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目 次
ごあいさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 会長 小川澄雄
連載特集 戦後81年 未来へのことづてⅣ
被爆二世として戦争を考える・・・・・・・・ 岡山支部 小川澄雄
特集 煽られる「台湾有事」---高市発言の「危うさ」
「台湾有事は日本の存立危機事態」発言は何が問題か? 備南支部 犬飼 繁
「台湾有事=存立危機事態」の不可思議・・・・ 備西支部 菅木一成
『序の舞』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 美作支部 森藤康郎
私の俳句生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旭東支部 岡田憲朗
生涯を貫いた枡水原の夕陽・・・・・・・・・・ ・・・・・・・ 竹内良雄
出会いとスケッチの旅
ルーマニア編(1)・・・・・・・・・・・・・・・・ 備西支部 水間正雄
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
藤原斌氏の後を受け、高退教第47回総会で会長に選出された小川澄雄です。
2009年春、高垣事務局長(当時)からの声掛けを受け、定年退職すると同時に高退教に入会し、事務局入りしました。その最初の会議で配られた書類に“一人ぼっちの退職教職員にならない”“一人ぼっちの退職教職員を作らない”というスローガンが書いてあるのを見て、「ずいぶん変わった、妙なことをいう組織だな」との印象を持ったのを思い出します。しかし、80歳を目の前にした今、このスローガンがスッと胸に落ちてきます。退職して何年たってもなお、学校のこと・教育のこと・教え子のこと、国や県の教育政策などが気になって仕方がないのです。学校や教育、憲法・平和のことを共に話せる仲間が身近にいないと、どうにも落ち着かない、落ち着けないのです。
高市内閣が成立して一年が経とうとしています。初の女性総理の誕生に、期待を寄せた人もあったでしょうが、その期待をことごとく裏切ってきた一年だったように思います。
物価高騰にあえぐ庶民の生活には目もくれず、アメリカの求めるままに大軍拡、殺傷武器輸出の解禁。訪米の際、ベネズエラに軍事攻撃を加えその大統領夫妻を拉致したトランプ米大統領に向かい、その胸にしなだれかかった上、こともあろうに「世界に平和をもたらすことができるのはドナルドだけだ」とオベンチャラ。女性・女系天皇を否定する皇室典範改定、ICC赤根所長へ制裁を加えたトランプ政権の政治姿勢に対して、「残念」と言うだけで、抗議することも撤回を求めることもできない有様。あきれ果ててしまいます。
岡山の退職教職員が、生きがいをもって暮らすと同時に、教育や暮らしを取りまく様々の問題を独りで抱えるのでなく、共に話し語り合い、場合によっては、ともに行動していける場としての高退教を、みなさんと共に維持発展させていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
岡山市の一宮公民館で行われた「夏休みキッズ講座」“平和の話をしよう”(2026.8.21)で、私・小川澄雄が小学生・中学生にむけて、被爆二世として初めて証言した際の原稿を紹介します。
佐山団地で暮らしている小川澄雄です。今年78歳になりました。父・有年、母・君江の7番目の子として生まれました。5男2女の兄弟姉妹の一番下の子です。
父親が広島への入市被爆をした被爆二世です。
残念ながら、父親から原爆のことを聞いたことがありませんので、みなさんに原爆被害の実相、父親が広島で何を見、どう行動したのかをお話しすることができません。申し訳ありません。それでも、知っていることや父のその後の人生にかかわることをお話ししてみたいと思います。
父親は戦争最末期の1945年(昭和20年)春、鉄道兵として陸軍に召集されました。鉄道兵というのは、戦場で敵兵と戦う部隊の兵隊ではなく、軍隊が必要とする武器・食料・衣類などを輸送する役目を持った部隊です。「甲種合格」というような若く健康で元気な男の人は、戦場で直接敵兵と戦う前線に送られていましたから、鉄道兵として召集された父は、軍隊からあまり期待されていなかったのでしょう。当時38歳になっていました。新兵としては高年齢での召集です。
広島に原爆が落とされたのは、みなさんも知っているように、1945年8月6日のことです。聞くところによると、父親の部隊は、その8月6日に広島入りをする予定で名古屋を出発したそうです。ところが、この頃は米軍の空襲であちこちの町が大変な被害を受けていました。鉄道も例外でなく、爆撃されて線路が壊されていました。鉄路を修復しながら広島に向かったので、予定より大幅に遅れ、広島駅に着いたのが、9日未明のことだったようです。原爆投下の3日後のことです。
破壊された町、焼野原となった広島を目の当たりにして、「これはいったい何なのだ」「通常の空襲・爆撃とは全く違う」と感じ、息を吞んだと言っていました。その後、原爆で傷ついた人々の救助・救援活動にあたったのでしょう。残留放射能をたっぷり浴びることとなりました。こうして父・有年は、被爆者の仲間入りをしたのです。
