
| 連載特集 |
遺品を整理していた時、タンスの隅から50枚ほど束になった古びたはがきが出てきました。20歳過ぎの父親が戦地から送ってきた「軍事郵便はがき」でした。出征中に祖父母が大切に保管していたもので、復員した時に父親に手渡したと聞きました。
【一番上の妹:敏子への軍事郵便はがき】
墨で塗りつぶされた文字は、兄:健太郎が二度目の召集令状によって配属された部隊名と帰国予測ではないかと推測されます。軍事郵便には「検閲済み」の印が押されており、所々が黒い墨で塗られて文字が分からない状態で届けられています。機密事項、やりとりが禁止された秘密なのでしょう。手紙を書く本人もそのことを自覚して書いており、「元気かどうか」「軍務に邁進している」とか「銃後の守りを頼む」「両親の手伝いをしっかり」など決まりきった文言や表面的なやりとりに終始しています。当然、前線での命のやり取りや一番の関心事などは記述されていません。検閲は社会的報道規制にとどまらないで、ひとり一人の心の中まで抑圧することになります。
【心にも傷を負っていたオヤジ】
中学生の頃、父親に向かって口に出しては言えませんでしたが、「オヤジたちはどうして侵略戦争に反対して戦争を止めさせなかったの?」…と、中学社会で学んだ知識をもとに親の世代全体に対して疑念や、もやもやを感じていました。
時の権力者たちが、教育・情報機関・コミュニティ組織などを牛耳って国民を煽(あお)り、その一方で平和や自由を主張するものには徹底した弾圧で黙らせ、無理やり戦争へと突き進んでいった…そんな歴史の真実を知らない年齢でしたから…。
オヤジの背中には手榴弾の破片が残されていました。肩甲骨の上あたりに変形した1センチほどの穴があって塞がりつつありましたが、皮膚の奥には黒い粒が見えていました。「手術で取り出さなくてもまぁまぁ大丈夫だ」と放置したままでした。
身体の傷以上に大変だったのは、心の傷のようでした。
「あんなに優しかったジュン(順)が、復員したら、ガラッと変わってしまってた。何かあるとすぐに暴力的な言動をするようになってしまって…」と祖母が度々漏らし嘆いていたと聞きました。
私は父親とは話し合うことが滅多にない親子関係でしたが、高校生のある時に、父親が「(戦場で)アホウなことをしてしまった…」とつぶやいたことがありました。戦地の様子を恐る恐る尋ねると、かみしめながらゆっくりと一言ずつ話してくれました。
(内地から初年兵が前線の部隊に配属されてくると、実弾を人に向けて発砲したことがない、そんな初年兵を実践訓練するそうです。その標的用にと捕まえた中国人捕虜を使ったとのこと。捕虜に走って逃げるように命じておいて、その逃走経路先に銃を構えた初年兵を配置。必死で逃げる捕虜を実弾で打ち殺す訓練をした。軍人勅諭により“絶対服従”とされた上官からの命令とはいえ、初年兵に“直接命じたのが自分”…そのことをとても悔い悩んでいました)
“アホウなこと”とはその心の内を表現した言葉でした。人として人間としてやるべきでないことをやってしまった…その心の葛藤・苦しみを他人には言えず、ずっと胸の奥にしまっていたようでした。
東京裁判で裁かれた「南京大虐殺」に見られるように“捕虜・民間人の虐殺”は当時常態化しており、侵略先の中国各地でその後も広く行われていたのではないかと推測されます。そして、命令に従って直接実行してしまった下級兵士たちは、悩み苦しみながら戦後の長い間、心の傷と共に生きたのではないでしょうか。
【残されたメモ書きから】
1940年20歳で召集されたオヤジは、1946年6月復員までの足掛け7年間兵役を務めました。召集されて1週間ほど後に、第17師団要員として宇品港から出港、上海上陸、蘇州省無錫県無錫着、歩兵第54連隊に転属、その後揚子江中流域の「漢口」(現在の武漢市の一部)に長年駐留。「軍事郵便」はその「漢口」から送られてきたもののようです。「中支派遣第百四七野戦郵便局気付 桧二三三四部隊 佐藤隊 井上順次」と書かれています。
「〇〇年 陸軍上等兵、〇〇年 独立歩兵第65大隊へ、独立歩兵第215大隊へ、独立歩兵第601大隊への転属、○○年 陸軍兵長鹿児島上陸…」など記憶をもとにしたメモ書きを残していました。
【末っ子の妹:花子への「軍事郵便はがき」】
ハナコは小学校一、二年生だったのでしょうか。読みやすい大きなカタカナ文字で書かれています。「花子の手紙が一番面白い。またお手紙下さい。鶴のように首を長くして待っている」と、制限された範囲内で優しさと自分の思いが素直に出されており、私の一番好きなハガキです。
【二度目の召集 インパール作戦に】
オヤジの兄である長男の健太郎、一度目の復員後に農業に従事していましたが、1944年、二度目の召集であの無謀なインパール作戦に配属。軍務は通信兵。敵の陣地を偵察にいった際に見つかり、砲弾の爆発で足の親指を飛ばされてしまいました。
何とか逃げ戻って野戦病院に収容されましたが、連合軍の大規模な進撃を受けることに…そのため、部隊は怪我や病気で移動できない人間に自決用の手榴弾を渡して、撤退していった…と聞かせてくれました。野戦病院での死を一度は覚悟したのですが、悩んだ末に自決できなかった!…イギリス·インド軍の捕虜になり、幸運にも生きて帰ることができました。しかし、足の親指がなくなったので戦後の農作業には様々苦労があったようです。
