
7月7日、日曜日、梅雨の合間のこれでもかとばかりに晴れ渡った日に、岡山県生涯学習センターにおいて岡山高退教第45回総会は参加者46名により開催された。当日は会場でイベントが重なり、駐車スペースに苦労された方もあったようだ。ちなみに、東京都知事選挙投票日でもあった。
開会の冒頭挨拶で、藤原会長より「組織の会員確保」についての問題提示があった。
続いて来賓挨拶で、高教組の村田委員長から、「現況、高教組の組織率は2割であること、本部専従役員2名、書記2名で運営していること。それでも中国5県の中では、まだましな方であること。」などの厳しい組合活動の現状が報告された、組合員2割という現実には、会場が一瞬冷気に襲われた感があった。現役時代(ついこの前のような気がするが、それでも10年前、20年前か)組織率5割維持が目標であったし、私が教員になった80年代は、9割は当たり前の時代であった。歴史の変遷の中で、今や政府が賃上げの旗振りのポーズをしてみせるような時代となった。
そういう潮流にあって、『労働組合の意義』をどう次世代に伝えていけるのか、難しい課題と言わざるを得ない。組織率8割時代から5割時代に変化した頃の組合勧誘の難しさは実感していたが、2割時代の組合勧誘の難しさは想像を超えるものだろう。岡山高教組の奮闘に熱いエールを贈りたい。
さて議長選出で、井上俊清氏(岡山)、奧埜貴之氏(美作)が選ばれ、議事進行となった、まずは報告事項から。
小川副会長より、2023年度経過報告があり、和田事務局次長より決算報告、続いて津嶋会計監査委員より監査報告があった。その中で、郵便料金の振替手数料等諸経費の値上がりが、高退教財政を圧迫しているというせち辛い報告があり、対応を検討する論議があった。
その後、議事は協議事項に移り、2024年度活動計画について山本事務局長より提案があり、承認された。
それに続き、予算案について大幅な修正報告の説明があり、承認された。2024年度役員についても、一部訂正の後、承認された。
新会員の紹介はなく、現会員の交流の中で、正保氏より倉敷市立図書館の民営移管に反対する活動についてのその後の経過で、大幅な進展があったという報告があり、会場が大いに沸いた。
また、井上議長より「盲・聾学校の合体建て替え問題」について、歴史的見地より貴重な示唆に富む報告があり、大変勉強になった。効率化優先の教育施策に対して、学ぶ場所としての学校の意味を考えさせられた。
以上をもって午前の総会は終了し、午後からは難波副会長の楽しい体操をはさんで、長らく高退教役員として貢献いただいた鴨川・高垣両顧問をはじめ、今年度物故者となられた会員各氏に、全員で黙祷を捧げた。
午後は学習会で、徳方先生から、『ガザ侵攻とパレスチナ問題について』の講演があり、今一番ホットな話題なので、会場の質疑は盛り上がった。又、中国の南沙諸島進出についても、犬飼氏より示唆に富む発言があり、流石に元教員の集まりだなと感心した。
以上であるが、昼食前に全員で写真撮影をしたこと。美味しいお弁当は、おこわと赤飯の二択であったこと。それから今年度は、夕刻より懇親会が設定されており、参加予定の方々は、ウキウキ・ソワソワされていたこと。等を付け足して報告を終わりとしたい。
昼食、休憩、健康体操の後、「ガザ侵攻とパレスチナの問題」と題して、徳方宏治先生による講演をお聴きしました。私にとって先生はかつての恩師で、世界史を教えていただきました。授業中にウトウトして叱られたこともありました。
この講演は、今年4月、岡山・旭東支部春の交流会で話していただいたのですが、今回の総会でぜひもう一度全県の会員の方にも聞いてもらいたいということでお願いしたところ、快く引き受けていただけました。
内容は非常に難しいものでしたが、まとめると次のようなことだと思います。
ハマスによる突然のイスラエル攻撃と、その後のイスラエルによるガザ地区侵攻。連日のニュースでも取り上げられていますが、子どもたちまでも皆殺しにしようとしているまさにジェノサイドです。
この問題について、ユダヤ教とイスラム教の歴史、イスラエルとパレスチナの建国の歴史からひもといて、現在の状況、解決の糸口、今後の展望を、わかりやすく熱く語っていただきました。ありがとうございました。
