
3月12日(水)、岡山・旭東支部合同の春の支部交流会をおこないました。
今回は来年度のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の重要シーンとして描かれると思われる「水攻め」ゆかりの備中高松城址の散策、懐かしの歌声、参加者交流の日程で25名が参加して交流を深めました。前日までは雨降りの天気予報でしたが、当日は曇り空のもとで交流会ができました。
受付の後、宗治記念館(県立高松農業高校の施設を移転したとのこと)を会場にして、小川澄雄副会長の開会挨拶の後、定広輝海さんから、手製のガイドメモを基に高松城址公園の概要説明をしてもらいました。備中高松城の水攻めは歴史的には過去5回の水攻めで唯一成功した水攻めであること、大河ドラマで過去4回(「太閤記」、「おんな太閤記」、「秀吉」、「軍師官兵衛」)も大きく取り上げられたこと、「軍師官兵衛」放映後の月曜には平日にも関わらず大勢の人が押し寄せたこと、来年度の「豊臣兄弟」でもおそらく大きく取り上げられることになるのではないか、などのエピソードを交えての説明がありました。
定広さんの概要説明の後、2グループに分かれて、備中高松城址資料館、清水宗治首塚、清水宗治胴塚、自刃の地などの史跡をそれぞれ歩いて、現地のガイドから説明してもらいました。史跡の説明の終わりに現地ガイドも含めた全員の写真撮影を行い、宗治記念館で、三好野の「3種おこわ弁当」の昼食休憩をしました。
昼食後は、田中豊子さんのアコーディオン伴奏で「懐かしの歌声」として、四季の歌、若者たち、青い山脈、大きなうた、緑の山河の5曲を歌いました。その後、参加者の「近況&感想などの交流」タイムでは大いに盛り上がり予定時間を大幅にオーバーしました。
最後に難波欽子副会長の閉会挨拶があり、来年度は造山古墳の散策を予定しており、今年以上に交流会を盛り上げようとお互いに誓い、会を閉じました。
以下に主な感想を紹介します。
| ▼定広先生の「ガイド」はわかりやすく、しかも楽しませていただきました。相当、「大河ドラマ」等の記憶が確かで、参考になりました。記念館のガイドの方の説明もわかりやすかったのですが、時間的にかけあし的で、もう少し聞きたい所もありました。幸い、私は地元ですので、また学習したいと思います。企画運営の方々、ありがとうございました。(井上憲璽さん) ▼定広先生の説明に引き込まれました。トーク力は最高です。この地に移住して45年になりますが、知らない事や裏話などがたくさんあり、とても勉強になりました。参加者の方々が生き生きとされていて感動しました。この会の質の高さを知りました。飛び入り参加させていただき、本当にありがとうございました。アコーディオンの生演奏で歌ったのは数十年ぶりで楽しかったです。しっかりお腹から声が出せました。(井上三枝子さん) ▼後楽園や岡山城は身近でよく(子どもの頃)行っていましたが、交流会の企画に参加して、色々説明を聞き知らないこといっぱい!の会でした。今年は初めての場所で(ドラマで水攻めのことは有名でしたが)新鮮さが昨年までの数倍でした!家臣のために自分の命をたつ、何というか、つらい、しんどい・・・現代でも似たようなできごとがあるのでは・・・。1年ぶりにかつての同僚に会えるのも楽しみにしています。お世話になりました。(尾崎光津枝さん) ▼高松城址公園には初めて来ました。水攻めのことを詳しく聞いて、16世紀の日本が戦いに明け暮れていたことをあらためて想像しました。21世紀には住宅や公園があって、ずいぶん風景が変化してしまいました。500年ぐらい後の人が宗治公を大切に思っていること、そして、後世に伝えていることを知りました。日本史の一部を学び直すことができました。(田中豊子さん) ▼支部外から参加させていただき、ありがとうございました。住まいの近くにすばらしい場所があったのに足を運ばなかったのははずかしい限りでした。この度、参加させていただき感謝です。午後の運営も楽しかったです。お世話になりました。(土井彰さん) ▼初めて詳しく説明を聞きました。近くにいながらついつい今まで詳しく知りませんでした。清水宗治の生き様に感動しました。自分の命を捨ててでも家来全体の命を救うといことはなかなかでできるものではないでしょう。世界の政治家に見習ってもらいたいと感じます。身を切る覚悟で政治をしてもらいたい。詳しい説明をいただきありがとうございました。(横田廣太郎さん) ――浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して――- 高松城主・清水宗治辞世の歌にちなんで、今回初めての試みで、「感想の用紙に俳句や和歌を作ってください(ペンネームも可)」とお願いしたところ、参加者の皆さんから次のような作品を寄せていただきました。ありがとうございました。 🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷参加者の作品🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷 ○(いつまでもヒヨコさん) 宗治さん民の命を守りたり水攻めの中小舟に乗って ○(土井さん) 初音聴き傘寿来たりて杖たより ○(川鍋さん) 胴塚は私有地にあり鳥帰る ○(花田さん) ひとの世はいまだに戦よ梅の花 ○(流月さん) ホトケノザ春の光に笑ってる 若返る緑の山河に声帯も元教員の春の交流会 ○(Kさん) 春うらら宗治しのぶ交流会 やわらかな風に首塚つつまれて 宗治の無念のこもる首塚を春の日射しがやさしく包む ○(恵風さん) 古城址を芯に春野の広がれり 戦将の首塚胴塚春浅し 下萌や列逸れ拝む供養塔 無口な人混じる一団青き踏む 🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷 |
