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退職後も輝いて!岡山県高校・障害児学校退職教職員の会

会報report

 

高退教会報バックナンバー

163 2021年2月(抄)

 目   次

☆新年に思う ―コロナへの視点―        会長 萱 栄次

☆コロナ禍のもとでも19名が参加 ―2020年度退職予定者の集い―
                     岡山支部 美甘 晃


☆愉快に なごやかに あっという間の2時間
―岡山・極東支部合同で長寿を祝う会― 極東支部 岸本 幹雄

☆憲法とともに歩む人生 ―備南高校時代(前半)―
                  岡山支部  小林 軍治


☆新年を迎え、元「少国民」の訴え
―学術会議の任命拒否はファシズムへの道― 岡山支部 安東 誠


☆「墓石めぐり」 の記             備南支部 武田昭一

☆事務局便り                     事務局

☆編集後記                      編集部
                     

新年に思う ―コロナへの視点    会長 萱 栄次


 コロナに暮れ、コロナに明けた今年、改めて、考えさせられたことがあります。
 コロナ禍の問題は、マスコミで連日報道されています。世界中が大騒ぎしているのが現状です。何よりも一日も早く感染の収束・絶滅をすることが現在の最も重要な課題です。
 ここでは、その次の問題での視点についてふれたいと思います。今はその時期ではないので、大きな話題にはなりませんが、コロナ発生の原因の追求です。最終的には、この原因をなくすることが一番大切ではないかと思われます。
 この30年で、少なくとも30の新しい感染症が発生したと言われています。自然環境の破壊が大きな原因だと指摘されています。思えば、人間は利潤を追求するあまり、自然界に無秩序に介入してきました。地球温暖化もその結果といえます。
 そうです。地球温暖化もコロナ禍も、人間の利潤第一主義が招いた「人災」といえます。将来的には、この視点を基本として、コロナの原因を作らない社会を築くことが求められています。
 お互い健康には十分気をつけて、諸活動に頑張っていきたいと思います。 

コロナ禍のもとでも19名が参加  ―2020年度退職予定者のつどい―                        岡山支部 美甘 晃



 12月19日(土)、コロナ禍のもとではありましたが、高退教・高教組共催で2020年度の「退職予定者のつどい」を開催しました。西川原プラザに19名という大勢の退職予定者の参加をいただき、定年後の「全教共済」「すくらむ共済」についての高教組書記局の解説、高退教会員からの体験談などをもとに、定年後の仕事や生活についての期待や不安について懇談しました。高退教事務局からは5名、高教組本部から2名が参加しました。
 村田高教組委員長・萱高退教会長の開会挨拶では、再任用教員の待遇や展望、高退教への加入のすすめなどがありました。今年度退職予定者の年金支給開始が64歳からということもあり、ほとんどの参加者はフルタイムの再任用で勤務をつづけるということでしたが、再任用や非常勤などの待遇は、定年制の延長が目されるもとで若干の改善はあるもののまだまだ不十分であり、今後もたたかいが必要だと訴えられました。
 藤原事務局長の高退教の活動の紹介につづき、定年後の体験談が、武田芳紀さん、岸本幹雄さんから報告されました。
 武田さんからは、「退職後の新しい人生のスタートに向けて」と題し、これからのたっぷりな時間をいかに自分なりの生きがいをもってポジティブに進んでいくか、自らの体験をもとに参加者への「エール」といえるお話をいただきました。現職中にとりくんだ仮説実験授業の実践が現在就いている岡山理科大学科学ボランティアセンターのコーディネーターにつながっていること、退職の春に起きた東日本大震災のボランティアの経験が真備の被災者支援に生かされたこと、東北でスケッチにとりくんだことが美術の講座への参加・作品の出品・愛好家の仲間づくりにつながったこと、科学ボランティアで地域や若者とつながったこと、岡山市内でのシニアスクールに講師として参加しさらに新たな交流が生まれたことなど、さまざまな豊かな体験が語られ、教職にあったことで知らないうちに身についている多様な能力を生かし、再び豊かな人生を生きるよう参加者を励ましました。
 5年間の再任用期間を経て現在非常勤講師という岸本さんからは、両親の介護、実家のブドウ栽培、町内会の役員といった多忙なプライベートと並行しての教員生活や高教組活動への支援など、現況が語られ、参加者の共感を得ました。やはり再任用や非常勤の待遇改善が待ったなしの課題になっているとし、教員免許更新の矛盾解消も含めて、今後も教員の待遇改善や教育の条件整備にかかわっていきたいという決意が伝わってきました。
 最後に、事務局からの退職金や定年後の健康保険・年金・税金などについての若干のアドバイス的な解説を経て懇談に移りましたが、予定の時間が来たため、残念ながら深く論議することはできませんでした。コロナの困難な状況の下でも19名の先生方が参加されたように、定年後の生活についての期待・不安・関心の大きさがうかがえます。今後の生活の一助としてくださったことと信じますが、参加者の声をもっと引き出せるような工夫を論議しながら、来年度以降の準備をすすめる必要があると思わされました。

