第
171
号
2023
年2月(抄)
目 次
◇敵基地攻撃能力はいらない!
◇「教え子を再び戦場に送るな!」の旗を高く掲げて 岡山支部小川 澄雄
◇再会「良い子の友」 備南支部 武田 昭一
◇初めてヤクザと渡り合った時 美作支部 杭田 利晃
◇観光ボランティアガイドの日々 岡山支部 和田 茂
◇人生の中の「光る瞬間」 岡山支部 花田 千春
◇エジプト紀行 備西支部 浅野 秀夫
◇連載 出会いとスケッチの旅 ポルトガル編(1) 備西支部 水間 正雄
◇支部別交流会計画一覧 各支部
◇事務局だより 事務局
◇編集後記 編集部
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敵基地攻撃能力はいらない!
「教え子を再び戦場に送るな!」の旗を高く掲げて 岡山支部 小川澄雄
「安倍ほどひどい総理はもう出てこないだろう」「どんな総理も安倍よりはマシ,立憲主義を否定し去ることはないだろう」と,何の根拠もなく無邪気に考えていました。安倍元総理の国葬強行でその考えが揺らいだのに続き,昨年12月16日の閣議決定は,この無邪気な考えを見事なまでに打ち砕いてしまいました。国家安全保障戦略,国家防衛戦略,防衛力整備計画のいわゆる「安保3文書」です。
敵基地攻撃能力の保有と大軍拡を打ち出したこの文書に接し,SNSなどでは,「もはや戦後ではなく,戦前の様相」「新しい戦前にするな!」などの文言が飛び交い,国民の間に危機感が高まっています。
2015年の安保法制が「戦争国家づくり」を法制面で整備したのに対して,今回の「安保3文書」は,「戦争国家づくり」を実践面で担う自衛隊の能力を抜本的に強化し,国家総動員体制を作り上げようとするものになっています。湾岸戦争・アフガン戦争で都市を破壊し,多数の人々を殺傷した,あのトマホークを自衛隊に実戦配備しようとしているのです。
記者会見で岸田総理は,敵基地攻撃能力の保有は,「自衛隊の抑止力,対処力を向上させることで,武力攻撃そのものの可能性を低下させる」と述べました。しかし,日本の自衛隊がそうした武力を持てば,敵とみなされた相手国は危機意識をつのらせ,それを上回る軍事力を持とうとするでしょう。際限のない軍拡競争を激化させることになります。これでは,戦争を抑止するどころか,戦争に近づくことになってしまいます。
そもそも敵基地攻撃能力とは,相手国の領土内に攻め入って,相手国の基地を攻撃破壊し
,政治や軍事の中枢部にも爆撃を加えて破壊しつくす能力です。しかも,安保法制により,集団的自衛権行使の下での敵基地攻撃能力ですから,日本が攻撃されていないにもかかわらず,アメリカ軍が攻撃されれば,日本の自衛隊が敵基地攻撃能力を発揮することになります。
相手国からみれば,日本による事実上の先制攻撃となってしまいます。相手はこの攻撃を黙って見過ごしてくれるわけがありません。必ず報復攻撃をしかけてくるでしょう。日本国内の基地が狙われ,原発が狙われ,都市が狙われ,多くの国民の命が失われることになります。まさに,戦争そのものです。日本が焦土と化してしまいます。敵基地攻撃能力の保有は,日本の安全を守るどころか,アメリカの戦争に日本と日本国民を巻き込むものにほかなりません。
防衛予算の2倍化は,医療をはじめ社会保障や教育の予算を削ることにつながります。国民生活がさらに圧迫されます。年金生活者が生きにくい社会になってしまいます。
日本国憲法の平和主義を投げすてた,こうした戦後安全保障政策の大転換であるにもかかわらず,「安保3文書」は,こともあろうに,「専守防衛に徹し」などと大ウソの言葉を並べ,国民を欺こうとしています。
私たち高退教会員は,かつて教職に就いたとき,憲法・教育基本法(47年)を守り,それに基づく教育活動をすることを誓いました。その誓いにのっとり軍国主義教育に反対し,平和教育の実践を重ねてきました。
岸田内閣が大軍拡に踏み出そうとしている今,まさに,教職に就いたその原点を思い起こすことが必要です。国内のあらゆる平和・民主勢力と手を携え,岸田内閣の大軍拡を許さない取りくみを進めるときです。
私たちは,若さこそ失いましたが,高齢者にふさわしく知恵があるはずです。恐れず前進しましょう。「教え子を再び戦場に送るな!」の旗印を高く掲げて。
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再会「良い子の友」 備南支部 武田 昭一 備南支部 武田 昭一
埼玉からお便りします。
東京の国分寺市に「都立多摩図書館」という図書館があります。めずらしい図書館で,「雑誌図書館」などと通称されて,子供向けの雑誌や資料などを備えているのが特徴です。おもに,調べるための図書館で,貸し出しはしません。古い雑誌などにお目にかかりたいとき,ここへ行けば,かなり見つかる可能性があります。
私が,ずっと探していた「良い子の友」,昭和19年12月号が,ここにありました。国会図書館にも,なかったもので,非常に貴重なものです。
昭和19年は,私は満6歳で,来年は国民学校1年生になる,というときです。私はこの児童雑誌のまさにこの号を持っていました。
今,私の手元に,その図書館で再会した「良い子の友」,表紙を入れて全48ページの「複製本」があります。
その全ページを紹介します。
●表紙:防空頭巾をかぶった2人の子供が,火の用心の巡回をしている。肩から,「米英撃滅火の用心」と書いたタスキをかけている。提灯に「ガンバリヌクゾ,カチヌクゾ」と書いてある。
●表紙裏:体を鍛える少年たちの写真。「ベイ・エイノオニメ,サアカカッテコイ。ボクラハ セウワノモモタラウナンダゾ。」
●1ページ:神社に参拝する少年少女の絵。「ヨイコニナリ,キット,ベイエイニ,カチマス。」
●2,3ページ。:「海軍美術展」に出品された絵画作品(小野具定)。敵航空母艦を攻撃する海軍「海鷲」戦闘機の「勇姿」。
