目  次

全退教34回定期総会に参加してきました ───────────会 長  藤原 斌
「岡山盲・聾学校の新校舎整備」は喜ぶべきことなの?──────岡山支部 井上俊清
視覚障害者の情報アクセシビリティの向上を目指し て──────岡山支部 原 広三
今もまだ青春      ───────────────────備西支部 三澤啓二
我が家の同居者たち   ──────────────────岡山支部 山本和弘
憧れの西穂山荘(標高2367m)へ ────────────── 岡山支部 仁熊澄江
高退教に入会する前の話 ────────────────  備北支部 土井 彰
連載 出会いとスケッチの旅 アメリカ「留学」編(1) ─────── 備西支部 水間正雄
幻の「記念碑」 ───────────────────── 旭東支部 竹内良雄
絵手紙 ──────────────────────── 岡山支部 花田千春
編集後記 ─────────────────────── 編集部

全退教34回定期総会に参加してきました
会長 藤原 斌

 5月31日(金)12時開会ということで、当日早朝玉野を出発。今も35度を超えるような猛烈な残暑が続いていますが、その日も暑い日で、会場に着くまでにクタクタ、ぎりぎりに着いたので昼食もそこそこで最低の体調でした。
 予定通り12時に開会行事が始まり、その後全労連議長の小畑雅子氏による「ジェンダー平等の日本社会をめざして」と題した記念ミニ講演がありました。性差は、社会的・文化的につくられたものであり、「つくられたもの」は変えられるという話から始まり、全労連のとりくみを具体的に話されました。そして締めくくりに憲法9条と24条とジェンダー平等とのかかわりの中から、ジェンダー平等と平和の実現は一体のものであるということを熱を込めて話されました。全く同感とうなずきながら聞き、目からうろこが落ちる点もいくらもありました。どこかの労働組合の女性会長はテレビにたびたび顔を出し、その発言をいつも腹立たしく思っていましたが、全労連の主張や運動を取り上げないマスコミの在り方についても、講演を聞きながら考えさせられました。
 その後、議事が休憩をはさんで約3時間あり、分散会に移りました。分散会は1日目と2日目を合わせて3時間。私の参加した分散会には15都道府県の会員が出席して活動の交流をしました。どこの退教でも、退教の会員が民主的な運動のリーダーとして活動の中心になっていました。埼玉・千葉・京都・高知などでは退教独自で「戦争をしない・させない」ボイスアクション、教職員の労働条件の改善の運動を活発にやっていることが報告されました。一方で会員減少の問題(新入会員減少)はどこも共通の課題として話されました。その中でユニークだと思ったのは、高知退教のことです。ここでは昨年度、新会員目標15名という方針を立て実際に加入したのは20名だったそうです。今年の退職者が3人だったのに、新入会員は7名という報告でした。新入会員にすぐ事務局に入ってもらい、入会活動に参加してもらっているということでした。新しく入会した人たちの人脈を使って口コミが功を奏しているのではないかと言っておられました。報告を聞いていて、義務教育の退教は支部が機敏に動き、現職時代からの人間関係が密で、会報も支部内ですべて手渡しができているという強みがあるのだなあ、高退教とは違うのだなあとうらやましく感じました。また、分散会で多く話されたのが、深刻な学校現場の様子でした。正規の教員の数が足りない、20代30代の教員がやりがいをなくして(パソコンの導入などで過重労働になり、子供と触れ合う時間が取れないなどで)つぶれる、早期退職者が多いなど、全国の学校で大変なことになっていることが報告され、退教として何をすべきなのかという課題が出されました。
 2日目の全体会で6つの分散会からの報告がありましたが、共通する活動、課題が多かったと思いました。総会宣言によると47都道府県から92人の参加だったそうです。
 12時過ぎ、予定より少し早く終了し、トンボ返りで東京駅に向かい、駅弁を買って岡山に帰ってきました。
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「岡山盲・聾学校の新校舎整備」は喜ぶべきことなの?
岡山支部 井上俊清

