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連載特集 戦後80年 未来へのことづてⅢ
     戦後八十一年目を迎えて   備南支部 犬飼 繁

 昨年は戦後80年を迎えた節目の年でした。戦争指導者はあの無謀な戦争に国民を巻き込み、国土は焦土と化しました。その反省から日本国憲法が生まれ、前文に平和的生存権を謳い、9条には戦争放棄と戦力不保持、交戦権の否認が明記されました。9条のこの規定は自衛隊の組織・装備・活動を制約し、海外での武力行使や集団的自衛権行使を禁止するなど憲法規範として有効に機能してきました。歴代政権は「自衛隊は専守防衛に徹し、個別的自衛権しか行使できない」と説明してきました。そのため攻撃的兵器である大陸間弾道ミサイル、戦略爆撃機、攻撃型空母は保持できないとしてきました。
 これらの方針が大きく変わったのは2014年の第二次安倍政権による「集団的自衛権を部分的に認める」という閣議決定でした。長年にわたる日本の防衛政策を根本から変更する決定が、国会で審議されることなく、一内閣の判断だけで決定するということは許されることでしょうか。翌年の2015年には「集団的自衛権を部分的に認める」安保法制が国会で審議入りしました。国会に参考人として呼ばれた3人の憲法学者が3人とも「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と発言したことから、国会周辺での反対集会が広がりました。岡山でも岡山弁護士会などが中心になり、反対集会が何度も開かれるようになりました。8月30日には10万人が国会を取り巻きました(その中の一人が私です)。しかし、残念ながら9月19日には強行採決で安保法制は成立してしまいました。
 岡山では翌年の春、岡山弁護士会の呼びかけに応じた人々が原告になり(私もその一人です)、「安保法制違憲訴訟岡山」を岡山地方裁判所に起こしました。東京など全国で20件を超える安保法制違憲訴訟が起こされましたが、残念ながら今までに勝訴した例はありません。
 そして2022年、岸田政権は安保関連三文書を閣議決定しました。「敵基地攻撃能力の保有」など、これも今までの防衛政策を根本から変更する決定が一内閣の判断だけで決定されました。悪しき安倍政権の前例を踏襲したとしか言いようがありません。「敵基地攻撃能力」を保有するためにはスタンドオフミサイル(敵の射程外から発射できる長距離巡航ミサイル)が必要です。アメリカのトマホークを購入する計画があります。また三菱重工業が長距離ミサイルの開発を行うとも言われています。さらに護衛艦「いずも」「かが」の空母化も計画されています。「いずも」「かが」は全長が250m、戦艦大和の全長が262mですから、その大きさが想像できるでしょう。岸田政権は2023年度より5年間に43兆円の軍事費を投じることも決定しました。そうなると日本はアメリカ・中国に次ぐ世界3位の軍事大国になります。平和憲法を持つ日本がそんなことでよいのでしょうか。     
 日本はかつて中国を侵略しました。二度と中国と戦争するようなことがあってはなりません。今ほど、外交が待たれているときはありません。日本・ASEAN・中国・台湾・韓国・北朝鮮を包括する安全保障の枠組みや外交が必要だと思います。
 こうした状況の中で11月、新たに首相となった高市早苗氏は「台湾有事は日本の存立危機事態になる。」との発言をしました。これは1972年の「日中共同声明」や1978年の「日中平和友好条約」での両国政府の合意に反する発言であり、中国政府は発言の撤回を求めて、日本政府に厳しい対応をしています。
元外交官の孫崎享氏や田中均氏も「高市首相は発言を撤回すべきである。」と中国との外交の悪影響を心配していますが、高市首相は全く耳を貸しません。財界も中国との関係改善を望んでいますが、高市首相はどこ吹く風とわが道を邁進しています。田中均氏は「高市さんには首相としての資質がない。」とまで言っています。それはそうでしょう。これでは中国との外交は成り立ちません。ところがそうした高市氏の姿勢を、圧力を強める中国に毅然と対応していると評価する人が少なからずいるのです。「物事をはっきり言うところがいい。日本に希望があるという言葉は若者に響く。(女子高生18歳)はその代表的な発言でしょう。
 そうした中で行われた衆議院選挙で自民党は単独3分の2以上の議席を獲得しました。先ほどの女子高校生のような考えを持った人たちがこの結果をもたらしたということでしょう。ですがこの人たちは「日中共同声明」や「日中平和友好条約」での両国政府の合意を全く理解していない人たちです。高市発言がいかなる意味を持っているのか、なぜ中国政府がそれに対してここまで反発しているのかを全く理解していないのです。そしてその人たちが忘れていることがあります。それはかつて日本が中国を侵略した歴史です。
 衆愚政治という言葉があります。古代ギリシアのアテネでは民会に市民(成年男子)全員が参加する直接民主制が発展し、ペリクレスの時代に全盛期を迎えていました。しかしアテネとスパルタの間のペロポネソス戦争中にペリクレスが病死すると混乱し、アテネはデマゴーゴス(扇動政治家)に操られる衆愚政治に陥り弱体化しました。
 高市早苗氏は現代に置けるデマゴーゴスです。今回の選挙で自民党に投票した人たちは見事にそのデマに操られたのです。私たちは今後の日本の政治を衆愚政治に堕落させてはなりません。