私・小川澄雄は、1948年(昭和23年)5月29日に誕生しました。会ったことはありませんが、実は、私には直ぐ上に兄(修治)があり、この修治兄さんは、2年前の1946年に生まれていました。が、戦争直後で栄養も十分に取れず、兄は、誕生日を迎えることなく、亡くなってしまいました。今思えば、父の被爆の影響があったのかもしれません。この修治兄さんが生きておれば、私・澄雄は誕生しなかったかもしれません。
高校1年生の時、「生物」(理科の一分野)の授業で、生徒それぞれの血液型を調べました。家に帰って「僕はA型じゃったわー」と報告すると、姉が「それはなんかの間違いじゃ」「お母さんはO型で、お父さんはB型なんじゃけー」と言うのです。既にメンデルの法則を習っていましたから、ものすごいショックを受けました。父親は徴兵検査の際の血液検査でB型とされていました。兄や姉たちは皆O型なので、母親がO型というのも間違いない。O型とB型の両親から、A型の自分が生まれるはずがありません。
有年さんは、自分の父親じゃないかもしれない。ひょっとすると、本当の父親がどこか別の所にいるのかもしれない。多感な青春時代を複雑な思いで過ごしました。
これまで育ててもらっているので、感謝の気持ちはあるものの、素直な気持ちで父親に接することができなくなりました。父・有年さんと原爆・被爆の話をしようという気持ちにはなれませんでした。
それから20年ほど後、私は結婚もし、子どもも二人生まれ、一家を構えて一人前の大人として生活していました。そんな時、80歳を迎えた父親が、心臓を患いました。心臓の冠動脈が三本とも詰まり、それぞれにバイパスを通す大きな手術をすることになりました。何時間にもわたる手術でしたが、なんとか無事に手術を終えることができました。その際、改めて血液型の検査をしましたが、なんと父の血液型はA型だったのです。手術の時、兄弟姉妹の中で、父親に輸血できたのは私だけでした。
間違いなく、有年さんは私の父親だったのです。ホッとしました。嬉しかったです。39歳の、いい年をしたオジさんになっていましたが、嬉しくて嬉しくて、涙が頬をつたってきたのを今でもハッキリと覚えています。また、一方では、被爆二世としての自分の立ち位置もはっきりしたわけで、「私も将来白血病にかかるかもしれない」と漠然とした不安な気持ちがわいてきたのも事実です。
しかし、改めて思いました。徴兵検査での調査が如何にデタラメで、いいかげんなものか・・・と。赤紙(召集令状)一枚で、いくらでも召集できる・補充がきく兵隊、その兵隊の命や身体検査など、とんでもなくいいかげんに扱われていたのでしょう。
徴兵制や戦争を恨み憎む気持ちが、本当に強くなりました。
その一年半後、父は喉頭がんにかかり、手術したものの、術後の経過が芳しくなく、ついに82歳の生涯を終えました。
それより大分前、父親が、被爆者健康手帳を手に入れようと試みたことがあったようです。手帳の申請には、被爆者であることを証明してくれる人が二人必要なのです。その証人を一生懸命探し、やっと、同じ部隊で行動した人が矢掛にいることが分ったのです。父は、兄を伴い矢掛の「戦友」の家に訪ねて行き、被爆者であることを証明してほしいと頼むと、「お前を被爆者としてワシが証明することは、ワシ自身が被爆者であることを明かすことでもある」「ワシには娘がいる。かわいい娘の結婚に差し支えるようなことがあっては困る」と、証人になることを断られたようです。
結局、被爆者手帳を手にすることなく父は亡くなりましたが、被爆者への差別の問題がこのような形にも表れているのです。原爆は町を破壊し、多くの人を殺し傷つけました。広島では14万人、長崎では7万4千人が死亡したと言われています。それだけではなく、原爆は、生きている人間への差別も生み出していたのです。
戦争は絶対にしてはなりません。戦争で殺されても、殺してもいけません。
戦争は、大量破壊・大量殺人行為です。通常の社会生活のもとでは、人殺しは人道に反する犯罪行為です。重罪です。人殺しは、普通の神経・普通の精神状態ではできないのではないでしょうか。人を殺すと、罪の意識がついて回り、昼も夜もそれにさいなまれるのではないでしょうか。
ところが戦争となると、人を大勢殺すと褒められるのです。勲章をもらえます。平気で殺人ができなければ、戦場で活躍することはできません。人間として精神的に狂った状態でないと、戦場では生きていけないのです。
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』という本には、人殺しが平気でできるようになるための、軍隊での訓練の様子が詳しく書いてあります。狂った精神状態にする教育・訓練を受けて兵士は前線に送られるのです。
その兵隊も、戦争が終わると帰国し、通常の社会生活をしなければなりません。でも、狂った神経の下で戦闘行為・殺人行為を続けてきた兵隊が、神経をまともな状態に戻すのはなかなか大変なのです。
第二次世界大戦後81年を経過しました。その間、日本は戦争に巻き込まれることはありませんでした。が、世界の各地で戦争は起こってきました。朝鮮戦争・ベトナム戦争・中東戦争などなど・・・。
ロシアのウクライナ攻撃は4年も続いています。
アメリカも、世界各地で戦争をし続けています。今年も年初めにベネズエラを攻撃し、ベネズエラの大統領夫妻を拉致しました。さらにイランに戦争をしかけました。
戦争で殺人に手を染めた自分の罪に苛まれて、トラウマに苦しみ続けて社会生活がうまくできない若者が、アメリカには大勢いると聞いています。PTSD(心的外傷後ストレス障害)といいます。こうしたストレス障害を防ぐ意味でも戦争を起こさせてはなりません。平和こそが大切なのです!
