第六話

見知らぬ天井


宇部新都市「市民総合センター」。

20世紀までは「市役所」と呼ばれていたところだ。

自分達の生活に密着しながら、よほどのことが無い限り市民がそこへ足を向けることは無い。

まあ、それはそれとして、例えば耳の不自由な人がここを訪れた時、ちょっとしたことが起こることもある。

今回は、そんなお話・・・。


センターの正面玄関を入ってエントランスホールを抜け、インフォメーションカウンターを右手に行ったところに『福祉環境部・社会保障課』という部署がある。健康保険制度や、年金、そういった関係のセクションである。碇シンジはそこに勤務している。

きょうもシンジはせっせとパソコンに向かい、データとにらめっこをしていた。いつもと変わらない職場での一こまといったところか。

ところが、そこに自分の仕事以外のことが舞い込んでくることがある。

それも忙しい時に限って・・・・・。

リリリリリリリリ・・・

カチャ・・・・

電話を取ったのは、この係の係長だった。彼は二言三言会話をした後、電話を切ると斜め前の席で仕事をしていた部下に声をかけた。

「碇君。福祉課からおよびだ。」

キーボードを叩いていた手を止めて、シンジは声のした方を振り向いた。思わず軽いため息が漏れる。

「通訳・・・・・ですか?」

係長はそんなシンジに対して、ただうんうんとうなずいている。

「すまんが、行ってやってくれよ。忙しいだろうがね。」

「ええ。それはいいんですけど・・・。それより、たびたび抜けてすみません。」

席から立ったシンジは上司に向かって、ぺこりと頭を下げた。

「ま、誰にでも出来ることじゃないからな。気にしなくていい。」

「はい。・・・・じゃ、行ってきます。」

「ああ。」

そうして、シンジは福祉課へと向かった。

『誰にでも出来ることじゃないからな。気にしなくていい。』

頭の中には先ほどの上司の言葉が繰り返されている。

「べつに特別なことをやってるわけじゃないんだけどな・・・・」

別段上司に不満があるわけではないし、上司も快くシンジに声をかけていることもよく分かっている。

しかし、ある意味特別扱いされるような言葉は、かつてサードチルドレンと呼ばれていたシンジには、どことなく寂しさを感じさせるものだった。

「ま、これも一つの可能性ってね・・・・・。」








ほどなく福祉課のカウンターがシンジの目に入ってきた。

そこには、老人が一人座っていた。

シンジはその姿を確認すると裏に回り、福祉課のブロックに入っていった。

「よお、碇君。いつもすまんな。」

シンジに声をかけてきたのは、障害福祉係の藤崎係長である。30代半ばを少し越えた藤崎は、喫茶Neonらいぶのマスターと高校時代の同級生だったらしい。シンジも1、2度らいぶで彼とであったことがある。

シンジは藤崎に会釈をすると、カウンターのほうにまわった。するとカウンターの椅子に座っていた老人はシンジの顔を見つけると、にっこりと笑い、

{こんにちわ!}

と、手話で挨拶をした。






シンジがこの老人と出会ったのは初めてだ。

年齢は70歳を少々越えたところだろうか。すこし太めではあるが背はそんなに低い方ではない。もっとも父親譲りで、180センチをゆうに超えるシンジにしてみれば老人を小さく感じるのはしかたがないことではあった。

障害福祉係の担当者の話によると、自分の使っている補聴器が壊れたので、新しいものを申し込みにやってきたらしい。そこまでは筆談で聞き出すことが出来た。ところがその後で、なんだか込み入った話になってきたのでシンジを呼びに行ったということらしい。

ただ、この担当者君の名誉のために断っておくが、べつに彼は福祉課の職員としての職務を放棄してシンジを呼びに行ったわけではない。老人と筆談で会話をしていた時に、この老人が文章を書くのが苦手であることが判明した。そこで『手話の方が話しやすいか?』と書いたら老人がそれを肯定したために結果としてシンジの出番となったのである。