愉快に なごやかに あっという間の2時間 ―岡山・旭東支部合同で長寿を祝う会― 旭東支部 岸本幹雄


2020年11月 11 日(水)、高退教岡山支部と旭東支部は、岡山高教組会議室を会場に、昨年85歳を迎えられた日高忠男さん(岡山支部)、荒木敏和さん(旭東支部)、高垣章二さん(旭東支部)の3人をお招きして、両支部合同の「長寿を祝う会」を開催しました。会には、小林軍治副会長をはじめ、高退教会員6人が出席、合計9人の参加で、なごやかなひとときを過ごしました。

まず、3人の方から、退職されてから最近の日常の様子まで、色々とお話しいただき、続いて参加者からの質問に答える形で、現役の頃の思い出なども語っていただきました。3人の先生は、お互いに同僚として同じ職場で勤務されたこともある方同士で、その当時の多彩な「秘話」もお聞きすることができました。
日高さんは現役のときは数学の教員であり、趣味の囲碁は大学時代から始められ、昭和40年代の頃は、空き時間や放課後、宿直室などで囲碁打ちするなど「古き良き時代」だったそうで、互助組合の囲碁大会には毎年参加されたそうです。高退教では会計監査を数年されたそうで、最近の日常では、毎日の操山への散策、週1回は囲碁の会へ参加、月 1回は老人会の廃品回収など、悠々自適の生活ぶりを語られました。

高垣さんは、現役時代は数学の教員であり、演劇部の指導を長年されてきました。映画「あかね色の空を見たよ」の制作実行委員会のとりくみをはじめ、文化活動での思い出も語り尽くせぬほどでした。高退教では事務局長も歴任され、一番記憶に残っているのは、「永年会員」の制度を改め、11年を超えてからも会費納入してもらうようにして、高教組から毎年80万円の補助金を10万円ずつ減額して、現在は高教組から独立した高退教会計にされたそうです。
また、80歳のとき「その時10歳のわたしは」 (操山高校同窓生の戦争体験記)を発行され、最近それを増刷されて、正月に教え子が来たときなどに、その冊子を手渡しているとのことです。

荒木さんは、現役のときは英語の教員で、退職後10年くらい非常勤講師をされていたこと、高退教事務局次長をされていたこと、高退教の作品展の開始の時期に関わったことなどを話されました。また、パソコンに造詣が深く、パソコンは10台以上もデスクトップを自作されたそうで、現在も2台のパソコンを使われており、そのうち1台は趣味の写真専用とのことです。いまは、写真クラブとダンスクラブに関わっているそうですが、昨年の新型コロナの感染拡大以降、ダンスは手袋とマスクをしてされているとのことです。
現役時代から退職後の、さまざまなエピソードに感心したり笑ったりするうちに、あっと言う間の2時間が経ち、参加者全員の集合写真を高教組の村田委員長に撮影してもらい、記念品をお渡しして散会となりました。



 

玉島の戦争遺跡―「トーチカ」のような建造物について(スケッチとともに)―
備西支部 武田 芳紀



「高退教岡山」通信の第154号に、美甘晃さんの「第48回自然歴史探訪」の報告が載っています。この報告は、四国霊場の88か所の一つ「雲辺寺山から豊捻池へ」探訪したときの報告です。ところで、その報告の文章とそこにあった写真(山麓にある「トーチカ」の写真)を見たときに、「これだ!」と私は思わず叫びました。、「これだ!」と私は思わず叫びました。それは私の住んでいる玉島の乙島地区にある戸島神社の境内の少し横にコンクリートでできた「不思議な」な建造物があり、その形状ととても似ていたからです。実は以前、倉敷市の「戦争遺跡」の指定がな 造物がどういう目的で作ら れたのか、明確に説明され ていないのです。ただ、乙 島には、ほかにも戦争遺跡 に指定された場所(史跡)がいくつかあります。その代表的なものは、「高射砲」の跡です。それは、戸島神社のある山と近くではありますが、別の山(地元では「高山」という名で呼ばれている)の上にあります。また、その近くに、その高射砲で使用するための弾薬を入れていた「弾薬庫」跡もあります。この高射砲ですが、玉島と高梁川をはさんで東にある水島地域にかつて、戦闘機を作る工場がありました(現在は、「三菱自動車」の工場が建てられています)。 これは、当然、米軍の攻撃目標とされるわけで、それに対する防御を意識した施設が周辺に作られています。その代表が、亀島山の地下工場(跡)ですが、ほかにも、実際の爆撃機や戦闘機の攻撃に備えて、高射砲が周辺に配置されていました。(私が聞いているのは、水島の北の連島、それと玉島のもの) そ
 












