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退職後も輝いて!岡山県高校・障害児学校退職教職員の会

会報report

 

高退教会報バックナンバー

162 2020年10月(抄)

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◇あっという間の2時間 美作支部長寿を祝う会 美作支部 産賀 俊治
◇憲法とともに歩む人生(その1補遺)後編 岡山支部 小林 軍治
◇夫婦同姓制度と憲法 岡山支部 安東 誠 
◇「Black Lives Matter」を考えた憲法カフェ 備西支部 武田 芳紀
◇2019年秋、チベット・ネパールで思ったことを忘れないうちに(後編) 岡山支部 佐藤 静雄
◇衣の下の鎧が丸見えー菅新政権の1ヶ月 岡山支部  山本 和弘
◇年金者組合岡山県本部機関紙への高退教会員の執筆記事から(転載)
   私の記念日(被爆の日) 岡山支部 小川 澄雄
   私の花言葉(夾竹桃) 岡山支部 山本 和弘
   私の記念日(9月9日) 玉野支部 萱 栄次
◇編集後記 

あっという間の2時間 美作支部長寿を祝う会 美作支部 産賀 俊治



高退教美作支部では10月7日、津山鶴山ホテルで、今年85歳を迎えられた赤座匡さんと杉山義さんの長寿を祝う会を開きました。
草地浩典支部長が岡山高退教からのお祝いを手渡し、6名の会員がお二人を囲んで懇談しました。昔話に花が咲き、また昨今の社会情勢から健康に関する話題など多岐にわたり、あっという間の2時間でした。お互いの健康を期して散会しました。

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憲法とともに歩む人生(その1補遺)後編 岡山支部 小林軍治

  

安保廃棄6.23真庭統一集会に高校生が参加

 1970年6月23日午後6時より旧勝山中学グラウンドで「安保廃棄6.23真庭統一集会」を約1000人の参加で開催した。この集会は日本国憲法の精神に立ち返り、「日米安保条約第十条=安保条約の期限=(資料二)」に基づいて、速やかに条約廃棄を日本政府に要求することを目的としていた。真庭郡内の労働組合(県教組・高教組・自治労・中鉄労組など)と部落解放運動団体などの民主団体が実行委員会を結成し、ポスター500枚、ビラ1万枚を配布し、世論を盛り上げた。 
 勝山高校分会も、日米安保条約廃棄申告要求署名に取り組むなど、集会成功のために頑張っていた。真庭郡内の高校生は、高校生部落研、部落解放運動団体の青年部、民主青年同盟に所属した生徒を中心に、集会参加を呼びかけて活動していた。
 高校生の集会参加を巡って、勝山高校の職員会議で議論した。当時、大学紛争の影響を受けた一部高校生が「教師は敵」論や「学校解体」などを唱え、過激な行動をしていた。文部省は、こうした動きを利用して、1969年10月に「高校生の政治活動禁止の見解」を打ち出し、県教委もこれに従い高校生の政治活動を押さえようとしていた。
 一方で岡山高教組は、文化対策委員会で討議資料を、70年1月の執行委員会で「高校生の自主活動・政治活動に関する方針」を作成し、3月の評議員会で承認された。その内容は、「高校における政治活動を積極的に推進し、民主的自主活動、政治活動を保証する。」同時に、「暴力的、反民主主義的な一部の高校生の思想・行動は教育的にこれを排除する。」などである。
 勝山高校の職員会議でも、県教委と組合のそれぞれの立場から様々な意見が出された。結論として、集会に参加する先生方が「参加生徒を引率指導する」こととなり、参加そのものは認めた。
 この集会には勝山高校の生徒を中心に、真庭郡内から約150人の生徒が参加し、勝山町の商店街を通るデモ行進にも加わった。高校生のデモは町民に衝撃を与えた。高校生の参加を可能にしたのは、生徒たちの政治的な認識の高まりと、実行委員会の「安保廃棄、平和な日本を」との圧倒的な宣伝が大きな役割を果たした。
 最後に、コロナの感染拡大で自粛を強いられ、昔の手紙や写真を整理していたら、勝山高校時代のものが目にとまった。体育祭で女子生徒とフォークダンスをしている写真である。この写真を見ながら舟木一夫の「高校三年生」の歌詞を口ずさんた。「赤い夕日が校舎を染めて」「僕らフォークダンスの手を取れば 甘く匂うよ 黒髪が」 
勝山高校の8年間(1965年4月から1973年3月)は いろんな意味で、私の青春時代であった。
 次号から備南高校時代(1973年4月から)に入る。
( 資料1)第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
( 資料2)第十条=安保条約の期限
第十条 この条約は日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認めるときまで効力を有する。
 もっとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約はそのような通告が行われた後一年で終了する。