平和を大切に、大切にしていきましょう!!
2025年11月24日の毎日新聞に世論調査の結果が掲載された。そのなかで私が大変驚いたのが右の調査結果だ。高市首相の「台湾有事は日本の存立危機事態」発言について50%が「問題があったとは思わない」と回答したのだ。「問題があったと思う」が25%、「わからない」が24%。つまり日本国民の74%がこの問題を正しく理解していないということが分かったからだ。これでは今後の日中関係が思いやられる。
第2次世界大戦後、アメリカは大陸の中華人民共和国を中国を代表する政権とは認めず、台湾の中華民国を中国を代表する政権として、国連の安保理常任理事国にもなっていた。日本もそれに追随し、1952年4月に日華平和条約を結び、中華民国を中国を代表する政権としていた。しかし、1950年代~60年代にかけてアジア・アフリカの国々が次々と独立を達成し、国連に加盟してきた。その多くの国が西側でもない、東側でもない、第3世界の国々であった。こうした第3世界の国々の支持を得て、「中国を代表する政権は大陸の中華人民共和国である。」との国際世論の高まりにより、1971年中華人民共和国が国連に招聘され、台湾の中華民国は国連から追放された。
これらの動きを背景に、ヴェトナム戦争からの撤退に苦しむアメリカと、ソ連との対立激化に苦しむ中華人民共和国が接近したのが、1972年のニクソン米大統領の電撃的な中華人民共和国訪問だ。これに驚いた当時の日本政府はそれまでの方針を転換し田中角栄首相を北京に派遣して「日中共同声明」を発表して国交を回復し、日華平和条約は無効となった。「日中共同声明」では「中華人民共和国政府は台湾が中華人民共和国の領土の一部であることを表明する。日本国政府は中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する。」と謳われ、さらに「中華人民共和国政府は中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する。」と宣言された。私は1972年当時大学1年生だったが、中華人民共和国政府の日本に対する戦争賠償の請求放棄には本当に驚かされた。しかし、それには「台湾が中華人民共和国の領土の一部であり、日本政府はその立場を十分理解し、尊重する。」という前提があったのだ。この原則は1978年の「日中平和友好条約」にも引き継がれている。
今回の高市発言はこの原則、日中両政府の合意を踏みにじるものであり、中華人民共和国政府としては決して譲ることのできない問題だ。中華人民共和国政府の対応は強硬だが、やはり高市首相は発言を撤回すべきだ。自分を支持する強硬保守層を意識している状況ではない。「政府の従来の見解に沿ったもの。」などと言い訳しても中華人民共和国政府は信用してくれない。12月3日付の毎日新聞で、元アジア大洋州局長も務めた田中均さんも「高市首相は発言を撤回すべきだ。」と説いている。そもそもアメリカのトランプ大統領は台湾有事にかかわりたくないと考えており、日本だけが台湾有事に首を突っ込むという異常事態になっており、ここは高市首相も冷静な政治的判断が必要だ。
1943年カイロでF・ローズベルト米大統領とチャーチル英首相、蒋介石が会談し、戦後台湾や澎湖諸島が中国に返還されるカイロ宣言を発表しており、それは当然のことながら、ポツダム宣言にも反映され、第8項に「カイロ宣言の条項は履行されるべく・・・」となっている。アメリカ政府も1979年の米中国交正常化の際に「台湾は中華人民共和国の領土の一部である。」に対し、「理解する。」と応じている。これが国際世論だ。
中国が戦艦を使って台湾を海上封鎖する時、武力行使があるかも。
海上封鎖を解くためにアメリカ軍が来援したら中国との武力紛争がおこるかも。そうなれば日本の「存立危機事態」と認められる事態になるかも。
こんな「かも」「かも」の想定問答が立憲民主の岡田克也議員と高市首相との間で交わされました。(2025年11月衆議院予算委員会)
編集部から、台湾有事を存立危機事態とする高市発言に関する原稿依頼があり、そのやり取りの中で、「なんでこれが日本の存立危機事態なのか不可思議」とメールを返したところ、「どこが『不可思議』なのか、それについて説明をして欲しい」との再依頼がありました。
暗殺された安倍首相時代(2015年)に「安保法制」が強行成立させられて、日本が攻撃されていなくても、同盟国アメリカが攻撃されたら自衛隊が助っ人できることになったことはご存じの通りです(集団的自衛権)。ただし、助っ人するには「三つの要件」を満たさなければならない。これが「存立危機事態三要件」です。アメリカ軍が攻撃されたというだけで、即、自衛隊参戦というわけではありません。そこで、上記のような問答がなされたわけです。
