろんそれはそれぞれの女院をとりまく近臣たちの軋轢も含めて、崇徳帝の皇統とそれに繋がる勢力を排除したいという意思があったものとおもわれます。そしてその「アイテム」が、近衛帝が崩御した今では自分の養育していた守仁親王、つまり雅仁親王の子です。

雅仁も待賢門院から生まれていますが、もともと皇位継承とは縁遠い人物でしたし、その子守仁は生まれてすぐに母親が疱瘡で亡くなったため、美福門院のもとで養育されていました。その意味では、十分に美福門院系列の親王といえる人物です。

しかし、院政という政治構造の中で事態が進行している以上、皇位経験のない父親(雅仁)の子である守仁親王が、先帝崇徳の一宮である重仁親王を飛び越えていきなり即位ということはできず、「将来の守仁即位を前提条件としたショートリリーフ」として雅仁親王つまり後白河天皇の即位となったものです。


ということで、そーとー端折りましたが、『天皇家の断層』の一席。お後はよろしいでしょうか?
メッセージ 28 rarara_roadster さんに対する返信


お疲れさまでした。   2007/11/26 23:04 [ No.30 ]
投稿者 : morikeigetu
保安4年(1123)1月28日に崇徳が5歳で即位し、大治4年(1129)7月7日に白河が77歳で崩御。
そして鳥羽の院政が開始され、永治元年(1141)12月7日崇徳は23歳で退位させられ、近衛が3歳で即位。
そしてその14年後の久寿2年(1155)7月23日に近衛が17歳で崩御し、翌日に後白河が29歳で即位したのですね。

百人一首の

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢はむとぞ思ふ

という和歌でも有名な崇徳は、『詞花集』という勅選和歌集を勅命によって完成させました。
激動の人生の合間に詠んだ崇徳の和歌の、そのほとんどを私は知りませんが、機会があれば触れてみたいと思います。

崇徳退位から近衛崩御までの14年間、重仁親王の即位にのみ希望を繋いでいた彼は、37歳にして決定的な失望の底に沈みました。

その誕生の疑惑さえ、彼自身に何の責任もありませんでした。
しかし世の中は、この失意の崇徳をそっとしておく事もなく、更なる修羅の渦に巻き込む動きが生じてきます。

ろどすたさん、では多少時間を遡りつつも、「摂関家の断層」を見ていきましょうか。
メッセージ 29 rarara_roadster さんに対する返信


多所懸命。   2007/11/29 8:27 [ No.31 ]
投稿者 : morikeigetu
「一所懸命」という鎌倉武士の生き方をあらわす言葉がありますが、後三条天皇以来の荘園整理令によって、摂関家の経済的基盤は絶対安泰とはいえなくなっていたようです。

そもそも初期の摂関家には「氏の長者」に与えられる世襲的な財産としての大和国佐保殿・備前国鹿田荘・越前国方上荘・河内国楠葉牧の4ヶ所と多少の荘園のほかは、むしろ律令制による給与のほうが大きかったようです。
位階に対して位田、官職に対して職分田、また食封(じきふ)という位階・官職両方に対して与えられた封戸(班田農家1戸を単位)がありました。

たとえば『令義外』田令をみると位田一品(一位)80町・二品60町…、職分田太政大臣40町・左右大臣30町…、また禄令をみると正一位300戸・従一位260戸…、太政大臣3000戸・左右大臣2000戸…とあります。さらに、この他に季禄・功田・賜田などもありその収入は莫大であったと思われます。
これらは本人の死によってほとんど停止されますが、代々が続いてその職位につけば実質世襲財産といえるでしょう。
しかしやがて律令体制が崩れ、院政が開始されると藤原氏をはじめとする権門の経済基盤にゆらぎが生じます。

竹内理三編『土地制度史1』によると、白河親政・院政期には承保2年(1075)・承徳3年(1099)・嘉承2年(1107)・大治2年(1127)の整理令等比較的徹底した荘園整理が行われると同時に、院宮分国が白河院政期に拡大し国衙領と荘園の同質化も急速に進んだとされます。

鳥羽院政期には院庁下文によって立券された荘園が多数あらわれ、女院領・御願寺領等の荘園群が院を中心に一個の体系にまとめられていき、皇室の直領として御厨の荘園化が進み、非農業民を供御人として組織していく道もひらかれました。

このような中、諸権門は自らの安定した経済体系を築きあげるため全力をあげねばなりませんでした。
元永2年(1119)忠実が上野国に5000町におよぶ荘園を立券しようとして白河院に停止された事も、日向国の数百町から成っていた島津荘を大隈・薩摩へと拡大し数千町におよぶ大荘園に発展させた事も、院政によって受身に立たされた摂関家が、自身の経済的基盤を従来の給付から家領へと転換させていく努力であったのでしょう。

こうしてみると、権力はすなわち経済力かな、と。
院と摂関家の土地争いの中で、それぞれの相続争いが絡んできたようです。

「忠実・忠通・頼長の人となり」を見ようと思ったのですが、とんだ寄り道をしてしまいました。すみません(謝)


訂正です(汗)   2007/11/29 8:38 [ No.32 ]
投稿者 : morikeigetu
位田一品(一位)80町→位田正一位80町・従一位74町
  二品(二位)60町→正二位60町・従二位54町…です。
メッセージ 31 morikeigetu さんに対する返信


摂関家の家庭の事情   2007/11/29 23:13 [ No.33 ]
投稿者 : rarara_roadster
ひとくちに「荘園」と言っても、なかなかそのイメージを掴むのはむずかしいですね。この時代の検証をしていくには不可欠なんですけど、わたしのような素人は、ついついハデな合戦や、丁々発止の政治闘争に目が行ってしまい、それ以外のことはいつもおざなりになってしまいます。

しかし、合戦にしても政治にしても「経済基盤」無しには成り立たないわけですから、やはりきちんと勉強しなくてはなりませんね。実は、荘園の立荘から寄進までのプロセスといったことを手始めにと思ってはいるのですが、参考文献などありましたらご教示願います(ぺこり)。

では、わたしも少々書いてみます。

少し遡って忠実の内覧復帰のころから見てみましょう。

白河院は、たびたび興福寺の人事権に介入し、その都度大衆が押しかけて紛争になっていました。鳥羽院の時代になってからはそれが激化して、大治4年(1129)11月の事件では、ついに鳥羽院は源為義、同光信以下の検非違使を興福寺に派遣し、寺内で悪僧の追捕を強行するにいたりました。

氏の長者、関白忠通はこうした情勢のなかで興福寺に対し強硬な姿勢をとりますが、有効な結果を残すことができず、その後も大規模な強訴が続きます。復帰した忠実も、かつて氏の長者でありながら興福寺の統制に苦労し、白河院との板ばさみに悩んでいた経験があり、このまま院と興福寺の対立が続けば摂関家の存続にも関わるため、忠実はここで思い切った手段に出ます。それは興福寺悪僧で大和源氏出身の信実(しんじつ)を取り込み、彼に悪僧の統制をさせるというものでした。

一方で、河内源氏の源為義一族などを家人として組織し、摂関家直属の武力とするとともに、悪僧への押さえとしたようです。康治元年(1142)には興福寺の反信実派の僧達15名が奥州に流され、為義が護送しています。この護送は忠通の名前で執行されていますが、実際に指揮を取ったのは明らかに忠実であり、このころには当主・氏の長者忠通の上部に「大殿・忠実」が君臨していることが見て取れます。また、忠実は、参議藤原為房の男で興福寺の法橋寛誉を私刑により殺す(「台記」久安3年10月24日条)など苛烈な制裁を加えています。寛誉は忠実の腹心として興福寺の統制を行っていましたが、おそらく、何らかの失策があったのか、あるいは裏切りなのか・・・。殺された理由ははっきりとわかりません。

ちなみに、奥州に流された15名の僧達こそ真に宗門を知るものであった、と頼長は台記に書き残しています。忠実の方策がいかに強引であったか、ということですね。

ところで、忠実もいきなり忠通の上にたったわけではなく、当初は、例えば忠実が祭礼や儀礼執行に携わって、忠通は一般の政務を担当するというふうに「住み分け」ができており、院における正月の礼拝で足の不自由な忠実の手を忠通が取るというような光景も見られたといいます。また、長いこと男子に恵まれなかった忠通の養子に若い弟の頼長がなって後を継ぐ、ということは摂関家の「既定路線」でしたから、兄弟も最初から争っていたわけではありません。

結局、忠通の上に『内覧という関白とほぼ同等の権限を持ち、なおかつ摂関家において氏の長者に対し父権を実行できる「大殿」』忠実の存在がプレッシャーとしてあったこと、そして忠通に実子基実が生まれたことにより、忠通はその「既定路線」の変更を図り、頼長と彼をかわいがった忠実は「既定路線」に固執した結果、『摂関家の断層』が生じたといえます。

その断層が崩壊したのが、先に投稿した「近衛天皇入内競争」です。

ここでちょいとけいげつさんご紹介の一節をもちだします。

『母后たりと雖も、諸大夫の女たり』by頼長

実は、美福門院のことを「諸大夫の女」と思っていたのは、忠通も同様でした。むしろ美福門院が立后したばかりの頃は、頼長は行啓にも必ずといっていいほど追従して、鳥羽院にも感謝されているのに対し、康治3年正月の礼拝に際し、忠通は皇后得子に礼拝を行いませんでした。

しかし、美福門院と閑院流の軋轢が大きくなるにつれ、室が閑院流出身でその姪多子を養女として近衛天皇への入内を画策していた頼長は、足が遠のいてゆき、逆に門院の支持勢力である中御門流出身の室をもつ忠通は、美福門院と提携して室の姪である呈子を養女にし、頼長に対抗します。

結果は28のとおりです。その後、忠実により忠通は義絶され、頼長が氏の長者となります。
このことについて、少し補足してみましょう。
メッセージ 31 morikeigetu さんに対する返信


摂関家の家庭の事情   2007/11/29 23:29 [ No.34 ]
投稿者 : rarara_roadster
入内競争の後、忠実は忠通に対し摂関の職と氏の長者を頼長に譲るように迫ります。しかし、忠通はガンとしてこれを受けないため、忠実は鳥羽院にも働きかけますが、鳥羽もこれをそのままにしていました。そこで忠実は最後の手段として実力行使に撃ってでたわけです。

こうして頼長は内覧・氏の長者となったのですが、実はその「全て」を受け継いだわけではありません。法成寺や平等院の管理権、知行国は忠実が握っていました。元木氏は、忠通との対立から全権の委譲に忠実が慎重になっていたことと、近衛天皇の入内競争において頼長が美福門院や鳥羽院に翻弄され、政治能力の未熟さを露呈してしまったことに危惧を抱いたためであろう、としています。

話がそれますが、かつて頼長が長男に「忠経」と名付けたことに忠実は、謀反人(平忠常)の名前と読みが同じであることから、本来「経史」に通じているはずの頼長は、些細なものに目を取られ広い視野を持たないと批判しています。

忠実は、頼長のことを溺愛していたというのが通説ですが、やはりシビアに捉えていた面もあるようです。

そして、また28にもどりますが、内覧となった頼長は、たびたび騒乱を引き起こし、そのために孤立の道をひた走ることになります。特に院近臣の藤原家成の邸を襲撃したことは鳥羽院の逆鱗に触れてしまいました。以降、鳥羽と忠実の間も疎遠になり、久寿元年(1154)以降は忠実も鳥羽の離宮を訪ねることはなくなったといいます。

翌久寿2年7月24日近衛帝の崩御に伴い、後白河天皇が即位します。新天皇が即位したら、内覧・摂関は新しく宣旨が出されるのですが、頼長の内覧の宣旨はありませんでした。

8月頃、ひとつの風説が流れます。それによると、「愛宕山の天狗像の目に釘を打ち込み、近衛天皇を呪詛したものがいる。どうもそれは忠実・頼長親子のようだ・・・。」忠通や美福門院が調べてみると、ほんとうに愛宕山の天狗の目に釘が打ってあり、それを聞いた鳥羽院は激怒して頼長の内覧を奪い取ったらしい、ということになったのだとか。

この噂を頼長は家司たちから聞いており、内覧の宣旨が出されないのはそのためか、と台記に残しています。

むろん忠実もそのままでいたわけではなく、9月には頼長を一旦謹慎させて神仏への祈祷を行い、高陽院(かやのいん・忠実の娘泰子)を通じて鳥羽院との関係修復を図り、頼長の皇太子傳への補任を願い出ます。しかし、頼長がここ3年間美福門院への出仕が無かったことから、鳥羽の死後も守仁に忠節を尽くすとは考えられないとして補任はゆるされませんでした。(ちなみに皇太子傳になったのは、待権門院の兄、右大臣藤原実能。)

10月になると、忠実と高陽院の努力が実ったのか、鳥羽院との間に一時状況好転の兆しがみえてきます。しかしそれもつかの間、春先から体調を崩していた高陽院が、11月に入ると症状が重篤になり、12月16日にはついに亡くなってしまいます。

忠実にとって高陽院はまさに『命綱』。今の忠実の置かれた状況を考えれば、実の娘が亡くなったというだけではなかったでしょう。実際に高陽院の葬儀で忠実は度重なる失態を繰り返します。この後、忠実から鳥羽院へ働きかけた様子は史料には無いそうです。

摂関家の分裂は、忠通と頼長の確執から生じていますが、近衛天皇の入内競争では、天皇家にそれを利用されてしまい、泥沼にはまり込んでいったという印象があります。父親の忠実が、かつて鳥羽の入内に絡んで失脚し、今度は息子二人が近衛の入内問題で争うことになったのも、考えてみれば皮肉なものです。
メッセージ 33 rarara_roadster さんに対する返信


忠通と頼長。   2007/12/ 5 9:48 [ No.35 ]
投稿者 : morikeigetu
いえいえ、私も全くの素人ですから(汗)

荘園公領制というか荘園に関する研究は、今もなお今後の研究成果を待つ部分が多いようです。けれど現在の高校日本史の教科書を見ると、私達が学んだ大昔に比べればずいぶん詳しい説明になっているような気がしますが、やはり難解である事に変わりはないようです。

荘園に関する書物は驚くほどたくさんありますが、乱読しても訳がわからなくなるばかりで…。
前回引用したのは、体系日本史叢書の竹内理三編『土地制度史1』ですが、その第4章「荘園公領制の形成と構造」の執筆は網野善彦氏です。
制度史ですから、流れとして把握するには比較的わかりやすいと思います。

さて「摂関家の台所事情」、興味深く読ませていただきました。
結局、院政の開始により摂関家による摂関政治が、かつてのような強力な力を失い始めたのでしょうね。
保安元年(1120)11月、白河院により忠実の内覧が停止された事も、摂関の地位が院の意思によって動かされているあらわれでありましょう。