シンジがきた時にはすでに補聴器の交付申請は終わっていた。実際簡単な役所の手続程度のことならば、手話通訳を頼むこと無しにやってくるろう者は多い。

『用事が済んでいるんだったら、なんで?』

シンジがそう考えるのも無理はない。

『ま、いいや・・・・・』

そのことはいまからゆっくりきいてみよう・・・などと思いながらシンジはカウンターの老人と向かい合う格好で椅子に座った。

{こんにちわ、おじいさん。}

シンジの手話を見た老人は、にっこり笑うとおなじようにあいさつをした。

{こんにちわ。}

シンジも初対面なので、まずは当たり障りの無い会話から始めることにした。本来の目的である補聴器の手続きについても終わっているということだったので、割と気楽にシンジは構えていた。

『あ、でも込み入った話みたいだって係の人が言ってたっけ・・・』

{補聴器を申し込みに来られたんですってね。}

にこにこしながら老人はただうなずいている。

{僕は「いかり」と言います。}

シンジが名前を告げると、『ほう・・・』というような表情で、

{「いかり」?珍しい・・・}

と答えた。

{そうでしょう、よく言われるんですよ。母方の姓なんです。}

{おとうさん、養子?}

{ええ、まあ。父の旧姓は「ろくぶんぎ」って言うんです。}

それを聞いた老人は、さらに驚いた表情を見せた。

{もっと珍しい!}

{はは、そうでしょう。}

どうやら、初対面のつかみはOKといったところだ。



{いかりさん、福祉課の人?手話通訳の人?}

{いいえ、僕はここの係じゃありません。手話は今はまだ勉強中です。}

{そう・・・センターに手話できる人がいると、助かる。いかりさんの手話よく分かる、上手いと思う。}

『まだあいさつしただけなんだけどなぁ・・・・・』

思わずシンジは苦笑して頭をかいた。この場合の『手話が上手い』というのは、まあ社交辞令みたいなものだ。

それよりもシンジはここの担当者が言っていた、込み入った話のことが気になっていた。

{ところで、補聴器のほかに、なにかご用事があったんじゃないんですか。}

{ん・・・・そんなに急がない・・・・今日は補聴器のことが一番。}

老人は相変わらずにこにこしている。

{補聴器壊れていてこまった。大好きなテレビも、見るのが大変。早く新しいのがほしい。いかりさんからもよく言っておいて。}

{はいはい。でもそんなにすぐには無理かもしれないから、もう少し待っていてください。}

シンジはそう言って、担当者に補聴器の交付はいつ頃になるかを確認した。

「補聴器の交付はいつ頃になるんですか?急いでいらっしゃるみたいですけど。」

シンジの質問に、福祉課の担当者は怪訝そうな顔をして答えた。

まるで『なんでそんな質問が出るんだ?』とでも言いたそうな顔である。

「補聴器ならすぐにでも交付できるよ。そのIDカードを持って所定の業者のところに行けばね。そのことはほら、そのおじいさんの前にあるメモ紙に書いてあるだろ。業者にはもう連絡も入れてあるよ。」