●4ページ:絵。農作業に従事する少年たち。「ハゲメザウサン」
●5〜7ページ:「ゴセンゾサマ」:絵入り七・五調の叙事詩。ご先祖様は,一心に働いてこの国をつくった。山を切り開いて,道をつくった。その道を,今僕らは軍歌を歌い,兵隊さんを送ってゆく,という話。
●「8〜12ページ:「カチカチイシ」。ミニ小説。勇くんと太郎くんは,兵隊さんに送る「慰問」の絵を描いていて,失敗して描きなおそうと思うが,消しゴムがない。絵描きの叔父さんのところに行って借りよう,と出かける。途中で勇君の下駄が割れてしまい,続いて太郎君の下駄の鼻緒が切れてしまう。ケンケンしながら叔父さんのところへいくと,叔父さんは部屋で竹刀を振っている。寒いときはこうして体をあたためるので,貴重な炭は使わない。消しゴムは叔父さんのところにもなくて,これは米英のせいで不自由するんだと叔父さんは憤慨している。おじさんは下駄を直したうえで,下駄に紙を張り付け,それに米英の地図とルーズベルトとチャーチルの絵を描いてくれていう―「こうやってやつらの本土をふみにじってやるんだ。」――おじさんはそのあとで,サツマイモをふかしてごちそうしてくれる。マッチがないので,おじさんは火をつけるのに,火打石を使う。「カチカチイシ」というんだ,敵に「勝ち勝ち」だ,という。
●14〜19ページ:「たたかふ ほげいせん」。海洋物語。――捕鯨船の下に,敵の潜水艦が潜り込んでしまって,日本の飛行機が爆撃できない。捕鯨船はかまわずに爆弾を落とせと無電で再三催促するが,飛行機はさすがにそれができず,味方の駆逐艦を呼びに引き返す。敵潜水艦がそのすきに浮き上がって,攻撃を仕掛けて来た。捕鯨船の砲手は鯨を撃つ銛で潜水艦の胴体に穴をあけてしまう。潜れなくなった潜水艦はやがてやってきた日本の駆逐艦に沈められてしまう。
●20ページ:「12月」という月の紹介。皇太子(のちの平成天皇)誕生日,大正天皇祭,「大いなる開戦」の日,赤穂義士討ち入り,大晦日などの紹介。大晦日に鳴っていた「除夜の鐘はみんな応召してしまったので,今は鳴りません,鐘は今頃,弾丸となって,敵をやつつけているでしょう」,と説明がある。
●21〜28ページ。:「ニッポンノコヱ」。絵解き時事解説。私がこの本で,唯一鮮明に憶えている記事。清水崑の勇壮な絵と,与田準一の男性的な語り口が印象的でした。阿蘇山と霧島山を擬人化して,両者がぼんぼん噴火しながら時局を語る。「オイ,キリシマ。」「ナンダアソ」「ダイブ,アメリカノヤツ,ノサバッテキタヂャナイカ」とはじまり,ロンドン会議やワシントン会議で,卑怯な米英のたくらみで軍艦を減らされたこと,満州国という兄弟国をつくった日本の骨折りのこと,しかし蒋介石が米英に踊らされたために,やむなくアジアの仲間を討つはめになったこと。盧溝橋の銃声以来,上海に,南京に,重慶に翻った日の丸の旗。そして紀元2600年の式典のすばらしさ。翌年の,「米英を討て」との大詔。ハワイ,マレー沖の快進撃――。今,米英はのさばってきたが,戦いはこれからだ。B29がいくら目の前に来ようとも,「体当たり,野辺軍曹」のあとにつづく少年飛行兵が,腕をさすって待っているぞ,という。――最後,「キリシマヤマト,アソサンハ,クモヲハラッテ,ハレバレトシタスガタヲ アラハシタ。九州ノソラニモ,ダイ四ネンメ,12月8日ノアサガ キタ」。野辺軍曹とは,昭和19年8月,北九州八幡の上空で,爆撃に来たB29に対し,体当たりの特攻を敢行して散った飛行兵です。
●29〜30ページ:「あらわしのふんせん」。サイパンやテニヤンを占領した敵は得意になって台湾に押し寄せたが,わが「荒鷲」は台湾沖で敵をさんざんやっつけた。これからの戦争は飛行機だ。力をあわせ,よい飛行機をたくさんつくろう,と呼びかける。
●32〜36ページ。:「日本男児」。小説。最近まで日本の占領下にあり,今はアメリカに占領された,南洋の島の物語。日本びいきの少年たちが,「日本軍がサイパンで玉砕した」といううわさをきいて心配している。一人のリーダー格の少年が言う。「玉砕したからといって,日本が弱いことにならないさ。アメリカなんかは玉砕しないで捕虜になってしまうんだから,ほんとうは弱いんだ。捕虜になるのと,捕虜にならずに桜の花のように散るのと,どっちが強いかね。」ほかのこどもたちは,納得してうなずく。
●37〜43ページ:「アメリカジンヲ ナゲトバス」。柔道の姿三四郎の話。アメリカのヘビー級ボクサーに試合を挑まれて,ことわるけれど,侮辱されたので,三四郎は受けて立ち,相手を「巴投げ」と「山嵐」の技で投げ飛ばしてノックアウトする。賞金を受け取らず,「日本柔道は見世物でない。」とたたき返す。
●44ページ:「ゲキメツセン」。パズルのような,絵のページ。遠くに敵軍艦が爆破されている。手前に日本軍の大砲がズラリと並んで,一斉に火を吹いて居る。どの大砲の弾が当たったでしょう,と当てさせる。定規を使え,というヒント。
●表紙裏:「ヒカウテイ」。飛行艇の戦場での働き方の紹介。
●裏表紙:「オトモダチノ カイタヱ」。稲刈りの絵(2年生),敵艦を攻撃する日本軍機(3年生)。の2枚。
これで,全ページ。寸分の隙もなく,戦時体制です。こんな本だったとは,知りませんでした。神国日本賛美,米英への憎しみとそれと闘う皇軍賛美,「贅沢は敵」だと節約と増産の奨励などなど――。「良い子の友」は国民学校(小学校)低学年向けの雑誌でした(だから,1年生向けのカタカナ文と,2年以上の平仮名文がチャンポンに登場する)。驚くのは,これが一体こどもの精神世界なのか,ということです。家族や友達への愛の物語もない。自然の不思議さの探究や冒険の物語もない。楽しい遊びもない,ファンタジーの楽しさもない。笑いを誘う滑稽談もない。文明をつくった偉人達の物語もない――。子供が大好きな,そんなものが,一切ない異様さに目を疑います。あのころ私はこんな中で生きていたのかと,いまさらながら驚きます。戦争がいったん始まってしまうと,あらゆる価値観は一元化されてしまう,という見本みたいです。とりあえず,勝たなければならない,だから文句を言わず,団結しよう――。そして行き着く先の,この本のような,ヒステリックな絶叫,そのなかから誘いかけてくる「死の美学」――。文化は完全に死滅していまし.た。
