蝶の夢

村雨 笙子

触れるもの全てがふわふわと心地よく、甘い匂いがする。
黄金色の光が満ちている。
それなのに訳もなく不安になってもがくと、
誰かが覗き込み、何事か話しかけた。
何を言われたか彼は理解できなかったが、
話しかけてきた口元と彼を見つめる目はひどく優しい。
その優しい顔が泣きたいほど嬉しくて、触れたくて腕を伸ばした。

「…起きたの?」
すぐ傍で声がした。
感覚が戻ってくる。身じろぎすると、春麗の吐息が額にかかった。
彼女の肩口に顔をうずめて眠っていたようだ。
する、と柔らかな腕が紫龍の頬をすべり、指が彼の髪を梳いてくれる。
「…夢を見た」
包むように抱き寄せてくれる恋人の柔らかな胸に頬を預け、
その細い腰を抱き返しながら、紫龍は呟いた。
「夢?」
聞き返しながら、紫龍の額に薄く滲む寝汗を吸い取るように春麗は何度もキスをする。
「最近よく見るんだ…同じ夢を。…でも…よくは思い出せない…。
 …春麗が…いたかもしれない」
あら、と笑い含みの声がして、額からキスが降りてきた。
瞼へ、頬へ、そして唇へ。
「思い出すおまじないのつもりなんだけど、効かない?」
唇を離すと、春麗はいたずらっぽく笑った。
夢の中の優しい顔とその笑顔が重なり、既視感に胸がうずく。
「…そうだな、春麗の夢なのは間違いない」
微笑み返して紫龍は唇を返した。
紫龍の唇が離れるのと同時に、春麗は閉じていた目を開けた。
うっすらと目元が朱く染まっている。
春麗は紫龍の背に腕を回し、彼の胸にすがりついた。
その顔を隠すように。そして、やがて昇る朝日から顔を背けるように。
日が昇れば、彼は行ってしまうから。
「…帰ってきてね」
約束は紫龍の負担になってしまう。紫龍に聞こえなくてもいいとさえ思ったから、
衣擦れの音にさえ消されてしまいそうなか細い声で春麗は囁いた。
しかし、紫龍がその言葉を聞き逃すことはなかった。
春麗を強く抱きしめ、応える。
「……ああ、必ず」
紫龍は身体をおこし、春麗の全身に唇を滑らせた。
名を呼んでくれる、丹朱の唇へ。いい匂いのする柔らかな胸へ。
いつか生命を宿し護るだろう、そのまろく柔らかな胎へ。
慈しむように、何度も優しく口づけし頬をよせる。

必ず、還る。君の元へ。
還りたいんだ、ここへ。

―春の柔らかな黄昏の中、春麗は軒下の椅子にかけて小さな声で歌っている。
腕の中には、小さな命。
「どうしたの?」
春麗は歌うのをやめ、赤子に話しかけた。
眠りから不意に覚めてしまったのか、ぐずぐずと鼻をならしてもがいている。
差し出してきた小さな手に指を添えてやると、赤子はすがるように握り締める。
「こわい夢でもみた?もう大丈夫だからね?」
優しく微笑んで春麗は赤子をゆすり、頬を撫でた。

…その赤児の見ている光景が、いつか紫龍が見た夢と同じだということは、誰も知らない。

(終劇)

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