失くした言葉

1

ゴモラの市内、小さな雑貨屋に入る人影。ナジャだ。

雑貨屋の奥に店員専用の休憩所がある。その手前でコンコンと扉を叩くナジャ。しばらくしてからゆっくりと扉が開き、中へと招き入れる。

「外はどうなっている?」

部屋の中は意外にも広く造ってあり、風雅達が隠れ家として使う分には問題なかった。さっそく話しかけてきたのはロイドだ。

「もうそこらじゅうがクーデターを起こした連中の兵隊さんばかりだよ。ゴモラの軍の詰所は真っ先に狙われたみたい。市街地にある駐屯地で交戦中らしい」

「フェイはどこへ連れ去られたか解ったか?」

「いや。ただ、クーデター軍はフェイが居た学校も占拠して、生徒・教師一人として外へ出さないでいるみたい。たぶん、狙いはバベルじゃないのかな。彼女が度々学校に顔を出していたのは目撃されてるみたいだし…」

そうナジャが答えた後、はつみが突然言う。

「バベルはもういないのに!それにフェイは口がきけないんだよ!」

「連中はまだこの街にバベルがいるとふんでいるのだろう。それにフェイの口を割らせなくとも人質として使える」と風雅。

「助けに行こうよ!」とはつみ。

「市街戦となれば、こちらの利があるだろうが…ただ厄介なのはあの召喚士だな」

そう風雅が考え込むように言ったのを聞いて、ヤンが言う。

「彼女はアンジェ将軍です…。様々な魔法や召喚術を使いこなして、シハーでもトップクラスの魔術士と謳われた。あの黒い召喚獣達は、シハーの砂の神々と言われている者達で、この国にいる限りは、砂の力を借りて凄まじい力を出すんです。でも彼女がクーデターを起こした側にいくなんて…やはり女王もバベルも、反感を買っていたのですね」

「やはり、というのは?」風雅が問う。

「バベルは軍部からは嫌われていました。彼女が現れてから女王は塔に篭り出す様になったんです。シハーをほったらかしにしてるように見えたんでしょう。それを裏で操っているのがバベル、という風には見えませんか?」

「どうだろうな…バベルと女王がどんな関係なのかは知らないが、少なくとも俺の目には女王がどれだけ国の事を考えているのかが解る。来るべきオークとの戦争に備えて、一人で全部を抱え込んでいるようにも見えた。そういう人間はいるさ、律儀で責任感が強くて…不器用で…」

風雅が思い込むように1点を見つめた。そういう表情をするのは今まで誰も見た事がなかった。女王とはそれほど面識はない彼だが、レッカとよく似た誰かの事を暗に言っているようにすら聞こえた。

ロイドが剣を抱えて部屋を出ようとする。そして言う。

「学校だ。フェイもそこにいるはずだ。バベルと関係が深い奴が学校にいるとすれば、そこに再びバベルが現れるかもしれないとふむのが普通だ。だから人質もそこへ連れて行く。彼女が現れたら現れたで、人質を利用して捕まえるだろう」

「そこにあの砂の召喚士もいるんだろう?」と風雅。

「解ってるさ、勝機のない戦いだとか言いたいんだろう。でもな、フェイは俺達の仲間になったんだ。だから助ける。物事は複雑じゃないのさ。風雅、今回は行かせてくれ。フェイはただの人質だ。もしバベルが現れたら、連中はフェイの命なんて造作も無く奪うだろうよ。いや…むしろバベルの目の前でフェイを殺す事が目的の一つなのかもしれない」

そう言い残してロイドは部屋を出た。続いてマハ、はつみも出る。出際に風雅に言う。

「私が谷に落ちたとき、ロイドさんは助けに行こうとしてくれてたんだよね。こんな風に…私が仲間だから。ただそれだけの理由でいいんだよね。だから私もフェイを助けに行くよ。その時のロイドさんのように」

