
「九条を守り守られ八十年戦争知らずに生きてきた日々」新聞の短歌欄に載っていた歌です。終戦の翌年に生まれた私そのものです。今年度の定期大会での発言を機に、前号の機関誌に「戦後
80 年未来へのことづて」との特集が組まれました。私も今しかないとの思いに駆られて、あの戦争に翻弄され数奇な運命をたどった叔父のことを伝えたいと筆を執りました。
私の父は満州鉄道に勤めていて戦場に赴くことなく、祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、身近な肉親から戦争の話を聞くことはありませんでした。だから結婚後に聞いた叔父の体験はあまりにも衝撃的でした。
叔父は上房郡有漢村で農家の 3 男として生まれ、当時の貧しい家庭の男子がそうであったように志願して入隊した。それまで満州で治安作戦に従事していたが、開戦の報に兵士一同が一斉に沸き立ち一刻も早く戦場への気持ちでいっぱいだった。昭和
17 年 12 月出動の命が下った。18 年 1 月、第 4 航空軍の一員として空襲下のニューギニア東部ニューブリテン島に上陸したが、その夜敵の襲撃を受け否応なく戦争の渦の中に巻き込まれていった。その後も日本軍は苦戦に苦戦を重ね、19
年 3 月には輸送船団は壊滅的な打撃を受け、3664 人が死亡した。戦況悪化のため西部への退行を余儀なくされ、89 名の仲間と共に 500 キロ離れた後方基地ホーランジアへの後退が始まった。
19 年 6 月、孤立無援のニューギニアで味方の再来を信じて籠城した日本兵士は、散弾、飢餓、マラリアなどで 17 名にまで減った。熱帯雨林の中で自活生活をしなければならない。まず住居、岩窟を利用し床に細木を敷いて何とか横になれる場所を作った。次に食糧と衣類、敵に見つからぬよう夜間に集積所までたどりつき必要な物資を手に入れた。20
年 4 月、敵の襲撃を受け集積所は焼かれすべてを失った。残った兵士は 8 名、最後はとうとう 4名になり、本格的な自活生活が始まった。一番苦労したのが飲み水、火は試行錯誤の末眼鏡のレンズを
2 枚合わせて火を熾すことができた。畑を耕し現地の植物や、木の実を植え食べられるものはすべて口にした。いつまでもここにはいられず、奥へ奥へと逃げて行った。1
日 1 日を生き延びるに必死だったが、それでも友軍の戦況、別れた仲間のその後、自分たちは日本本土を再び踏めるのか、もし捕らえられたら生きて虜囚の辱めを受けるよりは舌を噛み切ってなどの思いが頭をよぎった。
26 年 5 月、密林の中で現地の住民と出会った。7 年ぶりに自分たち以外の人間に出会った。向こうは日本人と察したようだが、何しろ言葉が通じない。敵意がないことを知らせようと身振り手振り必死だった。日本人同士が一つの芝居をして物の名前を示し、少しずつ時間をかけて言葉を身につけていった。現地の人々との交流ができるようになると栽培する野菜が増えていった。現地の人々が一番喜んだのが、蛮刀の修理研磨。その噂は他村に広がり、やがてオランダ官憲の知るところとなった。29
年 9 月、町の警察署へ連れて行かれたが、予想に反して友好的な扱いを受け、こちらの希望(帰還の意志、家族への手紙、遺骨の収容等)をすべて聞き入れてくれた。
この時はっきり日本軍の敗戦を知った。苦しい 10 年間、細々ともち続けてきた一縷の希望が絶たれ呆然と立ちつくした。30 年 3 月、横浜港に到着、12
年ぶりに見た祖国の姿、懐かしい家族との再会。言葉に言い尽くせぬ感激、喜びをかみしめながら生きてきた足で第 1 歩を印した。4 人の生還は新聞に大きく報じられた。
帰国後、栄養失調とマラリアの治療のため国立病院へ入院、同郷の小島氏と手記の起草を思
い立つ。その後『私は魔境に生きた』と題して出版される。結婚後 2 人の娘や孫に囲まれ穏やか
な余生を送った。死期が近いと聞き見舞いに行ったとき、両手を空にさまよわせ「危ない、逃げ
ろ」とうわ言で叫んだ。50 年経った今も戦争の恐怖が消えていないことが衝撃だった。
1 学期の終業式後の全校集会で、私は叔父の話をしました。8 月を意識して過ごしてほしい、戦
争や平和を考える時間を持ってほしいとの願いから。会の後、一人の先生が「自分の親もニューギニアで戦死した。顔も知らない、遺骨もない。ぜひその本を貸してほしい」と。その方は退職後現地を訪ねたそうです。きっと家族や周りの人に語り継いだことでしょう。戦争を体験した人が少なくなっている今、誰かに伝える、また次の人に伝える。平和のバトンを絶やさぬように。
全退教中国九州沖縄ブロック学習交流集会が、11月18・19日広島で開催され、
岡山高退教からは岡田憲朗旭東支部幹事と副会長の小川が参加しました。全体の
参加者は、岡山2人、島根2人、山口7人、広島多数、福岡3人、佐賀7人、長崎1人、沖縄はなしでした。やはり小中の退教のある県は元々の人数も多いようです。
一日目の集会は「広島ガーデンパレス」で開かれました。集会は、ガーデンパレス 2 階の部屋で行われ、広島女退教の先生方による歌声で幕を開け、鍛冶幹事(長崎高)のあいさつなどに続き、学習に移りました。