ところで、この件で忠通はこのような事を言っています。
白河院が忠実の内覧を停止し、忠通に「執政セヨ」と命じた時、忠通は、
「代々ノ例、コノ職ハ父ノユヅリヲヱ候テ、ウケトリ候」(『愚管抄』)
つまり、代々父からの譲渡であったと言っているようです。
そのため保安2年(1121)2月忠実を内覧に復した後、忠実の上表によって忠通が3月に関白を継ぎました。
くだって久安6年(1150)9月、忠実が忠通から氏長者を奪って頼長にそれを与えましたが、その以前から摂政を頼長に譲るよう再三忠通に申し入れていた時、忠通は
「収公セラルベシ。譲与スル能ハズ」(『台記』久安6年9月25日)
院が没収すればよい、譲与できるものではないと言っています。
また忠実も、
「摂政ハ天子ノ授クル所ナリ。我コレヲ奪ヒエズ」(同9月26日)
と認めています。
これは忠通がその地位を譲与する意思がない事を表明したものであり、どうしてもというなら奪ってみろと院に対して高言しているようにも解釈出来ます。摂関家としての忠通なりのプライドだったのでしょうか。
院政のもと、忠実・忠通・頼長が三人三様、必死になっている様子がうかがわれます。

>忠通との対立から全権の委譲に忠実が慎重になっていた
これは正しいと思います。
ろどすたさんがおっしゃるように頼長ばかりを溺愛していたのではなく、「摂関家」の再興のために奔走していたのでしょう。ただ、「自分がなんとかする」という気持ちが強すぎたのかもしれません。

>母后たりと雖も、諸大夫の女たり
これも確かに、美福門院に出仕しない忠通に対して頼長が、「諸大夫の女だから馬鹿にしているのだろう」と忠通の心を見透かした頼長の台詞としての記述です。ただ、頼長の心にもそういったものがあったから、この記述になるのでしょうけれど。
頼長の母も、実は「諸大夫の女」なのですね。
「日本第一大学生」と言われた彼の猛勉強ぶりは、そのコンプレックスによる強烈な反動だったのでしょうか。

>足の不自由な忠実の手を忠通が取る
これと似たような事が頼長にもありました。
もう既に「氏長者」を頼長が受けたあとの話が『愚管抄』にあります。
「おり悪しく忠通と頼長が内裏でばったりと出会ってしまった事がある。
頼長はかつて忠通の養子として育ててもらったのを思い出したのだろうか、兄忠通に対して礼をした。父忠実が『なぜ』と問うと、頼長は『仲が悪いからといっても、礼を欠く事はできない』と」

角田文衛氏は『平安京散策』の中で、忠通の事をこう記しています。
(前略)かの『今鏡』の著者が絶賛しているように、理想的な公卿であった。政治家としては冷徹そのもので、明鏡のように判断を誤らなかった。政争に出会えば、父の忠実や弟の頼長に対しても仮借なく陰険な策謀を演じた。一方彼は、詩歌や書蹟の面でも抜群であり、また筝の名手としても聞えていた。『百人一首』の「わだの原漕ぎ出てみれば」からも察しられる通り、歌風はきわめて格調が高く、よく人柄を反映していた。(後略)

忠通と頼長、その善悪も甲乙つけ難いですね。
メッセージ 34 rarara_roadster さんに対する返信


摂関家の武力   2007/12/11 22:14 [ No.36 ]
投稿者 : rarara_roadster
>制度史ですから、流れとして把握するには比較的わかりやすいと思います。

ありがとうございます。参考にさせていただきます。

>頼長の心にもそういったものがあったから、この記述になるのでしょうけれど。
>頼長の母も、実は「諸大夫の女」なのですね。

おっしゃるとおりだと思います。ちなみに頼長の母親は、摂関家の家司土佐守藤原盛実の娘ですね。保安元年(1120)の生まれですから、忠実が失脚する前年の生まれになりますか。

>忠通と頼長、その善悪も甲乙つけ難いですね。

結局は、誰の立場からものを見るか、ということなのでしょうね。小説の話を持ち出すのもへんてこりんな話なのですが、「新平家物語」での忠通は、近衛帝の入内問題で頼長や忠実に翻弄され、鳥羽院との板挟みになって苦悩するという少々可哀相なキャラクターで登場しますね(微苦笑)。

さて、次は藤原信西を、と思っていたのですが、信西はむしろ保元の乱の事後処理から平治の乱へと続いていく過程において取り上げたほうがいいかなとも考えています。そこで、そろそろ乱直前までの為義一族や平家の様子について押さえておくというのは如何でしょう?

なかでも、平忠正については、様子がよくわからないので・・・。

忠正は、右馬助を解官された後、摂関家に伺候していたようですが、もともと兄の忠盛のように羽振りは良くなかったようですね。少なくとも新平家物語にあるように、若き日の清盛が、馬をかたにお金を借りに来るというような立場ではなかったようですが・・・。


一応、摂関家と武門の結びつきについて見ておきたいと思います。けいげつさんが31に書き込まれた“多所懸命”にあるように、荘園は権門の重要な経済地盤です。その拡大や開発は、衝突やいざこざと無縁ではありません。また、夜盗・群盗の脅威も含め、常に武力紛争の温床ともなっていました。 為義一族らは、そういった紛争の調停者であったり、また、摂関家の警備を担当したりと家政機構の中における軍事・警察担当というような存在です。

為義ら河内源氏の一族は、義親の康和の変以降、院から遠ざけられており、為義も長いこと叙爵されることも無く、検非違使のまま留められていました。

そこに近づいてきたのが摂関家でした。摂関家は、興福寺強訴の問題や、広大な荘園の管理において、直属の武力を求めていました。一方、為義も朝廷において官位が望めない以上、それに代わるものを求めており、摂関家の接近はまさに渡りに船だったでしょう。摂関家のバックアップがあったのか、康治元年(1142)為義はようやく叙爵し、翌年には頼長に名簿を棒呈し、臣従の礼をとります。もっとも、為義が摂関家に伺候し始めたのはこれより数年前とみられ、ちょうど興福寺の悪僧信実が、忠実によって組織される少し前のようです。

清盛一族と忠正、平氏の場合はどうだったのでしょうか?けいげつさんの平家論、非常に楽しみです。
メッセージ 35 morikeigetu さんに対する返信


忠盛一門(1)   2007/12/13 0:52 [ No.37 ]
投稿者 : morikeigetu
多くの場合、歴史とは「勝者の歴史」である事を念頭におかねばなりません。そしてその「勝者の歴史」に対して「判官贔屓」という対抗馬が登場しますが、この贔屓という心情をきちんとコントロールしなければ歴史を見誤ることにもなりますね。

>結局は、誰の立場からものを見るか

敗者の立場を正当に証明出来るものは、勝者によって破却もしくは捏造されている可能性もあり、難しいところです。

さて、忠盛・清盛一族と忠正一家のこと。
「論」というほどのものは持ち合わせていませんが、忠正となるとこれはもう絶望的に史料が少ないですね。

『愚管抄』や『保元物語』においても、忠正に関する描写はちょろっとだけ…。
ただ『兵範記』に保元の乱後、没官された忠正の所領の記述があります。

散在畠地肆箇所
壹処禅林寺 壹処山科栗栖 弐処久世郡

伊勢国
鈴鹿・川曲両郡散在田畠
除、二所大神宮領五拾壹町

この所領は院領として没官されましたが、清盛にとって何ほどの打撃でもありませんでした。

忠正一家の官を拾ってみると、
忠正:高陽院殿上人・右馬助従五位上
長子長盛:崇徳院北面あるいは崇徳院蔵人
次男忠綱:皇后宮傅長・皇后侍あるいは左府別当、左大臣家匂当
三男正綱:左大臣匂当など。
匂当とは、摂関家の侍所で「別当」の下に属して事務をつかさどった人の事で、つまり忠正一家は忠実の女高陽院泰子や左大臣頼長に臣従していたようです。自然保元の乱では、崇徳側に流れていく人々だったのでしょう。その勢力も所領から察すれば、清盛とは比べるべくもないものだったと思われます。

一方忠正の兄忠盛は、父正盛以上に白河院の信頼を得、院の寵愛を受けた祇園女御と呼ばれる女性を下賜された事もそれをあらわす一例でありましょう。白河院政のあとをうけた鳥羽院政は、白河色を一掃する感がありますが、忠盛に対する扱いは鳥羽院政となっても変わることがありませんでした。
白河色を嫌った鳥羽院が、その財力もさることながら忠盛を手離さなかった理由は、やはり忠盛その人の能力というか才覚に捨て難いものがあったのではなかったかと思います。
清盛に比べてその知名度は低いかもしれませんが、忠盛の遺したものがなければ、後の平家一門の繁栄に?がつくのではないでしょうか。

鳥羽院が忠盛に格別の思い入れを持った理由のひとつとして『新平家物語』で吉川英治氏は、鳥羽院にこんな台詞を言わせています。

「そちも、宿の妻には、不運な男よの」

鳥羽と待賢門院、忠盛と祇園女御…。
男どうしにしかわからぬ苦悩。
私はこの線、結構信じています(笑)

忠盛が備前守から但馬守、やがて刑部卿となって内昇殿を許される理由となった長承元年(1132)の得長寿院造営なども、正盛時代から各国の国司を歴任し、また瀬戸内の海賊統制による宋との貿易を含めた海上商業のオーナーとしての地位がほぼ確定し、それによる莫大な資産の蓄積があってこそ可能な「成功」だったのでしょう。

>若き日の清盛が、馬をかたに金を借りに

行く必要など、まったくなかったでしょうね(笑)

もちろん吉川英治氏もそんな事は先刻承知で、敗戦と戦後の復興の中で人々に力を与えるべく「貧乏平氏」からのスタートとした、というのを何かで読んだ記憶があります。

清盛は父忠盛の功績によって順調に昇進していきます。
ざっと見ても、
保延元年(1135)8月、忠盛の西国海賊追討の賞の譲りを受けて、従四位下となり、
保延2年(1136)4月、忠盛の譲りで中務大輔、
保延3年(1137)1月、忠盛の熊野造営の賞の譲りで肥後守となる
など、清盛17歳〜19歳の間の昇進は、忠盛によるところが大きい。
そして久安2年(1140)近衛天皇の朝覲行幸の賞により皇后給として正四位下となるのですが、この皇后がのちの美福門院であり、この頃から清盛とは結びつきがあったと考えても不可ではないでしょう。

久安3年(1147)6月15日、清盛の郎党と祇園社との間で乱闘事件が発生、忠盛は即座に対応し、下手人7名を院庁に差し出しますが、26日になり叡山が忠盛・清盛の流罪を要求して入洛を図っているという情報から大事件へと発展します。

以下は主として五味文彦氏の『平清盛』により追いかけますが、時も深更に及びました。続きはまた明日(といっても今日か)入力します。
メッセージ 36 rarara_roadster にさん対する返信


忠盛一門(2)   2007/12/14 0:55 [ No.38 ]
投稿者 : morikeigetu
この事件で鳥羽院は一貫して強い態度で忠盛・清盛保護の姿勢を貫きました。
6月28日、衆徒が下山したため、藤原顕頼を通じて「道理に任せて裁許する」旨を伝えて帰山させ
30日、白河北殿に忠通・頼長らの公卿を集めて評議、下手人の尋問や祇園社での現場検証等を決定するが、なかなか裁許がおりない事を理由に再び衆徒が下山するという情報が入ったため、
7月15日、防備のため西坂下など主要路に武士を派遣。
18日からは源氏・平氏をはじめとする多数の武士を当番制で防備にあたらせ、それは半月あまり続けられました。
7月27日、清盛に対して贖銅70斤という罰金刑が科せられ、
8月5日、清盛にその官符が出されました。

これほどまでに時間を要したのは、その間忠盛・清盛への厳しい処罰を主張する頼長が、周囲に同調者もなく次第に孤立し、やがて評議にも参加しない態度をとり、そのため議定を進展させられなかったというのも理由にあるようです。
要求が受け入れられなかった叡山では、この件に関して消極的だった座主と衆徒の間で紛争が起きますが、それに対しても院が強力に介入、結局この事件は叡山内の内紛として解消されていったということです。

ともあれ、この後しばらく清盛に目立った動きがなく、その代わりに弟の家盛が目立ち始めます。
久安3年(1147)11月、家盛は常陸介となり、30日に法皇が白河で行った舎利講に出される華麗な100種の杯の半分を負担し、それに先立つ25日の賀茂臨時祭では舞人も勤めました。
久安4年(1148)1月、忠盛が右京大夫を退いて右馬寮を知行すると、家盛は右馬頭従四位下となるなど、忠盛の後継者は清盛とされていたが、ここにきて家盛がその対抗馬として注目されるようになったとしています。
家盛は久安5年(1149)2月13日、病中であるにもかかわらず、法皇の熊野詣に忠盛・教盛・頼盛らと共に同行しますが、途中で病状が悪化、3月15日都を目前にして宇治の辺りで死去しました。

5月12日に高野山根本大塔が焼失、その造進を命じられた忠盛は7月9日に造営の事始を行い、清盛が代官として高野山に赴き、また11月11日の法皇の天王寺詣には左大臣頼長・左衛門督公教・修理大夫忠能・前大蔵卿忠隆らの公卿にまじって中務大輔清盛も参加しているように、祇園乱闘事件後再び清盛が法皇の周囲での活躍を始めたのです。

他方、忠盛は8月2日皇后亮となり、翌日皇后が美福門院の院号を与えられるとその別当となって女院庁の経営にあたるようになり、8月28日には内蔵頭に任じられます。
久安6年(1150)12月に重盛が12歳で院蔵人から内蔵人になり、翌1月には五位となり、ここに忠盛・清盛・重盛という嫡流が形成されました。

この時、崇徳の子重仁親王が元服、忠盛夫妻が乳父・乳母とされ年預として童装束を奉仕していますが、これは重仁が美福門院の養子となっていた関係によるものであり、これが原因で保元の乱において清盛の去就が懸念されたというのは、それほど深刻なものではなく、むしろ頼盛の去就が清盛にとっての懸念ではなかったでしょうか。

久安7年(1151)2月に藤原忠実がその知行国近江を藤原朝隆の知行国淡路と交換した時、教盛が淡路守となっていますが、五味氏は、教盛の母の父大宮権大夫藤原家隆が忠実の親族であった事によるものかと指摘しています。教盛を介して、忠実とも関係を持っていたという事になります。

また清盛の妻時子の父時信は院の判官代、その弟で『兵範記』の著者でもある信範は藤原忠通に仕えており、時信の妻は守仁(二条天皇)の乳母子でありました。

ずいぶん脈絡のない長話になりましたが、忠盛・清盛の持つ財力と兵力は両陣営ともに手中にしたいものであったでしょう。しかし正盛・忠盛以来の院との密接な関係は、そのプロセスによって生じた崇徳や忠実・頼長との関係を超えて清盛によって継承され、清盛自身どちらかというと院寄りの環境の中でじっくりと世の動きを見ていたのでしょう。

仁平3年(1153)1月15日、忠盛が58歳の生涯を閉じます。
祇園事件では厳しい糾弾をした頼長がその死を受けて、こう述べます。

「数国ノ吏ヲ経テ、富巨万ヲ累ネ、奴僕国ニ満チ、武識人ニ軼(す)グ。
シカレドモ人トナリ恭倹ニシテ、イマダ嘗テ奢侈ノ行アラズ。時人コレヲ惜ム」

いよいよ一族の長となった清盛も、乱の前夜は大きな苦悩もあったでしょう。しかし忠盛の後妻の池禅尼が、その子頼盛に言ったとされる言葉にすべて集約されるのかもしれません。

