目 次
【特集】各支部の「春の交流会」の報告 |
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各支部 |
1 |
健康体操の報告 |
岡山支部 |
難波 欽子 |
6 |
惜しまれる閉館、
「岡山市民会館」のスケッチ |
備西支部 |
武田 芳紀 |
7 |
「子ども期」の体験から「子どもに
豊かな子ども時代を」(後編) |
旭東支部 |
田中 博 |
7 |
連載 出会いとスケッチの旅
ニュージーランド編(1) |
備西支部 |
水間 正雄 |
11 |
また一人 大切な仲間が天国へ旅立った(後編)
〜 家野・馬場・細川・居郷先生へ 〜 |
旭東支部 |
岸本 幹雄 |
13 |
生きることは 一筋がよし 寒椿
――恩師 鴨川恵美子先生を偲ぶ―― |
岡山支部 |
末石 範子 |
15 |
第2回新自然歴史探訪(通算52回)のお誘い |
備西支部 |
西 功 |
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編集後記
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編集部
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19
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「備南支部 春の交流会」 in くらしき健康福祉プラザ
備南支部 綾野 保晴

3月23日(土)、この日は朝から小雨、花冷え、桜の花芽はまだ堅い。会場は、くらしき健康福祉プラザ102研修室、12時30分開始、参加者7名。コロナ禍で中止の3年間を挟んで、17回(2015年3月)から昨年の22回まで、6回に渡って、昼食・ミニ講演・交流という形で実施してきた。今回の23回は昼食・交流のみの開催である。
例年利用していた施設内のお店(ホットタイム)が3月末で閉店、3月に入ってお弁当の予約販売は中止ということで、急遽、三好野の「アナゴ飯」を注文

した。お値段は1,580円、参加者が少なく、予算に余裕があったので、580円の補助が可能になった。お味は、期待していたが、それ程でもなかった。多分、温めて食べればよかったのかもしれない。食事が済んで交流の時間、お互いの近況を語り合った。そのほんの一部を切り取ってみよう。
「毎日これといってすることはないが、何やかやと忙しくしている。」「地区の老人会がこの6月で解散することになった。(世話役の後継者が絶えた)」「18万キロ走行の愛車エルグランドがついにダウン、電気自動車の日産リーフを6カ月待ちでゲットした」「我が家の畑に、ついにイノシシが来訪、野菜づくりピンチ」「妻が、終活・終活・終活と責め立てる」「空き家になっていた我が家の母屋の2階に、娘家族が引っ越してくる。片付け大忙し」「迷惑電話防止機能付き電話機を購入。(市の補助金7,000円に目がくらんだ)」
交流後、来年度以降のこの会の在り方について意見交換をした。場所、内容、

実施日等について話し合った。とりあえず来年度は、「児島の地」でやってみようということになった。「野崎邸」「ジーンズストリート」等が頭に浮かんだ。
3時少し前に閉会、お土産のお菓子詰合せと飲み物を手に帰路についた。来年は児島で会いましょう。
備西支部 春の交流会報告
備西支部 清水 親義
3月23日土曜日、11名の参加者を得た備西支部春の交流会は、歴史と文化の息吹を感じる一日となりました。
最初の見学地である遍照寺多宝塔は、遍照寺本体が笠岡駅前の区画整理に伴って移転されていたものの、これだけは旧笠岡の中心地に残り、400年を超える樹齢を誇る巨大な枝垂れイチョウの木と共に、深い歴史の重みを感じさせて

くれるものでした。
続いて訪れた大仙院は、赤い鐘楼門が印象的な寺院で、毎月旧暦の24日には「大仙さん」と呼ばれる縁日が開催され、多くの露店と参詣者で賑わいますが、今回の訪問では静寂に包まれる中、その沈黙が逆に印象深いものとなりました。
郷土館では、土曜日にもかかわらず開館して下さり、市の学芸員の方による丁寧な解説まで受けることができました。特に印象的だったのは、「大飛島」という名前の、本当に小さな島から出土した、目を見張るような出土品の数々でした。遣唐使が航海の安全を祈って立ち寄ったとされるこの島の、その歴史的価値を改めて認識させられるものとなりました。
次に、笠岡市の2大貝塚である、津雲貝塚と原の貝塚についての解説を聞き

