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退職後も輝いて!岡山県高校・障害児学校退職教職員の会

会報report

 

岡山高退教会報バックナンバー(ダイジェスト)


岡山県高校・障害児学校 退職教職員の会

〒703-8258
岡山市中区西川原255番地 西川原プラザ3f

TEL 086-272-2245

 目  次
                    
☆出会いとスケッチの旅 ロンドン編  備西支部 水間 正雄  

☆自己責任論と憲法 第2回      岡山支部 安東 誠  

☆思い出す             岡山支部 内田 恵子 

☆懐かしい方や思い出のシーンが…結成40周年記念動画
                 岡山支部 井上 俊清 


☆「家庭教育応援条例」の狙いは
おかやま教育文化センター 代表委員 旭東支部 田中 博 


☆山里の暮らし            備北支部 逸見 健治 

☆憲法とともに歩む人生  岡山高教組専従役員時代-その1- 岡山支部 小林 軍治 

☆書籍の紹介             美作支部 佐藤 静雄 

☆孫がやりました           旭東支部 岡田 憲朗   

☆編集後記                    編集部
 
 

出会いとスケッチの旅 ロンドン編
      備西支部 水間正雄


最初の海外旅行=ヨーロッパ4都市
これまで西洋を中心に、43カ国を旅してきました。最初の海外旅行は、1964東京オリンピックの年、操山高校での新採用から10年経った3月に、「どこへ転勤になっても可なら…」との条件で許可が出、29日間ヨーロッパ4都市(ロンドン、パリ、ジュネーブ、ローマ)のツアーに出かけました。
羽田からKLM(オランダ航空)でマニラ、バンコク、ニューデリー、ベイルート、アテネ、ローマ経由のアムステルダム着の南回り、そこで乗り換えてロンドン到着の長旅でした。帰途もKLMで、アムステルダム一泊、当時はソ連の上空が飛べないので北極周りのアンカレッジ経由で帰国しました。正に地球一周の旅でした。ヨーロッパでは、余り動き回らずに一都市に長期滞在する方法を取りました。
これから紹介するのは、その中での出会いのエピソードです。

機内や待合室も貴重な交流の場
各空港での乗り継ぎの待合室や機内でも楽しく交流しました。当時は、スチュワーデスに頼んだら操縦室に入れてもらえた時代です。パイロット席の後に立って会話もでき、広い窓から眼下に見える正面からの景色を楽しむことができました。操縦室を出た時、老夫婦がおられたので操縦室に案内したら、「2週間のツアーでこれが一番良かった」と感謝されました。
呑兵衛の私は、酒、ビール、ウイスキー、ワイン、カクテルなど手当たり次第に一晩中飲み明かしました。夜中にスチュワーデスと話をするのが嬉しく、銀座のクラブで過ごすよりもはるかに楽しいと思ったものです。
この時、特に役立ったのが記念切手で、これがきっかけで話が広がり、日本文化についての紹介なども出来ました。お返しとして、ウイスキーのミニチュア瓶や航空会社のグッズ・絵葉書ももらったりしました。
こういうことがあってからは、私は常に自作の「城や寺社の絵はがき」を携行し、これを名刺代わりに配るようになりました。話も盛り上がり、絵を通して日本に興味を持ってもらえます。こういうことの積み重ねが、インバウンドの一助になっているのではないかと「夢想すること無きにしも非ず」です。

ロンドンを歩き回る
この旅では、宮地先生(恩師・その後教育長)が集めて下さった岡山市のパンフレット・日本美術の記念切手、東京で教え子が作成してくれた英文名刺が大いに役立ちました。
ロンドン到着の翌日、機内で親しくなったイギリス人に教わった教育事務所に連絡を取ろうと、公衆電話にペンスのコインを落とし込みながら、必死に話しましたが、英語が未熟で通じません。そこで直接教育事務所を訪問すると、係の女性が夜間学校など4種類の学校訪問の予約を取り、紹介状も作ってくれました。
訪問した実業学校では、屋内プールでの授業を見学しました。その時「水着はセパレートでなければ自由な色でよい」と説明されたので、それを帰国後、美術の教員に話したところ、「日本の制服は派手を避けて、黒や紺だから色彩感覚が発達しないのだよ…」という言葉が返ってきました。東京オリンピック以来、スポーツウェアなどがカラフルになって来たにもかかわらず、学校関係はほぼ旧来通りでしたから、私なんかが「これからの制服は?」と考えるようになったきっかけの言葉でした。実際の変化はずっと後のことになりますが、日本の制服にも大きな変化が訪れたことは周知の通りです。
学校訪問の間を縫ってロンドンの町を歩き回りました。緑の公園の多い都市でしたが、その一方では、石炭の煙で煤けた建物群は正に「霧のロンドン」の印象そのものでした。朝霧の中、街中をランニングしたのも良い思い出です。
観光地としては特に以下のものが印象に残りました。