解決は非常に困難です。私達にできることは限られていますが、一日も早くガザに平和が戻ることを願わずにはいられません。
この記事のHPへの掲載は割愛します。
第24回作品展は、7月3日(水)から7月7日(日)までの日程で、生涯学習センターで開催されました。
出品者は協賛を含めて15名(54点)でした。数年前から出品者の減少が続き、今回は20名を割りました。今まで欠かさず出品されてきた常連の方が、高齢や病気が理由で断念されたことは寂しい限りです。「この作品展はレベルが高く、出品を躊躇しているのでは」との声も聞かれました。優劣を競うコンテストではなく、会員相互の交流・親睦や高退教の活動の宣伝が目的です。既存の分野にとらわれない新しい作品、日頃の生活から生まれた作品を気軽に出品していただきたいです。
また、来場者が身内に限られ少なかったことも、克服できませんでした。センター来場者や講座受講者に声掛け・呼び込みもしましたが限りがあります。会員や高教組の先生方にもっとPRして、作品展が交流の橋渡しになることを願っています。
数年来の課題は克服できていませんが、今回も絵画・写真・書・手芸・工芸・文芸など意欲的な作品が並べられました。
鑑賞者の感想をいくつか紹介します。「水間さんの『太平洋戦争で焼失した城』から岡山空襲の話に広がった」「烏城の模型に子供が興味津々だった」荒木さんの写真に「立体的な写真が撮れる秘訣を聞きたい」「プロ並みだ」内田さんの刺し子と田中さんのリメイク手提げに「時間と手間をかけた細かい美しい作品に感心した」。岡田さんの手作り歌集に希望者が多く、準備した4冊では足りず、急遽増刷して最終日にみなさんにお渡しすることができたそうです。花田さんの絵手紙に「添えられた俳句が味があって何ともいい」武田さんのワークショップは「約3時間かけて完成、すばらしい作品ができた」。例年趣向を凝らして実施されていますが、事前にPRすれば参加者も増えるのではと思いました。
総会終了後、作品を囲んで歓談する姿があちこちで見られ、高退教らしい光景だなと胸にくるものがありました。創作に苦しみはつきもの、でも出来上がった作品を大勢の方に見ていただく喜び、それが次の創作につながる力になると信じています。
〈展示作品一覧〉
【絵画】
▼島田 宏惠▼
「黄落(津山城書物櫓跡)」
「曹源寺山門」
「緑陰」
▼武田 芳紀▼
「岡山市民会館」
「夏は来ぬ」
「紅燃ゆる」
「アフロディーテ」
「桜・和―空と木」
▼中村 清子▼
「旅の記憶・水(タヒチ)」
「旅の記憶・水(ウユニ)」
「旅の記憶・水(ニューカレドニア)」
▼美甘 晃▼
「日生小景」
▼水間 正雄▼
「太平洋戦争で焼失した城Ⅰ」
「太平洋戦争で焼失した城Ⅱ」
▼三宅通明▼
「ポピー」
「アジサイ」
「金山寺山門」
▼三宅 茂子☆▼
「コウノトリ」
▼武田 昭一▼
「春水」
「椿」
【木工】
▼島田 保弘☆▼
「六角飾り棚」(タモ)
「遊山箱」(欅)
「菓子鉢」(欅)
【模型】
▼水間 正雄▼
「烏城模型」
【書】
▼小川 澄雄▼
「杏花飛簾散餘春」
「微言廣被」
「山紫水明」
【魚拓】
▼岡田 憲朗▼
「メバル」
【写真】
▼ 赤座 匡▼
「ミルキィウェイ」
「夏のことぶれ」
「輝くとき」
▼荒木 敏和 ▼
「水路を往く」
「食餌どき」
▼井上 俊清▼
「歩く」
▼犬飼 繁 ▼
「メコンの残照」
▼ 中山 実典 ▼
「駒ヶ岳の思い出」
「蒜山の5月」
「平山郁夫先生の見た風景」
▼三宅 克幸 ▼
「1993年代ドイツのごみ対策」
▼ 山本 和弘▼
「四月の霧の朝」
「六月の青い朝」
「十月の朝列車」
【絵手紙】
▼花田 千春▼
「絵手紙」
【書籍】
▼岡田 憲朗▼
歌集『海と月と星と』
▼山本 和弘▼
フォトブック 『ナードサークの四季散歩』
【漆器】
▼木村 徳子▼
「トンボ紋楕円皿」
「水仙紋小皿」
「8寸ひがし盆」
【手芸】
▼田中 豊子▼
「古衣料のリメイク 手提袋」
「古衣料のリメイク ブックカバー」
「古ジーンズのリメイク 手提袋」
▼ 内田 恵子▼
「刺し子のクロス」
「手編みプルオーバー」
▼ 難波 欽子▼
「小物入れ(壁掛けタイプ)」
☆印は協賛出品してくださった方です。
