新堂平神社

 岩山城落城後の毛利氏の世、郷原は厳島神社の地領であったので、
永禄3年(1560)厳島神社から市杵島姫命を祭神として勧請され厳島
大明神社が建てられた。
 明治以後に新堂平神社と呼ばれるようになり、戦前まで村の氏神
社でした。
 祭りは10月中旬に行われ、本祭りには鬼・奴・笛・太鼓などに
より御輿行列がにぎやかに行われます。
                  境内には岡野社と招魂社もあります。




銭神岩(市天然記念物)

 野呂山麓の山中にあり高さ3m、周囲13 .8mの巨大な流紋岩の   
大岩で、昔から「銭の神様」として信仰されています。   
 民俗学的な巨岩信仰ですが、最近でも宝くじに当たったと言う話を   
聞きます。   
 芸藩通志と言う古文書に「銭神岩、郷原村野呂山麓の内銭神原にあ   
り、俗伝に除夜に金鶏石上に鳴く」とあり、民俗学に云う金鶏伝説の   
一つ。銭神岩は呉市の巨岩文化財第一号。




伊勢社(大神社)

 江戸時代の寛政5年(1794)大積長百姓九朗右衛門が伊勢神宮に参
って勧請し、翌年の大干ばつで雨乞いを行ったら大雨が降り、村の神
様になりました。
祭神は天照皇大神で、御神室は巨石に昔42日かかって掘られたもの
です。
江戸時代は天照大神社と呼ばれていましたが、明治の初め伊勢社と改
称し、戦前まで村管理の神社であった。祭りは10月上旬に行われる。




 

薬師堂と巨石・洞窟

 岩山山麓の中腹に特に大きな巨石があり、その岩下に薬師堂があります。  
 戦国時代、岩山城主がこの堂を創建したと云われ、宝永4年(1707)の   
村差出帖に薬師堂が見られ、古くから薬師信仰の霊地として近郷から参礼   
者が多かった。
 本尊は薬師如来で脇侍として日光月光菩薩、眷属12神将像があります。  
 本堂の後部に洞窟があり、入口は狭く中は広くなっている。





胡神社(胡原社)

 戦国時代は、岩山城主が神社前一帯に黒瀬川を利用した堀のある約6町
歩の城主の館「土居」を築造し、工事安全と五穀豊穣を祈願するため、長
享元年(1487)勧請したものと云う。当時は相当大きな神社として栄えた
が、岩山城落城後は小社となり、村差出帖には胡堂とあります。
祭神は恵比須様の事代主命ほか三神で、木造の一刀彫の神像で中世の頃の
                 作。戦前まで村管理の神社であった。




 

浄光寺

 郷原には、古くは田福寺という寺があったが、岩山城落城後に廃寺とな   
り長く寺格を持った寺がなかったので、明治25年(1892)大阪の船岡山   
浄光寺の寺蹟を譲受し、西神田の宮後堂に移転されました。
 その後、現在地に移転し再建された。この浄光寺の第五代了真は、本願   
寺中興の傑僧である蓮如上人の直弟子で、蓮如上人二十四輩といわれる由   
緒ある寺です。宗派は浄土真宗本願寺派。




宝篋印塔群

 中世南北朝時代、地頭で 
黒瀬地域を支配し、岩山城 
主であった新居氏一族の墓 
であると云う。5基あり、 
5代約150年間この地域 
を支配していたと思われる。

石風呂跡

 岩屋の中で松や柴木を焚 
き、岩石を熱し水を打ち、 
ムシロなどを敷き天然サウ 
ナ風呂の湯地場として、江 
戸時代から昭和の初め頃ま 
で多くの人々に利用された。

田福寺阿弥陀堂

 中世南北朝時代、岩山城 
下の土居の近くに禅宗の田 
福寺があった。当時は寺領 
もあり栄えていたが江戸時 
代に廃寺となる。本尊が現 
在の阿弥陀堂に残っている。

黒瀬街道の常夜燈

 二級峡付近の旧街道は七 
曲がりと急坂で交通の難所 
であったため、明治の初め 
二級滝上部を通る新街道が 
造られ、往来の人々の安全 
のため常夜燈が建てられた。
市史跡文化財




神田社(荒神社)

 長谷川流域の土地 
守護神として元惣荒 
神社。明治に現在地 
に移転。

火神嶽古墳

 古墳時代の横穴式 
古墳。当時の支配者 
の墓で、昔から火の 
穴という。

郷原遺跡

 二千〜七千年前の 
縄文時代の土器や石 
器が出土。出土品は 
呉市入船山記念館。

旧街道の石畳

 江戸時代の広村か 
ら四日市(西条町) 
への旧街道の石畳が 
残っています。

新堂平神社のシイノキ

 周囲6m、高さ21
mの樹齢約400年の
大木で、呉市天然記念
物に指定。