「不可思議」というのは、だいたいアメリカが現在の中国に対して間違っても戦争状態になるようなヘタなマネをするとは考えられないからです。中国を相手にした戦争というのは、失礼に聞こえるかもしれませんがべネズエラやイランを相手にした戦争とは国際的影響力に格段の差があります。高い確率で中・露・北朝鮮VS米・日・韓の世界戦争へと拡大する可能性があります(もちろん現在進行中のイラン侵略戦争も世界戦争へと拡大する可能性が絶無というわけではありません)。つまり「存立危機事態」の前提になるような米中間の武力的応酬が生じる可能性は非常に低いとするのが、私の見立てだからです。米中戦争の可能性が極めて低い所で、自衛隊を派遣できるかどうかなんて議論するのは時間の無駄というのが私の見解です。以上のような見立ての前提には、中国による武力的台湾統一活動への外国の軍事介入は内政干渉に当たるとする私の立場があります。
ちなみに「存立危機事態三要件」というのは以下の通りです。
1,同盟国アメリカに対する武力攻撃が発生する。
2,これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある。
3,これを防ぐため、他に適当な手段がない場合に限り、必要最小限度の実力を行使する。※「これ」とは2のような事態を指しているのでしょう。
「ひとつの中国原則」というのがあります。①「世界で中国はただ一つ」、②「台湾は中国の不可分の一部」、③「中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府」を内容とする中国が主張する原則です。アメリカも日本も③は「承認」しています(国連加盟国の共通の立場です)。「台湾有事」の際に問題になるのが、②の「台湾は中国の不可分の一部」。日本はこの②についても「(中国の立場を)十分理解し尊重する」としています。しかし、アメリカは「認知する」――「台湾は中国の一部とする中国に異論をとなえないが、台湾の安全に関与する」とするあいまいな政策をとっています。これを「一つの中国政策」といいます。
万が一アメリカが中国による武力的台湾統一活動に介入するとすれば、この「台湾の安全に関与する」を口実にするものと考えられます。台湾統一にかかわって米中間に武力紛争が勃発したら、これは「日本の存立危機事態」なので自衛隊を参戦させるべきなのか。
万が一こういう事態が起こった場合も、「存立危機事態三要件」には該当しないというのが私の考えです。
すでに紹介したように、日本は「台湾は中国の不可分の一部」とする「ひとつの中国原則」を「理解し、尊重する」と中国と約束しているのですから、日本はこの立場を堅持しなくてはいけません。ただし、中国が台湾統一の手段として武力を用いたことに対しては、これを非難する声明を出したり、国連と連動した非軍事的な対処にとどめるべきです。そしてアメリカの武力介入に対しては、イランを侵略して反撃を食らったアメリカに手を貸さなかったように、アメリカの軍事介入は中国に対する「内政干渉」に当たる国際法違反の問題――すなわちイラン侵略と同様、国際法に反するアメリカの軍事行動であり、それによってアメリカ軍が攻撃されても日本が手助けする理由はないとする毅然とした態度をとるべきです。また同時に、在日米軍基地を中国への出撃基地として使用させないよう日本政府に迫る国民的大運動を展開させる必要があると思います。
「万が一」を考えても、日本が「台湾有事」を口実にして集団的自衛権を発動する余地はないという意味で「なんでこれが存立危機事態なのか不可解」というわけです。
高市首相の「台湾有事発言」の真の問題性は、これが日本国民の「もしかして戦争がホントに起こるかも」とする不安をかきたてて日本の軍事化=戦争体制を一気に推し進めていることです。なかでも武器輸出が全面的に解禁されたことは、今後の日本経済(国民が生活の糧を得るための諸活動)に武器産業ががっちり組み込まれて、近い将来に多くの国民が武器産業で生活の糧を得るようになる事態を意味します(武器産業も自動車産業と同じように、軍需大企業のもとに多数のハイテク中小企業を傘下におさめるすそ野の広い産業になりうるそうです)。どこかで戦争が起こってくれると懐が潤うと微笑む国民が増えるということです。
こういう人たちに「憲法9条を守れ」と訴えても、「生活の糧を奪う気か」と反感を買うだけでしょう。日本国憲法はやすやすと「改正」され、これに対してますます中国の反発は強くなり、日本国内の反中国もエスカレートする。何ということはない。アメリカがどうのこうのとか、集団的自衛権がどうのこうのというのではなく、「日本の今後」が中国との対立を意図的にエスカレートさせて、中国との戦争をますます現実のものにしていくシナリオが高い確率で考えられるのではないかと思います。
防衛省は小中高生向けパンフレット「まるわかり!日本の防衛」を作成して、全国の児童生徒に普及させようと教育委員会に働きかけています。そこには、陸海空の自衛隊員の食事――カレーライス、鶏のから揚げ、大きな肉と、子どもたちがよだれを垂らしそうな写真や、特に小学生が喜びそうなカッコいい階級章の写真がぎっしりと掲載されています。私が小学生で将来なりたい職業を聞かれたら、「自衛隊」を挙げるかもしれません(そういえば小学生の頃、キャラメルの中に何かの紋章シールが入っていて一生懸命集めたものです)。ページをめくると、「中国、ロシア、北朝鮮」が日本の脅威=敵国であることを詳しく解説しています。打倒「中・露・北朝鮮」を心に秘めた新たな「軍国少年・少女」が生まれてくるかもしれません。