私がこの本を読んだ3か月後に東京大空襲です。8か月後に広島と長崎の原爆が落とされます。そしてすぐ敗戦。すべてにおいて,末期症状だったとき,わたしはこの本を読んでいたのでした。
これが現実に私の体験した歴史の現象なのでした。これが戦時体制というものであったことは誰でも知っています。ただ,この戦時体制がどういう流れの結果であったのか,大きな流れ小さな流れ,いろいろな流れが合流したのだろう,この源流を遡っていったところに何があるのか,どこで,どんなふうに流れは枝分かれしたのか,考えると複雑で,こんがらがってきます。後期高齢者から,末期高齢者になる中で,私はしきりに自分の「戦争時代」の体験を反すうします。幼い子供の体験ですから,それは歴史のほんの「ひとかけら」にすぎないでしょう。でも,そのひとかけらにも膨大な背景の歴史があり,その歴史の森に分け入るのは,それなりの「ロマン」だからです。
敵基地攻撃能力のある軍備,軍事費2倍増など,岸田内閣の防衛整備計画に対し,「新しい戦前」とタモリが警告したとかで,話題になっています。たしかに,今,おかしい。今のこの流れと相似形のものが,かつての流れの中にありはしないか。「年寄り」の本能はそう問いかけます。戦後,平和憲法とともに雲散霧消したはずのものが,また見えだしたのか。「良い子の友」昭和19年12月号の世界が,遠くかすんでいるけれど,私には,見える気がします。(2023.1)
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初めてヤクザと渡り合った時
美作支部 杭田 利晃
私の親父は戦前の昔型の教育者で,目上の者に逆らうな!そしてみんな仲良く,争い事はしないように,他人に迷惑をかけてはいけない,と常々言っていました。私もそれを美徳として受け入れて育ちました。ですから,従順で,主体性の乏しい,気の弱い性格でした。従ってヤクザを相手の争いなんて初めてです。
それは 教員採用試験を受けて,岡山県の一次試験の発表はまだで,愛知県の1次はパスし2次の面接を残した8月下旬の夏の暑い昼下がりの時でした。当時私はトラ醤油岡山支店でアルバイトをしていました。国道180号線と奉還町の間の住宅街のお客様に,軽トラで醤油と酒を配達しての帰りにそれは起きました。T字路の狭い一方通行にさしかかった時,マイカーが4台,エンジンをかけたまま止まって動きません。何事かと車窓から見ると,タクシーの運転手にヤクザが2人,大声でわめき立てている。運転手は困り果てている様子。私は『早く終わらないかな〜クソ暑いのに!』と思いながら周りを見ると,両サイドの家の少し開けた窓からあちこちの住人がそっとのぞき見をしています。なかなかケリがつきません。
その時です。私の心にもう一人の私が呼びかけたのです。
『オイ,あの運転手が来年のお前の生徒だったらジッと見ていていいのか?お前それでも 教師になる資格があるのか?』
私は応えました。『そんなことを言われても,前の4台のマイカーの人も近所の住人も既に私より先に知っていたのだから,その人たちが岡山西署にTELしておくべきだろう』 と。私は早く終わって欲しいという気持ちでしたが,もう一人の自分の問いかけは止みません。私の心に別の心が呼びかけるという経験は後にも先にもありません。この葛藤の結果,行く心が勝ちました。『では どうするか,落ち着け。行く目的は何だ?ヤクザに勝つことなんてできない。運転手を逃がすことが目的だ。逃げた運転手は旧岡山西警察署に駆け込んでくれる。パトカーのサイレン。それまで 時間を持たせれば良い。大学の講義で,ヤクザは自分より弱いものは虐めるが,彼らは本当は心の弱い人間で,それを隠すために強がっている,強い者には顔は上がらない・・・と学んだ。では実践してみよう。』
『私を彼らより強く見せねばならない。しかし,私の上背と顔はとても強そうには見えない。幸い,車には御用聞き用の大きな前掛けと法被があり,トラ醤油の吠えた虎の絵がある。強そうに見えるかもしれない。タバコを吸いながらゆっくりと低く大きな声で割り込めば,彼らより強く見えるかもしれない。』『一人はドス?らしき物を持っているが,刺されても手か足ぐらいで,周りも見ているので死ぬことはないだろう?』でも心はドキドキ。心臓はバクバクでした。覚悟を決め 足は多分震えながら,怒鳴り散らしている現場に行きました。
私が声をかけても,運転手を大きな声で威嚇しているので 振り向かない。そこで後ろから一人の肩を強く叩きました「おい見てみろ。7〜8台,ズ〜ッと止まっている。迷惑だ!一体何があったと言うなら!』と言うと,彼らは私に説明し始めました。
『シメタ』と思いました。運転手にも聞きながらわかったことは,「ヤクザ2人は 組長を迎えに車を停め,組長の家に入った。先に1人が出てみると,車がT字路交差点の先にある。タクシーが動こうとしていたので,運転手が組長の迎えの車を動かしたと思った。ところが補助席に置いていたバッグが開いていて財布にあった 3万円がない。運転手が盗んだのだ」という。
そのうちに2人が私の質問に乗ってきたので,運転手に目配せをしました。タクシーはそっとT字路を曲がって180号線に向かって行きましたが,2人は気づいていません。
『ヤッタ−。後2〜3分もすれば パトカーのサイレンがなる。』と思ったのですが,3〜5分経ってもサイレンは鳴りません 4台のマイカーもそっと行ってしまいました。あるのは少し離れたところに,私のトラ醤油名入り軽トラを先頭に4〜5台。『これはまずい』と思い,2人に「タクシーの運転手はもう行ってしまった。私も,仕事があるから帰る!」と言って煙草に火をつけ,ゆっくりと軽トラに向かいました(本当は小走りにでも軽トラに行きたかったのですが)。
