爪崎・上成・玉島・乙島
11.高瀬通し(たかせどおし)
 高瀬通しは新田の灌漑用水と、高瀬船による運輸を目的に、備中松山藩主・水谷勝隆、勝宗父子によって作られた運河で、船種町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じていました。川幅3.7m全長約9.1kmで、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みで、パナマ運河より240年も前に作られた閘門(こうもん)式運河です。ハローワーク玉島前の川岸には高瀬舟の往来した頃に植樹された樹齢三百余年のハゼの木がいくつか残っています。

12.一寸徳兵衛の墓(いっすんとくべえのはか)
 玉島上成にある牧家の墓地に「秋月照圓清信士」と刻まれた墓がありますが、この墓こそ江戸時代に浪花の町を舞台にした浄瑠璃と歌舞伎の名作「夏祭浪花鑑」(なつまつりなにわかがみ)に登場する一寸徳兵衛の墓です。………人物紀行参照
  この作品は東京か大阪で毎年のように上演されており、平成6年9月には、「一寸徳兵衛を愛する会」等地元の要望が実って、倉敷市芸文館において市川猿之助の主宰する21世紀歌舞伎組によって上演され、倉敷市民の喝采を浴びました。また、墓地には紹介板が立てられています。

13.旧柚木家住宅(きゅうゆのきけじゅうたく)=西爽亭(さいそうてい)
 柚木家(………人物紀行参照)は、かつて藩主に仕え、庄屋も努めた家。「柚木邸本邸(西爽邸)」は天明元年(1781)の建築といわれ、当初のまま保存されています。豪壮な「薬医門」、華麗な「玄関」、書院造りに数寄屋風(すきやふう)の手法を取り入れた「書院」などがあります。明治初年に改造された庭は鑑賞式池泉庭園で、草葦入母屋造りの「茶室」、銅版葺宝形造りの「煎茶室」(せんちゃしつ)もあります。「熊田恰(あたか)自刃の間」は、慶応4年玉島戊辰の変(………歴史・伝説・民話参照)で、松山藩家老熊田恰が自刃したところで、そのときの血しぶきの跡が今も天井に残り、維新の史跡の一つとして有名です。現在は倉敷市が買い上げて改修を行い、市民に公開しており、平成12年に国の重要文化財に指定されました。また、同志社大学を創設した新島嚢(………人物紀行参照)は玉島港に滞在中に3回ほど柚木家の風呂に入ったと自叙伝に書かれています。

14.真如院(しんにょいん)
 真如院は天台宗の庵で、円乗院の西にあります。この庵は、良寛の師=円通寺十世国仙和尚が創建し、彼の末弟子だった義提尼(ぎていに)の住庵でした。庵には、国仙の舎利が安置され、義提尼建立の供養塔があります。

15.円乗院(えんじょういん)
 円乗院は、天台宗の古刹ではじめは安福寺といい、貞観4年(862)慈覚大師の開基と伝えられ、本尊は阿弥陀如来、脇仏には観世音菩薩と勢至菩薩、寺宝には殺生禁断の木札、歌僧=澄月(………人物紀行参照)、常念仏縁起書などがあります。本堂のほか、観音堂、毘沙門堂、客殿などがあり、寺内の墓地には、阿賀崎開拓の際人柱になったお玉さんや玉島出身の力士で闇討ちで果てた玉手山などの墓があります。………歴史・伝説・民話参照

16.戸島神社(としまじんじゃ)
 「戸島」は乙島の古い呼び名で、戸島山麓とその付近一帯は「養父(やぶ)が鼻」と呼ばれていました。戸島神社もかつては海に突き出した断崖絶壁の養父が鼻にありました。山裾の「養父母大明神」という祠がこの神社の始まりといわれ、この養父母大明神を現在の地に移し、社殿が建立されたのが今から640年ほど前。そして明治4年(1871)乙島八幡山の八幡宮を合祀し「戸島神社」に改称されました。境内の一部は公園になっています。昔ながらの松の生い茂るこの「戸島神社」の中に文豪・徳富蘆花(………人物紀行参照)の歌碑があります。また秋には、戸島神社を振り出しに、700年の歴史をもつ「乙島まつり」が行われています。豪華絢燗なお船や千載楽十数台が奴踊りや獅子舞の後にお宮入りする様は岡山県随一のまつりと言われています。平成4年8月に玉島商工会議所の支援もあって、倉敷市重要無形民俗文化財に指定されました。

17.E地区・玉島ハーバーアイランド
 乙島の住友重機械工業の南に広がる一帯はE地区工業用地であり、岡山県が造成して今では鉄鋼・運輸・倉庫等の建屋が並ぶ玉島の新産都市になりつつあり、その沖合いに岡山県が国の予算を得て整備中の人工島は「玉島ハーバーアイランド」と愛称され、東南アジアからのコンテナヤード等の活用が進み、西日本を代表する21世紀の新しい商業港として大きな期待を寄せられています。

18.源平大橋(げんぺいおおはし) 乙島〜柏島
 寿永2年(1183)旧暦の10月1日、玉島大橋をはさんで乙島側に源氏、柏島側に平家が陣取り玉島湾を舞台に壮烈な戦いが演じられました。平家唯一の勝ち戦として知られる源平水島合戦です。昭和58年、源平水島合戦八百年祭が盛大に行われ、水玉ブリッジラインの上、玉島大橋の見える位置に記念碑が建てられました。なお、玉島商工会議所女性会では創立20周年記念事業として取り組んだ玉島の名物料理に「源平そぼろ弁当」と名づけています。………歴史・伝説・民話参照

19.旧玉島港(きゅうたましまこう)
 万治2年(1659)頃に松山藩主水谷勝隆(………人物紀行参照)によって開かれた玉島港。商人が集まり、千石船や北前船の出入りが盛んになり、白壁の蔵や問屋が建ち並びました。山陽の小浪華ともいわれ、備中一の商業港として発展するとともに、文人墨客も出入りするようになり、港は、商業と文化の両面から玉島の繁栄をもたらし、港を中心にした隆盛が見られました。港をはさんで亀の首と相対したところが八幡です。八幡にあった灯台は、現在は川崎の岸壁に移設し保存されています。

※地名のいわれ※
玉島(たましま)
 玉島は、美しい玉が掘り出されたことにちなんで生まれた地名だといわれ、この玉は、今も矢田の柚木家に保存されています。また、干拓前、珠をちりばめたように、多くの美しい島が点在していたからとも言われています。
上成(うわなり)
 上成には昔、大きな岩があり、波のぶつかる音が、周囲に響きわたったことから「上鳴」と呼ばれ、「鳴る」という字を縁起のよい「成る」に改め、現在の「上成」になったと言われています。
乙島(おとしま)
 乙島はかつて戸島と呼ばれていました。これが語呂の安定感、また島の形が乙の形に似ていること、さらに乙は乙女・乙姫など、美称として使われる文字、そんな理由から「戸島」から「乙島」に変わったのではないかと言われています。
水溜(みずたまり)
 水溜には、古くから「旭井」「夕日井」という井戸があり、この井戸はどんな日照りのときも涸れないといわれ、そこからついた名称だと伝えられています。