私の母、弘野のすぐ上の兄も戦争被害者の一人。歳が近いので母と「一番の仲良しだったコウちゃんの兄ちゃん」は、1944年フィリピン沖で輸送船とともに撃沈、戦死。10年程前にオフクロの写真を携えて、奈良にあるお墓にお参りしました。遺骨が届いていないので、お墓には何も入っていません。
「日米同盟」絶対のもと、武器の爆買いとF35ステルス戦闘機・敵基地攻撃ミサイル部隊の全国6基地への配備とさらなる拡大など、「戦争する国」づくりが急速に進められています。戦後80年、戦争か平和かの分岐点にある今こそ、「戦争はしない」と誓った憲法を生かした外交で平和な日本とアジアをつくっていく、戦争をストップする運動と世論を広げていくことが求められています。
80年前、終戦の時、私は国民学校(小学校)1年生でした。戦争の下でも無邪気に遊んでいたに違いない私でしたが、いま思うと、二つの面で幼い心が圧迫されていたと思います。一つは死の影が迫ってくるどんよりとした不安。もう一つは「食べたい」という思い。今回は、後の方の思い出を少し話します。
私はファミリーレストランをよく利用します。そのとき、近くのテーブルに座った子連れの家族がメニューをみながら、「何にしようかなー」と考えている情景をみていると、つくづく平和であると思い、「よかったなー、いっぱい食べろよ」とつぶやきたくなります。同時に、80年前の自分と父母と弟妹たちを、時空を超えてここに連れてこられたら、どんなに幸せかと思い、比較して切なくなります。あの頃はほんとに「食べたかった」。いろんなものが食べ物に見えました。棕櫚(しゅろ)の花が咲いたら、数の子みたいで食べられないかと思いました。道に熟した柿が落ちてつぶれているのを見ては、おいしそうだと思いました。芭蕉の幹が冬に凍ってざくざくに砕けているのを見ては「ご飯のようだ」と思いました。家も木立も石ころもみんなお菓子でできているファンタジーの世界を漫画に描いたりもしました。柿の木のある家の友達が、まだ青い柿を食べているところに居合わせたら、友達が「一口だけだぞ」と言って、ひと齧(かじ)りだけ齧らせてくれた柿の薄甘い味を、軽い屈辱感とともに思い出します。なんといっても米のご飯がとにかく食べたかった。戦争がまだ勝っているころ、白いご飯の上にしゃけの切り身をほぐして散らし、「火事だ火事だ」と私が喜んでいたという母の話は、遠い昔の美しい画像でした。「昔は天ぷら食べたっけねー」などと、薄れかけた記憶を母と懐かしんだりしていました。昔というのはほんの4,5年前、アメリカとの戦争が始まる前のことなのです。国民精神総動員運動がはじまり、「節米」、「代用食奨励」で、米は配給。サツマイモやジャガイモが主食の座に躍り出ました。米どころか、砂糖も味噌も塩も油も配給で、甘いお菓子などは身の回りから消えてしまいました。「贅沢は敵だ」、「欲しがりません勝つまでは」と叫ばれていました。贅沢はしようと思いませんでしたが、食べるものは欲しいです。でも、「戦地で戦っている兵隊さんのことを考えてごらんなさい」と言われたら、黙るしかありませんでした。とにかく我慢我慢でした。雑草のアカザを母が「人にいうんじゃないよ」と言いながらおひたしにして食べさせてくれたこともありました。稲の害虫のイナゴを煎って食べました。大根めし、芋飯、ニンジン飯、トウモロコシせんべい、高粱(こうりゃん)せんべい――、手に入る物をどう食べるか、工夫する母の苦労は大変だったと思います。
これは敗戦直後にまたがる記憶ですが、学校での弁当の時間は、ちょっとつらい時間でした。子供たちの家庭事情によって弁当の種類が違うのです。農家の子はあるいは米の(しかし麦いりの)ご飯を持って来たかもしれませんが、非農家の「配給組み」の弁当は、蒸かしたサツマイモだったり、「ジリ焼き」と称するうどん粉に味噌かなんか入れて焼いただけのものだったり、さまざまでした。何も持ってこられない子はこっそり教室から出たりしました。自分の弁当の貧しさを人に見られたくない子は、弁当を包んできた新聞紙を、弁当の周りに屏風のように立てて、その中に首を突っ込んで食べていました。あっちこっちで新聞紙の屏風が立ったから、今から考えたら一種異様な風景だったでしょう。教室で生徒と一緒に弁当を食べる担任の先生も、生徒に気を使って、「先生は今日もおイモですよー」などといいながら、サツマイモを高く掲げてみんなに見せていました。「先生と同じだ」と思ってほっとする生徒はたくさんいたはずです。
「欲しがりません勝つまでは」と言って、食うや食わずで応援した、その戦地の兵隊さんたちは、その頃ひたすら負け続け、「玉砕」を繰り返し、戦死者の6割が餓死、あるいは飢餓による戦病死だったといいます。その数140万人―。銃後の努力にもかかわらず、そんな状態でした。「勝つまでは」といいながら、本当に勝つのか、私は子供だったから、何もわからず、聞かされていた通り「いずれ神風が吹く」ような感じを持ちながら、それも強がりの合言葉のようにも思えました。大人だって勝てそうだとは思わなかったと思います。
いよいよ広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦してきた段階で、なおも軍部は「本土決戦」を唱えていましたが、そうなったら、「決戦」する前に、間違いなく飢餓で自滅したでしょう。それにしてもわからないのは、「決戦」のあと、どういう形で「勝つ」のか、「負けない」にしても、どういう形で「負けない」のか、今になってもまったくイメージできません。まさか、日本人全体が「玉砕し」て、かつて日本民族という美しい民族があった、という記憶遺産を世界史上に残そうとしたわけでもないと思いますが。そうとしか考えられない節もあります。
