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今年度の岡山高退教総会を前に、小林軍治前副会長が急逝されました。
既に、前号の会報(169号)に、萱栄次前会長が追悼文を寄せておられま
すが、8月1日発行の「日中友好新聞」(岡山県版)に、高退教備南支部幹
事の犬飼繁さん(日中岡山事務局長)の追悼文が掲載されています。故人
のライフワークでもあった日中友好運動をはじめ、在りし日のお姿が偲ば
れます。広く会員の皆様にご紹介したく、当会報への転載を依頼したとこ
ろ、快諾して下さいましたので、ここに全文を掲載させていただきます。
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5月29日に小林先生の携帯から電話があった。実はこの4月1日に発足
した日中友好協会岡山県支部連合会 で、小林先生は理事長、私が事務局長
になり、4月の理事会では小林先生か
ら指示を受けた私が会議の議案などを
作成していた。電話は「検査入院のた
め6月の理事会には出席できないの
で、よろしく頼む。」という内容であ
った。
この時、私は全く心配していなかっ
た。というのも非常にお元気だったか
らだ。新聞の発送作業を終えると、他
の人たちが帰った後、私と小林先生で
郵便局に新聞を持って行くのが習慣に
なっていた。小林先生が運転する車中
でいろんな話をした。「人生100年
時代じゃからなあ。わしもチャレンジするからのう。」「自分史を書くんじゃ。」
(実際に高退教の会報に自分史を連載中だった)など自分の人生に意欲的に取
り組む姿勢が鮮明だった。それだけにこの電話が小林先生との最後の会話にな
るなど思いもよらなかった。
私が小林先生の存在を知ったのは、1995年ちょうど戦後50年にあたる
この年、現在岡山支部の理事をされている曽田和子先生が岡山高教組本部にお
られ、「戦後50年を期して、平和問題委員会として二つの企画をやろう。」
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と提案され、その一つが「教職員からの平和メッセージ」という企画で、それ
に小林先生がすでにどこかで発表さ
れていた「旧『満州』からの引き揚
げ」という文章を寄稿され、それを
「教職員からの平和メッセージ」の
書式にあうように私が全文ワープロ
で打ち直したことがきっかけです。
「すごい体験をした先生がおられる
んだなあ。」とその文章を読んで思い
ました。その後、倉敷工業高校教職
員対象の人権教育の講師として来て
いただいたこともありました。
2003年、私は総社南高校に転
勤になりました。それから1年も経
たないうちに小林先生が中国からの
帰国者のために国を相手に裁判を起
こしたことを知りました。「ああ、小
林先生頑張っておられるんだなあ。
私も何かお手伝いできたらいいんだが・・・。」と思いつつ、まだ新しい職場
に慣れていなかった私は、学校のことだけで手いっぱいで、何もできないまま
でした。
そして2015年3月、この月限りで退職を決めていた私は初めて高退教備
南支部の交流会に参加しました。そこで難波娃子先生から「私は戦後中国から
の引き揚げ者で、日中友好協会の会員です。」とお聞きし、「私も仲間に入れて
ください。」と申し入れ、その後倉敷支部から連絡があり、倉敷支部の会員に
なりました。ところが倉敷支部には知った人もなく、日中友好新聞岡山の記事
で、岡山市役所で中国からの帰国者展を開催していることを知り、観に行った
ところ、久しぶりに小林先生にお会いしました。小林先生は私が日中友好協会
倉敷支部の会員になったことをご存じでした。それから7月7日の盧溝橋事件
や9月18日の柳条湖事件にかかわる岡山支部の街頭宣伝に参加しました。ま
た、小林先生に「あんたも中国百科検定を受けにゃあいけんで。」と言われて、
この年9月30日にあった第2回中国百科検定で2級に満点合格しました。1
2月には岡山支部の望年会に参加し、コロナで望年会が開催されなくなった2
020年まで5年連続で岡山支部の望年会に参加しました。また、岡山支部の
総会に毎年参加しています。2017年には小林先生や青木先生と一緒に小林
先生が生まれた龍爪開拓団を訪ねる旅にも参加しました。このように退職後は、
日中友好協会や高退教の活動などを通して小林先生との付き合いは深まってい
きました。
そして2022年4月から日中友好協会岡山県支部連合会でともに力を合わ
せてやっていく予定でした。検査入院と聞いても「たいしたことないだろう。」
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と高をくくっていた私に真田支部長から「小林先生が亡くなった。」というラ
インをもらった時は本当に驚きました。そしてつらく悲しく、信じられません
でした。私は小林先生が膵臓がんということを知りませんでした。実は小林先
生が亡くなる一週間前の6月16日の毎日新聞に「私の膵臓がん体験〜語るこ
とで患者の役に〜」という倉敷の介護タクシーの運転手の方の記事が掲載され
ました。記事は「4月21日嘔吐し、かかりつけ医で血液検査に異常な数値が
見つかり、倉敷中央病院に救急搬送。胆汁が詰まるのを防ぐ内視鏡手術の数日
後、膵臓にステージ4の癌があり、余命4か月と診断された。切除手術は不能
な末期だった。4月30日に胃と小腸をつなぐバイパス手術に成功、抗がん剤
治療を受け5月9日に退院。今後も抗がん剤治療は続くがあきらめない。」と
いうもの。「小林先生が膵臓がんと知っていたら、この記事を持って病院に駆
け付けたのに。」という思いがこみ上げてきました。本当に残念でなりません。
最後に、「教職員からの平和メッセージ」に掲載された小林先生の「旧『満
州』からの引き揚げ」の最後の部分を皆さんに紹介して、追悼の文章といたし
ます。
「私たちに平和な未来を勝ち取るために、