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夫婦同姓制度と憲法 岡山支部 安東 誠


「灘崎九条の会」が、毎月9日に実施している「九の日行動」の一環として、8月9日は、猛暑を避けて室内で憲法学習会が開かれました。ギター伴奏による「あの日の授業」の歌声で始まったこの日の学習会のメインは、地元在住の高退教会員、安東誠さんによる講演。「夫婦同姓制度と憲法」と題し、ジェンダーの問題にも迫ったこの講演の内容を、レジュメをもとにご紹介します(編集係)。

はじめに

夫婦同姓制度については、昨年11月の広島地裁合憲判決以来、一段と関心が高まったように思います。ここではこの制度について詳しく話す時間はありませんので、違憲訴訟を通じて憲法14条と24条(個人の尊厳とジェンダー平等と深い関連性)が、ますます重要視されるようになったあたりのお話をしたいと思います。

1.みんなちがってみんないい


日本の童謡詩全盛時代と言われる大正末期、当時の代表的詩人・西条八十は金子みすゞ(1903・明治36年~1930・昭和5年)を「若き童謡詩人の巨星」とまで称揚しました。しかし、500編以上の詩は戦後になるまで埋もれたままでした。
金子みすゞは明治の末期に生まれ、大正デモクラシーの時代を生き、昭和の初めに26歳で自死しました。彼女の数多くの作品は、戦後になって息づき、広く知られるようになりました。そして個人の尊厳を守ることがとりわけ重要な国民的課題になっている今、改めて注目されています。彼女が若くて自死した1930年の前年のことですが、天下の悪法治安維持法の死刑法への改悪に「孤塁」を守って戦った山本宣治(山宣)が権力の手先によって刺殺されました。また小林多喜二の『蟹工船』は、発売禁止になりました。(多喜二は、1933年築地署で虐殺)
世はまさに戦争に向かい。「みんな強くておなじがいい」という時代に、「みんなちがってみんないい」そして「星とたんぽぽ」で、目には見えない心や命などの大切さを歌いました。豊かで鋭い感性が生んだ数々の作品は、人間らしさを抹殺する暗黒の時代の到来を告げる警告であったと思われてなりません。

2.夫婦同姓制度と個人の尊厳


(1)違憲訴訟―――14条と24条違反の訴え


広島市の医師O氏は、法律婚と事実婚との間に「格差」が存在するのは「法の下の平等」を保障する憲法14条違反であり、夫婦どちらかが姓を変えない限り法律上の結婚ができない制度は、個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた憲法24条に違反するとして広島地裁に提訴しました。広島地裁は、姓名に関する法定は十四条の理念まで損なうとは認めがたい。また旧姓利用の理解が大きく広がりを見せており、法律婚で姓を変えても、次第に旧姓が使える社会になっていくので、24条違反に当たらない、として違憲の訴えを退けました。(2019年)
東京地裁などでも、同種の訴訟は、憲法違反ではないとして敗訴になっています。最高裁ではどうでしょうか。「家族の姓を同一に定めることには合理性がある」「旧姓使用の広まりで、不利益はある程度緩和された」などという多数意見で違憲は認めず、「制度のあり方は国会で論じ、判断するもの」と述べて立法の立場で解決するよう求めました。ここで留意したいことは、15人の裁判官のうち5人が違憲を主張していて、3人の女性裁判官の全員が憲法違反の判断を明確に述べているのに対して、多数意見の裁判官は、全員が男性であることです。(2015年)

(2)夫婦同姓制度は家制度の残滓


夫婦同姓制度の歴史は明治時代に始まります。1898年(M 31)施行の旧氏法に、「家制度」が定められました。家父長制家族制度といわれ、家長(戸長・戸主=男性)を世襲的財産継承者とし、妻子や血縁者など家族の構成員を統率・命令・支配する仕組みで、天皇制国家の基礎的単位とする制度でした。この法制の中で、「法的無能力者」にされてしまった妻は、夫の家に入りその姓を名乗ることを定められたのが、夫婦同姓制度の始まりです。新憲法に基づき、「家制度」は廃止されましたが、民法750条は、夫婦どちらかの姓を名乗ることを決定しました。これは事実上妻は夫の家の姓を選ばざるを得ない制度であるわけで、「家制度」の残滓です。