南西諸島の視察の旅を終えて        
備南支部 正保 宏文

 「石垣島の平和と自然を守る市民連絡会」の藤井幸子さんと「八重山戦争マラリアを語り継ぐ会」の宮良純一郎さんの案内で大変有意義な旅となった。
 数年前、タモリさんが「新しい戦前」という言葉を使われたが、それを地で行くような光景を見たり、話を聞くことができたりした。我々が行った石垣島や与那国島で見られたことだが、農業者の高齢化に伴い、耕作放棄地があちこちに見られた。そして、あまり利用価値のない山の斜面(元ゴルフ場を含む)などに防衛省が触手を動かし自衛隊の基地を作ったり、自衛隊員の住宅を建設したりして、島の景観が徐々に変化しているとのことだった。自衛隊の基地がひとたびつくられるとそれがだんだん拡張されていく。山の上にはレーダー施設が林立し、いつ戦争が起きても構わないような雰囲気がある。石垣島にも与那国島にも大きな弾薬庫が4基ずつあった。もし戦争になれば、弾薬庫のあるところが一番に狙われる。去年すでに宮古島や石垣島では「有事」に備えて「避難訓練」を実施した。政府は住民と観光客を含め12万人の人を船舶や航空機を使って6日間で避難させるという。これは机上の空論であり、無理な話である。家畜を飼育している農業者にとって、家畜を放棄することは死活問題であり、絶対に看過できない問題である。「避難訓練」をする暇があるなら、戦争を止めるための平和外交にこそエネルギーを注ぐべきではないのか。それが、平和憲法を持つ国としての役割ではないのか。
 このほか記憶に残っていることについて触れておきたい。第1は「戦争マラリア」の話。これは、戦争末期の1945年、八重山郡の住民が日本軍によって無病地帯から有病地帯へ強制移動させられ、31,681人のうち、16,884人がマラリアに罹患。そのうち、3,647人もの人がなくなった。沖縄本島でも沖縄戦で、多くの人がガマに隠れていたのを日本軍に見つかり、追い出されたり、赤ん坊の泣き声がうるさいからと殺させたり、集団自決に追いやられたり、言語に絶するようなことがみられたが、「戦争マラリア」でも悲惨な現実があった。つまり、軍隊は、決して国民の命を守らない、このことを改めて確認した次第である。ついでに言えば、国策により「戦争マラリア」で亡くなった方がたくさんいたのであるが、戦後補償は全くないままである。第2は、石垣島の川平(かびら)の慰安所。中国大陸をはじめ各地で日本軍が売春宿を営んでいたのは周知の事実である。戦地において兵隊が強姦などにより性病、とりわけ淋病にかかってしまうと一物が痛くなって走ることができなくなってしまう可能性がある。そんな兵隊が一人でもいると指揮官の計算に狂いが生じ、戦に負けてしまう。また、兵士が強姦をしてしまうと住民の反感を買い、その後の戦争がやりにくくなる。だから公然の秘密として兵士にとってより安全な売春宿を営んでいたのだ。海軍の基地があった川平にも慰安所という名の売春宿がおかれていた。「馬場ハル」さんという慰安婦の名前が伝わっており、石垣シーサイドホテルの近くにお墓があるという。彼女が住んでいたという川平の家を探してみたが、それはもう取り壊されてなくなっていた。
 最近、高市早苗首相による「非核三原則の見直し」や首相官邸の高官による「核を所有すべき」など憲法9条をないがしろにするような発言が相次いでいる。今、日本の政府がしなければならないことは、戦争の準備ではなく、憲法9条を前面に据えた平和外交ではないだろうか。生活苦にあえぐ国民の命と暮らしを守るというのであれば、軍事費を削り、消費税減税により物価高にメスを入れ、福祉と教育に税金を投入すべきではないか。南西諸島の視察の旅を終え、平和のために最前線で闘っている人たちのことを思い出すたびに「闘いはこれから」と思う今日この頃である。 (2025.12.21 記)

