記憶の封印

1

はつみが訪れたのはフェイが以前通っていた学校だった。

再び彼をよく知る校長先生に話を聴く為だ。ただ今回はフェイの話ではなく、バベルという名の女性の話だった。

職員室、校長室、それから待合室と、今まで知っている学校の部屋を一通り周ったが、あの頭の髪の寂しい男はどこにも居なかった。そして最後にグラウンドへと出た。と、そこで校長を見つけた。

彼は子供達の球技をして遊んでいた。オアシスの街ゴモラでも昼間は酷く暑くなるのはシハーの他の街と同じだ。だからそんな中で汗まみれになりながら子供達の相手をしている校長にはつみは呆れてしまった。いつかは倒れてしまうのではないかと。

校長ははつみを見つけて、それをチャンスとばかりに子供達に「自分は降りる」のジェスチャーをする。子供達が「えーッ」と言っている声がはつみの元まで聞こえた。それから彼は汗でびっしょりになったままにはつみの元へとノロノロと走ってきた。

「いやぁ、すまないね。色々と部屋を回ったんだろう?ずっとグラウンドにいたんだ」

と、小さなハンカチで拭ききれるわけもない汗を拭いていた。

「フェイの事で聞きたい事があって」

「あれから彼は家からでたかい?」

はつみは無言で首を横に振った。

「そうか」

「フェイとバベルという人の事についてききたいんです」

「バベルか…彼女は知ってのとおり、シハーの聖都バベルの研究者だよ」

「私が知りたいのは、フェイ君と一緒に住んでいるときの彼女の事です」

「…ふむ」

校長はびしょ濡れのハンカチを絞ったあと、再び寂しい頭を拭き始めた。そして一息ついてから話し始める。

「彼女がこの街に来たのはつい最近の事だよ。目の真っ赤な男の子、フェイを連れてね。街の人はみんなバベルの話は聞いていたけど彼女の姿を知っている者は居なかった。おおよその人間はあの二人が来たときは不気味な連中が来たと噂したもんだよ」

校長は汗でいっぱいになったハンカチを絞りながら言う。

「しばらくしてからバベルが…彼女はフェイのお姉さんだと思ってたんだけど、あとで知ってびっくりしたよ。まぁそのバベルが学校へフェイを通わせたいと言ってきた。勿論私は心地よく受けたけどね。入学してからはしばらくイジメが続いたよ。子供っていうのは異質なものに敏感なんだ。フェイの赤い目をみて、多分、恐れたんだろう…」

はつみの脳裏にはロッカーに叩きつけられる自分が浮かんだ。それは酷く怒りに満ちた目ではつみを見ていた。きっとそのまま殺されてしまうのだろうと、その状況ではそれしか考えられなかった。

(私は…異質なものだったのかな)

「でもみんなでキャッチボールなんかをするうちに、打ち解けたけどね。…私はフェイには人と接することの大切さを教えたかったんだ。人間ってのは、そうやって支えあって生きてきたんだから、誰かを助けたり、助けてもらったり、それを当たり前のように出来るようにフェイに教えたかった」

そのままうつむいた校長。拭かない汗は地面へとポタポタと落ちていく。

「何があったんです?」

「フェイは…ある時を境に学校へ来なくなった。…何度か家に言ったんだけど、返事もしない。中にいるのは解っているんだけどね…。フェイのクラスのみんなで彼の家に行った事もあったんだ。だけどフェイは家から出ようとしなかった」

「バベルという人がフェイに何かしたんじゃないんですか?」

「どうだろう…確かに、フェイとバベルがこの街に来たとき、フェイがバベルの作り出したホムンクルスだという根も葉もない噂はあった。そんな噂は殆どの人が信じなくなったけどね。フェイが学校に通い始めてからは。ただ、フェイが誰とも口をきかなくなる時と同時に、バベルが姿を消したのは事実だよ」

「やっぱりバベルに何かされたんだ…」

「…ふむ。でもあの二人はとても仲が良いという話は聞いてるんだが…」

いつの間にか、二人の上には影が出来て涼しい風が森から吹いていた。

2

フェイとバベルの住む家の庭には小さなベンチがあり、そこは大きな木の木陰になるとてもいい場所だった。バベルが消えてからは誰も手入れをしなくなり、草が生い茂って座ることは出来なくなってしまっていたが。そんなベンチをカーテンの隙間から見ながらフェイは思いふけた。バベルと過ごしていた日々を。

フェイはその時、庭に入ってきた虫を棒で詰まらなさそうにつついていた。バベルはベンチに腰を掛けていつものように重たい書物を膝に置いて読んでいる。

「ねぇ、バベル」

「ん?どうした?」

虫を弄るのを飽きてしまったのか、フェイはいつのまにかバベルに話しかけていた。

「忘れてしまいたい事を忘れてしまえないかな?」

「ふむ…」と言った後、分厚い本を閉じてさらに続ける。「人は重要で無い事は覚えていない。重要で無い事は忘れてしまう動物だ」

「覚えていて辛いことを忘れてしまいたいんだ」

「なら、沢山辛いことを味わって、その中の一つにすればいい」

「…そんなの、全然解決になってないよ」

「具体的に辛いこととはなんだ?」

「父さんと母さんが居ないこと、あの血まみれの部屋のこと…」

「フェイ。人が生きていくという事は、記憶の積み重ねなんだ。誰だって生きていれば辛いことや楽しいことを味わう事になる。それの積み重ねが今のフェイだ。もし、生まれてから今までの記憶がなくなってしまえば、フェイの過ごした日々は無駄になった事になる。今のフェイも存在しなくなる。つまり記憶を無くすという事はフェイが死んで同じ身体で別の人間が生まれてくることをいうのだ」