3.ジェンダー平等の視点の重要性


最高裁審査における5人の裁判官の違憲判断の主要な部分をもとに、夫婦同姓制度をめぐる問題状況と課題について考えてみたいと思います。
違憲判断の核になるところは、法律婚のために同姓を強制し、自己喪失感などの負担を女性に背負わせることは、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する制度とは言えず憲法に反するという主張です。
まずこの判断の中で自己喪失感を人権の問題として指摘している点に注目したいと思います。大震災や大水害、現在の新型コロナの被災者をはじめ、一般民衆の中でもそれぞれの事情で自己喪失感に苦しめられている人々は数知れないのではないでしょうか。
夫婦同姓制度による自己喪失感が女性だけに背負わされていることは女性差別です。自己喪失感だけでなく、姓が変わることによる様々な不利益も女性に押しつけているのが現実です。
新民法750条は、結婚のためには女性は夫の姓を名乗ることを定めてはいません。結婚後は同性であることの法定です。しかし法律婚後の女性の96%は、夫の姓を名乗っています。なぜ96%の女性が夫の姓を選ばざるを得ないのか。このことが問題になります。
この点に関わる識者の見解のいくつかを紹介します。「天皇主権の大日本帝国憲法が改正され、個人の尊厳を核とする新憲法が生まれた。しかし憲法の文言が変わっても、それと一緒に人々の意識や慣習が変わるわけではない」「『家制度』によって作られた意識や無意識が残り続けている」「結婚すると女性は家に入り、家事と育児をするのが当然だとする『性的分業観』が支えになっている」などなどです。
実質・夫婦同姓を強制する制度は、他国には見られないと言われています。天皇主権のもとで、旧民法が「家制度」を定め国家の基礎的な組織としたことによる長年の国民の意識形成、慣習づくりの影響が根強く残り続けていることが背景にあることの指摘です。
改憲勢力の主張はどうでしょうか。
最も一般的な主張は、「別姓になると日本の伝統的な美風が失われ、家族の一体感が損なわれる」というものです。自民党議員の中には「家庭崩壊の原因は憲法24条にある」などと暴言を吐くものまでいます。自民党の憲法草案では24条を排除し個人の尊厳を抹殺しようとしています。その上で、「家族は互いに助け合わなければならない」などの徳目を入れようとしています。権力が家族のあり方に介入するものです。
夫婦同姓の強制に反対する世論の高まりの中で、1996年「法制審議会」は夫婦が別の姓を名乗る権利を認める民法改正案を答申しましたが、未だに無視されています。1999年の参議院選挙の前の党首討論で、選択的夫婦別姓制度を認めるかという問いに、7党首のうち安倍首相だけが挙手しなかったことは記憶に新しいことです。さらに、「女性差別撤廃条約」(1979)の「男は仕事、女は家庭」という性的役割分担の発想転換を求めた『選択議定書』に、日本政府は批准していません。以上のような改憲勢力の動向を見ると、「個人の尊厳」を明記した憲法24条の価値の深い理解とその認識を大きく広げていくことが喫緊の課題の一つではないでしょうか。
憲法24条の理念に深く結びついているジェンダー平等の視点なくして、懸案の『夫婦同姓制度』の改革はすすまないと考えます。先に最高裁の合憲判決(10対5)で3人の女性裁判官の全員が違憲判断であった点に注目したいと述べました。そのこととの関わりで性暴力に抗議する「フラワーデモ」の中で提起された問題を取り上げます。性暴力の訴えを退けられた女性のリアルな心情を聞き、強く共感を呼んだのが「裁判官の常識を問う」訴えでした。長年、被害者支援に取り組んできた角田由起子弁護士の指摘は注目されます。「条文を変えても運用する人の頭の中が同じであれば判断は変わりません。司法の世界は圧倒的な男社会です。この国の法律に関する常識や経験則は、ほとんど男性の生活だけをもとに成り立っています」などと述べた上で「教育にジェンダーの視点を採り入れることが必要です」と指摘しています。この指摘は、司法界だけでなく、立法・行政・学界・労働などの世界も例外ではあり得ません。そして、先述の識者の見解。「家制度」によって作られた意識や無意識、悪しき慣習、「性別役割分業観」などなどは、広く一般大衆に降り注ぐジェンダーに他ならないのではないでしょうか。ジェンダー平等の追求は、夫婦同姓制度の改革はもとよりのこと、24条の理念を生かす道であり、24条の破壊を許さないたたかいであると思います。
ジェンダー平等の声が次第にたかまっていく状況のなかで、感銘を受けた金子みすゞの作品と生き方は、ジェンダー平等の理念と通底するところがあると思ったのであえて話題にさせていただきました。“みんな違ってみんないい”“つよいその根はめにみえぬ/みえぬけれどもあるんだよ/みえぬものでもあるんだよ”という歌の奥底にある尊い心・命は、“すべて強くておなじがいい”の軍国思想の風潮に封殺されて暗黒の時代につきすすんでいった歴史の教訓を忘れたくない思いを伝えたかった次第です。

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「Black Lives Matter」を考えた憲法カフェ 備西支部 武田 芳紀

