新聞掲載記事より

 


1996年11月7日〜11日

朝日新聞連載

「ホロコーストを生きる」

 第一回国際ホロコースト教育者会議が、10月14日からの4日間エルサレムであり、日本からはホロコースト記念館館長・大塚信とスタッフの牧師佐藤丈夫さんが招かれた。会議後、イスラエルを含め2週間にわたって、ナチスの侵略を受けた6カ国を回った。これはその視察記である。

1.国際会議
2.ゲットー
3.杉原千畝
4.自由を求めて
5.デンマーク


 
国際会議
 エルサレムで開催された第1回ホロコースト教育者会議に出席した。ドイツ、ポーランド、ロシア、アメリカをはじめ、20ヵ国300人の教育者たちが、ヤド・バシェム(600万人追悼記念館)に集まった。
 アウシュビッツをはじめ、900ヵ所にも及ぶ収容所が開放されて50年が過ぎた。21世紀を目前に控え、亡くなっていく生還者たち。歴史の事実を風化させてはならない、との気持ちが国際会議開催に至らせた。
 ホロコーストは今世紀、いや有史以来の悲劇である。その広大な地域、犠牲者数、残虐性、特に子供たちをもターゲットとした大虐殺。ホロコーストの事実をいかに21世紀に伝え、教えていくのか。開場は初日から熱い意見が飛びかった。各国のユニークな教材発表、教育カリキュラムなど、昨年誕生したばかりの福山ホロコースト記念館にとって有意義かつ収穫豊かな会議となった。
 3日目に、アジアで最初にオープンした記念館の紹介、成果を発表する機会を30分いただいた。
 26年前のホロコーストとの最初に出合い、すなわちアンネの父、オットー・フランク氏と出会ったこと。福山で開催したアンネ・フランク展、広島の地で、今平和への新たな学びが、ホロコーストを通して始まったこと。子供たちにも共感してもらうように、展示が工夫されていること、など。続いて記念館の内部の紹介と、実際訪れている生徒たちの学習ぶりを撮ったビデオを放映した。発表が終わると大きな歓声がおこり、国際的にも小さな記念館が仲間入りしたことを実感した。4日間の期間中、海外5カ国向けのテレビに出演、各国の新聞社からのインタビューを受け、関心の高さを痛感した。
 欧米においては、ホロコーストはあらゆる分野で大きな関心を呼び、学校や教育センターでは定期的な生還者との対話などがカリキュラムの中で定着している。被害者、加害者というセンチメンタルな領域を超えて、歴史の事実を学ぶ試みがドイツなどでは積極的になされている。モスクワではホロコースト博物館をつくる動きがある。
 記念館を福山に開設して以来、「ホロコーストを学ぶことは、日本人にとって、差別、偏見、いじめ問題の本質に迫る有効な手段となる」と感じてきた。ホロコーストは「人間とは何か」を人類に問いかける。
 この度、国際会議に出席し、より深くホロコーストを学び直したいとの新たな挑戦がはじまったように思う。会議終了後、スイス、スウェーデン、デンマーク、ラトビア、リトアニアを訪れ、その地のゲットー、収容所、博物館、また生還者との出会いを多く体験した。これらを、これからの記念館の発展のため、大いに活用していきたいと思う。
 「過去を忘れず、未来を展望しよう」─ワルシャワゲットーに収容されたユダヤ人たちにとって、生きる糧となった言葉だ。
                  (1996年11月7日掲載)
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ゲットー
 ホロコーストの最大の悲劇は、150万人もの子供たちの生命が、明らかな意図をもって奪われた点にある。子供の生命を絶つことは将来を断つこと、無限の可能性の喪失を意味する。
 ゲットーで教師たちは、移送される直前まで、万が一の生還に備えて子供たちに学びを与えていた。ワルシャワゲットーのコルチャックやテレジン収容所のフリードルら、抑圧された死の恐怖の中で彼らは精神の自由を説いた。
 会議後、ホロコーストの子供たちの足跡をたどって6カ国を歴訪した。特にリトアニアとラトビアで強い印象を受けた。この両国はホロコーストによって9割以上のユダヤ人が犠牲となった地である。ホロコーストの後もソ連邦の圧制を受け、やっと数年前に解放された地である。
 記念館に当時の資料を多く提供して下さっている、イスラエルのゲットー博物館の事務局長ビニアミン・アノリック氏を訪れた。氏は少年時代をリトアニアのビルナゲットーで過ごし、エストニアの収容所を転々とし、クローガ収容所で終戦を迎えた経験をもつ。
 アノリック氏たちは博物館に付属してヤッド・ライェレッド(子供の記念館)を新たにオープンさせた。この記念館は9歳以上の子供や大人たちに、ホロコーストを体感できるように工夫がなされている。ゲットーの子供が書いた「もうここにチョウはいない」という詩をモチーフにしたステンドグラスが印象的である。