 昨年11月、盲学校とろう学校の建て替えにあたって同じ敷地内に建てる動きが進んでいる…とのTV報道に接し、びっくりしました。
 お正月に交わした年賀状の中に、「世の中、進歩するはずが昔に戻るのはなぜ?」…岡山ろう学校を最後に退職した先輩からのものでした。なぜ、盲学校と聾学校が合併されると"危うい"!…と直感するのでしょうか?
 改めて『ろう学校創立100周年記念誌』に目を通してみました。その中に『ろう教育の歩み』が記述されており、「(当時西欧では、盲教育と聾教育は独立したそれぞれの学校で行なわれ…ところが、日本では“盲唖学校”)明治31年に来日したグラハムベルが…"障害に対応した教育"のためには盲ろうの分離独立校化が必要…と講演してまわり、10年後、東京では盲ろうの分離独立校化が実現、世界の流れに追いついたこと。しかし、岡山をはじめとした地方ではいっこうに進まず、大正になっても、昭和に入っても進展しない。実現したのはなんと戦後のことで、岡山では1952年にやっと…」。分離独立後には補聴器活用の進歩や言語指導法の理論化など、急速にろう教育が進んでいきました。しかし、「この69年の遅れはあまりにも長過ぎたこと…」が記されています。
 「障害種別に応じた学校を建てて、その下で専門的な教育をおこなう」ことは、教育の専門性を保障する"土台"です。 
 2月の報道によると、関係者の意見を聞いたとして、2026年4月から工事を開始する計画。強行された『校舎等整備にかかわる基本構想』によると、普通教室と自立活動室・実習室・センター的機能教室だけは障害部門別の使用ですが、それ以外のほとんどの部屋は共同使用となっています。廊下、音楽室・美術室・家庭科室・理科室・情報室などの特別教室、多目的教室、保健室、体育館 、図書室、食堂、寄宿舎、職員室、事務室などなど…建物の2/3~3/4は共同使用です。
 こんな学校状況の中でどんなことが起こるのでしょうか?
・子どもの視点から想像すると、学校ですれ違う先生の半分は手話が通じない。廊下だけでなく、食堂、図書室、体育館、特別教室等々で手話の通じない先生と出会う…寝起きし学習する寄宿舎ではどうか?(また、視覚障害の生徒の立場でも同様…でしょう)
・教職員の視点からは、
 聴覚障害担当の教職員も視覚障害の子どもたちと必然的に接するようになるのですから、両方の専門性を求められるのは当たり前。「視覚障害のことは、私の担当部署でないから…」では、許されないでしょう。保護者からも当然、両方の専門性を求められます。
 卒業式、運動会、学園祭、修学旅行など…学校行事は別個に?合同で?それを話し合う職員会議は別個にする?
 このように考えると問題は単に建物だけの問題ではなく、学校の構成・教育システムにかかわってくる問題です。そしてそれは、これから30年50年と続く。教育が進歩する方向にならよいが…逆に向かってしまう。
 人事異動で教職員の交代がすすみ、今でさえ専門性が薄れ気味の中、スーパーマンのような人間が求められる。混乱は、当然に子どもたちの発達にはねかえっていくでしょう。将来、盲・聾教育が大変な状態に陥っても、コストカットを最優先しておし進めた県教委は、なんら責任を取らないでしょう。目先のちょっとした見直しですむことではなく、かけ違えているボタンをきっちりと元に戻すことが求められます。
 『障害に応じた学校を建てる』ことは、障害を持つ子どもたちの発達を保障するための前提条件です。今回の建て替え構想は、『障害児教育の逆行』につながります。「古びた校舎を建て替える」というニンジンを鼻先にぶら下げて、補助金目当ての構想を無理やり飲ませようとのやり方に怒りを感じると同時に、これまで積み重ねてきた専門性がガタガタと崩れていくことをとても心配しています。

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視覚障害者の情報アクセシビリティの向上を目指して      岡山支部  原 広三

 私は36年間の教員生活を終え、2023年3月末に定年退職しました。20代の頃は小学校と中学校に計6年間、その後は盲学校と聾学校に合わせて30年間勤務しました。その経験を生かして、定年後は岡山県視覚障害者センター(以下、当センター)という施設で所長として働いています。
 当センターは身体障害者福祉法第34条で視覚障害者情報提供施設として設置が義務付けられている施設です。いわゆる「点字図書館」と呼ばれる施設ですが、現在では点字を読むことができる視覚障害者は全体の約10%しかおらず、点字図書の利用者は少なく、ほとんどの視覚障害者は「デイジー図書」と呼ばれる音訳図書を利用しています。そしてインターネットの発達により、現在では多くの視覚障害者が「サピエ図書館」というインターネット上の点字図書館を利用しています。パソコンやスマホなどに、サピエ図書館から点訳図書や音訳図書のデータをダウンロードして読書を楽しんでいます。
 全国には約27万人の視覚障害者がいますが、これは身体障害者手帳を取得した人だけなので、実際に視覚障害のある人は約200万人もいるそうです。皆さんは今は晴眼者(せいがんしゃ=目が見える人)かもしれませんが、日本社会の高齢化によって視覚障害者は増え続けています。
 そして視覚障害者の半数は70歳以上で、60歳以上は72%を占めています。当センターの利用者のほとんども60歳以上の高齢者です。若い頃は普通に見えていた方々も多いです。目が見えにくくなって読書を諦めていた人が、当センターの存在を知って利用登録をして、音訳図書を聴くことができるようになり喜んでいるという声をよく聞きます。皆さんの身近な人たちで目が見えにくくなって困っている方がおられたら、ぜひ当センターにお電話ください。
 人間が五感から得る情報のうちで視覚情報は約8割を占めると言われています。それゆえに視覚障害者は「情報障害者」とも言われます。世の中には多くの書籍、雑誌、新聞などの文字情報があふれていますが、そのうち点訳・音訳がされているのは全体の約5%にしか過ぎません。それでも点訳、音訳の技術の進歩とボランティアの尽力により、最近の一般的によく売れている書籍のほとんどは点訳や音訳がされるようになりました。しかし、専門書などは極端に少ないのが現状で、視覚障害のある大学生にとっては不利な状況となっています。
 ところで皆さんは2019年6月に施行された「読書バリアフリー法」という法律を知っておられるでしょうか。読書バリアフリー法は略して「読バリ法」とも言われますが、正式名称は「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律」です。読バリ法の対象者は、視覚障害者だけではなく、読み書きに困難のある発達障害や、ページをめくることなどに困難のある肢体不自由がある人も含みます。さらに、高齢者、外国人、聴覚障害者、知的障害者等も含め、読書に困難のある人が幅広く読書バリアフリーの受益者となるべきだという考え方が根底にあります。
 ここで昨年、第169回芥川賞を受賞した市川沙央さんのことに触れておきたいと思います。昨年8月の贈呈式で市川さんが読書バリアフリーの必要性について強く訴えたことにより、テレビ、ラジオ、新聞などのメディアを通して「読書バリアフリー」という言葉を多くの国民が知るところとなりました。
 市川さんは筋力が低下する難病を患い、人工呼吸器を使用しています。受賞作の主人公に自身を投影し「紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がする」と表現し、読書する上での負担が少ない電子書籍化の意義を訴えました。市川さんは記者会見で「読みたい本が読めないのは権利侵害。読書バリアフリーの環境整備を進めてほしい」と語っています。
 文部科学省が発行している読バリ法の啓発用リーフレットには次のように書いてあります。「図書館の本も、書店で販売される本も、一層利用しやすい形式になっていきます。点字の本のほか、文字の大きさやフォントを変えて読みやすくした本が入手しやすくなります。パソコン・タブレット・スマートフォンを使って、さまざまな便利な機能により、自分に合った方法で読める本が増えます。」
 読バリ法が視覚障害者に限らず、読書が困難な多くの人々を対象としたことにより、今後はデイジー図書などの電子書籍がさらに充実していくことが期待されます。また、出版業界や作家たちが読バリ法の意義を理解し、新刊本のテキストデータを点字図書館に無償で提供してくれるようになれば、点訳や音訳の作業に費やす時間は格段に短くなります。
 しかし、点訳図書や音訳図書の製作は、ほとんどがボランティアの人たちによって行われているのが現状です。読バリ法が施行されて5年が経つにも関わらず、未だに点訳図書や音訳図書の製作をボランティアに依存している状況は問題があります。そのボランティアが、経済状況や就業形態の変化、高齢化、ボランティアの多様化などにより、全国的に減少傾向にあります。
 そこで皆さんにお願いですが、ぜひ視覚障害者の皆さんの情報アクセシビリティを向上させるために、点訳や音訳のボランティアになっていただけませんか。当センターのボランティアの皆さんは中高年となってから、あるいは定年退職後に点訳・音訳ボランティア養成講座を受講し、その後ボランティアとなって10年も20年も元気に活動されている方がたくさんおられます。元教員という方も何人もおられます。
 当センターの点訳・音訳ボランティア養成講座は毎年4月に開講し、1年かけて点訳と音訳の技術を学びます。もちろん無料で受講できます。この拙文を読まれて少しでも興味を持たれた方は、お気軽に当センターにお問い合わせください。岡山県視覚障害者センターの電話番号は、086-244-1121です。電話受付は9時から17時まで、火曜と祝日は休みです。どうか皆さん、すべての国民に読書の自由を保障するための活動に加わってください。
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今もまだ青春
備西支部 三澤啓二

