1
日の光が部屋を照らすのが朝を知らせるのなら、その部屋には長らく朝というものが訪れていない事になるだろう。締め切ったカーテンの隙間から辛うじて日の光が差し込むが、それすらカーテンの隙間に置かれた色とりどりの小瓶によって邪険に扱われていた。
庭のほうから声が聞こえる。
最初から目が覚めていたから声を聞いたのか、その声によって目が覚めたのか、それともずっと眠っていなかったのか解らない。薄暗い部屋にいるその少年は恐る恐る窓の隙間から外の様子をうかがって、そして(またあの人達だ)と気付くと、空気すら部屋に入れたくないというほどに、カーテンの隙間を強引に閉じた。
少年にとってはその人達が不気味な存在だと思ったのであろう。だがその少年の目を見れば、同じぐらいに不気味だと誰もが思う。部屋のカーテンの隙間から覘く真っ赤な目には大抵の訪問者が恐れおののく。
ほんの数日前から少年が一人で住むというその家に、はるかアルザタールから来たという数人のグループが尋ねてくる。彼らがどういった集まりなのかは少年には解らなかった。アルザタールから来たと、東方の装束を纏った男が言ったがそれも本当とは思えなかった。彼らの格好はどう考えてもアルザタールだけでなく、様々な国から来たと思われる色々な装束を纏っていたからだ。
そして少年に言うのは「一緒にバベルに来て欲しい」という事だ。
突然現れた旅人が一緒に来て欲しいなどと言うのは、誰にとっても怪しい誘いではある。だからかなのか、2回目からは少年が以前通っていた学校の校長先生を呼んできて、再び「一緒に来て欲しい」と頼む。
そして4回目の今日。
それまで来ていた東洋の装束に身を包んだ、無愛想な風雅と名乗る男でもなく、ドアが壊れんばかりに叩き上げる鎧を着たロイドという男でもない、小さな弱々しいノックの音が響いた。すぐさま女性が来たのだと少年は悟った。
出窓からカーテンを少し開いて誰が着たのかを確認する。そしてそれが風雅などと同じく東洋の国の装束に身を包んだ女性である事を知る。少年の目にはどことなく弱々しく、引っ込みじあんで、気の小さいように映った。
とっかえひっかえ誰かをよこせば少年は心を動かして家から出てくるだろうとでも踏んだのか、そんな思惑は誰の目から見てもお見通しだったが、それでも少年は最初来ていた風雅やロイドとは違う反応を見せた。少年は玄関のドアを少しでも開けようものなら引きずり出されるのではないかと思っていたのだが、自分と同じ様な気の弱そうな少女が来たことで、それがまるで罰ゲームで少年の家の玄関に来ているように見えて、彼が面会してやらなければあとで酷い苛めに会うのではと思わせたのだ。
少年は机につき、ペンを取り、ノートを広げた。
(僕は、誰とも会わない事にしています。どうか、僕の事は諦めてください)
少年の風雅達に対する始めての意思表示は、彼らとの意思疎通を完全に絶つ為に放たれた言葉だった。そしてその言葉を玄関のドアの隙間から、外で待つはつみに渡した。
罰ゲームで来たのかもしれない少女への最善の気持ちだった。
2
「やっぱり無理に連れて行くしかないんじゃないか?」
ロイドがはつみが持ってきた少年の手紙を手にとって言う。
「そのホムンクルスの少年を連れて行くのが俺達の役割じゃない、っていう事を知らなければ無利にでも連れて行くんだがな…」と風雅が言う。
そこはゴモラ市内にある学校だ。風雅達がホムンクルスの少年を連れて行く事に協力してもらおうと学校の先生、とくに少年と親しい校長に少年を連れ出す事の相談に乗ってもらっていたのだ。
「それは連れて行けばいいわけじゃなさそうだな」
「彼はバベルという人物について知っているし、何かと彼の協力が必要なんだ。無理に連れて行って必要な事を話してくれなければ、場合によっちゃ俺達の命に係わる」
「首にわっかつけて引きずり出せばいいのよ!」と言ったのはマハだった。これにはロイドも同意見で「家に中に閉じ篭ってるから誰にも会いたくなくなるんだ」と言う。そしていつもは強硬な意見を出さない豊吉ですら、
「風雅さん、このままこの状況が続くのなら彼を無理にでもバベルに連れて行く手段をとらなければならないかも知れません。我々にはあまりのんびりできる時間もない…」
「解ってます…解ってますが…」
そう言いながら風雅が見たのは少年からの手紙を持ってきたはつみだった。
「はつみ、ホムンクルスの少年になんとか一緒に来てもらえるように頼んでもらえないか?家の外に出れないのは何か大きな理由があるはずなんだ。俺達に出来る事があれば彼を助けて、穏便に事を進めたいんだ」