ました。
津雲貝塚から出土した人骨の中に、世界最古(3000年前)のサメの犠牲者となった人骨があったことが、ごくごく近年の研究で判明したことや、通過儀礼としての抜歯があったこと、当時の海岸線と現在の海岸線の違いなどについて学びました。
一方、原の貝塚は、津雲貝塚よりさらに古い年代のものと分かりました。大正時代の京都大学の調査では見つからなかった人骨が、保育園拡張工事で発見され、その際の写真に私(清水親義)の家が写っていて、現在保育園の建っているところが原の貝塚だったことや、この土地を子供時代には我が家の芋畑や水田と認識していたことなどが、なつかしく思い出されました。
最後に訪れたのは、瀬戸内海の新鮮な海鮮料理を楽しめる「若よし」でした。刺身、煮魚、天ぷらなど、地元の旬の食材を使った料理が参加者を喜ばせました。
食事をしながら、参加者一人一人のユニークな近況報告を行い、笑い爆発を伴いながら、和やかで有意義な時間を過ごすことができました。
この交流会が、来年も参加しようという機運を高めてくれたものと信じて疑いません。
他支部の皆さん、来年は笠岡に来るべきです。「若よし」の料理だけでも、一度味わってみる価値は十分ですよ!
美作支部 春の交流会
美作支部 奥埜 貴之
4月11日(木)12名の参加により美作支部学習交流集会を開催しました。午前中、奈義町現代美術館を見学。学芸員の説明のあと、個々に1時間あまり。75才以上は無料。自己申告。75才未満は700円。ほとんどの参加者が初入館。午後は隣のレストランで会食と交流。ピッツァとパスタの洒落た店。来年の再会を期して閉会しました。
旧山陽道「矢掛宿」と「美星天文台」
備北支部 土井 彰
今回の備北支部交流会は思案の末、矢掛・井原に越境した。天候不順で桜の開花も遅れている3月30日(土)9時、総社駅を山本、逸見、藤原先生と土井は車一台で出発した。久代経由で吉備真備公園を目指す車中、公園が真備と矢掛

の二か所にあることを知る。ともあれ予定通り矢掛の吉備真備公園に到着し、岡本先生と合流。参加者5名で広い園内の「吉備真備公」を参拝した。予定時間を少し超過したが、車は矢掛宿に向かい10時20分に到着。すぐに旧本陣「石井家」に向かった。
ここではラッキー続き、まず入場料がJAFカードのおかげで団体扱いになり、ガイドボランティアの伊達さんにお世話になった。
書院造りの母屋は西国大名や天璋院篤姫が潜った「御成門」、休息や寝泊まりをした部屋など国の重要文化財を伊達さんは博識の上にユーモアたっぷりガイドをして下さり一同楽しんだ。後半の酒蔵は二組の見学客も加わってより賑やかになった。昼食は、宿場町の面影を留めた本陣通りを少し歩き、予約の古民家「シーズ藤原家」でゆっくり食事を摂り歓談した。
美星町では「美星青空市」を経て黄砂で霞んだ生憎のお天気の中、天文台へ向かう。
13時45分、開館と同時に入館。まず3Dメガネを掛けて立体映像による宇宙の旅を30分鑑賞。その後、101大型望遠鏡を真近に職員の解説を受けた。他の天文台と違って多目的使用が可能で特に安価で制作出来たと誇らしげに説明された。天井ドームの開閉、巨大な望遠鏡の旋回・作動、床面の昇降などに皆、驚き!感激!した。その後テラスに出、敷地内に立つ隕石観測、宇宙ゴミ観測、太陽観測専門の天文台施設を確認した。残念だったのは、黄砂と雲のため星の観測が出来なかったことである。
施設前にある渾天儀(中国、明代の天体観測装置)レプリカ前で集合写真を撮って帰路についた。今回は想定外の学習でハードになったが充実した一日となった。
岡山支部・旭東支部の春の交流会
岡山支部 美甘 晃

4月16日(火)、岡山支部・旭東支部合同の春の交流会をおこないました。
今回は好評だった前回の後楽園につづき、岡山城・烏城公園をめぐる散策と、今最も大きな問題といえるパレスチナ問題の講演という内容で、参加予定29名の全員参加を得て、好天のもと大いに学習と交流を深めました。

全員での集合写真撮影ののち、10名程度の3つのグループに分かれて、和田茂先生をはじめとするボランティアガイド3名の方々に先導いただき、主に大規模な石垣の外周をぐるりと散策して回りました。これまで会員があまり知らなかった築城の歴史に耳を傾け、時代や工法によって変わる石垣の姿に目を見張り、どの会員からも大満足の感想が聞かれまし

た
その後、県立図書館2階のサークル活動室に移動、松花堂弁当(岡山南高校の生徒とのコラボ弁当)の昼食ののち、参加者の近況報告で交流しました。
午後の講演では、大先輩の徳方宏治先生から「パレスチナ問題について」と題して約1時間お話して

いただきました。私たちが知っているようで知らないパレスチナ問題。対立の根源とされる、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教それぞれの系譜、長いパレスチナ問題の歴史(キリスト教勢力によるユダヤ教迫害、近代ユダヤ人の経済力、第一次大戦後のアラブの独立・ユダヤ教徒のシオニズム運動、第二次大戦中のナチスのユダヤ人絶滅政策、第二次大戦後の国連によるパレスチナ分割案、イスラエルの領土拡大、ガザ地区の危機など)についてじっくり話していただきました。資料にあった現地若者の声にも見られるように、双方の対立意識は救いがたいとも思われますが、事態を打開するには国際世論を大きく高めていくことが必要であり、双方と対等に話のできるはずの日本の役割も重要ではないかとの指摘が印象的でした。
最後に来年度も今年以上に交流会を盛り上げようとお互いに誓い、会を閉じ