一.天皇の名の下に政府や軍部が進めた、侵略戦争の国家責任を明確にする。
二.日本の独立と主権を侵害している『日米安全保障条約』を放棄し、在日
米軍基地を撤廃する。
三.アジア諸国民2000万人以上、日本国民310万人以上の犠牲の上に
成立した日本国憲法の平和主義、基本的人権の尊重などを守り発展させる。
以上を戦後五十周年にあたっての決意としたい。」
小林先生、先生の遺志をしっかり受け継いでいきます。安らかにお眠りくだ
さい。
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8 月9 日、「灘崎九条の会」は、「九の日行動」の一環として憲法学習会
を実施しました。講師の安東誠氏(高退教会員)の問題提起を、自筆の
レジメをもとに、ご本人の了承を得てご紹介します。
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はじめに
21世紀・初期のいま、前世紀の侵略戦争の再来を思わせる恐るべき事態が起
こるとは夢にも思わないことでした。21世紀への希望を打ち砕く危険性さえ感
じます。プーチン・ロシアによる「ウクライナ侵攻」は、20世紀の二度に及ぶ
世界大戦の悲惨な国際的な体験に対する痛恨と世界平和への希求から生み出され
た国連憲章(資料1)と国際諸法規(資料2)を踏みにじる侵略戦争です。国際
法規の中に定めた、戦争犯罪禁止をじゅうりんする凶暴な行為が多発しています。
戦前・戦中の時代を生きてきた世代の一人として、天皇制絶対権力(軍国主義)
によるアジア・太平洋における侵略戦争と重ね合わせて胸を締め付けられる思い
です。そしてさらに、同世代のどれほどの人々が同じ思いを共有できるか、大き
な懸念を持っています。
1.「世界史の中の憲法9条」という視点の重要性
朝日新聞は、毎年の憲法記念日
に「憲法を考える」特集記事を載
せています。大手メディアの憲法
に対する論調を知りたくて、ここ
数年来、特集記事の切抜をもとに
追求してきました。今年の特集記
事は、「世界史の中の憲法9条」を
標題にかかげ、「ペリーの浦賀来航」
(1853)以降の略年表をもと
に、江藤祥平氏(一橋大准教授)
の解説と論考を載せています。プ
ーチン・ロシアのウクライナ侵略
戦争に乗じて、中国と北朝鮮の脅
威を煽り、「軍拡の大合唱」とまで
言われる異常な潮流、9条破壊の
策謀の広がりなどが現下の危険極まりない状況です。その中で、憲法9条を世界
史の中で捉えるという視点は重要な提起だと思います。そこで、この特集記事の
一端を若干の補充と私見を加えながら紹介します。
略年表は、「パリ不戦条約が結ばれる」(1928)「満州事変が始まる」(193
1)「日本国憲法が施行される」(1947)「ロシアがウクライナに侵攻する」(20
22)を太字で表示しています。ここに解説・論考の主眼があるわけです。
「パリ不戦条約」(資料4)、国際紛争の解決手段として「合法」とされていた
戦争を「違法」とした国際法規です。戦争が「合法」だった時代と「違法」にな
った時代を分ける重要な国際的な取り決めであり、国際秩序のあり方を根本から
変えるものでした。
ところが、不戦条約ができた3年後、満州事変を起こします。新しい国際秩序
を踏みにじる戦争行為です。国際連盟総会は、日本軍の撤退を勧告しますが、日
本はそれを拒否し、国際連盟から脱退します(1933)。そして1937年に
は日中戦争を引き起こし、日本は破滅の道へと突き進みます。この道は、新しい
国際秩序を世界史上初めて破壊した満州事変に起点があった、といえないでしょ
うか。
江藤氏は、「平和主義」は屈辱的だという声があることに対して、次のように
述べています。
「東西冷戦という時代状況と相まって、日本が満州事変を起点とする『15年
戦争』への、徹底的な反省の機会を逸したことは、9条論に大きな影を落としま
した。」
そしてこの憲法9条の誕生については、「孤立の道を歩んでいた日本は、敗戦
を経て国際社会の仲間入りを果たします。そのためのパスポートが、不戦条約の
流れをくんで生まれた日本国憲法9条です」と。
論考に学ぶことは数多くあるのですが、長くなりますので最後の重要な提起の
紹介のみでお許しください。
「日本にとって何よりも重要なのは国際協調です。ウクライナ侵攻を奇貨とし
て日本の武力増強を説くのは、歴史を逆行しています。
ロシアがかつての日本と同じ轍を踏むいま、9条の意義はむしろ高まっている。
9条を持ち続けた日本だからこそ今後の国際秩序の立て直しに独自の貢献ができ
るはずだし、それが結局は日本の国益につながるのだと思います」(資料3)
2.九条を輝かせて戦争を許さない世の中へ
先述のような現況の中で、護憲の中心になってたたかってきた「九条の会」
の原点に立ち返って学ぶことに意味があるのではないかと考えました。手持ち
の文献の中に「憲法九条、未来をひらく」(岩波ブックレット664、2005
刊)がありました。この書物は、2005年7月30日に開催された「東京・
有明講演会」での「九条の会」創始者の講演記録・事務局長小森陽一氏のあと
がき・「九条の会」アピールを掲載するものでした。創始者9人の、結成1年後
の憲法をめぐる状況をもとにした、一人ひとり思いと力のこもった言葉が再現
されています。読み終えた時の感動をお伝えすることができないのが残念です。
創始者たちの結成への決意・願い・国民への訴えなどはアピールに結実してい
ますので、アピール全文を資料としてそこから学びあいたいと思います。「九条
の会」は、2004年6月10日に発足し、「九条の会」アピールを発表しまし
た。(資料6)
東京・有明講演会は「九条の会」発足1年後の7月30日に開催されました。
「九条の会」アピールを掲げて、全国各地で展開してきた多彩な活動の年間総
括をもとに、今後の新たな前進の道すじを定めるため、重要な節目の集会でし