知らなかった石垣島
備西支部 青木精一

私が、石垣島に興味をもったのは、何度も応召された父の最後の戦地が「石垣島」だったからにほかなりません。
 子どもの頃父からときどき聞いた「石垣島」の話では、「すごく水と空がきれい。戦争のため行ったが闘うことなく、昼は食料の芋の栽培、夜は将校室でトランプ三昧だった。戦争らしいことといえば、実物大の大きな紙の飛行機を何機も作ること。敵(米英)の飛行機が、間違って爆撃や機銃掃射をしてくれると、敵の弾薬を減らしてやったと大喜び。ただ、米英の次の攻撃目標は、石垣島だと思って覚悟はしていた。予想に反して、隣の沖縄に攻撃が集中し、おかげで石垣島は助かった。(これはもちろん終戦後知る)本当に『平和な島』だった。」
父は、20歳で徴兵検査に合格すると、満州事変の頃は満州、日中戦争には天津・石家庄に3回も派兵されました。そして1944年8月、38歳のとき、臨時召集を受け、当然行先も知らず石垣島に上陸しました。(20~30代の20年間のうち10年戦地での生活でした。幸い前線での戦いはありませんでした。)
 その話を聞いていた私は、父と共に平和な「石垣島」に行こうと思っていましたが、父の死去により、その思いは果たせませんでした。   
金婚を迎えた2023年、子どもたちのプレゼントがありました。「旅行したいならどこがいい」。即座に言いました。「石垣島」。こうして私は石垣島に行けることになりました。
 さあ楽しみです。図書館で、旅行案内書を数冊借りてコースを考えました。どのガイドブックにも「石垣島=平和な島・美しい島」の記述ばかりです。
 ところが、ある日、玉島図書館児童室で「八重山の戦争」(太田静男著 南山舎)という本を見つけました。児童向けですから読みやすい活字です。ただ内容には圧倒されました。知らなかったことがいっぱい書かれていました。そして「資料編」に「独立歩兵第301大隊 大尉 青木幹英」と父の名が記載されていました。驚きと同時に困惑しました。借りてゆっくり読むと、緻密に調べ書かれたこの本の素晴らしさに没頭しました。
 慰霊碑の紹介・戦地の傷跡・慰安所・軍隊に生活を奪われた現地の人々の暮らし・軍人同士の争い・八重山諸島の島々での軍と住民の軋轢・献身的な医師や看護婦など、写真・地図・データと共に説明が書かれています。この本を読んで、私は考え方が一変しました。
「石垣島=平和な島」でなく「石垣島=住民の闘いの島」。
旅行開始
~家族との旅行ですから、観光地へも行き、目一杯楽しみました。八重山そばも食べました。海の色と砂の白さに心うたれました~
ただ、「石垣島」に行かなければ知れなかったことがあまりに多く自分の無知に驚きました。
1.戦跡見学
①各地にある忠魂碑・戦没者記念塔・住民が隠れた大きな壕 
②慰安所跡
③マラリア患者のための病院や民間施設 
④日本軍が小学生を追い出し使用した学校跡  
⑤学童慰霊碑 
⑥震洋隊基地跡…震洋とは小型の木造モーターボートで先頭に爆弾搭載(特攻隊)
⑦バンナ公園(ここに「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊の碑」や『祈 平和』とした日本軍部隊の碑があります。)
⑧「石垣島事件」の被害者の慰霊碑  
⑨石垣島周辺での海難事故の慰霊碑
 各史跡にある石碑や説明板を読みました。島の人々も兵隊も、苦労し悩み生活を営んでいたことが、少し理解できた気がしました。
2.日本軍による住民強制移住による「戦争マラリア」の被害
 もともと八重山地方は温暖であるためマラリアが流行していたようです。しかし蚊帳をつかい、無駄な水たまりを埋めることや湿地帯に住まないようにすることなどの対策を講じていたのですが、日本軍が来てからは、疎開の名目で住民は湿気の多い山奥に追いやられました。人災・軍災です。多くの人がマラリアに罹患し、多くの死者が出ました。戦争が招いた「戦争マラリア」と呼ばれる所以であるようです。八重山では直接の戦争被害よりマラリアの被害が突出しています。当時、八重山の人口は、約37,000人でした。空襲や、爆撃船舶への攻撃もあったらしく、その死亡者は178名ですが、マラリアの被害は大きく、人口のうち約16,000人(40数%)の人がマラリアに罹患し、3,600人(約10%)がマラリアで死亡しています。
 恐ろしい現実の話として、波照間島では小学校教員として赴任した中野学校出身の山下という特別工作員が日本刀をもって脅かし、強制疎開が行われ、その結果として島民の3分の1がマラリアで死亡したという話もあります。
 父の属していた「独立歩兵第301大隊」は、毎日、米英機による10~30機の爆撃を受けたようですが、戦闘による死傷者はゼロ。ただマラリアの罹患者は最高時には大隊の4分の3、死者数は90人とのこと。環境の良い場所に陣取った軍隊でもこのような数字なら、現地住民はどんなひどい環境下に置かれ、マラリアでどんなに苦しまれただろう。
 それらの跡地と記念館をまわりました。記念館の展示を見ながら、出口のない地獄に押しやられた住民の無念さを痛感しました。
 父が戦地から持って帰った荷物は猛烈なキニーネの匂いがしていました。石垣島に来て初めてその匂いの意味を知りました。
 八重山諸島で太平洋戦争中に住民がマラリア惨禍のために苦しんだということを私は全く知りませんでした。「石垣」に興味を持っていた私さえ知りませんでした。
 ある本に書かれていた言葉です。石垣島で「マラリア撲滅宣言」が出されたのは戦後17年たった1962年。「あれほど島民を苦しめ、絶対撲滅できないと思われたマラリアを撲滅できたことは、同じように絶対できないといわれる核兵器廃絶も出来ることだ。」と書かれていました。非常に希望に満ちた言葉です。
3.石垣島事件も知りました。
 捕虜になったアメリカ兵3名を斬殺・刺殺した日本兵の戦犯裁判事件です。他の戦犯裁判と異なるのは、最初41名に死刑判決が出され、最終的には7名が死刑になった事件です。ひとつの事件から、戦犯として多数の死刑判決が出て、執行されました。そして、この死刑執行が、戦犯死刑の最後です。
 旅行から帰り調査してみますと軍隊の不条理さが身に沁みました。戦争・軍隊は、人を人として生きられないものにすると痛感しました。
4.富山丸事故はご存知ですか
 父が急遽、1944年8月に召集され石垣島に派兵されたのは、その年の6月、沖縄・石垣に援護のため派兵された兵を乗せた「富山丸」が徳之島沖で撃沈されたからです。3,874名の兵が死亡しました。(もちろん大本営発表なし)その補充として徳島・高知で補充召集されたようです。これは後から送り込まれた徳島出身の兵士が、マラリア撲滅と富山丸被害者のために設置したバンナ公園の石碑に書かれています。なお、タイタニック(1,600名死亡)、対馬丸(1,500名死亡)、洞爺丸(1,200名死亡)と比べても、死亡者数が極端に多いのに、あまり知られていないのはなぜだろうと疑問です。
5.旅行した2023年春、石垣島は揺れていました。
 自衛隊の基地「石垣駐屯地」ができ、ミサイルが運び込まれていたのです。ある山から自衛隊の建物を見ました。とても巨大で白い建物です。「地対艦ミサイル」「地対空ミサイル」が配備されているとのことです。隊員570名は他の勤務地より手当てが良いようです。危険手当でしょうか?
 またもや「沖縄・石垣」が日本本土に先駆けて、標的にされるのでしょうか?
 石垣島は平和の島。住民も私もこの島が平和であり続けてもらいたいと念願しています。今までの自分の無知を反省して。
 

「憲法9条」の力・市民の力
   ―サナエに日本を滅ぼさせない! 
岡山支部 花田千春

 昨夜(4月8日)の国会前は3万人のペンライトが揺れ、「戦争やめろ!高市やめろ!」の声がこだました。日本中のあちこちで市民の自発的な集まりが地鳴りのように生まれている。岡山の駅前でも老若男女250人を超える声がドラムのリズムで「NO WAR!」の声を上げた。飛び入りの高校生や通勤帰りの若い女性も加わってにぎやかだ。
 世界の警察と言っていたアメリカは、いまや世界のヤクザ暴力団。米のトランプは「アメリカファースト」と所場代よろしく関税引き上げる。「わしの言うことに逆らうな!石油よこせ」とベネズエラ爆撃、大統領を拉致監禁。核の交渉の真っ最中、突然イランを爆撃!小学校の子ども先生170人を殺し、首相要人を家族もろともに殺戮。「降参して石油よこせ」「私に法はいらない」と「国際法」も「国連憲章」もまったく無視の無法ぶり。爆撃はまだまだ続いていて、瓦礫と死体の街になっている。とんでもないことが起きている!
 それなのに、日本のとんでもない首相は、トランプに「戦争やめろ」といわない。それどころか、「世界に平和と繁栄をもたらすのはドナルドだけよ」と抱きついた。媚び媚び外交に虫唾が走り、怒り心頭!会談で「自衛隊出せ」と迫られたようだが、「うん」と言えなかったのは、「憲法9条」のおかげだ。
 首相は、米のいいなりに一緒に戦争をしたいのか。中国を煽った失言も撤回せず、「憲法9条」の改憲に前のめり。「スパイ防止法」「国旗損壊罪」も国会上程するという。予算の軍事費も大幅に増やした。復興税も軍事にあてる。南の島や全国に敵基地攻撃できるミサイルを次々配備。そのための弾薬庫は岡山大学の近くにも建設予定だとか。だが、大手メディアは、なぜかあまり報道しない。「電波止めるぞ」の脅しが効いているのか。すでに今は、言論統制の戦前なのか。
 世界ではあちこちで戦火があがった81年間。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争・・・。日本では、ひとりの国民も戦争で死ななかった。だれひとり他国の人を戦争で殺さなかった。どこからも攻められたり攻めたりすることはなかった。これは憲法の力。戦争放棄。「憲法9条」の力。2000万のアジアの人たちと300万人の日本人の命を奪った戦争の代償がこの平和憲法だと信じてきた。日本国憲法は日本の宝、日本の誇り。
「武器輸出三原則(武器輸出しない)」、「非核三原則(核兵器は持たず、作らず、持ち込ませず)」は当然の国是だった。だから、安心していられた。しかし今、日本の首相は、武器を製造輸出してもうけることにしたという。「強く豊かな日本」とは、人殺しの武器をつくって金儲けをする「死の商人」に成り下がることか。
 選挙で人気の初の女性首相は残念ながら期待外れ!トランプの顔色ばかり窺って、国民のことなどそっちのけ、「働いて×5」だったはずなのに、国会論議は出たがらず、外交交渉もそっちのけ。どんどんすすむ物価高!石油不足!ナフサ不足!農業・医療・運輸も悲鳴あげていても、動かない。公約の消費税減税もやる気あるのかないのか。あなたが国のカジ取りしたら日本はどんどん悪くなる。戦争始める国になる。サナエ!たのむからやめてくれ!
 市民は声を上げている。今日も明日も、駅で国会前で市民のペンライトが揺れている。サナエに日本を滅ぼさせないために、日本列島にペンライトの波が輝いている。