高さは約2mの円形の建物・高さ10㎝くらいの覗き窓が横に並んでいる「玉島平和美術
展2020の出品作品 その1」
うすると、軍事的なことはよくわかりませんが、弾薬庫は当然必要でしょう。と同時に、高射砲で敵機を砲撃し、砲弾が命中したり、撃墜されたかどうか、それを見届ける施設(?)も必要でしょう。それで、私は、この建造物は、おそらくそのために作られたのではないかと考えていました。この建造物の説明には<「トーチカ」のような建物>と書かれたりもしています。トーチカというのは、「(ロシア語)機関銃や砲などを備えた、コンクリート製の堅固な小型防御陣地(デジタル大辞泉)」と言われます。美甘さんによると雲辺寺のある山麓は、軍に接収され、「山砲射撃練習場として終戦まで使用された」とのことで、「細い山道沿いのトーチカは砲弾の着弾地点を観測するためのもので、昭和初期に設置された」そうです。なので、私としては「わが意を得たり」という思いがしたのです。
 実は、昨年、玉島での「原水爆禁止平和大行進」(実際上はネット上で実施)にあわせて「玉島平和美術展」を玉島九条の会主催で実施しました。一昨年のこの取り組みは、この「高退教岡山」の通信でも紹介させてもらいました。昨年は、この建造物を描いたスケッチ(「鉛筆画」)を出品させてもらいました。他にも高射砲を描いたスケッチなど数点も展示したのです。そこで、今回は、この「トーチカ」のような建造物の絵をまず掲載させていただき、引き続き、この平和美術展に展示した作品とその解説を数回にわたり連載させていただきますね。

憲法とともに歩む人生―備南高校時代(前半)―
岡山支部 小林軍治

はじめに

 1973年(昭和48)4月、勝山高校から備南高校に転勤した。備南高校には、73年4月から85年3月までの12年間在籍した。この間75年4月から80年3月までの5年間は、岡山高教組の本部執行委員として、組合活動に専念した。
 今回は、備南高校時代(前半)の73年4月から75年3月までの2年間を振り返ってみる。
 備南高校は、1948年(昭和23)3月、岡山県玉野市立高等学校定時制部として、機械科・造船科の2学科(定員400人)で設立認可された。三井造船株式会社多摩の事業部に従事する若者(養成工)を教育する機関として出発した。
 1051年9月に、岡山県玉野市立備南高等学校と改称した。52年4月に商業科を設置した。定員は200人。

転勤して驚いたこと


 転勤が決まったので、学校の下見に車で出掛けた。三井造船所の近くと聞いていたので、それらしき建物を探したが見つからず走行した。通り過ぎたのではないかと引き返した。古い木造の建物を見つけたので、近寄ってみると、「備南高校」と書いてあった。正直びっくりした。これが学校(高校)かと、驚いた。私がこれまで、学校(高校)と思っていた外観とあまりにも違っていた。
 もっとびっくりしたことがある。それは、4月中旬に、新任者全員が教務課長に連れられて三井造船所の総務部長(人事部長?)に、挨拶に行ったことである。私達は三井に採用されたのかと思った。
した。三井造船側からすれば自分の学校と思っていたのかもしれない。開校以来、学校の敷地、建物をはじめとする施設のほとんどが三井造船からの借り物である。昼食も時々、三井造船の食堂で食べたりした。