「ヒシト 兄ノ清盛ニ ツキテアレ」
メッセージ 37 morikeigetu さんに対する返信


やはり平家はけいげつさん。   2007/12/15 16:59 [ No.39 ]
投稿者 : rarara_roadster
なるほど。正盛---忠盛---清盛と3代にわたり院との関係を構築したのに対し、忠正はそこから漏れてしまった、あるいは、その中に入れなかったわけですね。
そこに一族のどのような葛藤があったのかは不明ですが、骨肉の争いといわれる保元の乱。源氏の場合と違って平家の場合は、当初から清盛一族と忠正一家は距離があったということになりますか。


>「そちも、宿の妻には、不運な男よの」
>鳥羽と待賢門院、忠盛と祇園女御…。
>男どうしにしかわからぬ苦悩。

ありましたね〜(笑)
余談ですが、平家物語の「殿上闇討ち事件」にある忠盛の“いぶし銀”のようなキャラ、結構好きです(微笑)
頼長の忠盛評にあるように、実際にこのような人物だったのでしょうね。

さて、よろしければ源義朝について書いてみようと思うのですが、如何でしょうか。
基本的には、元木泰雄氏や野口実氏の説に沿って、となりますが。
メッセージ 38 morikeigetu さんに対する返信


是非是非、お願いします。   2007/12/15 18:26 [ No.40 ]
投稿者 : morikeigetu
>いぶし銀

いい表現ですねぇ。
まさに、そんな漢(おとこ)だったのかもしれません。


「義朝について」
是非お願いします。
そして出来れば、7月2日直前あたりまで道をつけていただければ幸甚です。
メッセージ 39 rarara_roadster さんに対する返信


源氏の父と子(1)   2007/12/17 23:31 [ No.41 ]
投稿者 : rarara_roadster
摂関家に伺候した源為義一族のなかで、長男の義朝だけは袂を別つことになります。その義朝の様子についてみてみましょう。

義朝は、源為義の長男として保安4年(1123)に生まれました。母親は、白河院近臣の藤原忠清の娘です。
この頃の為義は、検非違使として幼い頃の鳥羽天皇の身辺警護などをしていたとされ、忠清の娘を娶わせたのも白河院でした。しかし、為義自身の粗暴な行動や、彼の統制を無視した家人の乱暴などが相次ぎ、次第に白河院の信を失うようになってきます。従って官位も六位検非違使からは上昇せず、その状態は鳥羽院の時代になっても続きました。

天承2年(1132)失脚していた藤原忠実が内覧に復帰。興福寺強訴問題や摂関家領の管理などに独自武力を強化したい忠実は、逼塞していた為義に接近します。では、為義にとって、摂関家との結合はどのような意味があったのでしょう。元木泰雄氏は、「政治的に逼塞状態にあった為義は、傘下にあった京武者や畿内近国に本拠を有する郎従の離反が相次いだ」としています。そこでその状態を打破するために、遠隔地の武士団の組織化を画策します。また、軍事貴族として活動する上で、馬、武具の材料となる鷲の羽・あざらしの皮などの産地である陸奥・坂東は重要な地域であり、供給ルートの確保が必要です。摂関家のように各地に広大な荘園を有する権門との結合は、為義一族が軍事貴族として成立する為に不可欠であったといえます。もちろん、官職取得の推挙も期待されていたでしょう。こうして摂関家は、「大殿」忠実を頂点として、公家・武家・寺社が一体となった『複合権門』(元木泰雄氏)を形成するに至りました。

義朝が坂東へ下向したのは、少年期のようです。少年義朝は、まず平忠常の子孫である上総常晴ないしその子息常澄の養君となり「上総曹司」と呼ばれます。ついで相模の三浦義明の婿となり、鎌倉を本拠に近郷の武士団の統合に乗り出し、下総の千葉氏、相模の大庭氏を家人として編成。そして直属の郎等であった首藤氏を山内庄、大中臣氏を六浦庄に配置します。そして義朝は三浦氏の娘との間に長男義平、波多野庄の波多野義通の娘との間に次男朝長をもうけます。

当時の坂東は、各地の豪族や国衙が御厨の支配権や一族間の領地問題で争いを繰り返しており、義朝は摂関家の家政機構を背景に摂関家領の在地領主を組織しながら、武威を轟かせてゆきます。同様に為朝が九州一帯を席巻したのも、摂関家領薩摩島津荘の荘官阿多忠景に擁立されたことによるものであると考えられています。

康治2年(1143)上総常澄は義朝と結託して、常晴の甥常重が持っていた相馬御厨支配権を強引に奪取。義朝は相馬御厨下司職を得、同時に千葉氏を服属させることに成功します。この頃の下総国司は摂関家に従属する藤原親通であったので、この行動は摂関家の権威を持って親通を抑圧した上でのものであった可能性を元木氏は指摘しています。ついで翌天養元年(1144)義朝は大庭御厨に乱入し、大庭氏を服属させます。このときに率いた私兵の三浦庄司義次、中村庄司宗平らはそれぞれ摂関家領三崎庄、早川庄の在地領主であり、ここにも摂関家が絡んでいることが見て取れます。([義朝は上総常晴と結託]を修正)

そこで義朝が廃嫡となった問題ですが、その時期ははっきりとはわかりません。ただ、為義の次男義賢が無官の義朝に先んじて体仁親王の東宮帯刀先生に補任されており、京武者として活動する為義の嫡男となっていることがわかります。元木氏は義朝廃嫡について、忠実の家人となった為義が、白河院近臣の娘を母に持つ義朝を廃嫡としたのは、白河院の逆鱗に触れ、蟄居となっていた忠実に対して遠慮した結果ではないか、あるいは、義朝岳父の忠清が忠実の政敵に近い人物であったのか、としています(政敵=勧修寺流藤原顕隆か?---ろどすた推理)。

いづれにせよ、義朝の行動自体は摂関家の家政機構を機軸とし、坂東下向も摂関家領を基盤にしていることは述べたとおりです。その意味では、為義は義朝に、河内源氏一族に臣従する坂東武士団の組織を期待していたと考えられます。そうして考えると、私見ですが、義朝の坂東下向と廃嫡、そして「親子の断層」は、その時期については一応別個に考えたほうがいいのかもしれません。
メッセージ 40 morikeigetu さんに対する返信


源氏の父と子(2)   2007/12/17 23:33 [ No.42 ]
投稿者 : rarara_roadster
次に、義朝が摂関家の機軸を離れて鳥羽院や美福門院に接近していった経過をみてみましょう。

前述のように摂関家の家政機構を背景に活動するということは、その権威や影響力の大きさがあればこそ。義朝は、同時に院や国衙の庇護を受けて活動しており、摂関家や国衙は紛争の調停を期待し、義朝は武士団組織の後ろ盾としていました。しかし、これまでみたように摂関家は、忠通と頼長・忠実の対立が深まるにつれて次第にその勢力にかげりが生じてきます。

その波紋は、地方の摂関家領にも及びます。義朝が組織した武士団を構成する人々は、摂関家の荘官であると同時に、国衙の在庁官人でもありました。摂関家の影響力が低下するにつれて、彼らは在庁官人としての立場を前面に出してくるようになります。当時の相模の国司は院の関係者が任じられることが多く、相模の在庁を組織していた義朝も自然と院の関係者に接近していくようになり、ついに摂関家に従属する河内源氏の庶流の立場から、直接院の近臣と結びつく立場へと方向転換します。こうした中で義朝は、待賢門院近臣の熱田大宮司家藤原季範の娘を正妻とします。

実は先述の「大庭御厨乱入事件」は、そうした義朝の立場を明確に表した事件とされています(元木泰雄氏)。事件のときの相模守は、鳥羽院判官代藤原憲方の子息頼憲で、義朝はその庇護の下に行動を起こしたものとされています。この事件で義朝は国衙側として行動しており、率いた三浦庄司義次、中村庄司宗平らは、摂関家領の在地領主であり、相模国衙の在庁でした。その結果、長年大庭氏と国衙の間で起きていた紛争が調停され、義朝は大庭氏を傘下におさめることに成功しています。さらに仁平2年(1152)美福門院の乳母夫藤原親忠の息子親弘が相模守に補任。その在任中に安楽寿院の荘園として糟屋荘が立荘。ついで後に八条院領となる山内荘もこの時期に立荘し、義朝腹心の首藤氏が下司として補されていることから、行動の背景に鳥羽院の容認と支持があったことは間違いないでしょう。

そして義朝は在京して鳥羽院に近侍する立場を得、仁平3年(1153)3月、ついに下野守の官職を獲得し、検非違使左衛門大尉に過ぎなかった父親の為義を抜いて受領となりました。
メッセージ 41 rarara_roadster にさん対する返信


源氏の父と子(3) そして鳥羽院   2007/12/17 23:35 [ No.43 ]
投稿者 : rarara_roadster
こうして自らの統制を離れ、独自の活動を始めた義朝に対抗するため、為義は、帯刀先生を解官されていた次男の義賢を、まだ義朝の勢力の及んでいない北関東に下向させ(仁平3年夏)、義賢は上野国多胡庄から南関東を窺っていました。一方、義朝の地盤は長男の義平が受け継いでおり、房総の上総・千葉氏、相模の三浦・中村・波多野・山内首藤・大庭氏、武蔵の大中臣氏らを従えて北関東を狙っていました。

武蔵国では、有力在庁で秩父平氏の秩父次郎太夫重隆が、同族で相模の三浦氏と結ぶ畠山重能や隣国の藤姓足利氏や新田氏と争っており、義平の母が三浦氏で妻が新田義重の娘であったことから、重隆は義賢を養君として義平に対抗しようとします。こうして義賢は武蔵国比企郡大蔵館に入ります。しかし久寿2年(1155)8月16日、突如義平の率いる軍勢が大蔵館を急襲し、義賢と重隆は討ち取られてしまいました。15歳で叔父を討ち取った義平は、「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになります。

ここは源姓足利氏では?との指摘あり(2009/ 3/ 1 23:59 [ No.363 ])

当時の武蔵守は、後に平治の乱の首魁となる藤原信頼(久安6年(1150)補任)で、坂東で活動していた義朝は、古くから軍事貴族にとって重要拠点であった武蔵の国衙とも当然提携していたと考えられます。元木氏は義平のこの軍事行動が朝廷で大事件にならなかったことについて、武蔵守である信頼の黙認のもとに行われた可能性を提示しておられます。また、信頼の兄基成が陸奥守であったことから、義朝は信頼を通じて陸奥から武具の材料などを供給していたと考えられています。

この合戦は、「心身ともに頼長に臣従」していた義賢と、美福門院と結ぶ義朝(義平)の争いであり、中央の対立を反映しているという側面もあります。なお、報復のため、義賢の養子となっていた弟の頼賢(為義四男)が同年の10月、信濃国の鳥羽院領荘園を侵害し、院の命を受けた義朝が、追討に出立するという事件もありましたが、これは合戦までには至っていません。しかし、ここに来て「為義と義朝の断層」は、もはや抜き差しならない所まで来てしまいました。


こうしてみると久寿2年という年は、

 7月に近衛天皇が崩御し、後白河天皇が践祚。(これにより崇徳上皇の政治生命が終わる)
 8月には武蔵国大蔵館で義賢が甥の義平に討たれる。(為義と義朝が決裂)
12月には高陽院が死去。(忠実と鳥羽院を繋いでいた最後の命綱が無くなる)

と、まるで「断層」のセーフティロックが一度に解除されたかのような年ですね。
それでも辛うじて「治天の君」鳥羽院の存在が、最終安全装置として機能しているという状態です。

こうして久寿2年は終わり、年が変わって4月24日に改元され、保元元年となりました。それから一ヶ月足らずの5月21日、鳥羽院が重病になります。
「兵範記」にはその病状経過が記されています。

5月21日 一院御灸治、月来御不食、近日不快、去比基康一両度奉灸御胸辺、今日重御腹両所御灸治云々
  22日 一院御不予増御云々
  27日 法皇御不予殊増御、一切御不食云々

そして30日には、治療のための灸や祈祷の一切が停止され、死期が近づいたことを意味する“御万歳の沙汰”があり、翌日6月1日には、左大将藤原公教の奉行で御“一向御万歳沙汰”が執り行われました。鳥羽院は、すでに腹部や手足に腫れが生じていたといいます。

保元元年7月まで、あと一月・・・。
メッセージ 42 rarara_roadster さんに対する返信


あと1ヶ月。   2007/12/21 17:38 [ No.44 ]
投稿者 : morikeigetu
なるほど義朝といえば、都における軍事貴族としてずっと清盛と双璧をなしていたかのようなイメージを持たれがちですが、そうではなかったのだという事がよくわかりますね。
かつ義平が義賢を討った理由、そして義朝の弟達がこぞって為義と共に崇徳・頼長側に走った理由も見えてきますね。

資料としてはいささか古いですが、渡辺保氏の『源氏と平氏』では、
「(天養元年・1144の)源義朝の神宮領押妨の事件と、保安年間に平忠盛が伊勢の東大寺領鞆田村を押妨して訴えられた事を並べてみれば、そこに両者の土豪としての共通の性質が理解できる。(中略)このように中央の命をうけて地方豪族の頑強な者を服しその間己の領地を拡大すると同時にその地の豪族を家人として臣従せしめるというこの遣り方は、東西において源氏平氏に共通する所であった。
要するに、源氏も平氏もともにそれぞれの地域の最強の豪族として中央にその功を認められ、又それぞれの地方に威を行って主従関係を強化して行く、というところに、保元合戦に至る間の封建制の成育が行われて行った」
としています。

ともかくも、中央における「治天の君」の重病、そして治癒の見込みがなくなったとの判断は、そういう武士達を含めた周囲の者にとって、その「御万歳」後が最大の焦点となり、不穏な空気が渦巻くのを誰もが感知し、己が生き抜くための方策を必死にさぐり、それをコントロール出来る立場の者は、必勝のための兵力を可能な限り我が手に結集させようとし、力のない者は身体中のセンサーを日夜働かせて、何れに走るかを考えた事でしょう。

武士達は武士達で、戦いのプロとしての触角が、早くも何れが有利かを感じとっていたかもしれません。
美福門院によって召された者は、「望むところ」として参集したように見てとれます。
逆に、為義は『保元物語』で、
「(重代相伝の8領の鎧が風にふかれて四方へ散る夢を見たので)いづかたへも、さし出でじとこそ存じ候へ」
と出陣を躊躇した様子を記します。
ただ『愚管抄』は、為義が義朝と不仲であった事を記し、崇徳側についたとしています。

いずれにせよ、武士達の触角、特に鳥羽院の指示によって祭文に名を連ねた10名の武士達の触角は、早くからフル稼動し、「その時」に向けての準備に怠りなかったように思えます。
公卿達にしても、「独裁者」ともいえる「治天の君」の死は、その直後の「乱」を予想させるに充分だったでしょうし、その「乱」を起こす可能性を持つ者というのは、「治天の君」の周辺で自らの権力維持のために排斥してきた者どもである以上、これもまた準備に怠りあるはずがありません。

安田元久氏はその著『平清盛』で、こう言っています。
「彼ら京都における有力武将たちは、崇徳上皇の召集に簡単に応じるには、すでにあまりにも怜悧な政治的洞察力を養っていた。というより、そうした有力武将の多くは、清盛をはじめとして、すでに鳥羽上皇の側に引き寄せられていたとするのが正しいであろう」

保元元年(1156)6月1日の「一向御万歳沙汰」と同時に院宣によって源義朝・義康が内裏(高松殿)の守護にあたり、源光保・平盛兼らが鳥羽殿に祗候します。
もはや風雲急の様相を呈し始めたようにも思えますが、ある意味一方的に「敵」として定められてしまった感のある崇徳や頼長達は、その頃いったいどうしていたのでしょうか。
カウントダウンです。
メッセージ 43 rarara_roadster さんに対する返信