3月28日(金)、ここ数日の温かさで一夜のうちに桜が開花した。また、昨晩からの雨で、23日に発生した岡山市南区の山火事はやっと「鎮圧」に向かった。この「めぐみの雨」も朝には上がり、曇り空ではあったが、黄砂も花粉もきれいに洗い流され、清澄な空気の中、高退教備南支部「春の交流会」は開催された。今年度は、例年の会場「くらしき健康福祉プラザ」を出て、初めて「児島」での開催。午前11時半、集合場所の児島駅前に10名、食事場所に2名、計12名の出席予定者が無事集合した。内訳は、80代3名、70代8名、60代1名、交流会初めての参加者2名が嬉しい。ほとんどの方が児島の地での勤務歴があり、久々の児島訪問、当時を懐かしく思い出しているように思われた。
昼食は、「会食菜宴膳」にて、松花堂ランチ+お刺身(2,000円)。お膳が揃うまで、自己紹介・近況報告。半数の6名が発言し終わったところで食事準備完了。「いただきます」で一心不乱に箸を進める。みなさんほぼ完食で「ごちそうさま」。膳を下げながら、残り6名の自己紹介・近況報告。会計を済ませ、お店の前で記念写真「はい、チーズ」。見学先の旧野崎家住宅へ移動。徒歩組4名、車組8名、旧野崎家住宅到着。事前にお願いしていた学芸員さんの説明を得ながら見学した。時節柄、各お部屋で、おひな様がお迎えしてくれた。旧野崎家住宅については、旧野崎家住宅(野崎家塩業歴史館)のホームページ等を参照して下さい。この施設は「国指定重要文化財」ということで、40億円の予算で、13年かけて保存修理作業を行うという計画が進んでいる。国7割、自治体(県、市)1割ずつ、野崎が1割。1割負担でも4億円!と驚く。1時間ほどで見学終了。施設入り口で解散、14時30分。即帰宅組とジーンズストリート散策組に分かれる。
この日、NHK朝ドラ「おむすび」がやっと終了した。3月31日(月)から「あんぱん」が始まる。ようやく普段の日常に戻れる。
今年度の美作支部交流会は、「姫新線応援ツアー」と銘打って、姫新線を使って津山から新見までの旅を企画しました。津山駅から新見駅までの直通列車は、1日6本。しかし、ツアーに使える有効な時間帯では1本だけです。所要時間は、105分程度です。高齢者には少しハードルの高いツアーかなと思っていましたが、9名の参加者を得ることができました。内、女性は2名。
4月6日日曜日9時53分津山駅発の列車に乗車したのは、3名。
次の院庄駅で6名乗車して、全員参加となりました。列車は1両編成で、日曜日なのに予想に反してほぼ満席状態でした。ということで、各自バラバラな席取りになりました。乗客のほとんどの人は、新見駅まで乗車しました。若い人も結構多くて、いわゆる鉄男鉄女の人たちもいて、列車が駅に着くたびにカメラを持って、前に後ろにと動き回っていました。沿線の山桜や駅舎やホームに植えられた桜が、丁度見ごろを迎えていて、車窓を楽しませてくれました。ローカル線あるあるの、木の枝が列車の天井をゴンゴンと大きな音をたててこすっていきます。多分都会の電車だったら、即運行停止、テレビのニュースになったことでしょうが、ローカル線では通常イベントです。聞けばほとんどの参加者が、津山~新見間の鉄道に乗るのは初めてということで、それだけでも意義のある企画だったと思います。
列車は、11時37分新見駅に到着。12時47分の新見発でとんぼ返りする人は誰もいなくて、ここから16時49分新見発まで、5時間余りの新見滞在となります。まずは駅前の高級レストラン【伯備】にて、昼食。2階の個室が取れたので、ここで交流会ができました。
その後、坂道をブチブチ言いながら登って、新見美術館へ移動。新見美術館は、中国地方の美術館の中でも素晴らしい美術館で、上手な企画展と運営で、新見市の文化的価値を高からしめています。この時は、『ダヤンの不思議な旅』という企画展で、絵本の猫の世界の原画展でした。渋い日本画を期待していましたが、ちょっと残念。新見美術館は、橋本関雪の絵を所蔵しており、このレベルの地方美術館としては垂涎の名品なのですが、なんせ小さな美術館なので常設展示がありません。(また見る機会が、あれば良いな。)
まあ猫の絵を見て感動する高齢者も少なく、早々に次の目的地【新見図書館】へ向けて出発。新見図書館は市役所の向こう、行程は2キロとちょっと。途中、無料休憩所で一息入れて、何とか全員歩いてたどり着きました。(1名は、街並みを自由散策したいということで、別行動。)【新見図書館】は、本当に素晴らしい設計・建築で、こんなのが津山にも欲しいと思わせる素敵な文化エリアとなっていました。とはいえ皆さんヘトヘトで、崩れ落ちるように2階の喫茶スペースになだれ込み、お洒落な飲み物で回復を図るれていました。ここでグダグダと1時間ほど過ごした後、新見駅まで移動する時間となりましたが、「もう歩けません。」という方がおられて、タクシーを1台呼び3名の方が乗車して、駅に向かいました。残りの5名は、老体に鞭打ち駅までの2キロ強を歩きました。(内女性2名)
帰りの列車は、16時49分発です。これも思いのほか満席で、結構乗車するんだな、と思いました。もちろん、1両編成です。幸いにも天気に恵まれた1日で、車窓からの景色をたっぷりと楽しめました。姫新線は、高梁川・旭川・吉井川の岡山3大河川をまたぎ、車窓からそれぞれの桜が楽しめる路線でした。平素は車でしか移動しないので、鉄道の醍醐味を存分に味わうことができました。そんなことを思いながら、桜色に暮れなずむ津山の町にかえってまいりました。徒歩行程5キロ弱、皆さん本当によく歩かれました。次回も、皆様に喜んでいただける企画にしたいと思います。