風雅がお手上げのジェスチャーをしてから、言う。

「解った、解ったよ。戦える奴だけで行こう。ナジャ、ミーシャ、ナツメグはここに残って、何かあったら皆を頼む。ヤンと豊吉さん俺達と一緒に来てくれ。カイは…」

先ほどまでキサラが魔法で治癒していた腕はキチンと接合されていた。カイはそれがちゃんと動くのを確認した後で、にやりと笑い、

「ちょっと腕ならしに行きたい気分だぜ」

と言って大剣を抱えて風雅よりもはつみよりも先に部屋を飛び出た。

2

学校にはそれまでシハー国旗のあった場所にネヘ・ベカウの旗があり、その旗の元に集う者達が建物を占拠していた。それぞれの教室では子供達が体育座りで静かに待つ。だが、フェイがいる教室だけは他に生徒は居なかった。

体育座りで俯き、床の1点を見つめるフェイ。

それを少しイライラとしながら、彼の周囲を歩くルフェイ。少し離れた所ではアンジェが腕を組んでその様子を見守っていた。

「バベルが居る場所は知っているのだろう?ホムンクルス。口がきけない"フリ"をしても無駄だ。昔、俺が尋問した奴の中に、口がきけないと言われてた奴がいたけどな、口がきけないなら舌はいらないだろうと引っこ抜こうとしたら、泣きながら"止めてくれ"と叫んだぞ。もちろん口を割らせた後で"口をきけなくしてやったが"」

そういいながらフェイの小さな顎を掴んで舌を抜くような素振りを見せる。だがフェイはそれに脅えることはなかった。まるで他に色々と考えなければならない事があり、ルフェイの尋問は2の次のような態度だ。

「ちっ…流石はバベルが作り出したホムンクルスだ。感情っていうモノが欠落している」

とルフェイが言った後にアンジェが言う。

「バベルを誘き寄せる道具に使えそうだと思ったんだけど、バベルは彼をただの作品の一つぐらいにか思っていないのかも知れないわね」

そう、知りもせずに思いついたことをただ言うアンジェ。そんな状況だったがフェイは何一つ言わなかった。口がきけたとしても何も言わなかっただろう。1点を見つめるその目は本当に疲れきっていた。はつみに家を出ることを進められた後は、ほんの少しでも彼女と一緒に何か目的を持って旅に出ることを決意したが、今ではそんな決意もただ疲れる出来事の一つとなっていた。それから戦闘に巻き込まれて、人質となり、そして今尋問を受けている。彼にとってはもう全てがどうでもよくなりつつあった。ルフェイが怒り狂って、フェイの首をはねようとも、それすらもどうでもよくなりつつある。

だから、首をはねられるまでの僅かな時間で、思うのはバベルと過ごした日々だった。

3

フェイの記憶が戻り、バベルを母親ではなく、ただバベルという人間と認識した日。

その日、再び悪夢を見た。

蒸し暑い台所、その視点はフェイの視点だ。部屋を見渡すと壁には血痕が飛び散り、床にはピンク色の肉辺が大量の血に混じって飛び散っている。明かりにも血がついており、部屋は赤くそまっているかのように思えた。彼の側には死体が転がっていた。

その死体が誰のものかはフェイには解っていた。正確な名前は顔は思い出せない。ただ、それが"母親の死体"である事だけは解っていた。

汗だくになって飛び起きるフェイ。多分彼は叫んでいたのだろう。バベルが心配そうに彼の顔を覗きこんだ。

"お前なんか母さんじゃない!"自分が放ったそんな台詞が、矢の様に身体に突き刺さる気がしていた。そんな台詞を言われておきながらも、自分の事を心配してくれているバベルがそこにいるからだ。あの時はゴメンと一言言えばいいだけの話だったのかもしれない。だが、その時のフェイにはそんな勇気も無かった。

「どんどん…どんどんハッキリしていくんだ。最初はぼやけてたのに、血とか肉とか、嫌なものがどんどんハッキリ見えてくるんだ…もう嫌だ」

涙声でポロポロと大粒の涙を流しながら言うフェイ。

「昨日、お前に言われたとおり、校長先生の記憶は消してきた…フェイ。人の記憶というのは消したとしても正確には消えては居ない。"消えた"という印が記憶に付けられるだけだ。脳の中にあるシナプスという結合を絶つだけで、記憶そのものが消えることは無い」