5月26日の日曜日、私たちの自然歴史探訪の旅は、岡山駅西口のバス発着場から始まりました。21名の仲間と共に、小型バスに乗って智頭町へと出発。集合時には、全国植樹祭で来岡中だった天皇を警護するSPによって、集合場所の目印となる旗を仕舞うよう指示されるという予期せぬ出来事もありましたが、それもまた旅の一コマとなりました。
行きのバスの中では、参加申込のスピードが余りに早く、すぐに締め切らなければならなかった事情や、事前の下見、パンフ作り、受付・案内など、影で支えて下さった担当幹事の紹介や、参加メンバー全員の一言自己紹介などが行われました。
そして、智頭と言えば林業の町。私たちを迎えてくれたのは、周囲を圧倒するように林立する杉の木々そのものでした。智頭町に到着後は、トイレ休憩の後、屹立する杉の中を縫うように、対向車の来ないことをひたすら祈りながら、細い道をクネクネと登り、水車小屋の脇を抜けてやっと板井原集落に到着しました。そこには先客と思しき車が数台。
橋を渡って、私たちは「カフェ和佳(のどか)」で、地元の味覚である鮎の塩焼きや柿の葉寿司を楽しみました。集落の住人はわずか3名と聞き、一抹の寂しさを感じずにはおられませんでした。
お店の脇を流れる川の水は清らかで、木陰の涼しさを一層際立たせてくれました。
昼食後は、智頭町の誇る歴史的建造物である石谷家を訪れました。土間に入って、吹き抜けとなっている頭上を見上げて思わず声をあげる様子は、8年前の自然歴史探訪の時と変わりありません。ただ、記憶の中にある形ばかりの梁とは違って、今現に頭上にある巨大な松の丸太の存在感は圧倒的で、過去の記憶は単なる映像として瞬時に押しのけられてしまいます。
クレーン車も無い時代に、どうやってあの長大な梁をあの高みまで持ち上げて架け渡したのか、日本の伝統的な建築技術のレベルの高さに思いを馳せながら、ただただ見上げるしかありませんでした。
巨大なものに圧倒された後は、主屋の一号蔵展示室で、小さな小さなものの姿に圧倒されました。
門永哲郎氏の野鳥彫刻作品展が開催されていたのです。一つの木片から彫り出して彩色してある木鳥(ことり)は、解説文にあるように「神宿る細部」の力でヒラリと空に舞い上がりそうに見えたのです。
庭園の美しさも、私たちの目を引き心を和ませてくれました。縁側に寝そべり、くつろいだ姿勢で静かに庭を眺める人々の姿が印象的でした。
石谷家住宅見学の後は、西河克己映画記念館に行く人、かつて宿場町として栄えた街並みを散策する人なと、各自が智頭町の魅力を自由に探求する時間となりました。
帰りのバスの中では、智頭町の話だけではなく、久しぶりにかつての同僚とノンビリ旅ができ感激したとか、知りたかった同僚の消息などを聞くこともでき本当に楽しい1日だったとか、あちこちで話の花が咲きました。板井原集落を見て、自分が育った故郷を思い出し、懐かしさ一杯の気分になったという人も。
智頭町への旅は、多くの発見と感動、そして「癒し」を与えてくれる忘れられない旅となりました。
細身の鮎の塩焼きと地元の野菜の煮物。そして緑の柿の葉の上に塩漬けの鱒の切り身と山椒の実を2粒のせた握り寿司。ちょっとイメージが違ったけれど「郷土料理の“柿の葉寿司”だ」と説明があった。
絶品は味噌汁だった。特別な味噌かと尋ねると「酒粕を少し加えている」ということ。おかわりをした人もあった
古民家カフェ「和佳(のどか)」での昼食は、細い山道を登り、人影のない廃屋の村で食べるということも“ごちそう”なのかもしれない。
倉敷市歴史民俗資料館は、もともと大正時代に作られた倉敷幼稚園の園舎で、洋風建築の瀟洒な建物です。1981年に倉敷市役所の東駐車場の一角に移築されたものです。現在は歴史民俗資料館として、幕末から現在までの教科書が展示してあります。
また八角形の展示室(旧遊戯室)は、園舎としての工夫が残された施設であり、その面でも注目されています。ただ残念なことに最近はほとんど忘れ去られたような状態で、私も以前一度覗いてみましたが、誰も訪れる人はなく閑散としていました。せっかく力の入った展示もなされているのに残念に思えた次第です。
ところが最近この施設が再び脚光をあびることになりました。それは倉敷市の「市庁舎等再編計画」により、倉敷市立中央図書館を核とした諸公共施設(労働会館、憩の家、市民活動センター、国際交流センタ―など)の複合施設が設置されることになり、この資料館の建物も、その再編計画で関連施設として取り込まれることになったのです。この複合施設は現在の温水プール(廃止予定)、旧焼却場の敷地などを活用して建設され、その野外ゾーンの重要な建物としてこの資料館が取り込まれることになっているというわけです。