10月10日(土)、倉敷医療生協組合員交流会館「なぎさ会館」にて「憲法カフェ」を行いました。(今期5回目)
この日はテーマとして、「ジェンダー」の問題を取り上げることにしていたのですが、それに先立って、私のとっている雑誌『楽しい授業』に掲載されていたある記事の紹介をさせてもらいました。それは、「翻訳は細部に宿る」(村上道子)というタイトルで、サブタイトルに〈「Black Lives Matter」の日本語訳をめぐって〉とあります。
これはご承知のように先般アメリカで、黒人男性のジョージフロイドさんが白人警官に殺された事件を契機に発展した黒人差別を糾弾する運動のスローガンもしくは運動を指す名称として使われています。この言葉は先ごろ「全米オープン」で優勝した大坂なおみさんのつけていた黒いマスクにも刻まれていました。ただその言葉の意味を、私もやや理解しかねていました。実は筆者の村上さんも同じような感じで、最初にテレビのニュースでデモ行進する人たちのプラカードに書かれたこの言葉を見たとき、初めて見る言葉でどういう意味だろうと思っていたところ、テレビの字幕に「黒人の命も大切」と流れたのを見て疑問に思ったと言うのです。
「黒人の命も」と言う表現は、黒人の命を二次的に扱っているように思えて差別的な感じがして、でもそれをデモ行進する人たちが唱えるのはおかしいと感じたのだそうです。そこから村上さんはこの言葉の日本語訳について、他のニュースや記事などで探してみたところ「黒人の命は大切」「黒人の命こそ大切」「黒人の命を軽く見るな」などの訳語も出てきたそうです。
そしてその背後には、「All lives Matter」と言う表現があり、それは「すべての人の命は大切」と言う意味で、「Black Lives Matter」に対抗する意味で使われることがあるのだそうです。つまりそれはすべての人の命が大切」と言う、ある意味、誰にも受け入れやすい表現をすることによって、まさに黒人が今なお過酷な差別の中に置かれていることをあいまいにしてしまう、そういう役割があり、村上さんの最初に見た「黒人の命も大切」という表現(訳語)は、それに連なっているようなのです。
実際NHKの番組で、「拡大する抗議デモ」と言うニュースでは「暴徒化する」運動と言うイメージを膨らませる映像が流され、逆に、それがSNSで取り上げられて問題化し、NHKが謝罪をするという一幕もあったようです。その後NHKは「Black Lives Matterが意味するもの」と題する特集を組んで、研究者にその言葉の意味するものや日本語の訳語等について取材して放映したとのことです。
憲法カフェではこの文章を読みながら、今なおアメリカの黒人たちの置かれている状況のこと、また、過去に黒人差別に抵抗して広がった運動、オリンピックでの黒人選手の抗議などについて、さらに翻訳の問題についてなど意見が色々と出され、結局予定の時間をほぼこの問題で使い切って終了することになりました。
ジェンダーについては今回触れられなかったのは残念ですが、しかし、参加者は今回の討論で、「B L M」※と称されるこの運動の中身、またニュースの報道のあり方、翻訳の問題などいろいろな視点での発見に満足しておられたようです。
 ※BLMは、Black Lives Matterの略称。この名称は2013年に、前年のアフリカ系アメリカ人の青年が射殺された事件に抗議するため、ソーシャルメディアのハッシュタグとして運動を牽引したとのこと。さらに、今回の事件を機に、運動は全米からさらに全世界的にも広まった。なお、大坂選手のつけていたマスクには犠牲者の名前が刻まれていました(Wikipediaなどを参照)
 (なお、上の記事の載った『楽しい授業』10月号は書店でも注文できます。発行は仮説社で定価は935円です)

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2019年秋、チベット・ネパールで思ったことを忘れないうちに(後編) 
岡山支部 佐藤静雄