生徒の現状と授業環境


 私は、2年商業科を担任した。生徒は25人で、男子は2人であとは全員女子である。職場は、紡績・縫製関係が多い。男子の一人は、私と同年代で、歯科技工士の資格を取るために学んでいた。目的がはっきりしているので欠席も少ない。女子生徒は、勤務時間等の関係もあり欠席が目立つ者が多い。3人休学となった。
 学校全体の生徒の状況は、資料1のとおりである。
資料1
生徒の状況(48.5.1現在)
a生徒数
昼間(機械・造船科)317名
夜間 機械科   59名 463名
   商業科   87名
b通学の状況
(ア)通学方法
  自転車 44%
  バス  10%(T社のバス通学含む)
  自動二輪 5%
(イ)片道通学時間  
30分未満が多い(寮が近いため)が、30~60分かかる者が10%いる。
c 進路の状況
 ほとんどの者が卒業後も職についているが転職のケースはよくある。
d 生徒の勤務先
 三井造船(下請け含め)80%
 帝国興業(学生服メーカー)   8% 11%
 サンエスコート(学生服メーカー)3%
 看護婦(三井・松田等) 6%
e 生徒の出身地
 県内と県外比は7対3である。県外からは四国各県からと九州各県がほとんどである。

授業環境については、次の岡山高教組機関紙(1973年12月5日・316号)に記載された『「職場のうた」・・備南高校の存続運動』より抜粋する。
│ カーテンで二つに仕切られた教室で、隣の授業を気遣いながらも、できるだけ一人一│
│人にわからせる努力をしなければならない。必修クラブでソフトボールをやるといえば、│
│二塁ベースあたりまでせり出している山肌も、三塁上の校舎もルールにとり入れないと│
│授業にならない。「ファウルでも何でも障害物に当たって地上に落ちるまでにとればア│
│ウトです」いい当たりほどアウトになりやすい不合理もあるが、中庭程度のグランドで│
│できる工夫といえばこれがせいいいっぱいなのだ。 │

4.27 全国統一行動への参加

 岡山高教組は、公務員共闘が提起した春闘山場の統一行動について、4がつ18日の臨時評議員会で次のように決定した。
 「早朝勤務時間に29分くいこむ校地外の要求貫徹集会を開く」。「夜間定時制分会にあっては、授業くいこみも含めて、HR前後勤務時間29分カットの校地外集会を基本とする」。
 備南分会では、執行部を中心に職場集会を重ねた。私は、勝山高校での経験をもとに統一行動については、組合員のそれぞれの行動を最大限保障することが泰節であると強調した。その結果、裏門を挟むように輪になって校地内外の集会を行った。一部ではあるが初めて校地外へと歩み出したのである。
 この行動を通して職場の中で、管理職への批判も含めて自由に物が言えるようになった。組合は団結も高まり「力」もついた。この「力」が、備南高校存続問題では大きな役割を発揮した。

備南高校存続問題

この問題については、当時の備南分会役員の井上けんじ先生が、全国教研(1974年1月18日~21日山形市)で発表した。「青少年の学習権と備南高校のとりくみ」をもとに報告する。私と小川澄雄先生が報告書作成の助言者として加わった。
 この問題が学校で正式に明らかになったのは、73年5月15日の第一回運営委員会(機械・造船・商業の科長と各課長で構成)である。校長・教頭から次の3点の発言があった。
 ①来年度以降、三井造船が養成工を募集しないとの報告があった。
 ②51年度くらいで独立校としての存続が困難となる。
 ③夜間定時制については、白紙状態である。昼間がなくなれば、  設備不足のため夜間工業科の存続が困難となる。
 この発表を受けて備南分会は、「憲法二十六条に定められた教育の機会均等の精神に基づき、働く青少年の学習権を保障する課題である」ととらえた。5月中旬から6月中旬にかけて、職場会議、職員会議を精力的に開き、「玉野に定時制は必要だ。たとえ一人でも、働きながら学びたいという生徒のためには門を閉ざしてはいけない。」と立ち上がった。
 6月8日には、玉野市総務文教委員会に教職員の総意として学校長より、次のような内容の「要望書」を提出した。
 ①夜間定時制は必ず残していただきたい。
 ②昼間については近い将来全日制高校に移行する方向で検討し  ていただきたい。
 ③教職員の身分を保障すると同時に不当な人事はしないこと。 6月10日の岡山高教組定期大会では、井上先生が代議員として参加次のような特別発表をした。「三井造船が養成工の募集を停止したので備南高校は存亡の危機にひんしている。みなさん、力を貸してください。」
 大会は、この問題を組織全体でとりくむことを満場の拍手をもって確認した。6月末から7月にかけて、岡山高教組倉敷・児島支部の玉野地区協議会(玉野高校・玉野市立商業・備南高校)を中心に、県会議員への申し入れ、本校卒業生への協力要請を行った。 6月27日には、倉敷・児島支部の11分会の代表が本校を訪問して、校内を視察した。視察後、備南分会長より現状を報告し、今後のとりくみについて話し合った。
 この間、7月16日には玉野市教委との交渉を行なった。30日には、市教委から次のような中間報告があった。
 ①来年度は夜間だけ募集する。
 ②私立商業高校との併設は難しい。
 ③市内中学校に夜間照明をつければ併設も可能である。
 ④工業科は金がかかりすぎる。普通かも考えたい。
 ⑤設備面での充実は新年度から予算を組む。
 その後も玉野地区協議会を中心に、県教組とも協力し、市内中学校6校の2・3年生の保護者にアンケートをとるなど、地域の教育問題として運動を進めていった。この運動の中心としてリードしてくれたのが、玉野高校の高垣先生であった。いまでも感謝している。
 8月11日には、第2回目の対市交渉を行った。その後は、アンケートを回収し、集計・分析に入った。
 運動の成果は、
 ①夜間はさしあたり来年度は募集することとなった。
 ②施設設備面での予算(増額)を組むことを約束させた。
 ③組合の団結力が強まった。などである。
 今後の課題としては、
 ①全日制高校実現に向けたとりくみ(総合制ふくむ)と結合したとりくみ
 ②生徒会の要求(ストーブ・給食など)と結合したとりくみ。
 ③地域・父母との連携を強化するとりくみ。などである。

