広島市役所と原爆被害 5
翌 七 日 救 援 活 動 の 開 始
■羅災証明書の発行
原爆が投下された翌日、7日は晴天だった。前夜、表庭の芝生の上で仮眠した迫田係長は逃げ遅れた人々とともに目を覚ました。隣で寝ていた人がもう冷たくなっていた。治療を受けることもなく、一夜のうちに死んだ人が多く目についた。
一夜あけると、羅災者らが続々と詰めかけてきた。集まっているだけの職員で、正面北側入口の前(車庫跡)に焼け残った防衛本部室(防衛課)から机や椅子を引きずり出し、防衛課長印を使って、職員安否の連絡や羅災証明書の発行などの事務を始めた。
庁舎は一日で惨めな残骸となり果て、おびただしい灰と種々雑多な物が廊下一面に堆積し、各所から異様な叫び声やうめき声が聞こえていた。
■食糧の配給
6日の夜、田窪主事と一緒に大河の姉の家に泊まった浜井課長は、翌7日登庁すると、もう救援の握り飯が到着していて、谷山部長が一人でてんてこ舞いの最中だった。直ちに握り飯の配給にかかり、町内会や職場の関係で代表者をたてて取りにくる者には必要数を調べて渡した。路傍に倒れて救援を待っている市民には、トラックで配って歩いた。
■第二総軍司令部の会議
7日、午後1時頃、第二総軍司令部から、諸官庁の首脳に、二葉山の〇号防空壕に集合するようにとの布令が来た。市から中原考査役と浜井課長、佐々木主事、伊藤清掃課長が出席。この会議で市民に奮起するように張り紙で布告することが定められた。
■家族の介護も必要だったが
再び市役所に帰ったとき、浜井課長は義父が全身火傷したという伝言文を受け取ったが帰らず、配給活動に日暮れまで従事し、ついに死に目にもあえなかった。
自宅で被爆した伊藤清掃係長は、防空本部の救護班長もかねていた責任から、重傷の老母と妻を千田町清掃事務所に連れていき、被爆当日の午後5時ごろ登庁したが、職員は4〜5人しかおらず、救急作業も出来なかった。
翌7日、再び登庁して焼け残った保健課から救急薬品を持ち出し、庁舎内のあちこちに寝ころんで唸っている一般市民や職員の負傷者の応急手当をして回った。
■柴田助役の登庁
中村秘書が安否不明の柴田助役を探しに行ったのは7日8時過ぎだった。市長の安否不明や職員の死傷者、庁舎の炎上などについて実状を説明し、歩行困難な助役を、助役の息子と二人で、支えるように登庁したのが昼前だった。このころすでに20人ばかりの吏員が集まっていた。
■粟屋市長を荼毘に付す
登庁した柴田助役は、まず粟屋市長を捜すことにし、6日夜庁舎前庭で野宿した黒瀬収入役を公舎に向かわせた結果、死亡したことがわかった。午後2時頃、伊藤清掃課長ほか3人の職員が市長の遺体の確認と収容を行った。本庁に運ばれた市長を柴田助役も確認し、現在の市庁舎裏にあった児童公園で荼毘にふした。
庁舎玄関や廊下の一部に避難していた一般の負傷者5〜60人は、7日中にほとんど、暁部隊※が担架で広島赤十字病院に運んだ。 粟屋市長の被爆死により、森下助役が、7日、市長執務代理者に就任した。
■呉市役所からの応援
7日午後、呉市役所から溝辺助役をはじめ30人余りの職員が応援に駆けつけてくれ、羅災証明書の交付や尋ね人の相談などを手伝った。
同日午後3時頃、宇品の陸軍船舶司令部司令官の佐伯中将が広島地区警備司令官に任命され、庁舎前庭で救援を指揮していた森下助役に連絡に来た。佐伯中将から「今晩から明朝にかけて、島根県部隊と暁部隊の一部が広島に到着する」との話があり、ようやく災害対策の糸口が見つかった。
※暁部隊 広島市南部の宇品地区に拠点を置いていた陸軍の部隊(文中の陸軍船舶司令部の通称)。爆心地から離れていたため、組織が維持され、佐伯中将の指揮のもと直後から救援活動に動いた。被爆証言などで度々登場する名称。
救援活動にあたった兵士は、間接放射線を大量に浴び、放射線障害によって亡くなったり体調を崩すなど、原爆の被害者ともなった。