【タワーブリッジ】 


同じツアーの女性と、「霧のロンドンブリッジ」や「London Bridge is falling down・・・, My fair lady」を歌いながら橋を渡りました。この橋はタワーブリッジですが、ロンドンブリッジは、上流に見え、歌の内容とは違って近代的な橋に架け替えられていました。




         




  【バッキンガム宮殿


広大な緑の公園の中に、迎賓館のような大きな建物が聳えていました。
衛兵交代式では、黒人衛兵も交じっており、「太陽の沈まない大英帝国の名残りだろう」と思いました。










【ウィンザー城
】 
                                
訪問した時、 女王滞在中の旗が上がっていなかったため、入場することができました。
近くにある超エリ-トのイートン校も訪れました。生徒たちは、自由服の実業学校の生徒と違い、黒い角帽に黒いガウンを着て歩いていました。

           


【英国の国会議事堂とビックベン】


テームズ河畔の国会議事堂は、側にビッグベンと呼ばれ親しまれている時計塔が聳え立つ、歴史の重みを感じさせる建物でした。「キ-ン コン カ-ン コン…」という学校のチャイムの音色は、この時計塔が起源だそうです。










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自己責任論と憲法  第2回   岡山支部 安東 誠


2. 自己責任論は若者の社会認識・権利意識の発達を妨げる
 8月9日、「灘崎九条の会」が「九の日行動」の一環として実施した憲法学習会での、安東誠氏(高退教会員)による講演「自己責任論と憲法」の概略(安東氏作成のレジメ)を、前回に続いてご紹介します。

日本青少年研究所は,2003年,日・英・中3国の高校生対象の意識調査を行いました21世紀に入ってから「自己責任論の原則」の具体化がすすみ、子供たちの発達のひずみが深刻化していく時期の調査です。
調査項目は A「自分は駄目な人間と思うことがあるか」 B「計画をやり遂げる自信があるか」C「誇りに思えることがあるか」の3項目です。

A= ある(日73%・米48%・中37%) B=ある(日38%・米・86%・中74% )
C =ない(日53%・米24%・中23%)


以上の調査結果からしますと「自分は駄目な人間」が実に73%であることをはじめ B、Cの数字を総合的に見て、 日本の高校生は自己否定的な意識の強いことが注目されます。新自由主義による教育政策の改変によって競争が激化し、「自己責任論の原則」の具体化がこの調査結果の背景にあることは明らかだと思います。
自己責任論は、高校生の「自分は自分であって大丈夫」という自己肯定感 (自己信頼感)が自己の実現を 阻害しているのではないか。そして自立的な人間としてたしかな人間関係をつくっていく努力、自立的な集団としての営み (高校生としては自主活動)の中で、自己実現のための権利意識や批判精神、連帯感、正義感などが培われて、しっかりした社会認識が形づくられていくのではないか、などなどと考えます。
3.著名な識者の発言
コロナ禍の深刻化が一層強まり、国民の不安感がますます大きくなっています。この事態に対して多くの識者が鋭い発言をしていますが、ここでは著名な音楽家坂本龍一さんの発言の一部を紹介し、 多少の補足をしたいと思います。
 自己責任論が強烈に振りまかれたのは、2004年のイラクでの日本人人質事件だと思います。アメリカでさえ自国のジャーナリストが捕まれば救出に行きますよ。日本は危険なところに行った人が悪いと言わんばかりに突き放しました。2001年、小泉「構造改革」路線で竹中平蔵氏を起用し、労働者派遣法を緩和したり、「医療制度改革」などを行い、「派遣切り」や働いても生活できないワーキングプアの人たちが広がり、貧困と格差を広げてきました。貧困問題もコロナに感染しても自己責任。コロナに感染したら、まず、感染した人に手を差し伸べるのが普通の社会ですよ。歴代の自民党政権が、経済合理主義を推進し、自己責任を押し付けてきた。コロナがその問題をあぶりだしたのです。( 引用は「資本主義 を問うとき」 発言2021 赤旗 2021 1.3掲載)

                                
「聖域なき改革」=自己責任政治の強化
◎“小泉改革のもと、自己責任論が吹き荒れていた”〈映画監督 神山征二郎〉
◎竹中平蔵起用(徹底した自己責任論者)
◎派遣労働の拡大= 非正規労働者の急増「会社を自由に選択できる休みたい時に休むことができる自由な働き方」(キャッチフレーズ)

製造業現場・福祉事業 施設解禁など。
◎「医療制度改革」= 憲法25条の侵害、保健所の大削減・公立病院の統廃合など。
◎教育制度=“よい学校、悪い学校” 子供・親の自由選択拡大