はつみにはなぜ風雅がその役目を自分に与えるのか解った。と、同時に、自分にはそれが無理だという事が脳裏に大きく響いていた。けれども、やるしかないという気持ちから「はい…」と答えていた。
3
学校の待合室で校長をまつ風雅達。
しばらくすると彼らが待っていた校長が現れた。校長は神父の格好に少し頭の毛が寂しくなり始めた中年の男。歳とともに、その身体には苦労が詰まっているのではないかと思えるほど中年太りしており、苦笑いと額の汗をハンカチで拭くのがクセのように見える。
「あぁ、すいません。いらしてたんですね。お待たせいたしました」
と、いつもの苦笑い。
「あれから何度かホムンクルスの少年の家に言ったのですが、前と同じ反応です。今日はこの手紙を貰いました。少し進展があるのかと期待したんですけど、書かれているのは…誰とも会わない事にしている、という内容で…」
風雅が手渡す手紙を受け取る校長。額の汗を拭きながら、手紙を読む。
「ふむ…」
「誰とも会わない事にしている、というのはどういう事なんですか?」
「わかりません…フェイが家に閉じ篭って誰とも会わないようになるのと同じ時期に、彼と同居していた女性が姿を消してますから、それが何か関係あるのかも知れません…」
「女性?」
「私はてっきり彼のお姉さんかと思っていたんですけど、彼は戦争孤児で兄弟はいないと話していましたから、きっと彼の身を案じて世話をしてくれていたんだと思います」
「その女性は突然姿を消したんですか?」
「えぇ…理由を聞こうと思ったんですが、もうその頃から彼は家から一歩もでなくなって」
「それ以外には何か異変は?」
「ん〜…特には」
「解りました。ちょっと、こちらのほうでその女性について調べてみます。もし何か思い出したりしましたら、市内のホテルにいますので教えてください」
「了解しました」
4
それから、ホムンクルスと呼ばれたフェイという名の少年の家にははつみが何度か訪れた。手紙のやりとりが出来るのならと、玄関のドアの隙間から手紙を入れたが、フェイはそれに返す事はもうなかった。手紙の位置すら変わっていなかったのだから、読んですらいないのだろう。
フェイの家は市街地から離れた森の中にあった。オアシスを拠点として発展したゴモラの街では水路が発達しており、森をも形成させる事に成功したのだ。昼間でも涼しい風が吹く森は子供も大人も安らげる場所になっていた。
はつみがフェイの家に何度か行くとき、途中で遊んでいる子供達に出会うことがあった。彼らははつみの服装などから異国の人間だと解っているのだろう。挨拶すらする事はなかったが、幾度もフェイの家にいく彼女の姿をみて、興味が湧いたらしい。彼らのほうから話しかけてきたのだ。
「お姉ちゃん、フェイに何か用事があるの?」
「え?…うん。一緒にバベルに行こうって誘っているんだけど…」
「あ〜…駄目だよ。フェイは」
「フェイ君が人と係わる事を止めてるのってどうしてなの?」
「ん〜…」
その子供はどう説明しようか迷うような素振りで、手に持っていたボールをいじった。それをみた別の子供が彼に応援を出す。
「フェイがここへ引っ越してきたときは苛められてたよ。見た目はあんなんだからさ」
「やっぱりそれが理由なんじゃないの?」
はつみはそこに引っ掛かっていたのだ。人との交わりを避けるのは自分が拒否されているから。なんとなくフェイの境遇と自分とを重ねてしまっていた。理由は解らない。彼女が苛められていたわけでもないのに。
「校長先生が苛められてたフェイを慰めてた。それからみんな仲良くなったんだ。校長先生とフェイと、それから僕とか、クラスのみんなでキャッチボールして遊んだんだ」
「…うん。それで?」
「フェイと一緒に暮らしていた、多分フェイのお姉さんかな。その人が家から姿をみせなくなったんだ。だからあの家に住んでいるのはフェイ一人。その頃からフェイは学校に来なくなって、校長先生が何度か様子を見に家に行ったんだけど、それでもフェイは来なかったよ」
「その女の人、バベルっていう名前じゃなかった?」
「バベル…あ、うん。そうだよ。シハーの首都と同じ名前だから、珍しいなぁって」
「バベル…その人がフェイに何かをしたんだ…」
5
そこは薄暗い部屋だった。湿度は随分あるだろう。締め切った窓から太陽の光が差し込んで部屋の中を蒸し焼き状態にするのだ。
ただそれだけの夢だった。最初は。
フェイが目を覚ますと、隣でバベルが机について何やら難しい書物を読んでいる。彼女はシハー王女レッカにとてもよく似ていた。顔だけでなく、ルックス、仕草、そして雰囲気。ただ彼が王女にあったこともあるはずもなく、それがどれだけ特別な事かは解らなかったのだ。ただ彼にとっては母親のように彼の側にいつもいる一人の女性だった。