凍土地帯では、地面に直接線路を敷設するのではなく、その上に土手を築くか橋梁、高架で造るかである。窓外の道路工事も同様である。凍土ゆえ、温度により不安定になるのを防ぐために熱棒という温度調節用のポールを打ち込む。大気の冷気を地中に入れ地中の熱を放出する仕組みらしい。世界で見た事もない仕組みである。私は、このポールを見て福島第一原発の汚染水防止のための凍土層工事を思った。福島では、凍らなかったらしいが。16時45分拉薩駅に着く。駅の外で駅舎を含め撮影禁止であった。駅前には、警察公安らしき三種類の人が見える。機動隊の様な人も。カメラを出す事も怖い。拉薩は、チベット語で神の地を意味ヤルンツァンポ河の支流であるキチュ河の北岸にある標高3650万人のチベット自治区の首府である。ホテルは、旧市街の中程にあった。多くの商店が連なる北京東路にある。夜も人通りが多い。路には、建国を祝うためか赤い旗でいっぱいである。食事の後、大きなマーケットがあると聞き、ガイドさんともども出かけた。私は、すっかりイスラム圏に多くあるバザールとイメージしていたが、立派なビルでデパートとスーパーマーケットの複合であるモール街のようであった。動く歩道状のエスカレーター、ガラスで外が見えるエレベーターという近代的設備がある。無論スマートホン決済である。綺麗な店内に多くの商品が並ぶ。
ところが、商品を見ている間にガイドさんとはぐれてしまった。ホテルまで1キロかもう少しあるのか記憶をたどりながらテレビ塔の方向を頼りにひとり歩いた。持っているものは、ホテルのカードキーのみ。カードにホテル名が書いてあったので、個人商店の人に聞きながらたどり着いた。なんとか帰りついたのであるが、キー持っていなかったら大変であった。なにせホテルの名前すら覚えていなかったのだから。
 チベットに入るには入境許可証が必要になる。規定には、事前に全旅程を旅行会社相談して決めガイド同伴の上、手配した車で移動する事になっている。管理された旅になる。今、私の手元には鴨井信政というかつての同僚の親族が記した「チベット・エベレスト・ネパール」という本がある。彼は、私より一歳上で京大山岳会らしい。1983年から877年にかけチベットなどの旅をしている。チベットは、多くはバス、ヒッチハイクで移動している。同じルートも歩いている。そしてヒマラヤをザンムーから越えている。今は、チベット地震以後不通である。この本の記述は素敵である。しかし、彼の旅の時間の多くは私にとって仕事で一杯の時、著者の鴨井氏は帰国して日本社会とどう折り合いを付けたのだろうか。このような旅と現実の社会の乖離はあまりにも多い。
拉薩では、ポカラ宮に行く。事前に予約券が必要、無論パスポートも。この巨大な宮殿は、まるで迷路のよう。ダライ・ラマ14世が幼少期過ごし60年前に脱出し以後帰る事が出来ない。
拉薩市街が見渡せる窓から、どんな思いで見ていたのかと想像する。ジョカン(大昭寺)も行く。ゲルク派の大寺院でチベットの人達が五体投地で目指す寺である。拉薩に二泊し、いよいよチベット縦断に旅が始まる。高原の中に舗装道路が走る。今回のヒマラヤを越えるキーロンの近くまで荒寥とした大地である。5000m越える峠もいくつもある。山々についての感慨はここでは詳細は書かない。そもそも、なんでチベットに行こうとしたのかは、南ネパール側からのヒマラヤは、2018年に単独でアンナプルナ北のマルシャンデ・コーラ遡行(シェルパ・ポーターとともにであるが)含め何度か経験済であるが、北のチベット側からヒマラヤを見たいと思ったからである。拉薩で地図を求めようとしたが、日本で手に入る地図ぐらいしか買えなかった。ネパールでは、山域を含め多くの地図が手に入る事と全く違う。荒寥とした凍てついた大地から氷の山々がそびえるのは、ネパールチベットと全く違う。5045mの峠を越えギャンチェに行く。ここでは、パルコン・チョーデ(白居寺)に行く。この寺は、チベット仏教の各派が共存する学問の中心地である。日本の長野の善光寺も大きいが、この寺を含めチベットの寺の大きさはその比ではない。チベット仏教の大きさを実感する。巨大な仏塔であるパンコン・チョルの螺旋状の階段を上る背後の山に城塞が見える。実は、このギャンチェは寺を中心とした城塞都市であった。ひと際高い丘の上にギャンチェ・ゾンという城が見える。しかし、1907年ヤングハズバンド率いるイギリス軍と三か月にも及ぶ戦闘の場所になったが、イギリスの最新兵器のもと敗れた。
 翌日は、拉薩から230㎞にある標高3920mのシガツェを経由して、さらにシェーカルの町を目指す。シガツェは、冷たい雨でさらに高度を上げるのは心配である。この都市は、人口86万で大きな都市でありゲルク派の大寺院であるタシルンポ寺に行く。壮大な寺院で最盛期には5000人の僧侶を擁し、今でも800人の僧侶がいるという。
 この寺のパンチェン・ラマ10世が中国政府に協力的であったがため、チベット動乱、文革でも破壊が免れたという。しかし、文革ではかなり被害が出ている。その10世は1989年に急逝している。1989年とは、天安門事件の年で私も6月中国にいた。今は、中国政府公認の11世と亡命政府ダライ・ラマが認めた11世両立状態にある。この壮大な寺を後にし、5248mのギャツォー・ラなどを越える。10㎝ぐらいの積雪
で凍てついていた。 
  シガツェのタルシンボ寺のパンチェン・ラマ5-9世の霊塔殿