た。当日の東京は、うだるような猛暑でしたが、参加者が続々と詰めかけ、一
万人の大集会になりました。その要因の第一は、9人の創始者による献身的で
ユニークな講演活動をはじめとする「九条の会」の様々な工夫をこらした全国
的なとりくみによって社会的影響力の大きな広がりが実現したことです。(7月
30日現在で、全国各地に3000の「九条の会」の結成が確認できた)今一
つ重要な要因は、発足後わずか1年の間に、9条をはじめとする改憲の危機が
急速に深まりました。それに対する人々の危機感が格段に強まったという事情
があることです。
課題「九条を輝かせる」とはどう理解したらよいでしょうか
【資料1】国連憲章
国際違合の日的・原則・組識・活動などを規定した条約。1945年にサン
フランシスコ会議で採択され、同年10月発効。第2次世界大戦での反ファシ
スト連合国と世界の民主勢力の勝利を反映して、「国際の平和及び安全を維持
すること」「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係
を発展させること」などを目的として「加盟国の主権平等」、紛争の「平和的
解決」、「武力による威嚇又は武力の行使」の禁止など、進歩的・民主的な原則
をふくむ。
【資料2】戦争犯罪
第2次世界大戦前は毒ガスの使用など交戦法規に違反した犯罪を戦時犯罪と
いったが、戦後は、@戦争前または戦争中にとらわれた一般人民の殺害・大量
殺人・奴隷化などを処罰する人道に対する罪、A国際法に違反し侵略戦争を計
画・準備・開始・実行またはその謀議に参加した者を罰する「平和に対する罪」
を総称して戦争犯罪というようになった。
【資料3】憲法9条
1項日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権
の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解
決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しな
い。国の交戦権は、これを認めない。
【資料4】不戦条約
1条締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、
その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、
そのおののの人民の名において厳粛に宣言する。
2条締約国は、相互間に発生する紛争また衝突の処理または解決を、その
性質または原因のいかんを問わず、決して平和的手段以外の手法に求
めないことに合意する。
【資料5】
血を燃え立たせてやってきた三木陸子
三木陸子でございます。もう今年八八歳のおばあさんでございまして、九人
で始めたこの九条の会でも最年長者でございます。他のものならば、私はたく
さん持つているからといって、分けてさしあげるのですが、年齢ばかりは分け
てさしあげることもできないわけでございまして(笑)、会のほかの八人の皆
さんは、私よりお若い方ばかりです。でも、写真を見ると、みんなおじいさん
とおばあさんでございますけれども(笑)。皆さん、九人が九人とも、一所懸
命、必死になって、日本の平和のために働いてきました。そしていままさにそ
の平和の根幹にかかわる憲法九条の間題がもちあがってきて、これは何とかせ
ねばならない、と燃えたぎる心の中の血を、それこそ文字通り燃え立たせてい
るわけでございます。
【資料6】「九条の会」アピール
日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。
ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った
第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力
を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。
侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力
を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現し
ようと決心しました。
しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しよ
うとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリ
カに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容
認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。また、
非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして、
子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしてい
ます。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国
の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この
転換を許すことはできません。
アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的
であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生
活と幸福を奪うことでしかありません。一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事
