目  次

新しい年をむかえて

会  長

藤原 斌


ボイスアクション特集

事務局

山本 和弘

2

書くことで見えるもの

「全退教ツアーin佐賀」に参加して

岡山支部

岡山支部

島田 宏恵

中山 実典



5

古墳の麓からの平和の発信

岡山支部

定広 輝海

6

長寿のお祝い  枝木悠紀さん

岡山支部

難波 欽子

7

長寿をお祝いする会
       井上粛先生、三宅克幸先生 

岡山支部
 

和田 茂
 


 

早めのお祝いありがとうございました

連載  「子ども期」の体験から「子どもに    豊かな子ども時代を」 

岡山支部


旭東支部

三宅 克幸


田中 博





傘寿を過ぎても昆虫少年

備北支部

岡本 忠

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連載 出会いとスケッチの旅 
          モロッコ編(2)

連載 追悼 家野先生・馬場先生

備西支部


旭東支部

水間 正雄


岸本 幹雄

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支部交流集会のご案内

編集後記
 

各 支 部


 



編集部
 

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新しい年をむかえて
会長 藤原 斌
 今年は、元旦から大変な災害が起こりました。津波の警報に、東日本大震災を思い起こしました。2日には羽田空港での飛行機の衝突炎上の報道があり、正月気分が飛んで行ってしまいました。
 道路が寸断され、状況が不明であった能登半島では、日を追って明らかになっていく被害の大きさに胸が痛くなりました。全国からのいろいろな支援も続いています。また、被災された人々がお互いに励まし合い助け合っている姿や、地域の子どもたちが避難所で掲示板を作ったり、食事の手伝いをしている報道を見て、地域社会の在り方を考えさせられたりしました。被災された一人ひとりが早く今までの暮らしを取り戻されるように、また町の一刻も早く復興できるように、私にもできるお手伝いをしたいと思っています。
 近年は、大きな地震による災害だけではなく、集中豪雨による災害が各地で起こっています。真備町をはじめとする県下の水害も記憶に新しいものです。
 どこで何が起こっても不思議ではないと意識して過ごさなければならないと思いました。ただ、地震は人の力で防ぐことのできない天災ですが、異常気象は温暖化という人間の営みがもたらしていると言われています。ロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルのガザ地区への攻撃は、人が人を殺すという、まさに愚かな人災です。日本の政府は、憲法を改悪し、軍事費を増やし、兵器の開発を進め、武器を輸出しようとしています。最大の人災とも言える戦争に道を開くようなことをさせてはなりません。
 地震の被害の中で懸命に生きている人々の姿を思い、ガザやウクライナの人々のことを思いながら、このようなことを考えてきた新年でした。
 会員の皆様はどんなお正月だったでしょうか。コロナ禍もほぼ収まり、対面での行事も可能になってきました。各支部の交流会、自然歴史探訪、作品展などで皆さんと顔を合わせた行事を行うことにしています。ぜひふるってご参加ください。一方で平和、教育、暮らしなどの課題にも、高退教としてできることに取り組んでいきたいと思っています。ご協力をよろしくお願いします。
「教え子を再び戦場に送るな!」「憲法を守り戦争しないさせない」
「全国退職教職員ボイスアクション」とりくみすすむ
事務局 山本 和弘
全退教が提起する「全国退職教職員ボイスアクション」のとりくみについて、会報前号(第174号)で呼びかけましたところ、さっそく会員内外から、はがき、絵手紙、封書、メールなど多彩な形で、沢山の「ボイス(声)」を寄せていただき、感銘深く読ませていただいております。寄せられた「ボイス(声)」は、随時「高退教オフィシャルブログ」及び「高退教ホームページ」上でご紹介していますので、どうぞご覧いただき、お知り合いの方々にも広く「拡散」してくださいますようお願いします。
「高退教オフィシャルブログ」のアドレスはこちら。
 https://okayamakoutaikyou.blog.fc2.com/
 
そして、「高退教HP」のアドレスはこちらです。
https://www.urban.ne.jp/home/okakokyo/kotaikyo/index.html
右のQRコードからアクセスしていただくと便利です。
 