ました。以下に主な感想を紹介します。
【 交流会を終えての参加者の感想 】

◎岡山城のガイド付き見学はとても楽しめました。石垣の違い をじっくり楽しむこ とができました。午 後の徳方先生の講義 も勉強になりました。 企画された方々、ありがとうございました。(原 広三さん)
◎今まで知らなかった烏城公園のこと、詳しく教えていただき勉強にもなりましたし、石垣や大きな樹木も大切に残されており楽しかったです。旧友とも話せました。また講演では、今の紛争の元となる歴史、多くのことが知れてよかったです。やはり歴史から学ぶ必要がありますね。(山口京子さん)
◎昨年参加した時も思ったのですが、地元(県立図書館から徒歩15分程度)

なのに、何も知らずに生きてきたんだと痛感。石垣も長い年月(補修もあって)残されている!算木積みをどのように考えて完成させていったのか。ただただ驚くばかりでした。(尾崎光津枝さん)
◎新緑の美しい烏城公園、天気も良く、気持ちのいい一時でした。烏城が「石垣の城」というのもうなずけました。午後の講演、パレスチナ問題に長い宗教対立がある

ことはわかりましたが、少し難解でした。国際世論で正しい解決になることを…。(島田宏恵さん)
◎徳方先生の講演を聞いて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の歴史と第一次世界大戦のときの「イギリスの三枚舌外交」が大きく絡まっていることを改めて知ることができた。パレスチナにユダヤ系とアラブ系の2国家が建設されるよう国際世論で決めるしかないと思った。(岸本幹雄さん)
健康体操の報告
岡山支部 難波 欽子
4月7日10時から岡北学園で、年に一度だけの健康体操教室を開きました。園の庭の桜が咲き誇って小鳥達が遊んでいました。新しく貼り詰められた人工芝のグリーンにピンク色の花びらが少しと、ナンと??花そのままが綺麗な姿で沢山落ちているのです。雀が花のつけ根を啄んで蜜を吸っては捨てていたのです。

二階のフロアは広くて裸足にも優しく綺麗に整って、太陽の光を浴びていました。常連だった河原さんがお休みで、井上氏、石井さん、川鍋さん、衣笠さん、難波と真向法体操会の二名だけでした。
まず、北原白秋の「五十音」で発声練習、手の指や掌を刺激して気をあげるところから、耳、足指、脚、肩などと全身の関節や筋肉をいた気持ち良い位動かした後、練習歌を聞きながら四動作をしました。

皆さんはそれゾレに使い傷みが現れておられたので、お話しを聞くだけでも勉強になりました。日常生活の中で続けられる体操を都合の良い場面で行って貰うということで解散しました!
健康体操を長年保育園を借りてしてきましたが、気遣いが多い上に参加者が減少したので中止させて欲しいと思いました。
惜しまれる閉館、「岡山市民会館」のスケッチ
備西支部 武田 芳紀
2024年3月31日をもって、岡山市の城下にある岡山市民会館は閉館となります。1963年に竣工され、佐藤武夫氏の設計によるそのモダンなデザインは「日本におけるモダンムーブメントの建築」(DOCOMOMO.japan)にも加えられたものであるとか。この会館の壁面はやや斜めになってるように見えますが、実は垂直で、建物の間に入っているスリットによって斜めに錯覚されるのだそうですが、それも面白いところですね。
岡山市民会館では様々なアーティストの公演、演劇、その他イベントなどが行われ、この会館でのいろいろな公演などを楽しんで、そしていろいろな思い出を持っておられる方も多いと思います。私も社会人となって、本格的な演劇を最初に見たのはこの岡山市民会館でした(当時の「市民劇場、現在の「演劇