私が運転席に座り直した時,彼らは気づいたのか,1人が「おどりゃあ,運転手を逃がしやがったな」と窓ガラスごしにドスの切っ先を向けてきました(初めてドスを見ました)。 もう一人は荷台の回収ビンの箱に手をかけていました。私は車を急発進させ,ドスを持った手はバックミラーで跳ね上がりました(足を轢いたかもしれませんが 構わないと思いました)。回収ビンが荷台でゴロゴロと響いていました。T字路を曲がる時に横に目をやると,組長の家の前に黒スーツ姿の背の高い男と和服姿の男(多分組長)が見えました。
店に帰り,「大変なことをしてしまった。店に迷惑がかかるかもしれないのですみません。」と大将(社長)に話すと「わかった。今日の午後と明日は休んで明後日から来てくれ。」と言われました。2日後,店に行くと,大将から「あそこは K組長宅で,赤札屋,差し入れ屋( 刑務所や留置所に差し入れを直接するのが憚られる人の代わりをするところ)だ。もう何も心配はいらないから」と言われました。その口振りから,『多分大将が手を打ってくれたのでは』と思いました。
この体験で,私は教師になれると安心しました。今思うとまがりなりにも 定年まで教師が続けられたのには,こんな経験も糧になっていたのだろうと思います。
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観光ボランティアガイドの日々 岡山支部 和田 茂
2020年10月岡山市の観光ボランティア養成講座に参加し,後楽園,岡山城,吉備津彦神社の観光ガイドをしています。80代という方も含め約100名のボランティアがいます。コロナもあり現在ガイドは午前か午後の2時間で2人体制です。月3回はガイドしようという申し合わせがあり,私は月3回程度で続けています。養成講座では岡山県郷土文化財団や大学,岡山民俗学会の研究者の方から各案内場所についてお話を聞きました。他県で生まれ育ち岡山で教員生活を始めて退職,岡山在住40年になりますが,知らないことばかりでした。話す内容を自分で整理し,最初は妻に観光客になってもらいガイドの練習もしました。
説明する内容を覚えてもすぐ忘れるので,毎回ガイドの前日には整理したポイントを復習しての連続でしたが,回を重ねるうちに,そんなに一生懸命話す必要はないと気づきました。園や城,神社のことを深く知りたい,ただ楽しく時間を過ごしたい,何度も来てるが改めて説明が聞きたいなど,観光客の方の思いはいろいろ,来訪者の興味関心に添って話をすればいいと思うようになりました。
若いカップルは法被を着たガイドの前は素通りですが,特別名勝,ミシュラン3つ星の後楽園にはいろんな方が来園されます。日本各地からのご夫婦や友人連れなどは言わずもがなですが,お孫さんがおじいちゃんおばあちゃんを連れて来園,山口の若い企業家と市内観光中の表町商店街の店主さん,アメリカの高校生に後楽園を案内するので下見中という北海道の女性通訳ガイド,天候が悪く岡山空港でヘリコプターが飛べないので後楽園を見に来たという鉄塔碍(がい)子(し)の空撮カメラマン,ウクライナに滞在経験があり昨今の報道に疑問を呈していた東大阪の男性,高松空港からレンタカーで後楽園,岡山城へ,栗林公園をまわって帰るという青森の若い歴女(タフですね),毎回わずか30分〜1時間のガイドですが,説明の合間にいろんな話が聞けるのも楽しみです。
失敗もあります。熊本からの3人の女性を案内したときでした。和やかに説明や質問を交わし時々熊本弁を教えてもらいながら,延養亭や花葉の池,廉池軒,唯心山をまわって流店で休憩していたときでした。お一人はやや足取りが重く,唯心山へ登るときもあとのお二人が手を貸しておられ,つい私は「今日は娘さんたちでお母さんを連れての観光ですか」と聞いてしまいました。無言,失笑。実は3人姉妹,お一人は病み上がり療養中。ていねいにお詫びしましたが,お別れの際「熊本いいとこですよ,遊びに来て下さい」の言葉。後楽園は気持ちを大らかにしてくれます。
昨年10月来外国人観光客が増えています。元英語教師としては外国人観光客にはできるだけ話しかけるようにしています。東京の日本庭園,金沢で兼六園,島根で足達美術館を見て最期に後楽園という日本庭園ツアーのNZやアメリカの高齢者御一行,後楽園の印象を尋ねたら「他国の庭も見てきたが,日本の庭は世界一」「Peaceful!」と言ってました。日本は5回目というhydroengineeringのイギリス人老学者とその妹さん,彼等を連れてこられた日本人女性学者とそのご家族,という御一行と回ることがありました。朗らかで楽しい皆さんでしたが,桜林の横を歩いているときにイギリス人老学者から「なぜ日本人にとって桜は大切なのか,日本に初めて来た妹に説明して欲しい」と言われ,何を話せばいいのかすぐには整理できず,うまく説明できませんでした。
まだまだ新米,先輩ガイドの皆さんにも教えてもらいながらのボランティアですが,負担にならない程度にしばらく続けようと思っています。
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人生の中の「光る瞬間」 岡山支部 花田 千春
「男はつらいよ」山田洋次監督の映画の中にこんな台詞がある。悩み多き青年である甥の満男君が,旅暮らしの風来坊で失恋ばかりしている叔父の寅さんに尋ねる。「叔父さん,人は何のために生きているのか」と。寅さんは答える。「生きいてつらいことや悲しいことがたくさんあるだろう。でもな,時々『ああ生きていてよかったな』と思う瞬間があるだろう。だから人は生きてんじゃないのか」と。