実は倉敷市は中央図書館の複合施設への移転に際して、「民間活力の導入」を掛け声として、運営を市の「直営方式」から「民間への指定管理」(=民営化、たとえば、高梁市では「ツタヤ」が指定管理業者として選定された)にするねらいもあったようです。しかし、それ以前には市は、図書館の運営には「民営化はなじまない」と指摘していたにもかかわらず、です。
現在、建設を請け負う業者の選定の段階に入っているのですが、民営化に反対する市民の運動の高まりや議会での反発もあり、「運営の仕方」については棚上げの状態でハードの方を推し進めているという現状です。ともあれ、この歴史民俗資料館とならんで、その複合施設の在り方についても目が離せない状態です。
対岸から見たオークランド市街
中央のスカイタワーの192mからスカイジャンプが出来ると聞いたが、ジャンプを見るチャンスはなかった。
オークランドに着いて数日過ごしている間、ユースホステルカードで割引のホエールウオッチング船に乗った。残念ながらクジラには遭遇しなかったものの、魚群を見つけたカツオドリの大群が、飛来して上空から次々にダイビングを繰り返す大迫力の光景を間近で目にすることができた。
(以下の部分は、本当はこのニュージーランド編の最後に書くべきものだが、同じユースホステルに関することなので、続けて書いておくことにする。)
オークランドのこのユースホステルには、帰国前にもう一度訪れ、2泊した。
旅先のユースホステルで出会った日本の看護師(現在留学中)の2人の女子学生に、「帰国前の〇月〇日に、オークランドのこのユースホステルに行くよ」と言っておいたところ、彼女たちは本当にそこに泊ってくれていた。
その夜出会った飛騨の家具職人も仲間になってくれて、私を含めた4人で、ニュージーランド最後の夜を「送別会」として大いに飲み語り合った。
ロトルアの家
温泉の街として有名なロトルアで、ふと目にしたこの家が気に入ってスケッチをしていると、「私は画家なんだが」と言って熟年の男性が話しかけてきた。「近くに住んでいるのでスケッチが終わったら家においで!」と地図を書いて渡してくれたので、訪問してみた。
入り口から入ると、「所狭し」と大きなキャンバスがたくさん乱雑に置いてある。
期待していたビールやワインは出なかったが、次々に持ち出してくる自信作と思える作品の説明を聞いた。「非常に!」とまではいかなかったが、話は面白く、参考になることも多々ある楽しいひとときだった。
ワイトモユースホステル
真っ暗闇の洞窟、一斉に点滅する土ボタルの幻想的な光の空間を小舟は進む。手の届くところにある星座は「銀河鉄道の夜」を疑似体験させてくれる…。
ワイトモ洞窟の近くにあるロッジ風のユースホステルに着いたのは、夕食のオーダーストップの後だった。
売店もないし街から離れているし、間食のおやつも持ち合わせていないし…ということで、「空腹力」を勇気にして、私はテラスで食事中の家族に状況を説明して、「お裾分け」を頼んでみた。
すると有り難いことに、気持ちよく食事の仲間に入れてくれることになった。また、「オーストラリアでは大きな牧場を営んでいるので、馬にも乗せてあげる」と言って、住所・電話番号まで書いてくれた。
ワイトモユースホステルでは、この他にも色々な出会いがあった。
この国での旅行業を目指している日本の若者。彼からは、今までの仕事やこれからのプランや周到な手順などを聞き、外国で起業する心意気に感動した。
また、日韓関係について語る日本女性にも。彼女は、出会った若い韓国軍人(アメリカ留学に抜擢された経歴を持つ)が、「日本との過去の屈辱的な関係にこだわるのではなく、新しい関係を築くことに力を注ぐ」と主張したと話してくれた。
韓国の青年とも出会ったが、この若者とは帰国前のオークランドのユースホステルで再会した。
タウポユースホステル
2階のベランダからは湖が望めて、庭にある大きな昔の洗濯たらい型の湯船は温泉の掛け流しだった。
男女7~8人、水着で桶の内側に寄りかかり、車軸に向かって足を伸ばしておしゃべりを楽しんだ。