  ■日本国憲法25条と27条
 <第25条> 
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 <第27条> 
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
(2)賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
(3)児童は、これを酷使してはならない。
 自己責任だ』蔓延する弱者敵視
甘えるな。ずるい。自己責任だ。そんな毛羽立った言葉を耳にすることが増えた。でも、それは自分たちの首を絞めるだけなのではないか。日本国憲法にうたわれる「生存権」を持ち出すまでもない。いつか自分も、指をさされる立場になるかも知れないのだから。(編集委員・真鍋弘樹)段ボールを組み立てた細長い箱に声をかけると、赤いフードをかぶった若い男性が顔を出した。「今年の冬の寒さは、きつかった」
4月中旬、埼玉県川口市で路上に寝泊まりする人たちに声をかけるボランティアに同行した。生活保護の申請を勧められても、男性はあいまいに首を振って再び紙の箱に潜り込んだ。
「生活保護を受けるのは悪と刷り込まれている」。見回りをしながら弁護士の小林哲彦さん(52)は小さな声で言った。ともに「反貧困」の活動を10年以上続ける藤田孝典さん(35)は近年、見知らぬ人から非難されることが増えたという。
『救う必要ない』貧困支援に批判
〈そんなヤツら、救う必要ない〉。ツイッターやメールで寄せられる意見の8割が批判的な意見だ。「以前は励ましが多かったが、貧困は本人のせいだという声が大きくなった。弱者に寄り添うことがしんどい」
 放置は社会損失
 助けを求めるのは甘え。そんな空気が社会に染み出したのは、14年前のあの出来事からだろうか。今井紀明さん(32)は当時の記憶が一部途切れている。イラク中部ファルージャ近郊で、他の2人と一緒に武装勢力に拘束された。解放されて帰国した後、「自己責任」という言葉が18歳の生身に降り注いだ。100通以上の手紙が自宅に届き、ネットでは6千件以上のメッセージが寄せられた。多くが非難や罵倒、ときには脅迫だった。
〈自分の考えで危険を承知でイラクへ行ったのなら、国を責めるのはお門違い。バカヤロウ〉
今井さんは、住所が明記されていた何通かの手紙に返事を書いた。見ず知らずの自分になぜ敵意を向けるのか、それを知りたくて。ある人から再び、返信が届いた。障害がある単身の高齢女性だった。〈私は甘えることなく、一人で何もかも全部やっています〉
バッシングを受けた経験から、自己責任のはざまに落ち込んだ若者たちを支えようと、今井さんは定時制高校の生徒らを支援するNPO「D×P」を始めた。「可能性のある若者に手を差し伸べずに放置すれば、社会全体の損失になる」
確かにそうだ。みんなで自己責任を振りかざせば、社会全体が沈んでいく。
それなのに、弱者に厳しい風潮は、世論や行政すら巻き込んで広がっている。
 生活保護に敵意
「保護なめんな(HOGO NAMENNA)」。そう書かれたジャンパーを神奈川県小田原市の生活保護担当職員らが着ていたことが昨年、発覚した。この問題に関し、市が設けた有識者らの検討会で座長を務めた井手英策・慶応大教授(財政社会学)は、全国から寄せられた投書を読んで驚いた。約2千件のうち、45%が「よくやった」と職員を擁護する意見だった。
「自分だって大変なのだから、生活保護を受けずに我慢しろ。そんな意識が根にある」。年収300万円未満の世帯が3分の1を占めるようになった日本社会で、経済的な弱者が別の弱者に敵意を向けている、と井手教授は分析している。(後略) 「朝日」2018.5.5

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思い出す    岡山支部 内田 恵子


かつて、マルクス・アウレリウス・アントニウスの『自省録』を読んだ時、この人はなぜ、こんなふうに自分に近い人たちのことを、それも断片的に書き続けるのだろうと不思議に思ったことがある。それが今、わかる気がしてきた。
年を重ねて過去の分量が多くなり、コロナ禍での自粛生活が拍車をかけるのか、いろいろな人の思い出が、それも断片的に浮かんでくるということが多くなったのだ。そして、その人たちから受け取った言葉が、どれだけ“私”を作ってくれたかということに気づき、胸が熱くなる。
たとえば父は、私が小学生の頃、友だちのお父さんが市会議員の選挙に出るということを聞いて帰り、「私だったら絶対嫌だ。ふうがわるいもん」と言った時、私の目を見ながら、「もし僕が一生懸命考えて、それが正しいと思って決心したことだったら、たとえ子どもでもそれを止めることはできないんだよ」と言った。
いつもは、“わし”と言う父が、その時は“僕”と言った。“子どもは純粋だ”といったフレーズを目にするたびに、私はあの日のことを思い出さずにいられない。少なくともあの日、“ふうが悪い”と言った私よりも、父の方がずっと純粋だった。
農林学校を出て満州に渡り、母と出会い、敗戦を迎えた。着のみ着のままで、一歳の長男を連れて引き上げ、赤貧の中で戦後を生きた。本が好きで、夕食の時には、里見八犬伝、桶狭間の戦、項羽と劉邦、紅はこべなどなど、さまざまな物語を私たち兄妹に語ってくれたものだ。
その父が、母とともに「世間体」というものとどれだけたたかわなければならなかったか、今の私には想像できる。そして、私たちもまた「同調圧力」「忖度」といった類の言葉がはばをきかす時代に生きていることを思う。
私は、父があの時、幼い私に正面から話してくれたことを、心からありがたく思っている。『自省録』とは行かないけれど、こうして書き残す機会をいただけて本当によかった。ありがとうございました。