好きな画家は、【速水御舟】と【上村松園】である。在京時代(半世紀前)は、地下鉄東西線の茅場町駅から、山種美術館によく通った。山種美術館は、旧山種証券のビルの5階・6階くらいにあって、近代日本画のコレクションとしては、国内最高クラスであった。中でも、【速水御舟】のコレクションは、群を抜いて素晴らしかった。
【上村松園】のコレクションも、国内トップクラスであった。オフィス街(金融街)の一角にあったビルのため、特別展以外の日の美術館は、いつも静謐につつまれていて最高の鑑賞環境であった。そこに心ゆくまで、御舟の『名樹散椿』(重要文化財)をみることができた。夭折した天才画家【速水御舟】が、あと10年でも20年でも生きていたならば、どんな画境に到達したのであろうと思うと、残念でならなかった。【上村松園】の作品群も、どれも素晴らしかった。足立美術館の『娘深雪』も松柏美術館の『鼓の音』などもすばらしいけれど、山種美術館の松園作品群は、松園という画家の構成した世界を理解しやすく展示していた。それが、この美術館の方向性を、よく物語っていた。
山種美術館は、その後金融バブルの崩壊により、本体の山種証券が崩壊したため閉館され、そのコレクションは散逸の危機を迎えた。しかし、どこでどのような動きがあったのか知る由もないが、コレクションは維持され、千鳥ヶ淵の山種美術館を経て、現在の広尾の地で、山種美術館として展示されている。本当に、国家財産として、コレクションが維持されたことはよかったなと思う。しかし、近代日本画に特化した専門美術館として開館しているため、いつ行ってもザワザワとした落ち着かない雰囲気があり、人が多いため会場もせせこましい。かつての茅場町時代のような静謐な雰囲気のなかで、じっくりと作品に向かい合うような至福な時間は、望むべくもない。『名樹散椿』を見ても、雑踏の中の風景になってしまう。
さて、私にはどうしてもみたい【上村松園】の絵があった。それは、上村松園の代表作『序の舞』である。東京芸術大学が所蔵しており、重要文化財の指定を受けている。この『序の舞』だけは、見る機会がなかった。東京芸術大学美術館の100周年記念美術展にも、足を運んでみたが展示されていなかった。
しかし、何年か前、おそらくは京セラ美術館に名前が変わったときだろうが、『序の舞』が京都市美術館に展示された。いそいそと、京都岡崎に足を運んだ。薄暗い通路の正面のようなところに展示されていたが、それは、想像よりもずっと大きかった。ちょっと暗いのが玉に瑕だったけれど、おそらく作品の保存のために照明をあえて落としていたのであろう。それでも、迫力は十分に伝わってきた。松園の命がけの画業の魂魄のようなものが、感じられた。刃を突き付けるかのようなまったくゆるみのない高い緊張感が、この絵の真骨頂である。明らかに、松園の他の絵よりは、一段高い境地にあった。見られてよかったと思うと同時に、こんなものを毎日見てたら、疲れてしゃあないなと思った。とても家に飾れる絵ではないし、美術館にあっても、他の絵が蹴散らされてしまう。まさに、松園の最高傑作だと思う。眼福であった。
短歌は10年前から新聞投稿をやっていましたが、俳句は季語を始めとして独特の世界があるように思って敬遠していました。きっかけは3年前の道後への旅でした。松山城に登った時に「俳句ポスト」というものを初めて見ました。「何じゃこれ」という印象でしたが調べてみると、正岡子規を輩出した松山市が俳句の都たらんと始めたそうで、松山市内にはもちろん県下・県外にも設置して広く俳句を募集しているとのことでした。さらにネットを検索していると、「俳句ポスト365」というサイトがあって「プレバト」で有名な夏井いつきさんが選者だということ。さらに「夏井いつきの一句一遊」「夏井いつきの俳句生活」というサイトもありました。短歌はハガキでの投稿のみですが、これらはネットで簡単に投句できるということもわかりました。
試しに「俳句ポスト」に『春寒や石鎚山も雪化粧』という句を出してみたところ、「選外」という宣告と、兼題「余寒」と違う。さらに「季語が二つも入っている」という指摘を受けてしまい散々でした。やめようかとも思いましたが、暇つぶしとぼけ防止で少しやってみようかと思い直してそれぞれのサイトに投句を始めてみました。
「一句一遊」はRSKラジオで月~金の夕方5時15分から放送されています。兼題は2週間で変わります。『恵方巻き誤嚥予防のラララララ』が火曜日に読まれました。初投句・ビギナーズラックです。火曜日は中級者レベルだということでうれしくなりました。その後『アスパラにベーコン巻いて妻の味』が水曜日の上級者レベルで読まれて調子に乗ってしまいました。「俳句ポスト」では、『山笑うゆきえは明日島を出る』が金曜日(優秀者)に掲載されてひょっとしたら俳句の素質があるのかもしれないという錯覚に陥ってしまいました。『はるちゃんに秘密ができた夏休み』(俳句ポスト)が金曜日に、『天高し変えてみようかペンネーム』(一句一遊)が水曜日に読まれました。