 次号では、社会問題研究部の結成、高校部落研集会への参加、定時制事務局の担当などについて報告したい。

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新年を迎え、元「少国民」 の訴え -学術会議会員の任命拒否はファシズムへの道-
岡山支部  安東 誠

 1月9日、「灘崎九条の会」の「9の日行動」の一貫として開かれた憲法学習会で、高退教会員の安東誠さんが講師を務められました。その講演レジメを、ご本人の了承を得て掲載させて頂きます。

1 「学問の自由」(憲法23条)の侵害は明白

1349団体(学術団体だけでなく、文学・演劇・映画・宗教・労働・女性・自然保護・消費者など)の抗議声明。 ノーベル賞受賞者をはじめ、一般市民の個人など数多くの人々の抗議や訴えの声が上がりました。 1349団体が 立場の違いを超えて抗議するのは歴史上初めてのことではないでしょうか。 国会での徹底究明と考え合わせるならば「学問の自由」の侵害は明らかです。

菅首相は、 拒否問題の国会審議で、人事案件を理由に100回以上も説明拒否。官僚メモの棒読みなど、このこと自体が「学問の自由」の侵害を自ら証明するものです。資料1に示された諸事実が任命拒否の理由であることは明白ですが、それを認めれば 侵害を公然化することになるからです。問題はそれだけではありません。政権の常套手段である論点のすり替えです。
 学術会議が何か問題のある組織であるかのようなデマゴギー(政治的虚偽宣伝)を振りまき、国民の目から事実を覆い隠すことに躍起になっていることです。マスコミから「ごまかしに満ちた文章」とまで酷評される「日本学術会議の在り方に関する提言」 (自民党プロジェクトチーム作成)なるものまでまとめる始末です。 全国的な抗議や訴えに共通する危機感は、首相や政権のファッショ的な姿勢とその動向です。

2 ナチス・ドイツのファシズムとニーメラー牧師

ドイツでは、第一次世界大戦(1914~18)の末期にブルジョア民主主義革命が起こり、君主制が倒されました。戦後の1919年7月に 議会でワイマール憲法(人身の自由 ・言論の自由・生存権などの民主主義的権利が定められた画期的憲法)が制定され、共和制が実現、社会民主党が政権を掌握しました。しかし、敗戦後のドイツは深刻な社会不安が続いており、それを利用して ナチス(国家社会主義ドイツ党)が台頭、1921年にヒットラーが党首になりました。政党名からして大衆的政党であるかのように見せかけて反共デマゴギー、反ユダヤ主義、ゲルマン民族至上主義などを喧伝し、勢力を急速に伸ばします。