春の交流会の報告
岡山・旭東・備北支部 ―ガイド付きで造山古墳を散策―
備北支部 土井 彰


 私は総社に50年生活していながら隣の高松城址や造山古墳に足を運んだことがありませんでした。
 昨春、岡山・旭東支部の交流会に参加し、楽しく有意義な時を過ごすことが出来ました。この時、造山古墳が次の計画と知り、備北支部の合同を依頼しました。岡山支部の井上先生の主導で、現地の下見や係の打ち合わせを重ねて、当日を迎えました。
 当日の天気を心配していましたが快晴! 係の準備で早めに「地獄田」の現地に到着したところ、早朝の「和」畑で定広先生が化粧直しをしてくださっていました。地獄田周辺で日向ぼっこをしている間には「ケーンケーン」と雉の鳴き声が周辺から響き、突然尾羽の長い雉が目の前に現れます。早朝から楽しませてくれました。
 ビジターセンターでガイドをしていただく、定広・藤本・田中さんの紹介、公会堂での小川副会長の挨拶の後、3班に分かれて古墳群巡りに出発しました。巨大古墳の造られた様、円墳からの眺望、阿蘇凝灰岩石棺の謎、千足装飾古墳の石室・埴輪列等々。考古学への関心が揺さぶられます。
 公会堂で「桃太郎祭り寿司」を食べ、田中先生のアコーディオンに合わせた??歌声交流の後、三陸沖震災への黙祷も含めて近況報告交流が和やかに繰り広げられました。公会堂の片づけ、予定外の土筆狩りも予定時間内で終了して散会しました。
 準備段階から協力、お世話になった先生方、特に定広夫妻には微に入り細に入り心遣いをいただき心から感謝申し上げ、最後に高退教会員・ご家族の健康を祈ります。
参加者は、岡山支部20人備北支部7人旭東支部2人備南支部1人とガイドの方2人の合計32人でした。

参加された方の感想を紹介します   岡山支部 川鍋暢子

◎古墳に直に登ることができ、皆様のお話をきくことができリフレッシュできました。ありがとうございました。<備北支部 石井美鶴>
◎はじめての参加でしたが、皆さんにお会いできて良かったです。<備南支部 石原靖介>
◎古墳の勉強、一層ふかまりました。次回もご連絡ください。ぜひ参加させていただきます。<岡山支部 井上憲璽>
◎井上憲璽の妻として参加させていただき感謝しています。造山古墳には度々来ていましたが、ガイドの方の説明が分かりやすく、知らないことばかりで本当に楽しかったです。来年もぜひ参加させてください。ありがとうございました。<井上三枝子>
◎好天にめぐまれて、いい1日になりました。定広先生には、去年に続いてお世話になりました。ありがとうございました。<旭東支部 岡田憲朗>
◎造山古墳はさすが日本第4位の大きさということを実感する広さであり、歴史があると思った。ガイドの方に、感謝、かんしゃ、感謝です。<旭東支部 岸本幹雄>
◎冷たい朝でしたが陽が当たるとぽかぽか暖かく、よい一日となりました。古墳の作り方を知り、堀の意味がわかりおもしろいと思いました。直弧文の不思議な模様の意味が知りたいです。今後も造山古墳に関心を持っていきたいです。<岡山支部 北村庸江>
◎今日はお天気もよくて、とても楽しませてもらいました。かつて発掘の仕事をしていたのでなつかしかったです。ありがとうございました。<岡山支部 木村徳子>
◎造山古墳に来たのははじめてです。とても楽しかったです。ありがとうございます。<岡山支部 駒越丘>
◎例年以上の参加者、春の暖かい日ざし、熱心なガイドさん、とても充実した楽しい一日で、元気をたくさんいただきました。特に備北地区の方々、懐かしい方々にお会いでき、高退教ならではの集いでした。近い所に住んでいるのに、造山古墳は初めてで、古墳の話は新鮮で、久しぶりに脳の活性化になりました。<岡山支部 島田宏惠>
◎とても楽しかったです。腰が痛くてついて行くのがやっとでした。次回はもっとスムーズについて行けるように努力します。吉備の王者は日本列島の初めの王者ではないかと思っています。<岡山支部 津嶋宣夫>
◎お世話になりました。<備北支部 土井彰>
◎他支部の方々に数十年ぶりにお目にかかれて交流が出来ました。定広さんの奥様をはじめ、出会った住人の方々が、やさしくてほっこりしました。総社高校在任中、一年生の徒歩訓練は、一日の終わり頃に造山古墳を歩いて、足をひきずりながら、高校に帰るコースでした。しかし総社には、何基も古墳はあり、生活の一部のような生徒が多くて、「大きい!歴史のある物!」くらいの単なる山でした。私に、学ぶ姿勢がなかったのもありますが、古墳の中に住んでいた定広数学教師さん、何の情報もくれなくて、体育科の冬の厳しい行事に過ぎなかったのが残念です。<岡山支部 難波欽子>
◎古墳について知らないことばかりで大変勉強になりました。<備北支部 逸見健治>
◎造山古墳は何度も訪れましたが、その都度新しい発見があってとてもいいです。今回の交流会でも、ガイドさんの説明に何度もうなずいて、楽しくまなぶことができ、会員の皆さんと充実した1日を過ごすことができました。新しい発見をもとに俳句に挑戦、テレビのプレバトが講師がわりです。<岡山支部 美甘晃>
◎楽しい1日でした。他地域の方との合同の会も良いのでは・・・と思いました。あちこちと痛いですが、機会があればズーっと参加させていただきます。<備北支部 山本浩>
◎ガイドをいただいて、大変わかりやすく、楽しく散策することができました。心臓の手術のすぐあとであったので、参加するかどうか考えましたが、参加してよかったと思います。あと何年参加できるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。免許の更新もできましたので、健康であれば、参加させていただきます。<岡山支部 横田廣太郎>
参加者の方から寄せられた俳句と短歌です。
◎菜の花や古墳の丘に立つ二人
 いにしへの大王眠る造山古墳の里に平和 の菜花<いっかん>
◎菜の花や和の字に集ふ元青年<庸江>
◎震災を忘れじ菜畑の「和」の一字
吉備の野の塚より春の風光る<恵風>
◎いにしえの王者の想いしのびつつわが身の先をゆめみてすごす<宣夫>
◎春弥生考古学ブーム老い群れる
はるやよい三支部の集いつくりやま<彰>
◎春うらら円筒埴輪整列す<暢>
◎土盛りて造山(ぞうざん)という春古墳
春淡し石室に積むサヌカイト
土筆道ぷらぷらと行くつどいかな
春寒や古墳を科学する人も<晃>