 60歳定年をして何年たったか忘れてしまったが、今は日本語教師と通訳案内士のダブルワークをしている。どちらが主で、どちらが副という区別はしておらず、収入はたいしてないが楽しく仕事をしている。
 定年まで数年というとき、退職後何をしようかと考えた。当時再任用や非常勤講師という形で教職を続けておられる方が多くおられ、私もそれも一案と思ったが、いっそのこと別の分野の仕事もいいかなと思った。
 私は商業科の教諭として簿記や情報処理などを教えていたが、若いころから英語に関心があり、何年もNHKの英会話番組を聞いていた。もうその仕組みは教育委員会にはなくなったと聞いたが、一定のレベル以上の資格をとると、岡山県からわずかばかりの補助金が出ることを聞き、英検の準1級をとった。また通訳案内士という資格があることを知り、それをもっていれば食いっぱぐれはないだろうと考えた。今はその試験制度や受験科目がどうなっているのか知らないが、当時の試験には英語のほか日本の歴史、地理、一般教養などの科目があり、2年以内にすべての科目に合格点を出さなければ通訳案内士の1次試験に合格できないという規定であったと思う。私は2年目に日本の歴史と英語に合格し、一次合格した。次に外国語による2次面接試験を受けなければならない。岡山には2次試験対策をしてくれるところがなかったので、大阪まで何度か通った。英語での2次試験当日、会場の立命館大学に行った。試験官は英語ネイティブの人と日本人だったと思う。合格証をもらった時、これで教員以外の仕事もできると思いうれしかった。このようないきさつから、60歳で岡山県教育委員会にさよならをした。
 通訳案内士という仕事はいわゆる自営業で、顧客に通訳案内業等をして、手当を頂くというものである。つまり大切なのはお客様がいないと仕事はないということである。定年後すぐ業務を開始しようと考えたが、顧客獲得という作業に不安があったので、週数日間私立高校で非常勤講師をする生活を続けていた。通訳案内士の中には自分で旅行業を立ち上げる人もいるが、当時何をしたらいいかわからず、通訳案内士の団体として、「ひろしま通訳・ガイド協会」があることを知り入会した。さらに通訳案内士に仕事を斡旋してくれる派遣会社の存在を知り、そこにも登録した。今はそれらを通じて仕事をもらっている。
コロナで入国制限がかかっていたころは全く仕事がなく、せっかく資格を取ったのにとぼやいていたが、今はほぼコロナ前の状態に戻ったように感じる。
 教職を30年以上続けると、その生活が体に染みついているというか、「教える喜び」を感じたいという気持ちが心のどこかに住み着いている。英語を使った仕事をしていることもあり、外国人に英語を使って何かを教えたいと思うようになった。日本語教師になれば日本に来る外国籍の学生に教師としてかかわることができると思ったからだ。日本語教師になるには①専門学校で420時間の授業を受講し、各実施科目の単元ごとの試験に合格点を出すか、または②日本語教育能力検定試験に合格するかどちらかである。わたしは日本語教師用の専門学校を卒業し、試験にも合格した。実際学生に日本語を教えるときは英語は使わず日本語で教えるわけであるが、難しい内容を教える場合は、英語を使うこともある。今は留学生の増加や、日本語教師の質の向上を目途として、日本語教員という制度に変わりつつある。
 この度私に通訳案内士や、日本語教師の経験を書く機会を与えてくださったことを感謝しているが、現状を少し追加説明させていただく。
 急激なインバウンド増加により、通訳案内士の数だけでは対応しきれないということから、いまは外国人へガイドする資格制限が緩和された。しかし、通訳案内士の資格を持った方を求めている旅行会社は多い。やはりよくわからない人に依頼をするのではなく、安心できる資格所有者を望んでいるのであろう。
 昨今コンビニだけでなく、多くの現場で外国人が働いている姿を見ることが多くなった。特に東京や大阪などのコンビニでは日本人の従業員を見つけるのが難しいくらいであろう。このことからも日本に来る留学者が増えているのが容易に想像できるが、岡山県でも同様である。つまり日本語教師が足りないのである。日本語教師は留学生に日本語のみならず日本での生活の仕方を教える最初の場所であり、日本社会への適応を最初に促すところであると思う。
 最後に、つたない文書を読んでくださった方々に感謝します。