お寄せいただいたハガキ等の実物は、12月末の段階で、第1次分として東京・全退教育本部宛に送りました。その全容は、全退教ホームページの下記記事に紹介されています。
https://zentaikyou.sakura.ne.jp/
全国から届けられた「ボイス(声)」は、とりまとめて首相宛提出行動が取り組まれる予定です。  
 
11月2日 幹事会のあと JR西川原駅前で、スタンディグアピール
岡山高退教は、「ボイスアクション」行動の一環として、11月2日(木)の幹事会終了後、参加された幹事さんを中心に、会場近くのJR西川原駅前でスタンディグアピールを行いました。
手に手に掲げたのは、全退教作成のタペストリーと、急ごしらえの手持ちポスター各種。このタペストリーは、地域での宣伝グッズとしてご利用いただけるように、各支部に分配してあるものを、この日の行動のために持ち寄っていただきました。
西川原駅は、就実大学の最寄り駅で、多くの学生さんが通りかかり、興味深げにしばし立ち止まって注目する姿もありました。中には率直に「僕も戦争には行きたくない」と語る学生さんもありました。
 なお、この全退教タペストリーは、地域の「九条の会」や平和のとりくみなどに参加される際に各地で活用され、注目を浴びたと報告が寄せられています。一層の活用が期待されます。
この「ボイスアクション」のとりくみは、まだ継続して進められていますので、投稿のタイミングを失ったとか、書いたけれど投函しそびれたなどと感じていらっしゃる方がありましたら、これからでも遅くはありません。是非、当初の返信ハガキ以外でも、官製はがき、封書など多様な形態でお届けください。最寄りの高退教役員への手渡し、岡山高教組(okakokyo@oka.urban.ne.jp)宛Eメールなどなども大歓迎です。さらに、会員外の退職教職員の皆様にも呼びかけていただけたら幸甚です。
 
書くことで見えるもの
                        岡山支部  島田 宏恵
 10月1日、岡山県母親大会が建部町で開かれました。コロナ禍でのオンライン開催を経て4年ぶりの現地開催です。午前中の9分科会、午後の全体会に400名が参加しました。作家・あさのあつこさんの記念講演「私たちの今と物語について語りましょう」を中心に感想を述べます。
 あさのさんは美作市の生まれ。10代のころは、姉弟に比べ何の取り柄もない自分に自信が持てなく、鬱々とした日々を過ごしたそうです。中学時代に出会った海外ミステリー(ホームズやクリスティーなど)に感銘を受け、「自分のまわりにはこんなに広い世界がある」「自分も書く人になりたい」と初めて夢が見えました。
 青山学院大学に進学、児童文学サークルに所属し充実した4年間でしたが、就職が思うようにいかず帰郷。岡山市の小学校で臨時教員を務め、その後故郷で結婚、3人の子育てや家事に多忙な日々を過ごしました。心の中には「物を書きたい」という思いがずっとありましたが、忙しさに逃げていた気がするとも。第2の転機は藤沢周平の『橋ものがたり』に出会ったこと。 そこに描かれているのは侍や豪商などではなくふつうの庶民、まさに「私」が書いてあると魅了されました。本気で「書きたい」との思いが募ったのです。こうしてデビュー作『土曜日のほたる』が誕生。物を書く人になりたいと思ってから20年以上が経っていました。そして代表作『バッテリー』を始め、次々に幅広いジャンルの作品を書き続けてきました。『バッテリー』は、閉塞感を抱いていた10代をもう一度生き直したいとの思いで書いたそうです。
 「書くことで自分が見えてくる、自分と向き合うことができる、戦争・差別・貧困など、じりじり押し寄せる暗い時代にそれでも希望があるとしたら何なのか、生きていくに値する時代にするには何が必要なのか、書くことで考えていきたい」と締めくくりました。コロナ禍で心も体も萎え、惰性に流される日々に活を入れたく、何よりあさのさんからどんな話が聞けるのか楽しみに参加しました。庶民的で飾らない人柄、わかりやすい話、そして自分という根っこをきちんと持っているあさのさんに元気と希望をもらいました。
 