いま、戦闘がやまないガザでやせ細った幼児の映像はまったく見るにたえません。戦争は残酷ですが、戦争で子供が飢えて死んでゆく以上の残酷はないでしょう。戦争のもとで空腹に悩まされた世代としては余計それを感じます。
今でも私は、出された料理を食べ残すことができません。残すことへの罪悪感から、ついみんな食べてしまいます。ただの食いしん坊とみる人もいると思いますが、欠乏の中で身についてしまったモラルなのです。それから、人が見ている前で、自分だけ物を食べることにも違和感があります。80年前の「食べたかった」頃のトラウマはこんなところにも潜んでいるんでしょう。
80年前戦争が終わりました。それまで10年ごとくらいに戦争していた日本がぴたりと戦争をやめて、80年も平和を維持しました。まったくこの転換は奇跡のように見えます。だから、実現した奇跡は手放してはなりませんし、この奇跡の価値をじっと味わう必要があると思います。
とにかく戦争に負けて、この平和が始まりました。「お母さん、戦争に負けてよかったね」と母に言ったという私の一言は、米軍の放出した缶詰のあまりのおいしさに、口がすべったのでしょうが、「負けてよかった」と今改めて思うのは、逆に負けなかったらどうなっていたか、という想像によります。それは、「帝国憲法」は今でもあった、という、その一言につきます。「国民主権」も「基本的人権」も「平和主義」もない、あの「帝国憲法」が、ずっとあり続けたことになるのです。だから「負けてよかった」、少なくとも、「勝たなくてよかった」。
私は、残り少なくなった戦中経験者。80年前と後の奇跡のような転換を目の当たりにした世代の一人として、「奇跡」の前と後を、いつまでもつぶやき続ける役目を負っていると思う昨今です。(2025.9)
旧統一教会の強い影響を受ける自民党の議員や、「日本人ファースト」を声高に叫び排外主義を臆面もなく打ち出す参政党の議員たちは、選択的夫婦別姓制度導入に強力に反対している。別姓にすると「家族の一体性が失われる」、同姓が「日本の伝統」だと主張し、夫婦別姓をかたくなに拒否し続けている。
選択的夫婦別姓制度は、夫婦別姓を国民全体に義務付けようとしているのではない。同姓にするか別姓にするかは、結婚しようとしている二人が、自分たちの意思で自由に選べるようにしようとするものだ。「家族の一体感を大事にしたいから同姓にしたい」と考えるカップルには、同姓にすることが保障される。「結婚前の姓名をそれぞれが大切にしたい」と考えるカップルには、別姓にすることが保障される。どのように名乗るのかを自分で決めることを、大切な人権ととらえ、その人権を保障しようというのが選択的夫婦別姓制度なのだ。
一方、自民党や参政党の人たちの立場は、全ての夫婦に同姓を押し付けるもので、夫婦どちらか一方に、生まれ持っていた名前を放棄することを義務づける。その90%以上が妻となる人たちだ。ここには人権保障の観点は見られないし、女性に不利な立場を押し付ける「ジェンダー差別だ」と言われても仕方あるまい。
家族内(夫婦)同姓が「日本の伝統」というのは本当だろうか?
将軍頼朝の正妻が北条政子だというのは、広く知られている。彼女は頼朝と夫婦になった後も、源政子とは名乗っていない。あくまで北条政子だ。足利義政の正室も日野富子で、足利富子ではない。だからといって、鎌倉将軍家・足利将軍家が、別姓の名乗りによって「家族としての一体化がそこなわれていた」との声は聞いたことがない。少なくとも、中世日本の武士の世界では、夫婦別姓は問題なく機能していたのだ。
平安時代の公家の世界はどうだったのだろう?“妻問い婚”が普通だった彼らに、夫婦を同姓とする習慣があったとは思えない。
町や村で暮らしていた一般庶民はどうだったのだろう? 彼らに家名(苗字)があったのかどうかよくわからない。記録がない。少なくとも江戸時代、一般の町人・農民たちは苗字を名乗ることは許されていない。互いを区別するために、彼らが名乗ったのは屋号だ。屋号はどの家にも付けられていたようだ。苗字はこれとは違う。功績のあった者にだけ苗字(帯刀)が特別に許された。夫婦が同姓だったと示す史料もない。
平民に苗字使用が許されたのは明治3年のこと、使用が義務化されたのは明治8年だ。しかもその当初は、妻は実家の氏を名乗ることとされていた。つまり夫婦別氏(別姓)制度だ。夫婦同姓が義務化されるのは、明治31年の旧民法によってだ。
「家族内同姓が日本の伝統」という主張は、歴史の事実を踏まえないとんでもない主張で、全く成り立たない。日本の歴史を踏まえて考えると、自民党や参政党の人たちのいう「日本の伝統」とは、明治期に形作られた“大日本帝国”時代以降のこと、わずか百数十年のことに過ぎないのだ。日本の伝統はそんな薄っぺらなものではない‼
夫婦の名乗りの問題だけではない。彼らが「日本の伝統」という言葉を振りかざすときには、だまされないようによほど注意が必要だ。本当のところ、彼らは、戦前の「大日本帝国」の体制を懐かしみ、その復活を目指しているというほかないのだ。