「シナプス…?」

「シナプス…それは"繋がり"だ。記憶と記憶の繋がり。私は魔法でその繋がりを少しだけ組み替えることで、あたかも記憶を消したようにしているだけ。実際には消えずに脳に残っている。お前が毎晩見る悪夢は、お前の脳がお前に知ってほしい事実を伝えようとしているのかもしれない。いや…記憶が蘇る事が、脳そのものの機能なのかもしれないな」

「どうすれば…どうすれば、この記憶が蘇らないようになるの?」

「繋がりを、絶つんだ」

「でも、それはさっきダメだって…繋がりを魔法で断ち切っても、ダメだったでしょ?」

「記憶と記憶の繋がりだけじゃない。"人"との繋がりもだ」

「人との…繋がり…」

「夢の中に出てくる死体は、人を意味する。記憶と人との繋がりを完全に断ち切る事で、脳が記憶を修復する機能を麻痺させる」

「その…人との繋がりも絶つことは出来るの?」

「あぁ、だが本当にいいのか?」

"本当にいいのか?"というバベルの言葉を聞いたときに、まるで走馬灯の様に脳裏に過ぎったのはバベルと校長と、そして自分、その3人で過ごした日々だった。だが、心の中に最後に残るのは、台所に転がった母親の死体だ。

フェイは、頷いた。

バベルは、いつものように表情一つ変える事は無かった。「解った」と言っただけだ。

「ただ、今日はもうマナを使い果たしてるので、お前から記憶を消すまでは出来そうにない。今日は"人との繋がりを絶つ"だけだ」

そしてバベルはゆっくりとフェイの額に手を当てる。暖かい手の平の感触がフェイに少しだけ安らぎを与えた。それもつかのま、しばらくしてから呪文の詠唱が始まった。

その日、フェイは"声"を失くした。

4

翌日、フェイがベッドから起きて部屋を見渡すとバベルの姿は無かった。だが彼は驚くわけでもなく、ただその事実を受け止めていた。自分は"それだけの事"をバベルにしたのだ。だからそれは自分に対する罰なのだろうと考えていた。

もうそれからフェイは家から外へ出る事はしなくなった。

時折、買い物に街に出かけることはあったが、決して人と話す事はしなかった。そう、話そうとして声が出ないからではない。話そうとはしなかったのだ。ひょっとしたら、バベルは呪文を詠唱したふりをしただけで、実は声が出せるのかもしれない。

だが彼は声を発しようとはしなかった。

街ですれ違う人も、学校の友達も、校長先生も、身体を構成する物質が異なるだけで建物や空気や、土と同じだった。ただそれらが喉を震わせて声を放つだけだった。

そうフェイは考える。そう考えるようになってから、彼の夢から悪夢は消え去った。

5

「おい」

パシンと頭を叩かれてフェイは我に返る。ルフェイは彼の首根を掴まれて起き上がらせる。どこかへ移動するようだった。

どこへ移動するのか、それはどうでもいい事だった。我に返ってからもバベルと過ごした日々が脳裏に繰り返される。どこかへと移動するのは、ひょっとしたら処刑されるのかもしれなかったが、無意識にそれを理解しているのかフェイはあと少ししかない時間を少しでも思い出にふけようとしていた。

ルフェイ、そしてアンジェと彼女の部下達は学校に僅かに兵を残して、フェイを連れて移動を開始した。そして、どこへ移動するのかフェイはわかった。彼とバベルが過ごした家。兵の大部分を連れて移動するのはバベルを捕まえるために戦力が必要だからだろうか。

彼らが学校から去る姿をみて大半の人間は安心した。だが校長だけはフェイ達の後を静かに尾行していた。

「校長先生!」と兵達に聞こえない様に静かに、そして校長には聞こえるように叫んだのは教師の一人だ。聞いて立ち止まる校長。みれば彼の袖を掴んでいる。

「おやめください!危険です!」

「大事な生徒の一人が連れ去られるのを黙って見ていられない」

そういいながら、いつもの様な苦笑いを見せて額をハンカチで拭く。今の彼の汗は普段掻く汗とは違うのだろう。緊張からくる冷や汗だった。

「校長!」と再び叫ぶ。校長は袖を振り払って、フェイ達の尾行へと戻る。もう叫べば校長以外にも聞こえてしまう程に離れていった。

6

程なくしてルフェイとアンジェは目的の場所である、フェイとバベルが過ごした家に到着した。既に先行して兵達が家の中を確認していたのか、「バベルは中にはいません!」と報告に現れた。