春の訪れを感じる3月27日、他支部からの参加者3名を加えて15名の参加者を得て「備西支部春の交流会・長寿を祝う会」が開催されました。今年のコースは、「阿藤伯海旧居→寄島の三郎島→海蔵寺(南浦(なんぽ))→土佐家」と、歴史と自然を巡る充実したものとなりました。
最初に、鴨方町六条院東の阿藤(あとう)伯(はく)海(み)旧居を訪れました。伯海は、第一高等学校の教授であり、漢詩集『大簡詩草』を持つ高名な漢詩人として知られる人物です。
教え子の芥川賞作家清岡(きよおか)卓(たか)行(ゆき)の『詩禮傳家(しれいでんか)』は、「哀惜の想いで描いた恩師への鎮魂歌」と評されるもので、「高雅な人格と美意識を生きた文学者」として、伯海の姿が見事に描かれていると言います。
『昭和24年、岡山大学の創設に尽くすも教授に就くことはなく、詩作と読書にふける道を選んだ』というところからも人柄が忍ばれます。
教え子達に生涯慕われたその人となりには、自ずと頭(こうべ)を垂れる気持ちとなります。
次に訪れたのが、今は干拓による地続きとなっている寄島の「三郎島」です。いかにも干拓地らしい真っすぐな道に入り、その道を進んで行くと、やがて対向車が気掛かりな細い道に変わって、それが「嘗ての島」に入ったことを教えてくれます。すぐに目の前に海が現れ、さらに海岸線を進んで行くと、海上に小さな3つの島が目に入ります。「三ツ山」です。
海風を受けながら、瀬戸の海やその向こうの島々を眺めた後、三宅幸良先生から「寄島という地名の由来」を聞きました。「寄島という地名は、神功皇后が三韓征伐の帰りに立ち『寄』った小『島』というところから来ていて、本来は我々が今立っているこの島の名前だったのです。それが、いつの間にか、この島の近くの本土の地名となってしまい、その結果、この島の名前が『三郎島』となったのです。」
参加者の口から、「へー」「面白っ!」「知らんかった」「ふーん!」と様々な声が上がりました。
続いて向かった天台宗海蔵寺(南浦)は文字通りの絶景スポットでした。石段の下から山門を見上げるのも誠に壮観。
逆に山門の位置から眼下を見渡せば、穏やかな瀬戸の海と空の間に瀬戸の島々が霞みます。
美しい庭園の中の鐘楼に上ると、さらに眺望が開けます。
映画『釣りバカ日誌』や『とんび』のロケ地になったことも頷けます。様々なものに心を癒されるひとときを過ごすことが出来ました。
最後の訪問地、土佐家(金光)では、いよいよ本日のメイン行事である「長寿を祝う会」が行われ、浅野秀夫先生と小幡キク子先生からお言葉をいただくことができました。
小幡先生は、「父が早くに亡くなり、母一人で4人の兄弟を育ててくれました。学校の先生からは『上の学校に進めてやってほしい。』と言われていましたが、父親をはじめとする周囲からは、『女の子は上の学校に行く必要はない』と言われました。しかし母が『私が国立の大学に行かせます』と言い切ってくれ、父が亡くなった後も、母一人で4人兄弟皆を大学までやってくれました。そのことで男女関係無く、勉強したければ上の学校に進んでいいんだと思ったし、教師として生きて来た自分の人生も、そうした母を通して築かれ支えられて来たものと強く思います。」
浅野先生は「長寿と言われても、特別そうとは思われないのですが、岡山大学の同じ学部の同級生7人のうち6人が既に亡くなっており、それを考えると長生きしたんだと思います。現在は、お米を作っており、そのお米を今は各地で別々に暮らしている家族に配るのが何よりの楽しみです。昨今のコメ不足で、米に対する有難みが増して、大変喜ばれています。これから何か特別にやるというようなことはありませんが、自分に出来ることを自然にこなす、そんな生き方を続けて行けたらと思っています。」
このお二人のお言葉に参加者一同頷き微笑み聴き入る素晴らしい時間となりました。
その後、総会が開かれ、今年度の活動報告や今後の計画について話し合いました。総会後は、参加者一人ひとりが近況を報告し合い、それぞれの歩みや思いを共有する貴重な時間となりました。久しぶりに顔を合わせる方々も多く、会話は尽きることなく弾みました。
今年の交流会も、天候に恵まれ、美しい景色とともに、心温まるひとときを過ごすことができました。ご参加いただいた皆様、そして準備に携わってくださった皆様に、心より感謝申し上げます。次回もまた、元気にお会いできることを楽しみにしております。
弥生も残り2日となった日曜日、「備北支部春の交流会」が開催された。今回は「草間台地そば打ち教室」。春、いや夏のような陽気から一転、2月に逆戻りの寒い日だった。午前10時、草間市民センターに集合したのはご夫婦3組を含む11名。講師は草間在住の中山勇治先生と奥様。草間台地で収穫されたそば粉を使い、手打ち9割そばの作り方を指導していただいた。
全員集合の後、さっそく調理室に。調理台の上には、こね鉢、麺棒、そばきり包丁といった道具類が用意されており、「いよいよ憧れのそば打ちだ!」と気持ちが高ぶった。
まずは先生のデモンストレーションから。そば粉をざるでふるい、計量した水を少しずつ入れる。指先で粉と水をよく混ぜ合わせパン粉状にする。「ここが上手くいけば後が楽です。」と中山先生。「よし、最初が肝心なんだな。」と目を凝らす。しかし、先生の流れるような手さばきにいつしか見とれていた。「菊ねり」という美しい言葉。菊の花のように生地を中に練りこんでいくのだ。そのあとは円錐形に形を整える、と思ったらそのまま上から押して平らに丸くしてしまう。うーん、お見事!
