広島市役所と原爆被害 8

 復 興 の 始 ま り   職 員 の 生 活


 ■死体処理は十一月まで

 八月一〇日以後、死体の焼却が続いた。百〜二百bおきほどに死体を並べ火葬した。昼夜にわたり市内の至る所で火葬の煙が立ちこめ、未処理死体の腐臭と混ざり、全市は当分の間臭気で満たされた。焼け跡や川に散乱していた死体は、殆ど軍隊、郡部の警察関係、警防団によって火葬された。

 八月十五日、終戦となり軍隊は解散された後、市内の崩れ落ちた壁や煉瓦の下、防空壕や井戸の中に数多くの死体が残されていた。この死体処理は保健課が担当した。保健課には戦時中百数十人の人夫がいたが被爆後は殆ど出てこないため、作業員を募集した。当初皆無だった応募者もやがて増え、数班に分かれ市内を歩き回り、死体を引き上げては学校の校庭などで火葬した。腐乱した死体の処理は困難を極め、十一月頃まで続いた。


 ■食糧供出を懇願

 被爆直後は周辺郡部からの援助、軍部の炊き出し、敗戦後は軍需物資の配給、食料品商業組合の再編、食糧営団の協力で食糧の配給を続けたが、昭和二十年の秋頃から主食の遅配・欠配が次第に激しくなった。
 職員は市会の食糧対策委員とともに県下の農村を行脚し、食糧を供出してもらうよう懇願して回った。市は、焼け跡の空き地は、自分の土地・他人の土地を問わずすべて耕作し、さつま芋、南京その他の食糧を作るよう市民に指導した。翌昭和二一年七月の市民一人一日分の配給量は一号九勺(二八五c)だった。


 ■衣類の確保に奔走
 市民の大部分は家財いっさいを失った。衣料と寝具は、秋を控え深刻な不安だったが、当時の状態から、正規ルートで手に入れることは不可能だった。
 市は窮余の策として軍から軍用毛布と軍服をもらう交渉をし、一万コウリ(一〇万人分)の被服払い下げを受けた。方々に掛け合い、鉄道から貨車三〇両を回してもらい、疎開先の川上部落から西条駅まで、西条農業学校の生徒に勤労奉仕で運んでもらう段取りがやっとつき、荷物が広島駅につき始めたのは九月だった。殆どすべての市民に暖かい被服・靴などを配給できた。さらに、海軍から輸出用綿布の払い下げを交渉し、婦人と子どもに配給した。


 ■住宅事情

 被爆後の市民の住宅難は言語に絶した。市民は、焼け残った木材、割れ瓦や焼けトタンなどを集めて掘立小屋を造り、防空壕を仮屋とし、半壊家屋を修理してようやく雨露をしのいだ。  九月一七日、広島を暴風雨が襲いさらに被害を加重した。半壊家屋・仮小屋がつぶれ、防空壕が崩れ、住むに耐えなくなった。市は周辺部で余分の部屋を持っている家を調査し、困っている者に貸与するよう斡旋したが効果は少なかった。
 当時の住宅建設は住宅営団が一手に行ったが、営団の建設住宅ではとても足らなかった。市は純市費で応急市営住宅の建設を考え、経費を最小限に節約し一戸でも多くと、基町にバラック立て十軒長屋二百戸を建てた。完成は二一年九月だった。


   ■市役所に住む

 このような住宅事情により、被爆直後から、焼けただれた市庁舎の一部は市職員の住宅となった。コンクリートの上にムシロを引く程度だったが、縁者のもとに転出する者、避難先から転入する者等の出入りがあり、当初は二〇人程だった。後には廃材を利用した部屋がけが四階の一室に設けられ、十幾つかの家族が二年近く生活した。


   ■一つの家族のように

 八月半ば、出勤できる職員は八〇名ほどだった。肉親を失い、家を焼かれ、身体は傷つきながら、悲しみや苦しみは意に介さないかのごとく仕事に熱意を示した。役所というよりむしろ一つの大家族のように心と心が堅く結ばれていた。
 昨日までともに働いていた同僚が、翌日は死亡する悲劇も限りなく起こった。「髪が薄くなったではないか、明日はおまえの番だよ―」などと冗談を言われ、それがあたかも死刑の宣告でもあったかのように、翌日亡くなった年若い女子職員もいた。これらの犠牲者は、他の市民もそうであったように、付近の土を掘り下げただけの焼き場で、読経も線香もなく、野辺の送りで別れを告げた。

 やがて冬がやってきた。どの部屋も同様にドアも窓枠もなく、床もでこぼこだった。庁舎を修理する財源も資材もなく、ふきさらしのままだった。吹雪が舞い込み、寒い間はオーバーやコートを着込んで仕事をした。燃料の木炭も十分に手に入らず、木ぎれを持ってきては燃やした。そのため、部屋中が真っ黒くなった。


 ■職員の五割が死亡

 広島市職員は、殆ど全員が被爆した。幸運にも市内にいなかった職員も、その大半は直ちに市役所に駆けつけ、救援作業・復旧作業に取り組み、入市被爆している。原爆症に倒れる仲間を見、自らの不安を抱えながら、市の職員は、広島の復興にとりくんできた。
 被爆が判明している職員は、昭和四一年時点で一〇六八名、そのうち四五名が即死、一ヶ月以内にさらに一〇六名が死亡。死亡の状況も場所も分からない生死不明が一九七名にのぼっている。殆どすべての被爆職員は、年内のうちに原爆症におそわれ、脱毛、脱力、出血等の症状をみた。その多くはいったん快復したが、一〇年・二〇年後にも原爆症を発症している。昭和四一年時点では四四五名、約五割が死亡していた。
 市職員として原爆を体験し、生存している先輩は、残念ながら数少なくなっている。


   ■冬を越し、春を迎えて  労働組合を結成

 市職員は、市民とともに、原爆の焼け野原のもとで寒く、厳しい冬を越した。焼き尽くされた広島から、市の復興と、新しい自治に取り組み始めた。
 翌一九四六年五月一日、市の職員は組合の綱領に世界平和を掲げ広島市職員労働組合を結成した。自ら体験した原爆の惨禍を二度と繰り返すまいと、組合結成以来、一貫して平和運動に取り組んでいる。      (おわり)



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