介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロ
ッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力
が強められています。
二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を
外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊
の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません。
憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメ
リカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して
現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相
手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができ
るのです。
私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動す
る世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、
九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。
それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のため
に、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひと
りができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。
2004年6月10日
井上ひさし(作家)梅原猛(哲学者)大江健三郎(作家)
奥平康弘(憲法研究者)小田実(作家)加藤周一(評論家)
澤地久枝(作家)鶴見俊輔(哲学者)三木睦子(国連婦人会)
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僕は高教組の修学援助会立ち上げの時からかかわってきた。それはなぜか。
一言で言って、僕は、ウルトラ貧乏であったからだ。高校生時代は落ちこぼれ
で、行ける大学はなく、浪人生活を経験した。その年の夏、56歳の父は、岡
山の川崎病院で亡くなった。父の遺体を前に、叔母は行った。「宏ちゃんとこ
は貧乏だから大学なんか行かないで、働いた方がいい。」間髪入れず、僕の母
は言った。「お姉さん、何言よん。宏文は大学へ行くために勉強してきたんじ
ゃけん、行かしてやる。」僕は、後悔した。高校時代も浪人時代も僕は、ろく
に勉強をしていなかったのだ。両親に悪いことをしてしまったと思った。そし
て、「お金がなくったって、大学くらい、自分で出てやるぞ」とひそかに決意
した。仕送りなしでも、バイトをすれば何とかなると思った。結局、新聞配達
をすることにした。朝の4時に起き、約160部、夕刊は約200部配達した。
夕刊配達後は、翌日の折り込みチラシの準備もあった。大学へ行っているのか
新聞配達ばかりしているのかわからないような生活が続いた。だが、そんな生
活は、長くは続かなかった。新聞配達の仲間が新聞店に対してアパート提供の
ことでクレームをつけた。彼は同じアパートに2人で生活(僕は1人で生活)
していたのだ。僕は、「新聞店が解決してくれないのならみんなでやめよう。」
と発言。結局やめたのは、クレームをつけた仲間と僕だけであった。ほかの仲
間は、アパートと職を失うことはできなかった。僕は大学の寮(月額150円)
に入り、大学2年生からは、奨学金をもらうとともに月額1000円の授業料
を免除してもらった。そして、様々なバイトをしながら何とか大学を卒業した。
僕は、貧乏人の味方の黒田了一革新府政に感謝した。政治のありようで貧乏人
が救われることを身をもって知った。大学を卒業する時には、自分一人なら何
をやってでも生きていけるという変な自信がついていた。一方で、「貧乏の連
鎖」を断ち切ろうという気持ちを持つようになっていった。
以上のような過去があるので、経済的に苦しい子どもたちのことを思うとき、
他人事とは思えない。貧乏は、子どもの責任ではない。大人や政治の責任であ
る。僕たちの努力で、子どもたちの瞳が輝くような社会をつくっていかなけれ
ばと思う。
今の日本では、子どものうち7人に1人が貧困家庭で生活することを余儀な
くされている。コロナによる収入減、親のリストラ、家族の病気、体に障害が
あるなど貧困の要因はたくさんある。しかも悲しいことに、貧困になる要因を
いくつも抱えている家庭の子どもたちも多い。年間の所得が100万円を切る
ような家庭もかなりある。目を覆いたくなる。悲惨すぎる。修学援助会の“3
万円給付”では焼け石に水だ。でも、何とか困っている子どもたちに夢と希望
を持ってほしい。そんな思いで、修学援助会の取り組みを進めてきた。今年も
また高退教の先生方に、無理を承知の上、募金のお願いをする次第です。日本
の未来を担う子どもたちのためによろしくお願いいたします。
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「気高い声で呼びかける・・・」
と小学生の私は歌っていた。
山と川、
そして、漫画と少年文庫の日々。
聞き覚えで
何となく夢を感じるこの辺りだけ。
山畑で母の手伝い
朝夕鶏の世話をする私に
遠くから山や川が呼びかけている、と。
その頃、私の学校の先生たちには
戦後民主主義の呼び声
だったのかもしれない。
二十年後、

思いがけなく、
このメロディーと付き合うようになった。
「たたかいこえてたちあがる……」だった。
