「 車 」                             ミズモリ ショウ                              準 星   「車、乗って帰れます?」   冴子が中古車センターのドアを開けての第一声だった。   今日の夕方に納車してもらえるはずだったのだが、実は納車を待っていられなく  なって会社も早退してしまったのだ。   冴子は店員に車まで案内してもらった。車は駐車場のすみにちょこんと彼女を待  っていた。首をかしげて飼い主を見ている子猫のような愛車を、愛しい恋人にでも  見るような目で見つめた。そっとドアを開けシートに体を預けた。バケットシート  が彼女の体を優しく包み込んだ。その感触は、むかし感じたことのある感触だった。   冴子は、はぁっと安堵のため息をつき、この車に出会った事の好運と、手にいれ  たという喜びをかみしめた。   それは10日前のことだった。   ふらりと立ち寄った中古車センターで冴子はふと足を止めた。   彼女を引きつける何かがそこにあった。サングラスを外して辺りを見回した。し  かし、何も見つける事が出来ずサングラスをかけなおし、歩きだそうとした瞬間、  それが目にとまった。   本来なら目玉商品なのだろうが、事故車なのか、それとも、入荷したばかりなの  か、値札もつけられないまま売り場の隅に隠すように置いてある。   しかし、真紅のボディにスノー・ホワイトのラインは、冴子の目には隠しようも  なく、眩しく映っていた。   それは、小柄なボディの中に無限の力強さを秘めたオーラを発して冴子を引きつ  けて放さなかった。   冴子は、その車に近づきボンネットを、つ、と触れてみた。   電気ショックの様な快感が体を貫き、この車なら今まで乗ったどんな車よりも満  足できる。そんな予感を彼女に与えた。   冴子は女性にしては車好きで、今も真紅のRX−7に乗っている。週末には必ず  と言っていいほど遠出をする。彼女のお気に入りは伊豆スカイラインで、2、3ヶ  月に1度は必ず通っている。   右手に相模灘、左手には駿河湾、北に富士を望む、景色もさることながら、熱海  峠を起点に遠笠山道路の入り口まで、伊豆半島北部東側の脊梁山脈を走るワイディ  ングコースは、起伏に富んだコーナーあり、2キロ以上もある直線コースあり、と、  多彩な走りが楽しめる。もちろん、楽しめるだけでなく、日頃在来国道を走り馴れ  て失ってしまったドライビング・テクニックの勘を取り戻すには絶好の教室であっ  た。   しばらく、眺めていたにもかかわらず店員は出ては来なかった。ドアのノブを握  ってみると分厚いドアにもかかわらず、中から開けてくれたようにするりと開いた。  中から、この車が誘ってる、そんな気がした。冴子は迷わずシートに身を沈めた。   キーがついている。手をのばしてキーを回した。   その時、体の中心からうずくような快感が襲ってきた。それが何かつかめずにい  るうちに、その感覚は彼女の手から逃げて行ってしまった。しばらく考えてみたが、  その感覚が何なのか思いつかなかった。   イグニッションの音がしたかと思うまもなく、低い振動音がし始めた。先ほどま  で回していたのだろうか、オートチョークはきいていない。800ppsで安定し  た音をててている。少しアクセルを踏み込む。タイムラグのない敏感な反応だった。   今度はゆっくりと踏み込んでみた。3000回転を超えるあたりからかん高いモ  ーター音が小さく聞こえ始める。空ぶかしをやめて店員を捜した。試乗してみたか  った。やっと見つけた店員は首を横にふった。車検が昨日で切れているのだ。   冴子はしばらく考えて、RX−7を下取りに出す事に決めた。   ゆっくりとイグニッションを回した。心地よい低音の振動が伝わってくる。ミッ  ションを入れてクラッチをゆっくりと繋いだ。7より少し重かったが疲れるほどで  はない。水の中を泳ぐように動き始めた。   冴子はこのまま伊豆スカイラインに向かうつもりだった。明日も仕事だったが、  週末まで待ってはいられなかった。国道に乗り入れるとそろそろ夕方のラッシュが  始まっていた。このまま向かいたかったが、ゆるゆるとした速度にエンジンが不満  を言い始めたので、ラッシュがおさまるまで避難することにした。十分にパワーを  発揮させてやれないことが冴子には辛かった。   国道沿いのファミリーレストランに入って早めの夕食を取った。おそらく今夜は  朝まで乗り回すことになるだろうから、スタミナのつくものを注文した。料理が届  くまでの間も届いてからもずっと、上の空で車のことを考えていた。