学習のテーマは①広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長による「ノーベル平和賞ツアー」報告、②山田寿美子さんの「原爆孤児として生きて」と題する被爆証言、③是恒高志氏の「西日本・沖縄の軍事基地化と日鉄呉跡地問題」講演、と盛沢山でした。
佐久間さんは、ノルウェー国会議員への折り鶴贈呈・被爆樹の植樹イベント・被爆者証言やノーベル平和賞受賞式の様子などを写真やビデオを使って報告してくれました。受賞演説で田中熙巳被団協代表が述べた「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていません」「核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが、原爆被害者の心からの願いです」という言葉を再度かみしめました。
| 11月18日 |
開会行事
学習Ⅰ
①ノーベル平和賞ツアー 佐久間邦彦氏(県被団協理事長)
②原爆孤児として生きて 山田寿美子氏(県被団協副理事長)
学習Ⅱ 西日本・沖縄の軍事基地化と日鉄呉跡地問題
是恒高志氏(元中学校教師)
交流会
| 11月19日 |
呉のフィールドワーク(バスで)
① ゆめタウン前陸橋
② 歴史の見える丘
③ 第二音戸大橋
④ アレイ烏小島・潜水艦基地
山田さんは、原爆で両親を失い、生き残った姉・従姉とともに親戚の家を転々としなければならなかった子ども時代の苦労を語ってくれました。
被爆者として差別の目を向けられたこと。親戚の家では、遠慮の気持ちもあり、学校から帰ると家の手伝い仕事に明け暮れ、暗い性格になっていったこと。内気で、人と話すこともなく、自分を否定的にしか見れないようになっていったこと。
その性格や生活ぶりが変わるきっかけとなったのは、結婚した姉夫婦が引き取ってくれ、高校受験に失敗した自分に姉の夫がかけてくれたことばだったそうです。
「受験に失敗したぐらいが何だ!気にするな!」「今の自分で大丈夫!自分を大事に!」「自信をもって!」こうした義兄のことばを聞いて以来、他人とも積極的に話すようになり、高校での勉強も面白くなり、前向きに生きるように変わっていったこと。日本福祉大学を卒業して福祉関係の仕事を生涯続けてきたことなどを話してくださいました。
被爆 2 世である私にとって、山田さんの子ども時代の苦労話は他人事とは思えず、心に染み入る証言でした。
是恒高志氏は、Q&A 方式で、高市政権が進める西日本・沖縄の軍事基地化の問題を訴えました。米国の要求にこたえ「防衛費のGDP 比 2%を 25
年度内に」達成するばかりか、トランプの要求「GDP 比 3.5%」にさえ応じようとしている高市政権。是恒氏は、「米国が『軍事費を増やせ』というのは、『米国製武器をもっと買え!』と要求していること」と喝破。米国は、第
2 次大戦後の 80 年間、2 年半に 1 回の割で戦争をくりかえしてきた。常に「敵」を必要としてきた。米国の武
器メーカー(ロッキード、ボーイング、グラマン、ゼネラルダイナミックス、レイセオンなど)は、一度はつぶれかけた会社だが、戦争を通して巨大になった。「トランプ大統領も米軍事産業のセールスマンだ」と説明したうえで、高市首相の「台湾有事は存立危機事態」発言の危険性に言及しました。
その後、部屋を 1 階に移して夕食交流となりました。
残念ながら沖縄からの参加はありませんでしたが、夕食を囲みながら、長崎高・佐賀高・福岡・山口・山口高・広島・島根・岡山高それぞれが、芸を含んで活動報告をしました。この場で、2026
年度島根・2027 年度岡山高が、ブロック学習交流集会を担当すると確認しました。
二日目は、バスに乗り込み、呉のフィールドワーク。①ゆめタウン前陸橋②歴史の見える丘③第二音戸大橋・日招きレストハウス④アレイ烏小島潜水艦基地を巡りました。
バスの中で、戦前の呉は、沿岸部は海軍の軍用地とされ、市街地・住宅地とははっきり二分された町だったことを教えてもらいました。また、日鉄呉工場跡地を「多機能な複合防衛拠点」として整備(防衛省
24 年 3 月公表)する予定であると説明を受けました。さらに、呉の
港に不気味な色をした何艘もの自衛艦が停泊している姿に接し、呉の軍港化を肌で感じさせられ、「新しい戦前」という言葉がより身近なものとなった気がしました。平和維持のため自分も何かしなければ・・・と、ジッとしていられない気にさせられたフィールドワークでした。
「吉野一正さん、85 歳おめでとうございます。いつまでもお元気でお過ごしください」。10 月 29 日、竜の口コミュニティハウスを会場に、岡山支部の会員
6 人が集まって「歌声:長寿お祝い会」を開催しました。
先ずはいつものように高退教会長からの記念品贈呈(小川副会長代読)。続いて、アコーディオ
ン演奏の歌声でお祝い会をにぎやかにスタート…
「(^^♪大きな歌だよ あの山の向こうから 聞こえてくるだろう…」「♪雪の下の ふるさとの夜 ♪冷たい風…」。2 曲目になると調子が上がってきてみんな笑顔になっていきました。そして、用意していたワッフルをいただきながらの懇談が始まりました。