「えっ?!」

シンジはすぐにそのメモ紙を手にしてみた。たしかにいま担当者の言ったとおりのことが書いてある。

『もしかすると、ちゃんと伝わってなかったのかな?』

{おじいさん、このメモ読みました?}

そういってシンジはメモ紙を老人の前に差し出した。

すると、

{あ・・・ああ!そうだった。わすれてた。}

老人はそう言ってたて続けに、

『歳を取る』『ぼけた』『ばか』などと手話を連発した。

シンジはあわてて、

{おじいさん、いいですよ。だから早くここにいって、補聴器をもらってください。}

と伝えた。

実際、時間ももはや夕刻に近かったため、いそいで行くにこしたことはない。

ところが、老人はいっこうに席を立つ様子が無い。シンジにしてみれば、少しでも早くいかないと、もし間に合わなかったら・・・という気があるので、

{もう、夕方だから急がないと・・・}

べつに老人を急かしたわけではないが、そうしてようやく老人はカウンターの席を立った。

{それじゃあ・・・もらいにいく・・・・・}


エントランスホールから玄関に向かう老人の後ろ姿が、先ほどよりも一層小さく見えたのはシンジの錯覚だったのだろうか・・・。


ぽん・・・


不意にシンジは後ろから肩を叩かれた。

「ごくろうさん。」

振り向くとそこには、障害福祉係の係長が立っていた。

「あ、藤崎係長。」

「どうだった?あのおじいさん。」

「ええ、補聴器のことは、いいとおもうんですけど。」

「例の『込み入った話』ってやつかい?」

そう言うと藤崎は、担当者の松木の顔をのぞいた。

急に話を振られた松木は、あわてて弁明した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!たしかにあのじいさん、いろいろ紙に書いていたんだから!」