備南支部 
―新発見玉野!長寿のお祝い―
備南支部 綾野保晴


 R8年3月31日(火)、昨夜からの雨も上がり、お昼前には春の光が差し始めた。午後は季節外れの暖かさになり、気温は20度を超えた。宇野駅10時36分着の電車が到着した。多くの乗客が降りてきた。外国人、外国人、外国人、まるで異郷のようだ。宇野駅は、外国人観光客を歓迎し、より快適に利用してもらうための取組をしている。「通り過ぎる街」からの脱却も目指しているが、観光客たちは、直島など瀬戸内海の島々へ向かうフェリー乗り場の方へと向かって行った。集合時間の10時50分が過ぎた。一人まだ姿が見えないが、世界一人旅の方なので、そのうち直接会場に来られるだろうと判断し、昼食会場の「台湾茶カフェ 無天茶坊」に向かった(この方がナビ嫌いとは知らず、大変迷惑をかけてしまった)。11時40分過ぎに参加予定者10名が全員そろった。会食、台湾料理、メニューは「四季菜魯肉+綜合豆花(スイーツ)」。本場台湾の味でお腹一杯になる。食事後、近況報告を始める。「山村に移住、縄文犬を飼う、自然農法に挑戦」「1月、階段から落ち肩の骨折、年齢を重ねて、予期しないことが起こることを実感」「趣味の骨董、あわや本物の“木喰仏”かと心ときめかすも‥‥。」「予定のない日はない、回遊魚の如く動き回る充実の日々」「17年になってしまった病との付き合い、日々是好日を身をもって知る」「愛妻の認知症との付き合い、疲れつつも新しい発見も」「日台を知ることから始まる友好、日本の統治下にあった台湾を舞台にした映画セデック・バレの紹介」「日々書くことに喜び発見」(自作の詩を朗読される)「講座終いをしつつも、まだまだ続く古典の日々」「2月、白内障の手術をする、女医さん、女性看護師さんと見つめ合う幸せ」など、加齢を嘆きつつも、皆さんお元気。ここに集えたことが即ち「幸せ」なりということか。時間がすこしオーバーし、宇野港アート鑑賞の時間が十分とれなくなってしまった。出発時間まで自由に宇野港周辺を各自で散策することにした。宇野港アートは後日のお楽しみ。14時宇野港出発、車3台で八浜を目指して出発した。   
萱先生の長寿お祝いの会
 会場は、萱先生のご自宅から100m程の所にある、ドリアと手作りケーキのお店のネネグース・カフェ。岡山市立商業高校で10年間同僚としてお勤めになられた難波欽子先生、備南支部の5名、計6名で萱先生を囲み歓談しました。先生は耳が少しご不自由でしたが、お元気なご様子で、時折庭の草取りなどをしてのんびりと過ごされているということでした。
 先生の勤務校は岡山市立商業高校(夜間部、昼間2部、衛生看護科)です。途中5年間、高教組の組合専従を勤めましたが、その後、他の学校への転勤は一度もなく、現役すべてを市立商業高校に携わったことになります。コーヒーとチーズケーキを前にして、萱先生の若き日の蛮勇、生徒たちとの濃密な関わり、生徒指導を中心とする熱心な勉強会など、欽子先生が、色々と引き出してくれました。萱先生はコーヒーをすすりながら温かいまなざしで私たちを見守っていました。先生の晩年は、皆さんもご存じの通り、高退教の会長、9条の会、年金者組合の活動等、精力的に取り組まれてきました。
 萱先生は、生徒の生きる力、成長を見守り続け、そして社会人としてどう生きていくかを常に背中で見せ続けてこられたと言えるでしょう。