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懐かしい方や思い出のシーンが…結成40周年記念動画
… 岡山支部 井上俊清

 やっと出来上がりました。DVD「岡山高退教結成40周年記念動画」をご家庭のビデオでごゆっくりご覧ください。きっと懐かしい方や思い出のシーンが…

 この動画は各3分ほどの8つのSceneをつないで作っており、全体で26分になっています。Scene1は「高退協誕生の頃」、Scene2は「20周年~30周年」、そしてScene3からは「平和&戦争法反対のとりくみ」「自然歴史探訪」「作品展」「真向法&長寿祝い会&支部交流会」「31~38回総会&中九学習交流会」「39~40回総会&エンディング」と続いています。画面左上のテロップにScene内容を表示していますので、部分的に見たい場合はそれを参考にしてください。

 

私事ですが、実はこのDVD作成期間中ずっと悩みもがく日々が続きました。“もがき”の中でなんとか一つひとつを乗り越えることができて、今はチャレンジしてよかったと喜んでいます。

 2020年7月開催予定だった「岡山高退教結成40周年記念式典」。その祝賀会の際に、進行係や出し物など祝賀会を盛り上げるのが不得手な私に他に何ができるのか…下準備の会で手を挙げたのがスライド作成・映写係でした。

 下準備の会の1年ほど前にAviutlアプリを使った動画作成を地域のパソコン勉強会で習ったことがありました。アプリの扱い方を忘れかけてはいましたが、「少し復習すれば何とかなるはず…」と安易に引き受けたのが“もがき”の始まり。

 AviutlアプリはPowerPointに較べてアニメーションやテロップ面でより多様な表現ができるのですが、システム設定が複雑で使い慣れていないととても扱いにくいものです。そのことをよく理解してなかったのです。
 引き受けてからは、YouTubeで繰り返し学習してAviutlの扱い方を思い出しつつ、先ずは動画作成に必要な材料を揃えていきました。
小林副会長から預かった「紙焼き写真」と「20周年記念号」の中から動画材料になりそうなページのスキャン。「作品展」「支部交流会」「総会」「戦争法反対のスナップ」など私が蓄えていた手持ち画像の整理とサイズダウン化。高退教のテーマソングといわれる「四季の歌」「緑の山河」のBGM探し、そして40周年にふさわしいクラシック音楽の選択とmp3化。
 さて、材料はほぼ集まりました。…が、勉強会で習ったのは1~2分の遊び程度の動画のみで、長編動画作成の経験はまったくありませんでした。20分間をどのような構成にすれば見る人が楽しめるのか…いい案が一向に浮かびません。そこでとりあえず数分間の短編試作品を作ってみようといじり始めました。ところが・・・やっと出来たと思って数日後に再生してみると、なんと!いくつかの画像がどこかに消え去っています。Aviutlのシステム設定が上手くできてなかったのです。出足からつまずいてしまいました。更にその後も次から次へとトラブルだらけ…トホホの連続でした。今何とかクリアーできてホッとしています。

 最近、記憶が薄れるスピードがどんどんと速まっています。やっとできるようになったことが半年はおろか2~3ヶ月も経つとできなくなる。困ったものですね。それを防ぐためにあちこちにメモだらけです。

 実は、この会報原稿もそう。3週間ほど前にスマホかPCのどこかに原稿案をメモっていたはずなのですが・・・いざ原稿を送る段になって一体どこにメモっていたのかが分からなくなって大慌て、丸一日あっちでもないこっちでもないと探し回ってやっと見つかりました。よかった!(汗)
 なお、動画作成にあたっての画像使用をそれぞれの方の了解を得ておりません。高退教会員内の内輪での視聴としますのでお許しください。申し訳ありません。お届けしたDVDのコピーはしないでください。ご注意願います。

         


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家庭教育応援条例」の狙いは
おかやま教育文化センタ―   代表委員 田中 博

