私たちは 次の世代に何を託すのか
80年前 ― 当時 職員たちは ―
一夜明けた様子を物語る
柴田助役の証言
自宅で被爆し負傷した柴田助役が、翌朝登庁した際の回顧録(広島市職労三十年史より)
・・・・ 八時頃市役所へ着いた。美しかったクリーム色の外壁は茶褐色に焼けただれ、窓枠もガラスも残らぬみじめな外貌、表玄関から廊下一面は何が何んだか判明もつかぬ鉄片や石ころや焼けぼっくりで埋まっている。どこからか異様な叫びやうめき声が耳についてくる。
私たちの姿をみつけ、二十人余りの男女の職員が駆けよってきた。これら職員は、今朝出勤したのではなく、昨日の被爆当時から隣接の公会堂撤去跡の広場に避難し、庭にあった大きな池の泥水をかぶり、あるいはそれに全身を浸たし、降り注ぐ火の玉、襲いかかる熱風を避け、ある時は付近に生じた旋風を身近かな何物かにすがりついて身を防ぎ、文字通り生死の境を、否、死一歩手前の苦しい戦いを戦い抜いて助かったのだという。よくぞ、生き抜いてくれた。私はわずかの負傷で一日を安全に過ごしたこの身が恥ずかしく思われてならなかった ・・・・
80年前、1945年8月6日、広島市中心に米軍の爆撃機が原子爆弾を投下し、その核爆発によるすさまじい破壊と放射線が広島市を壊滅させました。
当時の広島市役所は昭和初期に鉄筋コンクリートで建てられ、爆心から1020mの距離にありました。建物は倒壊しなかったものの、爆風が窓ガラスを吹き飛ばし、職員や備品、書類など室内の一切合切が旋風に巻き込まれました。
ほどなくして近隣から火の手があがり燃え移り、1階と地下室の一部を残してほとんどが焼失しました。6日夜から翌朝にかけては、高熱火災の旋風に襲われるなか、逃げ延びてきた人々が公会堂跡地の池で泥水をかぶり、生死の境で何とか命をつなぐ様子が残されています。
7日からは、職員自身負傷したり身内の安否もわからない状況のなかで、罹災証明書の発行や被災者への食糧の配給、死体処理などに尽力されたと記されています。
被爆建物となった旧庁舎は昭和60年まで使用され、現庁舎への建て替えに際し、旧庁舎の歴史や、当時の市職員の体験を残そうと、西側広場地下に旧庁舎展示室が設置されています。
かつては 職場に被爆・戦争を伝えられる人がいた
広島市役所の歴史として私たちが「知る」ことを
かつて広島市役所には、自ら被爆した方々が働いており、労働組合が被爆職員の健康診断の充実を要求していた時代もあります。被爆から80年が経過し、いま在籍している職員は、被爆や復興の経験を先輩職員から聞く機会がない世代に代替わりしています。被爆80年の取り組みとして、当時の広島市役所、市職員がどんな体験をしたのか、この機会に触れてみようと企画しました。
20年後に残った職員は4割
被爆した職員 1068名
445名が死亡
即死 | 45名 |
1カ月以内死亡 | 106名 |
1月〜1年以内 | 12名 |
1〜10年 | 40名 |
10〜S41調査時点まで | 58名 |
死亡時期不明 | 184名 |
生死不明が197名で生存者は4割を切っていた
<昭和41年調査より>
「市役所と原爆被害」詳しく
実は、広島市職労のHPにある平和のコーナーに、「市役所と原爆被害」と題して1999年の「しぶき」に連載した記事を、いまも公開しています。
広島市役所を襲った惨禍が、職員の体験をもとに綴られており、当時の地獄のような状況の一端がうかがえます。いま読み直しても、市職員として心に刻んでおくべき貴重な記録・記憶であり、広島市が、そして、私たち広島市職労が核兵器廃絶を訴える理由を理屈抜きで説明してくれているものと言えます。
当時、自らも家族や同僚、住処を失いながら、被爆した多くの市民の生活再建や都市の復興・再生のために力を尽くされてきた先輩たちがいることに、思いをはせてみましょう。
一度は、市役所西側地下にある旧庁舎展示室を見学してみましょう。
建設直後の旧市庁舎。
被爆直後の市庁舎の様子。