韓国ドラマで自閉症スペクトグラムの女性弁護士と周りの人とのふれあいシーンを見ながら,この寅さんの言葉を思い出した。ぎこちないキスやデートシーンが美しく光っていて,生きづらい日常を生きていても,人はこの瞬間のために生きているのではないかと思わされた。
世の中には嫌なことや苦い思いをすることもたくさんあり,逃げ出したいときや辛い時もあるけれど,ほんとうに純粋にうれしいことや心打たれることがあって,その光る瞬間をよるべにして生きているのかもしれない。それは,人それぞれ違う。スポーツや芸術に興じている時かもしれないし,恋人や夫婦の愛の時かもしれない。社会の中での人と人のふれあいや支えあい,友情連帯の時かもしれない。自然との出会いや感動かもしれないし,仕事や研究を成し遂げた喜びや達成感かもしれない。
人生の中で光る瞬間があるから人は生きられるのだろう。光る瞬間(とき)をまっすぐみつめて生きたいと思うが,あとどのくらい生きていてよかったと思える瞬間を得られるだろうか。同年代の訃報に接することもふえ,いまさらにかけがえのない日々を懸命に生きようと思う年頭である。
茨木のり子の「ぎらりと光るダイヤのような日」という詩の中にこんな言葉もあった。
世界に別れを告げる日に/人は一生をふりかえって/自分が本当に生きた日が/あまりに少なかったことに驚くだろう/折り数えるしかない/その日々の中の一つには/恋人との最初の一瞥の/するどい閃光などもまじっているだろう/〈本当に生きた日〉は人によって/たしかに違う/ぎらりと光るダイヤのような日は/銃殺の朝であったり/アトリエの夜であったり/果樹園のまひるであったり/未明のスクラムであったりするのだ
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エジプト紀行 備西支部 浅野 秀夫
2009年12月4日〜8日,“ふたりのエジプト5日間”ツアーに弟と2人で参加した。関西空港より14:10発エジプト航空直行便にてルクソールへ。機内のドリンクサービスは,イスラム教国ゆえアルコールはなし。21:30着(現地時間,時差―7時間),14時間20分の飛行時間,今まで以上に長く感じた。国際空港とはいえ,乗降デッキなく,タラップを降りバスでターミナルビルへ,入国の際にビザ(査証)が必要,長い行列で1回の入国につき実費15米$を支払いパスポートに添付してもらう。(初体験) バスで宿舎へ。
2日目:ルクソール観光
ここは古代エジプトの中王国(BC21-BC18世紀)・新王国(BC1567―BC1085)時代の都「テーベ」の名称で知られる都市。ナイル河をはさんで,日の昇る東岸は神殿など「生きる人」の遺跡があり,日の沈む方向にある西岸は王家の谷,多くのファラオの葬祭殿など「死者」の遺跡がある。まず,西岸より王家の谷へ,奥深い谷,周囲の岩山の景観がすごい。草木一本も生えていない。死後の安住の地を求めて地下岩盤の中に墓が設けられたのだろう。62基発見,うち25基が王墓とのこと。ここはカメラ・ビデオ所持禁止。入り口でチェック,無蓋電気自動車に乗って墓入り口近くまで行く。1枚のチケットで3基の王墓まで見学。ラムセス4世,ラムセス9世(内部きれい)ラムセス1世(かなり深い)通路壁面はヒエログリフ(文字)・と絵で覆われ,玄室には石棺あり。ツタンカーメンの墓見学には別に入場料が必要であった。ガイドによるとルクソールでは15年間
雨が降っていないとのこと。こういう乾燥した気候ゆえ石室の中とはいえミイラが保存されたのだと。納得。
ツタンカーメン王(BC1300年代)といえばあまりにも有名だが,歴史的にはそれほど重要な王ではなく,教科書本文には記述なく,若干18歳で死去している。1922年英人ハワード・カーターが墓を発見,唯一未盗掘のため,豪華な副葬品が残っていたため注目されたのである。
次に「ハトシエプスト女王葬祭殿」見学,女王はBC1400年代,ここも所持品チエック,しかし,カメラ,ビデオ撮影は可。断崖の下に3層のテラスからなり,中央に斜道が配されている壮大で美しい建造物。1997年,無差別銃撃テロ事件があり,日本人も犠牲なった所である。次いで高さ21m,2対のメムノン巨像(アメンホテプ3世)を見学。
昼食後,午後は東岸観光。カルナック神殿,ルクソールで最も崇拝されたアメン神を祭ったところがここ。アメン神の聖獣といわれる約40頭の牡羊のスフィンクスが並ぶ参道より第一塔門へ,ラムセス2世像が並ぶ第二塔門をくぐると,圧倒的な迫力で迫る柱の森,幅102m,奥53mの大列柱室,134本の柱が林立,道路中央部に高さ22m,柱心の直径3.6mの柱が12本,その奥に高さ15m,直径2mの小柱122本,まさに見る者を感動,上ばかり見上げていたら首が痛くなるほど,それにしても当時はどれほど美しかったことかと想像する。その他巨大なオベリスク,パピルス文字の壁面,各ファラオの像など,すごいの一言。ここをあとに次はナイル河のファルーカ(帆掛け船)遊覧。10人乗りぐらいで帆と櫓でゆったりと河からナイルの景色を楽しむ。岸にはクルーズ用の豪華な客船が沢山停泊していた。本日最後は夕闇迫るルクソール神殿へ。ここはカルナックの付属神殿として建てられたもの。昼間とは違って夜間のライトアップされた幻想的な神殿を見学。このあとバスはルクソール駅へ。寝台列車{ナイルエクスプレス}(1等寝台)利用。1室2名,2段ベッド,洗面台,木製の机,ハンガー,ゴミ箱装備,鍵は内側から施錠できる。1車両10室,各車両にトイレ,電化されてなく,デイーゼル機関車牽引。22:30発,発車まもなく車掌がボックス弁当を運んでくる。食べ終わった頃,片付け,ベッドメーキング,ギザに向けて車中泊となる。
3日目:エジプト考古学博物館見学とギザの3大ピラミッド観光