 この記念館を作った動機は、ゲットー内で飢えと寒さに震えながら、かつてのバイオリンの先生をひたすら探し、若い生命を絶たれていった少年の夢を実現させたいとの願いに由来している。当時の子供たちの思い、希望などが自然と心に響いてくる。ふと現実に戻ると、3つの部屋に招かれる。絵画室、衣装室、詩や文章を創作する部屋。子供たちは自分が表現したいと思ったことを自由に表現できるようになっている。
 アノリック氏は博物館の本館に私を導きながら、悲惨だったゲットーの子供時代を切々と語って下さった。ビルナゲットーの模型を指さしながら、「わたしの住んでいたスピタルナ通り4番地を訪れてほしい」と語られた。
 10日後、わたしはリトアニアのビルナゲットーを訪れた、50年以上前に、ナチスが建設した、れんがで囲まれたゲットーの高い壁を見上げ、その壁に触れながら、当時生きていた子供たちの苦しみの声に耳を傾けた。
 どうして子供たちが殺されなければならなかったのか。5歳のとき、収容所にいたダニエル氏はこう答えた。「ナチスは私たちユダヤ人を人間として見ていなかった。子供であってもみじんの同情も示さず殺していったのです。まるでアリを踏みつけるように」。涙をこめて語られた氏のことばが、冷えきったゲットーの高い壁に深くしみこんでいった。
                  (1996年11月8日掲載)
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杉原千畝
 一人の命を救う者は、全世界を救う(ユダヤの格言)。
 ホロコーストの渦中にあったリトアニア・カウナスで日本人外交官杉原千畝副領事の発行したビザは6000人もの生命をガス室行きから救った。
 1939年9月、ナチスドイツが電撃的にポーランドに侵攻し、ユダヤ人たちに氏が迫った。当時、ポーランドにいたユダヤ人330万人のうち、生還できた人は30万人にすぎなかった。
 40年8月当時のリトアニアはドイツに占領され、町のいたる所に「ユダヤ人入るべからず」の立て札がかけられ、町の郊外にゲットーが建設されていた。背後には今まさにソ連が侵攻しようと緊張が高まっていた。
 日本領事館開設のため、杉原さん一家がカウナスに赴任したのが39年7月。ブァイジュガット通り30番の3階建て住宅に、領事館は入った。当時、3階に住んでいたヤッドビガ・ウルビダイテさんは今も同じ建物に住んでいる。
 40年7月末、多くのユダヤ人たちがその日本領事館に集まった。ポーランドのユダヤ人たちの一部はユダヤ人狩りをかいくぐりながら、唯一の脱出ルートであったカウナスを目指したのである。
 ウルビダイテさんは当時の様子をリトアニア語で語って下さった。「そのころ、ユダヤの人々がどこからともなく現れ、やがて200メートル以上の行列ができました。当時私は23歳、商業学校に通っており、階下の杉原さんたちとはとても親しくしていました。私もユダヤ人たちを招き入れ、弱っている人を介抱しました。地域の人たちも温かくユダヤ人たちを見守っていました」
 敬虔(けいけん)なクリスチャンであるウルビダイテさんたちの温かい声援を受けて、杉原千畝の偉大な人類愛は、ホロコーストの歴史の中で特異なものとなった。
 杉原副領事の発行したビザの数は2139通。最近外務省の公文書館から、ビザのリストが発見された。このビザによって助けられた、まさに生命のリストが福山のホロコースト記念館に展示されている。日本の外務省の反対を押し切り、ビザは1カ月間、発行され続けた。当時の社会状況を見るとき、生命の危険を覚悟しなければならなかった杉原さん一家。あえて自らの生命をも引き換えに、愛をもって名もない人の生命を救った杉原さんのような「諸国民の正義の人」が、ホロコーストの時代に13000人もいた。
 当地を訪れ、改めてホロコーストの実体を知らされて、杉原さんをはじめ多くの勇気ある人々がいたことを知った。
                  (1996年11月9日掲載)
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自由を求めて
 スウェーデンのストックホルムから1時間ばかりでバルト諸国に到着する。日本にとってはあまりなじみのない国ではあるが、ホロコーストを学ぶには決して見逃せない国々である。
 ラトビアは花と歌の国として知られている。町には花屋が他の店より抜きんでて多い。街路では花を売る女性たちによく出くわす。若人たちは予想していたより明るい。歌を口ずさんでいる若者ともよくすれ違った。
 短期間ではあったが、ラトビアのリガを訪れ、カラフルな印象の背後にある、何かもの悲しさを感じた。この地域は数十年以上もドイツ帝国の野望とソ連邦の覇権によって蹂躙(じゅうりん)され続けてきた。特にユダヤ人の運命は悲惨をきわめた。
