
,政治や軍事の中枢部にも爆撃を加えて破壊しつくす能力です。しかも,安保法制により,集団的自衛権行使の下での敵基地攻撃能力ですから,日本が攻撃されていないにもかかわらず,アメリカ軍が攻撃されれば,日本の自衛隊が敵基地攻撃能力を発揮することになります。


説明する内容を覚えてもすぐ忘れるので,毎回ガイドの前日には整理したポイントを復習しての連続でしたが,回を重ねるうちに,そんなに一生懸命話す必要はないと気づきました。園や城,神社のことを深く知りたい,ただ楽しく時間を過ごしたい,何度も来てるが改めて説明が聞きたいなど,観光客の方の思いはいろいろ,来訪者の興味関心に添って話をすればいいと思うようになりました。
雨が降っていないとのこと。こういう乾燥した気候ゆえ石室の中とはいえミイラが保存されたのだと。納得。
昼食後,ギザの3大ピラミッド観光へ。写真では何回となく見たことはあるが,広大な砂漠の中に忽然と姿を現すピラミッドが現実のものとなった。下車観光。目の前に立ちはだかる巨大な石壁を見上げていると圧倒されて呆然としてしまう。それにしてもこの巨大さは凄いの一語につきる。西に向かって右側が3つのピラミッドの中で1番大きいクフ王(BC2570頃)のもの。高さが現在137m,底面の1辺が230m。4500年という長い年月を過ごし現在も多少風化したとはいえその姿で我々を迎えてくれた。これだけの石造物が「方位」や「水平度」それに「底辺の長さ」において誤差がないに等しいというからそのずば抜けた技術には舌を巻くばかりである。真ん中のカフラー王(クフの子)ピラミッド内部を見学することが出来た。トンネルのような通路を上下,玄室」にたどりつき石棺だけある大きな部屋を確認。あとバス移動。パノラマポイントから3つのピラミッド(もうひとつが最も小さいメンカウラー王(クフの孫)をながめたり,写真撮影,さらに移動,カフラー王の守護の為作られ東を向いて鎮座しているスフィンクス像の近
くへ。ピラミッドとの位置関係が確認できた。
今エジプトは,ベストシーズンで,ルクソールの最高気温は24度(資料によると5月は38,9度とのこと)であった。熱くもなく寒くもなく快適であった。
8:00発,カイロより北へヨーロッパを東に,中央アジア,中国,朝鮮半島を横断,日本海南下し,11時間40分飛行,関西空港12時40分着。無事帰国。
くることが3回ほどあった。予備がなかったので応じなかったが,日本製が人気あるのだと感じた。
「日本にも行きたい…。」と言うので,住所と電話番号を書いて絵はがきも渡した。「ポルトガルの4月」のハーモニカも喜んでくれた。この旅行記を書くにあたり,ガイドブック「地球の歩き方」を開くと彼女が書いたメールアドレスがあった。「音楽大学のある玉島だしメールしてみようかなぁ。」
ユースホステルから,5?6km歩いて大西洋への港に着いた。密輸団が使ったトンネルを探して,レストランのテラスにいた2人組に尋ねると,「赤いバックを背負って歩いてくる貴方を車から見たよ。」と言って教えてくれた。密輸船を接岸させた岩浜を見た後,立ち寄ると「テラスで同席するように…。」と促され,ワインを注がれながら話をした。2人は建築士で,私の渡した絵はがきの日本の木造建築に興味を持ったようで話が弾んだ。1人は「画家を目指したが,食っていけないぞと父親に諭されて建築士なった。」と言った。お開きにする頃,店のオーナーが来て,彼らに何やら話した。そして,「オーナーが私を夕食に招きたいと言っているがどうか?」と説明してくれた。「私はもちろんありがたい」と即座にOKした。彼らは帰り,店名のペシュカノ・プラート「魚料理」の文字通りにおいしい魚料理とビール数杯,ワイン1本をいただいた。酔いで愉快になった私はオーナーの許可を得て,他のテーブルの客にも絵はがきを配ったり,ハーモニカを吹いたり,似顔絵を描いたりして回った。閉店後は,オーナーがユースホステルまで車で送ってくれた。そして翌日も昼・夕食に招いてくれ,これが3日続いた。最後の日の昼には「今日が最後なので上等のワインを出すようにとオーナーに言われた。」とボーイが説明してくれた。私はレストランのスケッチを細やかなお礼とした。
フランス映画「過去を持つ愛情」と主題歌「暗いはしけ」で知られる港町ナザレまで7〜8km歩いて行った。ケーブルカーで福島県いわき市の市川さんご夫妻と知り合いワイン酒場でご一緒した後,「海側窓の良いホテルに泊まっているし,おつまみも買ってあるので…。」と誘われて部屋のテラスでの二次会となった。やがてワインもなくなったので,私が買いに出たが店が見つからなくて先に飲んだワイン酒場に行って事情を話すと,ラッキーにも原価で売ってくれた。3次会ではテラスからのハーモニカが聞こえたらしく,眼下の海岸通りの数人が手を振り声をかけてくれた。私たちも手を振って「懐かしのリスボン」で応えた。その夜はお二人の部屋の補助ベッドにホテルに内緒で泊まり,朝食をいただきバスで帰った。
に挨拶を兼ねて訪れると,「大家族を紹介してくれたので…。」と感謝され,またワイン・ビール付きの夕食を振る舞われることになった。その後の旅でも機会があるごとに「ぺシュカノ・プラート」を紹介した。