翌日、まだ明けきらない時間に5100mのギャウ・ラに着き明るくなるのを待った。ガチガチの峠、寒さがこたえる。日が差すとともに光輝くヒマラヤ大パノラマに息をのんだ。人生最大の光景である。マカルー(8481m)・ローツェ(8516m)・チョモランマ(8848m)ギャチュンカン(7952m)・チョウユウ(8188m)などなど。峠を下ってチョモランマBCを目指す。途中から、水素バスに乗り換える。観光客がいないので何台ものバスが並んでいた。日本では、水素自動車普及が遅れている状態と比較し驚く。ロンボク寺前の招待所で昼食しストーブにあたる。しばし、巨峰の壁を前にしてハイキング。チョモランマ北壁、北稜、クーロワールに圧倒される。ロンボク寺から新しくできた路でオールドティンリーを目指す。ヒマラヤの高峰が連なる。ホテルからも連嶺見える。4390mの地点寒い。マイナス10度くらいに感じた。夜は、さらに冷えてなかなか寝付けなかった。
 朝、チョモランマなど望む展望台に行き、さらに走る。トン・ラからシシャパンマ(8126m)を望むがピーク残念ながら雲の中。ラ(峠)は雪ガチガチに凍っていた。さらに西に走る。シシャパンマはじめ多くの7000m、6000m峰のピークが連なっている。コンダ・ラ5236mに向けて登る。なんと峠の下にトンネル工事最中であった。峠越えは大変であるが、それにしてもトンネルを掘るとは中国の凄さをまた見た。峠からマナスルも見えると言うが、残念ながら雲の彼方。峠から高度を下げるに伴い緑が増え木々もある。キーロンに着く。2800m、酸素が濃く感じられる。ランタンリルン(7227m).キムシュン(6781m)を壁にした谷沿いの町であるが結構大きな街である。1961年ネパールと道路の中継の町として出来た町であるが2015年ネパール大地震のため他の道路が壊滅状態になり重要性が増した。国際市場もあるが、谷間で日が差すのが少ないためかかなり寒い。 翌日、いよいよヒマラヤ越えとなる。しかし、陸路での国境超えは想像を超えるものがあった。早朝から何回かのチェックポイントを越え出国審査を受けるべく外で並んだ。順番待ちがあろうと早くから行く。ところが、10時から始まるとの事寒い。これは、時差が2時間15分ネパールとあるのでネパールに合わせての事とのこと。すべてが、北京時間ゆえ。検問所は立派なビルである。審査受けるべく列に並んだ前の欧米人の審査が長い。彼らが持っていた本が問題視され動かない。その本は、英語のなんでもないガイドブックのように見えた。若い役人は、パソコンで本を調べ連絡もしている。結局その本は没収されたようであある。私の前にいた日本人もガイドブックである(地球の歩き方・ダイヤモンド社刊)が問題視され、なんでもない地図が破り取られた。私も同じ本を持っていたが大丈夫であった。ちょうど、北海道大学教授が拘束されていた時ゆえ緊張の時である。中国は、入る事はたやすく出るには大変と思った。やっとの思いでビルを出て橋の中央の国境線を越えた時はほっとした。越えてから今度は何回かのネパール審査を受ける。ネパール側は、いわば小屋のような所で軍人のような者が持ち物を開けて目視で確認する。この差何だろうと思う。しかし、ネパールに入ってから心も身体も軽くなった気がした。大気の湿気もあるのだろうが。カトマンズからランドクルーザーで9時間かけて迎えに来てくれた。シャベルベンシから先は、経験済の道であるが全くの未舗装で時々山崩れがある。横揺れ、縦揺れで頭打ちつつの移動は何度かの経験済でまた楽しいが、慣れていない人にとっては吐き気の出る道である。途中で食べたダルバートは大変美味しかった。身体も安心しているようだ。結局14時間かけ、カトマンズに着いた。600m下りまた1300mのカトマンズまでの道路。ネパール側の山々は、チベット側と違い澄んで見えないが木々の緑は気持ち良い。日暮れの田圃、家族みんなで稲刈りしているのを見かける。日本のかっての田舎のようで癒される。あの凍てついた大地とコンクリートの建物に疲れていたのかもしれない。ネパールには日本が忘れてしまった物がある。
 カトマンズでは、一年ぶりに親しいネマール人親子と再会し楽しい時間過ごした。古都バクタブルにも行った。この街は、ちょうど西日本豪雨と同じ頃水害に見舞われた。また地震で壊れた建物もあった。この街歩いていたところ、若い小柄の日本女性に出会った。とても観光客に見えない。話をすると大学生でボランティアに来ているという。若い女性の活動に驚く。男にはない行動力である。街から白銀に輝くランタンリルンが見える。泊するためにナガルコットのホテルに行く。この有名な観光地に行くのにも無舗装道路である。改めてチベットの高速道路を思った。ナガルコットからは、夕日に輝くランタンリルン、ゴサイタン(シシャパンマ)のピークが望まれた。微かなマナスルも。
そして、カトマンズから香港、台北、成田経由で帰途に着いた。  