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我が家の同居者たち
岡山支部 山本和弘

 私の居住地は、沼地を埋め立てて造成された団地で、入居当時は方々にまだ空き地が目立ち、隣地も茫々と生い茂る草むらでした。転居葉書に「これがまあつひのすみかか草2尺」と戯れてみたことを思い出します。猫の額ほどの庭先にも、いろいろな生き物が棲息していて、蝶やトンボ、蝉、バッタ、カマキリ、コオロギ、そして、それらを捕食するアマガエルや、時にはアオダイショウなどの蛇も現れたりします。蛇は蛇でも、カナヘビがちょろちょろと走り回る姿は、思わず目をとめて見守りたくなります。
「カナヘビ」はヘビと名がつくものの、トカゲの仲間です。蛇足になりますが、「カナヘビ」の名前の由来には、(1)「金蛇」=金属色のヘビ、(2)愛(=可愛い)蛇、などの説があるそうです。孫たちは、カナヘビを見つけると「可愛い」と叫んで追いかけますから、「愛蛇」の命名由来にも合点がいきます。
 教員生活の終わり頃、写真部の顧問をしたことがあり、文化祭の賑やかしに作品を出したことがありました。その一つに、庭のカナヘビのポートレートもありました。
 去年の夏、大阪から帰省中の孫(保育園児)が、庭で捕まえたカナヘビ(上の写真のカナヘビ君の後裔でしょうか)を昆虫用プラケースに入れて飼おうとしたけれど、餌も食べないし元気もないので、帰阪前に逃がしてやったのですが、よく見ると土の中に卵を産んでいるらしいのでそのまま持ち帰っていたところ、2匹が孵化したのだそうです。
 パパが、爬虫類専門店で、店員さんの薦めに従って、紫外線ランプを調達し、人工餌とSSサイズのコオロギを買って与えるなどの世話をしてきたけれど、冬になって気温が下がり、これ以上育て続ける自信がないというので、正月の帰省の際、このカナヘビ2匹も「里帰り」することになりました。「里帰り」とは言っても、庭に放しても冬眠に失敗する恐れが高いので、暖かい季節が到来するまでは、リビングルームで賓客待遇でもてなすことにしました。
 人工餌はお口に合わないようですので、生き餌を調達しなければなりませんが、あいにく、野原で小昆虫を採集できる季節ではないので、ペットショップを物色することにしました。小型でおとなしく、柔らかいヨーロッパイエコオロギ(略称「イエコ」)が適当らしいのですが、あいにくSサイズが売り切れで、試しにMサイズと、フタホシコオロギのSサイズを購入して帰りました。Mサイズは、幼カナヘビの口には大きすぎ、一方、フタホシコオロギは、殻が固く頑強で、抵抗もするし逃げ足も速いので、好んで捕食しようとしません。コオロギ飼育のにわか勉強に明け暮れるうちに、幼カナヘビも徐々に成長し、人工餌も口にするようになりましたし、多少大きめのコオロギも十分捕食するようになりました。かなりの食欲ですので、餌を切らさぬよう頻繁にペットショップに通うのも、なかなか厄介です。
 これは自家繁殖をめざすほかあるまいとネット検索してみますと、比較的繁殖が容易なものとして、デュビア(別名アルゼンチンモリゴキブリ)が紹介されています。同じゴキブリの仲間のレッドローチよりも大型で、臭いが少ないのが特長だそうです。コオロギは卵生ですから、産卵・孵化のための留意が必要ですが、デュビアは卵胎生なので、条件さえ整えば次々に子どもが生まれるのだそうです。
 ですが、買い求めてみると、デュビアは市販の最小サイズでも幼カナヘビの口には大きすぎます。ましてや、成熟した親は、論外の巨大さです。(写真を示したいところですが不快を覚えられる方もおありでしょうから割愛します。笑)とすれば、生まれたての幼デュビアに期待するしかありません。
こうして、カナヘビの飼育は、同時にコオロギやデュビアの飼育・繁殖の労力を伴うことになったのでした。飼育ケース、床材、餌、水やりなど、研究成果を披瀝すれば長大な文章が書けますが、これも割愛させていただきます。(笑)
 季節は巡り、昆虫たちが保温装置なしでも生育できる気温になると、コオロギたちは妙なる音色で虫の声を奏でるようになり、いつのまにか自然産卵して、無数のジュニアが孵化してきました。相前後して、幼デュビアも次々と誕生してきて、カナヘビ2匹にはとても食べきれない量の生鮮食品が確保されています。
 ですが、一歩戸外に出れば、捕虫網一振りで潤沢な生き餌が手に入る季節。餌代と手間暇をかけてイエコやデュビアの飼育を続ける必要があるのか。そもそも、カナヘビたち自身を早く野生に戻してやるべきではないのか…。悩みは尽きませんが、世話の焼ける同居者たちに、今日も癒やされている私です。
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憧れの西穂山荘(標高2367m)へ
岡山支部 仁熊澄江