『国宝』という映画が、話題である。もうご覧になられましたか? よく出来た映画だなと思う。歌舞伎の持つ華麗な様式美や外連味(けれんみ)、芸道の厳しさと修練を描き出している。そしてその裏面にある因習、門閥、世襲、阿(おもね)り、人気役者の驕り•無節操等、よく掬(すく)い取って描き出している。残念ながら原作を読んでいないので推測するが、たぶん原作のレベルがかなり高い所にあるのだろうと思う。
何よりも、伝統芸能にこういった形でスポットライトが当たり、若い人を含めて国民全体の話題となったことは、喜ばしいことだと思う。特に昨今の日本文化に関わって、国の文化行政の支援の貧しさが言われて久しいからである。半世紀前に、口承文芸という学問の一端を齧(かじ)った者として、若干の思い入れがある。
歌舞伎は、17世紀初頭の阿国歌舞伎に端を発し、若衆歌舞伎を経て野郎歌舞伎に至り、日本独自の大衆芸能として現代まで発展してきた。人形浄瑠璃と共に、近世・近代の大衆芸能の中核といえる。歌舞伎はどうすれば大衆に受けるか? ということに眼目がおかれ、筋立てが考えられ、セリフ回し•所作•見得などが芸として継承され、衣装、舞台、音曲が洗練され磨かれていった。回り舞台、どんでん返し、セリ、花道など、舞台上の演出も工夫が凝らされた。これらは江戸時代に完成を見たものであるが、現代の我々が見ても、驚きと感動があり、面白さが堪能できる芸能である。惜しむらくは、舞台の構造の特殊性により、特定の劇場でしか全てを鑑賞できないことであろう。
歌舞伎は、江戸時代に幕府の弾圧を受け、幾たびか禁止の憂き目を見たが、その度に圧倒的な庶民の支持を受けて復活を遂げた。その為、巧妙に作為の中に反権力の牙が込められている演目があるといわれている。その半面で、時代の寵児としてひいき筋への阿りや、人気者としての驕りがあったりと腐臭が付きまとう。そうしたもの全てを包括して歌舞伎という総合芸術は現代に受け継がれ、この映画は歌舞伎の魅力を上手に掬い取っている。
さて映画であるが、若手俳優の演技の頑張りが注目されているが、さもありなんと思いつつも私は、『田中泯』という役者の存在そのものが演技となっているその威圧に、敬服する。稀有のアクターというべきであろう。
半世紀前の歌舞伎座で、先代の勘三郎・勘九郎の親子連獅子を見た。大名跡市川団十郎を襲名する前の先代海老蔵が、メリハリの効いた見得を切っていた。国立劇場では、宙乗りを始める前の先代猿之助が、キレッキレのケレンを見せてスペクタクルな舞台を創造していた。
国立劇場といえば、初代の米川文子【高梁市出身】の生演奏を見たことが、私の生涯の自慢である。米川文子は箏曲生田流の宗家家元かつ人間国宝である。彼女は、並み居る各流派家元や有名演奏家を前にして、満員の国立劇場で独り『六段』の曲を演奏したのである。『六段』はあまりにも有名な曲で、名曲ではあるが箏を齧った者なら弾くことのできる入門曲に近いものである。しかし、最も世間に知られた箏の代表曲でもある。家元なら、技の冴えを見せられる難曲や聞かせどころのある名曲はいくつもあっただろうが、彼女はあえて『六段』を演奏してみせた。そこには、箏曲とはこうあるべきもの、『六段』とはこういう曲である、そのような家元・宗家としての矜持を見た思いがした。当に『人間国宝』としての、至芸の核心であったと思う。
イノシシを教育する
数年前、町内会の春か秋かの飲み会での雑談の中での話だ。田畑にイノシシが入って困るということが話題になった。
私は「イノシシは字が読めん。侵入禁止と書いとってもようわからんじゃろう。まずはヤツらを教育せんといけん」と。すると若い衆から「どうやって教育するん?」と来た。私も困ってその場は白けてしまった。
現職の時には「教育する」とは懲らしめるとか、一から教えてやるとか、とにかくも、わからんヤツをわかるように寄ってたかって分からせることに使っていたが、世界が違うと冗談(と思っていたこと)も通用しなかったのだった。
イノシシ対策をしっかり
鏡野へ移住して24年目になる。移ってすぐ、百姓(米作り)を始めたが、その時一番にしたのが田の周囲にトタンを設置するイノシシ防止対策であった。これで、以来イノシシ侵入はなかった。数年して県道沿いに電気柵も設置し、防獣対策は万全とタカをくくっていたのが、昨年まで。昨年初めて彼が入ってきた。始めは田の面が線状に跡が残り、稲が倒されている。イノシシと気付くまでに数日かかった。
近所の人もそれとなく教えてくれるようになり、川に面した岸をよく見ると、いくつものケモノ道があり、侵入口になっていた。トタンも古くなり、穴があけられていたのだ。昨年は早めに稲を刈り取ってもらい、何とか収穫を乗り越えた。その秋に、トタンの内側にメッシュフェンスを設置して、これで安心だと思っていた。
2回目の 侵入
ところが、今年、ようやく実りが近づく8月に入って何かおかしい。去年と同じように荒らされている様子に気付くと、今年は素早く入念に調べてみた。すると隣家との境に一箇所ケモノ道を発見。急いで入り口を塞いだが、時遅し。多くはイノシシに食べられた後だった。早めに刈り取ってもらったが、青みがかったモミも多く、刈り取りも難儀であった。手に入った玄米は90kg。我が家の1年分くらい。泣くに泣けない辛い気分と、気づきの遅さへの後悔、ちくしょう、来年こそはと奮起する気持ちが交錯している。
来年こそは
百姓の「又来年」という言葉がある。来年こそは例年通りの出来の収量をあげたい。こまめに見回って、と思っている。