「フェイ。バベルはお前の事を気に入っていたか?」

首を振ることは出来るがフェイには返答する気は無いようだった。

「家の中を見てくるわ」とアンジェは言ったのち、一人、家の中へと入る。

「どうすればバベルを誘き寄せる事が出来るだろうかね?もし俺がバベルだとしたら、自分にとって大切なモノが壊されそうな時に、現れるがね」

と言ってルフェイはフェイの首を着るような仕草をする。そして笑みを浮かべる。

しばらくするとアンジェが家から出てきた。そして、

「家に火を放つわ」と言う。

「ん?何があった」

「書物やら魔方陣やら…それにバベルとこの子が生活していた痕跡がたくさん。二人で仲良く暮らしてた家が燃やされるのよ。引き付ける材料としては十分よ」

そう言って、アンジェは呪文を詠唱し始める。彼女の手前にはマナの粒子が集まり、次第に輝きから炎へと変わる。巨大な炎の玉になったそれが、家に向かって発射された。

フェイの目には炎に包まれる家が写っていた。

バベルとフェイが過ごした沢山の思い出がつまった家が燃やされていく。

フェイの脳裏にはバベルの放った言葉が浮き出された。

『記憶は脳の中にだけあるんじゃあない。誰かにとっては、学校や家や、職場、普段から通りかかる三叉路であっても、大切な思い出なのかもしれない。本当はそれらはただの物質に過ぎないんだが、人が思いを寄せる事でただの物質では無くなる。"名前"もそんな事の一つなんだよ。モノに名前を付ける、それは自分にとって大切なものを一つ増やす事を意味するのかも知れない。本当に記憶を無くすという事は…』

「ほほぅ…ホムンクルスでも泣くんだな」

ルフェイが笑ってそう言った。

そう言われてはじめて、フェイは自分が泣いている事に気付いた。

「これでバベルを引き付けた事になるのかしら?」

アンジェが言う。

「さぁな…そもそも、なぜバベルはこのガキを置いて逃げたんだろうな」

「どうしてなのか、わかる?」

とアンジェはフェイに問う。もちろん、彼が答えるとは思っていないのだ。

「アンタが失敗作だからよ!」

と、アンジェが軽くフェイの頭をどつく。意外にも簡単にその小さな身体は転がった。そしてポタポタと今まで流していた涙が床にこぼれる。

ルフェイはフェイの身体を襟首掴んで起こして立たせると、言う。

「移動しよう」

7

フェイとバベルの家の炎が見えないぐらい離れた、森の中の開けた場所。そこはフェイが山菜を取りによく向かった野原だった。

「このガキを殺そう。多分、もうバベルは現れないだろう」とルフェイ。

「このまま人質にするというのは?」

アンジェが返す。

「どうかな…余計な荷物にならないか?」

二人がそんな話をしていると、複数の兵が一人の男を抱えてきた。

「森の中で我々の行動を監視していました。学校の校長のようです」

二人の兵に両脇を固められて動けないようにされているのは校長だ。

それを見たフェイの目の色が変わった。それをアンジェは見逃さなかった。

「あら、あなたにとっては校長先生は"大切な人"みたいね。少しはバベルの居場所を話す気になった?」

フェイは無言だった。ただジッとアンジェを見つめていた。

話そうと思っても話せなかった。

話そうと思いさえすれば話せると、そう思っていたのだ。でも声が出ない。本当にフェイの声は失われていた。必死に「バベルの居場所は知らない」そう答えたかった。そうすれば校長先生を解放して貰えると、そう思ったのだ。

だが、声が出なかった。

流石にその雰囲気にイライラしたのかルフェイが怒鳴る。

「おい、クソガキ!いい加減にしろよ!こちとら、お前の遊びに付き合っているにも限度ってものがあるぞ!」とルフェイは剣先をフェイの首に添える。いつでも切る体勢になっているのをアンジェが止める。