た、を特に元気よく歌った。
歌詞には歴史があった。
我々の志気を高めてくれる歌だった。
歌うたびに私は夢を感じた。
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三十三年間なかまたちと歌い
この歌からも退職した。
それから毎朝、
南京市内を通学する幼い語学留学生だ。
新緑のプラタナスの街路樹を行く
好天の今朝の気分で歌ったのだ。
「気高い声で呼び覚ます緑の山河
雲晴れて……」思わず小学生に返り
夢が湧く歌なのだ。
「自由の翼空をゆく」が
今の私にはとてもいい。
「酔い冷ます」夜になってしまうのも。
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グラナダ
マドリッド空港のバス乗り場から町まで、治
安が悪いので注意をしながらアトーチャ駅へ直
行した。駅で年配の米国人と出会い、彼がグラ
ナダへ行くと知ったので、行き先やコースを決
めてなかった私は、「スペイン語でチケットを買
ってもらうグッドチャンス」と彼に依頼すると
快く承諾してくれた。彼とは同席とはならなか
ったが、広軌の高速鉄道でひた走るラマンチャ
地方の平原風景に見とれながらアルハンブラ宮
殿の町グラナダへ着いた。宮殿のことは小学6
年のローマ字の教科書にあった短編「アルハン
ブラ宮殿の秘密」で知り、また小・中学での友
人が送ってくれた旅先で撮った写真の絵はがき
を見て、ぜひ訪れたいと思い続けていた。夢が実現し、宮殿内のアラベスク文様や建
曽田さんが詩集「花になろう」を発行され今年の作品展に出展して
くださいました。会報で紹介したいので、一編を自選していただけない
かとお願いしたところ、快諾いただき、詩集112 ページ所収のこの詩を
寄せてくださいました。
ひと言コメントは、「この年齢(77 歳)で初めて詩集を出しました」。
物の神秘性に堪能しながら散策1日中ゆっくり過ごした。
アルハンブラのライオンの中庭は「王以外の男性は立入禁止」のハーレムだった。
かつて王族の者でさえ首を切られて、中央の噴水に置かれ、血で染まった事件があっ
たと伝えられている。
グラナダ滞在中に、ギュウギュウ詰のバスでシェラネバダ山脈のヨーロッパ最南端
のスキー場に行った。コースは長くて滑りやすかったが、樹木が全くなくて月面写真
の様だった。テラスで休憩中に、スキー場のホテルで1週間の新婚旅行を楽しんでい
る夫妻に会った。
ネルハ フリヒリアナ
地中海に突き出た岬「ヨーロッパ
のバルコニー」がある町ネルハで安
宿が見つからなかったので、歩いて
いる女性に後から声をかけたら老婦
人だった。彼女は2〜3軒のホテル
に当たってくれた後、「友人のペン
ションは・・・?」と言って連れて
行ってくれた。個人住宅のようで気
に入って決めた後、彼女を夕食に誘
った。レストランも任せたので数件
交渉してくれていたが気に入らない
らしい。見かねて数人の客がたむろ
している店を指さして「あそこはどうだろうか…!」と言うと、「老人ばかりで嫌だ!」
との返事には驚いた。やっと落ち着いたレストランで、共通の話題として高校時代に
見たスペイン映画の「汚れなき悪戯」を思いつき、「マルセリーノの歌」をハミングす
ると彼女も同調してくれた。寒村の教会前に捨てられていた赤ちゃんは、聖マルセリ
ーノの日に因んで名付けられ、7人の神父に育てられて、幼児期に昇天するというス
トーリーで、画面に流れるこの歌は歌謡ベストテン入りしていたので覚えていたのだ
った。彼女は「幼児を演じたカルボ少年が50歳過ぎになっていて、先日テレビに出
ていたよ!」と言った。「明日は白い村・フリヒリアナに行く予定…」と言うとバス停、
時刻、着いてからの道順から、ワイン名を挙げてこの銘柄はverystrong
だから…」と注意まで実に要領よく説明してくれ、「イタリア語・フランス語・ドイツ
語はperfectだが英語はあまりできない」と言った。そしてペンションへの帰
り道で、夜にも開いている小さな街角の図書館で本を返して2〜3冊借りていた。
翌日、彼女の説明通りのバス停で乗り、村で降りて歩いていると道路工事の人が働
いていたので敢えて道を聞いた。すると現場で指揮をとっていた人が「私の妻は名古
屋出身の日本人だ…。」と言ったので立ち話になった。私の「出会いの旅の絵・日本編」
の小冊子を渡すと、白い村のバル(Bar)の名前と道順を教えてくれて「昼休みに
私が行くので飲みながら待っていてくれ」と言ったので私は直行した。昨夜老婦人が
教えてくれたverystrongのワインに注意しながらそのバルで過ごした。
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昼休みに顔を出した彼と昼食を共にしたが全額彼が支払ってくれた。後で「彼の日本
人の奥さんに会ってみたい・・・」と思ったが住所も電話も聞いていなくて残念だっ
た。
マラガ
マラガではオランダ人と結婚していると言う日本人の母・娘と出会った。日本とオ
ランダの両方の学校で過ごした体験から、母・娘ともに「自由な感じのオランダの学
校の方が好きだった。」と答えたので、その理由と具体的な例を聞いた。街のオッサン
が「あいつは最近つけあがっているから教育してやらないといけん!」と言うセリフ
を耳にするがeducateの原義が、「能力を導き出す」と知ったのは後日のことで、
コーチングのコーチの言語が大型4輪馬車coachの御者の「どちらに行くか?」
から派生したとは数日前のラジオで知った。
コルトバ
メスキータで見上げた赤と白を組み合わせ
たアーチと列柱に感動した。女性はこのモス
クには入れなかったので、外で「ひざまずい
て祈った」との説明文があったので、神戸の
モスクの「月経中の女性は入室禁止」を思い
出した。
メスキータはムーア人がスペインから出て行
った後にキリスト教会になり祭壇も作られて
いる。
マドリッド