ふと、イノシシをどうやって教育するかという話が頭の中を駆けめぐって、苦笑いが浮かぶ今日この頃である。
今春亡くなった世界史教育の同志、徳方氏の遺志を引き継ぐ意味で、本稿に向き合っている。過日の感動的な氏を「送る会」の後、カーナビもなしに岡山市北区吉宗の氏の自宅を初めて訪問した。和子様の許諾を得て、氏の「形見」として何冊かの蔵書を頂くためである。
本棚を一瞥して、私の蔵書と共通する本もたくさんあった。氏の卒論のテーマたる、「フランス・レジスタンス」や「フランス人民戦線」関係の本に目がとまった。世界史認識・世界史教育論に関する何冊かの本を選び、和子様の署名を頂いて、今は私の書棚に収まっている。人が亡くなったとき、思うことがある。その人の死によって、「一つの図書館がなくなる」という思いである。氏の遺志が継承されなければ、「一つの図書館がなくなる」のである。
私にとって、氏の遺志を引き継ぐということは、「世界史する」ことだ。この表現は、奇異に感じられるかも知れない。世界史認識は、単に書斎で書物を読むことで果たされるとは限らない。授業実践をはじめとして、地域・日本・世界の抱える諸課題に実践的にかかわっていく活動もまた、「世界史する」ことなのだ。私の世界史実践でいえば、戦争遺跡「亀島山地下工場の掘りおこし」運動へのコミットなどがそれにあたる。私はこの活動にかかわることによって、倉敷市水島という「地域」や「在日コリアン」という異なる民族に、世界史との契機を「発見」できたと思う。まさに、「水島」という地域は世界史に開かれてあるという発見である。私は、水島を通して「世界史する」が実感できた。「世界史」という名詞形を動詞形に変換してみる。「哲学する」といった表現にも応用できよう。
前々号で、徳方氏らと続けた世界史学習会(サークル)について触れたが、こうした試みは、現在オンラインによる月例の「世界史研究会」に引き継がれている。メンバーの中では、私が最高齢である。若い世界史の「同志」たちと交流できるのは貴重な機会である。
現役時代の私と高教組の最大の接点は、どちらかといえば「労戦」分野というより「教研」分野にあった。その中味が「世界史認識」教育分野であったということができる。
やや自嘲的気味に、私は「世界史原理主義者」を名乗っている。新科目「歴史総合」が、概ね肯定的に評価されるなか、この新科目に一定の留保・批判を持つ私は、世界史教育界では「異端」者であるかも知れない。そうまでして、なぜ「世界史」にこだわるのか。一つは、「世界史未履修」問題をきっかけとして、単独で「必修」とされた「世界史」と名付けられた教科が消されたことにある。いわば、教育現場の市場原理によって、必修「世界史」が淘汰・忌避されたのである。「日本人なら(世界史必修ではなく)日本史必修が当たり前でしょ」(日本人ファースト!)といった、一見分かりやすい歴史修正主義者の声に押し切られたという側面もあったのではあるまいか。この経緯を私は「必修世界史」の「敗北」と捉えたのである。私とて、従来の世界史に問題がなかったとは思わない。夥しい事項の暗記を強要される(苦役的)受験コストの高い教科であり、「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」(小川幸司)という秀逸な表現による問題意識・課題意識は共有する。しかし、だからといって、「必修世界史」という教科が「廃止」されても良いとは思わない。また、議論の蓄積が長い「日本史と世界史に統一的把握」という主張も共有する。それを「世界史」という概念の中で内から実現できれば、と願うものである。その歴史像は、(日本史+世界史)÷2では果たされまい。その統一像は、「歴史総合」科目で模索されてはいるが、もちろん完成形ではあり得ない。
やや脇道に逸れるが、なぜ私が世界史にこだわるのかについて、補足の論点を一つ提示したい。日本人に豊かな世界史認識が、とりたてて求められるのは、独善的な「皇国史観」を克服するためである、と考えてきた。だが、現在の私は、そう言うだけではまだ足りないと思っている。世界史認識が自動的に皇国史観的なものを乗り越える保証はない、と考えるからである。その事例として、「大東亜共栄圏」なる概念を取り上げてみよう。この概念(スローガン)は、欧米の植民地支配から日本がアジアを解放する「解放史観」として、現在もなお一定の説得力を日本国民に与え続けている。ところで「大東亜共栄圏」概念は、紛れもなく当時の世界史認識であり、世界史論なのである。戦争を正当化・合理化する論理であり、そのように機能してきた。世界史認識がそれだけで日本人の世界認識を豊かにするとは限らない。「大東亜共栄圏」論は、「帝国主義を否認する帝国主義」に他ならない。
この論点に関しては、私の旧稿「『世界史』が氾濫した時代―「世界史の哲学」と戦争―」(『岡山の記憶』第8号、2006年)を参照頂ければ幸いである。かつて「世界史の哲学」・「近代の超克」・「京都学派」なる主題に熱中し、いまだその関心を失っていないテーマでもある。「大東亜共栄圏」論に抗する世界史認識・世界史像を、というのが私の遠大で見果てぬ夢、余生につながる主題である。
終わりに当たって、再び徳方氏追悼に戻るなら、各種の市民講座などを精力的に務め、市民の世界史認識を豊かに育んでこられた徳方氏こそ、「世界史する」典型的な実践者だったのではないか。(2025年9月9日脱稿)