ペンネームですが、始めは「岡田一竿」にしていました。新聞に釣りの記事を投稿する時のものをそのまま使っていたのですが、この句が採用されたので変えないといけないと思って「一竿」をひらがなにして「岡田いっかん」にしました。
「俳句生活」では、『ほうじ茶がおいしくなった秋の暮れ』と『三寒と四温のあわい鬼が舞う』が「○人」に『干し鱈や浜の女の太い腕』(一句一遊)が水曜日に選ばれました。
2年目に入って「俳句ポスト」の投稿を初心者コースから中級者コースに変えたところ選外が続きました。やはりレベルが違いました。
その後は鳴かず飛ばずが続いていましたが、今年に入って「俳句生活」で『冬晴れや茨木のり子に叱られる』がなんと「○天」に選ばれました。暖かいコメントをいただき、賞品も送られてきました。
「一句一遊」が2週間ごと、「俳句ポスト」と「俳句生活」が月に1度兼題が提出されて、それぞれ3句ずつ応募できます。ラジオを聞いたり、新聞の俳句欄を見て参考にしています。ノートを作っていますが、思いついた時すぐに書き留めておかないと忘れてしまうこともよくあります。句会には出たこともありませんし、グループにも入っていません。独学で投句しているだけですが頭の体操になります。歌集とセットにした句集『芥子山』を作って作品展に出しました。成長?の跡を記録しました。
高退教の中では、花田先生が肩の力の抜けた優しい句を詠まれています。島田先生・難波先生・川鍋先生は素敵な俳号をお持ちで趣深い句が印象的です。本当はこの方々を差し置いて私が書くのは不本意ですが、難波先生の推薦がきっかけとなって、私に番が回ってきたようなのです。
まだまだ私はド素人からやっと点が取れたばかりのトーシローです。
うろこ雲ド素人から点が取れ(岡田いっかん)
1960(S35)年入学 法文学部
伯耆溝口からが山への第一歩
生まれ育った地が兵庫県境の鉱山と煉瓦の町(現・備前市)だったし、高等学校も和気高校分校の山奥にある閑谷校舎だったから、1年の浪人生活まで加えた大学受験の勉強の後に爆発すべき期待は、どこでもよいから次から次へと山野を跋渉することにあった。だから岡山大学山岳部への入部は、初めから自然の運びだった。
驚くことにこの年度の入部は二桁に及ぶ有様で、5月の連休に計画された大山新人合宿のための装備調達に先輩諸氏は懸命であったし、ヒヨコたちは弾む夢と膨らむ不安とでウロウロしていた。麻ザイルや同系色のキスリングが無造作に放り出されている薄暗い部室の中で、サブリーダーの「お前らの命はわしに預けてもらう」の一言は、凄みを持ってヒヨコたちを震え上がらせた。傍らのホコリだらけの机の上には、加藤文太郎の名著『単独行』や、どこやらの書院が出版した黒っぽい表紙の『剱岳』の小冊子が転がっていた。
伯備線に乗ったのも、左右にずいぶん出っ張ったキスリングなるものを背にしたのも初めてのことだった。「何でもよいから動きやすい服装で出てこい」ということだったから、自分のいでたちは高校時代の白いカッターシャツと黒いズボンに、帽子だけは新調した大学の学生帽だった。伯耆溝口駅から大山に向け隊列を組んでの、歩き25分と休み5分の正確なピッチの取り方。さすがに「これが山岳部か」と妙に感心したものだった。
ヒヨコたちは石まで詰め込んで誰もが40kgを背負ったから、当時38kgの自分は体重以上をかついだことになる。姉や妹に「浅丘ルリ子ほどしかないん?」と揶揄されたが、それでも美人女優と同列に扱ってくれたのがこちらには嬉しいばかりで、結局「細くても樫の棒よ」と母が反論してくれたのが励みになった。家計は決して余裕のあるはずもなかったけれど、家族みんながこちらの山行きを受け入れてくれたのは有難かった。
深い沈黙と悠久の大自然と
大山の全容が見え始めてからは、その均整の取れた美しさとスケールの大きさに茫然自失のままであった。それはまさに何ピッチ歩いてもまるで近づけさせてくれない巨人であったが、枡水原の一角にテントを設営しエッセン(食事)なるものを済ませた頃には夕闇も迫ってきた。遥かに見渡せる夜見が浜の夜景を先輩達ともども叢に横一列に座って、「いつまでも、いつまでも」黙って眺めていたのだったが、その時の光景は今も強烈なインパクトを持って蘇ってくる。
先輩後輩や同僚同士、あるいは教師と教え子との間に、信頼やら尊敬の思いを刻みつけてくれるのは、とかくの饒舌や飾り立てたパフォーマンスによるのではなくて、こうした時の長く深い沈黙であることを教えられたものだ。それを効果づけてくれるのが、今は遠い闇の中に小さな光を点滅させている夜見が浜の夜景であり、それらを包む悠久の大自然であるというのが何とも嬉しい。先輩諸氏は山の気に満たされて何も語らない。ヒヨコたちもその気に圧せられて同じように黙っている。
北アルプスでの夏山、冬山、春山合宿から帰ると、ほとんどすぐ大山の岡大ヒュッテの留守番に行った。雪かきや便所の汲み取り・薪割りに一段落をつけると決まって大山主稜線をかけずり回ったもので、二往復しても三往復しても全てがいつも新鮮で、イワツバメがかすめて飛んだり、イワヒバリが元谷の底を刺すように急降下したり、時にはブロッケンの中に我が身の影を動かしてみることもあった。とにかくどこに居てもどこから視線を投じても大山の懐は深く大きかったし、いつ訪ねてもまるごとこちらを抱きしめてくれた。