家庭教育は,子どもをどのように育てるのか,どのような子どもに育てるのか という保護者(親)の生き方,思想の問題です。そこに公が介入するときは,家庭教育を国が求める方向,あるいは内容へと誘導していく危険があります。つまり,国が必要とする人間を家庭の中でつくれということになっていきます。こうした視点からみると岡山県議会で制定されようとしている「家庭教育応援条例」(仮称)には疑義があります。
疑義その1:憲法13条(個人の尊重)、19条(思想及び良心の自由)、24条(個人の尊厳と両性の本質的平等)に違反していないか。戦後の家族・家庭生活は憲法の条文が示す原則を基本的理念として営まれています。「子育て」も公権力(行政)が介入・指図することは許されません。しかし、2006年、安倍前政権による教育基本法の改訂(第10条:家庭教育)によって家庭への介入の危険性が高まりました。この改訂では、国家権力が教育内容に介入することを抑制する1947年教育基本法の10条を削除し、2条で「教育の目標」として掲げる「徳目」によって、憲法の保障する精神的自由が侵害される危険が大きくなっています。
疑義その2:条例の応援内容は、こども・保護者の要求・必要に応えているとは思えません。困難を抱えている家庭に応援は必要です。子どもには家族的なケアが必要です。でもそれは子どもの要求・必要に従って,その子どもの主体に従って,育てていけるように応援することではないでしょうか。それぞれの家庭の具体的な要求・必要を見定めることが重要ですが条例にはこれが欠けています。
疑義その3:この条例は「保護者の責任」(第1条)を謳い、国・自治体の責任は示していません。国は「家庭は『私的領域』だ」として,教育や子育てに対する公的責任を後退させ,教育費や福祉に関する公費負担を抑制してきました。お金のかかる子どもの貧困問題や待機児童問題が,なかなか解消に向かわないのはそのためだと思います。
現在までに9県6市で制定されている家庭教育支援条例や2017年に自民党が成立を目指した家庭教育支援法案の真の狙いは憲法24条の基本的理念を崩すことにありそうです。24条は戦前の家制度(家父長制)の法的解体、具体的には非惨な状態に置かれていた女性・子どもの解放のために設けられました。明治憲法への回帰をめざす日本会議など保守勢力は憲法9条を安保法制で骨抜きにしました。同じ手法で憲法24条の解体と戦前の家制度の復権を目指していると思われます。このことは日本会議のWebサイト「日本会議が目指すもの」を視れば明らかです。
以下、「『日本会議の研究』菅野完著:扶桑社新書2016年」の内容の一部を紹介します。
日本会議のめざすもの
 1,美しい伝統の国柄を明日の日本へ
 2,新しい時代にふさわしい新憲法を
 3,国の名誉と国民の命を守る政治を
 4,日本の感性をはぐくむ教育の創造を
 5,国の安全を高め世界への平和貢献を 
 6,共生共栄の心でむすぶ世界との友好を

 菅野氏は「6項目には説明文がついているがその内容は『皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが、昭和憲法がその阻害要因となっている。そのため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い、もって各国との共存共栄をはかる』と要約できる」としています。
 第3次安倍内閣閣僚19人のうち、安倍首相を筆頭に16人が日本会議国会議員懇談会のメンバーでした。家庭教育支援法案が不成立に終わったことを受けて、彼らは1947教育基本法改悪の手法に倣い、地方議会への請願行動など展開しています。ちなみに、岡山県議会は1947教育基本法の改正決議を全国で唯一3回行っています。

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山里の暮らし      備北支部 逸見健治

新型コロナウイルス感染症が始まって約1年8ヶ月が経ち未だ収束が見通せない今日この頃ですが、何か原稿をとのことで行動制限があり何もないので我が輩の近況報告になりますがご容赦下さい。興味のない方はスルーして下さい。
我が輩の一日の始まりは交通警察協助員の午前7時から8時頃までの生徒児童の見守りと交通安全指導で始まります。その後ほぼ毎日我が家から南へ25km離れた標高360メートルに生家がある新見市草間に通勤農業をしています。