2週間の旅の最終日は、マドリッドの安宿
に泊まった。受付でオーナーに「旅の絵・・
・」を渡してしばらく話した。部屋でくつろ
いでいると、先程のオーナーがノックして入
ってきてバルに誘ってくれた。スペイン最後の夜も素晴らしい思い出になった。
ゲルニカ
2度目スペインの旅でゲルニカを訪れた。
ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る(ゲ
イリークーパーとイングリット・バーグマン
の主演)は第二次世界大戦の前哨戦となった
スペイン内戦についての物語だ。ファシズム
のフランコ将軍派と人民戦線(共和国)政府
との戦争に、ナチスはフランコ側に付き、歴
史上かつてない無差別爆撃でバスク人の町ゲ
ルニカは、2000人以上の死者を出し廃墟
と化した。パリにいたピカソは、この爆撃に抗議して大作ゲルニカを描いた。この樫
の木の下で、バスク独立の宣誓をした。象徴的な樫の木は枯れても保存されている。
座って描いていると博物館の人が次々に見に来て、ジュースの差し入れもしてくれ
たので、お礼に絵はがきを渡した。
近くに「アルタミラの壁画」の洞窟がある。そこには入れないが、同じような旧石
器時代の壁画の洞窟があると知ったのでタクシーで見に行った。見学を終えてバスを
待っている時間にガイドの女性の似顔絵を描いて渡したら、昼休みの時間にゲルニカ
駅まで自動車で送ってくれた。ありがたかったが彼女の昼食時間が無くなっていた。
サンチャゴ・デ・コンポステーラ
ポルトガルでスケッチした絵にスタンプ
を押してもらいながら旅をした。1か月で
サンチャゴ・デ・コンポステーラに着いた。
修道院のホステルで「証明書がないと泊
められない」と断られたとき、スケッチブ
ックを見せていた若い巡礼者夫妻に「スタ
ンプがこんなにあるのだから・・・」と勧
められて、証明書を貰いに、大聖堂の事務
所に行った。そこでもスタンプを見せると、
「最後の100kmは歩かないと巡礼した
とは認められない。この間のスタンプがな
いのは・・?」と問われ困惑していると、
隣の席の女性が「ボスに聞いてあげたら…」と声をかけてくれ、ボスの指示で「巡礼
証明書」をもらうことができ、再度修道院のホステルに行き、泊めてもらうことがで
きた。「今度はぜひパリから歩こう!」と思った。
修道院では200ほどのベッドが整然と並べられていた。2日目に日本の女性に会
ったので声をかけた。明るい方だったが会話が進むうちに心の内を話し始めた。自由
な旅で時間に余裕があるのでじっくり聞いて少し質問もした。話し終えると、やがて
笑みのある元の表情になった。
ビルバオ
ユースホステルで、テラスで夜遅くまで飲んで話して過ごしたが、四国遍路をした
ことがあるバスク人の青年が、翌日のボルドー(フランス)行きの列車に乗るまでよ
く世話をしてくれ、日本での再会を約束して別れた。フランコ政権下での弾圧以来、
反政府ゲリラがテロ行為を続けていて危険な気がしていたバスク地方の旅だったが、
今は自治権が認められて安全になっている。会って話をしたバスク人は、皆バスク地
方と文化の素晴らしさに誇りを持って語ってくれた。
こんなこともあった。電車で前の席の女子高校生に行き先を告げ、乗り換え方法な
どを聞くと、「同じ方向だから…」と言うので、全部任せてついて行くことにした。し
かし、最初の乗り換えの間違いに気づいた彼女は、切符を買いに走り1枚を私に差し
出した。私が代金を差し出したが受け取らない。「切符を買わなくても、キセル乗車で
はない」と思えたのだが…。せめてもと似顔絵を描いて絵はがきを渡すと、とても喜
んでくれた。
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私、この三月をもって
非常勤講師の職を辞し、
教員生活から身を引きま
した。もう授業をするこ
とはできないのかと思う
と、寂しかったです。
さて、現在の様子を書き
ます。毎日、朝早く三十分
のウォーキングをしていま
す。もうすぐ後期高齢者と
なるので、ランニングから
ウォーキングに変更しまし
た。それから愛犬と三十分
散歩します。シャワーを浴
びたあと、朝食をいただきながら、新聞を読むのに一時間半ほどかかります。これが
朝の行動です。
仕事としては、週二回外国人への日本語指導をしています。もう五年目になります。
近くの特別養護老人ホームで働く、フィリピンやインドネシアから来た人達を指導し
ています。彼女たちは、六箇月間日本語の指導を受けた後、各地で介護福祉の仕事と
勉強をしています。私は、彼女たちが上級の試験に合格するための手助けをしていま
す。一グループ週一回で、約二年間指導します。まず基本的な看護・介護の言葉と漢
字のワークブックをやります。その次に、文法を中心とした本を勉強します。最後に
日本語能力試験対策の問題集を勉強します。テキストの中の言葉を、易しい日本語で
説明したりするのに気を遣います。彼女たちは、一生懸命に頑張ってやってくれるの
で、力を付けてもらいたく、私も努力をしています。
次にボランティアとしては、週一回地元の武道館で、小学生に柔道の指導をしてい
ます。これは、もう三十年以上になります。高校の柔道部の生徒を教えるのと異なり、
あまり無理なことをやらせておりません。基本的な事を確実に身に付けさせるように
しています。しかし、勝つための稽古も、もちんやっています。練習が終わった後に、
簡単な講話をしています。(柔道に関することや人生に関すること。)小学生にわかる
ように、言葉を選んで話すのに気を遣いますが、真剣に聞いてくれたり、質問に答え
てくれたりするので、楽しいです。
その他としては、家内の買い物のための運転手をしたり、本を読んだり、テレビを
見たりして過ごしています。また、趣味で月一回の五行歌会に参加したり、二箇月に
一度の観劇もしたりしています。