穂高の夕陽は生徒と一緒に
大阪に出て教職に就くと同時に、潰れかかった高校山岳部の顧問になった。大学出たての新進気鋭が動き回るものだから、こちらの歳を遙かに超えた大先輩方がどの山行にも同伴してくれた。岡山弁丸出しの田舎者が国語の授業も山の話も熱を込めて語っているうちに、2年目には男女13人の新人部員を迎えることになった。安保闘争はもとより沖縄返還やベトナム反戦運動の盛んな時代で、こちらもデモや集会に何度も出かけたものだったが、そうした社会的背景が高校生にも元気を与える要因になったのだろう。
上高地から涸沢―奥穂高岳―新穂高の中尾温泉に下山する夏山一般登山教室を企画した。現役部員をそのサポート役にまわすことにしたから、彼らのトレーニングやルートの研究、救急対策が一気に熱をおびた。学校主催で行うことを了承した職員会議もしっかりした議論を重ねたもので、夢見心地の青年教師や独身の女性教師までもが同伴付き添いを名乗り出た。
穂高小屋前の石垣に全員腰を下ろして、燃えて沈んで行くアーベンロートをじっと見つめ、誰も何も語らない。肩を抱き合って涙している女の子達もいる。手を合わせ続けているのは熟年教師だ。私は大山新人合宿の時の枡水原の夕陽にこの一瞬を重ねている。こちらの指示を受けてあれこれ気を配ってきた山岳部の生徒達も、今はこの深い静寂の中にじっと身を沈めている。間もなく満天の星が降りかかってくるだろうが、興味を持って調べてきた彼や彼女たちが、参加者の一人ひとりに星座の名前を囁き掛けるはずである。
枡水原に400人の大修学旅行団
3年目にはバス9台を連ねる大修学旅行団が大山高原ホテルに入れた。観光旅行地巡りはもとより、相も変わらないスキー修学旅行にも一種の厭きが生じたところで、全国的にもっと新しい「共同と自主」の参加の形が求められていた。4月末の大山を根拠地にしてその山麓を巡り、残雪にも戯れ、蒜山の野に遊んで飯盒炊さんもやり、最終日は出雲大社詣でと山陰地方の小旅行を加えた、3泊4日の新しい発想の修学旅行だった。
職員会議で一番問題だったのは制服着用か私服でもよいかで、何回かの会議の後に「慰安旅行みたいにならないように」との条件付きで、土や草や雪とも戯れることの出来る“行動服”に決まった。「新しい何かを買い求める必要はない。“日常服”でいいのだ」ということだったが、女子生徒が着こなすとやはり目を見張るものがあった。
もちろんこの時も枡水原の草原に出て夜見が浜の夕景を眺めたのだったが、期せずして校歌の大合唱を導いたのは「おばあちゃん」と呼ばれていた年配の女教師だった。 (2015.1.5)
| 岡山高退教会報に、つい数号前まで原稿をいただいていた竹内良雄さんが亡くなられました。訃報を受け、佐藤静雄さんより、岡山大学山岳会60年記念誌に掲載されていた竹内さんの原稿のコピーを頂きましたので、ここに掲載させていただく次第です。 |
国民の館 ブカレスト
ルセからドナウ川を渡って、ルーマニアの首都ブカレストに入った。「国民の館」は、かつてチャウシェスク大統領が建てさせた巨大な建物で、政府系建築物としてはアメリカのペンタゴンに次ぐ世界2位の規模を誇る。内部には白大理石がふんだんに使われ、豪華さでは群を抜いている。しかしその一方で、この建物は国民のためという名目とは裏腹に、独裁者チャウシェスクの私欲を象徴するものでもあったと説明されていた。建物には、広場に集まった民衆に向かって演説するためのバルコニーが設けられていた。そこから伸びる大通りは、パリのシャンゼリゼ通りを手本にして造られたという。両側には政府関係の建物や要人の住居が並び、その建設のために古い街並みが大きく壊されたということだ。
共産主義を掲げながら、実際には権力の頂点に立ったチャウシェスク大統領であったが、最後の演説は大衆の激しい反発に遮られ、その直後にヘリコプターで逃亡したものの、後に妻とともに処刑された。
シナイア
カルパチア山脈の山あいにあるシナイアは、豊かな自然に囲まれた美しい町である。そのシナイアを代表する建物が「ペレシュ城」で、19世紀後半にルーマニア王家の夏の離宮として建てられた。
ドイツ・ネオルネサンスを基調に、さまざまな装飾様式を取り入れた華麗な建物で、尖塔や彫刻を施した外観は、周囲の深い緑によく映えている。内部も木彫やステンドグラスなどで豪華に飾られ、王家の離宮にふさわしい趣がある。山々を背景にたたずむその姿から、ルーマニアで最も美しい城の一つと言われている。
スケイ門
ルーマニアのほぼ中央に位置するこの地には、ドイツ人移民によって都市ブラショフが築かれた。当時、ルーマニア人は移住させられ、この「スケイ門」から内側のドイツ人街へ入るには特別な許可が必要だったという。
泊まったユースホステルは、トイレ、シャワー、洗面台が大きな一室にまとめられていた。そのため、1人がそのうちの1つを使っていると、ほかの人は入室できなかった。部屋の前にはいつも長い列ができていた。
