雑談、歴史の話

(00/3/31更新)

最近興味を持っている歴史の話を少しずつ(自分のメモ感覚で)書いていこうと思います。更新の頻度は気まぐれです。

(3/31、後楽園)

現在は、東京ドームとなってしまった巨人軍のホームグラウンドであるが、以前の後楽園球場は、そばにある小石川後楽園に由来する。これは旧水戸徳川家の藩邸内の庭園であるが、後楽園の名の由来は、中国宋代の「岳陽楼記」の一説「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」による。これは水戸の名君として名高い光圀公の考え方から生まれた名称である。

(11/7、金沢八景)

今年の夏、家族旅行を兼ねて横浜の八景島シーパラダイスを訪ねました。最寄りの駅名が「金沢八景」で面白い名前の駅だなとずっと記憶に残っていました。どうやらこの地名は江戸時代の中期に命名されたようです。命名者は中国の杭州出身の心越禅師(明の時代の高僧)で、能見堂という高台から平潟湾を見おろして、故郷の西湖を偲びながら詠んだ漢詩に由来したといわれています。この「八景」という呼称は、山水画の基本画題として多くの画家が描いた「瀟湘八景」からきているのですが、これは洞庭湖の景観で西湖ではありません。尚、「瀟湘」とは二つの川の名前からきており、瀟水と湘江が洞庭湖に注ぐ前に合流する辺りを「瀟湘」と呼びました。この湘江の南は湘南と呼ばれ、江ノ島のある湘南もこれにちなんで名付けられたそうです。中国ではこの時代、山と湖の美しい風景を「何々八景」と呼ぶことが流行し、「西湖八景」もそのひとつでした。その後相模国金澤の平潟湾を囲む辺りを「金沢八景」と呼ぶようになったとのことです。八景作りは江戸時代にわが国でも流行して、現在では他に「近江八景」が残っています。

(11/21、東京八重洲の地名の由来)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの約5ヶ月前の4月19日、豊後に1隻のオランダ船、リーフデ号が漂着した。このリーフデ号には、イギリス人、ウイリアム・アダムスとオランダ人、ヤン・ヨーステンが乗っていた。共に新興海洋国家であったイギリスとオランダは、布教と貿易は分離した政策をとっていたため、徳川家康はこの二人を江戸に招いて外交・貿易の顧問とした。ウイリアム・アダムスは航海術だけでなく、数学や天文学にも精通しており、ヨーロッパの科学や知識を伝えた、三浦半島を領地として与えられ江戸日本橋に屋敷を与えられた。三浦按針として有名である。一方、ヤン・ヨーステンの屋敷は海に近く、耶揚子(やようす)河岸と呼ばれ、これが現在の八重洲の地名の由来といわれている。

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