雑談。   2007/12/28 21:35 [ No.45 ]
投稿者 : morikeigetu
保元の乱へのカウントダウンと言いながら、2008年へのカウントダウンとなりました。
「保元から壇ノ浦」へという掲示板での野望を抱き、ろどすたさんという強力な助っ人を得て、ともかくも継続出来ています。

保元を語らずして源平は語れないと思ってから始めたわけですが、いやはや自分の無学を痛感するばかりでありました。

年の瀬からめでたい年始にかけて、血なまぐさい保元の乱そのものに突入するよりは、少し雑談もよろしかろうと思い、キーを叩きます。

ちなみに今日12月28日といえば(陽暦ですが)、平重衡が南都を焼討ちした日でもありました。
あ、これも血なまぐさいか。
この辺の話も後々、このトピが続いていれば語る事にもなりましょう。

思えばこうして「保元の乱」をあらためて調べてみると、起こるべくして起こったものか、起こさずにすんだものか、起こさずにすんだとするならば、誰がどこでどうすれば起きなかったか…、などと考えてしまいますね。
既に起きてしまった「歴史」を検証するという事は、それでも必要な事だと思うのですね。
なぜ必要かと問われると、具体的な答えに窮してしまいますが、日本人の歴史がSFにならないように、という事かな。

「保元の乱」前夜、関わった人々すら未だ予知せぬ時代の幕開け。
2008年はその852年後。
馬鹿と言われても、追いかけましょう。
メッセージ 44 morikeigetu さんに対する返信


Re: 雑談。   2007/12/30 20:23 [ No.46 ]
投稿者 : rarara_roadster
どうもなのです。書き込みが遅れました(ぺこり)

さて、御万歳以降の頼長の行動については、実はわたしもまだよくわかっていません(陳謝)
忠実は宇治にいたのでしょうけれど、保元に改元された後の様子を伝える史料というものはないようです。どのみち彼らの動きが見えるのは、鳥羽院崩御後ですね。

ただ、頼長は5月21日に室幸子の一周忌の法要を行っているのですが、この日は“減門日(めつもんにち)”といって、この日に儀式や行事を行うと一門が滅亡してしまうというとんでもない日だったそうです。そのせいもあってか、行香の公卿が不足して代わりに四位が列するというありさまだったとか。「敢えてこの日を法事に用いたところに追い詰められた頼長の自棄的な意識が感じられる」というのが、元木氏の感想です。

6月1日に動員された武士たちについて、少し書いておきましょう(持ちネタが無いのがみえみえですね)。

高松殿の後白河天皇の警護に義朝とともに配置された源義康は、八幡太郎義家の息子義国の子で下野国足利庄を本拠とし、子孫は後に幕府をつくる足利氏となります。義康は鳥羽院の北面に伺候するとともに検非違使右衛門尉の職にあり、義朝同様熱田大宮司家の娘もしくは姪を妻にしていました。そのことから義朝との連携が想定されるのですが、義朝>義康ではなく、「同盟」に近い関係であったようです。

後白河は急遽立てられた「中継ぎ」の天皇であり、その警護には北面の武士の中から、特に待賢門院近臣と姻戚関係のある義朝、義康が優先して選ばれたと考えられます。


また、けいげつさんご指摘の愚管抄にある10名の武士の祭文ですが、為義、清盛の他はどのような人たちの名前があったのか気になるところです。というのは、元木泰雄氏は最初に名前が挙がっている二人に着目し、為義=頼長の家人、清盛=継母が崇徳上皇の皇子重仁親王の乳母であることから、頼長・崇徳に近い北面の武士たちに対する牽制の意味もあったのではないかとされています。



さて、気がつけばもう今日は12月30日。明日はいよいよ大晦日です。

>ちなみに今日12月28日といえば(陽暦ですが)、平重衡が南都を焼討ちした日でもありました。

実は、わたしの乗っているユーノスロードスターが納車されたのが、平成3年の12月28日でした(微笑)
来年は車検です(何回目だ?)
メッセージ 45 morikeigetu さんに対する返信


年の瀬、酩酊、寒波襲来。   2007/12/31 22:37 [ No.47 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさん、今気付きました。
12月28日納車のロードスター号の写真が掲載されていたのですね。
心底大切にされているというのが、ひしひしと伝わってきます。

さて、実は私もその頃の頼長の動きを確定させようとしているのですが、どうもわからんのですね。
「保元の乱」という、結果としては時代を裂くような合戦であったにもかかわらず、崇徳・頼長側の準備があまりにも稚拙…。
これはやられたな、というのが正直な感想。

10名の武士について、『保元物語』『愚管抄』の補注を見ると、
義朝・義康・頼政・重成・季実・維繁・実俊・資経・信兼・光信。
あるいは、義朝・義康・光保・盛兼・清盛・頼政・重成・季実・信兼・維繁

五味文彦氏は『平清盛』で、
さて崇徳上皇が白河殿に入って兵を挙げたという報が入ったことで、軍勢が天皇のいる高松殿にも集められたが、それらは前々から禁中を警護していた義朝や義康のほか、清盛や兵庫頭源頼政、散位源重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁らであって、雲霞のごとき軍勢であったと『兵範記』は記している。ここで初めて『兵範記』が清盛の行動に触れているのは、美福門院が特別に法皇の遺言であるといって召したという『保元物語』の記述を裏づけるものである。
としています。

為義にしても、例の清盛の祇園社乱闘事件のあとの山門衆徒防備の兵の主力として参加しているわけですし、鳥羽としては京中の武力はすべて手中にしたかったのではないでしょうか。

いや、それにしてもこの大晦日は寒い。
酩酊に酩酊を重ねて、850年前に遊びます。
ろどすたさん、どうぞよいお年を!!
メッセージ 46 rarara_roadster にさん対する返信


お正月モード、終了しました(建て前)   2008/ 1/ 5 14:52 [ No.48 ]
投稿者 : rarara_roadster
明けましておめでとうございます。

>心底大切にされているというのが、ひしひしと伝わってきます。

お恥ずかしいです。もう4〜5年前に年賀状用に撮影したものです。
画像ではあまり目立ちませんが、かなり塗装もヘタっています(苦笑)。
場所は秋吉台道路の「長者が森パーキング」なんですが、その先に「景清洞」という鍾乳洞があります。名前のとおり、悪七兵衛こと平景清が壇ノ浦から落ちのびて潜伏していたと言われています。秋芳洞のような大きな洞窟ではありませんが、遊歩道があって中に入れます。

>崇徳・頼長側の準備があまりにも稚拙…。
>これはやられたな、というのが正直な感想。

愚管抄の権大納言藤原宗能の、

此世ハ君ノ御眼トヂヲハシマシナン後ハ イカニナリナンズトカ思召ヲハシマス
只今ミダレウセ候ナンズ ヨクヨクハカライ仰ヲカルベシ・・・

という言葉にあるように、鳥羽院や美福門院は、早くから鳥羽崩御後の混乱を予測していたことでしょう。そこで為義や清盛といった有力な武士に祭文を書かせ、出来得る限りの在京の武力を支配下におきたかったという理解でよろしいでしょうか。

ところが、結局は後手にまわってしまったということは、一つにはけいげつさんの言われる『武士のセンサー』がフル稼働した結果でもあるでしょう。それからこれは憶測ですが、おそらく、鳥羽院崩御後の美福門院側の「シナリオ」は事前にある程度定まっていて、6月1日の「一向御万歳」の時点から、それが発動したかのようなイメージがあります。

そして、その命題は『後白河から守仁へのスムーズな譲位と、それを阻害する者の徹底排除』であり、この「阻害する者」というのは、実際に阻害行動を起さなくとも「その恐れのある者」も含むでしょうから、政敵である頼長らは当然その対象でしたでしょう。しかし、孤立していたとはいえ、頼長もそのような情勢は、当然認識していたはず。
確かにこの時期の頼長の様子を窺い知ることはできませんが、やはり何らかの動きはしていたのでしょう。

問題は崇徳上皇なのですが、崇徳が6月3日に鳥羽院の見舞いを拒絶されたことについて、河内祥輔氏のように御万歳の沙汰を宗教的側面から考察し、『御万歳の沙汰とは臨終を迎える作法であり、鳥羽法皇は浄土往生を遂げるための行業に専念することにした(吉川弘文館「保元の乱・平治の乱」)』とし、『現世の思いを断ち切る意味で崇徳に面会しなかったのであり、そのことは崇徳も心得ていた。したがって、崇徳は鳥羽院に会えなかったのではなく、“会わずに帰った”のだ』としても、すでに6月1日にはかつて無いほどの武士が招集されて鳥羽殿や高松殿を警護しており、鳥羽院の近臣たちも崇徳に対して相応の危機意識を抱いていたでしょう。

その崇徳上皇と頼長がいつ頃から結びついたのか、どの時点で謀反を決心したのか。

そしていよいよ保元元年7月2日申の刻を迎えます。



ところで私事ですが、実は現在のインターネット接続サービスが1月7日で終了し、ブロードバンド環境に移行します。
回線工事は早ければ来週中の予定ですが、しばらくの間、PCからはネットに繋がりません。携帯での閲覧は可能ですが、投稿はきついので(苦笑)。
すぐに復活しますので、よろしくお願いします(ぺこり)。
メッセージ 47 morikeigetu さんに対する返信


遅ればせながら…。   2008/ 1/11 14:50 [ No.49 ]
投稿者 : morikeigetu
あけまして、おめでとうございます。そして、本年もよろしくお願いいたします。

さて、
>鳥羽院崩御後の美福門院側の「シナリオ」は事前にある程度定まっていて、6月1日の「一向御万歳」の時点から、それが発動したかのようなイメージがあります。
>『後白河から守仁へのスムーズな譲位と、それを阻害する者(その恐れのある者も含む)の徹底排除』
>頼長もそのような情勢は、当然認識していた。

そうなのですね。
美福門院側の意図的なシナリオは、それによって頼長がある種の尋常ではない行動に出るかもしれない、出るだろう…、いや出させるのだ、という感じを受けるのですね。

やはり、
>問題は、崇徳上皇
だったのでしょう。

シナリオの目的が「後白河から守仁へのスムーズな譲位」である事に間違いなさそうですね。
しかし、いち官僚の頼長を排除するように崇徳を完全排除するのは難しいと考えていたのではないでしょうか。

重仁ではなく体仁(近衛)が即位し、そしてまた重仁ではなく雅仁(後白河)が即位するという強烈なパンチを立て続けに受けた崇徳が、ただ失意の底に沈んでいたかどうか、誰にもわからぬ事であったでしょう。

「物語」ではありますが、『保元物語』はこのあたりの崇徳の心境を、崇徳の言葉としてこう述べさせています。

「はるかの末弟、近衛院に位をうばはれたりしかば、人に対して面目を失い、時にあたって恥辱を抱く。しかりといへども、事のよりどころなきによって、先帝弱年にして崩じぬ。是すでに天のうけざる所あきらけし。よって此時に、重仁親王嫡々正統なり。もっともその仁にあたるところに、あまつさへ又数のほかの四宮に超越せられ、遺恨のいたり、謝するところをしらず。いかがせまし」

近衛が若くして崩御したのも、本来帝位につくべき立場ではなかったからだ。天が承認しなかった証拠だ。そしてその後は重仁こそが嫡流として正統な者であったのに…、という激怒の台詞を吐かせ、『新院御謀叛思し召し立たるる事』というタイトルをつけているのですね。

ま、その真偽はともかく、美福門院側とすれば、同じ都の中の間近い所に崇徳という皇族が、怒りと恨みと失意のないまぜになった「鬼」と化していてもおかしくないと思うほどの恐怖すら感じていたかもしれません。
しかしその崇徳に対して、忠実や頼長を陰謀のワナにかけたように、安易な策を講じるのは憚られのではないでしょうか。

危篤状態の鳥羽を見舞うために訪れた崇徳が対面せずに帰った理由、それが宗教的なものであったかどうかはわからないのですが、もし崇徳の意志ではなかったとするならば、追い返した人が存在するわけですね。
当時の人々の天皇家というものに対する畏怖の念は、今の私達にとって想像を絶するもので、そう簡単に追い返せるものではなかったでしょう。
それが更に上なる人「鳥羽」の命であったからこそ出来たのだと思います。

いささか話がそれました。
久寿2年(1155)8月27日に頼長が知った「愛宕護山天公像の釘事件」がでっち上げにしろ、それを理由に頼長を実質上失脚させたのですが、思えばこれは頼長を流罪にしてもよい程の謀叛事件だと思うのです。
もちろん策謀した側にも大きなうしろめたさがあったのでそこまでしなかったのかもしれませんが、私はむしろそこに策謀側の更なる大きな意図を感じてしまいます。

頼長だけを排除してもだめだった。頼長を導火線として崇徳を動かせたかったのではなかろうか、と。
頼長の頭脳が大義・正義を重んじる事を、おそらく信西は知っていたはずです。
頼長にとっての大義名分、頼長が崇徳の懐に飛び込めば…。
頼長が走るのは崇徳の所しかないという所まで追いつめれば、その時こそ。
妄想ですけれどね。

さてさて、『兵範記』で追うと、
6月3日、夜に崇徳が鳥羽殿に行くが、対面せず。
6月21日、夜になって、鳥羽危篤という噂が流れ、京中騒動。
7月2日、「今日申剋、法皇崩御於鳥羽安楽寿院御所。春秋五十四」
この日「御瞑目之間」に崇徳が臨幸したが、簾の内には入る事なく還御した云々。

『愚管抄』によると、
崇徳は駆けつけたにもかかわらず内に通されなかったため、怒りのあまり鳥羽南殿あたりで牛車を無謀に走らせた。押しとどめようとした勘解由次官平親範が目をつぶす負傷をした。それを土佐殿という女房から聞いた鳥羽院。
「御目ヲ キラリト ミアゲテ ヲハシマシタリケルガ、マサシキ最後ニテ ヒキイラセタマイニケリ」
保元元年(1156)7月2日 申の刻。
『その時』です。
メッセージ 48 rarara_roadster さんに対する返信


復活のご挨拶(お知らせ)   2008/ 1/16 21:57 [ No.51 ]
投稿者 : rarara_roadster
回線工事も無事終了し、復活いたしました。

近いうちに、投稿も再開したいと思います。
メッセージ 49 morikeigetu さんに対する返信


Re: 復活のご挨拶(お知らせ)   2008/ 1/18 18:43 [ No.52 ]
投稿者 : morikeigetu
承りました(祝)

保元元年(1156)7月2日申の刻。
セットした『その時』に、ようやく到達しましたね。
世に言うところの「保元の乱」はこの数日後に勃発するのですが、それに至る経緯をここまで調べたのは、私自身初めてです。

さて「治天の君」鳥羽法皇は、自身の死後の仏事を「遺詔」として事細かく指示し、「斎月斎日の吉凶、諸社の祭日、方角など一切憚る事なく3日の内に必ず終了せよ」と遺言し、大臣・公卿・侍どもはその「遺詔」に沿って粛々と儀を進め、7月3日「奉殯御塔事、自夜前営々、午刻事終、人々退下(『兵範記』)」終了します。