新見市の最南部で高梁市との境で行政区は新見市、買い物や病院など生活圏は高梁市で、小学校区は山田方谷で有名な高梁市中井町の中井小学校です。中学校は廃校になり高梁北中学校が校区になります。石灰岩地帯特有のドリーネの中に21戸になる集落が形成されていましたが、現在常時住んでいる家は3戸と限界集落です。よって学生はいません。以前は新見市でも一番美味しい桃の一大産地として有名でした。我が家も葉たばこから桃に転換し、多くの桃を収穫し出荷をしていましたが現在は栽培していません。最近は桃からブドウ類の生産が主になっています。現在、桃やブドウ類を生産している人達はすべて地元出身の通い農業者です。先祖から受け継いだ畑を守るべく、岡山市、倉敷市、総社市、高梁市、津山市などの遠くから毎日通勤して手入れや収穫をされています。よって昼間の人口と夜の人口の差が多くあります。
 私は何をしていること言うと、7月までは高齢の父の介護と野菜作りが主で、8月に父が他界し先祖から受け継いだ畑に自家消費用野菜や、少しですがミカン、キンカンなどの柑橘類や栗、柿なども作っています。最近はトマト、トウモロコシ、スイカ、カボチャなど、収穫時期が近くなるとカラスが食べにきます。サツマイモやジャガイモなど芋類やカボチャはイノシシが一晩のうちに食べ尽くしてしまいます。そのほか狸やハクビシン、イタチなど害獣の宝庫ですが、なぜか今のところ猿の被害はありませんので野菜作りの意欲は減退していません。とりあえず自分で作った野菜の味は格別です。作っている野菜は、ジャガイモ、ニンジン、大根、ゴボウ、蕪、サツマイモ、菊芋、ラッキョウなどの根菜類、キャベツ、レタス、パクチー、小松菜、春菊、水菜、白菜、ネギ、玉葱、ニラ、パクチーなどの葉菜類、きゅうり、なす、インゲン豆、グリーンピース、トマト、トウモロコシ、スイカ、イチゴ、カボチャ、ピーマン、枝豆などの果菜類を栽培していますが、最近は温暖化の影響で害虫が異常に発生します。よって無農薬栽培とはいきませんので多少農薬のお世話になっています。自家栽培の野菜はいずれも非常に美味で孫達も喜んで食べてくれます(^o^)。余ればご近所におすそわけをしています(迷惑かも)。
 さて我が輩の害獣対策は電気柵、スチール製の柵です。いずれもイノシシなどは入ってきませんが、お空からは攻撃されますのでネットを張っています。これだけ対策しておくとまず大丈夫で収穫することができ食卓に出てきます。
そのほか大変なのは草刈りです。一週間もすると草が伸びてくるので刈り払い機での作業が毎日のようにあります。草刈りばかりやっていても仕方がないので、いろいろなものを植えることになります。そんなこんなで一日が終わり25km離れた我が家に帰ることになります。昔と違って何を作っても相当手数やコストが必要な時代です。にもかかわらず値段はあまり変わっていないので農家は大変ですね。このままでは農業を続ける人がいなくなります。今年の米価は非常に安いそうで米作りもやめていく人が増えそうです。そのうち困ることになりそうな気がしますが国も何とか対策を考えていかないと・・・。
次に、話は変わりますが最近感激したことがあります。雨が降る日は農作業ができないし、コロナ禍でどこにも出かけることができないので、11年前の古いノートPCの処理スピードが遅いのでHDDをSSDに交換したらスピードアップがはかれるのではないかと思い挑戦してみました。
 11年前のノートPCのスペックは、OSがWINDOWS7からwindows10にアップグレードしたものでCPUはCOREi5、メインメモリ4GBのdynabookです。最近はSSDもかなり安くなり500GBが7000円くらいで購入できます。我が輩はネットショップで購入しました。換装は簡単で現在使用中のHDDを購入したSSDにUSB接続し丸ごとコピーし今使っているHDDを外しコピーしたSSDに付け替えるだけで完了します。古いノートPCがHDDの交換だけで爆速になり感激しました。2019年製のノートPCと全くひけをとらないくらいの動きをしています。新しく購入しなくても今しばらく快適に動作をしてくれるものと思っています。動作に不満がある方はトライしてみてもいいかなと思います。
 最後までつたない文章をお読み頂き誠に有難うございました。
END


※SSDはSolid State Drive(ソリッド・ステート・ドライブ)の略で、HDDと同じように使える記憶装置です。(駆動部分(モータ)や読み書きヘッドはありません)
HDDは回転する円盤に磁気でデータを読み書きしていますが、SSDはUSBメモリーと同じように内蔵しているメモリーチップにデータの読み書きをしています。
 SSDもUSBメモリーと同じで寿命があります。永久的には使えないかと思います。

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憲法とともに歩む人生    岡山高教組専従役員時代-その1-
岡山支部 小林軍治


 私は、備南高校時代の項で述べたように、高校生部落研活動や組合活動に全力で取り組んでいた。こうした私の活動が、当時高教組の副委員長をしていた長岡先生の目に留まり、組合本部に来ないかと声をかけられた。三宅通明先生の現場復帰にともない、本部書記局へ。
 本部専従役員として勤務したのは、1975年4月から80年3月までの5年間である。この間、佐藤・八木原委員長、長岡副委員長及び妹尾・高垣・竹内書記長らと一緒に仕事をした。
この時期は、岡山高教組運動史(1)の第4部(1973年~80年度)の「新たな運動をめざして」に詳しく書かれている。一部を抜粋して紹介する。
 73年から76年頃の日高教・岡山高教組は、中教審路線に基づく、教育の国家統制と学校の多様化による差別・選別の強化に対して、父母・国民と連帯して民主主義教育擁護のたたかいを中心に運動をすすめていた。特に、反弾圧のたたかいと結んだ権利闘争や、就職差別撤廃運動、高校生の部落研活動を核とした自主活動と進路保障が大きく前進した時期である。
 74年11月の「八鹿高校事件」では、部落解放同盟朝田派の暴力に反対し、民主(同和)教育と高校生部落研活動の正しい発展をはかった。
 75年からは主任制度反対など、教育闘争をすすめた。
 76年春闘からは「教育とくらしと地方自治をまもる大運動」を展開し、主任制度化・手当阻止とともに、教育荒廃を克服する民主的学校づくりにとりくみ、父母・住民との連帯をはかりつつ、地域に根ざす教育運動をねばり強くすすめた。