大きな民家をユースホステルに改造したものらしく、私も改造案を提案してみたが、反応を見るかぎり実現の見込みはなさそうだった。
シビウ
シビウは、トランシルヴァニア地方を代表する古都の一つで、中世にはドイツ系住民を中心に発展した。旧市街には石畳の道や歴史ある建物が残り、かつてオスマン帝国の侵攻を防ぐために築かれた城壁や塔も随所に見られる。長い歴史を感じさせる落ち着いた街並みが印象的な町である。
「民衆の壁」と呼ばれる城壁の近くに、ホステルを見つけて10泊した。若い経営者の夫婦のもとには、毎晩のように友人たちが集まり、私も輪に入れてもらった。ある夜は、都市計画の研究で来ていた慶応大学の建築学科の学生も遊びに来て、夜中の2時か3時ごろまで語り合った。翌日には、その学生もこの宿に移ってきた。
楽しい思い出の多いその宿で、可愛らしいオーストラリアの女子大生が、別れ際に小さなコアラのぬいぐるみをくれたことも忘れられない。
近くには、死海のように体が浮く塩池がいくつもあり、大勢の人が水に入っていた。水は濁っていたが、溺れる心配もないほど体がよく浮いた。私は岸辺に置いた大きなバッグを気にかけながら池に入り、ときには泳ぎ、ときには仰向けになって太陽に身をさらしながら、浮遊の感覚を楽しんだ。
死海で体験してみたいと思っていたことが、思いがけずこの泥の池でかなったのである。「まあ、これでもいいかな」と思うことにした。
民俗博物館
シビウ郊外の森の中に、広大な「野外民俗博物館」がある。1963年に「民俗技術博物館」として整備が始まり、1967年に一般公開された。その後、ルーマニア各地から農家や工房、木造教会、水車などが移築され、昔ながらの農村の暮らしや文化を伝える博物館となった。広い敷地を歩いていると、一つの昔の村を訪ねているような気分になる。
その中には、移築された建物を利用したレストランもあった。そこでスケッチをしていると、ボーイがやって来たので、玉島の絵はがきを一枚渡した。すると、お礼のつもりだったのだろう、しばらくしてコーラを持ってきてくれた。言葉を交わさなくても気持ちは通じる。旅先での、そんな素朴なやり取りもうれしかった。
木造教会
野外博物館のスケッチを終えて帰ろうとしていると、展示されていた「木造教会」の係の人が、入場料はいいから中に入りなさいというように招き入れてくれた。ほの暗く狭い内部の壁には、最後の審判や失楽園を思わせる素朴な壁画が描かれていた。どこかの村の、名も知られぬ画家の手によるものなのだろう。そこには、宗教画にありがちな厳しさよりも、むしろ人のぬくもりのようなものが感じられた。木造建築そのものの持つやさしさが、そう思わせたのかもしれない。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪ 編 集 後 記 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
◎「国際紛争を解決する手段として、日本政府は自国の軍事力強化や同盟国との軍事協力を強めるという威嚇ではなく、戦争をしない国という誇りをもって、誠実な外交の努力をするのが日本の役割だと思っています。」昨年の藤原会長の「新しい年をむかえて」の一文です。「学校や教育、憲法・平和のことを共に話せる仲間が身近にいないと、どうにも落ち着かない、落ち着けないのです。」小川新会長の「ごあいさつ」の一文です。お二人の考えや想いを紡ぐような会報ができていたら嬉しいです。
◎連載特集のタイトルが「戦後80年」から「戦後81年」に変わりました。
この1年何とか「戦争をしない国」でいられました。私は恥ずかしながら今まで日中外交の歴史を知りませんでした。それでも高市首相の発言には違和感を覚えました。それは戦争の足音をかなり身近に感じたからです。しかし、その足音が聞こえない、あるいは聞こうとしない人が多くなっている、どうしたらいいのでしょう。始まってしまったら勝手に歩き出して、もう誰にも止めようがないのが戦争だというのに。
◎「ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするな」
私も「茨木のり子」の詩が好きです。日々の暮らしの中で「みずから水やりを」怠らず、「しなやかさを失」わず、「駄目なことの一切を時代のせいに」せず、「わずかに光る尊厳」を大切に「自分の感受性くらい自分で守る」
皆さんから届く様々なテーマの原稿をこうして会報としてお届けすること、届いた会報をみなさんが手に取って読んでくださることが、みずみずしい感受性を持ち続けることにつながりますように。
◎お便り原稿も募っています。日々の何げない気づきや感動、お薦めの本や好きな詩、「自分の感受性」を守るためにやっておられること。200字~300字程度でお寄せ頂けるとありがたいです。私も12月に高梁で開催される「母親大会」に参加してその感想を書いてみたいと思います。
お便り原稿は、担当の岡田さんのメールアドレスまでお願いいたします。 (大久保 緑子)
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