広島市役所と原爆被害 6

救 護 活 動 の 開 始

 当面の対策を協議
 市長執務代行者となった森下助役は、生き残った幹部と役所の前庭で協議した。
一 食糧は郡部町村から三日間は送ってくれる協定があるから成り行きに任す 
一 来援の軍隊は、一隊は負傷者と死体の収容にあたり、一隊は交通に支障のないよう散乱物を整理・啓開してもらう。死体の収容・焼却は各班ごとに男女別・大人子供別・推定年齢・死体のあった場所などを記した古新聞紙袋に遺骨を納め、市役所に安置する。
一 船舶司令部の戦闘指揮所は、市役所南側の広場に幕舎を建てて駐屯する。
 翌八日から佐伯司令官の名で、毎日午後一時、軍、県、鉄道、逓信、その他の生き残った首脳部の連絡会議を開き、ことを処理していくようになった。森下助役は二〜三日後から原爆症を発し登庁できなくなった。
 
 配水の確保
 基町の水道庁舎は灰燼に帰したが、一日最高一〇万六千立法bの給水能力があった牛田の浄水場は火災を免れ、致命的な損害はなかった。しかし、被爆と同時に停電し送水ポンプ施設なども破損、送水できない状態になった。

 浄水場裏山中腹の配水池には貯水量約一万四千五百立法bを保有し配水していたが、正午近くに殆どなくなり、濾過池から揚水しなければ給水が停止する状態になった。そこで直ちに予備の内燃機送水ポンプを応急修理、一台は午後二時頃から運転開始、残り二台も夕方には運転でき、一日四万二千立法bの配水ができるようになった。
 食糧配給の本格化

 他地方からの救援や軍の援助のみに頼るわけにはいかず、柴田助役は市金庫勧業銀行広島支店に交渉し、八日頃、五万円を借入れ、行政活動の資金とした。
 食糧配給は、周辺町村の婦人会の人々が炊き出す握り飯を羅災者に配るのが当面の仕事だった。市の防空その他災害対策で、万一の場合、佐伯・安佐・安芸・高田の各郡から三日間、毎日必要数量の握り飯や野菜類を広島市に配給し、後で精算支払いをすることになっていたが、三日間を遙かに越え十日間に及んだ。市が直接配給を開始したのは、軍の備蓄していた食糧・備品・消耗品などを確保した八月十五日以降だった。主食配給業務は食糧営団の職員が役所に出向して行った。
  医療救護の開始  

 災害直後、食糧配給と同等に緊急処理を要する重要な問題は傷害者の医療救護だったが、市内の医療施設は赤十字病院、逓信病院、三菱造船所の病院、陸軍共済病院の四つ、第一陸軍病院江波分院、似島の暁部隊の病院をのぞき壊滅。市内の開業医も大半は死亡・活動不能に陥った。医療資材も薬品も殆ど消失、一瞬の大量の患者には手の施しようもなく、各地の医療救護班の出動を待つほかなかった。
  庁舎内に負傷者の収容  
 
 八日、火災のほとぼりも冷め、庁舎内に入れるようになった。次々に訪れる負傷者を、戸籍課と会計課を救護所として床に荒ムシロを敷いて三〇人ばかり収容した。毎日四〜五人死んでいったが、四〜五人ずつ新しく収容され、その数はいっこうに減らなかった。

 九日頃、鳥取の赤十字病院から医師・看護婦が各々数人ずつ来援、負傷者も職員も大いに力づけられた。広島赤十字病院に収容されていた市の職員二〜三人をこちらに移した。鳥取の医療班は四日間いて引き揚げた。一三日頃、袋町国民学校の校舎を清掃して収容者全員を移した。  
 負傷者治療の本格化

 九日頃には、各地の医師や看護婦の救援が次第に増え、市は被服廠・兵器廠などの軍の施設をはじめ、焼け残った国民学校などおよそ雨露をしのげる公共建物はすべて急設救護所にあて、ようやく本格的に負傷者の治療を開始した。
 二日目以後は主として軍隊が主要道路を啓開し、自動車その他の交通が可能になった。市役所その他の清掃も軍隊が行った。
 
 遺体の焼却  

 当初二〜三日は、夜間の再空襲を考慮して、市中での死体焼却は禁ぜられた。しかし、暑い季節であったから長く放置できず、また、全部を他に運び出すこともできないので、三日目以後方針を変更し、市庁舎周辺は市職員一〇人位が中心で作業し、他の市内各所では、暁部隊や近郊から来援した警防団などによって死体の処理が行われた。



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