「別の人間になってもいいよ…夜飛び起きるような事もなくなるんなら」

「確かにそんな魔法もないわけでもない」

「え?記憶を消す魔法があるの?」

「忘却の魔法…ただ、人の心から記憶を消すことは出来ない。その記憶を消した事にするだけで、実際はまだ残っている。記憶と記憶の結合を切るだけだ」

「その魔法、かけてよ!」

「かけてどうするんだ…お前の両親は戦争で死んだ。記憶を消しても両親は帰って来ないぞ。そしていつしか両親が居ないことを疑問に思い、どこにいるのか探し始めるだろう」

「…そ、そうだ!僕の両親が死んだ記憶を消して、代わりに別の記憶を入れてよ!」

「別の?」

「僕の母さんは…バベル、父さんは…学校の校長先生!」

バベルは暫く口をぽかんとあけて呆気に取られたが、しばらくして

「ふむ…興味深いな」と意味深な事を言った。

「バベルなら…できるでしょ?」

「じゃあ校長先生にも、フェイの父親を演じるようにネゴしておかないとな」

「う、うん!」

3

その日のフェイとバベルの家ではまるで引越しでもするかのように、家具を庭へ出して家の中は殺風景に変わっていた。代わりに床にチョークで魔方陣を書くバベル。

「嫌な記憶を消すだなんて、そんな事が本当に出来るんですか?」

心配そうにその様子を見守る校長先生。その目を尻目に特に気遣うわけでもなく、まるで普段食事の支度をするのと同じ感覚で魔法詠唱の準備を始めているバベル。彼女にとっては魔法を詠唱することはそれほど特別な事ではないようだ。

「忘却の魔法なんて、高レベルな魔術師なら頻繁に扱う」

「確かにそうなのですが…それはオークや魔獣に対してでして」

「フェイがそれを望んでいるんだ。それに校長先生も、フェイが嫌な思い出から解き放たれて普通の子供のように過ごすことを望んでいるんだろう?」

「確かにそうなのですが…」

「それに私も興味があるからな」

「え?」

「人が記憶を消して、幸せになれるか」

「…」

フェイを床の魔方陣の上に寝かせてその周囲に香を焚く。しばらくすると香の煙がフェイの身体の上に漂い始め、それを吸った彼は次第に目を閉じた。香の煙による深い眠りがフェイの身体を包む。それが儀式開始の合図だった。

バベルが呪文を詠唱し始めると魔方陣が輝き始める。フェイはその輝きの中でも目を覚ます事はなく、ただ気持ちよさそうに寝息をかいていた。輝きが消えて魔方陣は元の床の文字へと戻った。

「フェイ!」

校長がフェイに駆け寄り小さな身体を抱き起こす。その呼びかけに反応してかフェイはゆっくりと目蓋を開いた。目の前にいるのは少し頭の毛の寂しい校長の姿だ。だが、

「父さん…」

フェイの記憶は入れ替わっているのか校長を自分の父親だと判断していた。それは校長も事前にバベルと話しをしていたからそれほど驚かなかったが、生徒の一人が突然お父さんと自分の事を呼ぶことには少しだけ違和感があったのか、校長は「ん、あぁ」とはっきりとしない返事を返した。

それから校長は学校へと戻ったが、フェイは「いってらっしゃい〜」と手を振っていた。どうやらバベルの施した設定ではフェイの父親は校長先生で多忙な毎日を送っており、たまにしか家に帰らないという事になっているらしい。

「父さん、次はいつ帰ってくるかな?」

「さぁな。多忙な身だからしばらくは無理だろうな」

そういつものように冷たく言い放つと、バベルは床の魔方陣を雑巾で擦り始めた。

フェイは首を傾げてその様子を見ていた。

4

いつものように暑い日々が続き、いつものようにその日も授業が終わると子供達と校長はグラウンドでボール遊びをした。学校に来たときはいつも図書室で一人本を読んでいたフェイも今ではそんな子供達の一人だ。

フェイがみるみるうちに元気になっていく様には周囲の子供達は誰もが驚いていた。校長から身寄りのない彼の父親役を買って出た事を知らされていたクラスメイト達には元気になっていく事情というものは知っていたのだ。校長の事を父さんと呼ぶフェイに少しだけ違和感を感じながらも、クラスに溶け込んでいくフェイを誰もが温かい目で見守った。

日が暮れて帰る頃になると、子供達は互いに親が学校へと迎えに来る。一人、また一人と家路へつく子供達。昔、迎えにくる親が居なかった時には最後まで一人で残るのが嫌で友達とのボール遊びにも参加しなかったフェイ。だが今はフェイには親がいる。当たり前のような事でもフェイにとってはそれはとても大切な事だった。

例えそれが偽りの記憶でも。

「フェイ、今度の休みはどこか行きたいところはないかい?」

普通の父親がする普通のそんな質問も何故かとても大切に思えていたフェイ。ふとどこへ行こうかと考えるフェイだが、

「どこでもいいよ」

「どこでもいいの?」

「うん…父さんと母さんの僕の3人なら、どこでもいいよ」

そう笑顔で返した。

「フェイ…」

フェイが戦争孤児である事は彼の記憶から消されている。だがどういうわけか無意識のうちに親子が3人でいる事の大切さを感じ取っている。フェイの事情を知る校長はそれに気付くと、涙が出るのを隠さずにはいられなかった。

「そうか。行こう!3人でどこか行こう!」

「うん!」

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