6:30ごろ,車掌が朝食を持ってくる。食後の後,一人当たり1米$のチップを渡す。車窓の風景を眺めるうち,8:00頃ギザ駅に到着。スーツケースはあらかじめ車内,部屋前の通路にだしておけばプラットホームまで車掌が出してくれる。確認後ポーターがバスまでまとめて運んでくれた。最初バスは,エジプト考古学博物館(通称カイロ博物館)へ。2階建ての巨大な博物館,正面にはエジプトを象徴する2つの植物「ロータス」と「パピルス」植えられている。ここは外部建物の撮影は可だが入り口でカメラ・ビデオは預けるようになっていた。ガイドよりイヤホンつきトランシーバーを渡され,多くの観光客ではぐれないよう説明。指示を受けた。館内は世界に誇る超1級の総数約12万点にも及ぶ古代エジプト文明の遺品や美術品の数々が並ぶといわれている。じっくり見ていたらきりがないので,ガイドがポイントを絞って効率よく案内。ここのハイライトは何といってもツタンカーメンの秘宝で2階の大部分を占めている。王のミイラがかぶっていた黄金のマスクは純金製で重さが約11kg,水晶,黒曜石,などが使われ色鮮やか。黄金の内棺・外棺・玉座・寝台・逗子(3個),など様々な副葬品が展示。かつて日本でもツタンカーメン展なるものを見たことがあるが,それはほんの1部分でしかないことを実感。なおこの2階にはミイラ室があり,別料金とのこと,折角だから見ることにした。トトメス3世,セテイ1世,ラムセス2世,他王妃など11体が安置。今にも動き出しそうな状態で保存,デリケートなミイラのため,室内照明を暗くして,温度と湿度に細心の注意が払われているとのこと。
昼食後,ギザの3大ピラミッド観光へ。写真では何回となく見たことはあるが,広大な砂漠の中に忽然と姿を現すピラミッドが現実のものとなった。下車観光。目の前に立ちはだかる巨大な石壁を見上げていると圧倒されて呆然としてしまう。それにしてもこの巨大さは凄いの一語につきる。西に向かって右側が3つのピラミッドの中で1番大きいクフ王(BC2570頃)のもの。高さが現在137m,底面の1辺が230m。4500年という長い年月を過ごし現在も多少風化したとはいえその姿で我々を迎えてくれた。これだけの石造物が「方位」や「水平度」それに「底辺の長さ」において誤差がないに等しいというからそのずば抜けた技術には舌を巻くばかりである。真ん中のカフラー王(クフの子)ピラミッド内部を見学することが出来た。トンネルのような通路を上下,玄室」にたどりつき石棺だけある大きな部屋を確認。あとバス移動。パノラマポイントから3つのピラミッド(もうひとつが最も小さいメンカウラー王(クフの孫)をながめたり,写真撮影,さらに移動,カフラー王の守護の為作られ東を向いて鎮座しているスフィンクス像の近
くへ。ピラミッドとの位置関係が確認できた。
自分はかねてから写真を見るたびに,青空の中にくっきりそびえるピラミッドをこの目で見たいという願望がついに実現でき,感慨ひとしおである。現職の時ならなおさらと思う。
実際現地に行ってみて,地形的位置関係,高低さ,距離感などを体感した。
レストランでの夕食後,「ギザの3大ピラミッドとスフィンクスの音と光のショー」を見学。入り口でイヤホンセットを渡された,これは各国語で説明されるもので日本語で聞けるようにセットされていた。椅子席が用意され,闇の中で七色にライトアップされ,幻想的に浮かび上がるピラミッドとスフィンクス,昼とは違った趣,古代エジプトの歴史を物語る音と光の1時間ほどのショーであった。
4日目:階段ピラミッドやブタハ神殿,巨大モスク見学
今エジプトは,ベストシーズンで,ルクソールの最高気温は24度(資料によると5月は38,9度とのこと)であった。熱くもなく寒くもなく快適であった。
ピラミッドといっても初めからギザにあるような形のものが造営されたのではない。
ギザから南へ10Kmほどのところ,サッカラという街があり,そこに最古のピラミッドともいうべくジエセル王(クフより約100年ほど前)の「階段ピラミッド」を見学,さらにダハシュールという町,途中から角度が変わるスネフェル王(クフ王の父)建設の「屈折ピラミッド」と「赤のピラミッド」(石が赤いことから)を見学した。次に古王国時代(BC27-BC22世紀)の首都であったメンフィスの遺跡へ。ここブタハ神殿跡にはラムセス2世の横たわる石像が建物の中に保存されていた。野外には2世の立像あり。またアラバスタ(大理石の1種)製のスフィンクス(ギザのよりはるかに小さいが,高さ4,2mあり)を見学。
昼食後,カイロ市方面へ,イスタンブールのブルーモスクを模して作られた巨大モスク「ムハンマド・アリ・モスク」(19世紀建造)や「スルタン・ハサン・モスク」14世紀マムルーク朝建築を代表するモスク)がよく見える撮影ポイントに下車観光,カイロ市内,車窓からみるといたるところに建てられたモスクにはミナレット(尖塔)がそびえ,その数の多さにびっくりした。やがてバスはカイロ空港へと向かった。首都空港らしくルクソールと違って近代的設備を整えた大きな所だった。現地1
8:00発,カイロより北へヨーロッパを東に,中央アジア,中国,朝鮮半島を横断,日本海南下し,11時間40分飛行,関西空港12時40分着。無事帰国。
雑感
〇古代の代表的な建造物の建設時期を見るとアテネのパルテノン神殿(BC5世紀頃再建),万里の長城(BC5世紀,戦国時代頃より部分的に造営され始皇帝のBC3世紀に完成,現存する長城は明代14世紀頃のもの)ローマのコロッセウム(1世紀),コンスタンチヌス凱旋門(4世紀)のごとく,ピラミッドに代表されるエジプトの遺跡は,遥に古い。
今回の旅行で,各観光地の入場券の半券を数えて見たら14枚あった。いずれも古代イプトの遺物・遺跡に関するもので観光収入はまさに古代人の恩恵に浴しているのを感じた。