「ルフェイ!」

アンジェに言われてルフェイは構えを解いた。

それから校長の両脇にいる兵に指示する。

「その男を殺せ」

フェイは口は動かせなくとも身体が動いた。必死にもがいて止めようとする。しかし、それも無駄になった。校長の両脇にいる兵の剣先が彼の首にあてがわれる。そして、その剣先は無残にも校長の首を切った。

大量の血液が吹き出て地面に赤く広がる。

フェイは叫んでいた。心の中で、自分でもなんと言っているのか解らない叫びを。だが声には出ず、ただもがいて、ルフェイの腕から逃れようとするだけだった。

その大量の血が、フェイが見ていた悪夢を思い出させた。

床に散った血液と、そして肉片。

目の前に倒れているのは"母親"と認識される女性。

恐怖はなかった。そこにあるのは、怒りと悲しみの感情。

フェイの震える手が金属バットを握っている。バットはボールと叩いたときにはない変形を遂げて、それが凶器になった事を表している。

床にバットを放り投げると、電話機をとり、ある番号へと電話をかける。普段、殆どかけることのない番号だ。そして受話器の向こうから、「…いかがされました?」と応答した。

「お母さんを…殺しました」

フェイは震える声でそう答えた。

フェイは悪夢である"記憶"を全て思い出した。

8

声が出ないと思っていた。

しかし、本当の叫びは口が無くなっても、喉がなくなっても、例え魔法で言葉を失くしていても、それが出せるのだろう。

校長はフェイの目の前で息絶えた。大量の血を野原にばら撒きながら。

走馬灯のように、フェイの脳裏には校長と過ごした日々が蘇る。転校して初めて学校にきたとき、友達と話せなくて一人で居たときに話しかけてくれたのも校長だった。最後に思い出すのはフェイとバベル、そして校長の3人で過ごした、あのお祭りの夜だった。

「お…とう…さん…」

涙混じりの声が小さく響いた。今までフェイの声を聞いたことがなかった周囲の兵も、ルフェイも、そしてアンジェもフェイが声を発した事に驚く。そしてその声は、涙混じりの声から禍々しい重い声へと変わる。

「おま…えら…みんな…死んでしまえ…」

その声を聞いたアンジェはすぐさまルフェイに叫ぶ。

「ルフェイ!」

血の気の引いたアンジェの顔に驚くルフェイ。フェイの小さな声は既に呪文の詠唱に混じっていたことを彼女は気付いていたのだ。大量のマナがフェイの周囲に集まっている。

一瞬だった。

ルフェイの視界には冷たい氷の壁が地面から上方へ延びるのが見えた。だが同時に、自分の身体が真っ二つに引き裂かれて半分が壁の向こうに倒れていくのが見えた。彼はフェイが魔法で作り出した氷の壁に身体を引き裂かれて絶命した。

「ルフェーーーーイ!!」

アンジェが怒りと悲しみの表情に変わると同時に、呪文を詠唱し始めていた。

「このクソガキ!よくも…よくもルフェイを!」

そう言って、彼女の呪文が発動すると、巨大な炎の弾がフェイ目掛けて飛ぶ。フェイが素早く詠唱する。詠唱の早さがアンジェのそれの半分以下だった。氷の壁の手前に水分が湧き上がる。その冷気の塊がアンジェの作り出した炎の弾を消し去った。

「ガキを殺すのよ!」

自分の魔法が弾き返されたのを見て、すぐさま部下の兵に命じる。一瞬の出来事で思考が停まっている兵は一瞬空けてから剣を構えてフェイ向かっていく。正面には氷の壁があるが、脇からは攻められるのだ。だが壁を避けてフェイの視界に入った次の瞬間、暗闇で光る真っ赤なフェイの眼が兵士を捉えて、一瞬あと、兵の身体が石に変わる。

