似非エンスージアストのぼやき

 先日、市内の画廊喫茶で小作品店を開いた友人と話していて、「頭文字(イニシャル)D」の話題が出た。実はまだわたしは、このマンガは見たことがないのだが(あ、TVはこのあいだ初めて見た)、話を総合すると、主人公がAE86に乗っていて、むちゃくちゃ走りが速いらしい>くらいの認識しかないのだが・・・、とりあえずわたしもむかし86に乗っていた関係で、これまでの車歴をまとめておこうと思うに至った。例によって、「思い立ったが吉日」企画である。

 車歴については、自己紹介のページでも少し紹介しているのだが、ここではもうすこしツッコンで、それぞれの車にいつわる思い出話なども紹介してみたいと思う。まあ、なんだかんだといってもボヤキにしかならないが、興味のある人は読んでいただければ幸いである。

 わたしが本格的に車に興味を持ち出したのは、たぶん中学1年生の頃だ。きっかけは、当時うちの親父は、自営で家の建築設計事務所をやっていたのだが、市内にある某国立大学の学生がアルバイトでうちに来ていて、その人が自分の車を買うということで、いろいろ車のカタログを持ってきていて、休み時間にはわたしも良く見せてもらったり、また、二人でディーラーに出かけては、新しいカタログをもらってくるということをよくやっていたものだった。結局その人は、チェリーFUとランサーセレステを比べ、セレステを買った。(若い人たち、知ってるかなぁ・・・、この車。)

 それまでは、ディーラーに行ったのはたしか小学校の2年か3年の時に、親父と一緒にスズキのジムニーが発売された時、試乗会に行っただけだった。と、いうのも親戚にホンダの販売店があった関係で、それまでのうちの車はほとんどがホンダの軽自動車だったからだ。だからホンダの車以外は、名前と車が一致しないような状態で、あの国民車とまでいわれた「カローラ」と「サニー」の区別さえつかないような人間だった。また、小学校6年生の修学旅行で、わたしたちは広島の東洋工業(マツダですな )(^^)に行ったのだが、たしか工場に入る前にガイドのおねいさんが、「ねえ、みんな。コスモスポーツっていくらぐらいか知ってる?」と、私たちに質問したことがあった。当然わたしには、「なんのことやら?」ってな質問だったのだが、同級生のSが誇らしげに「約150万円!!」と答えて、おねいさんに誉められていた時にも、わたしは「そっかー。うちの車5台分かー・・・」くらいのことしか思わなかったのだ。

 それが件(くだん)のバイトさんのおかげで、「月刊自家用車」だの「Driver」だの車の本を読み漁るうちに、気がつけば車の一部分を見ただけで、何処のメーカーのなんという車種で、グレードは何々ということまで解るほどの車好きになってしまっていた。もっともその頃は、車の個性がしっかりとあって(無論デザインの好みもあるが・・・)、今のように没個性な車などひとつも無かったといってもいい。今から比べれば、あの頃はカーデザイナーが本気で仕事をしていた時代なんだな、と言えると思う。無論、いまのデザイナーがいいかげんな仕事をしているとは言わないが、あまりにも最近の車は、デザインよりも数字のスペックを優先させているような気がするし、「とにかく羽根を付けておけ」的なデザインはいい加減うんざりである。そういった物は、アフターメーカーと、オーナーの個性に任せれば良い。そうは思わないかい?碇シンジ君・・・。

 それともう一つ、大きな理由は自分で運転して好きなところへ自由に行ける!というのが最大の魅力だわな。確かにバスや電車を使えば何処にでも行けるけど、駅やバス停まで行かなくてはならないし、時間の制約というわたしにとってもっとも嫌いなものがついてまわるからね。まあ、これについては想像してください>なにをだ?