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1929年の世界大恐慌は、ドイツの全産業に大打撃を与え、500万人の失業者、大衆の困窮化などで社会不安は一層深まりました。そんな社会状況の中で、ナチスは第一党になり、ヒットラーが首相に就任しました。当時ドイツ共産党は労働者階級をはじめとして広範な民衆に影響力を強めていました。ヒットラーは、このドイツ共産党の抑圧を第1に、反対勢力の排除により独裁体制をつくることを企てていました。そのために、ワイマール憲法の大統領の権限を悪用して緊急命令を発動、言論の自由・人身の自由などの民主的権利を侵害するなど暴政を重ねました。
1933年2月27日の国会放火事件を共産主義者の謀略であるとでっち上げ、「共産主義者の暴動から国と人民を守る」というデマゴギーを喧伝しながら、約4000人の共産党員と2人の社会民主党幹部のほか、自由主義者や民主主義者を一斉検挙、さらに3月5日の国会選挙でドイツ共産党が獲得した81議席を抹消しました。その上で「全権委任法」を成立させ、ワイマール憲法を実質廃棄、大統領と首相を一つにした「総統」という絶対権力の地位を樹立しました。ヒットラー総統の登場です(1934)。ホロコースト(大虐殺)・強制収容所・ゲシュタポ(秘密警察)・人種優位性誇示 ・絶対服従強制などの言葉に象徴されるドイツ・ファシズムの独裁政権は、第二次世界大戦(1939~1945)への道を突き進んでいきます。

マルティン・ニーメラー牧師(1892~1884)
ドイツルター派の牧師。ナチス・ドイツのヒットラー政権がドイツ中の教会を意のままにしようとしたことに抵抗した「ドイツ教会闘争」の指導者。 1937年7月1日に逮捕され、1945年の敗戦まで獄中や強制収容所に拘留されました。戦後ドイツ教会の再建に尽力し、西ドイツの最軍備や核武装に反対するなど、内外で平和について発言しました。(言葉は資料4)

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抗議声明を出した日本キリスト教協議会の星出卓也さんは、牧師の言葉に関わって概略次のように述べています。
ニーメラーが指摘しているのは、自分や自分の関わる教会に危害が及ぶまで、すでに起こっていた現実に無関心であったこと、それは他人のことであり自分の問題とは考えなかった。そんな自分は結果的に加害者に加担してしまったのであるとして、彼は自分の罪責を告白しているのである。
そのように述べた上で、任命拒否の問題について、「学者」という狭い問題ではなく人々の言論を封殺し真実を見えないようにしようとするものである。彼の言葉は時代を超えて今の私たちに呼びかけ続けている警告ではないか。
過去の日本における「学問の自由」の侵害の歴史、そして、菅政権とその周辺による憲法法律無視の謀略的な攻撃の現実を見るとき、星出さんの指摘は実に貴重な教訓ではないでしょうか。

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3 戦前の「学問の自由」の侵害-1億総洗脳・侵略戦争へ-

「学問の自由」の侵害は突然始まるわけではありません。 資料2の年表は1928年からのものですが、1923年の関東大震災の社会不安を口実に戒厳令を発動し、政府の命令違反を理由に共産主義者・無政府主義者をはじめ、進歩的労働者・市民などに大弾圧を加えました。 (川合義虎など10名は警察署で殺害、 河合栄夫妻は憲兵が虐殺)
さらに、政府・警察は、朝鮮人に不穏な動きがあるとデマを流し、軍隊や警察に扇動された民衆の手で数千人の朝鮮人を虐殺させました。数百人の中国人も犠牲になりました。
戦前の主な侵害事件は資料5に示されていますが、京大滝川事件と「天皇機関説」事件が特によく知られています。ここでは、「天皇機関説」事件について概略を述べたいと思います。
この学説は、美濃部達吉によるもので、大日本帝国憲法を自由主義的に解釈して、統治権の主体は天皇ではなく国家という法人であり、天皇は国家の一機関であると規定しています。 天皇制を基本的に認めた上で、政党と議会の役割を高めようとするものであって1920年代には半公認の学説だったのです。1920年代には主流であり半ば公認された憲法学説の首唱者であった美濃部氏を、国体(神聖不可侵の天皇を戴く国家)に反対する反逆者などと攻撃、政権は著書を発禁にする弾圧を加えました。 検察は不敬罪として起訴をする動きを見せるといった状況の中で、美濃部氏は貴族院議員も辞職せざるを得なくなりました。(1935)

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さらに権力は、「天皇機関説」の影響を根絶するために『国体の本義』 を刊行、皇国史観をもとにする軍国主義体制の確立に向けて思想統制を一段と強化しました。(1億総洗脳)『国体の本義』には「我を捨て私を去りひたすら天皇に奉仕することが(中略)われら国民の唯一の生きる道」と書かれていました。
政権はこの『国体の本義』を教育の根幹に据えるために、1941年に
は国民学校令を公布、小学校を国民学校に変えました。(小生小5のとき)そして中等・高等の学校令も改訂して「皇国の道に則り『錬成』を行うのが教育の目的」と定めました。学ぶことは国民になることであり、国体を維持するためには自己を犠牲にすることは臣民の務めというわけです。「大東亜共栄圏」を掲げて侵略戦争の道を突き進みます。