まずは吉野さんから近況を…
「年齢を重ねてくると、ついつい引き籠ってしまって外に出ることが少なくなり…、社会から孤立気味に」と悩みごとが出されました。
集まった会員からは、吉野さんに関わる思い出話や質問が次々に出されました。「高教組の大会では“教育者の姿勢とは何か!”吉野さんの発言からいつも学ばせていただいた。自分を反省した。」「甘いものはお好き?お酒は…?」「ダイビングは今もやられているの?」「かつて吉野さんからうかがった安保闘争の時の話で、『デモの隊列にビルの
2 階から花吹雪が…』は、本当?もっと詳しく教えて…」「障害者運動の関わりは今も?」「かつての岡山養護学校の校舎の造りは酷かった…その時に、吉野さんが職場の中心になって…」
和やかな雰囲気の中で「お祝い会」が進み、吉野さんからも…「若い頃に私が岡山養護学校の寄
宿舎職員に採用された時の経緯は…」「補聴器を挿入しているが、聞こえ難いのでついつい大声になってしまう…」「デイケアに行くと、お互いの共通項がないので互いの話が通じない…盛り上がらないが、今日は教育仲間同士だから、こんなに楽しく会話ができた。よかった!」
そしてまた、アコーディオン演奏での歌声を再開して、最後に記念撮影をしました。
「(^^ ♪若く♪明るい歌声に…」「春を ♪愛する 人は…心清き人」「□<緑の山河 ♪雲晴れて…」
いつもとちょっと違う「歌声お祝い会」。歌い過ぎて、最後は全員の声がカラカラになってしまいました。
今年度旭東支部の長寿のお祝いは上記の 3 人の方です。集まっていただいてお話を伺おうと思っていたのですが、竹内先生は入院されているとのこと。中川先生も体調がすぐれないということで、お二人には藤原会長の挨拶文と記念品の図書カードを、お見舞いの文章を添えて送らせていただきました。竹内先生は会報に連載で記事を寄せられて、その機知に富んだ格調高い文章に毎回感嘆しながら楽しみにしていました。ご回復をお祈りします。
三宅先生は 11 月 13 日に先生のお宅に近い赤磐市のおしゃれなカフェでお話を伺いました。支部からは岸本さんと岡田が参加しました。
三宅先生は数年前まで支部の幹事をされていて、私に幹事をするように声を掛けてくださいました。4 月に同い年の奥様がお亡くなりになってから一人になって寂しいとお嘆きでした。奥様は素敵な鳥の写真を作品展に出品されていた方です。先生は絵が得意で毎年作品展にも出品されてきました。今は月に一度趣味の会に参加されておしゃべりをしたり絵を描いたりされているそうです。その日も最近描いたという柿の絵とコスモスの絵を持ってきて見せてくださいました。優しい心温まる絵でした。息子さんやお孫さんの話、釣りの話、最近の高退教のことなど、楽しい時間を過ごすことができました。少し前に転んで顔をすりむいてちょっと痛々しい感じがしましたが、すこぶるお元気でした。「長生きするということは一人になることじゃ。」とおっしゃっていたのが心に沁みました。サングラスをかけて紺色のレガシー(4
輪駆動)で颯爽と帰って行かれました。(2025 年 12 月 8 日記す)
年が明けたばかりの 3 日、米トランプ政権がベネズエラへ軍事侵攻をかけ、マドゥロ大統領を拘束しアメリカへ拉致するという大事件が勃発しました。これは、国際法違反の侵略行為そのもので、許されるものではありません。私は、米軍によるベネズエラ侵略を満腔の怒りを込めて糾弾します。
当初、トランプ氏がこの軍事行動の名目としてあげていたのは、マドゥロ氏が「米国への大量の違法薬物密輸を担う犯罪ネットワークの首謀者だから」ということでした。どうやら、それは全くのフェイクということが明らかになってきています。時がたつにつれ、トランプ大統領は、世界最大といわれるベネズエラの埋蔵石油支配をねらって軍事行動を起こしたことを、明け透けに語りだしています。
百歩譲って、ベネズエラから大量の麻薬が米国に流入しているにせよ、主権国家の大統領を拉致しその国の政権を転覆させることは、国連憲章に完全に違反します。「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」(国連憲章第
2 条第 4 項)を完全に無視しています。
トランプ米大統領は7 日、ベネズエラに関して、「適切な政権移行ができるまで」石油産業を含め「米国が運営する。」「我々が、非常にもうかるやり方で再建する。」
「私には国際法は必要ない。」などと述べたと伝えられています。帝国主義者・植民地主義者としての顔を恥ずかしげもなく世界にさらしています。
ベネズエラでの軍事的「成功」に味をしめたのか、ドンロー主義を唱え、コロンビアへの侵攻、中南米をアメリカの「勢力圏」として支配すること、はてはグリーンランドの領有までも口にする始末。まさに、歴史を
100 年・200 年も逆戻りさせる悪逆ぶりです。