 ホロコーストをつぶさに体験した、ユダヤ教のラビ(教師)ナタン・バルカン氏はその親族、家族の100人以上を失った。私が持参した「平和」と書いた書を胸に抱きしめておられた姿が、印象的であった。
 ラトビアの南に位置するリトアニアも、5年前に長い圧制から解放され新生した国家である。首都ビリニュスは14世紀からの古都で、破壊されるごとに再生し、歴史の深さを感じさせる町である。この町に6年前に建てられた国立ユダヤ博物館がある。新館はリトアニアにおけるホロコーストの展示資料館、旧館はユダヤ人を助けた人々、ホロコースト時代につくられた人形、ゲットーの写真、手紙、資料などを収めた研究書となっている。主任研究員のローザさんは数ある写真の中から当時の子供たちの写真を選び出し、後日送る約束をして下さった。
 この博物館の館長は新生リトアニアの国会議員でもあるエマヌエル・ジンゲルス氏である。唯一のユダヤ人議員であり、将来を期待されたニューリーダーの一人として人気も高い。氏はリトアニアの象徴となっている国会前のコンクリートのバリケードに私を案内し、独立当時の様子を生々しく語ってくれた。
 世界の関心が、湾岸危機に向けられているさなか、ソ連軍の戦車がビリニュスを包囲し、テレビ塔を占拠し、数百台の戦車が議事堂を破壊しようと迫った時、65000人もの市民が盾となって自由を獲得した場所である。ジンゲルス氏もホロコーストにおいて65人の親族を失っている。
 ユダヤ人の学校を訪問してほしいとの願いを受けて、200人の子供の学ぶ場所に飛び込んだ。子供たちの明るい笑顔は私に大きな慰めを与えてくれた。
 「ノーモア・ホロコースト」と私は心から願いつつ、子供たちに再会を約束した。
                  (1996年11月10日掲載)
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デンマーク
 ドイツの北に隣接しながら、ホロコーストの悲劇からユダヤ人を助け出した国がある。
 デンマークは昔から、ユダヤ人に寛容であった。偏見をもってユダヤ人を見ることを嫌い、人種差別は、デンマーク全体の問題として、無関心ではいられない土壌があった。
 1940年4月にナチスが突然侵攻したが、クリスチャン10世国王は、いつものように馬にまたがり、笑顔をもって国民を安心させた。ナチス占領中も、デンマークにおいては公然と選挙が行われ、宗教も保護されていた。「自由とは政治の単なるかけ言葉ではない。いかに国民一人一人に浸透しているかである」とホロコーストの生還者は語ってくれた。
 しかし42年1月、ナチスはバンゼーでの会議でユダヤ人の絶滅計画「最終解決」を決議した。その計画が9月に伝えられると、全国民が迅速な救出作戦を実行したのである。
 夜のうちに漁船や貨物船を使って7000人のユダヤ人を隣の中立国スウェーデンに移すことになった。
 一般市民に加え、警官、ビジネスマン、タクシー運転手、医師、牧師らが一致協力してユダヤ人たちを海岸沿いの民家や農場に隠し、10月2日から船による救出が始まったのである。
 エーアソン海峡を挟んでスウェーデンを望む海岸に立った。青い海の向こうにスウェーデンの山並みがかすかに見える。突堤は石畳できれいに整備され、当時の面影はない。ユダヤ人たちは安どの地に向かってここから船出していった。ナチスのしつこい追求をかいくぐって、漁師たちは危険を覚悟の上で協力した。
 不運にも464人のデンマークのユダヤ人たちがチェコのテレジン収容所に送られたが、デンマーク政府は幾度も抗議を繰り返し、物資を送ったり赤十字などを通して収容所の視察を行ったりした。45年4月、突然、白塗りのトラック35台が生き残った423人を救出するため収容所に向かい、見事に彼らを連れ帰ったのである。これもまた奇跡であった。デンマークの人々の喜びは大変なものだった。
 差別のマークを着用することなく、帰還したユダヤ人たちにすべての家財などが返還されたのである。
 5歳の時、船でスウェーデンに送られたメルキオール氏は誇らしげに、「デンマークは国王をはじめ全国民がホロコーストの不正と戦い勝利を得たのです」と語られた。またテレジン収容所から帰還したフッシャーマン氏は、悲惨な体験を語った後、「デンマークは本当の自由を知っている。全国民は今も変わらずにこの精神に生きているのです」と。
 デンマークはホロコーストの苦難を受けた30カ国の中で、唯一の、だれ一人としてアウシュビッツに行くことのなかった国なのである。
                  (1996年11月12日掲載)
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1996年11月