鑑賞会」にて)。また、岡山高教組の取り組みで、1981年2月22日に、第1回「生徒と父母と教職員でつくる文化祭典」(1400人参加)をこの会館を借り切ってやった思い出もあります。当時私は高教組の執行委員でしたが、書記長の竹内良雄氏の熱意で大規模なその会が実現したと記憶しています。
2023年に「ハレノワ」という新たな劇場、発信の場が作られたことで、その役割は終焉したのですが、後楽園の対岸に位置し、岡山城の西にあるこの一角は岡山市民の憩いの場であるとともに、薫り高い芸術や文化の発信の地であったことは記憶されていて良いのではないでしょうか。その思い出を自分自身かみしめ、また多くの方とシェアするつもりでスケッチをしてきました。
「子ども期」の体験から「子どもに豊かな子ども時代を」(後編)
旭東支部 田中 博
1.高校生に満州からの引揚体験を語って
23歳で高校教師となり、市立新見商業高校・総社高校、瀬戸南高校で教鞭を取りました。新学期、最初の時間に必ず自己紹介で黒板に東アジアの地図を描き、「引揚体験」を語りました。総社高校では「田中先生は中国人だ」といううわさが広がりました。
戦争で最も犠牲になるのは子ども・女性であること、多くの子ども・女性が大陸(中国)や半島(朝鮮)の土となったことなどを話しました。特に、平壌でパンをくすねて、従軍看護婦に叱責された体験の話は、生徒たちが大人になったとき、【叱るは同じ目の高さで、1回だけ、他言は決してしない】を思い出してほしいと感情をこめて話しました。80歳を超えてなお引揚体験を鮮明に覚えているのは、高校で生徒たちに体験談を語り続けたためだと思います。
2.全ての子どもに豊かな子ども時代を
(1)「子ども期」の体験は人生のみちしるべ
上述したように、私は飢えや「人の生と死」を身近に感じ、不安と恐怖におびえる日々も送りましたが、父母や従軍看護婦、学校の先生方など周囲の温かいまなざしに支えられて子ども期を過ごしました。成人して、「平和」「人権」「差別」「教育」などを推考するとき、満州からの引揚体験は私の「みちしるべ」になっています。かえりみて、いま、子どもたちは平和のうちに、多彩で、豊かな体験をしているでしょうか。
(2)日本の子どもの実態
日本の子どもの貧困問題は深刻です。2023年の子どもの貧困率は11.5%で、8.7人に1人、207.6万人が貧困に喘いでいます。また、10年間で2.6倍(2022年度:29.9万人)になった不登校生、年間20万件を超す児童虐待相談件数、18年間で約2倍になった小中高生の自殺数(2022年は514人)、いじめや中途退学など、子どもが日々生きづらく、ストレスで心に傷を負っていて、「安心して、自信をもって、自由に」生きているとは言えません。
(3)子どもの窮状をただし、「子どもの権利」保障する「子どもの権利条約」
@権利条約が大切にしていること
----子どもの「最善の利益」・子どもは「権利の主体」----
この条約の特徴は、子どもが「保護の対象」ではなく、「権利の主体」と して認められていることです。大人が勝手に「子どもにいいこと」を決めつ け、それを押しつけることはできません。大人は、「権利の主体」である子 どもとの間で、その子どもの発達段階に応じたコミュニケーションを図り、 これらの意思疎通や意見交換の中から、「最善の利益」を実現していかねば なりません。
A権利条約の大きな特徴「意見表明権」(「意見を聴かれる権利」)
条約は、子どもに「意見表明権」を保障しました(12条)。これは子ども たちに自分に関係する全ての事柄について、大人に対して意見を述べ、その 意見が大人によって十分に聴かれる権利を認めたものです。大人は、子ども たちの気持ちや意見を聞く場を設け、その意見に誠実に応答しなければなり ません。こうした子どもと大人のやりとりの中で、子どもにとっての「最善 の利益」が見いだされ、そして、子どもがひとつの人格として成長発達して いくのです。
B子どもの成長発達にとって必要なこと
条約は、子どもの成長発達にとって家庭環境が果たす大切な役割を認めて います。子どもの養育についての親の責任を認め、その責任を果たすための 国の援助を定めています(18条)。子どもが権利を行使するときに、親は適 切な指示と指導を行い、国はその責任と権限を尊重することを求めています (5条)。
(4)「こども基本法」・「こども家庭庁設置法」(2023年4月施行)、
「こども大綱」(2023年12月閣議決定)を生かして
「こども基本法」は条約の「4つの原則(差別の禁止、子どもの最善の利益、生命・生存発達に関する権利、意見を表明する権利)」を法制化し、「こども家庭庁設置法」は子どもに対する施策において「子どもの意見を尊重し、その最善の利益を優先して考慮することを基本とする」とあります。これらのことを生かし切ることが、真に子どもを権利主体として「子どもの権利」を保障することになります。
「こども基本法」は自治体が「こども施策」を総合的に策定し、実施することが責務であるとしています。(第5条・第10条)これによって、自治体の子ども計画(子どもの権利を擁護し、これを促進することを目標とした計画)として、「子どもの権利条例」づくりを進めることができます。また、子どもや保護者などの意見を反映させた施策の実行が可能(第11条)になりました。
(5)「子どもの権利」を支える「意見表明権」と「子どもコミッショナー」
@子どもの意見を聞くこと
何が子どもにとって最善なのかは「子供の意見を聞き」それを最大限尊重 することが大切です。「子どもの最善の利益」は何かを判断するには大人の 支援が必要です。しかし、子どもの興味・関心・利益に叶うかどうかを「子 供の意見を聞いて」判断しなければなりません。
A子どもの権利条約の核としての「意見表明権」
意見表明権は子どもの権利条約の核であり、これを具現するためには「子 どもの権利擁護機関(子どもコミッショナー・子どもオンブズマン)」を設 置することが必要です。これは大人の力なしでは実現できません。したがっ て、真に子どもの権利を保障するためには、「意見表明権」の勧告にあるよ うに『子どもの意見表明権を「可能にする環境」を提供し、かつ、教育や家 庭などあらゆる育ちの場面で、子どもにとって「意義があり」、子どもの「力 を伸ばすような」参加を積極的に促進すること』を具体化することです。
B「子どもコミッショナー」の必要性