「さあ、ここまでやってみてください。」「ようし!」意気込んで始めたもののパン粉状にならない。「水を入れすぎた。」「手にくっついてとれん。」「丸うにならんで。」よかった。私だけじゃなかった。先生はそれぞれの調理台に向かっては素早く、優しく、神の手で手直しをしてくださる。
後半は麺棒で生地をのばしていき、10円玉の薄さを目指す。と同時に四角い形に整えていく。ここでも私は悪戦苦闘の連続だ。「あっ、雪!」の声に目を上げると、窓の外には名残りの雪が降っている。さあ、もう一息だ。
鍋に湯が沸かされ各自が出来上がったそばを入れていく。沸騰して1分半、流水でさっと洗ったら再び、少し温めて容器へ。用意された蒲鉾と刻み葱をのせ、温かいつゆをかけたら出来上がり。こぼさぬように畳の部屋へ移動する。なんと机の上には海老と蕗の薹の天ぷらが。それだけではない。そば粉を使ったそば豆腐、デザートには特注の餡子が入ったそば饅頭まで。全て中山先生と奥様が用意してくださった手作りなのだ。私たちのため、どれだけ心を砕いて準備をしてくださったことか。感謝の思いでいっぱいになった。
ご馳走に舌鼓を打ちながら近況報告に。岡本忠先生から3月に奥様が急逝されたというお話が。季節が進むのを惜しむようなあの雪は、そば打ちにチャレンジする先生を奥様が応援されていたのではと思えた。
近況報告が終わるころにはお腹も心もいっぱいに満たされていた。初めてそば打ちを体験し、美味しいものをいただき、中山先生と奥様の温かい心遣いに触れ、本当に幸せな時間を過ごさせていただいた。今回の企画を考えてくださった逸見先生、ありがとうございました。
| 連載 随想復刻 |
二年に一度開催される高等学校の同窓会総会の準備も大詰めを迎えていた時だった。
なにしろ、一万七千人という会員を抱える大所帯だから、初めて送った八ページ建ての会報に対する反響はたいへんなもので、返って来た出欠の回答だけでも二千通をゆうに越えた。この夏、会員名簿を作った時にはまだ消息のあった大先輩たちの家族から、物故者となったとの返書を受けた数も三十数通に及んだ。そんな中での電話だったから、急な参加申し込みかにわかの辞退を知らせてきたものとばかり思っていた。
受話器を上げてこちらの名前を告げても用件の連絡を督促しても、なにも語られないままの空白の時間が長いことながれた。しかし、それがただの空白ではない。なにかを話し出そうとして懸命になっているのに口をついて声が出てこないといった様子である。脳の中の言語中枢からの指示がうまく咽喉や唇に伝わらないといった感じである。低くうなるような声に混じって受話器をまさぐる音や紙の擦れ合う音が聞こえる。むこうのおおよその事態は想像できた。床についたままになってもうかなり経った頃の、最晩年の亡父の姿が思い起された。
語れはじめたら、その苦しく切ない息使いをはさみながら、思いばかりが先行する語りが次からつぎへと溢れ出た。
「はじめての会報をなんべんもなんべんも読んだ。会長の関谷の思い出話を読んで涙が止らない」
「会報の二号に、どうかぼくの原稿を載せてくれないか。清書したら十枚ほどのものになる」
「どうしてこんなに鮮烈なのかと思うほど、閑谷中学時代の思い出は次からつぎへとどれも鮮やかに浮かび上ってくる」
「ぼくは、昭和七年の卒業だ。修学旅行で大山から出雲大社へ行った時の写真も一緒に送ろう。大鳥居の前で○○君と写したものだ」
用件はたしかに、五月頃に発行する予定の会報二号への投稿の意志表示だった。それが誰であっても母校を想い同窓会を思ってくれるその熱情はありがたかった。いつもは語ることのなかった、あるいは語る相手のいないままにうっ積していたものが、電話一本の細い吐け口を通して見も知らぬ事務局の対応に吐き出されたという観である。それはなんともリアルで昨日のことのように臨場感に溢れていた。八ページ建ての会報に原稿用紙十枚の一挙掲載はどう考えても困難である。二年後の秋に刊行を計画している閑谷開学以降「三百二十五年事業」の一環としての記念誌の方にまわさせてほしいとこちらの意向を伝えたら、泣いているかと思われる細く弱い声で大先輩はこんなふうに哀願されたのである。
「ぼくは、もう、傘寿です。八十です。今も、失礼ですが、寝たままで電話をしています。朝、ごはんを食べて三十分ぐらいと、昼ごはんを食べてからの三十分だけしか筆を持つことができません。夜は薬を飲んですぐ眠ってしまいます。思い出はいくらでも鮮やかに思い出されるのですが、ぼくには、もう、それを書きつづってゆくだけの時間がないのです」
沈黙はまた長かった。呼吸を整えようとすると激情が先にくる。思いばかりが先にくるからまた咳き込んでしまう。ゆっくりゆっくりとゼンマイの解けてゆく柱時計を見据えながら、亡父はどんな思いでその単調で淡白だったはずの思い出と対峙していたのだろう。思い出の量と質の違いは、人生の終わりの時までもこれほどの充足と空虚の差を生むのであろうか。
「ぼくは、もう、傘寿です。二年もは待てないでしょう」
会報への掲載に努力することを伝え、こころからの感謝と激励の意を表して長かった電話を切った。チャイムに促されながら落ち葉の舞いかかる廊下を急ぐと、思わず涙がこみ上ってきた。
同窓会総会は無事に終わった。閑谷中学や和気高等女学校の校歌が優しくあるいは高らかに唄いあげられてからは、宴もたけなわとなって、スピーチにも余興にもますます力がはいってきた。しかるべき人としかるべき挨拶を交わしながら、酒やビールの相次ぐ酌を受けながら、この今を、思い出だけに生きている傘寿の一人の大先輩を思った。その度に、カサカサと落ち葉の吹き散る音を聞いた。