| 連載 |
クシャダス
エーゲ海のギリシャの島サモス島から、船で1時間ほどのトルコのクシャダスに渡った。
港の入り口にある砦をスケッチした後、安宿へ入り、外国人の若者のグループと久しぶりにレストランに入った。
この町には隊商が泊まるキャラバンサライ(隊商宿)があった。その昔は、1階が馬屋で2階が宿泊施設であったが、今はホテル・レストラン・商店など、様々なものとして活用されているという。
スケッチをしていると、絨毯の展示をしている店主から、絵を描いてくれないかという依頼があった。
スケッチして次の日に渡すと、「これでも制作に1週間かかる」と言いながら、絨毯を渡してくれたのだが、それは子供の勉強机の椅子の座布団ほどの小さな絨毯だった。
エフェソス遺跡
エフェソスはかつて栄えた港湾都市で、大きな野外円形劇場も作られていた。
港が土石流で埋まってしまったことから衰退していったが、石畳で舗装された道路の下には上水道と下水道も完備されていた。穴がくり抜かれた石のベンチ、共同トイレ、娼婦の館などの遺跡は、往時の繁栄を偲ばせる。
石畳には「心を込めてもてなします」の意味のハートのマークが刻まれていた。
このような道路と並んで、ハドリアヌスの神殿はあった。
トルコの村
村を歩いていると、観光客だと気付いた小さい子供が、「ボンボン!ボンボン!」と寄ってくる。
「ボンボン!」がお菓子だとは分かったが、私はあいにくお菓子を持ってなかった。
貧しいはずの子供たちの顔が実に明るい。
何度か会った小学校4~5年の男の子が、家へ招くような仕草をするのでついて行ったところ、玄関に当たる入り口に戸はなく、ただ布のカーテンが吊されているだけだった。
彼は各部屋を見せてくれた。4~5歳の女の子を「妹だ」と紹介し、庭の木から小さなリンゴをもいできて私にくれた。
「しまった!親が不在の子供だけの家に入り込んでいるぞ!」と気付いてからは、もう気が気ではなく、早々にその家から引き上げた。
突然慌てだした私を見ても、ちゃんと対応できるこの男の子の堂々とした振る舞いには、少々負けた気分だった。
最初に鉄器を使ったヒッタイトの首都「ハットゥシャ遺跡」とホテル
バス停からは、バスで知り合ったオランダ人とアルゼンチン人夫妻と、フランス人夫妻に誘われてタクシーに乗り、大きなトランクでぎゅうぎゅう詰めになりながら、遺跡の村ポアズッカレまで行った。
数件のホテルでの交渉術は大いに参考になるもので、そのお陰でこのホテルに安く泊まれることになった。
5人で楽しく騒ぎながら夕食をしていると、ハットゥシャ遺跡の案内人が声を掛けて来て仲間に加わり、話している内に翌日のガイドを彼に頼むことになった。
翌日、遺跡の見学後2組の夫婦はそれぞれに帰り、残った私はガイドの家で過ごし、夕食も共にした。
次の日に再度遺跡に行くと、ガイド仲間が酒を飲んでいたので、私も酒を買ってきてもらって皆で飲んだ。
その夜、村の方から笛や太鼓の楽しげな音が聞こえてきたので見に行ってみると、ホテルオーナーの親族の結婚式が開かれていた。顔見知りの人がいたので参加できるか尋ねてもらい、宴に加えて貰った。ご馳走が振る舞われ、踊りの輪の中にも招かれた。
次の日からは、オーナーのご厚意で、宿泊に関しては無料となり、ガイドから「それなら、日本人も観光に来るので、ここで過ごせばいいのに」と言われて、しばらくの滞在を決めた。
結婚式に参加
次の日の夕方、村を歩いていて知り合っていた若者3人組と出会い、「これから妹の結婚式に行くので一緒しないか」と誘われた。
着いてすぐにウイスキーをいただいていると、次第に村人が集まって来て、やがて式が始まった。
鐘・鈴・太鼓を使って皆が輪になって踊ったので、私も輪に加わって踊った。
宴たけなわとなった後で、今度は「新妻の家で」ということになり、太鼓を先頭に鈴を鳴らし笛を吹きながらの隊列を組み、新妻の家まで練り歩いた。
そこでも笛太鼓に合わせて輪になって踊ったのだが、ある踊りの時、私が入ったら、「これは花嫁の親族だけでの踊りなので」と言われ、慌てて踊りの輪から飛び出すという恥ずかしい失敗もあった。
洞窟住宅
街を歩いていて、庭で料理している3人の日本人を見つけたので話しかけた。
彼らは数日間滞在していて、「この宿は洞窟住宅だ」と言うので、即座に泊めてもらうことに決めた。彼らはそれぞれ一人旅で、他にも長期滞在者もいて、日本人宿のようになっていた。
その夜は、情報交換と楽しい宴になった。
彼らと別れて数日後、他の街を歩いていると、向かいから来たバスが私とすれ違ったところで急停車した。
振り向くと、一人が降りてきて「車窓から貴方が歩いているのを見つけたので、運転手に止めてもらった」とにこやかに言った。3人の日本人の内の一人だった。
偶然の再会。手短に話して、彼は待ってくれていたバスに戻り乗り込んだ。
私はバスの土埃が消えるまで手を振った。
アヤソフィア
アヤソフィアはイスタンブールにある、ビザンチン様式を代表する歴史的建造物である。東ローマ帝国のキリスト教正教会の大聖堂を起源とするが、オスマン帝国支配によりイスラム教のモスクとなり、その結果、祭壇がメッカに向かうように作られているということだ。
中で、日本人グループと思われる三人の男女に会った。3人とも日本からの旅行者と思って声を掛け、同行を依頼したのだが、旅行者は2人の日本人女性だけで、もう一人は現地で個人ガイドをしている男性だった。