 まずは運転免許の取得だが、これが結構大変だった。まず、わたしの場合、公安委員会の判定を受けて運転免許の条件を確定する必要があった。結果、『ブレーキ・アクセルは手動式のノークラッチ式4輪または3輪車』ということになった。これが障害がもっと重いと、車の車両総重量にも制限がかかることもある。例えば先の条件に加えて、『総重量1.2t以下』『総重量1.5t以下』というぐあいだ。最近の車は、カローラクラス(排気量1500cc程度)でも車両重量は軽く1tを超えるから、総重量となると1.4tぐらいになってしまい、『総重量1.2t以下』の制限だと乗れなくなってしまう。だから、これも重要なことなのさ。

 そして自動車学校。これがホントに大変だった。まず通常の自動車学校には手動式ブレーキのついた教習車なんて置いてない。大学の寮の近くの自動車学校も、だ。それで止む無く、遠く離れた『愛知県自動車学校』まで通うハメになった。寮があるのは名古屋市の中村区、自動車学校は北区にあった。まず、寮の近くの『岩塚本通4丁目』から『名古屋駅』までバスで行き、そこからバスを乗り換えてさらに自動車学校のある中切町バス停まで行くのである。おまけに大学は代返が利くが自動車学校はそうはいかない>あったりまえだわな。免許が欲しい一念で通いましたよ。おかげで一度もミスること無くストレートで免許を取得することができたのであった。人はそれを『虚仮の一念、岩をも通す』とぞいいけれ・・・。かくして19歳の春、ついに念願の運転免許を手にすることになった。

 それではわたしの車遍歴をご紹介しましょう。そのまえにわたしの車に対するこだわりを。

1.結構見てくれ(スタイル・デザイン)を気にしている

2.したがって、ホイール&タイヤは先ず手をつける

3.純正のステアリングのデザインは大嫌いだ

4.だからステアリングは必ず交換している


其の壱 初代三菱ミラージュ1400GL−X(通称・笑う車)色は黄色

 免許取得後、すぐに手に入れた。当然学生の身分なので金は無い。しかたがないから、親をだまくらかして金を捻出した。もっとも親も分かってはいたんだけど・・・。実は初めからミラージュに決めていたわけではなくて、対抗としてトヨタスプリンタークーペを考えていた。いや、どちらかというと、こちらが本命だったとも言える。しかし、カタログでスペックを見ると、スプリンター(1500cc)はミラージュに比べてエンジンの出力が小さく、おまけに重量が重かったのだ。したがって、パワーウエイトレシオを考慮した結果、ミラージュの購入となったわけである。それに先のバイトさんの影響で、三菱の車に思い入れがあったというのもある。もし、このときセレステの生産が続いていたら、迷わずセレステにしていただろう。

 とにかく、この車とともに我が青春はあったといっても過言ではない。買った1ヶ月後には、早くも琵琶湖1周のドライブを敢行。クラブの合宿で斑尾まで行き、一旦名古屋まで帰って、翌日ふたたび新潟へ。そこから宇部まで帰って、2日後にはまたまた名古屋まで帰るという強行軍も経験した。ちなみに(笑う車)というのは、当時つき合っていた女の子が言い出したことで、前から見ると笑っている顔のように見えたのだそうだ。そのころうちの大学の寮には、わたしのミラージュの他に同級生のブルーバードU1600ハードトップ(解体屋から数万円で購入、その後故障が続発し、修理費は軽く数十万かかった)、スプリンターセダンにカローラセダン、先輩のブルU(こちらは1800のセダン。寮の隣のおじさんから10万円で買った)、そしてグランドファミリアと結構車があって、よく夜中に「金城埠頭夜の集い」と称して名古屋港の金城埠頭に集まってはくだらない話をした後、スカイラークやデニーズ、吉野屋などによって飯を食うという、なんとも非生産的なアソビをやったものだ。あるとき、岐阜だか三重の暴走族と遭遇して、「ねー、君たちどこの族?」と聞かれ、「ちがうよー、おれたちカタギの大学生だぜアッハッハ・・・」などと仲良くなったこともあった。

 この車は名古屋在住5年のうち4年間を共に過ごし、宇部に帰ってきてからも1年10ヵ月ほど乗っていた。


其の弐 AE86 TRUENO GT−APEX(またの名を梵天丸)白黒2トーン

 AE86というのは型式で、ようはトヨタスプリンタートレノ及びカローラレビンのうち、4AGエンジンを搭載した車両のことをいう。レビン&トレノシリーズの最後のFRモデルである。16バルブのDOHCエンジンは、低速のトルクはないがとにかく回る。しゅんしゅん回る。