これに対して、5 日開催の国連安全保障理事会では、米国による軍事攻撃を「国際法違反だ」と批判する声が相次いだと伝えられています。また、電話会談したブラジルのルラ大統領とメキシコのシェインバウム大統領は、米国のベネズエラへの軍事作戦を「主権に対する攻撃」として強く非難し、トランプ米大統領が主張する「勢力圏」思想も厳しく批判しました。当の米上院でも「今後は議会の承認がない限り、トランプ氏がベネズエラで軍事行動を起こすのを認めない」とする批判の
声が挙がっています。また、全米各地でトランプのベネズエラ侵略への批判行動が行われています。
日本でも、野党各党や民主的諸団体が「主権国家に対する軍事侵略は許されない」と、トランプ氏の軍事行動を非難する声明を発表しています。ところが、肝心の高市政権は、頑なにトランプへの批判を避けています。日頃から、中国の軍事訓練や北朝鮮のミサイル発射を非難し、これを防衛予算拡大の最大の「理由」にしてきた日本政府の姿勢が問われる問題です。高市政権のダブルスタンダードぶりが見苦しい。
私たちも「トランプは軍事侵略はやめよ!」「高市政権は、トランプの軍事行動を非難せよ!」と大きな声をあげていきましょう。(2026 年 1 月
11 日記す)
「日に日に世界が暗くなる」(NHK『ばけばけ』主題歌)ような日々ですが、「母親大会」に参加すると、集まり語り合うことはなんとすばらしいことかと思わせてくれました。昨年
10 月 26 日、瀬戸公民館にて「2025 年岡山県母親大会」が開催されました。会場いっぱいの 300 人の参加で、子連れで参加できるようにと保育付きの練習を実施しているという赤磐市の市民吹奏楽団「
あかいわWIND」の生演奏につづき、広島原爆死没者追悼平和祈念館家族伝承者の忍岡妙子さんの「被爆 80 年平和を願って伝える思い」と題する話をお聞きしました。当時の映像を交えたリアルな体験談に涙をこらえきれない参加者もいて、核兵器の被害のすさまじい映像には目を覆いました。広島の高校生が描いた「原爆の絵」の展示もあり、後の世代のためにはなんとしても世界から核兵器を無くさなくてはと、平和への思いを胸に深くきざみました。分科会では、赤磐出身の詩人「永瀬清子」の生家訪問や両宮山古墳の散策のほか、健康体操・美容教室・教育子育て・平和・医療介護福祉・農業環境などのテーマに分かれて論議が行われました。
教育分科会は、スウェーデンの教育の紹介の後、ファシリテーターの進行で子育ての悩みや思いが語りあえたと参加者からとても好評でした。物価は下がらず、病院も介護施設もつぶれそうで、子どもの不登校は増え続けている一方で、軍事費は倍増・武器輸出解禁してミサイルも購入している。今は戦前ではないかと疑いたくなる日本ですが、大会の女性たちのパワーに勇気と元気を
もらって、もう少し前を向いて生きようと思えました。
岡山高教組は 1956 年 4 月 25 日に結成され、今年で結成 70 年となります。1956年は、10 月に日ソ共同宣言が発せられ、12
月に国連加盟が実現するなど、日本が国際社会に復帰する節目の年でした。経済白書に「もはや戦後ではない」という言葉が記され、戦後復興から高度経済成長に向かう時期に高教組は結成されました。
タモリさんが 2022 年の年末に、23 年は「新しい戦前」になるのではないかと発言しましたが、戦後 80 年の昨年は、タモリさんの言葉が現実になるのではないかと危惧されるような状況が生じました。7
月の参議院議員選挙では排外主義的な主張が支持を集め、10 月に女性初の内閣総理大臣となった高市早苗さんが、台湾有事について「どう考えても存立危機事態になりうる」と発言し、中国との関係悪化を招いています。
官邸幹部による「核保有」発言も看過できません。
私は地理歴史・公民科の教員として、広い視野を持って主体的に生きることができ、平和で民主的な社会の形成者になりうる市民を育てていくために努力してきたつもりですが、昨今の世論を見ると、私たちの教育実践のあり方も再考しなければならないのではないかと感じています。
昨年の確定交渉では、すべての教職員の賃上げを勝ち取ることができましたが、
この間の物価高騰には追い付いておらず、残業代を支給しないという給特法の問題点も解消されていません。文部科学省は、所得制限なしの高校授業料無償化を実現する方針で、公立高校への支援の拡充を打ち出していますが、予算等の具体化はこれからです。教育DX
には巨額の予算が計上されていますが、35 人学級の前倒し実施など教職員定数改善にこそ予算を割くべきです。高教組結成70 年の今年を、要求実現の年にしていきたいものです。<2026.1.5
発行の岡山高教組の機関紙 1675 号の記事>
年々、温暖化の進行により酷暑の度合いは、厳しくなっている。草刈りの屋外作業をしていると、35 度を超えたあたりから、体が動かなくなり立っているのがやっとという状況になってくる。脚が痙攣することもある。この先は、帰ってこられない世界につながっている。もちろん、空調服は身に着けているが、外気が体温と変わらない状況では熱風が吹き付けるだけなので、何も感じなくなる。
こんな時に、頭に思い浮かべるのは、真っ白な雪のゲレンデである。早く雪が降らないかな?などと思う。2025 年~2026 年シーズンは、1 月の三連休の石川遠征が幕開けだ。2