毎日新聞朝刊『びんごLive』に掲載

『後世にどう伝えるか』

 第2次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)問題に取り組む人々が集う第1回国際ホロコースト教育者会議が先月、イスラエルの首都エルサレムで開かれた。福山市御幸町中津原のホロコースト記念館館長。大塚信さん(47)と同館スタッフ1人が参加。日本に記念館ができたことに対する反響は大きく、大塚さんは「ヒロシマ・ナガサキの被爆と並んで、人類の問題として考え、伝えていかなければいけない」と決意を新たにしたという。       (藤倉 聡子)

 会議は10月14〜17日に開かれ、記念館や教育センターのスタッフ、学者、ガイドら約300人が集まった。

 大塚さんは、昨年6月の開館以来の記念館の活動と、訪れた子供たちの姿をビデオで紹介。アジアからの参加は大塚さんらだけ。ホロコーストの現場から遠く離れた日本に記念館ができたことに対する反響は大きく、各国の新聞、テレビから取材を受けた、という。
 大塚さんはこの後、欧州の5カ国を訪れ、教育関係者やホロコーストからの生還者らと交流を重ねた。「特に心に残ったのは、被害・加害の図式を超えて、ホロコーストは、なぜ起きたのか、という問いに重点が置かれていることでした。ホロコーストの原因の一つは、人々の無関心、自己中心主義と教育の誤り。学校でのいじめなど、今の日本に通じるものがあります」と話す。
 被爆者と同じように、ホロコーストの生還者も高齢化が進んでおり、今後、「どう伝えていくか」が大きな課題。欧州では、親世代の体験を語り継ぐための2世のグループが増えている。また、米国では、教室でのディスカッションの成果などを教材としてまとめ、教師用のマニュアルが作られている、という。
 開館以来、被爆地に近い福山で、なぜわざわざ、遠い欧州で起きたホロコースト問題を問いかけるのか、という疑問を寄せたのは、記者だけでないらしい。大塚さんは「ホロコーストは、ヒロシマの被爆と同じ時期に起きた人類の問題。ナチスの犯罪としてでなく、差別、偏見の問題として、自分自身に引きつけて考えてほしい」と答える。国際会議の場で寄せられた温かい反響で、一層日本の福山の記念館から平和の願いを発信する責務を感じた、とも。
 生還者らから譲り受けた資料約2000点が中心の小さな記念館で、小ささを利して、来館者と対話しながら、600万人といわれるホロコーストの犠牲者一人一人の悲劇を考えていきたい、と。相手の痛みに思いを致す、他者を理解しようと努力する─。世界から期待を寄せられた記念館が子供たちに問いかけるテーマは、教育現場の重要な課題でもあるだろう。