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船坂山の隧道を西へ抜けた寂れた田舎町三石の、更に曲折する金剛川沿いに
残された野谷地区に、実は私まだ生きていたのですよ。林立して黒煙を吐いて
いた三石の煉瓦会社は今一つだけが頼りなげに青色の細い煙の筋を立ち上げて
いるだけですし、金剛川沿い・山陽本線沿いに鉱石を採掘していた台山の騒音
も、それを運搬していたトラックの土埃も、台山「閉山」の宣告を受けて実に
「死の山」と化してしまいました。三石・野谷の田舍町は廃屋や耕し手のいな
い草莽の田畑を曝け出しているばかりなのです。
高退教のみなさんにまるで一言の挨拶もないままというのは全くの失礼千万
ではないか、という怒りやら不満が事務局担当の諸兄・諸姉の間で爆発したの
でしたか。なるほどごもっとも、平身低頭です。少し毛色の変わったところで
お話させていただきましょう。
閑谷学校聖廟前の楷樹は
渋沢邸の庭に見出された縁で
まもなくあの渋沢栄一さんのご尊顔が一万円札とかになってご登場なさると
いうことですよね。『論語と算盤』でも有名な渋沢栄一はまさに論語の心を軸
としながら、正しい資本主義・経済の発展をもたらした人物です。その渋沢大
先生に私がちょっかいを出すのでは全くないのですよ。閑谷学校の楷の木との
関わりからお話させていただくのです。
楷の木は渡来種で、しかも雌雄異株の木です。中国曲阜の孔子廟墓所に育っ
ていた楷の木の種を持ち帰ることが、東京の白沢保美林学博士によって実現さ
れます。目黒の林業試験場で何度も試行錯誤が繰り返されてやっと発芽に成功
し、幾本かの苗を育て上げることが出来たのでした。湯島聖堂・多久聖廟・足
利学校など孔子を祀る歴史ある施設へは、その生育を期待して苗木がもたらさ
れるのですが、閑谷学校の場合は全く別の経緯から楷の木の苗木の入手が実現
するのでした。
閑谷隧道の開通は大正12年
大正東宮の行啓は大正15年
渋沢栄一の娘婿に吉永町岩崎の生まれである明石照男なる人物がいました。
第一高等学校から東京大学に進み、渋沢栄一の造り上げた国立第一銀行の取締
役さらには頭取になってゆきます。ところで、実は閑谷学校の教授役であった
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武元君立は明石照男の曾祖父なのですよ。生まれ故郷吉永の地とその谷奥に開
かれている閑谷学校のことはどこにあっても忘れられない存在なのです。渋沢
邸の庭で「孔子木」とも「学問の木」とも呼ばれる楷の木≠ェ植樹され育っ
ていることを知った明石照男が、故郷の閑谷学校聖廟前に楷の木≠フ植樹を
ぜひ実現させて欲しいと、義父渋沢栄一に願ったのは極めて自然な成り行きで
した。
閑谷学校へ二本の楷の木の苗木が届けられ、聖廟前の緩やかな斜面にそれぞ
れしっかりと植樹されたのは大正末か昭和初期のことです。
閑谷の東谷と西谷とを繋ぐ形で閑谷隧道が開鑿され開通したのは大正12
年、同時に?池が埋め立てられてグラウンド拡張が進められ、大正天皇の閑谷
学校行啓がなったのが大正15年のことです。明石照男は明治14年の生まれ
ですから、楷の木の聖廟前植樹は40歳半ばの頃の実現かと思われますが、植
樹は明石照男の手によってというより、渋沢栄一・明石照男の手配によって楷
の木は閑谷学校にもたらされたと考えるのが妥当でしょう。あるいは同時に大
正東宮の記念植樹に当てられたと考えることもできます。
庶務日誌に「明石照男氏来校」
楷樹の成長ぶりを確かめ
て
岡山県閑谷中学校の昭和8年3月29日付け庶務日誌に、「明石照男氏来校」、
「元本校教授武元君立ノ後裔ニシテ現在第一銀行常務取締役ナル明石照男氏、
本日午後零時三十分頃、夫人・令息二人ヲ伴ヒ来校、史跡ゴ参観、午後二時帰
ラル。」の一文が記録されていました。明石照男50歳台初めの忙しい日程を
割いての閑谷学校参観は、ひとえに聖廟前の二本の楷の木の成長ぶり確認にあ
ったと言って間違いないでしょう。
参考までに、この前々日・27日の庶務日誌には、「西薇山先生ノ三十回忌
二當ルヲ以テ」令息西虎夫氏とその令息二人の墓参と来校があったことと、「本
日ヲ以テ我国ハ国際聯盟ヲ離脱セリ」の一行が記録されていました。
ちなみに、同期生であり山陽新聞社社長であった谷口久吉氏は、「あの木は
明石君が送ってくれた。会うたびに『楷の木は大きくなっているか?』とよく
聞かれた。」と話されていたということです。
「誠意正心」の四文字
「清風」こと明石照男の筆で
[あと一言]
吉永の岩崎に一屋を訪ねたことがあった。武元君立や明石照男の
若かりし頃の生活の舞台にあるいは触れられるかも知れないとの夢見心地から
であったのだが、出てきてくださったご婦人は快く受け入れてくれたのだった。
なんと欄間の端に明石照男の墨蹟そのものが掛けられているではないか。ここ
が明石照男生誕の地であったのか、あるいは親戚筋の一屋であったのか、飛び
上がる思いであった。
欄間の「誠意正心」の四文字は「大学」八条目のうちの二条目である。「明
石家重雅兄嘱」に並んで「清風書」の三文字が鮮やかで、その後ろに二つの落
款が色褪せている。どこにも「明石照男」の文字は見当たらないが、実は「清
風」の号こそ明石照男そのものであるのだ。ご子息の景明氏が照男氏没年(昭
和31年9月29日)の翌年に、「昭和三十二年一月百日祭を了えて」の一文
を添えて、和気高等学校閑谷校舎あてに『清風詩集』なる一冊を持参されたこ
とがあった。明石照男吟の漢詩集で、「絶対外部へ頒布しないこと」を前提に
編纂を許したという謄写版刷りの一件である。
「清風」は明石照男の漢詩人としての雅号であったのだ。
私こと緑内障の後遺症に悩まされています。これだけの文を打つだけでもう
見えなくなっています。みなさんお元気で。
「
今年で34年目になる、おなじみの「ゆきとどいた教育を求める全国署名」
が取り組まれています。
最終集約は11月28日、岡山県議会提出は11月末、岡山市議会提出は1