 この車が出たのは昭和57年頃。このころは、本当に車の個性が無くなっていて、まるで30センチ物差し1本でデザインしたような車ばかりだった。そんな中、16バルブのDOHCエンジンを搭載したAE86が登場した。なかでもトレノはリトラクタブルヘッドライト!先年発売された初代RX−7についでだ。RX−7より安い値段もあいまって、これは少なからずスーパーカー世代の心をくすぐった。もちろんわたしも同じで、すぐに発表会を見に行ったものだ。しかしながら、当然のごとくAT仕様があるのは非DOHCエンジンのAE85のみ・・・。それでもこのエポックメイキングな車は一発で気に入ってしまい、86には乗れないけど85でもいいや・・・。と、ミラージュの次はこれにしようと決めたのだった。

 ところが宇部に帰ってきてしばらくした頃、面白いことが起きた。そのころ発売されたMR2にAT仕様が現れたのである。もちろんDOHCエンジン搭載車両だ。「を!これはもしや・・・」と思ったらどんぴしゃ!昭和60年、最後のマイナーチェンジを受けたAE86に、ついにAT仕様が設定されたのである。ひとつには、トヨタの誇るECA−T(電子制御4速AT)の性能の良さもあったのだろう。もうこれは迷っている場合ではない。すぐにわたしは「AE86 GT−APEX」を購入することにした。

 実際の話、「AE86のATなんてダッセー」「マニュアルで乗らなきゃ意味ねーじゃんか」というご意見もあるだろう。確かに高回転向きの4AGエンジンは、ATは不向きだろう。それはわたしもよく分かる。


いーじゃんかよー、
乗りてーんだからさー!!



ということで、ご理解いただきたい。

 さて、以下にこのAE86購入までのダイジェストを紹介しよう。

 まず、注文したのは60年の7月頃だった。たしか、最終型が発表されたのが5月頃だったから、比較的早い時期といえよう。希望のカラーは赤と黒の2トーン。これが86のイメージカラーだった。ところがセールスマン氏に言わせると、この色は希望者が多く、在庫が無いとのこと。これは困った。やはり少しでも早く乗りたいのが人情である。それに、みんなと同じ色の車に乗るということは、わたしの流儀ではない。それに赤い色だと色褪せが不安である。なぜなら家には屋根付の車庫が無かったからだ。そこで2ヵ月待ちで白黒3ドアの86トレノGT-APEXの注文と相成ったわけである。

 ここで不思議なことが起きた。8月頃のことだ。すでに86の納車待ち。長年親しんだミラージュともあと少しでお別れという頃。

 その日は残業で、会社(当時はまだ役所勤めではなかった)をでたのが夜の11時過ぎだった。途中厚東川という大きな川があるのだが、その橋を渡っている最中に、突如ミラージュのエンジンが止まったのである。ストンと落ちるタコメーターの針。スロットルを開けてもエンジンの音は全然しない。とりあえず惰性で走って何とか橋を渡り、そのさきの路肩に車を止めた。もう一度キーをひねってみる。スターターは回るが、エンジンはかからない。ということは、点火系か燃料系の故障だ。時間も真夜中。仕方が無いからJAFに助けを求めることにした。公衆電話を求めて約1キロほど真夜中の国道を松葉杖をつきながら歩く。やっと某所のラーメン屋(宇部では有名なチェーン店。某アニメーションの監督もこよなく愛している)で電話を借り、JAFに連絡をした。そこからまた車のところまで歩いて戻り、待つこと2時間。やっとJAFの到着だ。さっそくエンジンルームを点検してもらう。すると、「あー、デスビがイカレテますね。ほら、ポイントが折れてますよ。」みるとポイントがド真ん中からポッキリと折れていた。これでは火花が飛ぶわけ無い。早速交換してもらうが、なんとミラージュ用のポイントが合わないのだ!そこでその時にあったいろんなメーカーのものを試したところ、なんと日産の「バイオレット/オースター用」のものがぴったりと合った!う〜ん、日産侮りがたし!