「だったら仲間には入れて貰えない」と諦めかけたところで、その男性は女性達と短い会話をした後、「案内をしますからどうぞ」と、なんと私を受け入れてくれた。
彼は、内部の案内をするだけでなく、「ぼったくり」についても話してくれた。現地の商店だけでなく、ここで大々的に営業している日本人の旅行業者の中にも、ぼったくりじみたことをするところがあることを、具体例を挙げながら教えてくれた。
夜のモスク
実際に、ぼったくりに遭いそうになったことがこの後起こった。夜のモスクを眺めていた時のことだ。
「絨毯はどう?」の声がかかった。
土産は買わないし、買い物には全く興味がなかったが、時間があったので付いて行くと、商店の2階に案内された。
そこで店主から電卓で示された絨毯の値段は、驚くほど安かった。
とは言ってもそもそも買う気がないので、すぐに断って外に出ようとしたら、なんと店主が見送りに付いて来た。少し嫌な気分で外へ出て、ふと見ると見覚えのある顔が目に飛び込んで来た。前々日に画材を買いに行った店の若い店員の顔だった。
思わず彼に近づき、ここに来た「いきさつ」と、店主から示された「トルコ貨幣での値段」を話すと、「とんでもない。それはTシャツがやっと買える値段だ!」と言った。
私を見送っていた絨毯屋の方に彼と一緒に進んだ。彼が何か言うと、絨毯屋は電卓を取り出して数字を打った。その数字を見ると、私に示した数字に0が2つ加わっていた。若い店員は「そうだよね」と頷いた。
私に前に示した金額とは明らかに違う数字なのだが、それを証明するものはない。私は何も言えず黙った。
買う気は全くなかったので、言い争いはしなかったが、悪い後味だけは残った。
| 連載 |
第一話 左目手術
昨年十一月に右目の白内障の手術をした。左は八月頃にということにしていたが、水晶体の混濁が早まったらしく、病院で視力検査をすると、看護婦の手にする大きなカードの記号の向きさえ読めなくなった。車の免許更新は右目のおかげで救われたが、夜の走行は実際に不可能になった。
生臭い人事異動の話が取り沙汰されていた三月末、四日間の休暇を取って自分は悠々と病院の門をくぐった。
第二話 睫毛手術
要領は前回同様だし看護婦も顔なじみだから、今回はこちらにも気持ちの余裕があった。「ほとんどありもしない睫毛をまだ切るの」言ってみても仕方のない一言である。「たくさんありますよ。ちょうちょが止まってくれるほどのものではないですけどね」看護婦の方が一枚上である。妙に余裕っけを出してみても所詮こちらは俎の上の鯉。刺すなり切るなりどうぞお好きにと思いだしていたら、看護婦「はい一丁上がりでーす」
第三話 白帽白衣
右腕の上部に筋肉注射が二本打たれた。予告どおりの痛さだった。ストレッチャーが運び込まれて白衣に着替えさせられた。ナイトキャップのような白い帽子もかぶせられた。片目だけの手術にしては大げさすぎる感じではあったが、要するに無菌状態の手術室に入っていくための規則の一つだった。その意味ではガードされるべきは手術室の方だった訳で、自分の体についている雑菌が白衣と帽子で封じ込められたということである。
第四話 薬液点眼
術後は一日四回しかも四種類の点眼と二回の点滴注射が日課となった。「五分ほど空けて次のを点(さ)しますから」と、その都度詰所へ帰って行った看護婦は年配の一人と若い茶髪のもう一人だけだった。「続けて点したのでは薬液が溢れるだけで意味がありません」というのは以前からの医師や看護婦の忠告だった。四日間で七、八人入れ替わった看護婦のうち、ベテランと新米だけがそれを守った。
第五話 口頭打扉
さすがに三度の食事はいつも簡素なものだった。米はいいものを使っているからなのかこちらが噛み締めて食べるからなのか、甘みがあって美味しかった。いつも定刻にドアはノックされ、空白感の目立つプラスティック膳が中年給仕婦によって運び込まれた。ある時、「コンコン、コンコン、失礼しますよ」と、ノック音を声で演じてにこやかに食事を運び入れた女性がいた。その軽快な素振りとユーモアが美しく快かった。
第六話 金剛浅春
屋上からの展望はよく開けた。すぐ北の金剛の流れはまだ芽吹きの時に少し早いようで、岸辺の枯葉色が水の冷たさを一層引き立たせた。神社の茂りから上に伸びた支尾根の頂点に竜王という名の錐状の頂きが正対していて、それから西にゆるやかな山並みが流れ続いている。日差しはもうすっかり春のそれで、狂おしいほどに山が燃えるのは旬日をかぞえることもなかろうと思われる。
第七話 個室平和
余分な出費になったが今回は個室を用意してもらった。年度末という世俗の慌ただしさからは思いっきり超然としていたい気分だった。片目で分厚い三冊の本を読んだ。読み疲れたら屋上に出て軽い屈伸体操のまねごとを楽しんだ。部屋の前を小さな子供が走り回るという無作法には閉口したが、これも田舎の病院のあけっぴろげのおおらかさなのかと思うと、かえってそれが平和な風景の一齣になった。
第八話 見舞客無
初めての右目の手術の時には親族一同が次々と見舞いに駆けつけた。ありがたい反面、誰に対しても手術の経過を一様に語らなければならない面倒臭さがあった。それに右目に金一封左目にも金一封と気を使われたのではこちらが恐縮する。いわば今回の入院は秘密裏になされたわけで、栄転の決まった校長がいかにも嬉しそうに挨拶に覗いただけだ。女房も一度果物を運んだきりで、それ以外は誰も現れない安堵の四日間が流れた。