2月初め、国会提出は来年2月の予定です。
よく知られるように、日本の教育に対する公費支出割合(対GDP比)はO
ED諸国の中で極めて低いのが現状です。これをOED諸国の平均まで引き上
げれば、小・中・高までの少人数学級の大幅な前進や、就学前から大学までの
教育無償化など教育条件整備を飛躍的にすすめることができます。そのために
は、私たちのたゆまぬ運動・取り組みが不可欠だと言えるでしょう。
この間、私たちの長年のとりくみも反映して、昨年から国の計画で小学校1
年生から段階的な35人学級の導入が始まりました。喜ばしいことですが、現
状から考えれば、6学年に即導入、20人学級実現へというのが理想であり、
まだまだ不十分でしょう。
さらには、教員の不足が現在大きな問題になっており、岡山県では「臨時的
任用教員(講師)」の割合が高くなっていることも指摘されています。実際、
産休代員として急きょフルタイムでの講師勤務を要請される退職教員の例も身
近で聞かれます。
また、近年ニーズが高まっている特別支援教育についても、過密化・教室不
足が問題となっているということで、6人という学級編成基準の見直しが急務
だということです。
加えて、県内では緊急の課題として、学校内のトイレの整備(老朽化、洋式
化、生理用品常備など)や、県立高校生の一人一台タブレット端末の公費援助
が求められています。
以上、課題山積ですが、一日も早い整条件備の実現を目指して、高退教会員
の皆さんの署名への協力を強くお願いしたいと思います。「県民の会」では3
万筆を目標にしています。
岡山市の政令指定都市移行に伴い、一昨年から岡山市への要請行動にも取り
組んでいます。そのため署名用紙も3連のものとなり、お手数ではありますが、
ご配慮いただきたいと思います。
集約日が近づいていることもあり、「県民の会」の一員として皆さんの緊急
のご協力をよろしくお願いしたいと思います。
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張り直しや裾の土を取り除かなくていい
防虫ネットを張って、防虫トンネルを作ったも
のの、途中で虫を発見したり、草が邪魔して来た りで、ネットを張り直したくなることはありませ
んか。
そんな時にネックになるのが、裾の土を取り除
く手間と、張り直しの最中に虫が飛び込んで来る
ハプニング。この二つは本当に嫌なものです。
ダブルクリップは便利な農業用小道具
こんな苦労からサヨナラできるのが、「『天井』開閉式防虫トンネル」です。
天井のところで、左右から来た防虫ネットを重ね、クルッと巻いてダブルクリ
ップで閉じでやるのです。(写真は真上から撮ったものです。)
最初は天井部にファスナー付けようと思ったのですが、縫いつけが面倒で私
には無理。それで、ダブルクリップ使用を思い付き、気楽な実験と思ってやっ
てみたら上手くいった次第。
ちなみに、ダブルクリップは便利な農業用小道具です。トンネルパッカーは
太陽光で劣化してすぐ使えなくなりますが、ダブルクリップは錆びるだけで、
何年も使えます。
防虫ネットに小さな穴が開いた時も、ダブルクリップで閉じてやれます。「大
・中・小」と三タイプあると色々使えます。
購入する防虫ネットの幅=トンネル支柱の長さ
天井開閉式にするには、防虫ネットで左右から挟む 形にしなければなりません。2枚使って挟むのもいい
し、1枚でグルッと取り囲んでやっても構いません。
私は枚数が多いと管理が難しいので、1枚取り囲み方
式でやっています。左側の写真は一枚方式で、折り返
し部分の余った防虫シートを、地面に打ち込んだロー
プ止めの丸い頭に結び付けている様子です。
防虫ネットを購入する時の幅の目安ですが、なんと
「トンネル支柱の長さと同じ」がピッタリでした。
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※小林軍治さんの突然のご逝去は、多くの方々に衝撃と悲し
みを与えました。
私は会報編集係として、これまで小林さんの手書き原稿を、パソコンで扱え
るよう電子化して来ていましたので、電子化済みの原稿の掲載が済んだ段階で、
「次の(手書き)原稿を早くいただかないと」と焦っていた矢先のことでした。
本号の「追悼、小林軍治先生」の中にも、「自分史を書くんじゃ。」とおっしゃ
っていたことが紹介されていますが、まさかこんなことになってしまうとは。
原稿の中身のことで、私が細かい確認を取ることがありましたが、記憶だけ
に頼らず、すべて記録を見ながら執筆されており、「間違いないよ」「確認済み
です」とのお言葉をその都度いただきました。
未完で終わることになってしまい、本当に残念でなりません。
※紙に印刷された活字を電子化するのは、以前は結構手間の掛かることでした。
OCR(光学的文字認識)ソフトを使っても、何が書かれているか判読できな
いようなものに変換されるのが常でした。
今回、印刷された活字原稿をいただき、まずは画像としてコピーして貼り付
けようとしましたが、活字の歪みとカスレから諦めざるを得ませんでした。
「やはり打ち直すしかないかな」と思いながら、それでも試してみようと、
スキャンで読み込んだものを、PDFエレメント(ソフト名)で開いてから「ワ
ード変換」をクリックしたところ、思わぬことが起こりました。なんと段組な
どお構いなしで電子化してくれたのです。
この原稿には難しい漢字が含まれており、打ち直すにしても、辞書を引きな
がらの入力が予想されるものでしたのに、変換されたものは、ほとんど原文通
りで、私が「どう読むの?」と思う地名まで正確に変換されておりました。恐
るべき技術の進歩を目の当たりした次第です。
※曽田さんの詩集「花になろう」にまだ余裕があるとのことですので、全体を
知りたい方は、曽田さんにお願いしてみてはいかがでしょう。(清水)
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