           

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1996年12月9日(月)

朝日新聞朝刊『論壇』より

『ホロコーストを教材に』
大塚 信
 21世紀を目前に控え、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の事実をいかに伝えていくか。国際ホロコースト会議が先日、エルサレムで開催された。五大陸から300人が集まった。当時、ホロコーストはヨーロッパのほぼ全域に広がり、私が数え上げただけでも30カ国にも及ぶ。その犠牲者は数年間で六百万人。このうち子供たちの数は百五十万人にもなる。その組織的かつ機能的な虐殺は比類ないものである。

 ナチスは戦争の混乱に乗じて、ユダヤ民族を絶滅する「最終解決」を遂行した。ヨーロッパに数百年以上も滞在していた反ユダヤ主義、差別、偏見がドイツ民族至上主義と相重なり、一気に火を噴いた。
 今回の国際会議で、被害、加害という従来の構図を打ち破った、各国の積極的な取り組みを学んだ。
 戦後ドイツでは、ホロコーストの事実をかなり正面からとらえ、昨年、広島県福山市のホロコースト記念館を訪れたベルリンの高校などでは、ポーランドにあるマイダネック強制収容所に一週間泊まり込み、その実体を若人の目で直視する体験学習をカリキュラム化している。
 モスクワには、ホロコーストをテーマにした教育センターを準備中とのことで、ロシア教育アカデミーから2人参加していた。ニューヨーク、ロンドン、ベルリンでも、20世紀最大の悲劇を伝える博物館建設が進められている。
 近代文明は、科学、文化の発展を誇示した半面、人間の基本的人権を軽視した。自らホロコーストの生還者であり、ノーベル平和賞を受けたエリー・ウィーゼル氏は、「ホロコーストは無関心と教育の間違いから生じた」と指摘する。今やそのホロコーストは国際的にも、重要テーマとして扱われている感がある。
 会議終了後、苦難の跡を追って6カ国を歴訪した。リトアニア、ラトビアはつい数年前に独立し、自由を獲得した国である。れんがで積み上げられたゲットー(強制居住区域}の高い壁が今も残っている。飢えと絶望の中から、家畜用の貨物列車で死の収容所へと運ばれていったユダヤ人の無念さが伝わってくる。両国は、実に9割以上のユダヤ人が犠牲となった。銃殺、生き埋め、焼殺など、ナチズムに賛同する一般市民までが虐殺に加担した事実がある。
 リトアニア・カウナスの旧日本領事館を訪ねた。当時からその場所に住む婦人から「生命のビザ」について聞いた。密告が横行し、人間不信が人々の心を堅く閉ざしていた時代、杉原千畝氏ら、勇気と信念に立って彼らを救った人々がいた。
 デンマークでは、国王から一般市民まで一致結束して、同胞ユダヤ人たちを漁船を使って、隣接の中立国スウェーデンに送り届けた。ここでは差別のマークをつけることなく、また、一人としてアウシュビッツに送られる人もなかった。
 さて、昨年7月、ホロコースト記念館が開館して以来、1万人以上の見学者を迎えた。いじめと差別の産物でもあるホロコーストを学ぶことは、人間としていかに生きるべきかを私たちに問いかける。
 ベルゲン・ベルゼン収容所から帰還したアンネの親友、ハナ・ピックさんは「原爆もホロコーストも、人間が作り出したもの。 その悲劇を克服するのも人間の仕事である。私たち一人ひとりが自分自身を変えていく努力が必要です」と語る。
 26年前、アンネの父、オットー・フランク氏と偶然の出会いがあった。それがホロコーストとの最初の出合いとなった。この世の地獄であるホロコーストから生き延び、憎悪に代えて許しを訴えていた氏の崇高な生きざまに、私は人生の意義を見いだした。
 「平和は相互理解から生まれる。アンネたちの悲劇的な死に同情するだけでなく、平和をつくり出すために、何かをする人になって下さい」とのフランク氏の遺言にも似た言葉が、福山のホロコースト記念館のモチーフとなっている。
 人類はこの20世紀の負の遺産を来るべき世紀に引き渡さねばならない。いじめや差別のない21世紀を迎えるために、ホロコーストを学校教育などで取り上げてほしい。
 「アンネの日記」が教科書から消えて久しい。
    