除夜の鐘の頃、イギリス人の老夫婦や若者を誘って輪になって手を繋ぎ Should auld acquaintance be forgot…♪と「蛍の光」を歌って新年を迎えた。
「Happy new Year!と周囲の人とキスをし合うところもある」と聞いたことがあるにはあるが、ここでもそうはしないし、シチリアでもスペインでも、誰もキスもハグもしなかった。
ユースホステルには共同のキッチンがあり、それぞれが食事を作っていて、「おいしそうだね」と交換もする。
ヘルパーをしている日本人の女の子がスパゲティを作ってくれて一緒に食べたのがきっかけとなって、次の日はスーパーで大きなビフテキを2枚買って来て一緒に料理し、3日目も…と続いた結果、娘のような年頃の子となんだかくすぐったいようなムードになって去り難かった。
高垣先生が亡くなられて、なんとも言えない淋しさ、空しさを感じている。どうか無事成仏なさることを祈るばかりです。
高垣先生は私の一年後に定年を迎えられた。そして、それまでの創作作品をまとめて『鬼から鬼へ』と題した創作作品集を作られた。
私はその時、納屋をつぶして.農協から2000万円を借りて、鉄骨建ての作業場を作っていたので、声をかけることができなかった。
佐原佑明先生は.この作品集の中で、「これらの作品は常に根底にずっしりと重く考えさせるものをたぎらせている。そうした作品の多い中にあって、第20回の中国大会(1982年)の『ハトポッポの歌』(註、米軍機が横浜の民家に墜落した事件を下敷きにした作品)を全国の人々に見て貰えなかったのは、老生として残念でならない」と書いておられる。私はその件で、かつて山本章二先生と、高垣先生が前に子供さんを亡くされていたから、この問題が取り上げられたのだろうと話していた。森礼男先生は.中国大会で、全国へ代表として送る作品を選定する会議の後、私に「『ハトポッポのうた』は代表に選ばなかった。それでいいだろう」と話された。私はその選択は森先生の自由に属する部分だから、いいよと言っておいた。とは言うものの、新聞の記事の一部をつかまえて、お芝居の台本を作ってしまうとは大変な能力だと思う。森先生には絶対にできない仕事だ。
またこんなこともあった。永田陽二君の作品「鬼よさらば」を持って、最初に全国大会に出演した時のこと、一本角と二本角の鬼の差別、角を外して人間の世界へとつながる世の中は、そのまま、この世の部落差別に置きかえられるのではないか。とすれば、部落解放のやり方が問題になるのではないかと心配し、高垣先生には心の準備をお願いしておいた。そういう時の理論の組み立ては、彼に勝るものはいなかった。実際、広島の代表からも、時の全国高演協の代表の人からも、差別問題について「分かっているだろうな」と言われた。私は「はい」と答えておいた。高垣先生の所には、どんな形で話が行ったのか、分からない。ともかく大問題にはならなかった。
もう一つ、操山高校の同期生と計って、戦争体験記「その時10歳のわたしは」を出版されたこと。そして玉野高校演劇部卒業生で青年劇場の俳優浦吉ゆかさんらと計って.作品集の朗読劇を上演されたこと。これも岡山空襲の実態を記録に残す点で、大変大切なことで、高垣先生なしには実現しなかったことではないか。先日先生のお宅へ伺った時、一冊もらって帰った。私も空襲体験者の一人として、表紙の絵を見ただけで、あの日を思いだした。
高垣先生を亡くしたことは生き残った我々にとって、大変な損失であったと思う。ひたすらご冥福をお祈りいたします。
【編集部付記】
高退教事務局長を務められたのち、長く顧問として支えていただいた高垣章二さんが6月、亡くなられました。幾人かの方々に追悼文の執筆を依頼しましたが、哀悼の思いは人後に落ちないが、職場も同じで高校演劇の指導でもつながりの深い岩上隆雄さんが最適任だろう、と口を揃えておっしゃいます。その事情を告げて、是非にと執筆をお願いし、文章を寄せていただきました。
当時の玉野高校演劇部は、高垣、岩上、森礼男という傑出した顧問に恵まれ、特筆すべき活躍を続けていました。生徒たちは、高垣、岩上両氏を、「ガキさん」「ガミさん」の愛称で呼び分けていました。