  新たなたたかいの発展をめざして
 全一日ストを提起してとりくんだ、74春闘直後の6月、秋田で開かれた日高教の定期大会は、これまでの諸闘争のあり方をめぐって熱のこもった討論が行われた。
 討論を受けた執行部は、これまでのストライキを中心とした闘争が組合員の権利意識と団結を高め、経済的な要求では一定の前進と評価しつつも、スト権奪還、教育悪法阻止などの制度的な要求では何らの基本的な譲歩もかちとることができなかったことをふまえ、次のような方針を提起した。
 ①国民的諸課題と結合して、父母・国民の理解と支持を求める。
 ②労働基本権と生徒の学習権の保障
 ③職場に労働組合を確立するために組合民主主義の充実
 岡山高教組もこれを受けて、これまでの運動の総括をおこない、たたかいの新たな発展をめざす方針を次のように提起した。
 ①職場に労働組合を確立し、実力行使をはじめとする諸行動に圧倒的多数の組合員の結集をめざします。
 ②たたかいを組織しすすめるうえでの、組合民主主義の確立につとめます。
 ③職場に基礎をおいた自主的で民主的な教育研究活動を強化します。
 ④国民的諸要求・課題については、父母・国民と連帯してたたかいをすすめます。とりわけ教育課題については、父母・国民とともにたたかいをすすめ、私達のたたかいへの理解と支持を拡大していきます。
 ⑤私達の掲げる諸要求・諸課題の実現をはかるため広範な勤労国民との連帯・共闘をはかりつつ、革新統一戦線の強化と国政革新をめざして奮闘します。
 この新しい方針は、教育荒廃が深刻なものとなり、父母・国民の教育に対する不安や不満がひろがり教育要求が高まるなかで自民党・政府文部省が、荒廃の責任を教職員に転嫁し、父母・国民と教職員を分断する政策・宣伝を強めてきたもとで、提起された。
 75春闘で日高教は、地方財政危機を打開し教育条件の整備を求める50万署名を提起し、岡山高教組も、岡山・倉敷・津山の三会場で全県全組合員総決起集会を開き、地域宣伝、署名活動にとりくんだ。また、父母・地域住民との連帯を強化するため「教育を語る会」が、県下各地で百回以上開催された。さらに、職場を基礎とした教育荒廃克服のとりくみも前進した。
 本部での私の最初の仕事は、75春闘のビラを作ることであった。前年のビラを参考にしながら作ったが、きたない字で、レイアウトも平凡で、受け取った妹尾書記長は、「これはダメだ」と言わんばかりの表情をされた。私は、これまで「情熱と勢い」で前へ前へと突き進んできたが、教育技術力の欠如を思い知らされた。たいへんな所へきたと思った。役員と書記のみなさんに助けられながら仕事をしていった。
 組合本部は、私を教育技術(書く力・話す力・読む力・聞く力)の大切さを教え、身に付ける必要性を痛感させる場となった。
 本部役員・書記のみなさんは、人間的にも個性豊かな人が多く、いろいろと学ぶことが多かった。ここでは、妹尾書記長について、岡山南高校の職場研修誌『南風』(1991年1月の創刊号)より、一部紹介する。
 私が、高教組本部専従役員として入局したのは、1975年なので、妹尾先生に指導されたのは、76年4月、現場(岡山南高校)に復帰されるまでの1年間である。
 先生は、74年、75年と2年間書記長として、組合員の中にある「戦術ダウンではないか」「これまで実力行使に参加した者がバカをみることにならないか」などの、“新たなたたかい”に対する疑念や不安に、「かんでふくめるように」説明され、この方針の具体化のために全力でとりくんでこられた。
 この妹尾先生を中心とした、新たな方針の具体化は、その後、教育三課題(①荒廃克服の教育実践②学校運営の民主化③父母・地域住民との連帯)と称され、今日まで引き継がれている。「35人以下学級実現」の教育大署名運動も、こうした積み重ねの上でとりくまれているものである。
 1年という短い期間でしたが、先生からは、組合員として、教師として、多くのことを学んだ。その中でも次の三点は、今日でも大切にしている。
 ①会議での発言や文章を書くときは、まず主題をはっきりさせ、できるだけ誇大な形容や感情的にならず、何が言いたいかを客観的に述べること。
 ②運動方針をたて、すすめていく上で常に頭におかなければならないことは、平均的な組合員がどう受け止めるているかということだ。けっして先進的な面だけに目を奪われて、全体的に物事を見ることを忘れないこと。
 ③県教委との交渉や他団体との共闘をすすめるさいには、対等・平等の立場を重視すること。
 県教委との交渉では、出席者は、教育長が出れば委員長、学事課長なら書記長、また合意文書を交換するさいの宛名も同様に対等の立場で臨むことが、3300人の組合員の利益を守ることになると、よく言われていた。さしずめ職場では、校長と分会長、教頭と評議委員で職場交渉が対等の立場でおこなわれていることが、民主的な学校運営にとっては、きわめて重要なことである。
 先生の人柄については、一言でいうとクールで感情的にならず、全体の動きをよく見て方針を立て実行するタイプである。ときには、冷たく、何か運動についても先が見えすぎて、本気になってないのではと、批判を受けたこともある。先生の冷静な判断は、私のように感情的、感覚的な人間にとっては、大変な魅力であった。
 岡山南高校での5年間は、生徒指導や民主(同和)教育などについて多くのことを学んだ。とりわけ、亡くなられた年(1989年)の5月2日の「憲法記念行事」で、基本的人権と平和の大切さを力説された声は、今でも忘れることが出来ません。後に残された者として平和・人権教育の推進のために、がんばらなければと決意を新たにしていた。