 実はその後、このミラージュはまるで堰を切ったように故障が続発し、まるで捨てられるのを怒って最期の抵抗をしているかのようだった。ちょっと悲しい・・・かな。

 まあ、そんなことがあったりしながら、ついに9月のある日、AE86がやってきた。『う〜む、かっちょいい・・・』と思いながら、一応車のまわりを一回り。ところが、あることに気がついた。オプションが完全ではないのだ。実はスポーツパッケージ(だったかな?)というのがあって、60タイヤとアルミホイールにフェンダーガード、リアウイングにイエローバルブのヘッドライトがセットになったものだが、その中のフェンダーガードが装着されていないのである。おまけにタイヤも標準の185・70・13のタイヤだ。すぐにセールスマン氏にその旨を告げ、後日交換するとの約束を取り付けたのだが、フェンダーガードについては後で装着すると車幅が変わってしまい、車検証の記載事項に変更が生じるというのだ。だから通常はメーカーオプションになっているのである。現在では法律が大幅に改正されたため、寸法が少々変わっても車検では問題ないが、当時はそのくらいシビアだったのである。これも発売当初の出荷時確認ミスだったのだろうが、そのためだけにわざわざ車検を取り直すのもバカな話なので、契約金額からさらに値引きをしてもらうことで納得した。ま、フェンダーガードくらいだからね・・・。

 ともあれ、そんなトラブルもあったけど、晴れてAE86のオーナーになることができた。乗った瞬間思ったこと。

『うわ!速い!』

 とにかくミラージュと比べて、エンジンが回る!あたりまえのことなのだが、これには正直びっくりした。しかし人間というのも恐いもので、だんだん慣れてくるにしたがい、その素直な操縦性もあいまって休みのたびに山道を求めてさまよった。もっとも本格的な『峠の走り屋』というわけではなく、あくまでもモドキであるところがオクユカシイといえよう。あるとき女の子を乗せて山道を走っていた時、初めのうちはゆっくりと走っていたのだが、だんだんペースが上がってきてあるコーナーをグインと曲がった時に、急に横でガンッと音がした。なんのことはない、一緒に乗っていた女の子がガラスに思いっきり頭をぶつけた音だった・・・。それからその女の子がわたしの車に乗る時には、たとえ街中といえど必ずアシストグリップを握り締めるようになったのは言うまでもない。

 走り屋モドキといえば、この86はかなり手を加えていた。幸か不幸かわたしの同級生の女性が市内のカーショップにお嫁入りしている関係で、わたしの車のメンテはほとんどここでやってもらっている。反面、なにか新しいものが出ると『ねえ〜そうちゃーん。こんど86の新しいマフラーが発売されたんだけどさー(^^)』などどもみ手でやってくるので、痛しかゆしといった面もあった。そんな中、そのショップで86用の足回りを初め、いろんなパーツを注文していた人が金銭上の理由から注文をキャンセルして来たのだ。そのすぐあとに、たまたまわたしが店に行ったものだから、店にしてみればわたしはまさにカモネギ状態だったのだ。結局『超特価』の誘惑に負けてGABの足回り一式、5JIGENのストレートマフラー、永井のフルトラを装着することになった。

 そのころは、職場の先輩から昔スカイラインに付けていたワタナベのホイールをタダ同然でもらっており(例のショップで真っ白に塗装してもらった)、ステアリングはミラージュの時から使っていたストラトスモデルの4本スポーク、その後エキマニをフジツボのタコ足に替え、まさに格好だけは『走り屋御用達』の86となった。そしていまの所に就職し、職場にもこの車で通っていた。

 ところで、この86は『梵天丸』の愛称で呼ばれていた。べつにそういう名前の団体に入っていたのではなく、当時NHKの大河ドラマで伊達政宗が放映されていたのだが、なぜかわたしの86はよくヘッドライトが片方切れて、『隻眼』の状態にしばしばなったものだ。それで伊達政宗の幼名の梵天丸を少々拝借したわけである。生っ粋の86乗りにはなれなかったが、いまでも大好きな車だ。惜しむらくはなぜか写真が残っていないんだよな・・・。


其の参 マツダカペラカーゴ PWSディーゼル(その名は轟天号)ガンメタ

 え?!と思われる向きもあるかもしれないが、86の次に乗ったのはこのカペラカーゴだった。じつはワゴンには高校生の頃からなんとなく惹かれるところがあり、86に乗り始めた割と早い頃から『次の車は、ステーションワゴンにしよう』ということは決めていた。購入を意識し始めたのは、だいたい昭和から平成へと時代が変わった頃だったと思う。初めに考えていたのは、じつはスプリンターのカリブだ。別に4駆ということにはこだわりが無く、コンパクトなサイズと遊び心の溢れるデザインが気に入っていた。ただ、エンジンが非力だということが今一つ購入に踏み切れない原因のひとつであった。そんなとき、ふと友人とマツダのディーラーを訪れた時においてあったのが、ガンメタのカペラカーゴだった。第一印象は『大きすぎる、内装のデザインがダサい、おじさんッポイ』といったところだったのだが、リアのサードシートとリアハッチを見た時にそれらはすべて吹っ飛んだ。なんと、サードシートに座ってリアハッチについているハンドルをひねると、中からリアハッチが開き、まるでキャプテンスカーレットの追跡戦闘車のようになるのだ。それだけでこの車に決定したといっても過言ではない。うちにカペラがやって来たのは平成元年の2月だった。