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4 歴史に学び、自分のこととして

冒頭で1349団体が抗議声明を出したことを紹介しましたが、特にその中で学術研究関係以外の数多くの団体が含まれていることに注目したいと思います。それは、任命拒否の問題が学者だけの問題ではなく、国民一人ひとりに関わっている危険な事態であることの現れと考えるからです。以下、いくつかの声明と個人の声の要所と思う部分を紹介します。
 消費者連盟 
政府の意向に反する研究を行い発言する科学者を、学術会議という公職から追放するという今回の措置は、戦後米国で吹き荒れた赤狩り、マッカーシズムそのものである。
次に来るのは市民活動の締め付けであり 規制の強化であることは容易に想定できる。
 平和をつくり出す宗教者ネット
 民主主義の根幹が崩れ社会から批判的精神が失われ、全体主義がはびこり、最後には社会と国家の危機を乗り越える道を見失う。
 生長の家
科学的真理の探究を操作しようとする政治が、宗教的真理の探究を尊重することはありえない。
 日本自然保護協会・日本野鳥の会・世界自然保護基金ジャパン
科学的根拠をもとに活動する自然保護団体はじめ、多くの人々に理論的拠り所を示してきた。学会や研究者への政権の圧力が自由な議論への圧力となり、不要な忖度や萎縮を引き起こし、政策の適切な実施を阻害するおそれがある。
 日本女性学会
学術会議のジェンダー問題の提言は、政策・制度の不備、 不作為を厳しく批判するものでもあった。今回の政府の人事介入はこうした活動を鈍らせる。
 日本児童文学者協会
 今回の事件は、単に学問分野のことではなく、表現の自由、日本の民主主義の行方に関わる由々しき事態である。文化や教育、学術研究は決して政権の道具ではない。
 高校非常勤の教師
宇野重規・東大教授の文章の載った国語教科書で授業をした。宇野教授を含む6人の日本学術会議会員任命拒否問題に接し、なんだか怖い想像をしてしまった。文科省に検定され、地方自治体の教育委員会などが採択する教科書に選ばれる文章、大学入試に出る文章が、何らかの「忖度」をされ、今までと違う方向に進んだら・・・・。

