広島市役所と原爆被害 その一
原 爆 投 下 前 夜
●広島市役所の開庁
明治22年4月1日、広島市は市制町村制施行に伴い、全国最初の市の一つとして誕生した。地方都市として新しく成立した広島市は、明治22年6月、市制事務取扱栗原幹元広島区長の管理のもとに、最初の市会議員36人が選出され、この市会で市会議長・市長の選任が行われ、同年9月21日、広島市役所の開庁式が行われた。
市庁舎は、中島新町の旧浅野藩米蔵跡の区役所がそのまま用いられ、以後39年間市政の中心となったが、市の発展と共に庁舎の狭隘をまねいたので、大正15年、国泰寺町の元広島市立高等女学校の敷地を庁舎敷地として選
び、昭和3年3月28日に鉄筋五階建ビルの新庁舎が落成、4月9日移転して現在の庁舎の基礎となった。
<昭和3年建設当時の旧庁舎>
職員名簿の被爆消失により、確実な数は不明であるが、昭和21年版市勢要覧によれば、昭和20年8月1日現在、吏員358人、雇・傭人推定1087人で、計1445人となっている。
●周辺建物の疎開
市庁舎は重要建物に指定され、周囲200メートル以内の建物は公私ともにすべて疎開実施中であった。被爆時にはほぼ90%ほど 作業は進捗していたが、残っていたのは主として東側部分で、当時は陸軍運輸部設営隊が使用していた県教育会館の本館があり、あたかも8月6日にこれを取り壊すことになっていた。
●8月5日の夜
8月5日の夜は警戒警報と空襲警報が繰り返され、6日の朝まで続いた。
警備担当の職域国民義勇隊の職員約60名は、この晩も交代で各課に当直し、屋上の防空監視哨から拡声機で流す敵機の行動状況を聞きながら、その部署を守っていた。また、防空本部要員や、分散配置体制として地区現地隊員に任命されていたものは、空襲警報発令の都度、めいめいの部署に出動していった。
●8月6日の朝
6日午前2時10分、空襲警報解除後、これら防空活動に従事していた職員は、一部を除いて午前3時頃から多くは帰宅して睡眠をとった。しかし、独身者は、隣の公会堂で仮眠することになっていて、職員がコーリャン飯を炊いて支給した。
午前7時9分、警戒警報が発令されたが、空襲警報にならず、22分後の7時31分には解除になり、登庁しないで済み、帰宅中の職員も一安心した。
なお、午前0時をすぎて夜間防空警備についた職員は翌日正午まで休養してから出勤してよいことになっていたため、午前8時の庁内中庭における朝礼に集合した職員50〜60名はその三分の二が女子職員であった。
(つづく)
※建物疎開
戦争後期になると、日本本土の各都市・軍事施設への空襲が相次ぎ、空襲による火災の延焼を防ぐため、建物を壊して防火帯をつくる命令が下され、各地で重要施設の周辺の建物を壊す作業が行われました。広島市役所も周辺の建物を取り壊す作業を当時進めており、多くの市民が動員されました。8月6日も市内各所で建物疎開作業が実施される予定で、現在の中学生にあたる子どもたちも多数動員されていたため、原爆の熱線・爆風をまともに受け、多大な犠牲を生む結果となりました。