 その年のゴールデンウイークにはSHADOの友人達と鹿児島までドライブ。その他にも恒例の出雲・松江そばツアー、仲間内のキャンプ、バンドの器材運搬とこの『轟天号』は大活躍だった。しかしながら、実際には一人で乗ることのほうが圧倒的に多く、そのときはなんとなく背中のほうが寂しく感じられた。そうそう、バンドの器材運搬といえば、大学の時のバンドで一緒にギターを弾いていた後輩(新潟在住)が結婚することになって、結婚式の前日に新潟市内でお祝いのギグをすることになった。かくしてわたしはこのカペラカーゴに2本のエクスプローラとエフェクターや器材、結婚式用の礼服にステージ衣装をのせて宇部から新潟までひとりで運転していった。このPWS(プレッシャーウェーブスーパーチャージャー)ディーゼルは燃費が良い上に、100Km/hまでならそのへんのガソリン車よりもよく走る。新潟までも楽勝で行きそうなものだが、どっこいこの車のシートが最低なのである。これはほんとうに参った。腰にくるのである。洒落にならないくらい・・・。走りが良いだけにこれだけはいただけなかったな。

 もう一つこの車の欠点を。もともとこの車のメインエンジンは1800ccのガソリンエンジンなのだが、当然のごとく、2000ccのディーゼルエンジンのほうが重量がある。つまり、フロントがどヘビーなのである。標準の185・70・14のタイヤはどう考えてもプアだ。ちょっとしたコーナーではすぐにスキール音を発生するし、ステアリングをきる時も、まずぐにゃっとした手応えがきて、その一瞬あとにノーズがぐわっとくるカンジなのだ。そこでホイールを1インチアップして15インチとし、タイヤも195・60・15に換えた。するとそれまでのぐにゃぐにゃハンドリングはすっかり影を潜め、かっちりとした操縦感を手に入れることができた。乗り心地の悪化も無く、これは良い選択だったと思う。

轟天号トータルリコール事件

 やはりこのことには触れておかなくてはならない。この車を買ってまだそう日にちの経っていない頃、マツダから一通のはがきが届いた。PWSに欠陥があるというのだ。スーパーチャージャーとエンジンを繋ぐVベルトが不良品で、走行中に切れることがあるというのだ。これが切れると走行不能になってしまう。もちろんすぐにディーラーで交換してもらい、これで大丈夫と思っていた矢先、切れた。
 何故だかは解らない。そしてその1年後にも切れた。

 正直、これには参った。

 最後に、この車に乗ってみんなで出かける時には、なぜかわたしは人に運転させて自分は後席にふんぞり返っていることのほうが多かったような気がする。ときにはサードシートに座り、異次元のドライビングビュー(後ろ向きの景色)を楽しむこともあった。もっともこのサードシートの景色は、人によっては地獄を垣間見ることになるようで、友人のハマチャは車が動き出して10分もしないうちに車酔いを起こした。(ふ、無様ね・・・)


其の四 ご存知ユーノスロードスター (コードネームは「らららちゃん」)色白

 マツダがユーノスロードスターを発売した。この車は発表のかなり以前から、『マツダがオープンカーを出すらしい』『ワンローターのライトウエイトスポーツだ』『FRレイアウトだ』などと情報はかなり先行していたとおもう。結局1600ccDOHCエンジン・2シーターオープンカーとして登場した。心が動かなかったわけではない。元86乗りのわたしとしては、ライトウエイトFRに興味はあった。しかし一方では、『たぶんスピコン(手動式アクセル)はつかないだろうな・・・』とも思っていた。と、いうのは86はもともとカローラ/スプリンターという大衆車から派生した車だ。無理をしなくてもスピコンは装着できた。それに対してロードスターは最初からスポーツカーとして設計された車だ。そんな手動式アクセルを装着することなど、設計思想の中には当然入っていないと考えるのがふつうである。事実、トヨタのMR2やマツダのRX−7などは装着不可能だった。そんな中で、平成3年の初夏、友人のべっちゃんと一緒に徳山のユーノス山口に行くことになった。目的はロードスターの試乗である。べっちゃんはもともと2輪乗りなのだが、同級生のくろちゃんと一緒にレーシングカートもやっている。そんな関係で、「話のネタにロードスターに乗ってみようか?」ということになったのである。