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「墓石めぐり」 の記  備南支部 武田昭一


埼玉からおたよりします。
首都圈のコロナウイルスはじわじわ田舎にも迫つてきて、 ここは山の中のイナ力ですが、 「緊急事態対応」の日々です。街へはできるだけ行かないようにしています。 でも、 家にじっとしているのが嫌いなので、 もっばら田舎道のウオーキングに励んでいます。 「一日1万歩」が目標です。 どこを歩くかというと、私のふるさと群馬の利根川の堤防の上などです。 そこまで車で1時間半。長い長い土手を歩いて、土手から降りると、そこは「世良田村」と言って、 今は町村合併により消滅してしまいましたが、新田義貞ゆかりの地、徳川氏発祥の地。 などといわれている古い村です。 私はここで生まれ、 小学校低学年の幼い頃を過ごしました。山が迫つて狭苦しい秩父とちがって、周りの広さが爽快です。北に赤城山が長大なスロープをひきその右に日光連山、左に榛名山、さらに左に浅間山と、山並みが遠く続く、 関東平野の北端です。 空が広い。 今頃は空つ風が吹く。 この風もなっかしい。 その中をせっせと歩いて元気です。
ウオーキングに励む傍ら、 私は去年の秋ごろから、 やたらとお寺の墓地を訪問するようになりました。何のためかというと、戦死した人の墓碑を読むためです。戦没者の墓標は、つぶれたピラミッドみたいな四角錐の頭をしているのですぐわかります。 墓碑には何年にどこで死んだか、 大体書いてある。 中には、 どの部隊に所属し、 どの戦地を転戦し、どの戦闘で死んだのか迄書いてあるものもある。私が小さかったころ、戦争をしていることは知つていても、 近所から戦争に行つた兵隊さんたちがどんなふうにい闘つているのか、 まるで知りませんでした。戦場は絵本や雑誌の中や、軍歌の中のものでした。 B29が飛んでくるようになって、身辺が不安になってきても、兵隊さんがどう戦つているのか、ぼんやりとしか考えていませんでした。今、 82歳になった私は、曲がりなりにも、 「戦中派」の端くれです。小学校1年生のときが終戦ですから、わずか7年間の「戦中」ですが一。わずか7年でも、いろいろ記憶はある。 こんな田舎にもアメリカ戦闘機の銃撃があり爆弾や焼夷弾も落ちました。 はるかに東京大空襲の焼ける空も見ました。 隣のお姉さんはその東京大空襲でなくなりました。 断片的ですが、鮮明です。そのわずかな記憶を、せめて大事にして、実際の戦争の歴史の中にはめ込んでみたい、という気に、最近なっています。いろいろ本を読んだり、ネットで調べたり、図書館や役所に行つてみたり、関心の赴くままに、私の記憶の背景を探ろうとしています。調べながら、ああ、そうだったのかと納得する発見もた< さんあるのです。 墓碑を読むのもその一環です。 墓石は立派な 「史料」 です。
墓石に村の、 また部落独特の苗字の人の名があると、 ハツとなります。私の同級生にも同じ苗字の子がいたのを考えると、 戦没者はあるいはその子の父親か、叔父さんか、少なくとも親類であるだろう。実際、同級生にはお父さんのいない子が何人もい墓標の人の戦死した場所を見てゆく と古くは日露戦争の、 あの旅順攻略の時の20 3高地激戦の戦死者が複数いました。 ノモンハン事件の戦死者がいました。 アッツ島で玉砕した人がいました。 ぺリリュ一島で玉砕した人やインパール作戦に参加した人もそれぞれ複数いました。二ユーギニア戦線はたのために、 「負けた<ない、 負けた<ない」 と、 のたうちまわっていたとしかいいようがない。
あのころ中学生くらいの年齢だった人たちに聞くと、 異口同音に 「俺たちの人生は二十歳まで」 と思いながら日を送つていた、 と言います。 そういう時代に生まれてしまった墓石の人たちはまことに「ついてない世代」 でした。 災害に襲われたような世代ですが、災害なら、まだ自分の意志で「てんでんこ」に逃げることもできる。だが、逃げることもできずに「消費」 されてしまった、 この墓石の人たちは、 「ついてない」中でも、 さらに「ついていなかった」。
故郷の道を歩き、墓石の人々に「面会」 しながら、戦後の「皇国民」となる寸前で「リセット」となった私たちのラッキーさを、つ<づ<と感じている私です。
敗戦の日から75年。それ以後一人も戦死していない。この歴史のみごとな転換は、奇跡のようです。 でも、 こっちのほうが「普通」 なんですね。 墓石の人たちの無念が昇華して憲法9条ができた。 この人たちに 「憲法9条」 を見せてやりたいです。 見せたらたぶん100パーセント喜ぶでしょう。

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事務局だより


〇コ ロナに翻弄された一年で した。 まだ収東の様子は見えません。 恒例の各支部の交流会は残念ですが中止ということにしました。 秋ごろにぜひ開催したいと思つています。
〇40周年記念行事は一年延期させてもらいました。第42回定期総会を7月4日(日)に開催する予定ですが、 この目に40周年記念式を行うように計画中です。 密にならないように大きな会場を考えています。 詳細が決まり次第お知らせします。
〇作品展の要項を同封しました。 皆さんふるって応募して下さい。 なお、 40周-年の回顧展のコーナーを展示会場の一角に設ける予定です。
〇自然歴史探訪の再開をしたいと思つています。出来るだけ早くと思つていましたが、 コロナの状況を考えると今年度中は無理のようです。秋にはスタートできるように準備しています。

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編集後記


*新型コロナの感染拡大が止まりません。管政権の配悪さも止まりません。
どちらも一日も早い退散を願うばかりです。*岸本氏の記事にある長寿を祝う会に私も参加しました。現在の高退教に望むこととして、荒木氏が「何
かもっとおもしろいことをせんといけん。 」 とおっしゃっていたのが心に残りました。 *安東さんの記事は、 「灘崎九条の会」 の憲法の学習会の講演の内容です。 高退教の会報に掲載する事を了承していただき、そのレジメを山本氏が入力して<ださいました。*武田昭一氏の記事は、三宅ちはる氏経由で受け取りました。*今回から編集担当の一人に加わりました。記事を提供して<ださった方々に御礼を申し上げます。高をく<つていましたが全<の勘違いで、大変な作業でした。 引き受けたことを少し後悔しています。 今後もご迷惑を-かけることになると思いますが、よろし<お願いします。 (岡田憲朗)

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