私事ながら、新任時代、当時高教組書記長だった高垣さんを、諸会議などの場の後方の席から仰ぎ見たのが、お目にかかった最初だと思います。教職3~4年目の頃、なりゆきで評議員を引き受けた頃、時あたかも「主任手当支給反対・拠出」等のたたかいを理路整然と提起しておられた姿は、不屈・毅然・確信のオーラに包まれ輝いて見えました。反面、ちょっとその鋭さが怖くて、余りお近づきにならないのが賢明か(笑)とも感じていました。
2校目の転勤先玉野高校では、職場の要としてフルに活躍しておられた高垣さんに、間近で接する機会が増えました。組合はもとより、学校運営にも欠かせぬ存在で、また当時としては先駆的に、校内の成績処理・情報処理を、コンピュータ・プログラムを自作して縦横にこなす姿は超人的とも言えました。生徒会、生活指導、担任、学年運営等々、様々な場でご一緒するなかで、複雑・困難に思える事態をも的確にしかも愉しく乗り越えていく体験は私にとって貴重でした。
とりとめもない思い出は尽きませんが、その頃、分会役員、学年団、また同じ国語科の相棒としてもお世話になった山本繁幸さんが、昨年末に急逝され、続けて高垣さんの訃報に接することになり、いつまでも悲しみから立ち直れません。この場を借りて改めてご冥福を祈ります。
ちなみに、岩上さんが紹介されている朗読劇「その時10歳のわたしは」は、2016年6月25日に岡山市民文化ホールで公演されました。これには高垣さんのほかにも、高退教関係者が複数タッチしておられました。中でも、戦場に赴く出征教師に訓話を垂れる校長役を演じたのは、当時高退教事務局次長で会報編集委員でもあった故居郷毅さんでした。その居郷さんは、会報第151号(2017年10月発行)に「教育フォーラム7現地青年企画朗読劇『その時10歳のわたしは』を振り返って」という文章を寄せておられます。2017年夏、岡山で開かれた「教育のつどいIn岡山」(全国教研)で、現地青年企画として全国からの参加者にこの朗読劇を披露した報告記事です。
高垣さんのもう一つのライフワーク=映画「あかね色の空を見たよ」制作と上映の運動も、昨日のことのようです。それにつけても、高退教事務局の仕事について、いつでも聞けると錯覚して。ほとんど何も教わらずにいたことを、いまさらのように悔やんでいます。 (事務局長 山本 和弘)
HPへの紹介は割愛します
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
○今回の会報は総会の報告が中心です。総会では、「労働組合の意義」が課題となったそうです。若い人たちばかりではありませんが、産休・育休、介護休暇、賃金などの前進は、あたかも天恵であるかのようにとらえ、先輩たちが組合を中心として訴え続けてきたことの結実だということに思いいたらない人が多い。自分では動かず、組合にも入らず、権利だけは、えらい人が与えてくれたと思って享受する、これこそがフリーライド、ただのり、だと思う今日この頃です。(平和を当たり前に享受している私も同じではありますが。)
○2023年度の決算報告の訂正がありました。よろしくご確認ください。
○総会に先んじて開催された作品展についても詳述していただいています。実際に作品を観て感銘を受け、作品一覧を眺めてあらためて充実したものであったと思い出しています。会場となった生涯学習センターは、様々な催しがある場所であり、土曜日の午後は、関係者以外の方も大勢、興味を持って見てくださいました。
○いつも大人気の「自然史探訪」、今回も学びの多い、美味しい旅であったようです。
○水間先生の連載、人々が内へ内へ縮こまっていくような現在の日本社会において、「世界は広いな」、と実感いたします。すばらしいスケッチ、なかなかうまく印刷できなくて申し訳ありません。
○訃報が続きます。けれども亡くなってもさまざまなところに偲ぶよすがはあるものでしょう。追悼を寄せてくださった先生方、ありがとうございました。
○今回初めて編集を担当いたしました。大変だったことの一つは、私のパソコンの一太郎がかなり古いものであり、二代ぐらい前のPCを使わざるを得なかったことです。それから、PC、タブレット、スマホなどさまざまなツールが用いられ、さらに一太郎・花子、ワード、PDF、jpegなどの媒体があることから、USBやSDカードに移してはあっちへやりこっちへやりしながら編集しなくてはならず、メカに弱い私にはヘビーな作業でした。(川鍋)