 ユーノスについてみると、店の前に青い試乗用のロードスターが置いてある。それを横目で見ながら、まずは店の中に入った。セールスのおねいさんから、一通り講釈を聞いた後、きょうの目的がロードスターの試乗にあることを告げた。試乗車は当然マニュアルなので、わたしは運転することが出来ない。すると、ユーノスの店長さんが「いいですよ、お友達と一緒に乗ってきてください。」とのご厚意。ありがたい話である。早速べっちゃんがドライバーズシートに、そしてわたしはナビシートに乗って試乗車をスタートさせた。

 出発してすぐにべっちゃんに言って車を止めさせた。

べ「どうしたん?」
そ「せっかくだから、幌を開けよう!」
べ「なるほろ、なるほろ。」

 そしてオープンとなったロードスター。ユーノスの店の中においてあったロードスターももちろん幌はかかってなかったが、実際に公道でオープンにしてみると、それはもうなんとも言えない爽快感!この一語に尽きる。これはもう、乗った人にしかわからないと思う。(参考:エヴァ手話第七話)

 結局この試乗会が呼び水になり、カペラカーゴのリコール騒動も相俟って、ついにわたしは購入を決心するに至った。そこで問題になってくるのが、先に延べた『スピコン』の問題である。試乗から帰り、まずはそのことをディーラーに尋ねてみた。すると、店長さんがわざわざ東京のユーノス本社まで照会をしてくださり、関東で1台ほどロードスターにスピコンを取り付けたことがあるのを調べだしてくれた。そうすると、もうわたしには何も問題はない。購入資金の調整ができたその年の9月、ついにロードスターSPパッケージ・クリスタルホワイトAT仕様をオーダーした。

らららちゃんとは?

 これはちょっとハズカシイ話なのだが・・・。試乗会から帰って、ロードスター熱に罹ってしまったわたしは、ことあるごとに「ろおどすたあ・・・ろおどすたあ・・・」と口走り、挙げ句の果てには、「♪ららら、ろおどすたあ〜♪」と自作自演の歌まで唄い出す始末。周囲の人間から冷たい目で見られながらも、わたしはひたすら歌い続けるのであった・・・・・・。

 納車は時間がかかるといわれた。その理由の一つはスピコンによるものでもあるのだが。9月に注文して秋が過ぎ、気がつけば世間は冬になっていた。なんとか年内に納車をと「らららの歌」を歌い続けたところ、祈りが通じたのか平成3年の12月、奇しくも公務納の日の前日、わたしはロードスターのオーナーになったのである。本当は公務納の日の予定だったのだが、そうすると車の保険の変更をする時間が無くなってしまう。正月の間、心置きなく乗るためにも任意保険はちゃんとしておきたい。それでなんとか前日に納車されるようにディーラーに頼んでいたのだ。おかげで任意保険の手続きも無事に済み、新車と一緒に新年を迎えることができた。

 よく走りに行ったのは、秋吉台道路。なんといっても眺めが良い。ロードスターにピッタリのロケーションである。86に乗っていた時もここにはよく来ていた。走る時は当然オープンである。真冬でもそれは変わらない。もっとも冬の場合は目的地に着くまでは、しっかりクローズドの状態なのだが・・・。ともあれ、真冬でもオープンで走っている奴は県内でも珍しかったらしく、いちどある所で若い男の子に、「よく秋吉台を走ってらっしゃいますよね?」などど声をかけられ、びっくりしたこともある。この秋吉台道路はいろんな人が集まってくる。ポルシェ356のレプリカに乗ったおじさん、横浜ナンバーのケーターハムの人、バイクの兄ちゃん達、みんな気さくな連中ばかりだ。『足を使わずに運転できるんだよ』というと、みんな『へー!!』と一様に驚いたりするが、そこは同好の志。エンスー談義に花が咲いた。
 そういえば、以前立花さん(ロードスター開発者のひとり)のM2(マツダの実験工房)が、車椅子の人も乗れるロードスターの実験車両を公開していたが、その後どうなったのかな?