そういうと彼は先ほどまで筆談に使っていた紙をシンジに見せた。

たしかに補聴器のやり取りのほかに、なにやら書いたり消したりした跡があった。

横からは藤崎が覗き込んでいる。

「ふうん・・・・なるほど。」

「でしょお!」

「・・・・で?」

「で?・・・・って・・・。だから、じいさんが書いたり消したりするもんだから、こりゃあ筆談が苦手なのかな?って思って・・・・」

なんとなく最後の方は、ごにょごにょしながら松木は答えた。

それを見ていたシンジは、

「だいじょうぶだと思いますよ。それに、あのおじいさんもそんなに急いでないって言ってましたから。」

と松木をフォローした。

すると松木も申し分けなさそうに、

「すまん。おれが手話できれば良かったんだけどな・・・。」

などと言うものだから、

「いいですよ。なんでしたら、うちのサークル入って勉強してみます?」

とシンジも笑いながら答えた。ただし藤崎だけは、

「そうだぞ!このさい勉強しろ!」

と至極真面目に松木をこずいていた。


とまあ、この程度のことはたまにあることだった。



明けて翌日の昼休み。シンジの職場にて。

「しっかし、おまえもこまめに弁当作ってくるなぁ・・・・。」

同僚の山本は、シンジの弁当箱を覗き込んでため息交じりにぼやく。

「まあ・・・・中学の時から作ってますし・・・。」

当然のようにシンジは答える。アスカの弁当まで作っていることは、口が裂けても言えない。

「おれなんかこれだぞ。みろ!愛情てんこ盛の愛妻弁当!」

そう言った山本の右手には、五百円玉が一枚乗っかっていた。

「・・・・・・持ち運びに便利そうですね。」

「・・・・・・食堂行ってくるわ・・・・。」

一人寂しく食堂へと行った山本の背中が見えなくなると、シンジも自分の弁当を食べ始めた。

『ん・・・今日もいい出来だ。アスカもちゃんと食べてるかなぁ・・・・。』

そのアスカは明日から始まる学会に出席のため、名古屋に向かっている。

いまごろはリニアの中で、シンジの作ったお弁当を食べていることだろう。


昼食を終えて仲間と雑談をしていると、窓口当番の女性職員がシンジのところにやってきた。

「碇君、お昼食べた?」

「え?あ、うん。終わったけど。」

そういうと女性職員は『ほっ・・・』と胸をなで降ろし、

「よかった・・・碇君にお客さんが来てるの。食事中だからって待ってもらってたんだ。」

「あ、ありがと。すぐ行くよ。」

弁当箱をかばんに仕舞いながら、シンジは

「お客さんってどんな人?」

すると、

「あのね、耳の不自由なおじいさんなの。」

との答え。

思わずシンジの手が止まった。

「え?」


表の窓口に出てみると、そこにいたのはまさしく、昨日福祉課に補聴器を申し込みに来た老人であった。彼はシンジを見つけると、にこにこしながら手を振ってきた。

{こんにちわ、おじいさん。}

シンジもあいさつをしながら、カウンターについた。

{よく僕がここにいることがわかりましたね。}

すると老人は、

{さっき受付で聞いた。手話のできる、いかりさんって。}

『なるほどね・・・・』

そして老人は自分の耳をシンジの方に向けた。みると新しい補聴器が、耳たぶに掛かっている。

{あ、あたらしいやつですね。}

老人は嬉しそうにうなずいた。

{これで、テレビもたのしい。}

{あの・・・、補聴器をかけるとやっぱり違います?}

シンジは老人にたずねた。

{はっきりは・・・・聞こえない。でも、音が全然無いのも嫌。}

{・・・・・・・なるほど}

耳の聞こえるシンジは、このような場合どんなリアクションをすればいいのだろう。

幸いにもすぐに話題が変わった。

{いかりさんは、この町の出身?}

{いいえ、・・・・・第3新東京から来ました。}

{そう・・・。私は佐賀で生まれた。}

{ろう学校をでて、しばらく小倉にいた。そこで結婚して、10年前にこの町に来た。}

『ああ・・・それでかぁ・・・』

シンジはやっと納得した。と言うのは、昨日通訳をした時に、あまり見慣れない手話の単語が出てきて、少々戸惑ってしまったからであった。九州での生活が長かったこの老人の思考言語は、当然のことながら佐賀や小倉の手話がベーシックだったのである。

言葉には方言というものがある。方言は『国の手形』ともいわれ、その地方の歴史・気候・風土といったものに育まれながら、変遷してきた。手話の場合にも方言がある。しかしそれは、『耳の聞こえない人たちの世界』というミクロな世界で生まれたが為、口話以上に特殊な変遷をたどってきた。また、世代によって言葉の違いがあるように、手話もまた若者の使う手話と、年配の人が使う手話とでは変化が出てくる。だから、シンジもこの老人の手話に戸惑いを感じることがあったのだ。

{僕はこの町に来て、手話を勉強するようになりましたから。}

{手話、どのくらいやってる?}

{まだまだ少しだけですよ。}

ここでシンジは重要なことに気がついた。

{そういえば、おじいさんの名前は何というんですか?}

すると老人は、右手を肩口から背中に回し、ちょうど背中に背負った刀を抜くような仕草をした。

{ああ、佐々木さんですね!}

そう。『佐々木』という手話は、剣豪佐々木小次郎が由来となっている。

ちなみに『宮本』という手話は、宮本武蔵が由来というわけではないので、念のため。

自分の名前をシンジに覚えてもらい、佐々木老人は一層うれしくなったのか、それからしばらくの間、自分の故郷である佐賀のことを、時には大袈裟なジェスチャーを交えながらシンジに話して聞かせた。

そのうち昼休みも終わり、そのことをシンジに告げられた老人は、補聴器のことで再びシンジに礼を言うと去っていった。

『補聴器、間に合ってよかったな。めずらしい手話も見せてもらったし、アスカが帰ってきたら教えてやろう。』

などと考えていると、

「いっかりー!会議始めるぞー!」

「はい!」

慌ててシンジは、デスクの書類を取りに行った。





そのまた次の日。

この日はちょうど今月分の高額療養費の受付が始まった日で、朝からシンジの職場のカウンターは手続に来た被保険者でにぎわっていた。シンジも今日はほとんどデスクにはつかず、ずっとカウンターで応対に追われていた。

「それじゃあ、今回の高額療養費はここに書いてある金額になります。振り込みは世帯主名義の口座になりますから。あ、外来の分は今回含まれないんですよ。それで・・・・・・・。」