〇ルクソール駅風景,ナイルエキスプレスを待つプラットホームで,他の列車の発着を眺めるに,客車の等級別がはっきり見て取れた。またドアは自動ではなく手動,走り出す列車のデッキにぶら下がる様は,山陽線電化前の状態を思い出す。ホームのベンチはすべて大理石様の石であった。ホームで待機していると,もの売りらしきエジプト人が近づき,手に何本かのボールペンを持って,ジャパニーズボールペン,チエンジと声をかけて
くることが3回ほどあった。予備がなかったので応じなかったが,日本製が人気あるのだと感じた。
〇私事になるが,弟は海外旅行,未体験(義妹の飛行機嫌いもあるかと)。前々からチャンスがあれば,エジプトはぜひ行ってみたいと話していた。自分も一度は訪れてみたいところであった。各種ツアー企画は検討していたが,夏ごろ今回のツアーを見て,短期間ながらポイントを押さえた観光地・食事付き,5つ星ホテル,エコノミー的な面から誘ったらOKとなり,実現した。海外は初めてとはいえ,飛行経験は豊富なのだ。というのも弟は,元海上自隊航空隊所属,退官まで飛行時間12,000時間のベテランパイロットであった。機中で,飛行機の話を聞いた。離着陸は必ず風上に向かってする。その時々の気象条件によって左右されるとのこと。機内のテレビに映しだされる時速表示も見るたびに数字が変化しているが,安定飛行中,速力は常に一定に保っているのが常識,所が風力,風速によって時速が変化するとのこと。かつて国内で普通2時間行程の所が4時間かかったという経験,これも強力な風の影響であること。今まで8時間の飛行経験はあるが,今回14時間ものフライトは初めて,等。
〇外貨事情:エジプトの通貨単位はエジプトポンド(£E)とピアストル(PT),到着翌日ツタンカーメンの墓入場料金は別料金なので100£F用意とのことで,現地空港でも両替できるが行列が予想されるので関空(2箇所のみ)にて200£E両替。1£E=21円(一寸高い,普通約17円位)。エジプトでは米$がそのまま使用できることが多いので準備しておくようにとの案内,出発前地元銀行で両替,1米$=89円(手数料込,円高の影響か),現地では1米$=5£Eで通用。レストランの飲み物代金は,米$又は£Eどちらでも可。土産物店でもしかり。現地の1£E札とかPT札又は硬貨はついにお目にかかれなかった。
食事用レストランで,おいしいというので生のマンゴジュースを注文したら1杯,20£E=4米$であった。なお我々のバス車内ではミネラルウオーター2本が1米$で販売してくれた。宿泊した5つ星ホテルの部屋には湯沸かしポットなど飲料水関係の備品無し,欧米では当たり前なのだろうが(経験済み),生活様式・文化の違いを感じる。10月南京・上海で宿泊したホテルでは,ミネラルウオーターが部屋に2本,湯沸かしポット,テイーバッグ,コップは備えつけられていた。日本人なら部屋で熱いお茶でもという気分だが。
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連載 出会いとスケッチの旅 ポルトガル編(1)
備西支部 水間 正雄
リスボン
マドリッドのユースホステルで3日過ごした後,バスの車窓から広大なイベリア高原景を眺めながらリスボンに着いた。最初宿泊のユースホステルは郊外にあったので,到着後の手続きを終えるとすぐにバスで市内に向かった。車中で向かい合った老婦人と話をしていると,次の停留所で乗ってきた若い女性とも向かい合った。
この女性ジョアナはピアニストで,コンサートがあると言うので日時,場所を聞いてメモした。当日の独奏会で美しく正装した姿で弾くピアノに魅了された。直後に感動を伝えたかったが多くの人に囲まれており,入り込む隙がなかったので悔いが残った。数日後に街で女性から声を掛けられた。振り向くと彼女だった。室内に多数の人垣の中で,私を覚えてくれたのだった。
「日本にも行きたい…。」と言うので,住所と電話番号を書いて絵はがきも渡した。「ポルトガルの4月」のハーモニカも喜んでくれた。この旅行記を書くにあたり,ガイドブック「地球の歩き方」を開くと彼女が書いたメールアドレスがあった。「音楽大学のある玉島だしメールしてみようかなぁ。」
次のユースホステルではハーモニカ「サンバ ブラジル」で高齢のブラジル人医師と親しくなった。「ポルトガル語が母国語で遠い祖国なのでよく旅に訪れる。」とのこと。私にもブラジルの住所を書いて「ぜひ来いよ…。」と言ってくれた。誘われて,食事に行った時,「ここから向こうのレストランは観光客対象で,こちらは地元の人だ。同じ味で値段がずいぶん違う…。」と言って安価なレストランに入った。彼はポルトガル語を話すので,店の人とも会話が弾み楽しい食事となった。
サン・マルティーニョ・ド・ポルト
ユースホステルから,5?6km歩いて大西洋への港に着いた。密輸団が使ったトンネルを探して,レストランのテラスにいた2人組に尋ねると,「赤いバックを背負って歩いてくる貴方を車から見たよ。」と言って教えてくれた。密輸船を接岸させた岩浜を見た後,立ち寄ると「テラスで同席するように…。」と促され,ワインを注がれながら話をした。2人は建築士で,私の渡した絵はがきの日本の木造建築に興味を持ったようで話が弾んだ。1人は「画家を目指したが,食っていけないぞと父親に諭されて建築士なった。」と言った。お開きにする頃,店のオーナーが来て,彼らに何やら話した。そして,「オーナーが私を夕食に招きたいと言っているがどうか?」と説明してくれた。「私はもちろんありがたい」と即座にOKした。彼らは帰り,店名のペシュカノ・プラート「魚料理」の文字通りにおいしい魚料理とビール数杯,ワイン1本をいただいた。酔いで愉快になった私はオーナーの許可を得て,他のテーブルの客にも絵はがきを配ったり,ハーモニカを吹いたり,似顔絵を描いたりして回った。閉店後は,オーナーがユースホステルまで車で送ってくれた。そして翌日も昼・夕食に招いてくれ,これが3日続いた。最後の日の昼には「今日が最後なので上等のワインを出すようにとオーナーに言われた。」とボーイが説明してくれた。私はレストランのスケッチを細やかなお礼とした。