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1997年1月27日(月)

中国新聞朝刊 『中国論壇』より

『ホロコ−ストに学ぶ』
大塚 信
 二十世紀最大の悲劇であると言われてホロコ−スト(ナチスドイツによる、六百万人のユダヤ人大虐殺)は、無知と無関心の産物である。
 ホロコーストは多くの観点から、人類史上最大の犯罪として周知されている。その規模はヨーロッパ、ロシア地域にわたる三十ヵ国に及ぶ。ただユダヤ人であるという理由だけで殺された人は六百万人、そのうち子供たちが百五十万人にも上る。この事実を直視し、未来に再びこのような悲劇を繰り返してはならない。
 ホロコーストの特異さは、ユダヤ民族の根絶をイデオロギーとした計画的、意図的な虐殺であった点にある。ヨ−ロッパの歴史を学ぶ時この悲劇は一朝一夕で行われたものではなく、長い間蓄積された誤解や中傷の故に罪のない多くの人々が苦難を受けた事件を、イタリアやスペインで見る。また、ユダヤ人追放、虐殺は、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアなどで行われていた事実がある。ヒトラ−は、このヨ−ロッパの土壌で育ち、培われたユダヤ人に対する憎悪、偏見を巧みに利用した。
 ナチスが初め、ユダヤ人を追放しようとした時、彼らを受け入れようとした国は皆無に等しかった。虐殺の事実を知りながらも、反対の声を挙げる者があまりにも少なかった。
 そうした世界の反応の鈍さが、ヒトラ−のユダヤ人抹殺計画に弾みをつけたことは確かだ。この点から見て、ホロコ−ストは、一個人、一集団のなした問題としてよりも、人類全体の問題としてとらえなければならない、と思う。
 ユダヤ人を運んだ家畜列車、苛酷な強制労働、ガス室、焼却炉…。それは二十世紀を生きる現代人が、同じ人間に対して行った行為であった。医学、化学、工学、また音楽など、人々を幸せにする近代文明をリ−ドした民族がなした行為なのである。しかも、ヒトラ−はク−デタ−ではなく、国民投票によって合法的に選出されたのである。
 「私は、アンネの父、オット−・フランクです。」二十六年前、私は旅先で偶然、一人の老紳士と出会った。これが私にとって、最初のホロコ−ストとの出合いであった。
 フランク氏は家族の中でただ一人、人間のつくった地獄、アウシュビッツ強制収容所から生還した人である。悲惨な体験を経験しながら、むしろ過去を克服し、未来を信じているように見えた。スイスのバ−ゼルの質素な書斎で、世界中の子どもたちから届いた手紙に、一通一通返事を書いておられた姿が印象的であった。
 「アンネたちの悲劇的な死に、ただ同情するだけではなく平和のために何かをする人になって下さい。平和は相互理解から生まれるのです」と訴えられた。
 私どものホロコ−スト記念館は、オット−氏の遺志を生かし、「平和をつくり出そう、小さな手で」という標語を掲げ、過去を学びながら平和を創造していく、子どもたちに向けて開かれた教育センターである。
 ここでは、模範解答は準備せず、当時生きていた子どもたちの写真、絵画、資料などと対面し、彼らなりの解答を見いだすように配慮した。展示の目線も、低くし、説明も出来る限り当時の子どもの言葉から選んだ。「平和な世界をつくり出すために、なにか自分にできることを見出したい」など、生きた学びが始まっている。開館以来、一万四千人の方が来館された。
 昨秋、私はイスラエルのエルサレムで開催された、第一回国際ホロコースト教育者会議に出席し、発表の機会を得、世界20ヶ国で実践されている歴史教育の実情を学んだ。欧米では、ホロコ−ストの歴史を学ぶとともに、現在と未来にその教訓をいかに生かしていくかに力を注いでいる。
 日本においては最近、「ガス室はなかった」と題し、ホロコ−ストの事実を否定する記事が雑誌に掲載されて後、急に映画や書籍などを通して、ホロコ−ストが紹介されている。私は、今日まで多くのホロコ−ストの体験者と出会い、収容所を訪れ、ホロコ−スト博物館を見学した。ホロコ−ストの事実を正しく教え、伝えることの大切さを痛感している。