 
「全退教ツアーin佐賀」に参加して
岡山支部 中山実典
昨年11月7日〜9日に行われたツアーに参加の概略と感想です。
1日目
新幹線で新鳥栖駅に集合する者、佐賀空港に集合する者、それぞれバスで移動して、「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」を見学しました。佐野常民は佐賀の地に誕生し医学や蘭学修行の後に、博愛主義日本赤十字社の初代社長に就任し赤十字の普及に尽力した人です。三重津海軍所跡は幕末、長崎の警備の任についていた佐賀藩が藩船を管理していた場所で洋式海軍の拠点として創設したもので潮の干満を利用して、船の修理等を行うドライドック木組遺構も見られるなど2015年に世界遺産に登録されました。
「お勉強」の後は嬉野温泉、老舗旅館の「大正屋」へ。16:00〜17:00「ミニ講演と歌声」がありました。ミニ講演では、佐賀空港へのオスプレイ配備に反対し、「駐屯地建設工事差し止め訴訟を応援してください」という地権者・原告、古賀初次さんの訴えがありました。
ゆっくりお風呂の後、18:30から「歓迎の集い、夕食交流」があり、盛り付けから器に至るまで“佐賀の幸”を目と舌で堪能しました。
2日目         
@鹿島コース・・・ラムサール条約登録湿地有明海干拓地見学と日本3大稲荷の1つ祐徳稲荷神社参拝
A唐津コース・・名護屋城博物館見学と城跡散策
いずれかを選択しての見学旅。私はAコースに参加しました。
 名護屋城は、秀吉が文禄・慶長の役の際に国内拠点として築いた城で、わずか5ヶ月で築城され、当時の大阪城に次ぐ規模を誇ったと資料にあります。周辺には全国から参集した大名の陣屋が150以上も建てられ、人口20万人を超える城下町が出現しました。バスで15分ほど移動後、唐津市呼子で名物イカの活きづくりに舌鼓。
 休憩後、バスで@Aとも有田の街へ。
九州陶磁文化館、源右衛門窯、陶山神社などガイド案内で有田の歴史と陶芸文化の歴史を体感しました。
そして「大正屋」に戻り、ゆっくりお風呂。
18:15から「夕食交流(後半)」。
3日目
吉野ケ里遺跡見学。若い時の職員旅行以来、何十年ぶりかの見学。最近も、新しい遺跡が見つかったとかで、作業中の発掘現場を見せてもらいました。
12:50 新鳥栖駅 到着解散。15:00 佐賀空港 到着解散。で、北は青森県から南は長崎まで、何故か九州南部の参加は無いようでしたが、82名(部屋割り表によれば)は帰途につきました。余談ですが、私は全退教ツアー参加が4回目でした。ツアーは単なる「物見遊山」ではなく、各「退教」が知恵を絞って見学コースを選んでいる点が魅力です。「大本営地下壕見学」などが日程にあった松本集合のツアーでは、解散後、国宝五城の松本城、犬山城にも足を延ばして楽しみました。全退教ツアー、次年度は東京開催のようです。東京もよいでしょうが、地方での開催にも足を運ばれてはいかがでしょうか。お薦めします。
 
 
墳の麓からの平和の発信
岡山支部 定広 輝海
 はじめに、1・1能登半島地震により亡くなられた方々に深い哀悼の意を捧げるとともに 被災地の1日も早い復興を願っています。
 さて、一昨年のロシアによるウクライナ侵攻で多くの人々が亡くなっていくことに心を痛め、何か自分にできることがないかと考えて、我が家の畑に平和の「和」の字を菜の花で書いてみようと思い立ちました。例年は菜の花の種を縦に5列ぐらい播いている畑ですが(食材として出荷している)鍬で下書きをして種をまくと 1月下旬には写真@のように「和の字が見事に(?)浮かび上がってきました。ご存知の方も多いと思いますが、造山古墳は近年発掘調査が進み、整備も行われ( 古墳群の中の千足装飾古墳復元が山陽新聞の一面に掲載された)登ることのできる日本最大の古墳として多くの歴史ファンや学生たちが足を運ぶ 状況になってきました。この畑は古墳の南側の登り口の近くにあります。ここで農作業をしていると、出会ったほとんどの方々から声をかけられ「平和の和ですね」とか「令和の和ですね」とか、「私の名前は和子です」とか、様々ですが ここぞとばかり(?)なぜこんなことをしたのかを話します。もちろん古墳の説明もします。時に外国の人々にも、英語で話をします。
この試みは楽しく意義あるものと思いましたが、後の処理が1人では大変で1年で終わりにしようかとも考えましたが、ハマスとイスラエルの悲惨な戦争も勃発し止められなくなりました。写真Aが現在の畑の様子です。地震などの天災はなくすことは困難だと思いますが、戦争や原発事故など人災はなくすることができると信じ、平和な世の中をつくり出すために今後も行動していけたらと思っています。高退教の会報で会員の方々の近況などを読むのを楽しみにしています。
 