大家族でのホステラーに,「良いレストランは?」と尋ねられたので,魚料理の「ぺシュカノ・プラート」を紹介し,「私の紹介の証拠と会話が弾むように」と思い,絵はがきを渡した。夕食後帰ってきた皆さんは大変満足だったらしく,感謝されて次の夜には雨の中,私を別のレストランに招待してくれた。
フランス映画「過去を持つ愛情」と主題歌「暗いはしけ」で知られる港町ナザレまで7〜8km歩いて行った。ケーブルカーで福島県いわき市の市川さんご夫妻と知り合いワイン酒場でご一緒した後,「海側窓の良いホテルに泊まっているし,おつまみも買ってあるので…。」と誘われて部屋のテラスでの二次会となった。やがてワインもなくなったので,私が買いに出たが店が見つからなくて先に飲んだワイン酒場に行って事情を話すと,ラッキーにも原価で売ってくれた。3次会ではテラスからのハーモニカが聞こえたらしく,眼下の海岸通りの数人が手を振り声をかけてくれた。私たちも手を振って「懐かしのリスボン」で応えた。その夜はお二人の部屋の補助ベッドにホテルに内緒で泊まり,朝食をいただきバスで帰った。
帰国後,震災の仮設住宅のボランティアも兼ねた車中泊のスケッチの旅で,いわき市に行った時,津波を免れた高台のお二人の家を訪れ奥さんの似顔絵を描いて泊めていただいた。ご主人は北大出身で「福山か水島の大手製鉄所の所長なるはずだったが,家業の鉄工所を継ぐために退職した」と話された。同じく高台の学生時代の陸上部の友人宅でも旧交を重ねたが,支援計画を果たさないまま,美空ひばりの「塩屋の岬」でのハーモニカで感傷感情を満たし,津波の惨禍を見ただけに終わってしまった。
サン・マルティーニョ・ド・ポルトの街を去るにあたり,「数回のご馳走になったお礼に,最後の夜を私のお金で食事をしよう。」と魚料理のお店「ペシュカノ・プラート」
に挨拶を兼ねて訪れると,「大家族を紹介してくれたので…。」と感謝され,またワイン・ビール付きの夕食を振る舞われることになった。その後の旅でも機会があるごとに「ぺシュカノ・プラート」を紹介した。
ユースホステルを去る前に, 朝のユースホステルをスケッチしていると,車が止まった。この青年カルロスは,「ぺシュカノ・プラード」での女性とのディナーで出会った人で,「自分の街・バターリヤには世界遺産の教会があり,ファームハウスには何日でも泊まれる…。」と電話と住所を教えてくれていた。全くgoodtimingだった。
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各支
部「春の交流会」計画一覧
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事務局だより
◆コロナ禍で実施が見送られてきた支部別
「春の交流会
」の計画が進んでいます。他支部の行事への参加も歓迎です。連絡先を記しておりますので,お問い合わせ・参加申込みはそちらへお願いします◆4月2日には,恒例の「年一度だけの真っ向法・健康体操」。お弁当を持ち,歩いて半田山の花見も計画されています◆しばらく中断中の「自然歴史探訪」も,5月に再開第一回実施に向けて準備中です。乞ご期待!!◆今年度末の退職予定者数が例年を上回る見込みとか。制度変更で,来年度末は定年退職者ゼロとなります。再任用などで教職を続けるためまだその心境ではない,と,加入をためらっておられる方も多いと聞きますが,高退教運動の独自の意義・楽しみを伝え,是非加入していただけるよう,呼びかけを進めていきましょう。
編集後記
◆新年早々,お詫びと訂正です。会報前号(No170)は,清水親義さんが編集の中心となり,岡田憲朗さんと私(山本)による校正を経て,完成稿をまとめてくださいました。この時点では完璧!なものが仕上がっていたのですが,印刷用版下作成の際,私が校正前の古いデータを印刷に回してしまったのでした(トホホ)。いくつもの訂正箇所がありますが,すべてに触れることはお許しを乞い,特に重篤な次の二点について,謹んで訂正させていただきます。@曽田康載さんのお名前の漢字を間違えました。A岡山支部 安東誠さんの所属を旭東支部と誤記していました。大変失礼致しました。お詫び申し上げます◆新年を迎えても,素直に「おめでとうございます」とは言い難い状況が気を塞がせます。コロナ禍いまだ収まらず,すさまじい物価高が家計を直撃。記録的な寒波のもとでも,光熱費が気になって暖房を控えがちな高齢者は,確実に命を縮めざるを得ない有様◆ウクライナ侵略一年を経て,事態はなお泥沼化の様相。危機に乗じて,岸田内閣は歴代政権の安保政策すら大転換させて,敵基地攻撃能力の保有・軍備倍増への道を急ぎ,「新たな戦前」への傾斜を強めています◆これへの警鐘として小川澄雄さんがタイムリーな文章を寄せてくださいました。「私たちは,若さこそ失いましたが,高齢者にふさわしく知恵があるはずです。恐れず前進しましょう。『教え子を再び戦場に送るな!』の旗印を高く掲げて」の言葉にいたく共感。武田昭一さんが紹介してくださった「良い子の友」。「寸分の隙もなく,戦時体制」のこんな異様な本が子どもたちに押しつけられる時代が,また近づいているのではないかと問う「『年寄り』の本能」が,どうか,思い過ごしであらんことを◆不安と希望を胸に教師をめざした頃の体験は,誰にとってもかけがえのない原点でしょう。杭田利晃さんのそれは,ユニークでかつ微笑ましく,そして痛快◆後楽園観光案内ボランティアとして,日々新しい出会いを楽しんでおられる和田茂さん。「『ああ生きていてよかったな』と思う瞬間」,人生の「光る瞬間(とき)」に思いを致す花田千春さん。そして,「世界を股にかける高退教」豪華二本立ての浅野秀夫さんと水間正雄さん。いずれの文章からも,「退職後の人生を豊かに輝かせる」高退教の真骨頂が垣間見えます(山本)