 暑い!! 身の置き所のない今年の暑さ、どこか涼しいところに行きたい。新穂高ロープウエイがメンテナンスを終えて8月1日に再開する記事を見た。
 これだ! 昨年、友人のご夫君が一年前の大病を克服して、ご子息に付き添われてかねて念願だった西穂山荘に行かれた。コースタイム90分の倍以上かかったそうだが無事に登って帰られた。標高差200mほどだから私でも登れるだろうと山荘のホームページを見ると、8月1日は空いている。一泊二食14000円。このご時世だから山小屋も高くなったなあと思いつつ予約した。
 子どもの頃から運動はからっきしダメ。中学校の大山登山では貧血を起こして友達と二人頂上の小屋で寝ていた。どうやって下りたのか記憶がない。大学時代にもサークルの仲間と登って、当時はできていた縦走をしたが下りの砂滑りで難儀した思い出がある。
 それなのに50歳前から夫と二人で突然登山を始めて、最初は白山、次は日本第二の高峰北岳、どちらも下りでは足を引きずりながら降りて翌日から筋肉痛だった。
 1000m峰に10座登ってから3000m峰に登れという教えを受けて県北の山々に登り始めると、夏の日本アルプスの下りで泣くようなことは無くなった。槍、穂高をはじめ、遠くは鳥海山や月山、九州の百名山、南アルプスの山々も幾つか山小屋泊りで縦走した。
 まだまだ行きたい山はたくさんあるのに、75歳を過ぎると急に段差のある下りが苦手になり、登山口までの夫の運転も心配になってきて、行かれる山が無くなってきた。それでもバスやロープウエイで上がる標高差の少ない山は登れるだろうと、去年は立山の一の越山荘(2700m)に泊まり大展望を楽しんだので、今年は西穂山荘へ。
 8月1日はロープウエイ再開初日なので満員だったが眺めは最高。西穂高口駅(2156m)で昼食にラーメン(1600円・高い!)を食べて12:30頃出発。
 スニーカーの若い外国人の集団に抜かれながらも14:30にならないうちにどうにか山荘にたどり着いた。夫は山道の途中で中高年女性二人連れに「この道はどこに行く道ですか?」と尋ねられて驚いていた。小屋の部屋は「甲子園の側から来た」という陽気な夫婦、姫路からという夫婦、私たちの6人だった。夕食はボリュームいっぱいで私には食べきれないが、夫が片付けてくれた。
 翌朝は西穂高岳や奥穂高岳を目指す人が暗いうちから出発していくが、私たちはゆっくり朝食を済ませてから20分ほどで登れる丸山(2452m)まで行く。青空にぐるり360度の大展望で富士山や北岳も見える。白山がすぐ近くに大きく見えて驚く。もう少し若かったらせめてあのきれいに見えている独標(2701m)まで登るのにと思いながら、下りの転倒が怖いのであきらめてロープウエイ駅までゆっくりゆっくり登りと同じくらいの時間で下る。まだ10時過ぎなので下りはガラガラですぐ新穂高まで下りた。
 車にたどり着くと夫が「エンジンがかからない」と。バッテリー上がりでJAFを呼び、3時間もPにいることになってしまった。この日は犬山に泊まる予定で急ぎはしないし、木陰の涼しいところなのでよかったが、犬山着が16:30になってしまい、犬山城登城はできなかった。翌朝は犬山の街とお城の周りを歩いただけで帰ったので昼過ぎに無事帰宅し、今年の避暑旅行はどうにか終わった。
 帰るとやはり連日の35度に耐えなければならない。来年はどうなるのでしょうね。
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『高退教に入会する前の話』   
備北支部 土井 彰