  コロナ禍の中で・・・2020・3・19
附①記載の本の(チベット・エベレスト・ネパール)は、鴨井信政著、シビナ国際文化研究・交流会1969年刊。
  ②(消されゆくチベット)2013年に集英社新書・渡辺一枝著を読んだ時にチベットの苦しみがよく分かった。彼女は、単独で馬でのチベットの旅の本(チベットを馬で行く・1996年刊)を出した。この本も私がチベットに行きたい気持ちにさせてくれたが。彼女は、近刊でもチベットの思いの本も出している。
  ③映画(セブンイヤーズ・イン・チベット)というアメリカ映画を1997年に観た。1939年、ナチ支配下にあったオーストリアの登山隊が未踏のナンガパルバット登頂を目指した時の映画であった。ハイリンヒ・ハラーというアイガー初登頂者の体験を描いた。彼は、インドでイギリス軍の捕虜になったが、脱出しチベット、拉薩で7年過ごしダライ・ラマ14世の若き時を共に過ごした。しかし、中国解放軍のチベット侵攻のために帰国した。再度見て感動した。チベットの美しさと残虐な解放軍の映像は凄かった。主役のブラッド・ピットは長く中国に入国が出来なかった。

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衣の下の鎧が丸見え-菅新政権の1ヶ月  岡山支部 山本 和弘


病気再発を理由に、突如政権を投げ出した安倍晋三氏の「後継」「継承」を標榜して、菅新内閣が誕生しました。「たたきあげの苦労人」「気さくな人柄の令和オジサン」「パンケーキ好きのお茶目な一面」という電通仕込み(?)のイメージ演出が効を奏してか、もはや「死に体」だった安倍政権末期の支持率低落の状況が、一気に回復を見せたかに思えましたが、どうやら、化けの皮が剥がれるのも早かったようです。
この政権移行は、モリ・カケ・サクラなど、自身(夫婦)に関わるあいつぐ疑惑の発覚や、拙劣極まるコロナ対策(無策)をはじめとする失政・悪政にたいする国民的批判の高まりが、もはやかわしきれない段階に至っていたもとで、政治の根本的転換を回避して安倍政治の継承・存続をはかろうとする日米支配層のサシガネによることはミエミエです。菅氏こそは、そもそも安倍悪政の「共同正犯」であり、安倍氏ほど「脇の甘さ」がない分、余計危険、とも言われます。
現に、就任早々、(将来の)消費税増税に言及し、国民の苦難には、まず「自助」で対処せよ、それで困ったら「共助」でやれ、いよいよ最後の「セーフティネット」の役割をのみ「公助」が担う、との姿勢を強調し、福祉・国民生活の一層の切り下げ方針をあらわにしています。
重大なのは、「学者の国会」とも呼ばれる学術会議の人事に、泥手を突っ込んできた一件にあらわとなった強権体質。まさに、衣の下の鎧が丸見えとなることで、国民の幻滅が広がり、それは急速な支持率低下に表れています。菅氏は、安倍政権時代常態化してきた官邸による強権政治の中心を担ってきた張本人で、人事権をタテに官僚を牛耳り、あるいは、マスコミに介入し、意に染まない分子は排除するのが、彼の磨き抜いてきた手法でした。今回の学術会議人事への介入は、その延長といえるでしょう。
菅首相は、例のごとく、「批判は当たらない」「学問の自由とは全く関係ない」と、スガ語法を駆使して、根拠も示さずオウム返ししていますが、この問題が学問の自由、ひいては思想信条の自由に直結することは明瞭です。なぜなら、何ら理由も示さず、学術会議からの推薦を受容したり拒絶することは、「研究内容の何が許容され何が排除されるのか?」「政権の意に染まぬ人物は排除されるらしい」etc.という疑心暗鬼を増幅させ、自主規制に次ぐ自主規制、忖度に次ぐ忖度を、学問研究の世界に蔓延させずにはいないからです。
学問研究の自由を揺るがすこの事態は、教育にとっても重大問題です。学問の自由・研究の自由が侵される状況下では、教育の自由もなりたたないからです。教育に携わる者すべてが、我がこととして、機敏に声を上げるべき時ではないでしょうか。
時機を失せず、この問題を大きく取り上げた、全退教(全日本退職教職員連絡協議会)の「事務局だより」(10/6付)の記事を、一部紹介します。
首相の言論と学問の自由を壊す憲法違反の学術会議人事介入を撤回させる!! ~菅政権の独断、一線を越えたファシズムを許さないとりくみを~
◆菅の学術会議人事への介入に強く抗議する市民の首相官邸前行動
1)菅政権は安倍政治の憲法と立憲主義破壊と国政私物化等の悪い部分を引き継ぎ、ファッショ的運営をすすめています。菅政権の一刻も早く退陣させるとりくみを全国各地ですすめましょう!!
2)菅首相への日本学術会議会員任命拒否の撤回を求めるネット署名が行われています。次をクリックし、ネット署名を行い、広げましょう。(現在10万を超える) http://chng.it/tzrP6DqfVd
引用者注 10月13日付の上記サイトの記事によると、このキャンペーンは終了。143,685人の賛同者が集まり、13日、予定通り内閣府に趣意書と署名簿を提出したそうです。さらに追及を強めましょう。