備西支部
―泉勝院・長寿を祝う会・金光教散策―
備西支部 三宅幸良


 3月26日、備西支部の春の交流会と森文忠先生の長寿を祝う会が開催された。
交流会の中で、特に印象深かったこと
 1つ目は最近話題のAIの利用が、高退教の幾人かの先生により既に普通に行われていることを知り、たいへん驚いたこと。
 2つ目は他支部から参加下さった難波欽子先生。岡山高退教の総会でも健康体操を楽しく教えてくれる難波先生は、日ごろより体をよく動かされているのか元気ハツラツで、様子を見たり声を聞いたりするだけでも元気をもらえた。
 3つ目は、それぞれの目的地で時間の制約がある中で、2人の幹事の先生が時間調整に苦労するほど盛り上がりがあったこと。(それだけ行事内容が充実していたという証拠か?)
 とにかく、好奇心かつ研究心が旺盛な先生方が多く、泉勝院では住職を質問攻めにする場面もあった。
以下は行程順の報告
 (1)まず泉勝院(浅口市金光町金光駅より北西約1.5キロメートル)。住職(元理科の高校教諭)によれば、寺の南側は江戸時代は海。(後で金光歴史民俗資料館に寄ったが、そこの新田村絵図に「1670年ようやく干拓で、占見新田村が出現した」とあり、住職の話と一致)。
 また質問に答える形で、一般に寺は「〇〇山〇〇寺〇〇院」と三通りの名称があり、よくある質問で「延暦寺という個別の寺はどこにあるのか」に対しては、比叡山が寺全体の所在地で、そこにある一つの固有名詞として延暦寺があり、その寺の中にさらに院があるというふうにわかりやすく解説された。「ちなみに、ここは、『西谷山(さいこくさん)清水寺(せいすいじ)泉勝院(せんしょういん)』になる」と。
 驚くべきこととして、江戸時代初期、池田公(池田光政のことか。金光町は備前岡山池田藩の中ではないが、その支藩としての鴨方池田藩が近くにあったため、池田光政の影響が大きかったか)の宗教政策(住職によれば儒教の教えに真面目すぎて)により、泉勝院近くのいくつかの寺が弾圧され廃寺となったことを教えられた。自分の生まれた浅口市寄島町の記録にも、同様に零細ではあるが5つ以上の寺が潰れている。
 (2)昼食は泉勝院より直線で約3キロメートル西の「吉幸」で。備西支部の総会と森文忠先生の長寿を祝う会を兼ねて、1時間余り楽しい時間を過ごした。森先生からは自宅でできた「はっさく」類を全員がいただいた。数年前、ご夫婦で何度も(10回どころではない)海外旅行をした紀行をまとめた非常に分厚い本を先生から全員がいただいたことも話題となり、改めて感謝した。
 (3)昼食後は金光歴史民俗資料館へ。備中国絵図によれば、1680年頃には、まだ連島・七島・柏島・乙島が島として描かれていた。また現在の笠岡から玉島の一部が大きな塊のある「大島」と書かれており、多くの人が「なるほど」と頷いていた。
 金光教御霊地鳥観図では、大正から昭和初期の大谷地区門前町が描かれており、旧制金光中学校(現「金光学園中学・高等学校」)は実際には大谷地区にあったが、当時すでに現在地への移転計画があったため、想像で現在の場所に描かれたという。
 (4)その後、金光教本部を訪ね、本部背後の丘のほぼ頂上にある歴代教主(金光様)が祀られている奥城(おくつき)付近を見学。
 最後に近くの喫茶店「木の実」に全員が集合し、一日の楽しかったことを語り合い、来年の再会を期して締めくくった。

『松は翠に』
美作支部  森藤康郎


 松の剪定をして、お金を得るようになって5年経つ。この世界では、まだまだ駆け出しの若造である。とはいえ、松の剪定そのものは、到達点のない無窮の世界である。多少なりとも上手にできたかな?と思うことも時としてあるが、それは明日に通ずるものではない。一本一本の松はそれぞれに違い、生育状況も異なる。剪定の時期によって、作業も異なる。しかも、地域や人によって剪定のやり方も異なるのである。基本はあるにはあるのだが、樹景や庭の調和を考えて、この松をどういう形に仕上げていくのか、この枝は来年どのようになっているのか、5年後にはどういう姿の松になっていけるのか、などと本当は結構クリエイティブな仕事なのである。しかし実際には、時間に追われてどう折り合いをつけるのか、妥協の積み重ねである。
 理想を言えば、晩春から初夏にかけて新芽を摘んで芽数淘汰しておく【みどり摘み】。晩秋から初冬にかけて古葉を落とし枝を整える【もみあげ】の行程を行う。しかし実際には、1年に1回の剪定がほとんどで、ひどい場合には2・3年に1回の剪定であったり、5・6年ぶりというような依頼もある。こうなると、もう手が付けられなくて伐採作業に近い内容となる。
 背景には、高度成長期のマイホーム建設と共に庭が造られ、庭木の王様である松が植えられた。松がある庭は、格調が高い。松は、他の植木に比べて手入れに手間がかかる。要するに、金がかかる。それだけに、庭に松を植えることは、庶民の憧れであった。しかし、時を重ね一家の主人は亡くなる。年金生活となる。自分でしていた庭の手入れが、出来なくなる。本職の植木屋は、総じて高値である。5万10万、当たり前に請求される。かくして、シルバー人材の剪定の出番となる。おじいさん・お父さんが大切にしてきた庭木だけれど、出来るだけ小さく切ってくれ、という依頼がほとんどである。多くの場合、男性の方が早く弱っていき、残された奥さんや子どもさんが、庭の維持に苦労しているという図式である。住人がいなくなって、子供たちが都会に出ていて、空き家となった庭の手入れという依頼も多い。空き家だからといって、適当なことはできない。それなりの見栄えのする庭に、仕上げていく。しかし、きれいに仕上がった庭を最後に眺めて、この庭木たちは誰にも見てもらえないんだなって思う。
 恒に考えるのは、庭のバランスと樹形の整い方だ。理想はあるけれど、時間が許さない。シルバーは時間給なので、1時間千円程度の単価で1日7時間8000円から9000円(バリカンとかの道具料込みで)の手取りとなる。ちなみに、昨今の最低賃金引き上げの恩恵を、もろに受けている。現役の教員時代は、20年ほどほとんど賃金の上がらない暗黒の時代だったので、ここにきての最賃の毎年の引き上げのありがたみは身に染みる。とはいえ、個人事業主としての扱いで、何の保証もなく、必要経費は低く抑えられ、当初は高校生のバイト並みの賃金で、諸経費を考えると最賃をも下回る手取りであった。毎年の最賃見直しによって、ここのところ何とか労働に見合う賃金になってきたと思う。早く最賃が、1200円・1500円にならないかなと思う。しかし、インボイス制度によって、弱者からも漏れなく税金の投網でからめとれれてしまう。介護保険料や国民健康保険料を含めて、重税だなとつくづく思う。消費税とかを考えると、感覚的には正に【五公五民】である。
 さて、松の剪定の話に戻るが、剪定は文字通り葉や枝の淘汰である。人間にとって見栄えのよいように、木の形を整えていく。教育の場においては、平等に理解できるように、丁寧に教えていく。剪定は、真逆である。淘汰、切り捨ての連続である。将来を考えて、最低限の保険の枝は残し、あとは素早く切り捨てていく。樹木の生命のギリギリの少し上で、すっきりとした樹形を整えていく。松葉の少ないほど、よくできた剪定といえる。【中芽切り】という松の剪定の技がある。これは、とりあえず樹形を整えて、時間内に仕事を終わらせるための技である。これをしないと、仕事は時間内に終わらない。しかし、新芽の部分をすべて飛ばすため、芽のコントロールができない。どこに芽ができるかは、木に委ねるという方法だ。
 剪定は妥協の連続である。その中で、何とかよい剪定をしたいともがく。松の剪定をするときは、本気モードで必死である。それだけに、まずまずの剪定ができたときは、心からホッとする。来年もまた、この松に触れるだろうかと思う。木は庭の中で、上手に生かしてやれば、人間よりも長い命を持っている。
 その松よりも難しいのは、紅葉である。松は、人間の思う通りに大体コントロールできるのだが、紅葉はそうはいかない。思わぬ所に、あばれ枝が出てくるのである。紅葉の木に、お前そう来るんかと言いながら、はさみを入れる。名庭といわれる庭の紅葉の裏には、きっと思いもよらぬ攻防があるのである。