『兵範記』は5日以降、8日の初七日の記事を除いては慌ただしく緊迫した推移を記します。

<5日>検非違使に京中の武士を停止させる勅。左衛門尉平基盛・右衛門尉惟繁・源義康ら参入。先月から下野守義朝・義康らが禁中を守護しており、出雲守光保・和泉守盛兼ら源氏平氏の輩が鳥羽殿に祗候。
「これらは法皇の崩後、上皇(崇徳)・左府(頼長)が同心して軍を発し、国家を傾けようとしているとの風聞があり、その用心のためである」
<6日>左衛門尉平基盛が東山法住寺辺りで源親治という者を捕らえる。
「その者は大和国の者であるが、密かに京に住んでいた。その理由を尋問するためであったが、宇治にいる左府頼長がその男を召して住まわせていたという」
<8日>入道前太政大臣(忠実)・左大臣(頼長)が庄園の軍兵を催すという風聞があるため、それを停止するよう御教書をもって諸国司に伝えられた。
左衛門尉俊成・源義朝の兵が東三条殿に押入り、それを没官した。
そこで秘法を修していた平等院の供僧勝尊という者が捕えられた。
「左府(頼長)の命によって日頃からここに住んでいたという」
「仔細は筆端に尽くし難し」
<9日>夜半、上皇(崇徳)が鳥羽田中御所から、密かに白河前斎院御所に御幸された。
「上下成奇、親疎不知」

そして10日、
上皇(崇徳)が白川殿において軍兵を整えている、これは以前から風聞として聞こえていたが、すでに露顕するところとなった。
晩頭には左府頼長が宇治より参入した。

ざっと『兵範記』を追ってみました。
合戦はもう避けようがなくなったようです。
メッセージ 51 rarara_roadster にさん対する返信


いきなり雑感ですみません   2008/ 1/24 21:53 [ No.53 ]
投稿者 : rarara_roadster
そろそろと再開したいと思います。

さて、合戦を絡めた考証については、やはりけいげつさんの書き込みが非常に楽しみなところです。そこで合戦直前の雑感というか、少し書いてみたいと思います。

鳥羽院の「御目ヲ キラリト ミアゲテ ヲハシマシタリケルガ・・・」という部分ですが、あたかも騒乱発動の“スイッチ オン”という状態を表しているように感じます。まあ、実際には瀕死の鳥羽院にはそのような意識は無かったとは思いますが、女房の土佐殿から、見舞いにきた崇徳が車を暴走させ、けが人が出たことを聞いた鳥羽院は、崇徳のこの行いをどのような気持ちで捉えていたのでしょう。愚管抄の作者である慈円は、この崇徳の事件と鳥羽院崩御を対比させることによって、保元の乱の始まりのゴングとしたのかも知れません。

それから、武士のセンサーの話になりますが、やはり為義もこの戦は、頼長や崇徳側に極めて不利であることを認識していたでしょうね。そのことを暗に表しているのが保元物語の「風に吹かれて飛んでいった源氏相伝の鎧」にもあるように思います。もちろんこれは、骨肉の争いの果てに壊滅してしまう為義一族の比喩もあるのでしょうけれど。

また、愚管抄でも為義は頼長や崇徳に「(郎等はみな義朝についてしまっているので)こちらは兵も少なく、ここ(白川北殿)で敵を迎え撃ってはすこしも叶いますまい。」と一刻も早く脱出することを進言します。それに対し頼長は、「そうあわてなくても今に吉野の兵が駆けつけてくる。しばし待て。」と反対します。

これも前線の指揮官と、大本営の参謀総長の見解の相違と言ってしまえばそれまでですが、頼長にしてみれば、やはり崇徳の手前、弱気な面を出すわけにはいかなかったのでしょうか。結果的には、そういったことがすべて裏目に出てしまうのですが、それをもって頼長の認識の甘さとも言い切れないと思っています。その意味では、頼長もまた不幸だったのではないでしょうか。

ともあれ、このあたりは慈円のバイアスも考慮しつつ・・・といったところでしょう。
メッセージ 52 morikeigetu さんに対する返信


グッド・タイミング!   2008/ 1/25 9:11 [ No.54 ]
投稿者 : morikeigetu
さすがは、ろどすたさん。
いいところで雑感をいれて下さいました。

「その時」以後バタバタッと『兵範記』を追いましたが、ふと思ったのですね。「その時」を境に私達が参考としている史料は、直接・間接は問わず、少なくとも勝ち組(天皇方)に組した人々のものであると。
『台記』は既に途絶え、『殿暦』は記さず。
敗者の鎮魂の意を込めた『保元物語』が、かろうじて上皇方を多く語るにとどまります。

7月2日の鳥羽崩御後2日間で葬送の儀をすませ、5日から積極的な軍事行動を起こす所から30日に為義らが斬首されるまでの推移を『兵範記』は淡々と記します。
その記録において敗者達は何も語らず、崇徳すらあっというまに讃岐に配流されるのですね。読んでいて背筋がぞっとするのを覚えます。
『保元物語』や『平家物語』はたまた『新・平家物語』などが、彼らに喜怒哀楽を与え、生きた人間として描く事が鎮魂にあたるというのが理解出来ますね。

>慈円のバイアスも考慮しつつ…

おっしゃる通り、「その時」以降を
>そろそろと、
見ていきたいと思います。

「ロードスター号」の針を、もう一度「その時」に戻して再開といきましょうか!
メッセージ 53 rarara_roadster さんに対する返信


それでは…、   2008/ 2/ 1 11:48 [ No.56 ]
投稿者 : morikeigetu
鳥羽法皇の葬儀がすみ、後白河天皇方が動き始めた7月5日から『兵範記』をベースにして分解していきましょうか。

『兵範記』7月5日条
甲辰 蔵人大輔雅頼奉勅、召仰検非違使等令停止京中武士、左衛門尉平基盛、右衛門尉惟繁、源義康等、参入奉了、去月朔以後、依院宣、下野守義朝並義康等、参宿陣頭守護禁中、又出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此外源氏平氏輩、皆悉卒隨兵祗候于鳥羽院、蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家、其儀風聞、旁被用心也

この訳として適当なのが、井上靖著『後白河院』第一部。
この小説は、後白河院の求めに応じて4人の公卿がそれぞれの時代を語る態で書かれており、第一部を『兵範記』の著者・関白藤原忠通の家司平信範に語らせています。
「(前略)その日の午後、蔵人大輔雅頼が勅命に依って検非違使等を召し、京中の武士の移動を停止させる命令を降しました。それと前後して、左衛門尉平基盛、右衛門尉平惟繁、源義康等が参内し、内裏の要處を固めました。
院宣に依って先月一日から下野守義朝ならびに検非違使源義康が禁中を守護しておりましたが、この日の措置で内裏には武士たちが溢れ、何人にも事態が急であることが判りました。また一方、出雲守光保、和泉守平盛兼、その他源氏平氏の武士たちがそれぞれ兵を率いて鳥羽殿の方をも固めているということでございました。法皇のご葬儀が終わった直後、それを待ちかねるようにして、武士たちは鳥羽殿へはいったのでございます(後略)」

『愚管抄』に7月5日の記述はありません。
『保元物語』は、5日の動きを次のように語ります。
「少納言入道信西は宣旨をうけたまわって検非違使を召し、関々を固めるよう指示した。宇治路は安芸判官基盛、淀路は周防判官季実、山崎は隠岐判官惟繁、大江山は新平判官資経、粟田口は宗判官資行、久々目路は平判官実俊にそれぞれ担当させた」

宇治路とは都の南の大和路方面、淀路は都の西南の水路の要所、山崎も同じく西南の西国街道の陸路、大江山は後に一の谷へ向かう義経が通った都の西方面、粟田口は東海道への入口、久々目路は苦州滅路とも言い、六波羅辺から山科へ抜ける道…、となると北方が抜けている事に気付きます。
記録の漏れかどうかはわかりませんが、北方からの敵の進入はないと考えたのでしょうか。

この頃の主要人物の所在は、後白河天皇が高松殿、崇徳上皇が鳥羽の田中御所、頼長が宇治ということです。
乱後没官された頼長の所領のうち、山城国に田原庄・川島庄・大道寺の3ヶ所がありますが、頼長がこの時宇治のどこにいたのか調べたのですが、わかりませんでした。
いずれにせよ、現在の宇治の中心部から名神高速道路京都南インターチェンジ辺にあった田中御所まで直線距離で約9km、田中御所から姉小路北・西洞院大路東にあった高松殿まで同じく直線距離で約7km、高松殿から乱の舞台となる白河北殿までは賀茂川をはさんで2km足らず。

まもなくこれらの人々がエマージェンシー移動を開始するのですが、それはまだ数日後。
崇徳・頼長ともに、記録の上ではじっとしている中、天皇方の武士達が弾かれたように諸方へ行動を開始したのです。
メッセージ 54 morikeigetu さんに対する返信


7月6日   2008/ 2/ 8 20:25 [ No.57 ]
投稿者 : morikeigetu
乙巳 左衛門尉平基盛、於東山法住寺辺、追捕源親治男、件男頼治孫、親弘男也、大和国有勢者竊住京、為被尋由緒也、左府雖籠居宇縣、召件親治被住京、尤有疑云々、

先述の『後白河院』
「翌6日、平基盛が東山法住寺辺で源親治という武士を捕らえました。この武士は大和国で勢力を持っており、ひそかに京に入って、崇徳帝の御所を訪ねたというかどで捕らえられたということでありました。漸く内裏も京の町も騒然として来た感じでございました」

これが『保元物語』になると、「法性寺」一の橋辺で前哨戦ともいえる合戦となります。
法住寺は三十三間堂の東、法性寺は三十三間堂の南、距離的にはさほど差異はないですが、「一の橋」となると法性寺に近い場所になります。
親治が潜んでいるという情報を得て基盛が追捕に向かったのか、大和路に向かう途中でたまたま遭遇したのか判明しませんが、少なくとも崇徳・頼長に組する宇野七郎こと源親治が平基盛によって捕らえられた事に相違ないようです。
メッセージ 56 morikeigetu にさん対する返信


ばたばたとして…、   2008/ 2/11 21:46 [ No.58 ]
投稿者 : morikeigetu
きれぎれの書き込み、ご容赦。

ところで、この宇野七郎こと源親治。
大和国宇智郡宇野邑より起こり、『尊卑分脈』では、

満仲−頼親(左衛門尉、大和云々等守、永禄五、正、廿五、興福寺の訴により、土佐国に配流)−頼房(號荒加賀、山門の訴により肥前国に配流、配所に於いて死)−頼俊(左衛門尉、上総介、陸奥守)と続き、その子に頼風と弟の頼治が記されます。
頼治(宇野冠者、中務丞、土佐国に配流)の子に頼澄・頼賢・親弘(頼弘)・親通があり、その親弘(頼弘)の嫡男として親治(宇野七郎、住大和国宇野)として記録されています。

この親治の名はその後、以仁王と源頼政が挙兵する時、頼政が諸国の源氏を述べる中に登場します。
『平家物語』の「源氏揃」で、
「大和国には、宇野七郎親治が子共、太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治」
と語られていますが、『尊卑分脈』では親治の子として、有治(斎院次官)・清治(宇野二郎)・俊治(三郎)・満治・義治となっています。
メッセージ 57 morikeigetu さんに対する返信


bT8の蛇足   2008/ 2/13 15:23 [ No.59 ]
投稿者 : rarara_roadster
この頼親の系列が“大和源氏”と呼ばれるのですが、

>頼親(左衛門尉、大和云々等守、永禄五、正、廿五、興福寺の訴により、土佐国に配流)−頼房(號荒加賀、山門の訴により肥前国に配流、配所に於いて死)

大和守に補された頼親は、大和国に勢力の扶植を図る中で興福寺とたびたび武力衝突を繰り返しますが、抗争に破れ、土佐国に流されます。


>頼俊(左衛門尉、上総介、陸奥守)と続き、その子に頼風と弟の頼治が記されます。

嘉保2年(1095)美濃守源義綱に対する延暦寺強訴において、関白師通(忠実の父)が鎮圧を断行。その時に武士の射た矢が神輿に当たり、師通が承徳3年(1099)に急死した折、このことが原因という噂がたちました。実は、その時に矢を射た武士というのが大和源氏の源頼治で、後に配流されています。

このように南都最大の権門との衝突による勢力拡大の失敗をはじめ、度重なる配流が、同じ清和源氏の中でも摂津源氏や河内源氏に比べ、大和源氏が伸び悩んだ原因のようです。そのため、おおむね摂関家の家産機構に依存していく存在だったようです。

また、頼風の子孫が、興福寺悪僧の首魁信実で、これも後に“摂関家の大殿”忠実に組織されるのは、前出のとおりです。


閑話休題、ではつづきをお願いします(ぺこり)。
メッセージ 58 morikeigetu さんに対する返信


アップトリム30、潜望鏡深度まで浮上   2008/ 2/21 21:45 [ No.60 ]
投稿者 : rarara_roadster
8日には、鳥羽院初七日の法要が行われ、兵範記にはその様子が細かく記されています。なお、出席した人々について「新院不臨幸」とあり、崇徳上皇はその場にはいなかったことが“ひっそりと”書かれています。

さて、6日の宇野親治追捕が「前哨戦」とするならば、8日は、天皇方の本格的な攻勢の開始といってもいいでしょう。
メッセージ 59 rarara_roadster さんに対する返信


潜望鏡深度まで浮上、良う候。   2008/ 2/22 14:51 [ No.61 ]
投稿者 : morikeigetu
再起動、ありがとうございます。

親治のこと、蛇足などとはとんでもない!
貴重な追加説明でした。
話題は7月8日に入り事態が急展開をするところにもかかわらず、書き込みが出来ずに申し訳ありませんでした。

おっしゃる通り、8日の鳥羽法皇初七日と同時に天皇方の武士の行動は、まさに臨戦態勢となります。
ある意味、この日が合戦の開始といえるかもしれません。

「今日蔵人頭左中弁雅教朝臣、奉勅定、以教書仰諸国司云、入道前太政大臣並左大臣、催庄園軍兵之由有其聞、慥可令停止者」『兵範記』7月8日条

藤原忠実・頼長父子が庄園の軍兵を集めるという風聞があるため、諸国の国司に必ずそれを禁じるよう勅命が下ります。そして、

「今日蔵人左衛門尉俊成並義朝隨兵等、押入東三條検知没官了、東蔵町同前即被仰預義朝了、其間平等院供僧勝尊修秘法在彼殿中(中門南廊)、直搦召、被尋問子細於本尊並文書等者、皆悉被召了、是依左府命日来居住云々、子細難尽筆端」(同)

まず高階俊成・源義朝らが即座に動き、東三條殿とそれに付属する東蔵町を没官し、それを守護します。
この東三條殿というのは、二条大路南・三条坊門小路北・西洞院大路西に位置した二町を占める藤原摂関家の本邸であり、蔵町には氏長者の象徴である朱器台盤が納められていました。
この東三條殿と朱器台盤が頼長の手に渡った経緯は、ろどすたさんがbQ8「天皇家の断層 完結編」で述べておられます。

それがこの度、義朝らによって天皇側に没収されたのです。
かつて忠実が忠通から奪い頼長に与えたのは摂関家内部の紛争であり、摂関家の財産である以上、強引とはいえ内部解決した事件でした。
ところが、今回は部外者ともいえる天皇家の命によって官兵が没収したわけですから、頼長にとって大きな衝撃であり、痛恨の一撃ではなかったでしょうか。
天皇側の先手というには見事すぎる、むしろ必殺であったような気がします。