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 次号では、八木原委員長との交流を中心に書いていきたい。

書籍の紹介          美作支部 佐藤静雄



 手記『満州開拓団棄民の私』著者福田茂子
 今から76年前の敗戦時、国の「棄民政策」によって旧満州(中国東北部)にとり残された入植者は、凄惨な逃避行を強いられました。中国に残らざるを得なかった子どもや女性も多く、後に日本への帰国を果たした人も、苦難は長く続きました。痛苦の体験をつづった手記です。
和歌山県白浜町に住む福田茂子さん(90)。1930年、和歌山県に生まれ、42年に旧満州吉林省に渡ります。2年半後の敗戦・逃避行、家族を失い中国人に引き取られます。30年後の1976年7月、一時帰国。
 全135ページの手記は、中国での体験が半分。残りの半分は、一時帰国以降の体験です。
 初版の300部は、出版から2週間で完売。その後「読後文」などを加えた簡易製本版を制作。購入希望の方は、84円切手10枚同封で、〒646-0023 和歌山県田辺市文里2の10の27 田辺顕平さんまでお願いします。                     (『赤旗』より)

 この本は、個人の手記であり、壮絶な記録です。心を深くえぐられました。ぜひ多くの人に目を通していただきたいと思って紹介します。

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孫がやりました              旭東支部 岡田憲朗

 釣りの話です。以前『赤旗』に載せていただいた記事を書き直しました。 
7月24日(土)、瀬戸内市の子父雁港で娘一家(両親と5歳の孫娘)と私の4人で夜釣りを楽しみました。子父雁港は私のホームグランドの一つで車で30分くらいです。いつもは外の石波止でやるのですが、今回は孫娘がいるので、トイレも近く足場のよい港の中の小さい波止で釣ることにしました。仕掛けは、のべ竿に糸と針、小さなオモリを付けただけのシンプルなものです。いわゆる探り釣りです。餌はシラサエビを使いました。
 娘と孫の竿と仕掛けを準備して、私は二人の餌付けなどの世話係です。婿殿はルアーフィッシングです。午後7時前に始めて、10センチ前後のカサゴや餌取りのフグがポツポツ釣れました。孫は時々竿を上げます。コツンというアタリがあったと言いますが、魚はついていません。餌取りの仕業でしょう。しばらくすると、飽いたのか私に竿を渡します。お菓子を食べたり、ジュースを飲んだりしていました。
 そのうち、大きな月も出てきて、そろそろ終わりだからと、再び孫に竿を持たせました。しばらくするといきなり竿先が引き込まれました。「じいちゃん」と言って竿を渡します。私が竿を持つと、よく引きます。少し突っ込まれたり走られたりして、網に入れようとしましたが、魚が暴れてなかなか入りません。なんとか網に入れて、波止に上げてみるとの大きなハネです。40㎝は超えていると思いました。後で測ると46㎝ありました。大人達は小さいカサゴしか釣れなかったので、孫は大興奮と大得意です。竿の持ち方、角度、仕掛けの位置などなど得意気に話してくれましたが、一瞬引き込まれるのではないかと思って少し怖かったそうです。釣りガール誕生です。まだ釣りたいと言いますが、これで終了にしました。車に乗るとすぐに眠ってしまいました。
 翌日、魚拓を取ってから調理しました。ハネは、刺身と塩焼きに、カサゴは唐揚げにしておいしくいただきました。孫は魚の目玉と頬の肉が好物です。後日、釣りの極意を教えてくれました。1.竿は動かさない、2.おしゃべりしない、3.釣れた時のイメージを3回繰り返す、だそうです。今から大口をたたくのは、釣り人の素質十分です。そのうちいい弟子になってくれればいいのですが。
※ハネ・・出世魚であるスズキの幼魚。40㎝までをセイゴ、60㎝までをハネ、それ以上をスズキと呼びます。

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編集後記

*キンモクセイの花がいい香りを漂わせています。今年も、支部交流会・自然歴史探訪・総会・作品展・・・すべての行事ができませんでした。新型コロナの感染に怯えながら、菅政権への怒りがくすぶっています。新しい総理も同じ穴のなんとかのようで期待はできそうにありません。政権を交代させましょう。*今回編集の当番になって、行事のない中で記事が集まるだろうかろ心配していましたが、全く杞憂でした。原稿を寄せてくださった方々に改めて御礼を申し上げます。*入力をしてくださった、藤原事務局長と山本先生にも御礼を申し上げます。*今回が二度目の編集ですが、なかなかうまくできません。お詫びします。*私の釣りは趣味と言うよりも生活の一部になっています。空のクーラーを提げて帰ることもありますが、リフレッシュと食材確保のために、週に一度は潮風にあたりに行っています。 (岡田憲朗)♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

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