もちろん、料  理の味もわかるはずもなかった。   国道の車の量がさっきよりも減った。冴子は喜々として車に乗り込んだ。   減ったとはいえ、ウィークデーの国道は夜でも車は少なくない。アクセルを踏み  込みたい衝動を必死になって押さえた。   スカイラインに着いたときには満月が中天にさしかかろうとしていた。   冴子は通行券を受け取るのももどかしくスカイラインに飛び込んだ。   アクセルを思い切りよく踏み込んでみた。   敏感に反応したエンジンが、ハイ・ポテシャルをたたき出す。   想像より強いGが体をシートに押しつけた。アクセルのストロークは、まだ半分  近く残っている。   3000回転から聞こえていたモーター音は、4500回転を過ぎるあたりから  ジェット音の様な響きに変わってきた。もう少し力を込めて踏み込むとフロントが  浮くような感じがして更に加速が加わった。   心地よい振動が彼女を包み込む。   7に乗っていたときに感じた加速時の背中に感じる不快感ははなかった。それよ  りも、シート自体が彼女を優しく包み込み衝撃を和らげてくれているようだった。   そう、それはまるで愛するものを抱きしめる男性の胸の中にいる・・・・・   シートから伝わる振動が冴子の背中を愛撫するように蠢いていた。   始めて乗ったときのうずくような快感が再び、体の中を駆け巡った。体の中心部  があつい。ため息が出そうなほどの快感に、今酔いしれていた。   頭がかすんでくる。時々、自分が何をしているのかわからなくなった。しかし、  ステアリングは正確だった。   冴子は、昨夜遠足前の子供のように興奮して眠れなかった。それに、深夜ドライ  ブを予想して少し、夕食を食べ過ぎたかなと思い、途中のサービスエリアに車を入  れて眠け覚ましをすることにした。   そして、ついでに用を足しに行ったとき、下着にねっとりとした透明の液体がつ  いているのに気づいた。慌てて拭き取ったが、ひとりで顔が赤くなった。そして、  初めて乗ったときのあの感じがいったい何だったのか、はっきりわかるような気が  した。いまでこそ「恋人は車よ」と言ってはいるが、この年までつきあった事のあ  る男性は両手では足りない。   冴子は急いで車に戻ると、ゆっくりとシートに体を預けて見た。目を閉じて感覚  を探ってみたが、普通の車のシートと何の変わりもなかった。首を傾げて、まぁ、  気のせいだったのだろうと思う事にした。   車をサービスエリアから出して、今度はフル加速をしてみた。あっという間にサ  ービスエリアが見えなくなる。まだ、ローからセカンドに入れたばかりだ。   シフトアップしてオーバートップに入れると140Km/hで巡航に切り替えた。   その時、全身がシートに包まれるような感触がした。   後ろから抱きしめられるような感覚が彼女を襲った。   シートに繊毛が生えてきて彼女の背中を愛撫している。肢体を愛撫している。   今、ハンドルを放すわけにはいかない。アクセルをゆるめようとした。が、足は、  アクセルに固定されてしまったように動こうとしなかった。左足も床に固定されて  しまっている。これでは、ブレーキも踏む事が出来ない。   しかし、ステアリングは正確無比な動きをしてる。冴子は怖かった。今、この車  を操作しているのは自分ではなかった。車が勝手に冴子を乗せたままスカイライン  を疾走しているのだ。しかも、シートは冴子の愛撫を続けている。快感と恐怖の狭  間を冴子は揺れていた。   なんとか、自分の力で操作しようと思ったが自分の身体ではないようだった。そ  のくせ、シートの愛撫には反応している自分が悔しかった。   無駄な努力をしているうちに、恐怖感覚が薄れて意識がもうろうとしてきた。   恐怖よりも快感の方が冴子を支配し始めたのだ。   目は半開きになり、唇を少し開いたまま息も荒くなってきた。頬は既に上気して  いる。   気がつくと、完全に愛撫に身を任せていた。   目を閉じると背中だけでなく身体中を愛撫しているのがわかった。   たまらなく身体があつかった。しっとりと、濡れてくるのがいやになるほどよく  わかった。しかし、決して不快ではなかった。   寄せ来る波のような執拗な愛撫を、彼女は全身で受けとめた。   高まり、最後の瞬間を迎える寸前に彼女が見たものは、迫ってくる断崖だった。   「わぁ!この車すてきねぇ! 試乗してみてもいいかしら?」   彼女の目にとまった車は、真紅のボディにスノウホワイトのラインが鮮やかに輝  いていた・・・・・・。                                  END。