しかしこの東三條殿の南、三条坊門小路をはさんだ所に後白河天皇の高松殿があった事を思うと、義朝らが高松殿の守護を開始した6月始めあたりから、もはや実質的に東三條殿は天皇側の手中にあったといえるのではないでしょうか。
とすると、義朝らが押入った時に中で秘法を修していたとされる僧の存在は早くから察知されていたでしょうし、法住寺辺に潜伏していたとされる宇野親治の存在も、情報のひとつとして早くから把握されていたと考えられます。

『兵範記』などの記事だけを追うと、その日その日に突然に事が起こったように思われますが、日記に書かれたのは記録者の耳に入った時点の最後の結果であって、それまでの動きは前後の事情を勘案しつつ、もっとも近い線を想定するしかないのですね。

この8日の出来事については、まだまだ考証の余地があるように思います。
メッセージ 60 rarara_roadster さんに対する返信


7月8日の側面に関する考察(という妄想)   2008/ 2/23 23:28 [ No.62 ]
投稿者 : rarara_roadster
>日記に書かれたのは記録者の耳に入った時点の最後の結果であって、それまでの動きは前後の事情を勘案しつつ、もっとも近い線を想定するしかないのですね。

おっしゃるとおりだと思います。そこで、その日記の“行間”をいかに読み解くか、ということが重要な課題になってくるのですが、この“行間”というものが、いわば「妄想と真実の剣が峰」でして、一歩誤ると「妄想の谷底」に転落してしまうという危険性をはらんでいます。

おまけに、この「妄想の谷底」が意外と居心地が良かったりします(苦笑)。

で、

>天皇側の先手というには見事すぎる、むしろ必殺であったような気がします。
>この8日の出来事については、まだまだ考証の余地があるように思います。

剣が峰の足元に注意しつつ、少し考えてみたのですが、この東三条邸の接収は、頼長はもちろんですが崇徳に対しても衝撃的な出来事だったと思います。

鳥羽院の発病以来、崇徳は鳥羽との面会を拒絶されたりしてはいますが、それ以外の直接的な圧力のようなことは、兵範記にはでてきません。もちろん、書かれていないだけということもあるかもしれませんが、それはあくまでも推測に過ぎませんので、ここは崇徳に対しては頼長のような天皇方による圧力は加えられていなかった、と考えたいと思います。

しかし、これまで見てきたように、天皇方の最終目標は、「後白河から守仁へのスムーズな譲位」であり、それらの障害となりうる頼長や崇徳の排除にあります。そしてそれはけいげつさんがbS9で指摘された(「妄想」とことわってはおられますが)、

>頼長だけを排除してもだめだった。頼長を導火線として崇徳を動かせたかったのではなかろうか、と。
>頼長の頭脳が大義・正義を重んじる事を、おそらく信西は知っていたはずです。
>頼長にとっての大義名分、頼長が崇徳の懐に飛び込めば…。
>頼長が走るのは崇徳の所しかないという所まで追いつめれば、その時こそ。

に集約されると思います。しかしながら、いろいろと問題の多かった頼長と違い、崇徳自身にはこれといった落ち度もなく、7月5日条にある「蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家」といった風評くらいしかありませんでした。そんななかで、鳥羽院の初七日に東三条邸が接収されたということは、今の状況に関していかに天皇方が“重大な決心”を抱いているか、崇徳自身も思い知ったことでしょう。もし、この時まで逡巡していたとしても、ここまでくれば残された道は限られています。

翌日の9日夜、崇徳は田中殿を抜け出して白河北殿に移り、10日には兵を率いた頼長が合流。これは前出の風評が「現実」に変わったことを意味し、天皇方は崇徳・頼長を「謀反人」として追捕する“大義名分”を得たことになります。

もちろんこれは結果論ですし、兵範記7月9日条でも「(崇徳の行動は)思いもよらないことだった」としていますから、東三条邸の接収はそこまで見越したわけではなかったのでしょうが、案外忠通たちも驚きつつも『よっしゃあ!』とガッツポーズをしていたかもしれません(微苦笑)。

ちょっと剣が峰を踏み外したかもです・・・。
メッセージ 61 morikeigetu さんに対する返信


考察(という妄想)に、感動!   2008/ 2/24 21:53 [ No.63 ]
投稿者 : morikeigetu
『よっしゃあ!』は、案外に真実を穿っているかもしれませんよ。

頼長のように、その日記に「実は自分が殺させたのだ」というような事を書くような「ど根性」公卿は当時本当に珍しいですし、嘘がつけないヤツだったのでしょうね。
「筆端ニ尽シ難シ」などと言わず、知ってる事を全部書いてくれよと平信範に言いたいですよ。

>崇徳に対しては頼長のような天皇方による圧力は加えられていなかった、と考えたいと思います。

私もそう思いたいのです。

>いかに天皇方が”重大な決心”を抱いているか、崇徳自身も思い知ったことでしょう

これがね、私は「崇徳が、自分の身に命の危険を感じた」のではないだろうかと思ってしまうのですね。
鳥羽殿を守護するという名目で集まった武士たちが、目と鼻の先の田中御所に対して、本当に何もしなかったのだろうか…とね。
9日の崇徳の移動は「自身の決意」だったのか「やむにやまれぬ移動」だったのか…。

「剣が峰」を踏み外さねば次に進めない、けれどそこの所を証する史料がないため「保元の乱」はそのまま合戦に突入し、「勝者の乱後」に歴史は着地するのですね。

ろどすたさん、『よっしゃあ!』はたぶん正解ですよ(笑)
メッセージ 62 rarara_roadster さんに対する返信


エマージェンシー。   2008/ 3/ 7 14:22 [ No.64 ]
投稿者 : morikeigetu
九日戊申 夜半、上皇自鳥羽田中御所、密々御幸白川前齋院御所、(齋院去二日渡御鳥羽了)、上下成奇、親疎不知云々

十日己酉 上皇於白川殿被整軍兵、是日来風聞、已所露顕也、(中略)晩頭左府自宇縣参入、(後略)

9日の夜半、鳥羽田中御所を出て白川齋院御所に向かう崇徳の心境、宇治を出て10日の夜に崇徳と合流した頼長の心境はどのようなものだったのでしょう。
歯軋りしたいような腹立たしさ、しまったという後悔の念、あるいはただただ何者かに追われるような恐怖だったのでしょうか。
いずれにせよ、頼長が宇治を出たのは自分の意志ではなく、8日の東三條殿の没官を聞き、”とるものもとりあえず”飛び出したようなものだったと思うのです。行き先は当初、抗議あるいは陳情のため後白河天皇の御所だったかもしれません。車の中から次々と使者を走らせ、情報の収集をすると共に、天皇への目通りを願ったかもしれません。
しかしその途上において、ようやく頼長は自分が今どのような状況におかれているかを明確に知ったと思うのです(むろん妄想)。

さて崇徳上皇は9日の夜半に、その動機はともあれ鳥羽田中御所を出ます。
行き先は「前ノ齋院御所」。
『保元物語』も「田中殿より齋院の白河の御所へ御幸なる」と記しますが、『愚管抄』は「白河ノ中御門河原ニ、千躰ノアミダ堂ノ御所トキコユル、サジキ殿ト云御所ヘワタラセ給ニケリ」とあります。
齋院は日本古典文学大系『保元物語』の補注によると、
参考保元物語に、「按、此時有二前齋院、一□子内親王、堀河帝皇女、一恂子内親王、後改名統子、鳥羽帝皇女也、未詳為誰」とある。兵範記に「齋院去二日渡御鳥羽殿了」とある二日は、鳥羽院崩御の日であるので、当日鳥羽殿へ渡御したのは統子内親王の方に可能性が大きい。

つまり鳥羽院皇女で齋院となっていた統子の御所で、鳥羽殿に渡御していたため主が不在となっていた場所に崇徳は移動したのです。

この白河殿は、朧谷寿著『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)によると、
(前略)そもそもこの地には、9世紀中葉の段階で摂政藤原良房の別業、白河殿(院)があった。そしてこれは摂関家に伝えられ、承保2年(1075)関白藤原師実から、時の白河天皇に献上されたのである。(中略)
さらに白河泉殿(後に南殿と改称)、白河北殿、白河押小路殿といった御所と、蓮華蔵院、宝荘厳院、金剛勝院、得長寿院などの御堂が、白河・鳥羽両上皇と美福門院のために造営された。(後略)

と説明される場所であり、鴨川の東の北は中御門大路、南は三条坊門小路に挟まれた地域にあたり、これから合戦の舞台となる白河北殿は中御門南、大炊御門大路北、東大路通西の4町を占める御所で、現在の平安神宮の西で東竹屋町を中心とするあたり。
今は、その白河北殿の真ん中東西を丸太町通りが通っています。

『愚管抄』はこの崇徳と頼長の移動を、「申カハシ」たようだとしていますが、はたして本当にそうだったのでしょうか。

二人の脳裡には、天皇方の者たちが「よっしゃあ」と叫ぶ姿が、ふと浮かんだかもしれません。
メッセージ 63 morikeigetu さんに対する返信


没官されそうです(苦笑)   2008/ 3/18 18:13 [ No.65 ]
投稿者 : rarara_roadster
近々きちんと投稿しますが、とりあえず。

中公文庫の「マンガ日本史」を思わず買ってしまいました。

「平家物語(横山光輝)」と「今昔物語(水木しげる)」なんですが、ちょっとした息抜きにはなりそうです。

え?

息を抜いている暇があったら、きちんと投稿しろ?

すみません・・・・・。
メッセージ 64 morikeigetu さんに対する返信


申し訳ない、申し訳ない。   2008/ 3/19 10:44 [ No.66 ]
投稿者 : morikeigetu
庭の木苺に花芽がたくさん付きまして、啓蟄から彼岸に向かう春のサインの中で「さて、どうやって合戦に突入すべきか」と考えていると、安易に書けなくなったのですね。
というのは言い訳で…、とりあえず「アゲ」ねばならないと上西門院統子の事を調べていたところ、ろどすたさんが没官を防いでくれました(感謝)

崇徳が入った前齋院統子の御所。
統子は後白河の同母姉。
崇徳はなぜ、そこに向かったのだろう。主が不在であるのは知っていただろうに…。
行き当たりばったりだったのだろうか、それとも何か思う所があったのだろうか。『保元物語』は崇徳と頼長の合流を記す「左大臣殿上洛の事」の末尾にこのような一文を残します。
「新院武者所親久をもって内裏へ御書あり。やがて御返事あり。かさねて院より御書あり。今度は御返事なし。何事にてやありけむ、子細をしる人なし」

史料の上では物音ひとつたてないように見える為義らも、『物語』の中では苦渋をにじませつつも生きて動いています。
11日の「鶏鳴」に入れなかった理由です、すみません。
メッセージ 65 rarara_roadster さんに対する返信


覚醒、合戦前夜。   2008/ 3/21 13:46 [ No.67 ]
投稿者 : morikeigetu
春分も過ぎ、感傷的な妄想はひとまずおいて…。

10日には崇徳側・天皇側の陣容が『兵範記』に記されます。
平家弘・康弘・盛弘・時弘・時盛・長盛・源為国、また源為義は頼賢・為知(為朝)・九郎冠者らを率いて初参。
「頃年以来、依故院勘責各籠居、今當此時懇切被召出也」
夜になって頼長が宇治より合流し、平忠正・源頼憲が軍兵を発した。
高松殿を内裏と定めていた天皇側も武士を集合させた。
源義朝・義康をはじめ、平清盛・源頼政・重成・季実・平信兼・惟繁らの率いる軍兵は晩頭になって雲霞のごとく膨れあがった。
清盛と義朝は朝餉の間に召されて合戦の策を籌し、夜に入って軍備を整えて出陣の態をあらわした。
清盛は紺の水干小袴を着し紫革(□□□□)冑、頼盛・教盛・重盛も同じく武装し従った。
義朝は赤地錦の水干小袴を着し、頼政以下も思い思いの武装であったが、多くは紺の水干小袴か生絹を用い、折烏帽子に冑、革の貫きを着しており、兵卒は(やなぐい)を負い、甲を持っていた。

この日後白河天皇は高松殿を出て、8日に没官したすぐ北にある東三條殿に移動した。

明くる11日の夜明け、清盛・義朝らの軍勢が白河北殿に向けて出陣します。
旧暦7月は初秋とはいえ、まだまだ盛夏のごとき残暑であったでしょう。
それぞれの陣容、進路などゆっくりと解析していきたいですね。
メッセージ 66 morikeigetu にさん対する返信


焦・汗…、   2008/ 3/28 13:35 [ No.68 ]
投稿者 : morikeigetu
休みになっても外出する用事が出来、PCに向かってもこのページを開く事が出来ません。
今日の深夜あたりになんとか投稿したいと思うのですが…。
では、行ってきます。
メッセージ 67 morikeigetu さんに対する返信


保元元年(1156)7月11日   2008/ 3/29 21:16 [ No.69 ]
投稿者 : morikeigetu


鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百餘騎発向白河、清盛三百餘騎自二條方、義朝二百餘騎自大炊御門方、義康百餘騎自近衛方…(後略)

ついに天皇方の清盛・義朝・義康らの軍兵600余騎が高松殿から白河北殿に向けて出陣します。
高松殿の北隣に東三條殿があり、その東三條殿の北を東西に走るのが二條大路です。清盛勢はその二條大路を東に進み鴨川を越えます。
二条大路の上の冷泉小路のもう一本北の大炊御門大路を東に200余騎で進軍したのが義朝。
義康の100余騎は、さらにその4本北の近衛大路を同じく東に進みました。

この前日、内裏では軍評定に結論が出ず、義朝が「時間がもったいない」と即時出陣を進言するも、関白忠通は、
「目ヲシバタタキテ、ウチミアゲウチミアゲミテ物モイハザリケル」『愚管抄』
ただただ目をぱちぱちさせて何も言わなかったところ、信西入道が庭に下りて義朝の進言を支持し、11日の暁にようやく忠通に「サラバ、トクヲイチラシ候ヘ」と言わしめます。

彼らが目指した白河北殿においても、もちろん軍議は行われています。
義朝と同様の進言を為朝が行ったと『保元物語』は伝えます。
しかし為朝の進言は、退けられてしまいます。

この差が…。
メッセージ 68 morikeigetu さんに対する返信


Re: 保元元年(1156)7月11日   2008/ 3/30 16:49 [ No.70 ]
投稿者 : rarara_roadster
>内裏では軍評定に結論が出ず、義朝が「時間がもったいない」と即時出陣を進言するも、(略)

慈円の立場もあるでしょうが、愚管抄のこの部分を読むと、やはり保元の乱の図式を描いたのは信西入道で、忠通は最後まで逡巡しながら11日早暁の鶏の声も聞こえようかという時になって、ついに決断を下した。という構図に集約されていることが伺えます。

頼長贔屓するわけではありませんが、結果的に彼は外堀から埋められ、最後には挙兵するか座して流罪を甘受するかというところまで追い込まれたのであり、はじめから積極的に反乱を起こしたというわけではないと思っています。頼長の性格を熟知して追い詰めていくというやり方は、兄である忠通よりも、ある意味「師」であった信西入道の方が適役だったのかもしれません。鳥羽院の御万歳以降かつて無いほどの武力を公的に召集したということは、忠実・頼長のつくりあげた摂関家の武力というものが国家としてはとても容認できるものではなく、頼長を追い詰める以上は最悪の状態を考慮する必要があったということもいえると思います。