 《略歴》1949年京都市生まれ。同市のロゴス神学院卒業。イスラエル留学。京都府京田辺市の教会を経て、90年から福山市の聖イエス会御幸教会の牧師。95年に日本初のホロコ−スト記念館を設立。

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1997年6月9日(月)

中国新聞朝刊 『社説』より

『歩み着々ホロコースト記念館』
 
 日本初の「ホロコースト記念館」が福山市の郊外、御幸町に誕生して2年。当初の予想を覆して近郊はもちろん、近畿、関東からの訪問が続く。今や知る人ぞ知る一つの平和の拠点になっている。

 「平和をつくり出そう、小さな手で」のスローガンを見てもわかるように、徹底して子供を対象にしてきた。つまり、子供たちにいかにホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)を伝えていくか─にテーマを絞ったのが受け入れられた最大の要因だろう。
 この2年間、記念館の入場者は一万六千人。大半が小、中、高校生で学校数は二百。それに教師やPTA関係者。さらに合唱団の仲間、公民館の受講者、女性団体などと訪れた顔触れは多彩だ。
 入館は無料だが、館長の大塚信さんは「入場者は年間二千人程度」とみていた。ホロコーストという言葉はなじみが薄いし、地味で重い。記念館も福山市北部の田園地帯にあって交通の便がよくないからだ。結果は予想をはるかに上回った。
 展示物は、ガス室に消えた子供の靴、アウシュビッツ収容所の灰、遺骨、囚人服などの遺品約100点。ナチス・ドイツ兵に銃口を向けられた少年の表情など写真約150点。すべて大塚館長が米国やチェコに出向き説得して寄贈されたものである。ほかに関係文献も約千点ある。
 説明役は大塚館長。子供たち相手の時は熱がこもる。説明が始まると、ざわついた館内が潮が引くように静まる─連日繰り広げられる光景である。
 記念館の誕生で、ホロコーストを生き延びた人の体験談を直接聞くこともできた。例えば、神戸市で貿易商を営むビクター・ナバルスキーさん。これまでの沈黙を破って初めて恐怖の体験を語った。アンネ・フランクの親友のハナ・ピックさんもイスラエルからやってきた。
 ドイツ軍に連行され、強制労働させられたニューヨーク市立大名誉教授でホロコースト研究家のランドルフ・ブラハムさんは、偏見や差別のない社会の実現を訴えた。
 特にナバルスキーさんは、壇上で子供たち31人とも対話した。衝撃を引きずりながらも次々と質問する子供たち。こうした触れ合いは会場内にも大きな感動を呼んでいた。
 聖イエス会が資金援助し、大塚館長が運営を任されている。入館者はマスコミ報道で存在を知り、後は口コミで広がった。ただ気になるのは、広島市を中心とする地域からの入館者が極端に少ないことである。
 ヒロシマ、毒ガスの大久野島、そしてホロコースト。性格が違い、平和を考える格好の拠点が広島県内には3つもある。せっっかくの教材、三地域の学校間で情報交換するネットワークをつくるなど、もっと有機的に生かしてほしい。埼玉県の日高高校はこの点に注目、昨年の修学旅行では広島を選んだ。担当教諭は、「大変感銘を受けた」と明快だった。
 大塚館長を助けるボランティアが翻訳10人、場内整理や清掃関係が10人ほどいる。だが今の忙しさが続くと行き詰まる恐れがある。この点も気になるところだ。
 今年初め5回開いた「ホロコーストを学ぶ」セミナーには、教師を中心に50人近くが参加した。夏休みには親子を対象にセミナーを開く。地道ながら着実に歩むこの記念館を今後も見守っていきたい。

           

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