ひっきりなしに訪れるお客さんを何人か受け付けた後、ふと顔を上げるとそこには見なれてしまった老人の顔があった。

「あ!佐々木さん!」

3日連続だ。

{や!}

相変わらずの笑顔である。

{どうしたんですか?}

{近くまで来たから寄ってみた。}

{なにかの手続きですか?通訳いります?}

忙しさにかまけていたわけではないが、多少つっけんどんだったかもしれない。

{いそがしそうだね・・・・・}

佐々木老人からちょっとだけ笑顔が消えた。

そこに声をかけてきたのは『愛妻弁当』の山本だった。

「碇、ここはいいから、このおじいさんの相手をして差し上げろ。」

「山本さん・・・。」

山本はシンジに諭すように言った。

「それもおまえの役目だぜ。」



・・・・・・・そうだ。いくらなんでも、いまのはちょっとまずかったな・・・・・・・・・


「すみません。じゃあちょっと失礼します。」

シンジは山本にそう言うと、

{佐々木さん、ここは込んでいるからロビーに行きましょうか。}

そうしてシンジは老人を促して立ち上がらせると、連れ立ってロビーへと向かった。

まあ、ロビーといえば聞こえは良いが、正確には通路脇においてあるベンチといった方が良いかもしれない。地方都市の自治体の悲哀である。

ベンチに腰を下ろすと、シンジは佐々木に話かけた。

{ねえ、佐々木さん。ここのところ毎日ここに来るけど、家は近くなんですか?}

すると、

{ん・・・・・自転車で20分ぐらい。}

いくら高齢者とはいえ、自転車で20分の距離ということはそれなりの距離である。

{どの辺ですか?}

佐々木老人がシンジのその問いに答えるまで、幾ばくかの時間があった。





























{友愛園・・・・・・・知ってる?}




























『友愛園?・・・・・どっかで聞いたような・・・・・・・・・・あ!!』

































{老人ホームじゃないですか!!}



































それはシンジを驚かせるのに十分な答えだった。

これが、佐々木老人が耳の聞こえる普通の老人だったら、シンジも驚いたりはしない。

しかし、耳の不自由な彼がホームに入っているということは・・・・・・

『まさか・・・・・・・・・老人ホームに入っていたなんて・・・・・・・・・』






恐る恐るシンジは佐々木に質問をしてみた。

{あの・・・・・・その・・・・・・佐々木さんのご家族の人って・・・・・・・・}

{うん。・・・・家内は・・・・・・死んだ・・・・・・。3年になる・・・・・・。}

{亡くなった・・・・・?}




昨日までの佐々木老人は、ほんとうに豊かな表情で手話をしていた。

しかし今の彼にその面影はない。

{娘が・・・・・いる。もう結婚して・・・・・・こども・・・・・わたしの孫・・・・・一人いる。}

{家内が死んで、しばらく娘夫婦のところにいた・・・・・。孫が生まれて・・・・・娘が子どもの世話に掛かり切りになって・・・・・・。それで・・・・・・・老人ホームに入った・・・・・。自分で申し込んだ・・・・・。
娘もその方が良いって言った・・・・・・・。子どもの世話だけでも大変だとおもう・・・・・・。わたしもその方が気兼ねしなくていい・・・・・・・。そう思った・・・・・・。}


『そんなのって・・・・・・・・・・・・・』


{でも・・・・・ホームも良い・・・・・。ご飯心配しなくていい・・・・・。お風呂も広い・・・・・。}


『そうじゃないでしょう!さびしくないんですか?!』


{友達もいる・・・・。おなじ年寄りばっかり・・・・。寮母さんに手話教えてあげたり・・・・。}


『その中に、あなたと手話で話せる人がいるんですか?!』


{園遊会では・・・・・・お酒もでる・・・・。カラオケ歌う人もいる・・・・・・。このまえは手話でカラオケやった・・・・・。寮母さんに・・・・・歌詞・・・教えてもらって・・・・みんな・・・・拍手してくれた・・・・・。}