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「年金者組合岡山県本部」機関紙への高退教会員の執筆記事から(転載)


年金者組合岡山県本部発行の機関紙「年金者しんぶん」の最近号に、高退教会員による執筆記事があいついで掲載されていますので、転載させていただきます。小川澄雄さんの「私の記念日」と、山本和弘さんの「私の花言葉」は、いずれも8月15日号に、萱栄次さんの「私の記念日」は、9月15日号に掲載されたものです。

私の記念日(被爆の日) 岡山支部 小川 澄雄


一般には、8月6日が広島原爆の日です。でも私にとっての被爆の日は違います。
鉄道兵だった父親は、空襲でズタズタにされた線路の修繕をしながら広島に向かったため、予定より遅れて8月9日に広島入りしました。焼け野が原になった広島を見て呆然としたようですが、ただちに救護活動に従事し、残留放射能を浴びたのでした。被爆の証人2人を探せなかった父親は、被爆手帳を手にできないまま亡くなりました。
被爆二世の私にとっては、父が広島入りをした8月9日こそがその日なのです。

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私の花言葉(夾竹桃)  岡山支部 山本 和弘

「♪夏に咲く花夾竹桃」という歌詞(藤本洋作詞・大西進作詞「夾竹桃のうた」)のとおり、原爆記念日の頃、炎天下の広島の街を彩るのがこの花です。
ところで、8月5日は俳人中村草田男の命日。「草田男忌」と呼ばれます。「夾竹桃戦車は青き油こぼす」80年前の彼の句の不気味なリアリティが、アベ政治のもとで再び蘇ることのないよう祈ります。
同い年で、共に「東大俳句会」出身の山口誓子にも、次の句があります。「夾竹桃荒れて台風圏なりけり」強い風と雨に、夾竹桃の茂みがゆさゆさと揺れるさまが目に浮かびます。

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私の記念日(9月9日)  備南支部 萱 栄次


九月九日九時九分、玉野支部では,毎年、玉野と灘崎町の11寺院で,九つの願いをこめて九回鐘を打っています。(参加者が百名を超える年も)
九つの願いとは①ヒロシマ原爆、②長崎原爆、③すべての戦争での犠牲者慰霊、④震災や豪雨災害犠牲者慰霊と早期復興、今年はコロナ収束を追加、⑤⑥⑦⑧人生の苦からの脱却を願い,四苦にちなんで四回、⑨平和な世の中をめざして、合計九回は、「憲法九条を世界へ」の発信です。
現在では,玉野市と教育委員会、山陽新聞社の後援も受け,13回目を迎えたとりくみとなっています。

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編集後記

◆コロナ下、依然として本格的な集会や行事が持てません。トップ記事は、その中で開かれた、美作支部長寿を祝う会です◆小林軍司さんの連載「憲法とともに歩む人生」は、激動の70年代・勝山高校時代が終わり、次回は備南高校時代にすすみます◆安東誠さん「夫婦同姓制度と憲法」は、編集子も参加した地元の憲法学習会での講演内容です。大いに目が開かれた思いがしましたので、ご紹介します◆武田芳紀さんの『Black Lives Matter』を考えた憲法カフェ」は、5回目を数える玉島九条の会「憲法カフェ」のレポート。「黒人の命も大切」という日本語訳への違和――考えさせられます◆佐藤静雄さん「2019年秋、チベット・ネパールで思ったことを忘れないうちに」は今回で完結です。美しく厳しい自然と、苛酷な政治状況に翻弄されながらも、悠々と営まれる生活。心惹かれます◆拙稿「衣の下の鎧が丸見え---」学術会議人事への介入問題は、看過できないホットな話題ながら、しかるべき原稿依頼が間に合わず、責任を取って(汗)編集係が執筆するはめになりました(涙)◆年金者組合は、縁浅からぬ友誼団体ですが、その「年金者しんぶん」に、わが高退教会員の方々のお名前を発見し、励まされることが、しばしばあります。掲載記事はその一端(山本)。♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

岡山県高校・障害児学校 退職教職員の会

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