出会いとスケッチの旅 ブルガリア編(1)
備西支部 水間正雄


プロヴディフ

トルコのエディルネをバスで発って、ブルガリアの首都ソフィアに向かった。バスの中で隣席になったAさんが、途中のプロヴディフを勧めたので、『地球の歩き方』を見ると、「交通の要所なので、紀元前4世紀にマケドニアの商業都市として栄え、古代ローマの支配下になって作られた円形劇場も保存状態が良く残されており、夏は野外劇が催されている」と記載されていた。予定外だったが、下車するとAさんも下車し、ここで降りたBさんも誘って近くのレストランで昼食を取った。
 ここにはユースホステルもあったので、急遽宿泊することにして、Aさんが次のバスで発った後も、私はこの街の住民であるBさんと残って話を続けた。その後、会計に行くと、先に店を出たAさんが実は3人分の昼食代をすべて支払ってくれていたことが分かり、感謝の気持ち一杯で店を後にした。
次の日、勧めてくれていた民族学博物館になっている「旧豪邸の中でもひときわ美しい」と記載されていた「屋根がユニークな屋敷」を訪れてみた。
プロヴディフ民族学博物館
 この屋敷を描き終えた頃、ポーランド在住で観光に来ていた日本人の母子と会った。「物価の安いポーランドよりブルガリアなど黒海沿岸の国の方が安い…」等々旅を続けるのに参考になる情報をいろいろ教わった。お二人にとって、本当に久々の日本語での会話は格別だったようで、お互いに「ありがとうボン・ボヤージュ…」で握手して別れた。名前、住所、電話番号等の交換はしなかったが、温かさが残った。

ソフィアのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂


ソフィアについて、『地球の歩き方』では「首都ソフィアでは旧ソ連時代やブルガリア共産党に関係する建物や銅像が撤去され、通りや広場の名前も旧ソ連を連想されるものは一掃されている。」と書いてあった。
 しかし、このアレクサンドル・ネフスキー大聖堂だけは、街の魂として変わらぬ輝きを放っている。
 ブルガリアでひときわ美しいと言われるこの寺院は、独立のきっかけとなったロシア・トルコ戦争で亡くなった20万人のロシア兵を慰霊するために建立された、世界最大級の正教大聖堂だ。
見上げるような高さの黄金のドームは、ソフィアの空に鮮烈な印象を与え、内部に足を踏み入れれば、精緻なモザイク画と重厚なシャンデリアが放つ神秘的な光に包まれる。政治の変遷を超えて、人々の祈りと感謝の象徴であり続けるこの場所には、他では味わえない厳かな空気が満ちていた。

ブルガスのビーチ


黒海沿岸に位置するブルガスは、ブルガリア屈指の港町であり、広大な砂浜が続くビーチリゾートとしても名高い。スケッチしたこの場所は、市民や観光客が憩う「シー・ガーデン(海辺の公園)」に隣接する開放的な海岸だ。
砂浜には色とりどりのパラソルが咲き誇り、水着姿の人々が思い思いに日光浴や読書を楽しんでいる。寄せては返す穏やかな波音を聞きながら、海風に吹かれて筆を走らせていると、この国の夏の平穏な日常を肌で感じることができた。

お便りのページ
「私の朝食作り」              
備北支部 土井 彰


今年は、庭にヒヨドリもメジロも姿を見せません。こぶしの花が食害から避けられるのは良いけれど寂しい春先です。
退職後、晩酌就寝が早くなり、おのずと目覚めも早くなって、ラジオ深夜便を聴き、雑本を読んでいても起床時間が早くなりました。
そこで朝食を一手に引き受けることにしました。
基本的材料は玉ねぎ・人参・かぼちゃ・キャベツ・ホールコーン・キムチの6種です。これに季節に合わせて、そらまめ・アラスカなど畑で獲れた野菜とコンソメを加えた野菜スープ。煮干し、ごぼうの酢漬け・大根のレモン漬けは常備。菜花・ブロッコリーなどの季節の野菜を加えます。あとはトーストとコーヒー。妻は果物入りヨーグルトを準備します。
私たちは二人とも寄る年波で、野菜を主にした食事を心がけています。