月の連休は新潟遠征、3 月は長野遠征だ。その隙間には、木曾遠征や岐阜遠征をいれていく。こちらはフリーの身の上でオールタイムオッケーだが、同行者は現役ばかりでままならない。単独では、運転が不安だ。近隣・近県のスキー場には、雪の状況を見ての自力出動となる。しかし、ほぼ一人で空き空きゲレンデ(平日なので)滑ると、すぐに飽きる。かくして、ランチを済ませるといそいそと帰る。
石川遠征の白山セイモアスキー場は、昨シーズン当日の電力トラブルにより回避したので、リベンジしたい。とはいえ、かなり手強いスキー場で、メインコースを
5 本も飛ばすと、脚がガタガタになる。緩斜面はなく、他のコースも気が抜けない。最近のお気に入りは、【木曾福島スキー場】・【御岳スキー場】・【戸隠スキー場】・【白山一里野スキー場】だ。【飛騨流葉スキー場】には、今年こそ行ってみたい。
スキー産業は、温暖化の影響をまともに受けて、青息吐息である。加えて、諸物価高騰、電気料金の値上げ(リフトやゴンドラを動かし、人工降雪機を動かす)、ガソリンなどの燃料費の高騰、と逆風の嵐である。有名スキー場のリフト料金は
6 千円を越えて 8 千円になった。某スキー場では、数年前から昼食が 3 千円では足りなくなった。ラーメンが 2 千円というスキー場が、いくつかある。毎年、結構な数のスキー場が廃業に追い込まれる一方で、インバウンドで世界中からスキーヤー・ボーダーが押し寄せるスキー場が出てきた。
その背景として、バルブ期に過剰設備投資をしたスキー場に、ブームが去ってスキー客がいなくなり、空き空きのゲレンデにリフトなどの設備だけが残った。そこへもってきて、燃料費の高騰でゲレンデ全体にピステンをかけなくなった。(非圧雪とよばれるゲレンデが増えた。外国人は、これが大好き。)
ファットスキーと呼ばれるような用具の進化で、パウダーと言われている非圧雪のゲレンデが容易に滑られるようになった。気象要件から、間断なく新雪が供給されるスキー場が結
構多い。そういうことから、日本のスキー場は、世界のスキーヤーから熱い視線を浴びるようになった。ニセコ・ルスツ・白馬では、外国人による不動産バブルが発生した。妙高・野沢も、外国人に大人気である。こうなると、日本人スキーヤーは、なかなか近寄れない。国内のスキーの聖地・八方尾根では、日本人スキーヤーよりも外国人スキーヤーの方が多い日もある。それは、白馬エリア全体に拡大しつつある。
今や地球全体が、雪不足である。人工造雪機を持っているスキー場に、人気は集中する。かたや人工造雪機のないスキー場は、悲惨である。やっと降った雪を引き延ばして使い、客が来なくてもリフトを回し、食堂の準備をしなくてはならない。
営業すればするほど、赤字は膨らんでいく。しかし、地域経済との関係で廃止の決定は悩ましい。交通網や観光業など、廃業によって地域そのものが崩壊に向かうからだ。
さりながらさりながら、高齢者として、冬の大自然の山の中で、清澄な空気を吸い込んで、自然を満喫して 1 日遊び呆けることは、究極のレジャーといえる。人間は本当に、大自然の中に生きる動物なんだなとつくづく実感する。加えて、温泉と地元料理のご馳走である。1
日遊び回った体を、芯から癒やしてくれる。今この時を遊ばないで、どうするの?といった気持ちである。シニア割引も、ありがたい。
この歳まで、滑ってきた甲斐があった。
冬の自然は、本当に美しい。カモシカや日本鹿、イノシシや猿なんかが、身近に現れる。これも、温暖化の影響であろう。用具の進化も、著しい。スキー板は扱いやすくなったし、ファットスキーなら新雪にも突っ込んでいける。スキーウェアも、軽くて暖かくなった。手も足も、もう冷たくならない。
温暖化の狭間で、今こそ雪の上で遊べる最後のチャンスかもしれない。ゲレンデは、オールドボウイ・オールドガールで溢れている。若者はほとんどいない。もう、上手くなくたって構わない。技術の向上を、目指さない。人と比べない。誰とも競わない。カッコよく滑ろうと思わない。大自然の中を、冷たい空気を胸一杯に吸って、白い息を吐きながら、もてる技術をすべて使い、白い雪の上を滑っていく。ユーミンや広瀬香美の幻影を追いかけて。転んでも、いいじゃないか。起き上がれば(どっかで聞いたセリフだが)。疲れたら、すぐに休憩だ。頑張らない。ひとしきり遊んだら、温泉と夕食が待っている。地元の魚と、酒の旨いこと。さあ、今こそスキーをしよう。決心のついた方は、ご連絡ください。白いパラダイスへご案内します。
10 年程前には、転ぶことなど思いもしなかったのだが、ここにきて朝、スキー靴を履くときに転んでしまう。センターハウスの階段で、転んでしまう。ん、オイオイ、これが加齢ということか!それでも、まあスキーに行こう。
昨年 10 月の「長寿を祝う会」で竹内良雄先生にお会いできるのを楽しみにしていましたが、入院中でお会いできないまま 12 月 30 日に胆管がんで亡くなられました。享年
85 歳でした。
私は 1984(S59)年に備前東高校に転勤したのですが、年度当初の数回の職員会議で、学校の運営や行事などの問題点や改善すべき点についてしっかりと発言されている方が、6