現在の日本に「子どもコミッショナー」が必要とされる最大の理由は、子 どもをめぐる環境が深刻化している状況にあることです。子どもに関して問 題が発生した際に、「子どもの権利」の視点に立たず、大人の視点が優先さ れるケースも多く見られます。また、理不尽な校則(いわゆるブラック校則) を変えようと児童生徒が声を上げても十分に尊重されずに、その後声を上げ ることを諦めざるを得ない子どもも多く存在するのが現状です。
(6)「こども基本法」等の法整備のもとで「子どもの権利条例」制定を
自治体は、こども基本法:第10条の「自治体こども計画」を策定し、関連法律に基づく「こども施策」を実行しなければなりません。自治体のこども施策は、常に「子どもの権利にとってどうなのか」を点検することが大切です。そして、「自治体こども計画」は法律で定められた権限や事務・事業を織り込みながら「子どもの権利」を擁護し、これを促進することを目標とした計画とすることが必要です。
その際、「子ども条例(子どもの権利条例)」の核である子どもの意見表明権が保障されているかどうかを点検する機関として「子どもの権利擁護機関(子どもコミッショナー・子どもオンブズマン)」の設置が不可欠です。こうした組織は、子どもの声を代弁し、それを子どもの権利の擁護、および促進につなげるものです。
「こども基本法」だけでは真の「子どもの権利」保障は十全ではありません。政府の決定にもとづき、あるいは独自の判断で地方自治体が「子ども条例(子どもの権利条例)」を定めていくことが求められます。
連載 出会いとスケッチの旅 ニュージーランド編(1)
備西支部 水間 正雄
初めての赤道を越えての旅で、年末の日本を発って夏のニュージーランド最大の都市で北島のオークランド空港に着いた。ユースホステルでは旅人、留学生、ワーキングホリデーなどの若者の日本人や韓国人たちと出会い、楽しい有益な時を過ごした。帰国直後、女性の旅行記作家が「世界遺産といっても『石の塊』で、それよりも『旅で出会って何を話したか』の方が思い出になり喜びだ…」とのラジオを聞いた。私は即刻、放送局の電話番号を調べて自己紹介をし、番組担当者とゲストと同様の体験を伝えると、この番組に繋ぐと言ってくれた。今回もスケッチと出会いのエピソードを中心の旅行記としたい。
オークランド大学のセミナーハウス(1)
このスケッチをしていると、看護科に留学中の女子学生が私を見て話しかけてくれた。「親に内緒で日本人の留学生と同棲している。彼がアルバイトをしているため、夕食は夜中になるが、良かったら夕食にどうぞ」と誘ってくれた。
もちろん「ありがとう」と快諾し、スーパーで一緒に食材を買い、アパートで料理を手伝って彼の帰るまで、留学生活などについて、話を聞いて過ごした。
24時を過ぎて彼が帰宅し、3人で遅くまで話した。その後、真夜中のユースホステルまで送ってもらった。
別のユースホステルを訪れた時、ワーキングホリデーや旅人の日本人の話の輪に入れてもらった。牧場で牛の世話をしている女性は「牛の糞が飛び散って口の中に入ることがある…」と深刻な顔で言って皆を笑わせた。
夜遅くまで話した後、宿舎のユースホステルに向かっていると、街灯のない道になって、白内障の私には真っ暗で前が見えなくなり、先程のユースホステルに引き返して、彼・彼女に両腕を組んでもらっての帰宅となってしまった。
次の日は「明るいうちに1人で帰るように」と促された。
オークランド大学のセミナーハウス(2)
小柄な中年女性がこのスケッチを見てくれた。
「留学生にしては若くないし」と思っていると、「神戸の薬剤師で夫と死別しており、ようやく息子が高校に入って自立したので留学を決意した。薬剤師はいつでも就職口があるので」と話してくれた。
その生き方に興味が湧いたので、スケッチが終わってから、勇気を出してセミナーハウスに入り、彼女を探して「デート」の約束をした。
当日、以前知り合っていた若者を連れて会いに行ったところ、彼女も中年の男性を同伴して来た。この若者は、「ラストサムライ」のエキストラに応募し、3ヶ月のロケの後に旅をしている若者だった。
彼女が「ビールでも飲みながら」と言ったので、一緒に店を探したが、あいにく「市内の店は禁酒の日」と分かった。すると彼女が、「私のアパート!」と提案してくれ、4人で充実した時を過ごすことができた。
オークランド大学のシンボルタワー
スケッチをしていると、少女のような中国の留学生がのぞき込んで来た。
私が「香港には家族とクルージングで3日間滞在したことがあるが、中国本土は訪れたことがない。蘇州、無錫、上海なんかには、ぜひ行ってみたいと思っている」と話したところ、彼女はいきなりバッグから紙を取り出した。
そして、「私の故郷はその近くだから」と言いながら、その紙に住所とメールアドレスを書いてくれた。
私がその紙を受け取ってお礼を述べた後も、彼女は何度も風景とスケッチを見比べて、しばらくは側を離れなかった。
オークランドの高等裁判所
赤いレンガと白い石の組み合わせが美しい建物があったのでスケッチをしていた。
すると、中年の女性が話しかけてきて、「この建物は高等裁判所」と教えてくれた。
その女性はしばらくスケッチを見ていたが、特に会話をすることもなく、やがて姿が見えなくなったので、もう帰ったものと思っていたところ、再び現れて、笑顔でいきなり私の前に両手を差し出した。
その手には、牛乳とパンがあった。
まさに昼時だった。思いがけないプレゼントは格別の味がした。
アートギャラリー
私がスケッチをするのは、当然その建物や風景に魅力を感じるからで、この日も建物の姿に引きつけられ、ただただ熱中してスケッチブックに向かっていた。
ところがしばらくして、いつもと少し違うことが起こっていることに気付いた。
覗き込む人がいつになく多いのだ。「なぜ?」という思いが暫く頭を占めた。
しかし、「この建物は美術館」と教えてくれた人がいて、その謎は一瞬にして解けた。ここに集まってる人々の大半は恐らく美術愛好家。そんな人達が私の絵をのぞき込んでいたわけだ。
絵を描いている私も当然美術好きと判断されたからだろう、「こんな美術品がある」「こんな絵もある」と展示品について色々説明してくれる人までいた。
また一人 大切な仲間が天国へ旅立った(後編)
〜 家野・馬場・細川・居郷先生へ 〜
旭東支部 岸本 幹雄