また、忠通としてはやはり乱の後の戦後処理の方が気になっていたと思います。
戦争は、始めるよりも終わらせることのほうがはるかに困難です。まして、摂関家という天皇家に次ぐ巨大な複合権門の争いとなると、それは源氏や平家の場合とは規模が違います。その意味では、果たして忠通も積極的に兵乱を起こすことを考えただろうか、という気がしますね。

頼長としても、天皇方のそういった動きというか、思惑はある程度認知していたのではないでしょうか。で、おなじ国家とケンカするならばと、死中に活を見いだす思いで崇徳上皇と結んで「御国争い」に持ち込むしかなかったのかな、と。

それはそれで、天皇方にしてみれば「よっしゃあ!」だったのでしょうが・・・。
メッセージ 69 morikeigetu さんに対する返信


いみじかりける、ご指摘。   2008/ 4/ 2 11:54 [ No.71 ]
投稿者 : morikeigetu
>やはり保元の乱の図式を描いたのは信西入道で、忠通は最後まで逡巡しながら11日早暁の鶏の声も聞こえようかという時になって、ついに決断を下した。
>最後には挙兵するか座して流罪を甘受するかというところまで追い込まれたのであり…。
>果たして忠通も積極的に兵乱を起こすことを考えただろうか。

”ミチノリ法シ、ニハニ候テ、「イカニイカニ」ト申シケルニ”

という合戦直前の高松殿における、ほんの短い『愚管抄』の描写。
殿上から庭に駆け下りて、義朝とともに出陣を迫る信西入道。
その焦り、ここに極まったという感じです。
義朝には「為義や為朝なら、きっとやるだろう」というセンサーがあったでしょうから、彼の出陣要請は説得力があったと思います。
しかし天皇の御首をたてに振らせるべき立場の忠通が消極的であっては、信西の計画も木端微塵。
「イカニイカニ」と迫る信西の形相には、鬼気迫るものがあったでしょう。
南都から上皇方に援軍が来るという情報は天皇方も把握していたでしょうし、そうなると勝敗の行方もわかりません。
最大勢力である清盛の軍勢を一番南側の二條大路を進ませたのは、奈良方面に対する防御の意味もあったと考えます。
彼の当初の戦いぶりを『物語』でみると、むしろ清盛にはその役割分担があったようにも思います。

さて、上皇方はそうとも知らず頼長の「御国争い」論によって為朝の進言を退け、南都からの援軍を待つべく白河北殿の守備配置にのみとどまります。
白河北殿の南、大炊御門大路に面して二つの門があり東側の門を平忠正・源頼兼が、西側の門を為朝、鴨川に向かう西門を為義と為朝以外の子ら、北の中御門大路に面した北門を平家弘が守備する事になり、ただただ時間が経過していきます。
東門もありましたが、誰が守備したのかは判明しません。

重い時間が刻まれていきます。
メッセージ 70 rarara_roadster さんに対する返信


『保元物語』によりますと…。   2008/ 4/ 9 10:33 [ No.72 ]
投稿者 : morikeigetu
陰暦7月11日を今年の陽暦でみると8月11日、久寿3年(保元元年)は7月まで閏月なし。陽暦では多少の前後があるでしょうが、この時期の「鶏鳴」はおそらく午前5時から5時半頃になるようです。
たぶん夜を徹して待機していたであろう清盛・義朝らの軍勢がこの時刻に出陣、『兵範記』によると、辰剋(午前8時)白河北殿から煙が上がり、午剋(午後0時)には清盛・義朝らが高松殿に帰参しています。

この間の合戦の様子は、もはや『保元物語』によらねばなりません。

合戦の実況放送はろどすたさんの方が詳しいような気がするのですが、今日は僭越ながらその序として。

内裏高松殿を粛々と出陣した清盛らは、途中何の支障もなく鴨川を越え、白河北殿に到着したようです。
上皇方には、たとえば橋を落としたり、河原に楯を並べて防御したというような様子が見られませんから、高松殿から白河北殿までの2km足らずの進軍にどれほどの時間も要しなかったでしょう。

清盛・義朝・義康らが出陣した後、後白河天皇は北隣の東三條殿に渡御し、その間に頼政・重成・信兼らが二陣として出陣します。

空は白み始めたものの、比叡・東山の山々に遮られて、いまだ朝陽のとどかぬ白河北殿のあたりだったのでしょうか。
まもなく、為朝の矢がうなりをあげます。
メッセージ 71 morikeigetu にさん対する返信


『保元物語』より   2008/ 4/12 19:14 [ No.73 ]
投稿者 : rarara_roadster
>合戦の実況放送はろどすたさんの方が詳しいような気がするのですが

そ、そんなまたいきなりハードルを・・・

戦闘の実況中継というのはアレですが、まず、両軍の武士がどのような人たちだったのかということを見てみたいと思います。

天皇方は国家により総動員された官軍。対する新院方は、摂関家との私的な主従関係による私兵。

兵範記に主だった武将の名前はありますが、詳細についてはやはり保元物語に頼らざるを得ません。元木泰雄氏の分析を参考にしつつ書き出してみましょう。まずは最大戦力を有する平清盛の軍勢から。けいげつさんにはぜひ補足をお願いします(ぺこり)。

「清盛にあひしたがふ人々には、弟の常陸守頼盛・淡路守敦盛(※)・大夫経盛・嫡子中務少輔重盛・次男安芸判官基盛、郎等には、筑後の左衛門家貞・其子左兵衛尉貞能・与三兵衛景安・民部太夫為長・其子太郎為憲、河内国には草苅部十郎太夫定直・瀧口家綱・同瀧口太郎家次、伊勢国には古市伊藤武者景綱・同伊藤五忠清・伊藤六忠直、伊賀国には山田小三郎惟之、備前国住人難波三郎経房、備中国住人瀬尾(妹尾)太郎兼康を始として、六百余騎とぞしるしたる。」

保元物語では清盛勢600余騎となっていますが、実際には兵範記にある300余騎くらいだったのでしょう。さて、これによると清盛勢は清盛の弟や子どもといった平家一門と筑後守家貞ら譜代の家人や伊勢・伊賀を拠点とする古くからの家人により構成されていることがわかります。


これに対して戦闘で一番はりきっていた義朝勢。愚管抄によれば、義朝は合戦の経緯を事細かに内裏へ逐一報告したとされます。それこそ実況中継ですね(苦笑)。
その軍勢を見てみましょう。清盛の場合と同様、人数は誇張されているようです。

「折節東国より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。先鎌田の次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国には佐々木の源三・八嶋冠者、美濃国には平野大夫・吉野太郎、尾張国には舅熱田大宮司が奉る家子郎等、三河の国には志多良・中条、遠江国には横地・勝俣・井の八郎、駿河国には入江の右馬允・高階十郎・息津四郎・神原五郎、伊豆には狩野宮藤四郎親光・同五郎親成、相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名の源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には安西・金余・沼の平太・丸の太郎、武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斉藤別当実盛・同三郎実員、横山に悪次・悪五、平山に相原、児玉に庄の太郎・同次郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者、上総には介の八郎弘経、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎・物射五郎・岡本の介・名波太郎、下野には八田四郎・足利太郎、常陸には中宮三郎・関次郎、甲斐には塩見五郎・同六郎、信濃には海野・望月・諏方・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井の大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎を始として、三百余騎とぞしるしたる。」

義朝の軍勢はそのほとんどが近江より東の東国武者ばかりのようです。愚管抄のなかで為義が「郎徒ハ皆義朝ニツキ候テ内裏ニ候」と言っていますが、義朝を東国の武士団組織のため下向させたものの、義朝は摂関家の機軸を離れ独自に院近臣と結びつき、ついには敵味方に分かれることになってしまったことを言っているのでしょう。上記の軍勢の構成から元木氏は、「平清盛と異なる義朝の独自性、あるいは京周辺の所領の武力に依存する、院政期的な武士団編成を脱却した新しさを看取することができるのではないだろうか(保元・平治の乱を読みなおす)」としています。

しかし、遠隔地の武士団組織ということは、義朝の父為義が、伊勢平氏の台頭による河内源氏の衰退により畿内周辺の郎等が次第に離反し、そこで自らが伺候する摂関家の家産機構を媒介として画策したことであることは押さえておく必要があると思います。それが義朝の離反により為義の構想どおりにならず、それらと戦うことになったのは皮肉な結果といえるでしょう。ちなみに源為義の三男義範(志田先生義広)は中立であったのかどちらにも属していません。彼が表舞台に立つのはもう少し先になりますね。

すみません。つづきはまたのちほど・・・。

(※)誤転写につき、74で訂正
メッセージ 72 morikeigetu さんに対する返信


Re: 『保元物語』より(修正)   2008/ 4/12 20:49 [ No.74 ]
投稿者 : rarara_roadster
>弟の常陸守頼盛・淡路守敦盛×
 弟の常陸守頼盛・淡路守教盛○

間違えるにも程がありました(陳謝)
メッセージ 73 rarara_roadster さんに対する返信


因縁の人々。   2008/ 4/21 11:25 [ No.75 ]
投稿者 : morikeigetu
ろどすたさんが列挙して下さった義朝と清盛の軍勢。
その名をじっと見ていると、こののち20余年を経て起こる治承・寿永の内乱で、またそれぞれ立場を違えて相まみえる人々の、なんと多いことか。

義朝軍の構成と清盛軍のそれの相違は、やがて族滅する一門と分裂の果てに個々に死滅していく人々の理由のようなものが、ちらと見えるような気がします。

>義朝の軍勢は、そのほとんどが近江より東の東国武者

もちろん乱が勃発してから召集したのでは間に合うはずもないし、義朝が勅命によって義康と共に高松殿の守護を始めた6月でも難しいでしょう。
ここに挙げられた人々は、すでに京都に在住していた武士達でありましょう。彼らの本拠地である東国に彼らの所領・私領があり、それを一所懸命守るため義朝を棟梁として頼み、主従関係を結んで京都での奉公に勤めていた者達であろうと思われます。
当然その関係は、短時間・短絡的なものではなく、頼義・義家以来の伝来の関係であったのでしょうが、
「郎従ハミナ義朝ニツキ候テ内裏ニ候」
と言った為義がまた、
「東国ハ頼義・義家ガトキヨリ為義ニシタガハヌモノ候ハズ」(『愚管抄』)
と断言したのは、確たる自信かそれとも時勢の読み誤りか…。

>それが義朝の離反により為義の構想どおりにならず、それらと戦うことになったのは皮肉な結果

狙いはよかったと思うのです。
義朝を東国へ、為朝を九州へ派遣(?)し、自らは中央権門と結んで河内源氏の再興を…。
コミュニケーション不足だったのか、リーダーシップの不足だったのか、あるいは笛吹けど踊らずだったのか。
この時、為義61歳。
メッセージ 73 rarara_roadster さんに対する返信


甲冑マニア   2008/ 4/30 23:32 [ No.76 ]
投稿者 : rarara_roadster
アゲついでに・・・。

NHKの「熱中時間」で、自作の甲冑を着けて街中を闊歩するマニアの紹介をしていました。

今回の作品は、先だっての大河ドラマ「義経」で平知盛(阿倍寛)の着用した黒糸縅大鎧。

制作費は約12万円、材料は「その辺の物」。
出来はともかく、情熱は感じましたね(微笑)。

最後に奥州市の「藤原の郷」でトキの声を上げていました。


※投稿時には「藤原の里」となっていたので修正
メッセージ 1 morikeigetu さんに対する返信


Re: 甲冑マニア   2008/ 5/ 1 6:06 [ No.77 ]
投稿者 : morikeigetu
>アゲついで…

ありがとうございました。
「開戦・第一の犠牲者」というタイトル、「山田惟行」という名前だけ入れて出かけるつもりでした(大謝)

いつも、ほんっとに申し訳ない…。
メッセージ 76 rarara_roadster にさん対する返信


慌て者…。   2008/ 5/ 7 11:33 [ No.78 ]
投稿者 : morikeigetu
山田惟行は第二の犠牲者でありました。
第一の犠牲者は、伊藤六忠直。

清盛軍が進んだ二条大路は鴨川を越えて200mほどで敷地4町を占める白河南殿・蓮華蔵院の南西角に出ます。
そしておそらくはそこを250m北に進み、大炊御門大路に出たのでしょうか。そこが白河北殿の南西角です。
白河北殿も敷地4町を占めていましたから一辺250mほどの正方形。大炊御門大路に面した所に西門と東門があり、為朝が守備していた西門に清盛軍が「たまたま」押し寄せたと『物語』にあります。

大炊御門大路の幅は10丈(約30m)、そこに300騎全てが集中した訳でもないでしょうが、清盛は門の内へ名乗りかけ、守備する者の名を問いかけます。
「為朝」と聞いた清盛は、”まいったなぁ”とでも呟いたのでしょうか。
やがて伊藤景綱と子息の伊藤五・伊藤六ら30騎ばかりが門近くに進み、先陣を名乗るのですが、幅30mとはいえその真ん中あたりであれば為朝の弓勢からすると、百発百中の至近距離でありましょう。

白河北殿はもちろん武家の屋敷ではありませんから櫓などの設備もなく、『保元平治合戦図屏風』を見ると、門は開け放した状態でその内側に楯を並べ、その後ろから馬上の為朝が弓を放つ様子が見られます。

前に進み出た伊藤六の右腹を射抜いたその矢は、並んでいた(右やや後ろか)伊藤五の鎧の左袖の裏まで通ったと『物語』は記します。
伊藤六は即死状態であったのか、すぐさま伊藤五がその首をとって引き返します。
おそらくは伊藤六が落馬するやいなや、門の内から為朝の兵が伊藤六の首をとるために飛び出したのでしょう。
景綱らの怒声が飛び交う一瞬の出来事。

この伊藤家は、藤原秀郷の流れを汲む武門の基景が11世紀の中頃に伊勢守に任官し、その後土着して伊勢の藤原家、伊藤を称します。
その子基信は伊勢国員弁郡久米郷の志知村を本拠とし、荘園領主となって北伊勢の有力武門として平正盛の家人となり、その子景綱は後に従五位伊勢守となって忠盛・清盛の最も有力な家人の一人となります。(『平家後抄』)

この時の伊藤五が、後の上総介忠清。

その子の忠綱・忠光・景清、弟の景家など、やがて平家の侍大将として名を連ねる人々ですね。
メッセージ 77 morikeigetu さんに対する返信


訃報。   2008/ 5/16 9:20 [ No.79 ]
投稿者 : morikeigetu
『平家後抄』『平安京散策』等、このトピで多く引用させていただいている書籍の著者で、私自身にも大きな刺激を与えた角田文衛氏が、14日95歳でお亡くなりになりました。
心から、ご冥福をお祈りしたいと思います。
メッセージ 78 morikeigetu さんに対する返信


Re: 訃報。   2008/ 5/16 23:20 [ No.80 ]
投稿者 : rarara_roadster
http://mainichi.jp/select/person/news/20080516ddn041060023000c.html