(1993年11月7日)
【タイトル中の「復刻」は、言葉の正しい使い方ではありませんが、竹内良雄先生のご許可のもと、今では手に入りにくくなった先生の随想集の中から、数編を選んで連載させていただくという意味で、編集部の責任において「復刻」としたものです。】
全米マスターズ出場とママジーン
マラソン大会に出場した。全米マスターズを間近に控えて、体調を整えたいという意識があったからだ。
マラソン(ロードレース)ブームはこの頃アメリカでも始まっていたが、タコマ近郊ではまだ第2回大会とか第3回大会ぐらいの歴史しかなかった。私は、5キロのレースに3回出場し、3回とも優勝した。大会の中には、車椅子と一緒に走る『車椅子の部同時開催」というのもあった。
3回出場3回優勝ではあるが、その中のある大会で、2位の人がトロフィーをもらうという「珍事」が起こった。その場で抗議したが受け付けてもらえず、表彰式後に調べてもらうと、やはり私の名前が1位に記録されていた。担当者が「後で日本へ送る」と言ったので、住所を書いたが未だに送られて来ていない。
今回の渡米の、「留学」以外のもう一つの目的である「全米マスターズ出場」に際し、ママジーンという人のお宅で世話になるという幸運を得たが、その裏には、タコマ日本人会の会長さんのお力添えがあった。
日本人会に招待された時の会話の中で、私が全米マスターズ陸上競技でユージーンに行くと言った時、「それならママジーンの家へ泊まると良い」と言って、わざわざ電話を掛けてくれたのだ。
(「ママジーン」という呼び方は、「ジーンさんちのお母さん」くらいの意味だろうと勝手に解釈していたが、本当のところはよく分からない。誰もがそう呼ぶようなので、私もそう呼んだ。)
会長さんは、「ママジーンは戦時中、旦那さんが出征して、『日・独・伊』と戦っているにもかかわらず、私の妻を中国人だと言ってかくまってくれたんだ」と、その人柄を説明してくれた。
それが、私がママジーンを知る最初だった。
全米マスターズに向かう時の、タコマからユージーンまでの高速バスチケットは、井上君が調べて買ってくれ、私をターミナルまで送ってくれた。そして「車中では、絶対に禁アルコール」ということを注意してくれたので、「違反すると夜でも熊が出る所でも下ろされる!」を復唱した。
ユージーン到着時、私の名前のプラカードを探してママジーンを見つけたが、ママジーンも同時に私だと分かったようだった。彼女の家に1週間ほど滞在し、アメリカの免許証を取得していたので片道100km余りの道を運転させてもらい西海岸のコテージに行ったりもした。海岸には砂丘があり、アザラシがいた。
ママジーンは、会長さんから聞いた通りの人柄で、数人の里子を育てたりもしていて、国を越えて必要な援助してきた人だった。
その精神は娘さんにも引き継がれていたようで、娘さん夫婦が里親をしているベトナム難民の少年を連れてきた際、娘さんが少年をハグして撫でながらいろんな話をしている姿からは、その優しさが滲み出ていた
ユージーン大学の陸上競技場は、オリンピックの予選会をするほど有名で、スタンドも大きい。全米マスターズのM50にはローマオリンピック1500m優勝のニュージーランド選手が出ていて往年のフォームで走っていた。ママジーンと娘ジーン夫妻の3人は、W(女子)80のお婆ちゃんの走り高跳び挑戦に笑いこけたりしながら、2日間私の応援に来てくれた。私はM40の800mと1500mに出て、順位は悪かったものの、1500mでは4分14秒4で、ジャカルタアジア大会優勝者で私の大学の先輩、長田正之さんのM40の日本最高記録に0秒2の差に迫る記録を出すことができた。
ママジーンは別れのバス停で涙で見送ってくれた。
心に残った事々
PLUに帰って、学内で話しかけた教授が私達のことを知っていた。「時間に余裕がある人いますか?」と言うので、「私はフリーです」と言うと「これから湖の小屋へ行きませんか?」と誘ってくれた。奥様も一緒に乗せて行くと、車で30分ほどの小屋は遊び道具でいっぱいだった。まずインディアンカヌーを引っ張り出して、葦の茂る湖岸を櫂で進んだ。次にモーターボートを出して水上スキーをさせてもらった。私は冬のスキーは常だが、水上スキーは久しぶりだったのでモーターボートの後にできる波の後ろや、外に出て波のない湖面のスラロームを心ゆくまで楽しませてもらった。
湖の近くに車椅子の集団がいるのに気付いた。当時の日本では見られない光景だったので、話しかけると「老人ホームの日課の1つです」と教えてくれた。
この老人ホームはPLUの近くだと聞いたので、後日見学させてもらった。
日本人会会長の長男でアメリカンフットボール選手のケビンが、黒人の友達のところに行くと言うので、同行したことがあった。
「ニューヨークなどの黒人の多いスラム街では強盗、殺人が極めて多い」とのマスコミ報道を見聞きしているので不安があったが、「ケビンが一緒だから」と興味のほうが勝って付いて行った。友人の家はスラム街ではなく、白人宅も混在しているところだった。
3人で楽しい時を過ごして、私に少なからず内在していた黒人への偏見は払拭され、問題は「黒人」ではなく「貧困」だという当然なことを再認識した。
夏休みならではの行事があり、そのいくつかを見学させてもらった。