前回、馬場雅洋さん(2023年12月27日没)、家野淳子さん(2022年8月4日没)への追悼を中心に書きました。今回は、それに先立って亡くなっ2名の仲間、細川公之さん(2013年4月27日没)、居郷毅さん(2019年4月23日没)のことを振り返りつつ、馬場・家野・居郷・細川の4名を改めて追悼したいと思います。
居郷毅さんは、新採用の琴浦高校を皮切りに、倉敷青陵・玉野光南・玉野備南を経て岡山操山通信制で定年退職。その後も2019年まで非常勤講師をされていました。私は、居郷さんと高教組青年部で出会い、彼が青年部長をしていたとき、日高教学習討論集会が北海道小樽市で開催されました。岡山4名の参加枠に、レポート報告なしの私と家野さんが手を挙げると、居郷さんは「岸本さんや家野さんの将来に期待しよう」と言ってくれ、一緒に参加しました。このとき初めて全国の教職員と共に語り、その経験は自分の財産になりました。
その後、居郷さんは腎臓の病気を患いましたが、その病気と向き合い、教員生活の傍ら「劇団ひびき」で長く演劇活動も続けて来られました。定年退職後は、非常勤講師をしながら、岡山高退教の事務局員を務め「会報」編集にも携わってくださり、「劇団ひびき」の活動などとも併せて、精力的に活動していました。
細川さんは、新採用の高梁市立松山高校を皮切りに、県立岡山工業(途中5年間は岡山高教組での組合専従)を経て、岡山南在任中の59歳で死去されました。細川さんとは、「高梁ひまわり学校」で出会い、その後、共に高教組青年部活動に関わり、さらには岡山高生研の地域サークル活動をするようになりました。「高生研二軍」から、夏と春の合宿研やミニ全県例会に積極的に関わるようになり、1987年ごろから、藤原洋平事務局長のもと、細川事務局次長、美甘晃さん、内田康晴さん、馬場雅洋さん、私(岸本幹雄)が事務局員として集まり活動するようになりました。その後、1990年8月の高生研全国大会(倉敷大会)開催に向けて奮闘した日々の記憶は特に鮮明です。当時の岡山工業高校共通科職員室は岡山高生研の事務局会議の会場として月1回、後には毎週集まって準備することとなり、高生研全国大会(倉敷大会)が無事終了しました。
1994年2月28日に岡山高生研の元代表だった八木原藤義さんが肺がんのためご逝去されました。その後を追うように、3月には三木将根さんがご逝去されました。私たちが32才のとき、同世代の谷尚彦さんや國府明さんの相次ぐ訃報に接して、細川さんと共に、若くして亡くなる無念に思いを馳せたものでした。しかし、63才の八木原さんと50才前後の三木さんの訃報に接したとき、どれほど年齢を重ねても、まだまだやり残したこともおありではなかったかと思わずにはいられませんでした。
居郷さんは2019年4月の新学期も非常勤講師として週2日勤務していて、亡くなる1週間前に私は会って普通に話をしていたのに、脳梗塞で急逝されたと家族から聞きました。
細川さんは、大腸がんが判明してからの1年あまりの闘病生活の日々でも、真言宗のお寺巡りをしたり、高野山へも行ったり、月に1〜2回、「珈琲館」などで会って教育談義や岡山高教組の話をしたり、平家物語の取材をしたり、「学びのひろば」に原稿を入れるなど、残された時間を謳歌していました。あたかも「歌舞伎役者」のように大見得を切って舞台から退場した細川さんでした。
思えば、馬場さんと細川さんはがんとの闘いに対峙して自分の生き方を貫いたようであり、家野さんと居郷さんは、余りに突然に、演劇のように人生の舞台の幕引きをされたように感じます。
全国高生研の元代表であった竹内常一さんは、細川さんの追悼集の巻頭言に次の一文(一部抜粋)を寄せてくださいました。
故人のことを思いめぐらすとき、いつも私は「追悼する」とは、「死者の願いと恨みと引き継ぎ、死者を私たちのもとに甦らせる」、つまり「死者と連帯することである」と心に刻みこむことにしている。
それが私たちにできないでいるから、“Yasukuni War Shrine”が繰り返し復活してくるのだ。だとすれば、「死者と連帯する」という新しい「とむらいかた」をつくることもまた、私たちの思想運動のひとつとなる。
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細川さんの死去以降、この「故人と連帯する」という言葉は私の心に刺さったままです。「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじが鬼太郎の肩に乗っているように、自分の両肩に細川さんが乗っかかり、一緒に連帯しているように感じています。私の心の中には、いつも、今でも、細川さんが生きています。
居郷さん、家野さん、そして今回の馬場さんの死去に際しても、改めて「故人と連帯する」ということが脳裏に浮かんでいます。私の肩に、これらの4人の仲間が乗っかっており、「死者の願いと恨みと引き継ぎ、死者を私たちのもとに甦らせる」、つまり「死者と連帯する」という新しい「とむらいかた」を実践していきたいと思っています。また、彼らと共に培ってきた「クラス集団づくり」「学年集団づくり」などの考え方は、教職を退いた後でも、町内会や地域や家庭内などの場でも生かせるのではないかと思っています。
生きることは 一筋がよし 寒椿
―――恩師 鴨川恵美子先生を偲ぶ―――
岡山支部 末石 範子
生きることは 一筋がよし 寒椿
五所平之助(日本最初のトーキー映画監督であり俳人)
鴨川恵美子先生は自宅の壁に飾られたその言葉を座右の銘として生涯を生き抜き、2024年1月22日に人生の幕をおろされた。享年93。
先生は、3校目の勤務校である玉島高校で、国語の教科担任、3年次(3E)の担任としてご指導くださり、私の高校国語教師としての扉を開いてくださったと言っても過言ではない恩師である。
授業では、考え、書き、発言することがしばしば求められた。もちろん国語の特性でもあるが、特にそういう場面が多かった。私たちの発言を拾いながら納得のいく方向性を示してくださる。特に文学作品学習後の感想文のいくつかは必ず手書きプリントとして私たちに返された。思いがけない感想に驚き、新たな視点を与えられて作品への理解が深まったのを実感すると同時に、それが予想外の級友からのものである場合も多く、級友の新たな面を知って何度も感動した覚えがある。
クラス担任としても、あらゆる場面で私たちの発言を求めクラスの合意を作り上げるように十分時間をかけてじっくり付き合ってくださる。思い出深いのは、学園祭恒例の3年生クラス演劇。意気込みばかりが先