以前、けいげつさんに『平家後抄』の中から熊野別当についてご紹介いただいたことがありましたね。
メッセージ 79 morikeigetu さんに対する返信


上皇方のエース、背番号「8」   2008/ 5/18 15:27 [ No.81 ]
投稿者 : rarara_roadster
鎮西八郎こと源為朝は、保元物語の事実上の主役ともいえる存在で、その活躍は超人的な描写になっています。

「新院為義を召さるる事」の中で、崇徳の近習である右大将藤原教長が為義に対して上皇方への参入を促しに来たとき、為義は「自分の息子の中で戦に秀でているのは長男の義朝ですが、すでに内裏へ参内しております。その他の息子たちはとても戦の大将を勤めるような器量はありません。ただ、八男の為朝は力も弓の技量も人に優れ、あまりに乱暴であったのを幼い頃より鎮西に追放しておりましたが、近頃(都に)上ってきておりますのでこれを召されて戦のことを申し付けてください。」というように為義一族のなかのエースとして為朝の名を挙げています。

伝説も多い人物ですが、吾妻鏡の大庭景能の回想にもあるように弓の名手である「兵」であったのは間違いないでしょう。


為朝は、肥前平氏と関係の深い薩摩平氏一族で薩摩・大隈・日向三カ国にまたがる最大の摂関家領薩摩島津荘の荘官阿多忠景の婿となり、薩摩・豊後を中心に九州を席巻します。つまり義朝と同様、遠隔地の武士団組織のために為義に九州に派遣されたと考えられています。その為朝が九州から率いてきたのが、箭前払の須藤九郎家季・其兄あきまかぞへの悪七別当・手取の与次・同与三郎・三町礫の紀平次太夫・大の矢新三郎・越矢の源太・松浦の次郎・左中次・吉田の兵衛太郎・打手の紀八・高間の三郎・同四郎ら28騎の部下である、と物語にありますが「あきまかぞえ」「手取」「三町礫」「大の矢」「越矢」「打手」などのユニークなものが目立ちます。

で、ちょっと調べてみたのですが、「あきまかぞえ」=隙間数えで、甲冑の隙間を突いて攻撃するのが得意、「手取」=組打ちが得意、「三町礫」=三町離れて礫が飛ばせる、「打手」=打ち物が得意、なのではないか、とするサイトがありました。

(保元物語現代語訳)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog6.html#7

なお、孫引きですが網野善彦氏(中世の飛礫)は、礫による攻撃を中世のゲリラ攻撃の方法としてあげておられますから、為朝が九州で暴れていた様子を垣間見ることが出来るかと思います。
メッセージ 80 rarara_roadster さんに対する返信


伊賀の猪武者   2008/ 5/24 16:11 [ No.85 ]
投稿者 : rarara_roadster
最大の兵力を有する清盛ですが、為朝に「清盛などがへろへろ矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。」と一蹴され、戦いの場面でも伊藤五、伊藤六らが討たれ傷つき、「必清盛が此門を承て向ふたるにもあらず、何となく押よせたるにてこそあれ。いづ方へもよせよかし・・・」と事実上撤退します。

山田惟行(名の表記が「是行」「伊行」といろいろあるようですが、ここではけいげつさんが初めに書かれた「山田惟行」にします)は、そのような大将軍の清盛を見て、同僚が止めるのも聞かず為朝に挑みます。

その山田惟行、伊賀国の住人で28歳、「祖父の山田庄司行末は平正盛の郎等として源義親追討の先陣を駆け、公卿にも名を知られた」としてやはり平家累代の家人であったことを示しています。“又なき剛の者、片皮破の猪武者”で“本よりいひつる詞をかへさぬ男”といわゆる「武辺者」の原型のような「兵」といえそうです。

その一の矢は、為朝の弓手の草摺りを「ぬいざまに射切り」ますが、為朝の返す矢は惟行の“鞍の前輪より、鎧の前後の草摺を尻輪懸て、矢先三寸余ぞ射通したる”と、ここまでくれば「為朝どんだけ〜?」な世界です(おひおひ)。

もっとも物語では、主(惟行)を討たれた無人の馬が義朝の陣に駆け込み、そこから義朝VS為朝の戦いに繋がるところから、前出のエピソードは多分に物語性を含んでいるといえますが、清盛の軍勢がここで相次いで累代の家人を傷つけられたのは事実でしょう。

また、この戦闘における清盛勢の脆弱性は、物語の作者のバイアス、または成立時の社会通念を考慮する必要があるでしょう。むしろ、前にけいげつさんの指摘された清盛勢の主任務が南都からの援軍に対する防御にあるとするならば、ここでいたずらに犠牲を増やすことは得策ではありません。

その意味での清盛の撤退だと思います。
メッセージ 78 morikeigetu さんに対する返信


弓張月   2008/ 5/24 20:21 [ No.86 ]
投稿者 : morikeigetu
>主(惟行)を討たれた無人の馬が義朝の陣に駆け込み、そこから義朝VS為朝の戦いに繋がる…

なるほど!
そう言われれば確かにそうですね。
連続ドラマの「続く」みたいなものか。
『保元物語』は、清盛勢が為朝によって撤収を余儀なくされ、そこで血気にはやる重盛を清盛が制止し、その後の惟行の討死を描き、その頃二条河原でひかえていた義朝の陣に惟行の空馬が駆け込むと…。

後の世に書かれる『物語』は、敗者に対する鎮魂の意味もあるらしいですから、ここで清盛勢が舞台の中心から消えるのも頷けますね。

それはそうと、子供の頃”少年少女の偉人伝”のような読み本で『弓張月』というのを読んだことがあります。
為朝が京都から九州、また九州から京都へと戻る旅路において「八町礫の紀平次」や「すきまかぞえの悪七別当」らが次々と家来になり、保元の乱を経て大島に配流となってからも力を合わせて共に生活し、やがて琉球に渡るという滝沢馬琴の『椿説弓張月』の子供向け読み本でした。
なかなか痛快だったという記憶があります。

ところで”礫=石を投げる”という行為について「印地打(いんじうち)」というものがあります。宮本常一著『絵巻物に見る日本庶民生活誌』によると、
正月の打毬(だきゅう)=毬打(ぎっちょう)は打杖を用いて石を飛ばすが、印地打は石を手に持って投げるか、縄で石をくくって振り回して投げるかする石合戦のことで、正月にも行われたが5月5日に多く行われた。
印地打は京都で盛んに行われたが、各地に広がって子供の遊びとなった…、
とあります。

石を投げるという習慣が子供の頃からあったとすれば、やがて長じて紀平次のような”大投手”が登場するのも不思議ではないですね。
ただ、三町(327m)は飛びすぎかな(笑)

>「あきまかぞえ」「手取」「三町礫」「大の矢」「越矢」「打手」などのユニークなものが目立ちます。

ゲリラと言うには惜しい、むしろ種々の武芸を「悪七別当」「与次」「紀平次」などに人格化したような気もします。
そしてそれは「馬」中心の東国武芸に対して、徒歩立ちや舟戦むきの西国武芸のような感じを受けますね。
メッセージ 85 rarara_roadster さんに対する返信


鎮西戦隊タメトモレンジャー   2008/ 5/25 16:14 [ No.87 ]
投稿者 : rarara_roadster
保元物語
[義朝]八郎は筑紫そだちにて、船の中にて遠矢を射、歩立などはしらず、馬上の態は、坂東武者には、争か及ばん

吾妻鏡「建久2年(1191)8月1日条」
[大庭景能](為朝は)鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか。景能東国に於いて能く馬に馴れるなりてえり


>むしろ種々の武芸を「悪七別当」「与次」「紀平次」などに人格化したような気もします。
>「馬」中心の東国武芸に対して、徒歩立ちや舟戦むきの西国武芸のような感じを受けますね。

なるほどですね。以前にもけいげつさんは為朝についてその旨おっしゃってましたね。
実はわたしは、為朝の表現があまりに超人的なことから、その配下も「あきまかぞえ」「手取」「三町礫」「大の矢」「越矢」「打手」の異名をとる、ある種“異形の者たち”として表されているように考えていました。

一つには、鎌倉期に入り、頼朝は下河辺行平をして「秀郷流の故実を継ぐもの」として武芸の故実の体系化を進めていますよね。保元物語や吾妻鏡が成立していった頃には、武芸故実の体系化は浸透していたと思うのです。

つまり「坂東武者かくあるべき」という意識のなかで、九州で暴れていた為朝たちは、東国武者とは違う「異端の兵」として差別化(もちろん貶めるという意味ではなく)され、それにより一層為朝の超人性が増幅されると同時に、坂東武者の優位性、正当性を描きたかったのかという考えが、わたしの頭の隅っこにあります(苦笑)。

いささかトンデモな匂いがしないでもありませんが(笑)。
メッセージ 86 morikeigetu さんに対する返信


ブランド志向。   2008/ 5/28 19:54 [ No.105 ]
投稿者 : morikeigetu
>下河辺行平をして「秀郷流の故実を継ぐもの」として武芸の故実の体系化を進めていますよね。
>保元物語や吾妻鏡が成立していった頃には、武芸故実の体系化は浸透していたと思うのです。

『山槐記』保元4年2月19日に上西門院の殿上始めが行われた記事があります。

(前略)傅聞、實定卿、並清盛朝臣以下四位七八輩、五位成頼一人着殿上、有盃杓、初献蔵人源頼朝、二献安房守経房、三献右馬頭信隆朝臣(後略)

この年の12月に勃発する平治の乱の直前に清盛と頼朝が顔を合わせているという事実も興味深いのですが、今は頼朝がこうして都の軍事貴族として朝廷行事に参加しているという事。
彼の頭には都における軍事(武芸・武具)のレベルというものが、明確にインプットされていたと思います。

高橋昌明氏や川合 康氏がその著書等で指摘されているように、武芸の源流は都にあり、都の武器・武具の質の高さは地方のそれとは比べものにはならなかったでしょう。
やがて治承・寿永の内乱によって変化し乱れていった合戦のルールというものを幕府の成立後「武芸故実の体系化」によって元に戻し、それを東国武士固有の特色のようにしていったのでしょうか。
しかしながら、それには相当の時間が必要であったようで、都から質の高いDNAを必死に輸入するわけですね。

為朝とその配下の者たちの「異形性」と「超人性」は、後に新規参入した「鎌倉ブランド」がどうしても排除出来なかった結果でありましょうか。
メッセージ 87 rarara_roadster さんに対する返信


激闘の始まり   2008/ 6/ 4 18:40 [ No.119 ]
投稿者 : morikeigetu
さて、再開しましょう。

>主(惟行)を討たれた無人の馬が義朝の陣に駆け込み、そこから義朝VS為朝の戦いに繋がる…

その馬の有様を為朝の脅しと決めつけて、討って出ようとする義朝を鎌田次郎政清が押しとどめ、30騎ばかりを引き連れて清盛が撤退した西門に向かいます。

政清の放った矢が為朝の左の頬をかすって冑の内側に立ったため為朝は激怒、返し矢もせず鎮西以来の家来と共に政清を猛追、政清は鴨川の河原を南に三町(約330m)ほど必死に逃走して帰陣します。
為朝が政清の追跡をやめた理由を『保元物語』は、守備の門を離れすぎ、また父の為義の事が気になったからとしていますが、馬の全力疾走の限界であったのかもしれません。
距離的にこの三町の逃走は真実に近いかと思います。
為朝が追いつけなかったのは、馬の能力あるいは馬術の差もあるかもしれませんが、為朝の体躯が人並み優れて大きかった事を示しているのかもしれませんね。

さてさてこのあたりの『物語』を読むと、大炊御門大路を進んだ義朝はまだ鴨川を渡河していなかった事が判明します。
そして時刻が寅の刻(午前4時)という事。
以前「鶏鳴」を午前5時過ぎと言いましたが、天皇方が出陣したのはもっと早く午前0時あたりから行動を開始したのかもしれませんね。
メッセージ 85 rarara_roadster さんに対する返信


このトピは「(荒らし)」を無視しています。   2008/ 6/11 10:42 [ No.127 ]   注:「」荒らしのHNは削除
投稿者 : morikeigetu
さて、

「激闘の始まり  その2」

清盛勢が撤退した頃、義朝の軍勢はまだ鴨川を渡河していなかったというのは『保元物語』−白河殿攻め落とす事−で、鎌田政清が帰陣した後に義朝が行動を開始した記述、

「京極を下りに三條までさがりて、河原を東へうちわたして、北殿をば北にみなし、東の堤をのぼりに北をさしてぞ向ひける」

によります。

ここでふと思ったのですね。
ろどすたさんが「伊賀の猪武者」で、
>無人の馬が義朝の陣に駆け込み、そこから義朝VS為朝の戦いに繋がるところから、前出のエピソードは多分に物語性を含んでいる…
というご指摘に、もっともだと頷けるのですね。

主を失った馬が、たとえ狂奔したとしても川を渡ってピンポイントで義朝の陣に飛び込むのはね…。
義朝の軍勢といっても約200騎ですから、そんなに広範囲な布陣ではないでしょうし。

それと、「清盛と為朝の遭遇」「伊藤六・山田惟行の討死」「鎌田政清と為朝」「義朝の行動開始」という流れが一連のものなのか、同時進行的なものなのかがわかりません。
頼長ら上皇方が南都からの援軍を頼みにしていたというのは、ほとんど間違いのない事のようですから、東及び南方面を押さえられる事に対しては無抵抗ではなかったと思います。
その抵抗の結果が「伊藤六・山田惟行の討死」であり、清盛による方面封鎖の伝令が「主のいない馬」に化けたかな、などと…。
「その2」が「妄想その1」になってしまいました。(失礼)
メッセージ 85 rarara_roadster さんに対する返信


Re: このトピは「(荒らし)」を無視しています   2008/ 6/11 23:52 [ No.130 ]
投稿者 : hn2602mk2
 コメントは、できませんが、いつも興味深く、拝見させていただいています。
逸見光長と安田義定を間違えるような人は、無視されてかまいません。
メッセージ 127 morikeigetu さんに対する返信


「(荒らし)」=通報しますた。   2008/ 6/12 21:45 [ No.143 ]
投稿者 : rarara_roadster
hn2602mk2 さま

>いつも興味深く、拝見させていただいています。

ありがとうございます。たしか、邪馬台国トピでお名前をお見かけしたような・・・。
間違っていたらごめんなさい。

いま、ちょっと荒れていますが、今後ともよろしくお願いします(ぺこり)



荒らしはすべてYahoo通報済みですので、念のため。
メッセージ 130 hn2602mk2 さんに対する返信


Re: 「(荒らし)」=通報しますた。   2008/ 6/12 23:15 [ No.146 ]
投稿者 : hn2602mk2
>確か、邪馬台国トピでお名前をお見かけしたような…。

 今のところ、古代史のほうで手一杯なのですが、戦国時代や、源平時代にも興味はあります。
以前、鎌倉時代関係のトピが立っていた頃には、書き込みをしたこともありました。確か足利家時さんとか、いらっしゃったような・・・。
メッセージ 143 rarara_roadster さんに対する返信


Re: このトピは「(荒らし)」を無視しています   2008/ 6/13 7:18 [ No.148 ]
投稿者 : morikeigetu
はじめまして。

エールをありがとうございます。
こうしてご覧下さっている方がいらっしゃる以上、しっかりと続けていきたいと思います。
メッセージ 130 hn2602mk2 さんに対する返信

注:88以降、スパム投稿が続いたため、欠番でおじゃる。麻呂さん先を読まれるには、麻呂をクリックなされよ。

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