 1967年4月、私は、県北の私学に保健体育教師として赴任し、念願の教師職をスタートした。職場では年齢も近く元気で純粋な生徒たちに囲まれ、親分肌の上司や心を許せる同僚、地域で親しくなった友人にも助けられて体育教師として失敗も多かったが楽しく充実した生活を過ごせた。
 部活動は、先任教師が基本をしっかり指導され、部員も期待に応えていたので継続して自分なりの指導を考えた。市内には強豪の伝統校がある中で、お互いライバル意識をもってよく稽古に励んだ。結果、県大会で初優勝の快挙。国体選手も毎年輩出し、インターハイにも3年連続出場できた。私にとってはHR運営、授業、校外行事を始め、一所懸命で思い出深い、柔道三昧の5年間であった。
 その後、望まぬ行政職を挟んで、4校の普通科高校を経て、最後に希望した工業高校では再任用も経験して教師生活を終えた。生徒はもとより同僚、家庭も含め周囲の人々に助けられた41年間であった。
 生徒たちの努力もあってインターハイや国体等を引率し、審判・役員として全国津々浦々に足を運んだがインターハイが8月開催であり、開催地で台風に遭遇して往生したことが何度かあった。また、北国の大会ではスケート場が会場、レンタルした空調設備の不具合で会場は蒸風呂、まいった。
 1995年3月20日、地下鉄サリン事件当日、高校選手権の審判で東京にいた。突然の試合中断、放送で事件の詳細が説明され、応援・観客も含めて選手、役員にそれぞれの家庭に無事を知らせるように指示があった。私は木場の宿舎から綾瀬の東京武道館に地下鉄を利用して直前に事件現場の日比谷駅を通過していた。試合場への集合時間が微妙に早かったので難を逃れることが出来た、感謝である。
 柔道を通じて国内外にも何度か遠征をした。この度はドイツ遠征のメモ日記を紐解いてみる。
 1998年7月、全国高体連柔道部の推薦を受け、全柔連とドイツ柔連の後援を得て全国高校柔道選抜チームのドイツ遠征合宿に帯同した。
 7月24日、講道館に集合して結団式(引率3名・選手10名)、講道館泊。
 25日早朝、講道館から成田空港に移動、午後には北回りでフライト。フランスを経由し、15時間(時差7時間)かけて20時にベルリンに到着。
 空港にはドイツスポーツディレクターのロメナート氏とドイツ柔連役員の出迎えがあり、ベンツ3台に分乗して合宿地へ(この時点では合宿地は知らされていない)。5時間かけて250キロを走破、翌日1時半(深夜)に目的地に到着。
 直ちに部屋割り、就寝。翌朝目覚めると眼前に広々とした砂浜・バルト海が広がり、ドイツの最北端に来ていることを実感する。( Usedom州Zinnowitz)
宿の名はバルチックホテル。
 26日、午前中に練習場の下見に行くと、旧東ドイツのスポーツ施設の一角、労働者が働く大きな壁画のある体育館に畳を敷いた会場でドイツ・オーストリア・スイスの高校生とジュニアの選手、驚いたことに世界チャンピオンのウルチやモラーが汗を流していた。午後からの合同練習は、挨拶の後、直ちに体重別に分かれて乱取り練習。
 27日、外国選手は休養日。午前は日本選手のみでかかり練習、元立ち稽古、チャンピオン、モラーも参加してくれた。午後はホテルのトレーニング施設で汗を流す。
 28日、外国の高校生が授業の関係で帰郷して、残っているのはジュニアの選手のみ、寝技で体をほぐした後、2班に分けて乱取り4分×10本×2セット。寝技を6分×6本。ジュニア選手の力感あふれる乱取りに日本の選抜選手にとっては有意義、且つ極めてハードな練習になった。重量級の選手はチャンピオン、モラーに繰り返しかかっていった。練習後、畳の撤収と清掃をして合宿を終了した。2日にわたって外国の高校生のスケジュールが合わなかったことは残念であった。
 合宿中の練習後は、広い砂浜のバルト海で日光浴・水浴び(海水は冷たく2分が限度)、サウナもあり選手たちも満足。ただ、現地の人は男女とも素っ裸で走り回り水浴び。目のやり場には困った。選手の中には主食のパンが食べられない者もいたが、ポテト・ポテト・ポテト、ステーキ、ソーセージ、生ハム、野菜サラダで皆満足。私はビールやウォッカに満足。しかしながら日本のビールが旨い。
 29日早朝、マイクロバス3台で出発。4時間かけてベルリン郊外のPritzwalk市に移動。ここに合宿に参加していた外国の選手が姿を見せて、満員の市民体育館で親善試合。試合は県選抜には辛勝、ナショナルチームには健闘したが惜敗した。試合後、スポンサーのビール工場であったレセプションに出席した後、夜のアウトバーンを3時間突っ走り、旧東ベルリンのホテルBCAに真夜中に到着。
 30日はロメナート氏の案内でブランデンブルグ門、戦傷?建物、東西分断の壁跡、Zooなど東西ベルリン市内を見学。31日は選手にとっては唯一の自由行動日。Sバーン、Uバーンを乗り継ぎ、グループで市内を満喫。夕食後、7時からベルリンのクラブチームと最後の練習。ヨーロッパで活躍している選手も加わり、日本選手は積極的にかかっていった。
 9月1日早朝、細部にわたってお世話になったロメナート氏に別れを告げてテーゲル空港へ、双発のプロペラ機でフランスのシャルルドゴール空港へ移動。次のフライトまでに時間があったので、搭乗ゲートでグループ行動にしたところ、集合時間に1グループが姿を見せない。搭乗案内があり、居残りを覚悟していたところ、彼方から猛ダッシュで2名が…。空港の端まで行ってみたかったとのこと(日本とは規模が違うのだ)。13時30分、無事に搭乗して帰路につくことが出来た。
 2日早朝、7時30分成田着。全柔連の北野氏・高体連の西川会長の出迎えを受けて帰国報告。9時15分、成田解散。
 移動の時刻・長さ、同年代練習相手のスケジュール、マナーの指導不足など反省すべきことの多い遠征合宿であったが、新潟の佐々木先生、東京の丸山先生には細部にわたりお世話になった。選手諸君は遠征中に学び得たことを無駄にせず、柔道はもちろんのこと社会生活にも国際感覚を身に着けた若者に成長して世界に羽ばたくことを期待する。
 全行程に亘って心配りをいただいたMr.ロメナートを始めドイツ柔道連盟の方々、後援していただいた全日本柔道連盟、全国高等学校体育連盟柔道部には深く感謝している。
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連載 出会いとスケッチの旅 アメリカ「留学」編(1)
備西支部 水間正雄

PLU「留学」のいきさつ
 1983年のこと、青陵高校で一人の生徒が、「外国人のお爺さんが先生に会いに来ています」と言って来た。
 訪ねて来たのは、2週間ほど前に長崎で開かれていたマスターズへの参加選手で、戦前のベルリンオリンピックで、400mのアメリカ代表選手だったジャック・オーナーさん。
 私もこの大会に出場していて、M40(男子40~44歳)の400M・800M・1500Mで優勝し、最優秀選手として閉会式で表彰されていた。その関係で、クラスは違っても、同じ400Mを走るジャック・オーナーさんが、偶然一緒になったサブトラックで私に声を掛けてくれ、そこからお互いを紹介し合った人だった。
 大会後は、エール大学在学中の友人であった岡山の松山さん宅でお世話になっていたとのこと。そして、「松山さんの息子さんが、かつて朝日高校で陸上部だったことから、若くから色々な大会で優勝している水間さんの話を聞くことができて」と、私のところを訪ねてみる気になった理由を教えてくれた。
 松山さんは大原家の親族で、クラレ・クラボウの重役。そして息子さんは医者で、以前お宅を訪問したり、大原美術館や当時公開していなかった大原家の内部を案内してもらったりしたこともあった。
 その夜、私の家へ泊まったジャック・オーナーさんは「実は客員教授をしているパシフィック・ルーセラン大学(PLU)で英語の大学院の通信教育コースの募集も兼ねて来日しまして」と話された。
 私が「私もアメリカで夏が過ごしたいなぁ…」と言うと「その英語力ではダメ」と即座に断られ、さらに成績表を見せたところ大笑いされてしまった。卒業論文以外はCとDばかりで、私の成績が悪かったからだ。
 ところが、PLUの通信教育募集は定員割れだったようで、後日「テニス、ゴルフといった講座もあるので参加しないか?」との連絡があった。
 私は、「1984年はロサンゼルスオリンピックの年で、全米マスターズ大会も西海岸のユージーンで開かれるし、ひと夏だけなら」と、大会参加を兼ねて「留学」を決めた。