行し、意見がまとまらない。しかし、先生は性急に結論を出させようとはしない。私たちは話し合うしかない。演劇部員の舞台監督を中心に皆の納得できる着地点を確認しては前進。当時の選挙戦立候補者への皮肉も織り交ぜながら完成させた舞台は、大爆笑と拍手の中、自分たちでやりおおせたという達成感と充実感、そして大きな自信をもたらしてくれた。さらに級友への信頼は深まりクラスの団結を確信できたのだ。当時の玉島高校について先生は、『私に合った学校』『民主的というか、みんなの意見(教職員・生徒)を取り入れようとする、それだけに忙しく、教員も意見を出し合い、意欲的』と言っておられる。(著書『続・ふたりの完結』)
まじめに自分で考えそれを自分の言葉で語ること、他者の言葉に耳を傾け安易に妥協するのではなく納得いくまで話し合うこと、時間のかかることを面倒くさがらずにやり続けること、そういう過程をとおしてこそ人と繋がっていけるのだということ。先生は、学校生活のあらゆる場面で、私たちを信じて見守ってくださりながら、先生の言葉と行動でそれを教えてくださった。高校教諭38年間、否、生涯を通して「一筋」にその生きかたを貫き通されたのだと思う。先生が残された2冊の著書『ふたりの完結』『続・ふたりの完結』を改めて拝読してその思いを強くしている。
第2回新自然歴史探訪(通算52回)のお誘い
備西支部 西 功
”自然と共に生きた山里と繁栄を偲ぶ宿場町に日本人の原風景を訪ねる旅“
鳥取県智頭宿を中心にした地を再度訪ねる
今回の企画は、2016年に、故中田啓司先生企画のリメイク版です。前回好評でしたので再度企画しました。前回参加された人もぜひ参加していただき、智頭町の魅力を再発見していただきたいと思います。
主な訪問先を簡単に紹介します。
『上板井原集落』
智頭町中心地から北東約3kmに位置する板井原集落は、山に囲まれた小さな集落で、平家落人の隠れ里とも言われ、昭和42年に板井原トンネルが開通するまで徒歩で行き来する「六尺道」だけが唯一の道でした。この六尺道に沿った塀を持たない茅葺の集落を散策したいと思います。この集落には、「藤原家住宅」(当初は茅葺)、築50年を超える古民家群、昭和