チアリーダー部の学生が高校生を集めて合宿研修会を開いていた。高校生は数日間にいろんなポーズを覚え、上達していくようだった。「スポーツの教員です」と自己紹介すると、演技のいくつかを気軽に見せてくれた。
大学生が夏休みで子供キャンプを開いていた。ゲームをしていたので、しばらく見ていて、仲間に入れてもらった。途中で「日本の子供の遊びを…!」と言われて「花いちもんめ」を紹介してみたものの、私の英語力不足のためあまりうまくいかなかった。
もう一つ、ワシントン州会議事堂を見学に行ったことも心に残っている。合衆国議会議事堂と同じ様式で、その大きさに圧倒されてしまった。時間の余裕はなかったのだが、わずかの休憩時間を利用して慌ててスケッチした。
この「留学」を、PLUの証明書が出されているとは言え、本当に留学と呼んでいいのか迷ってしまうような、私の「ひと夏の体験」だったが、私以外の仲間は、しっかり4年間の課程をやり切ったと聞いている。その後、アメリカの大学の教授になった方もいるのだ。
私の家に泊まりに来た人、私が行って泊めてもらった人、北海道旅行の途中で再会して酒を酌み交わした人など、さまざまな交流の中で、仲間の活躍ぶりを聞けることは、私の大きな喜びだった。こうした交流が、タコマ日本人会会長の奥さんと息子さんの来日・再会に繫がったこともあり、「留学」が紡いでくれた絆の有り難さを、今更ながら思う。
なお、この「留学」のきっかけを作ってくれ、さらに私のアメリカ滞在中、様々なサポートしてくれたジャック・オーナーさんは、戦後の日本の教育改革に携わった方で、中学英語教科書の『JACK&BETTY』は、このご夫妻の名を取ったものと言われている。
新自然歴史探訪も今回で3回目となります。一昨年は石の島北木島、昨年は鳥取県智頭町板井原集落へ足を伸ばしました。今年は、武田芳紀さん推薦の美咲町柵原地区を訪ねることになりました。4月4日に、係の責任者である藤原洋平さん、車を出してくださった井上さん(実は毎回なのです。お世話になります)、西さん、岡田の5名で下見に行ってきました。
少し涼しい風が吹いていましたが、いい天気でした。朝9時過ぎに岡山駅西口を出発し、旭川沿いに北上、山陽町を抜けて、熊山から岡山美作道路(未完成の高速道路)を使って行きました。桜が咲いて気持ちのいいドライブです。10時過ぎに月の輪古墳のある飯岡(ゆうか)に到着しましたが、入り口がわかりません。農協の支店で尋ねると非常に丁寧に教えてくれました。
まず、すぐ近くの月の輪古墳の資料館に行きました。あいにく閉まっていましたが、外にトイレがあって心配していたトイレの問題が解決しました。当日は、70年前に中学3年生の時に発掘に参加された山田氏にお話を伺う予定です。狭くて急な山道を登って古墳に向かいます。途中、イノシシの侵入防止の柵を開けて通ります。駐車スペースからは坂道ですが距離は100m足らずで、膝の悪い私でもそれほど苦にならずに登ることができました。頂上に出ると一気に視界が広がります。標高330mの大平山の頂にある円墳です。きれいに整備されていました。頂上の桜はまだでしたが、ウグイスがよく鳴いていました。眼下に東(湯郷)から流れる吉野川が見えます。この地は北から流れる吉井川との合流点に当たるところです。
昼食に向かいます。当日の予定は「山荘yanahara」という宿泊施設の中のレストランですが、この日は別の予約が入っていたので「つぼい」という国道沿いの店でいただいた後、「山荘yanahara」へ寄って当日の予約と打合せを済ませました。
次に、柵原鉱山の中央立坑趾を外から見学しました。ここから400~500mも地下深く掘り下げていたのかと思うと感慨深くなりました。その後、柵原鉱山資料館を訪ねました。鉱山の最盛期、昭和の時代の生活が再現されていて何とも言えない懐かしさを覚えます。さらに地下へ下りると、鉱山での採掘の様子が再現されていました。地下深くでの作業は想像できないくらいたいへんだったろうと思わされました。
周辺は、廃線になった片上鉄道の車両や線路もあります。またふるさと公園として整備されていて、桜をはじめとしてコブシ、レンギョウ、ユキヤナギなど花盛りでした。その後、休憩して帰路に就きました。
古墳の丘で古代の風を感じ、鉱山資料館で昭和のレトロを懐かしむ。地元の食材に舌鼓を打つ、ちょっと贅沢な企画です。
実施は6月1日(日)です。詳しいことはチラシをご覧下さい。皆さんの参加をお待ちしています。
| 2024年度高退教総会や、それに先立つ岡山・旭東支部春の交流会で、パレスチナ問題について講演してくださった徳方宏治先生(岡山支部)が、4月7日未明、脳梗塞のため亡くなられました。 数年前に経験された脳梗塞の後遺症のため、身体や言語に不自由さを抱えておられましたが、ご家族の献身的な協力も得てのリハビリで、著しい回復を見せておられることに感嘆していた矢先ですのに、誠に残念です。 このほど、ご親族による葬儀とは別に、4月12日(土)午後、「セレマ津高シティホール」を会場に「お別れの会」が開かれ、各方面から大勢が参加。故人との別れを惜しみました。 「楽しい人生だった、幸せだった。最後も笑って見送ってもらいたい。」との故人の「希望」に応えての、娘婿さんによるトロンボーン演奏なども素敵な、楽しく和やかな会で、棺の中の先生も穏やかに微笑んでおられました。 定広輝海、難波達興、岡田憲朗の三氏から心にしみる追悼文を寄せていただきましたので、ご紹介します。(事務局長山本) |
