広島市役所と原爆被害 その四

公 会 堂 の 池 に 避 難

  ■多くの職員は池に避難

 被爆した職員の多くは、猛火を避けて、庁舎北側の疎開解体した公会堂跡の庭園内池辺に集まった。統計課雇員の秋山も、庁内に火が廻り逃げ場を失い、公会堂の池の中に避難した。しかし火の粉が容赦なく降りかかり、夏布団を頭にかぶっていた娘に頼み、もう一人の同僚と共に布団の下に入れてもらった。そのとき、雨が断続的に降り始めた。
 池の周囲は、数日前から職員が交替で家屋取り壊しや後片づけにあたっていたが、残っていた柱などが炎上した。

  ■旋風が避難者を襲う

 池は泥沼のようであった。もう沢山の人がその中に入っていたが、援護課の喜多もその中にズルズルと入り込んだ。安心する間もなく大きな旋風が巻き起こり、もの凄い力で避難者を泥水にたたき込んでいった。旋風は二度まで襲い、みんな泥んこになった。泥水の中に浸っていることが耐えられなくなり、池の端に這い上がったが、そこに横たわったまま動けなくなった。

 ■周辺から市庁舎に避難

 炸裂直後、市役所周辺で建物疎開作業をしていた県立第一中学校や修道中学校などの学徒、国民義勇隊の人々が市庁舎になだれ込んできた。しかし、市庁舎が火炎に包まれると、歩けるものは皆逃げ出していった。

 猛火終息後、庁舎の地下室の焼け残った南側通路の壁には、誰々生存、誰それ死亡、どこに避難するなど、避難者が棒きれや消し炭で書き付けた伝言が残されていた。これらの書き置きは、本人が書いたものと共に、市 の伊藤清掃係長らが、重傷者から聞き取って書き付けたものもあった。

 ■池の周囲に 百数十の負傷者

 池の周囲に逃げてきたものは個々に去っていったが、なお沢山の避難者が残っていた。皆、動きのとれない負傷者で、苦痛に耐えかねて救いを求め、泣き叫んでいた。
 庁舎南側沿いに弁当を置いていた県立第一中学校の生徒二〇〜三〇人は、作業に移る前の点呼中に被爆、火傷し、「お母さん」と声の限りに呼びながら芝生の上で一夜を明 かした。夜が来ても、池の周囲に集まっている百数十に上る負傷者は、皆、傷の痛みでうなっていた。静かと思えば、すでに死んでいるのだった。
 全市はなお赤々と燃え、空は真昼のように明るかった。熱風が時折負傷者たちの頬を打ってきた。

 ■粟屋市長の死亡

 粟屋市長は、五日夜半の空襲警報で登庁し、六日午前二時頃、警報解除後、仮眠に公舎に帰っていて被爆、倒壊した建物の下敷きとなり焼死。
 柴田助役は、同警報解除後、中広の自宅に戻っていて被爆、家屋の下敷きとなったが幸い脱出した。ひどい打撲傷で歩行できず、六日夜は近くの防空壕に避難した。
 黒瀬収入役は、市役所前で座り込んでいる処を野田課長 に会っている。ガラスの破片によるかなりの傷で出血多量の様子だった。赤十字病院に行くことを進められている。

  ■水道部壊滅

 水道部庁舎は基町にあり、当時職員は一五五名だった。爆心地から六百b余の近距離のため、庁内で被爆した職員は全滅した。炸裂下の状況は不明である。翌七日の庁舎跡は木造庁舎・倉庫は壊滅し、鉄骨の残骸が飴のように曲がって地を這い、焼けただれた死体が散乱していた。浜田経理課運転手が死体を確認し、二一体(男一七体、女四体)のうち二〇体は水道部の職員だと分かっている。なお、水道部職員のうち、被爆による死者は八三人だった。

 

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