第九話 喫煙控所
「常さんじゃろう、常さんどうしたんならな」いきなり親しげに声を掛けられた。喫煙所兼見舞客控所でのことである。左目に大きめの金属製の眼帯が張り付けられているから、顔の半分はよく見えない理屈になる。その場は丁重にお断りしたが、その日の夕刻、今度は別の年配女性から呼び止められた。「これ常さんじゃろうが、あんた」「頭の格好や色があんまりそっくりなんで」常さんはみんなに慕われるこの地の有名人だったのだ。
第十話 両目開眼
退院の日、視力検査をするというので診察室に降りて行った。眼帯を取ってもらうと世の中が青白くはっきり見えた。こちらの瞳まで少年の頃の澄んだ感じが自覚された。「よく見えますか」と尋ねかけてきたなじみの看護婦は、「きゃあ、えらいこっちゃ、そんなに見えたら恥ずかしいな」ととんきょうな声を上げた。即座のちょっと艶な反応ぶりがその女性を可愛ゆくさせた。(二〇〇〇年五月五日)
| 【4回のお約束で連載させていただいた「復刻随想」も、今回で終了となります。改めて竹内良雄先生に感謝申し上げます。 タイトル中の「復刻」は、言葉の正しい使い方ではありませんが、竹内良雄先生のご許可のもと、今では手に入りにくくなった先生の随想集の中から、数編を選んで連載させていただくという意味で、編集部の責任において「復刻」としたものです。】 |

気候変動に翻弄された夏も、この会報がお手元に届けられる頃には収束を迎えているでしょうか?
若い世代に平和の伝言を 7月6日(日)の高退教第46回定期総会の模様を伝える「会報181号」に、こうありました。「県外から参加のTさんは、『今の時代、改めて平和について考えなければならない。高退教でも今一度、戦争体験や平和への思いを、文章や座談会などで次代へ伝えるようとりくむべきではないか。』と訴えられました。」
この発言は、総会でも共感をもって迎えられ、高退教会員ならではの役割をお互いに再確認するとともに、この提案の具体化にむけて、可能なとりくみを模索しているところです。さしあたり今回の「会報182号」にも、平和に関わる文章を複数寄せていただきましたが、今後もひき続き、沢山の皆様から「私の戦争体験・戦後体験」「子や孫、若い世代に今伝えたいこと」「平和への思い」などなど、自由なテーマ・切り口で、積極的にご寄稿いただけますよう、事務局・編集係一同、改めてお願い申しあげます。
ホームページとブログについて 高退教会員相互の絆の役割を担うものとして、「会報」の充実をはかっています。忌憚のないご意見、アドバイスをお願いします。それとともに、論考、随想、書評、近況、短詩、短歌、俳句、川柳などなど、多彩な記事を是非お寄せください。
また、会員内外に向けて広く発信する場として、岡山高退教ホームページ(https://www.urban.ne.jp/home/okakokyo/kotaikyo/index.html)とオフィシャルブログ(https://okayamakoutaikyou.blog.fc2.com/)を、適宜更新しています。
これには、会報バックナンバーもpdfファイル(カラー写真入り)で掲載しており、必要に応じてご覧いただけるようにしておりますが、一部個人情報も含まれる会報を無制限に公開することには慎重であるべきとのご意見も伺っており、その点に配慮して再編集していますので、実際の会報と同一ではないことをご承知おきください。
会報pdf閲覧早わかり
1) 岡山高退教ホームページにアクセスします。
2) トップページのバナーの下にある「会報」(左から4番目)をクリックします。
3) 岡山高退教会報バックナンバーは「ダイジェスト版」と「PDF版」の2種類を掲載しています。いずれもホームページ掲載用に編集したもので、記事の取捨選択や写真、図表、記述などにおいて、実際の「会報」とは異なる点がありますのでお含み下さい♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪。

◎初編集です! 五里霧中、暗中模索、原稿が集まるのか疑心暗鬼。ところが、すぐに次々と原稿が届けられ、拝読するたびに感動したり、涙をこぼしたり、くすっと笑ってしまったりと、心の揺れ動く特別な時間が流れていきました。今は一時も早くみなさんにもこの感動を届けたい思いが強まっています。
◎この号から「戦後80年 未来へのことづて」と題した特集が継続されます。
頭上の大空はどこまでも続いているのに、その同じ空から火が落ちてくる場所がある、世界で今も続く戦争が一日も早く終わることを願わずにはいられません。 また、80年途絶えなかったこの「奇跡」の平和が、私たちの手のひらからこぼれ落ちることがないよう、そして未来に手渡せるよう守っていかねばなりません。
次号からも引き続き「戦争と平和」への思いがこもった原稿をお待ちしています。
◎会報181号で紹介されました小野信義先生のご著書『星空のオーケストラ』が高退教に届けられました。小野先生からご恵贈いただきました。とても美しく素敵な題名でありながらテーマの一つは「反戦」。ぜひ、多くの方々に、そして子供たちに読んでもらいたいですね。小野先生ありがとうございました。
(大久保緑子)
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