今年に入って間もない1月3日に、妻と一緒に徳方先生宅へお邪魔しました。実は私の妻の母(苅田陽子 一昨年に94歳で死去)が徳方先生の姉に当たります。このときは元気で明るく四人で野菜づくりのことや家族のことなどで交流し、暖かくなったら4月に津山市の姉の墓参りにぜひ行きたい、同時に同じ場所にある苅田アサノさんのお墓参りもしたいと言っていました(苅田アサノさんの紹介はここでは省きます)。
ところが4月5日の農作業中に突然倒れ、7日の未明に脳梗塞が原因で亡くなったとの知らせが娘さんから入り、しばらく気持ちの整理ができませんでした。もう会えないのかと思うと心の中に大きな空洞ができたような感じが続いたのです。
先生は七人兄弟姉妹の末っ子で(妻の母は四番目)、1歳の時に満州から久米南町へ一家で引き揚げてきたと聞いています。私とは同じ高教組の仲間とは言え、結婚するまではほとんど面識はありませんでした。ただ、結婚するや、まるで旧知の仲のように(年は十以上離れていますが)家族ぐるみでお世話になるようになりました。
とは言っても、ずっと順風満帆な関係だったというわけではありません。
私との関係では、ご長女の結婚のことが原因で、短期間亀裂が入ったこともあるのです。
ニューヨークへダンスの修業に行っていた娘さんが、ジャズのサックス奏者である黒人男性と知り合って結婚するという情報が、親族中に駆け巡った時、私は能天気にも、「いとこが黒人男性と結婚するらしい」と知人友人に話したのです。
そのことが先生に伝わり、電話できつく叱られました。普段の優しい口調とは全く違う雰囲気に驚いて、「話したのがそんなに悪かったのですか」と言い返した私なのですが、今から考えれば、私の不用意さもさることながら、先生の心の葛藤を察することのできなかった浅はかさを恥じるばかりです。
その後、妻の母がうまく取りなしてくれ、アメリカから相手の両親も呼んで親族のお祝いの会を開きました。この時の事は忘れることができません。
あれから25年程経ち、二人の男の子(といっても22歳と18歳)とともにアメリカからわざわざ四人で先生の葬儀に駆けつけ、4月12日の「お別れの会」と13日の葬儀を、ご家族が一つになって見事に取り仕切る姿を見せてくれたのです。
12日の「お別れの会」には、多方面から200人を超える方々が来られ、先生の遺徳を偲んでおられました。また13日には親族約30人ほどで葬儀を行いましたが、出棺の時には見送りに来られている方々もおられました。まだまだ書きたい事は多くありますが、皆に惜しまれて旅立った先生に「ありがとうございました」と感謝の言葉を添えて終わりにします。
それはまるで祝祭のようであった。歌ありサックスやギターの奏でる演奏ありの賑やかでかつ和やかな「お別れの会」だった(4月12日)。
多彩な参加(列)者も100名はいたであろうか。しかも、氏の棺も目の前にあり、棺には各々が思いのこもったメッセージを書き記した。
コロナ禍で親族だけの家族葬が一般化した中で、異例の「偲ぶ会」になった。奥様(和子様)や長女の涼子さんの素敵なアイデアだったのだろう。氏にふさわしい送り方だと思った。参加者も、高校時代の教え子、「フリースペースあかね」の教え子、氏の市民講座の受講生、高教組、各種民間教育サークル、個人的なつながりのある人びとなど、実に多彩な人びとに見送られて、氏は旅立った。
追悼文を書く私はといえば、氏との太い関わりは「高校世界史教育」にあった。氏は、岡山の(広くいえば日本・世界の)世界史教育の先達・牽引者であった。「世界史とは何か」、「世界史教育はいかにあるべきか」を熱く論じあった。氏は仲間とともに手作りの「高校世界史教育者サークル」(月例会)を立ち上げた。ほとんど半世紀も前のことである。私が20代末から30代にかけての、青年教師だった頃である。筋ジストロフィーで亡くなられた難波紘一氏の自宅(岡山市平井)が会場だった。そのサークルの末席に連なるため、当時下宿していた高梁市から通ったものだった。しばしば帰りは深夜に及んだ。使ったテキストは600頁超もある『新講 世界史(土井正興他編、三省堂、1976年)』だった。徳方氏の卒業論文のテーマが、フランス・レジスタンスだったこともこの会で知った。氏らしいテーマだと思った。徳方氏を含め、このサークル仲間の幾人かは、すでに鬼籍に入った。
些末なことながら、ここで論じあった一つの論点が、なぜか半世紀経った今も思い出されることがある。それは、フランス革命のジャコバン派の評価を巡るものだった。ジャコバン派(ジャコバン独裁)を支えたのは、パリのサンキュロット(都市下層民)であったことから、ジャコバン=サンキュロットという理解が残っていた。しかし、ジャコバン派の階級基盤はブルジョアジーであり、サンキュロットのそれはプロレタリアート(ないしルンペン・プロレタリアート)であって、両者のよって立つ階級基盤は異なる。だからこそ、サンキュロットの代表的勢力だったエベール派はロベスピエールによって粛清されたとされるのである。一例に過ぎないが、こんなことを論じあっていたのである。氏を送るに当たって、こんなディテールを回顧してみた。懐かしい思い出である。
氏は学区制があった頃の福渡高校の卒業生(東京教育大学に進学)である。私の最初の赴任校が福渡高校であった。そんな縁も感じていた。学区制が廃止され、福渡高校は全県学区に改変され、その後82年の歴史を閉じ廃校(2007年)となった。氏を思うにつけ、地域に根ざす「学区制」の大切さを学んだものである。今や、高校(学校)の統廃合が進められ、学校は地域の文化拠点としての意味を失いつつある。