「ひぃぃっ!」自分の隣の兵が石になったのを見て慌てて動きを止める。

「何をしているの!ガキ一匹に!殺しなさい!殺せ!」

アンジェが怒鳴る。それから長い詠唱に入る。それはゴモラの守備隊を全滅させ、風雅達のゴモラへの退却を余儀なくさせた、砂漠の砂の神々を呼び出す召喚魔法だった。

恐怖を隠しきれないまま兵達は氷の壁の脇から侵入を試みる。ある物は石にされ、あるものは氷の壁から突然突き出た氷の刃の餌食になる。壁は自らの意思を持っているようだった。まるで悪魔が壁の中に宿っているように兵達の目には映った。程なくして再び壁が現れ、完全にフェイの周囲を囲った。もう壁を乗り越えて侵入する以外方法がない。フェイの周囲には兵達の肉塊が転がっている。氷の壁も血で染まり、既にそれが何の壁なのか解らないほどに禍々しく変貌している。それが兵達の戦う気力を奪った。

その時、ようやくアンジェの召喚魔法が発動した。

周囲の土の中から様々な砂の神々が、漆黒の姿を晒す。時刻は既に夜更け、彼らの存在を確認できる方法があるとすれば、身体に散りばめられた金色の装飾品のみ。

一斉に召喚獣達の攻撃が始まった。あるものは氷の壁にハンマーで殴りかかり、その後串刺しにされて砂へと戻り、あるものは凄まじい跳躍力で壁の頂上まで這い上がったがフェイの一睨みで石へと化した。

「将軍!撤退しましょう!」

兵の一人は脅えたのち、そう叫んだ。

「何をマヌケな事を言っているの!相手はガキ一人でしょう?攻城兵器を持ってきなさい!あの氷の壁を砕くのよ!」

アンジェが再び巨大な炎の弾を作り出し、氷の壁にぶつける。だがほんの少しだけ表面が解けただけだ。みれば、壁の中にいるフェイは再び魔法を詠唱し始めている。壁の中に侵入しようとするのは召喚獣のみで、周囲の兵は唖然となり、その様子を見ている。

「何をしているの!」

アンジェが兵達に攻撃を促すが、程なくしてなぜ兵達が唖然としているのか解った。

「嘘でしょ…」

アンジェは眼を疑っていた。砂漠の中にあるゴモラの街、そこが確かに砂漠の中にある街だという事を、自らに問い掛ける事となったのだ。そこが大海原の真ん中ではないことを、自らの目が幻を見ていればいいと、そう願ったのである。

膨大なマナが兵達の正面の上空に集まる。それが次第に水となり、そしてさらに巨大な津波となり、今にも兵達を飲み込もうとしているのである。それが幻であるという希望は空しく消え去り、津波は一気に地面へと雪崩れ込んできた。召喚獣達は津波に飲み込まれると砂へと戻った。兵達は周囲の木々に水圧でぶつけられて背骨をへし折られた。アンジェも同じくそれに巻き込まれた。必死に木にしがみつく。爪を立てて流されないように、だが大量の水圧に耐え切れず爪は剥がれて、津波の進行方向へと押し流された。

9

小一時間ほどで津波は収まった。

森だけでなく、ゴモラの街の大半も津波の被害にあった。

風雅達が駆けつけた場所はフェイとバベルが住んでいた家。そこには焼け跡だけが残り、その残骸の前にフェイが呆然として立っていた。

「フェイ…」

ロイドが声を掛ける。だが何を言っていいのか解らなかった。

「校長先生がフェイの事を、」と言い掛けたのははつみだった。だがフェイは彼がどうなったかを涙を流しながら首を横に振って示した。もうはつみは何も言えなかった。

「クーデターを起こした兵達はどこへ?」

風雅が言う。

フェイは風雅へ背中を向けたまま、小さな声で言う。

「僕が…全部…殺した」

少しの間を置いて、

「フェイ…お前、話せるようになったのか?」

ロイドが言う。それに首を縦に振ってフェイが答えた。

「僕は…バベルに行くよ。僕の好きな人と同じ名前の、その塔に行けば…バベルに会えそうな気がする。会って、謝りたいんだ。それから…」

フェイが苦しそうに一言一言を詰まらせながら言う。声はまだ完全には出せる状態になっていない。ずっと声を出していなかったからだろうか、それとも魔法の効果が消えていないのか、彼はゆっくりと話すが、話すのが辛そうにしていた。

「僕の…記憶を、消してもらいに」

1.00