週刊サワネ1998年4月第2号 通算第12号

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 犯罪学入門 鮎川潤 講談社現代新書 640円

  記憶の闇 松下竜一 河出書房新社 1500円

 子供に教えられる

 シティバンク−4

 

「犯罪学入門」 鮎川潤 講談社現代新書 640円

犯罪学というのは聞きなれない名前です。はじめにを見てみるとこう書いてあります。人々の平穏な日常生活を確保し、社会の安全と信頼とを回復することが犯罪学の主要なテーマである。

まあ、この文章を読んでもよくわかりません。とにかくなじみの薄い世界です。

ラベリング理論というのが出てきますが、もちろん始めて聞いた言葉です。この理論では、犯罪者に対して貼られるレッテルに着目します。いったん犯罪者の烙印が押されると、社会復帰が困難になり、犯罪者の道をつきすすむことになる、というのです。そして、犯罪は相対的なものであり、時代によってことなるものだから、その内容によっては法を改正することによって非犯罪化することも社会の秩序と安定のために望ましいと言っています。

また、常習累犯窃盗という言葉も出てきます。レ・ミゼラブルにパンを一切れ盗んで刑務所に行ったという話がありますが、現在の日本の刑務所にもジャン・バルジャンがたくさんいると言うのです。コンビニで65歳の男性がおにぎり2個、260円相当を盗んだために、1年6ヶ月の懲役刑の実刑判決を受けた例が載ってます。過去10年間に、窃盗で6ヶ月以上の懲役に3回以上処せられた人は常習累犯窃盗に指定され加重刑になります。古自転車を拝借して、数百メートル走って捕まっても必ず懲役で実刑となるのだそうです。ぜんぜん知りませんでした。

犯罪と言うのは、かけはなれた世界のものだ。私たちは、普通こう思っています。でも、私たちが罪を犯さなくても、犯罪の方から私たちに関係を迫ってくることがあります。そのとき、私たちは、犯罪の被害者になっているか、冤罪をかぶっているかのどちらかです。これから、犯罪が増加していくのだとすると、被害者になる確率も冤罪を受ける確率も、増加していきます。犯罪を自分に関連したものと考えるのはつらいですが、そういうことも必要な世の中になってきたのでしょう。例の大蔵省の官僚、政治家たちもよもや自分達が犯罪者になるとは思っていなかったでしょうね。

 

「記憶の闇」 松下竜一 河出書房新社 1500円

こっちの方は、自分が犯罪者として世の中に見られてしまうという話です。4月の初めに神戸地裁で無罪の判決が出たのですが、地検が控訴したため、裁判は続くことになりました。事件発生が1974年ですから24年経過しているわけです。

警察に対する市民の信頼の厚さを感じることができます。警察に逮捕されればそれだけで世の中は真犯人だと思います。容疑者本人でさえ、厳しい取り調べのなかで警察は自分のためになることをしてくれているんだとおもいこんでしまうのです。そして、面会に来る弁護団よりも警察の言うことを信用する。弁護団には何も話さない。そして、警察の誘導によって自白してしまう。自白してもまだ、警察を信用している。翌日にはすぐ自白を撤回するのですが、もうこれで世の中は容疑者を真犯人だと思ってしまう。

警察は、市民の信頼にこたえているかと言うとこれがちがう。例えば、児童の来ていた服と同じ繊維が容疑者の服に付着していたということが有力な証拠となるのですが、繊維が同一であるという鑑定が3ヶ所から出されます。しかし、警察が依頼した鑑定先は10を超え、3ヶ所以外は同一ではないという鑑定をします。そして、警察はこの同一ではないという鑑定を隠す。

夜8時に始まる検事の取り調べがすごい。自白を取り消す供述調書を作ってくれと依頼する容疑者に「その手でおまえが殺したんだ!おまえのでたらめな調書を取ってたら12時を過ぎてしまう」と言って帰ってしまう。