氏の世界史は、とても感性豊かな世界史だったが、しかし単なる「世界史教師」だったに留まらない。城東高校での「いちご組」のクラスづくりの実践、「フリースペースあかね」における不登校児の支援、各所における世界史市民講座の講師役など、「教壇世界史」を超える実践家でもあった。氏はその学識の深さ、人間的共感力の豊かさにあふれた存在だった。そうした「人徳」が、先の「お別れの会」の盛況だったのだろう。氏の奥様との出会いを含む自分史の一端は、「学びのひろば」の月報(ニュース)で知ることができる。氏は「学びのひろば」の人気常連講師でもあった。氏の生涯にわたる遺徳を、少しでも引き継ぐべく自分の余生の灯としたい。奥様(和子様)の許しを得て、氏の書斎から、愛読されたであろう1冊の本を、「形見」として頂くことが後日の楽しみである。(2025.4,14記)
徳方先生は、私にとって高校時代の恩師に当たる方です。世界史を教えていただきました。50数年前のことで、先生は30代の前半だったと思います。ラ・マルセイユを歌われたことがありました。冗談を言う時は、頭をかきながら照れ笑いを浮かべながら言っていました。私にとって世界史はカタカナの人名を覚えることができなかったので、苦手な科目でした。時々居眠りをしていて叱られたことがありました。
その後は接点もなく、私も一応高校の教師になって組合にも入りました。いつだったか、京都で組合の集会があった時にご一緒する機会がありました。夜、暇な時間ができたので、当時流行っていた少し変わった喫茶店に行ってみませんかとお誘いしたところ、行ってみようとなったのですが、なかなか見つからず結局どこにも寄らずに宿に帰ってきてしまいました。
どのような話をしたのかは覚えていませんが、教師と教え子だけの関係から、教師と教師、同じ組合員になったと感じた思い出の京都の夜となりました。
これも、いつだったかわかりませんが、お会いした時に「奥さんは元気か。」と聞かれて、「はい、元気ですが、私のことは聞いてくださらないのですか。」と言うと、「あんたは見りゃわかる。」とおっしゃったことがありました。
その後、数年前に脳梗塞で倒れて回復したとお聞きしました。それからは奥様の運転で出掛けられているとのことでした。
一昨年、岡山・旭東支部の交流会で講演をしていただきました。テーマは「パレスチナの問題・ガザはどうなるのか」でした。先生は84歳になられていたと思うのですが、その時の服装が、細身のチノパンとチェックのシャツだったので、「おしゃれですね。」と声を掛けると「女房が選んでくれるんよ。」と少し照れながらおっしゃっていました。
先生は旭東公民館で世界史の講座を開いていました。近くなので一度は聞きに行こうと思っていたのですが、結局行くことがかなわなくなってしまいました。
実は、事務局長から追悼文を依頼されたのですが一度は断りました。しのぶ会に顔を出さずに、釣りに行っていたのです。しかし、きっと先生が空の上から見られて怒っているに違いないと思ってこの原稿を書いているところです。最後まで不肖の教え子であったことを申し訳なく思います。
ご冥福をお祈りいたします。
※少しマニアックな話になりますが、備西支部の交流会報告にはルビの振ってある漢字があります。ちょっと見ただけでは誰も気付かないと思いますが、実はルビを振ってある漢字がすべて、「ほんの少し下げてある」のです。なぜ下げるかと言えば、そうすれば行間を広くしなくても、ルビが読めるようになるからです。行間はそのままで、ルビを振れるようにするための工夫というわけです。
※各支部の交流会報告は、「来年、どの支部の交流会に参加してみようかな?」と思いながらぜひお読みください。そう思いながら読むと、それぞれの支部の個性がより強く感じられる筈です。来年も支部を超えた交流が進むといいですね。
※随想「傘寿」は、30年以上前に書かれた作品です。傘寿という言葉の持つイメージも、時代と共に変化するとも言える訳ですが、時代を超えたものがあるということもまたこの作品は教えてくれます。同窓会事務局が受けた一本の電話が胸に迫ります。
※この会報が、スマホやパソコンでも閲覧可能ということはご存じですね。「岡山高退教」と入力し、出て来たものの中から「岡山県高校・障害児学校退職教職員の会のホームページへようこそ。」をクリック(タップ)。画面上方に並ぶバナーのうち左から5番目の「会報」をクリック(タップ)すると、「会報バックナンバー」というページが開きます。「会報バックナンバー(ダイジェスト版)」または「PDF版」のなかから、見たい会報を選んでご覧ください。PDF版はダウンロードしてご利用いただけます。
※「出会いとスケッチの旅」は、原版はカラーですが、お届けする会報では白黒となってしまいます。せっかくの美しい絵が皆様に見て頂けないのは誠に残念という他ないのですが、実は見ようとするなら見て頂けるのです。それが、先ほど説明したスマホやパソコンでの閲覧なので、ぜひ挑戦してみて頂きたいと思います。
※6月1日は、第3回目の新自然歴史探訪の日です。その魅力は会報に掲載し、要項は同封のチラシにまとめてあります。多くの方のご参加をお待ちします。
※誠に残念なご報告は、緊急特集を組まなければならなくなったことです。昨年の定期総会後の学習会でご講演頂いた徳方宏治先生が、お亡くなりになってしまいました。追悼文を掲載してご冥福をお祈りしたいと思います。
(清水親義)