『・・・・もう・・・いいよ・・・佐々木さん・・・・』


{このセンターにいかりさんがいて、よかった。いかりさん、優しい手話で話す。}


『ちがうよ・・・佐々木さん・・・・』







シンジの心の中は、いつのまにか自らのアンチA・Tフィールドによって侵食されていた。











『きのう、おとといと・・・・僕はこの人のどこを見てたって言うんだ・・・・・・・・。』









『くそっ!・・・・・・・・・・・何て答えりゃいいんだ!』















『結局・・・・僕は・・・・また逃げている・・・・』











どのくらいの時間だろうか・・・・・シンジと佐々木老人は、じっとベンチに座ったままだった。

どちらもなにも話さない。

目の前を通り過ぎていく人たちも、二人の眼には映らないかのように・・・・・・・・。


ふと、老人は腕時計をみた。つられてシンジも自分の腕時計に目をやる。

{そろそろ、お昼ご飯だから・・・・・・帰る。}

老人はそう言うと、腰を上げた。

{じゃあ、いかりさん。忙しいのにごめんなさい。仕事がんばって。}

シンジは、


{ありがとうございます・・・・・。気をつけて帰ってください・・・・・・。}


と、答えるのがやっとだった。




















その日の夕方、仕事を終えたシンジは福祉会館へとやってきた。

一階の事務所には、この町の専任手話通訳者が配置されている。

事務所の通常の業務時間は過ぎているため、シンジは裏手から中へ入っていった。

「こんにちは。手話サークルのものですけど、専任通訳の岩城さんか岡田さんはいらっしゃいますか?」

すると出てきたのは、通訳の岡田トモコだった。

「あら、いらっしゃい。どうしたの?シンちゃん。」

どことなくミサトに似た雰囲気(含年齢)のこの女性は、シンジたちのサークルの副会長でもある。

「すみません。あの・・・・ちょっと相談ってゆーか・・・・・」

「相談?こっちの関係?」

トモコはそういうと『手話』という手話をした。

シンジはコクンとうなずいてそれを肯定した。

事務所の中には、社会福祉協議会の一般職員もまだ残っている。

「じゃあ、相談室に行きましょうか。」

「ええ。」

二人は事務所の奥にある相談室へと入っていった。










「で。どうしたのかしら?」

シンジにコーヒーをだしながら、トモコはテーブルの向かいに座った。

シンジは一口コーヒーに口を付けると、話し出した。

「佐々木さんっておじいさんのことなんですけど・・・・・・。」

「もしかして、老人ホームの?」

「知ってるんですか?」

トモコもコーヒーに口を付けると、椅子に座り直した。

「もう2年になるかしらねぇ・・・・・・。ちょうどわたしが専任通訳でここに来たばかりの頃だったわ。」

「高齢福祉課から連絡があったの。『耳の不自由な人が、老人ホームへの入所を希望してるんだけど』って。それで、窓口に行ってみると、佐々木のおじいちゃんが座っていたわ。」

「じゃあ、岡田さんが?」

「そうよ。入所の相談からこっち、ずっと関わってきたわ。」

「それよりも、シンちゃん。佐々木さんのことはどこで知ったの?」

「おととい補聴器のことでセンターに来られたんです。それで、通訳を福祉課に頼まれて・・・・。きのうもきょうもセンターに来たんです。老人ホームにいることは、きょう聞きました。・・・・・・・・・・・なんで老人ホームに入ったんですか?まわりに手話のわかる人がいるわけじゃないんでしょ!」

少々興奮気味のシンジに比べ、トモコは落ち着いたままシンジの話を聞いていたが、

「おじいちゃんの奥さんが亡くなって、娘さんのところへ身を寄せていたのは知ってる?」

「そのことは聞きました。娘さんに赤ちゃんが生まれて、掛かり切りになったって・・・・・・。」

「そうね。たしかにそうだけど・・・・・・・。」

「他になにか理由があるんですか?」

「・・・・・・このことは、おじいちゃんのプライバシーに関わることだから、絶対にオフレコよ。」

そうことわると、トモコは話を続ける前にシンジの顔を改めて見つめた。

シンジも緊張した顔でうなずきかえす。

「娘さんに赤ちゃんが生まれた頃からね、親子の・・・・・・おじいちゃんと娘さんの仲が、急に悪くなってきたらしいの。それが、赤ちゃんに原因があったのかどうかはわからないんだけど、とうとう取っ組み合いの喧嘩までするようになったの。どうも娘さんが赤ちゃんを、おじいちゃんに近づけないようにしている節があるのよ。初めはおじいちゃんの、なんてゆうか、やきもちみたいなものじゃないかって思ってたんだけど、娘さんにも話を聞いたらね、はっきりとは言わないまでも、言外に感じるの。
どうも、かなり以前から親子の間に何かあったみたいなのよね。奥さんが生きている間はそんなことなかったらしいんだけど、亡くなってから・・・・・・。たぶん奥さんが二人の間の緩衝材みたいな役割をしていたんじゃないかな。」