英語力の弱さのせいで
 出発の伊丹空港に集まったのは総勢11名だった。私以外は、高校や大学、高専、予備校の英語の教員で、そのうち女性は一人。彼女は、私の長女と同年の小学生を連れての参加だった。男性陣の内訳は、一人が若者で、それ以外は全て中年男性だった。
 互いに自己紹介した後、ハワイ経由でシアトル・タコマ空港へ向かった。
 ハワイで、乗り換えまでの時間に余裕があったので、その時間を利用してパールハーバーの「戦艦アリゾナ記念館」を訪れた。この旅で立ち寄った最初の史跡である。
 乗り換え便の出発時に、「オーバーブッキングのため、代わりに席を譲る人を求める」というアナウンスがあった。
 「席を譲ればどのように扱われるのか」と聞いてみると「一流ホテルに泊めてくれて、次の日に飛行機に乗せてくれる」という答えだった。これを聞いて、「それも悪くないな!」と、一瞬心が動いたが、「待てよ!そんなことをして一人になってしまったら、空港に着いてから大学までの行き方が分からなくなる!」と気づき、慌てて思い直した。
 シアトル・タコマ空港には迎えの車が来ていて、すぐに小高い丘の上にあるPLUまで我々を運んでくれた。我々は、キャンパスの北側に広がるグラウンドの一隅にある宿舎に入った。このグラウンドには、ミニゴルフ場、陸上競技場、アメフト場など、さまざまな施設設備が整っていることが一見で分かった。
 部屋は机とベッドしかなかったが、中2階まで付いている広い2人部屋を、1人で使えることになっていた。
 食事については、広いキャフェテリアが利用出来る最高の環境だった。卓上に多彩な食べ物がずらっと並ぶ、いわゆるバイキング形式で、「3人前食べて5倍飲む」私にとっては、まさに超豪華な高級レストランだった。
 目の前にある芝生のゴルフ場や自動車の古タイヤをチップにして固めたオールウェザートラックは、走る気持ちを湧き起こし、早朝の練習が心行くまで楽しめた。そして練習で腹を空かした後に、慌てることなくさまざまなメニューを腹いっぱい楽しめる朝食は、大食漢の私にとっては天国としか言いようがないものだった。
 一般市民も対象にしたテニスやゴルフの授業は時々しかないため、栄養学や歴史などの講義にも参加してみたが、知っている単語やフレーズが時々聞き取れる程度で、ほとんど理解できなかった。
 したがって、思いついて出てみる講義の時以外は「暇」そのものだったので、近くの住宅をスケッチすることにした。
 私はもともと大工・建築士志望だったこともあって、日本にはない外観の住宅は本当に魅力的で、目に飛び込んでくるような感じだった。
 こちらでは各住居はそれぞれユニークでペンキの色もカラフルだ。スケッチしていると、招き入れてコーヒーブレイクしてくれることもあった。
 ゴルフやテニスの授業と言っても、一般の人も参加する講座だったため、自然に仲間ができ、楽しく遊ぶこともできた。テニスの先生は日系人で当時珍しかったデカラケットをくれ「秋になったら近くの山で取れる松茸を送ってあげる」と言ってくれた。(実現はしなかったが、ラケットは記念になり、帰国後も愛用している。)
 家関連で言えば、次のようなことがあった。
 PLUキャンパス内で挨拶を交わしたご夫妻と会話が弾み、そのまま夕食に誘われたのだ。キャフェテリアでの夕食に大満足の私だったが、レストランでの大きなビフテキディナーは、なかなか味わえない素晴らしい経験だった。
 ご主人は、仲間とツーバイフォーで自宅を作っており、それなりに住めるようにまでなっていた。街でもこの方式で建設中の家が見られ、 DIYの店では(1984年当時でも)今の日本より設計図等が充実していた。私は、青陵高校で同僚だった美術の福島先生が、ミサワホームが取り組んだ、ごく初期の建設を見聞きしているし、同じ米松のベニヤ板で子供の2段ベッドや私のベッドを作った経験があったので、ツーバイフォーの現場は、大いに勉強になった。
 家関連のエピソードはもう一つある。
 留学生仲間と一緒に、ある女性の家に招待され、ゴルフ場が目の前に広がる2階のテラスで、手作りのご馳走をいただいた。ステキなお家だったのでスケッチをした。
 女性の家を建てた建築士の家へ連れて行ってもらった。四つ切りより少し大きいサイズの青焼きコピーの設計図が十数枚描かれていた。日本の伝統工法のものと比べると、至って自由だ。
 彼女の家も崖の坂道に合わせた設計の家だった。私が「大工、建築士になりたかった」と話すと、その建築士は「私も体育の教師からの転職なので、あなたもなれますよ!」と励ましてくれ、さらに製材所に案内してくれた。 そこでは轟音を立てて、米松の太い丸太が2つの大きな塊になり、2つの分厚い板になり、小さな薄板になりと、太い丸太が薄板になるまでの工程をすべて見ることができた。(続く)
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幻の「記念碑」
旭東支部 竹内良雄