初期に建てられた「板井原公民館」、集落を見守る「向山神社」、水車小屋、炭焼き小屋などが現存しています。2004年に「鳥取県伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
散策の後は、2020年オープンした古民家カフェ 和佳(のどか)で食事です。智頭町内産の新鮮な食材を使用した滋味豊かな郷土料理を楽しみたいと思います。室内は大きな囲炉裏があり、心がほっとするような雰囲気が迎えてくれます。
『智頭宿』
参勤交代の道でもあった智頭往来(因幡街道)と、備前街道の合流地点にあり、智頭宿は「智頭往来」の宿場町でした。江戸時代には、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、制札場が置かれていた要所でした。往来に沿うまち並みには宿場町として栄えていた往時を偲ばせる町屋の建物や道標が今も残っています。国指定重要文化財の「石谷家住宅」、「塩屋出店」、「西河克己映画記念館」、「諏訪神社」など、見所も多く散策を楽しむことができます。通り沿いの民家には杉玉が飾られ、“杉のまち”ならではの風情で観光客をお出迎えしています。
石谷家住宅
石谷家住宅は、智頭宿にある「近代和風建築」で、智頭宿で、最も大きな建物の一つです。
この石谷家住宅は、明治後期から大正時代の当主で、貴族院議員を務めた山林地主の石谷伝四郎が改築造営したもので、さまざまな様式が見事に調和した豪壮な邸宅です。主屋、庭園や蔵なども当時のままで保存されており、近代和風建築の代表的な建物です。2009年国の「重要文化財」に指定され、庭園も2008年に「国の登録記念物」として登録され、2010年には鳥取県の指定名勝にも指定されています。
旧塩屋出店
智頭宿にある歴史的建造物の一つで、石谷家の分家として戦前に建てられた建造物で、2000年に国の「登録有形文化財(建造物)」に登録されました。
1階は書院造で、美しい和風庭園に面した座敷は「喫茶・お食事処 海彦山彦」として、見て美しく食べて美味しいそんな人気スポットです。
現在は智頭出身で「伊豆の踊子」や「絶唱」などを監督した『西河克己映画記念館』として公開されています。
洋風消防屯所(智頭消防団本町分団屯所)
1941年に石谷家住宅の真向かいに建てられ、消防屯所として今も現役で使われています。昭和時代初期に建てられた消防屯所建築として非常に貴重で、洋風建築の美しい風貌が歴史的景観に寄与していることから、2000年に国の登録有形文化財に登録されました。
会員の皆さん、初夏の緑風を浴びながら、昭和の農村風景と食事を堪能し、歴史ある宿場町の散策を楽しみませんか。会員皆様の参加をお待ちしております。
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※新型コロナの5類移行により、世の中では、マスク着用が義務ではなくなりましたが、病院やJRなどの交通機関に乗るときなどは、まだマスクは手放せません。私は花粉症もあるので、マスク着用はもうしばらく続きそうです。また、3月になっても自分の家族や近所の方のコロナ感染が続いています。コロナ感染は忘れた頃にやってくる感じなので、マスク着用も必要に応じて続けることだと思いますが、帰宅後の手洗いも続けることかなと思っています。※学校の方は、ほぼコロナ前の状況に戻ってきており、修学旅行や学園祭などの行事は以前と同じように活動できるようになりました。また、私が非常勤講師をしている学校では、忘年会、卒業祝賀会、歓送迎会などの飲み会が昨年12月より再開されたので、久しぶりに(5年ぶりに?)参加して親睦を深めました。※今春の人事異動では、定年延長のために、定年退職の方はいないので、退職は若年退職の方ばかりでした。また、管理職の役職定年という制度もスタートして、管理職だった方が主幹教諭・指導教諭へ転勤という形での人事異動でした。再任用の転勤は新聞には掲載されないので、以前よりも人事異動の動きが分かりにくくなっています。※私は昨年の7月から高退教の会報係になり、173号〜175号までは校正の手伝いのみでしたが、今回176号では初めて編集担当をしています。最近は、文書作成はワードを使うことが多くなっていたので、一太郎での編集作業に悪戦苦闘しています。※各支部の春の交流会は昨年から復活して2年目で今回はすべての支部で交流会が開催されました。※難波先生の健康体操は20年以上続いている行事ですが、前回の会報発送のとき事務局の手違いで案内チラシを同封できず、ご迷惑をおかけしました。※訃報連絡が続いていますが、自分と同年代の方が亡くなるのも辛いものですが、先輩や恩師の方が亡くなられる場合はもっと辛いものです。その方の分も忘れずに、85歳の高退教の長寿を祝う会までは元気に過ごして生きたいと思う今日この頃です。(岸本)
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