期生第 1 学年主任の竹内先生でした。その後、竹内先生は岡山高教組専従役員をされていた方であり、八木原委員長と竹内書記長の時に高教組の第 1回文化祭典を
1981(S56)年 2 月 22 日に開催されたことも知りました。私が教員になる直前にこの文化祭典で「はだしのゲン」原作者の中沢啓治さんの講演を聴いた記憶があります。
私は竹内先生と同じ学年団になったことはなく、教科も数学と国語で違っていました。転勤した年に 5 期生 2 年の担任となり、クラス通信を 1 学期に毎月
2 回程度発行し、竹内先生に時々読んでもらっていたのですが、2 学期からはあまり発行しなくなっていました。忘年会で竹内先生からクラス通信の発行について聞かれて、あまり発行していないことを話すと、クラス通信は継続して最後まで発行することが大切だと指摘されました。竹内先生の助言で最終的に
3 学期に毎月 2~3回発行し、その後の自分のクラスづくりの財産になりました。
また私が備前東分会の評議員や分会長をしたときには、竹内先生によく相談に乗っていただきました。備前東 2 年目に分会評議員になったときに、職場新聞「しゃこ」を
1 年間続けて発行できたのも竹内先生の叱咤激励があってこそです。
その後、学校の「民主教育の基本方針」を「同和教育の基本方針」に変更するように、県教委から各学校へ指導されていたことがありました。備前東高校では毎年の年度当初の職員会議で変更する必要がないことを竹内先生が理路整然と発言されていました。その結果、民主教育の基本方針は変更しないままで推移しました。
竹内先生は開校 3 年目から 12 年目まで勤務されていましたが、1991(H3)年に転勤された時に、他の同僚の先生と話をして、職員会議で「おかしいことはおかしい」と、竹内先生の半分でも発言しようと頑張って発言していたことを思い出します。
平和行進では、備前東分会として県境から備前市役所まで何度も一緒に歩きました。10 年ほど前に東岡工分会の同僚と一緒に県境から備前市役所まで歩いたときに、竹内先生と久しぶりにお会いして一緒に行進しました。そのときブドウがお好きなことを知り、私の栽培しているブドウを郵送したり、ブドウを持って竹内先生宅にお邪魔して備前東高校や高教組のことなど話したこともありました。
訃報をお聞きして、もっとお話を聞かせていただきたかったと本当に残念でなりません。心からご冥福をお祈りいたします。
一つは、高教組の書記長として圧倒的な存在感を漂わせていた頃のお姿。
評議員会や総会、対県交渉などでの対応能力の高さを目の当たりにして、隣に座る知り合いと「この人凄いね」と囁き合ったことを今でも覚えています。
私も高教組の様々な行事に参加させていただいておりましたから、お話しする機会も多かったのですが、お近くで聞く穏やかな話しぶりとお声もまた印象的なものでした。
その魅力的なお声を何十年かぶりにお聞きするようになったのは、私が先生の「もう一つの姿」を知ってからのことでした。
その姿とは、「文章の達人」としての竹内良雄先生でした。
高退教会報の原稿として、旭東支部から上がって来た先生の原稿(170 号「吉永町岩崎は明石照男生誕の故郷」)を、編集担当者として読んだ時、私の中に衝撃が走りました。郷土の史跡を巡る身辺雑記的な体裁を取りながら、渋沢栄一の娘婿である明石照男を語り、それを通して渋沢栄一に迫っていたのです。
身辺雑記的なものが歴史上の人物の肉声に繋がっていくような文章を今まで読んだことがありません。
竹内先生が、このような類まれな才能をお持ちと知って、すぐに新たな原稿依頼の手紙を書きました。その中に私の携帯番号も書き込んでおきました。
数日後、先生から電話が掛かって来ました。嘗て聞いたことのある、あの穏やかで魅力的な声でした。先生は、「そんなに褒められるほどのものではないよ」の一点張りで、原稿依頼を受けようとはして下さいませんでした。
その後手紙を書き、電話も二度掛けました。
粘りに粘った二度目の電話の最後で「負けたよ。手書きで良いのなら書いて送る」との声をやっと頂きました。
こうして書いていただいたものが、会報 178 号(2024 年 10 月)の「幻の『記念碑』」です。
その後 179 号から 182 号まで 4 本連載させていただきました。これは、「会報一年分に当たる原稿 4 本を!」という私の粘りに負けて(恐らくは呆れて)、「今は書けないから、昔のものを送る。清水さんに任せるから使えるものがあったら使って」と、過去に書かれた随想集を送って下さったお陰で実現できたものでした。
昨年、先生が入院中とお聞きし、「お元気になられたら、またお願いを」と思っておりましたが、まさかの事態に私の夢は潰えてしまいました。
今は、私の図々しい望みに応えて下さったことへの感謝を申し上げるとともに、ただもうご冥福をお祈り申し上げるばかりです。
腰掛けて、モスク全体が幻想的にライトアップされる「光のショー」を見ていたら、隣に日本人の娘さんがいたので話し掛けた。
暫く会話していると、「この後は、先ほどコーラをおごってくれたトルコの人と一緒に行動する」と言う。