上で紹介した歴史を持つ広島市で、広島市職労は1946年5月1日に結成されました。GHQ統治から解放され、言論・活動が自由になってからは、反核・平和運動を運動方針に掲げ、様々な運動に参加してきました。
なかでも、原水爆禁止世界大会、国民平和大行進では、参加するだけではなく、毎年運営にも協力し、今日までのヒロシマの核兵器廃絶の運動を支えています。
核兵器の非人道性を伝える
被爆体験の継承 広島のつどい
8月4日、2025世界大会の特別プログラム「被爆体験の継承と未来」が開催され、2600名が参加しました。
90歳代の被爆者3名の方から被爆体験を聞きました。14歳で被爆した矢野美耶古さんは、市立第一高女(現舟入高校)に在学していました。あの日、建物疎開(防火帯をつくる作業)の作業にあたっていた生徒たちは原爆で全滅のなか、体調を崩し欠席していた矢野さんは自宅で被爆し、一人生き残った苦悩を語られました。
「新日本婦人の会」による被爆者証言集「木の葉のように焼かれて」の取り組み、「高校生平和ゼミナール」の被爆者ボディマッピングのワークショップ、基町高校の証言者と生徒が協力して描く「原爆の絵」の取り組みなど、被爆体験を継承する多彩な取り組みが紹介されました。
東京・富山発の国民平和大行進 原爆ドームに到着
5月に東京・富山を出発した平和行進は8月4日最終日を迎え、各コースから原爆ドームに向けて歩き、沿道の人たちに核兵器なくそうとアピールしました。
ヒバクシャの声と世界の市民の連帯が
80年間 核兵器を使わせなかった
昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。この受賞は世界各地で高まっている軍事的緊張や核兵器使用の危機への警鐘とも言えるものでした。
ノーベル賞委員会は、受賞理由として、日本被団協と被爆者の代表らによる並外れた努力が、人道的に核兵器を使うことは許されないという「核のタブー」の確立に貢献し、80年間戦争で核兵器が使用されていない事と結びつけ評価しました。
世界各地での原爆展の開催や平和集会など、草の根の地道な取り組みで市民の世論を形成していくことが、核兵器を使わせないために力を発揮しています。
署名も大きな力になっています。日本でも世界でも、被爆者と連帯し、核兵器廃絶のために国際署名が呼びかけられ、NPT(核拡散防止条約)再検討会議などで議論を動かす力となってきました。
核兵器禁止条約までステップアップしてきた歩みを止めないことが大切です。
核兵器廃絶こそ
現実的な安全保障政策
核に固執している国は少数派
2024年12月の国連総会では、核兵器禁止条約への参加を促す決議に127か国が賛成、核保有国と「核の傘」の国44か国が反対しました。核兵器を持たない国にとって、世界から核兵器をなくすことが、安全保障上重要だとの考え方が拡がっています。
核保有国は「核抑止力論」を持ち出し、核兵器保有を正当化しています。2023年5月のG7広島サミットでは、核抑止力を正当化する「広島ビジョン」が決議され、被爆者や広島市民、平和団体を失望させました。
核保有国の横暴勝手な振る舞いが核抑止力論の矛盾を広げる
核兵器を持っている国が、きちんと管理・コントロールができるという前提がなければ、「核抑止」は成立し得ません。ところが、いま戦争当事国となっているロシアやイスラエル、アメリカのトランプ大統領は、国際社会の批判に耳を傾けず、自国の都合を優先し、身勝手な振る舞いを続けています。核保有国が、核抑止力論の前提とされる「核兵器を適正に管理ができる」国であり続けるという仮定が、非常に怪しくなっています。現に、戦争の過程で核使用をほのめかし、「核抑止力論」と現実の矛盾が広がっています。
核使用の危機の高まり
現核保有国の政府や軍の暴走、新たな核保有国が現れ他の国々に危険な脅しをかける可能性、テロ組織などに核兵器が拡散する可能性など、核兵器による力の均衡は核の力に依存すればするほど、崩れる危険も高まり、もうその限界は近づいています。人類が壊滅的な被害を被る前に、核兵器廃絶に舵を切る必要があります。