 しかし、ロードスターではどうしても困る時がある。それは荷物を運ばなければならない時だ。その他にも、もしロードスターが何らかのトラブルで動かなくなった時、わたしは代車に乗ることができない。それでついにセカンドカーを購入するに至った。その名は轟天号弐号機

 ボロでもいい。どこかにワゴンの中古が無いかいな?と探していたところ、ユーノスから「平成3年式のカペラカーゴのディーゼルがでたよ〜。」との連絡。一瞬頭の中を例の『トータルリコール事件』がよぎったが、あの時のカペラ(あえて言うなら初号機)は平成元年式、それよりも新しいモデルなんだから、きっと大丈夫だろうと思った。しかし、やはり同じ所が不具合となり、このときは走行中に止まりそうになった。なんとかだましだまし家までもって帰り、そのまま凍結となった。

昨年の12月、このらららちゃんも3回目の車検を受けた。まだまだ調子は好調だ。


其の伍 マツダデミオ1500GLX (鳴らない電話+見知らぬ天井=開かないサンルーフ)シルバーメタ

「結局、弐号機とのシンクロ率、がたがたね・・・」
「セカンドカーの転換、真剣に考えるわよ・・・」

 などという会話があったわけではないが、前年開かれた東京モーターショーに参考出品されていたマツダのコンパクトカー。これがデミオの前身なのだが、わたしは早くから目をつけていた。そして発売の決定。その矢先に起きた弐号機の故障。と、とんとん拍子に話が進み、デミオの購入はいままで乗ってきた車の中で、もっともスムーズだったかもしれない。

 この車の良いところは、何といってもトールボーイなボディだ。コンパクトな体に似合わず、意外に空間のある車内。それなりに走るエンジン。
 しかし良いところばかりでもない。まずはATのシフトスケジュール。1速のつながりが異様に早く、すこしスロットルを開けただけでグワっと発進してしまう。渋滞時や車庫入れの時などは気を遣うのだ。おまけに走行中スロットルOFFの状態からギヤがダウンせず、再びスロットルを開くと2速からの立ち上がりになり、加速が望めずまことにかったるい。このあたりに関係があると思うのだが燃費も思わしくない。また、後席はダブルフォールディングの折りたたみなのだが、ロックのはずしかたが面倒くさい。両手を伸ばして左右同時に引っ張らないといけない。そしてこれはわたしの車だけなのだろうが、買ってから半年でサンルーフが開かなくなった。

 98年夏、職場の後輩と一緒に乗っていて

後輩「いいっすよねー。創さんのデミオ、サンルーフ付で。」
わし「開けばな・・・。」

 しかしこのデミオ、良い車であることには違いない。この車のシートは実はカペラのものを利用しているのだが、『これがあのカペラのシートか?!』と思えるくらい出来が良いのだ。この車ではまだ博多や鳥取くらいしか行っていないが、全く問題ない。それに小さなボディのくせに結構荷物が入る。もちろん轟天号には及ばないが、たいていのことは事足りる。最近ではこちらのほうがファーストカーになり、ロードスターは休日専門の車になっている。まあ、それはそれでいいんだけどね。とりあえず、いまはこれといって欲しい車も無いので、しばらくはデミオとロードスター、この2台でやっていくつもりだ。


 こうしてみると、「もしかすると創さんはマツダ党か?」と思う人もいるかもしれないが、わたしとしては特定のメーカーに対する思い入れは無い。たまたまマツダの車に続けて乗っているだけなんだけど・・・。

 いま自動車の世界は、大きく再編されようとしている。そのこと自体はこれも自然淘汰なんだろう・・・、というのが今のわたしの正直な感想だ。地球温暖化の問題は、これからのモータリーゼーションに大きな影響を与えていくだろう。しかし、車を作る人にはいつも自分の夢を持って作って欲しい・・・。とも思うね。それが似非エンスージアストの創さんの願いさ。みなさんの車に対する想いいれをお聞かせください。

BBSMAIL

1999年3月

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