その瞬間、「観光客を狙った良からぬ輩かも?」という思いがひらめいたので、「その人は大丈夫?飲み物一杯から変な事件に巻き込まれることだってあるから、よほど注意して人を選ばないと」等々、ひと通りの注意をして見送りかけたところで、彼女はあっけらかんと、「あの人ヨ!」と一人の男を指差した。
中年の貧相な男だった。
「私の方がマシなのでは?」とジョークを言いながら一緒にそばに近づいて話しかけると、男は「断り賃」と言ってコーラ代を請求してきた。
これだけではどんな男か正確には判断出来なかったのだが、コーラ代を払わされたことだけで、彼女は違和感を覚えたようだった。
野外ステージを一緒に見た後、私の失敗談を含めた旅での危険な出来事を彼女に色々と話した。
最後に、「気をつけようね!」と言って彼女とはそこで別れた。
安宿街のユースホステルに連泊した。屋上がビアガーデンになっていて知り合いになった
仲間たちと飲んで話して笑って過ごした。テラスからはライトアップされたアヤソフィア、ブ
ルーモスクの 2 つの寺院が見える。ボスポラス海峡の向こうにはアジア側イスタンブールの
ウスクダラが見えたので、若い頃、江利チエミの「虜になったのは男だったとサ!?」で終わ
る大ヒット曲「ウスクダラ」を毎晩ハーモニカで吹いた。
トプカプ宮殿の入り口の建物の内側と外部をスケッチ し た夜、ユースホステルの仲間達と話すうちに、宮殿に展示されている世界最大のダイヤモンドを盗む話に発展した。この手口は、かつて見た映画のような高等な方法ではなく、トンネルにして、掘る役、盗む役、トンネルを潜る役を決め、私は持って逃げる役をすることにした。
次の夜からは人差し指を口に当て「シー!Secret!」が挨拶になり、「the dayafter tomorrow!」,「tomorrow!」、「tonight!」の合言葉が付け加えられ毎晩盛り上がったが、もちろん実行はされなかった。
ある夜、ユースホステルのホールでベリーダンスのショーがあった。最初若い男性が引っ張り出され、照れくさそうに恥じらいながらダンサーに合わせて踊った。
次に私が引っ張り出された。
司会は大学生のアルバイト従業員で、前述の、空想ダイヤ窃盗団の 1 人だった。
彼が私のことを「叔父さん」と紹介したので、私も調子に乗って、「実はパパなんだ!」と言い、母親とのなれそめ(もちろん作り話)をしゃべったところ、とんでもない展開となって、彼から「殺すぞ!」の一言が。
他の仲間からも、「個人的なことは言うな」とたしなめられてしまった。
もちろん大事には至らなかったのだが、たとえ冗談でも、「あなたのママと私が」というようなことは絶対言ってはならないジョークだったのだ。忠告の中の「個人的な」というのは、「一般論でない」くらいの意味だったようだ。どこであっても問題発言に違いないが、特に回教国において、絶対に口にしてはならないフレーズを発してしまったということだ。
ただこれは、後で気付いたことで、その時は考えが全く回らず、場の雰囲気を打ち消すよう
に、私はベリーダンサーに合わせて「旅の恥は掻き捨て!」とばかりにポロシャツを投げ捨て
ベリー(お腹)の見える裸になって、ダンサーのエロチックなマネごとにただただ興じた。
前回の旅で泊った、宮殿の外壁に面したユースホステルに行ってみると、ホテルに変わっていた。
ここでは、以前も夕方になると日本人の旅人が集まり、車座になって情報交換し合っていたが、今回も同様の情報交換会があった。
その中である女性が、「日本人男性から聞いた話なのですが」と、ユースホステル時代の話を始めた。
「旅で知り合ったトルコ人からゴッソリお金を盗まれて困り果てていたのだが、別のトルコ人にこの件を話したところ、盗まれたお金以上のことをしてくれて、これには本当にびっくりしたそうで…」
この話に対する参加者の反応は覚えていないが、話を聞いた直後、誰もが予想しないことが起こって、これには皆が一様に驚いた。
彼女が通りすがりの日本人を指さして、「この人!この人から聞いた話!」と叫んだからである。
旅先のユースホステルで、以前たまたま出会った一人の男性の話をしたその直後に、その当の男性が側を通りかかったという、あり得ない偶然である。
皆は興奮の中でその男性を迎え入れ、皆にせがまれて、彼も再度「彼自身の口」から「その話」をすることとなった。
教職に就こうかどうか迷っている日本の学生にも会った。彼からは「水間さんに会ってよかった。教員になります!」と後に便りが届いたが、「彼の決心が良かったのか悪かったのか?は神のみぞ知る!」と、私の心も複雑だ。
高校時代の仲良し同級生で、京大の同じ学部学科の学生という二人に会った。
「受験ではライバルだっただろうし」、と、当時の心境などいろいろ聞かせてもらった。二人については、「その後どうしているのだろうか?」と、今でもふと思うことがある。
チェックアウトの日は、朝ゆっくりして、 多くの旅人が既に出た後に受付に行ったところ、ホステラーの女性が「先ほどベッドメイキングに来た従業員にキスされた!」と抗議しているのを目撃した。あれも、どうなったのだろう?