「今日の欽子さん」        
岡山支部 難波欽子


 第1と第3土曜の午後6時には、生涯学習センター近くに住まわれる91歳の一人暮らしの女性で体操教室の生徒さんのお家に夕飯を頂きに参ります!
 昨年の夏から月2回きちんと、ズーズーしくお邪魔して、パクパクパク食べるのです。食べっぷりが気持ち良いと誉めて頂くものだから…お一人だと食事の支度に力が入らないし、二人で食べると買い物がし易くて、豪華だったり変化がつけやすいそうです。人助けをしているみたいです。
 今日は久しぶりに私の着物を持ち込んで着付けを教わるので、大島にしょうか?紬にしようか?帯や帯締めに悩み時間がかかりました。指導が厳しいので身に付くから、嬉しいです!いい加減ではダメでやり直しを素直にしますが、まだこれから性根をいれざるを得ない状況です。
 私の体操教室での生ぬるい指導はイライラしていらっしゃるかも?二時間も体操をした最後に良い姿勢でスムーズに肩倒立をされるのです!私は思わず、「ヨイショ」と声をあげながらやるのが精一杯の指導者です。
 彼女に出会ったのは、4年程前の高退教の展示会場でした。末石さんとご一緒で、シュロでのバッタに興味を持たれたので、お家に折り方を教えに行き、数人と折りましたが、覚えられないままだからと今も悔しがられています。サッと折ることは出来るのです!覚えられない…だけです。
 いつものように朝のラジオ体操(15年は続いている)を近所の方々とした後で、お土産のお花(バイモ、ヤブツバキ、アセビ、コバノミツバツツジ、リキュウバイ、タムシバ)や野菜(菜花、ワサビ菜)をまとめ、昨日山で採ったワラビのアク抜きをしました。オマケにウスタビガの繭が余りに美しいので見せてあげらるように準備しました。
 雨が降り続いているけれど、体操の新聞に手紙を添えて郵送したり、コレマタ、91歳で登山(備南の交流会の前日は一万歩、由加山の頂上を歩きまわった)を私よりも軽くされる女性宅に全国紙を配達をしてからご馳走になりに参ります!

「能」を再開しました!     
岡山支部 北村庸江


 65歳で退職し、非常勤の道も諦めました。原付通勤の私には、夏の異常な暑さは天敵だからです。
 さて、暇になった私は、何かキョウイクとキョウヨウが必要だと考え、大学時代に能楽部だったので仕舞と謡を再開しました。
 40年以上のブランク。流派も金剛流から観世流に変わり、一からのスタートです。先生に習っては家で一人楽しめればと始めましたが、有無を言わせず発表会に出され、会に入らされ・・・大変なことになってしまいました。
 年2回春秋に後楽園で行う会は、どなたも来ていただけます。下手な素人芸で恥ずかしいですが、一所懸命練習した、ささやかな成果です。興味のある方は入場券をお渡しします。謡は、大きな声で発声すれば、すっきり。仕舞も足腰の強化(?)に最適。一人で楽しむ時間は、いい気分です。東公民館で月2回練習できます。生徒4人で習っています。長く続けられたらと思います。
 藤々会春の大会は「5月5日10時開演 後楽園能舞台 演目 能 小鍛冶他」です。お気軽にどうぞ。

新自然歴史探訪のご案内(下見の報告)
旭東支部 岡田憲朗


 4月5日(日)9時に岡山駅西口に、藤原・武田・土井・井上・岡田の5人が集合して今年の新自然歴史探訪の下見に出発しました。今年も井上さんの運転でお世話になりました。行き先は奈義町と久米南町です。2時間足らずのドライブで、どこの川沿いも山も桜が満開でした。
 まず菩提寺の大銀杏です。900年の風雪に耐えた姿は痛々しくもあり神々しくもありました。見るまでは、古い大きな木くらいにしか思っていなかったのですが、実際にその前に立つと、その存在感に圧倒されました。
 お昼は、「奈義町山の駅」で地元の黒豚を使ったウインナーとハンバーグの定食を5人の参加者がそれぞれ試食をしました。高原からの見晴らしも抜群で爽やかな空気を満喫しました。
 その後県道52号線を南下して「片山潜記念館」です。中を見ることは出来ませんでしたが、変わった建物と、説明文、石碑などで、その足跡を十分知ることが出来ました。
 最後は誕生寺です。浄土宗の開祖である法然上人ゆかりの寺です。ここにも古い大きな銀杏の木がありました。ここの銀杏と、菩提寺の大銀杏、もう一つ阿弥陀堂(奈義町)の大銀杏の3本がそれぞれ法然上人ゆかりの木で、そのDNAが共通しているそうです。また寺の中に「お七」の着物があります。井原西鶴の『好色五人女』の中で、恋しい男に会うために自宅に火を付けて処刑された女性です。「丙午」の迷信の元になった話です。好天に恵まれていい下見になりました。同封の要項をご覧になって、ふるってご参加ください。


第26回 高退教作品展のご案内


 前号の会報に同封の要項では、6月30日(火)~7月5日(日)となっていましたが、7月7日(火)~12日(日)が正しい日程です。申し訳ありませんでした。作品の搬入は7月7日(火)10時~13時にお願いします。このところ、作品の数が減っています。ご協力をお願いします。


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会報184号をお届けします。心配していましたが、たくさんの原稿をありがとうございます。感謝です。※「戦後80年 未来へのことづてⅢ」は、犬飼さん、青木さん、正保さんの3人の方が記事を書いてくれました。※花田さんの怒りは私達共通の怒りだと思います。※春の交流会の報告です。岡山・旭東・備北の3支部は合同で、備南支部・備西支部は長寿のお祝いを兼ねての開催です。※森藤さんの松の話も興味深い話です。※水間さんの連載はまだまだ続きます。※今回から「お便り」のページを作りました。「会員をひとりにしない。ひとりぼっちの会員を作らない」という高退教発足の理念があります。会員の高齢化が進んで、介護やひとり暮らし、病気などの悩みが身近になっています。日常の話や愚痴をこぼすことで、共感できることもあるのではないでしょうか。次号は総会のお葉書の紹介があるのでお休みになりますが、10月の第186号から再開します。ぜひ投稿をお願いします。岡田のメールアドレス「ikkankk1158@yahoo.co.jp」までお願いします。200~300字程度で写真はあってもなくてもかまいません。どしどしお願いします。※今年の新自然歴史探訪は奈義町と久米南町です。ふるってのご参加をお待ちしています。※作品展の日程をご確認の上、応募をお待ちしています。※山本和弘前事務局長が退院されたという報告がありました。当分の間自宅療養が続くそうですが、ゆっくり療養されてまた元気な声を聞ける日をお待ちしています。(岡田憲朗)
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