陶・長尾

20.君が岩(きみがいわ)
 元和2年(1616)、新任の備中岡田藩主が河内の国から甕の泊に船をつけました。当時、玉島は五つの藩と天領に分割され、領地も入り組んでいました。甕の泊のある岡山藩。馬もカゴもなかったので、出迎えに来た服部村の20才の庄屋は、服部まで約6kmの道程を領主を背おって行きました。これは、途中で休息した領主の腰かけた岩だとか。

21.弥高山(やたかやま)
 弥高山の山頂からの眺望は素晴らしく、写真や写生の絶好ポイントです。また、斜面では緑の牧場が広がり約20軒の農家が牛乳・肉牛・養鶏・卵・園芸・野菜等を生産しています。また、山頂周辺では、埋もれていた弥高八十八ヵ所の整備が進められ、次第にお大師巡りの姿も多くなり、春にはワラビ刈り等、恵まれた自然を楽しむこともできます。

22.陶山城跡(すえやまじょうし)
 陶山城跡は、鎌倉時代末期頃に「陶山備中守」の居城があった所と言われています。この陶山備中守という人物は、北条高時が笠置を攻めたとき、一番槍の功名をあげた陶山藤蔵、またはその一族の誰かではないかといわれています。

23.陶神社(すえじんじゃ)
 陶神社は祭神に素盞鳴命、稲田姫等を祀り、創建は不明ですが、福山市靹にあります沼名前神社を勧請したものと言われ、もとは牛頭天王宮と呼ばれ、本殿・弊殿・拝殿の他に竜神社・御崎神社などがあります。

24.観音寺(かんのんじ)
 観音寺は、古義真言宗御室派で、本尊は千手観音菩薩、脇立は毘沙門天立像です。創立は不明ですが、陶松山谷にあり、荒れていたのを承応年間(1652〜1655)に、権大僧都増意上人が再建、その後、堂宇が改築されました。本堂・庫裡・鐘楼などがあります。

25.徳寿院(とくじゅいん) 旧名=徳寿庵
 徳寺院は、古義真言宗京都仁和寺の末院で、創建は宝徳年間(1751〜1764)と伝えられ、開山は吉備郡真備町出身の渾寂智俊尼で、山門の内外は三備有数の大厄院です。本尊は阿弥陀如来。寺宝には弘法大師作と伝えられる銅製五輪塔のほか茶山・大雅堂・拙斎などの書画があります。

26.寒田瓦窯跡(さぶたかわらがまあと)
 陶は、古代窯跡が多く発見されていますが、寒田3号窯跡は、倉敷市の重要文化財にも指定されています。昭和5年に発見された窯跡で、飛鳥時代から平安時代にかけ主に瓦を焼いていました。この瓦の表面には布目がつき、寺などの屋根に使われていたと推定さています。山の斜面を利用して作られた、「登り窯形式」の窯跡で、朝鮮式土器ともいわれる「須恵器」の製法を継いたものです。なお、亀山焼は、陶から亀山に移ったものです。………地名のいわれ参照

27.粟島神社(あわしまじんじゃ)
 粟島神社は、元は山形県の日本海に浮かぶ粟島において、修験行者鉄門海上人の祈祷で、難産を救われた婦人が、お礼に珍しい石を差し上げたことに由来すると言われています。以後、日本全国に広まり、陶地区には明治27年に伝わり、「女性の神様」、特に北向きの粟島様として多くの信仰を集め、一時は倉敷周辺からもお参りが続いたそうです。近年、「ふるさと再発見」の志に燃える婦人達によって再興の試みが取り組まれています。

28.善昌寺(ぜんしょうじ)
 善昌寺は、真言宗高野山派の寺で、寛永年(1624〜1644)の建立といわれ、本尊は阿弥陀如来。千体地蔵の安置された千体地蔵堂が見ものです。墓地には元禄時代、長尾で起こった百姓一揆の首謀者として高梁川の川原で打ち首になり、23才の生涯を閉じた新四郎の墓があります。新四郎の祀られた社殿には御神体として一個の石が祀られています。これは処刑場血染めの石を持ち帰ったものです。

29.長尾八幡神社(ながおはちまんじんじゃ)
 応永年間(1394〜1428)に、村人によって宇佐八幡宮を勧請したと伝えられ、その後、備中松山城主の新田開発祈願所として利用されました。本殿・幣殿・拝殿の他、境内には、恵比須神社、建御名方神社があり、本殿と拝殿の南側の境には、珍しい神代文字の碑があります。「カムナガラ」と読み、「神」という意味だそうです。

30.木下幸文の墓(きのしたたかふみのはか)
 江戸時代後期の文化文政期に生まれた薄幸の歌人、木下幸文(1779〜1821)の墓は、長尾堂山に建てられ、「無庵居士之墓」と頼山陽の書いた字で彫られています。………人物紀行参照

31.小野邸(おのてい)
 玉島長尾の旧鴨方往来に面する小野邸は玉島浅口郡屈指の大地主で、長尾が丹波亀山藩松平家の飛び領地となり、そのご用達を命じられ、士分に格上げされたといわれています。広大な敷地内には、入母屋造り・ヨシ葺き屋根の主屋の他、長大な長屋門・種々の蔵・屋敷が建ち並び、改造も少なく江戸時代初期の様式をいまに伝える貴重な建造物であります。幕末の学者・頼山陽はここを訪れ主屋敷を「移山亭(いざんてい)」と名づけています。

※地名のいわれ※
陶(すえ)
 「日本書記」によると、雄略天皇7年(467)7月、百済から陶工が帰化し、土着して陶芸に従事しました。生産品を「スエ器」、陶工の集団は「陶部(すえつくりべ)」、さらにその場所を「陶(すえ)」と呼びました。これが陶の地名の起こりだそうです。玉島の近くでは金光町の須恵、山手村の末奥、邑久郡長船町の須恵などがありますが、どこも古代の窯跡があるそうです。
鉾島(ほこしま)
 昔、神功皇后が三韓征伐に向かわれる途中、鉾を立て、忘れて出発したところと伝えられています。