 元三石郵便局長の故桜間静太氏が撮影されたガラス原板の写真が、焼き直されて展示されたことがある。平成十八年八月十三日から三日間、お盆の期間中のことである。
 閑谷黌(註①)を卒業して上京し、早稲田大学に進んだ人物に桜間中庸(註②)があり、静太の三男だったが、昭和九年、二十二歳の若さで病死してしまった。その幼い頃の写真数葉に出会えることを期待したが、写し出される人物が誰であるかの説明は得られなかった。
 ところが、ひょんなことで妙な疑問が生じてきた。静太氏撮影の一枚と伝えられる石碑の写真について、その所在を尋ねると、意外な答えが返ってきた。「それがどこにあるのか分からんのです。碑文の中に反戦の言(いい)があったというので碑面は全部削り取られたというのです。しかも、三つに分割されて、どこかに別利用されたようです」との、公民館長の話である。
 会場を巡っていると、同じ形の石碑のカラー写真に出くわし、よく見ると、"三(みつ)石(いし)明(みょう)神(じん)社(しゃ)”の境内に立つ、志田野坡(註③)なる人物の句碑なのである。昭和六十年に 建てられたもので、出向いて確かめてみると、それは三石品川開発建立によるとのことで、発起人の名前が七・八人彫られていた。
 以前に彫られていた文字が、いかにも削り取られているという形跡がそこには残っていて、間違いなく、公民館長が言った"反戦碑”の再利用になっている。
 帰宅して後、大正四年刊行の、かつて三石町が出版した「御大典紀念写真帖」を開いて驚いたのであるが、静太氏撮影と全く同じ碑の写真がそこにあるではないか。キャプションには「紀念碑」とだけある。背景の山容も、一軒だけ見える家の姿も、まるで変わらない。同じ時期・同じポイントからの撮影ということになる。写真帖の方を、撮影もし、編集・印刷もし、製本したのは、なんととなりの県の赤穂市の写真館だった。
 静太氏の写真の方には、碑の前に数人の人物が写されていたが、もう一方の方は碑と背景だけである。それでもカメラを構えた場所が寸分違わないのは、撮影場所の足場の狭さ故なのであろう。
 昭和三十四年刊行の″三石町史″の中に、わずか次の記述を見た。
 明治三十七・八年戦役後、小学校門傍に(忠霊碑)が建立されていたが、 大東亜戦終了後撤去を命ぜられた。
 その後、忠霊碑再建の気運が高まり、昭和三十年七月、八幡宮境内に十三尺五寸・巾五尺五寸碑が除幕された。篆(てん)額(がく)は元陸軍大将宇垣一成の筆による。——要するに、この後の方の碑は全く別の一件なのである。
 日露戦役でこの町から従軍させられて、戦病死したのは七人という記録であるが、この七人の「記念碑」が小学校校門前に建てられていたのであろう。「撤去を命ぜられた。」とあるが、どこかに持ち去ったというのではなく、文の全文抹削(文字を削り取る)する形で「撤去」されたのであろう。
 四国中央市土居町の、安東正楽氏が書いた碑も同じ方法で撤去させられた。「忠君愛国滅すべし」を含む碑は、その原文が残っていたために、今では反戦平和の碑として、町の八幡宮の境内に立つ。
 脚を伸ばして確かめる必要があるが、①三石の日露戦記念碑は、今三石明神社の境内に、芭蕉の門人志田野坡の句碑として生きている。②この記念碑がはじめあったところは、やはり小学校校門前、坂を登る右手に今は「孝子之碑」の立つところ、それに間違いない。③「孝子之碑」の撰並びに書(註④)は、学校の先生をつとめた水利有終(註⑤)によるものであった。
【編集部註】 
註① 閑谷黌(しずたにこう) 閑谷学校の前身。
註② 桜間中庸(さくらまちゅうよう) 夭折した学生詩人、児童文学者。
遺稿集「日光浴室」がある。
註③ 志田野坡(しだやば) 「蕉門十哲」の一人。
註④ 撰並びに書(せんならびにしょ) 撰とは碑文のことで、「碑文を作ったのも字を 書いたのも」の意。この場合「碑文ならびに書」は水利有終。
註⑤ 水利有終(みずかがゆうしゅう) 大正13年生まれの漢学者。
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絵手紙 岡山支部花田千春


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編集後記

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会報178号をお届けします。今回は特にこれといった行事がなく、記事が集まるのかと心配していましたが、まったく杞憂でした。原稿を寄せてくださった方々に御礼申し上げます。※藤原会長からは、全退教総会の報告です。お疲れ様でした。全退教のHPによると、54の退教(県・高)が加盟し25,900人の会員がいるそうです(2009,1,29現在)。我が高退教の今年度の会員数は299名になっています。新会員が増えていないように思います。※井上先生の盲・聾学校の統合の話も驚かされました。教育は効率ではないはずですが、県内でも小学校から高校まで、どんどんと統廃合が進んでいます。※原先生のお話も勉強になりました。知らないことばかりでした。※三澤先生の記事を読んで、退職しても生き生きと目標を持って仕事をしている姿に頭が下がります。自身のダラダラした生活を反省しました。※山本先生には事務局長としてではなく、身辺の話をお願いしたところ、カナヘビが登場しました。おもしろい話ですが爬虫類が苦手な方はご容赦ください。※仁熊先生の山登りの話もいいですね。明るい文章に元気付けられます。※土井先生の柔道の話も興味深いものでした。先生は80歳を超えた今も武道館の寒稽古に出向いて指導をされているということです。※水間先生の新しい連載はアメリカです。どこからあのパワーが出るのでしょうか?元々持っているエンジンが私達とは違うような気がします。※竹内先生、前回は閑谷学校についてでした。その博学には感服するばかりです。※花田先生の絵手紙は、作品展や高退教のHPでご覧になった方も多いと思いますが、絵と俳句がとても味のあるいいものだと思います。※今回編集をするなかで、画像の著作権について少し勉強しました。ネット上にはいろいろな画像があふれていますが、ほとんどの場合著作権が設定されています。私的に使用する場合は問題がないのですがそうでない場合は注意が必要のようです。能登の豪雨災害に心が痛みます。地震に加えて・・ひどすぎます。この会報がお手元に届く頃には暑い暑い8月と9月が終わって秋風が吹いていることでしょう。夏の疲れが出る頃です。ご自愛ください。(岡田憲朗)
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