コンヤの教会のメブラーナでは、セマーと コンヤの教会いうイスラム教の神秘主義の儀式として、白装束のスカートに帽子をつけた司教が、くるくる回り続ける旋回舞踊が行われる。
話は変わって、この町の床屋で初めて外国での髭剃りを体験した。言葉が通じず
にカミソリを当てられヒヤヒヤものだった。
イスタンブールからブルガリアへ向かう列車で、通路の向こう側に座っていた男女ペアに駅で降りたときに話しかけた。若い二人は、夫婦でエディルネの史跡巡りをすると言うので、ご一緒することになった。その後、河畔のレストランで夕食をご馳走になったので、別の野外レストランでお返しをし、この安ホテルの三人部屋で一緒に寝た。
お二人とは住所を交換し、「次回はイスタンブールの自宅へ泊まって」と言って住所、電話を交換して別れた。出発前に、美人の奥さんのポートレート描いていたら、見ていた男性連中にも頼まれて缶ビールと交換で描くことになり、3
泊もしてしまった。
こうしている内に、隣の高級ホテルのマネージャーから、「こちらのホテルの絵も描いて」と頼まれ、オーナー家族の夕食に招待されることになった。
最近経営者が変わったのに、「地球の歩き方」には旧ホテル名が掲載されている
ことを指摘し、訂正の連絡先も教えた。
オーナーからは、「フルシーズン以外なら、何泊でもさせてあげる」と言われ、出来
上がったホテルの水彩画を渡すと、「今回もずっと泊まって良い」と付け足された。
あいにくその日は、ホテルのロビーなどが夜遅くまで映画のロケーションに使われていた
ので、入室がはばかられ、広く立派な部屋に入ったのは夜遅くだった。
翌朝オーナーに「今日泊まるか?」と問われ、私としては「I want to stay」と答えたつもり
が、「I won‘t stay(I will not stay)」と受け取られたようで、従業員にもそれが伝わってし
まっていたので、連泊は諦めることになってしまった。
ブルガリアとの国境に近いエディルネにあるこの回教寺院は、イスタンプールのアヤソフィア
よりわずかに大きい。前に建築家の銅像がある。


昨年 9 月末、山本和弘事務局長が交通事故で入院されているという衝撃の知らせが入り、しかも重症だとのこと。私を含めまわりの多くの方は言葉も出ませんでした。回復には時間がかかると目に見えており、核を失った高退教は一体どうなるのか。そんなことばかりが頭を巡っていましたが、一定の時間を経て、これまでともにやってきた私たちがふんばるしかないかと決意も固めました。幸い、会員の方も役員の方も高退教のとりくみをさらに前に進めたいと熱意を示してくださっており、頼もしい限りです。
次回の総会まで仮ではありますが、私が事務局長として頑張りたいと思います。また、旭東支部幹事の岸本さんが事務局次長になりました。皆さんのご支援よろしくお願いいたします。
会 長 藤原 斌
副 会 長 小川澄雄 村田秀石
事務局長 美甘 晃(新)
事務局次長 藤原洋平 和田 茂
花田千春 岸本幹雄(新)
なお、ホームページとブログの更新について、入院中の山本事務局長から、次のようなコメントが寄せられております。
入院中のため、ホームページとブログの更新がしばらく出来ておりません。
この場をお借りしてお詫び申し上げます。【ホームページ・ブログ担当 山本和弘】
山本事務局長の一日も早いご回復を、皆様と共にお祈り申し上げます。
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▼2026 年になりました。今年は丙午の年ですが、私は 7 度目の年男です。▼連載特集として、「戦後80 年 未来のことづてⅡ」を不定期で連載しています。島田先生の叔父のニューギニアでの壮絶な体験談に驚かされました。最近見た映画「ペリリュー~楽園のゲルニカ~」と同じようなことが実際にあったのだと考えさせられました。会員のみなさん、次の世代へバトンを渡す意味で、ふるって投稿をお願いします。▼全退教中国・九州・沖縄ブロック学習交流集会が昨年(2025
年)に広島市で開催され、小川副会長と岡田幹事のお二人が参加されました。今年は島根で来年(2027 年)は岡山開催です。今年中には日程と宿泊地などの骨格を決定する必要があります。▼2025
年度の長寿を祝う会について、岡山支部と旭東支部では昨年10 月と11 月に開催されました。また、備南支部と備西支部は「春の交流会」のときに実施の予定です。▼トランプ大統領のベネズエラへの軍事侵攻に続いて、グリーンランドの領有への野望が続いていますが、高市首相は非難することなく衆議院解散と総選挙に打ってでている状況になりました。▼今回の岡山県母親大会は、赤磐市と岡山市東区の旧瀬戸町を中心に、赤磐出身の「永瀬清子」の生家訪問などと被爆体験の伝承講話がとりくまれました。▼村田副会長(高教組委員長)からは「高教組結成70
年の年明けに寄せて」という高教組新聞の記事を高退教会報にも提供してもらいました。
▼美作支部から2 本の投稿記事をいただき、今回の「私を、スキーに連れてって♪」はその1 本です。もう1 本の「松は翠に」は次回の会報で掲載予定。▼昨年末に逝去された竹内良雄先生の追悼文を掲載しました。備前東高校の同僚だった私(岸本)と会報係として復刻版の記事を一年間お願いした清水先生の追悼文です。▼連載記事は、水間先生の出会いとスケッチの旅です。今回はギリシャ・アテネからトルコへ編(3)です。▼今年も春の交流会の季節がやってきました。自分の支部はもとより、他支部へも可能ならば参加してください。また、まだ高退教会員になっていない方へも会員拡大の意味も込めて、声かけをしてください。▼山本事務局長の入院が長引いている関係で、次回総会までの事務局体制の変更とHP、ブログ更新停止のお知らせをしています。(岸本)
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