もはや、政治や行政に医療界がひざまづくのは止めよう

メディカル・クオール NO45 1998.7

 われわれが望んで創り出した超高齢化社会であるにもかかわらず、行政からみると「高齢化社会=金かかり社会」ということで、今、医療の大改革が進められている。そしで、その流れのなかで、この10月には6万6000人もの入院患者が一般病院から追い出されるような制度改革が行われたわけだが、これは言い換えれば行政が医療を見放したということに他ならない。今までは病院の努力で支えていた患者を、赤字を理由に行政が見捨てたわけだ。
 これに対して、医師会や病院会は族議員にもの申したり、厚生省の審議会や委員会でハイジャック理論を振り回して反対してはいるが、族議員との関係は、前回も述べたように、もはや連携というより隷属になっており、厚生省も大蔵省に対して無力感をもちはじめているため、各種審議会も空洞化し、医療サイドの要求が取り上げられることはない。すべてが、日本全体の予算の執行管理のなかでのつじつま合わせの論議になっており、消費者代表の声は反映しない状況になってきている。
 もう、こうなってしまっては医療界の選択肢は二つしかあるまい。一つは、医療界、医師会は行政と切り離れて、患者のほうだけを向いて、自らの医療の理念と医療技術テクノロジーとサイエンス、あるいはヒューマニズムによって、自らの個別性のなかで自分たちの生きる方法を考えるという道だ。現行のように、診療報酬をすべて国から文払ってもらい、その代わりに一定のレギュレーションのなかで、ルールにしばられて医療を行うのは止めにするということだ。療養型病床群とか、デイケア、デイサービスなどの介護にかかわる言葉は、10年前にはなかった言葉で、一般の人が聞いたら何のことかわからない。役人が医療改革のために作った言葉だから当然のことだが、それを金科玉条のごとく思い、その解説のための講演を政治家に依頼して、その講演を聞いて自分たちの将来を決めるような生き方はもう止めるということだ。
   耳新しい言葉を否定して改革の流れを作るのならまだしも、このような言葉だけをスリ替えた改革が統けられるのならば、それは進化でなく退化に他ならない。
 もう一つの選択は、本当の行政反映力をもつ方法で、これまでの族議員との関係を断ち、自民党党本部と直接、結び付くという道だが、今回はそれについてはあえてふれない。むしろ申し上げたいのは、日本は全体主義の国ではないことに気づこう、ということだ。全体主義の最たるものが官僚国家だが、その官僚の裁量権の上に乗った政治家に、なぜ医療界がひざまづく必要があるのか。
 プロフェッショナル・フリーダムを患者と医師との信頼関係の確立を旨としている医療界が、レギュレーションのかたまりになぜ屈しなければならないのか、ということだ。そこまでしなければならないのならばわれわれは、既成概念から脱皮し、独自の道を歩いてもよいのではないのか。
 医療分野にも医療経済学の教授や、病院管理学の学者がいる。しかし、そのほとんどは専門知識を振り回して、医療世論を誘導している。専門知識が必ず正しいということはあり得ない。むしろ、理念や哲学が欠如した机上の分析論のため、医療の本質を損なっているのが現状である。このままでは、患者にとっても医療界にとっても不幸な時代が統くことになる。医師会、病院会は、会員の総意を代表するのなら、一刻も早く目を覚まし、現状を変えなければならない。


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