そこまで話すとトモコは再びコーヒーに口を付けたが、すでにぬるくなっていたため、思わず顔をしかめた。

それに対してシンジは、

「でも、だからっていきなり老人ホームってことはないんじゃないですか?娘さんと離れて独りで暮らすことだって・・・・・・・。市営住宅にはろう者だって住んでいるんだし、誰とも話の出来ない老人ホームよりずっと良いじゃないですか。」

するとトモコは静かに首を振った。

「それが出来ればわざわざ娘さんのところに住んだりしないわよ。あのおじいちゃんは一人暮らしはまず無理ね。料理に洗濯、その他家事一般は全然だめなの。仮にホームヘルパーを派遣しても一週間に2回が限度だわ。その間に飢え死にしちゃうわよ。若い頃は腕の良い職人だったらしいんだけどね。よほど奥さん、面倒見の良い人だったのね。」

「それにね、あのおじいちゃん10年前にこの町に来てから、ろう者の友人がいないの。もちろん聴障会にも入っていないわ。」

「ホントなんですか?!」

「ええ、事実よ。」

シンジは一つのことに気がついた。

「そういえば、佐々木のおじいさんと話をした時、佐賀や小倉の話ばっかりでこの町のことは話には出てこなかった・・・・。」

「やっぱりね・・・・・。」

「何か知ってるんですか?」

ホームの入所から関わっているトモコならば、その理由も知っているはず。しかし、

「いいえ。おじいちゃんがこの町に来てからのことは、わたしはほとんど知らないわ。ホームの入所相談の時でもケースワーカーがいろいろ聞いたんだけど、なにも話してくれないの。」

どうやらトモコも隠しているわけではなさそうだ。

「サークルの古株の人にも聞いてみたんだけどね。収穫はなかったわ。」






しばらくの間、沈黙が続いた。

相談室の壁にかけてある時計の音が、やけに大きく聞こえてきた。

「岡田さん。」

シンジが沈黙を破る。

「ん?なに?」


「佐々木のおじいさん、2年間どんな気持ちで老人ホームで過してきたんですかね・・・・・・。」


ふぅ・・・・・・・・・


トモコのため息がひとつ







「それよりもこの町に来てからのことが、わたしは気になるわ・・・・・・・。ねえ、シンちゃん。わたしもときどきおじいちゃんのところに面会に行ってるんだけど、いい機会だから明日行ってくるわ。なにか伝えておくことある?」


少し考えた後、シンジは


「じゃあ・・・・・昼休みぐらいしか時間取れないけど、また九州の手話を教えてくださいって・・・・。」





どうやらトモコにとっては、期待したとおりの返答だったようである。

「ありがとう。碇シンジ君。」




そうしてシンジは福祉会館をあとにした。











自分のマンションに帰ってきたシンジは、かばんから弁当箱を取出すとキッチンのテーブルの上に置き、そのままリビングへ行った。上着を脱いでネクタイをゆるめるとそのままソファーに寝転がった。シンジの視界には部屋の天井だけが映っている。








『あのころ・・・・・天井が変わると何ともいえない不安に包まれていたけど・・・・・・』









『佐々木のおじいさんの眼には・・・・・・・どんな天井が映っていたんだろう・・・・・・』











いつのまにか眠り込んでしまったシンジは、FAXの着信音で眼を覚ました。




カタカタカタカタ・・・・・・・・・・




ピーーーーー







バカシンジへ!

やっと学会が終わりました。明日はそっちにかえるからね!

首を長くして待ってなさい!

アスカ

P.S.浮気してたらコロスわよ!








『なんだってんだよ・・・・・アスカは・・・・・・』

苦笑しながらアスカからのファックスをごみ箱に捨てようとしたシンジだったが、なんとなくアスカに見られているような気がして思い止まった。情けない奴である。


そして、


カチャ・・・・・・

ピッ・ピッ・ピッ・ピッ・ピッ・ピッ・・・

ツー




「もしもし・・・・・・父さん?・・・・・風邪とかひいてない?・・・・・・・」










おわり


今回は特に感想待ってます。

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あなざ〜けーす(第七話)

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