少年は汗びっしょりで起きるのだ。だが夢の事は大半の事を忘れている。それが解るのは彼が悪夢だと思っている夢も、薄暗い部屋だけしか印象に残っておらず、一体何が悪夢だったのかがはっきりと思い出せないからだ。最初は。
「どうした?」
顔面蒼白のフェイに向かって少し心配そうにバベルが言う。
「また…また夢を見たんだ。薄暗い部屋の…」
「夢というのは、夢は人の心が想像するものだ。夢と想像はよく似ている。ただ、夢の場合は考えたくないことでも想像してしまう」
「どうして?」
「身体の不調を心が検知して、それを心の不調として悪い夢を見せる。例えば明るい場所で寝たり、蒸し暑い夜には悪夢を見るといわれている」
「僕、病気なのかな?」
「また同じ夢なのか?」
「うん…薄暗い部屋で、そこに立っているんだ」
「ただそれだけの夢なのか?」
「ただ…そう、それだけの夢…酷く蒸し暑くて、とても…怖い」
「怖い?…その部屋にはオークでも住んでいるのか?」
フェイは泣きそうな顔をして布団に顔をうずめ、両肩を手で抱え込むと、ガタガタと震え始めた。それを心配そうに見ていたバベルは彼の強く組まれた両腕を解き、布団に寝かせると軽く毛布を掛けた。
「眠りなくなければ寝なければいい。何か考え事をしていればいい。人生は貴重な時間の塊だ。無理して眠る必要は無い。そうやって何か考えているうちに身体が必要だと判断したら眠くなるさ」
そんなバベルの優しい言葉に安心したのか、フェイは再び眠りについた。
再び夢をみた。
そこはまた例の薄暗い部屋だった。手前にはテーブル。その奥には台所がある。壁にはカレンダーがかかり、食器棚もある。ごく普通の、どこにでもある食卓。だがフェイにはそれがとてもおぞましく、その場から立ち去りたいほどに畏怖の対象となっていたのだ。
テーブルの置くから何か流れてくる。それは水のようで、だが黒く、次第に広がってきている。よく見ると血だった。真っ赤な血はみるみるテーブルの下から広がってきてフェイの足元まで流れてくる。気がつけば、フェイの手にも真っ赤な血がべったりとついていた。思わず叫び声をあげる。周りを見渡す。壁に散った血しぶき、カレンダーも食器棚も、真っ赤な血が散っている。ピンク色の肉塊もある。
そして夢が終わった。
「どうした?今度は何を見た?」
叫び声に驚いてはいたが、いつもの不気味なほどの物静かなバベルの声だ。
「血だ…血が、部屋一面に…どうしよう」
「…ただの夢だ」
「僕はあの部屋を知らない。あんな血も知らない。あのピンク色の…何も知らないよ!どうしてみたことも無いものを夢で見るの?今まで何度か悪夢を見たけど、だけれど、見たこともないものは夢に出てこなかったよ!」
バベルは手に持っていた革張りの分厚い本を開いてフェイにみせた。まるで母親が子供に絵本を読んであげるように。フェイもそんなバベルに少し落ち着いて、彼女の言うとおり、本を見つめた。
「デスティンの書いた絵本の中に、『魂の糸で繋がった世界』という話がある。人は魂の糸を持っていて、様々な世界を糸伝いに旅をしている。そのうちの一つの世界がここだ。だから、人は様々な世界に存在していたときの記憶を持っている」
「でも…これは絵本の話だよ?」
「そうだ。だがデスティンは一つの可能性としてそんな事を思い描いた。それが空想だったとしても、可能性としてはゼロじゃあないだろう?もしかしたら我々は様々な世界を旅をして、そして今この世界に居るのかもしれない。そうでないと言いきる事ができるか?」
フェイは首を横に振った。
「フェイが見たのはその記憶の一片なのかもしれないが、だが、今フェイはこの世界に生きている。夢でどんな事を見たとしても、それが仮に本当の事だったとしても、今この世界で生きているという事実に比べれば、小さな事なんだ」
フェイは絵本の挿絵を見た。そこには小さな男の子の頭から紐の様なものが出ていて、それが別の空間へと繋がっている、そんな奇妙な絵だった。
6
久しぶりに見た幸せな夢だった。
フェイにとってはバベルと過ごした日々が今の彼の支えだったのだ。あの時みた革張りの本は大切に机の引き出しにしまってあった。それを取り出して彼女が読んで聞かせてくれた話を指で追いながら声をだして読む。
だが次第に声は小さくなって、そして指で追って読むのもやめた。フェイの声がただ空しく部屋に響くだけだったからだ。
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