誰が犯人なのかは分からないことです。この本では、冤罪を主張しています。わたしも、容疑者が犯人だとは信じられない。すくなくとも、」容疑者が犯人であると言う証拠があるとは思えない。検事が裁判が終わってもいないのに、おまえが犯人だと決めつけていいものでしょうか?犯人はおまえだ!などと言えるのは名探偵コナンくらいのものでしょう。こんな、検事がいるということが、恥ずかしいことだと思うのです。本には検事の名前が実名で出ています。

この本を読んだ理由は3つあります。甲山事件にもともと関心があったこと。判決がでたこと。そして、著者が松下竜一氏であること、です。「底ぬけビンボー暮らし」という著書が」あります。著者の日常生活を書いた本で、これがおもしろかった。どのくらいビンボーか。日本文芸家協会から入会の勧誘状が来ます。誰でもが入れるわけではない権威ある職能団体です。推薦したのは梅原猛と中野孝次。でも入会金の5万円と年会費2万円に目がくらんではいれませんでした。この年(たぶん1995年)の松下氏の平均月収は2万5千円です。

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こどもに教えられる

ビールを買いに行きました。小学校2年生のこどもも一緒です。自動販売機に千円札を入れてもらいます。レギュラーを4本買いました。

「とうちゃん、いくらしたん?」

こういう質問には答えないことにしています。自分で答えを出させるようにしているのです。いくら?240円×4=960円、掛け算まだならってないよな、むりかな、と思いつつ言いました。

父「いくらしたと思う?」

子「わからん」

じゃらじゃらとお釣が落ちてきました。あ、掛け算でなくても、引き算でできる。

父「おつり、いくらあった?」

子「40円」

父「お金、いくら入れたんかな?」

子「1000円」

父「1000円入れたら40円戻ってきたんじゃな?」

子「うん」しばらく、沈黙。

子「あ、わかった。960円」

父「やった。正解。今引き算でやったろ。足し算でやってみ。240円が4つ」

子「わからん」

父「240足す240は?」

子「480」

父「480足す480は?」

子「960、できた」

父「教えてもらうより自分で考えた方が楽しかろう」

子「うん」

父「今、引き算と足し算でやったけど、掛け算いうのもあるんじゃ。これから習うと思うけど」

ちゃんちゃん

まあ、これだけの話なんです。教えられたことというのは、たかがビールの代金の計算といえど、掛け算だけじゃないよ。いろんな方法があるんだよ。掛け算なんか知らなくたって、引き算だって、足し算だってあるんだよ。できない!じゃなくてできる方法ですることを考えればいいんだよ。ということでした。どうですか?お仕事につかえるでしょう。答えを教えないで考えてもらう。これだけで、自分でも頭を使うことができます。子供や従業員に考えてもらうことができます。人に教えられたことと、自分で考えたこと、どちらが頭にのこるでしょうか?人に教えられるのと、自分で考えてわかるのとどちらがたのしいでしょうか?

プラトンにメノンという著作があります。岩波文庫にあります。ソクラテスが子供の、あるいは人の持っている能力についてメノンに証明するという内容です。人はもともと、すごい量の智恵とか知識をもっている。教育というのは、この智恵とか知識とかをひっぱりだしてやることだ。たとえば、三平方の定理の証明なども、ひきだしてやりさえすれば誰でも答えを頭の中にもっているのだ。たしか、こういう内容だったとおもいます。こういう考えが正しいのかどうか、私は知りませんが、楽しいでしょう。

 

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シティバンク−4

このシリーズ前回でおしまいにするつもりでしたが、最後の報告をいたします。10数カ国の通貨にかえることができるのですが、為替相場どうやったら知ることができるんだろうと思ってました。0120フリーダイヤルでいつでも知ることができるのでした。人と話しをする必要はなくて、すべてテープのガイドにしたがって電話のボタンを操作するだけで、しりたい為替相場をしることができるのでした。あ、おもしろかった。

 

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