 
長寿のお祝い 枝木悠紀さん
岡山支部 難波 欽子
 男性お二人へのお祝いの会が計画されていますが、参加されないとおっしゃる方にお届けしました。その報告です。
 芳賀佐山のステキなお家に静かにお暮らしの枝木悠紀さんのお宅へアポなしでお邪魔して、会長のお祝いメッセージと図書券をお渡ししました。
 「ありがとうございます!何かよい本を求めさせてもらいます。」
長い間、真向法体操の会員でいらしゃり、係をして頂いたリ、優しく公民館での体操教室を見守ってもらっていました。お互いに骨や筋肉の衰えについて分かり合えて、ついつい、おしゃべりが盛り上がりました。相変わらず、穏やかで美しい女性で、いらっしゃいました!
 
長寿をお祝いする会
井上粛先生、三宅克幸先生
     2023年11月15日(水)10:00〜11:30
岡山支部 和田 茂
 高退教岡山支部では、11月15日、井上粛(きよし)先生、三宅克幸先生の長寿をお祝いする会を開きました。小川支部長ほか役員3名が出席しました。小川支部長がお祝いの言葉を述べ、記念品をお渡ししました。その後お二人の先生から近況などお話しいただきましたが、話は生い立ちやその後の教師生活にまで広がり、興味深いお話を伺いました。
 井上粛先生は、朝鮮半島で誕生、昭和20年帰国し、日本の小学校・中学校卒業後はすぐに就職。いくつかの仕事を経験し、その後一念発起して高校へ、そしてさらに大学教育学部へ進学、中学校の教師となり、その後養護学校高等部の教師として過ごされました。中学校卒業後から大学まで自分で稼ぎながら学校生活を送られたとのことでした。これまでずっと働きつづけることができたこと、2人の子どもたちが元気にやっていることを幸せに感じている、とのお話でした。
 三宅克幸先生は、10人の兄弟姉妹の末っ子として誕生、小2で父が脳梗塞で倒れ、国から借りた河川敷の畑を耕す母をよく手伝った。戦時中矢掛大通りをグラマンが飛び、今でも時に天井のふしがグラマンに見える、岡山の空襲は矢掛から見えた、高校は途中転学、食卓しかない家で、勉強机は自分でつくった、大学に行きたかったが、経済的には苦しく、大阪で事業を営む兄に助けてもらって進学し、高校教師となったとのお話でした。退職後は地域の9条の会のとりくみを続けておられます。戦中戦後のご家族の様子や戦争の記憶にまつわるお話は興味深いものでした。
 戦中や戦後間もない時期に青年期を過ごされた方々が、恵まれた環境で勉学できなかったというのは決して珍しいことではないかもしれませんが、そうした体験がその後の教師人生に大きな影響を与えたと実感せざるを得ないお話でした。貴重なお話、ありがとうございました。
 
 
早めのお祝いありがとうございました
岡山支部 三宅 克幸
 2023年11月15日、85歳の長寿を祝う会に招待され、軽食と図書カードをいただきありがとうございました。
 私の誕生日は半年後の5月22日ですので、早めのお祝いありがとうございました。
 私の生まれは、岡山市の西約30qの矢掛本陣の西端。1945年6月29日の岡山大空襲の時は、父母、次女、六男と私と5人で生活していました。その日の早朝、母親に、防空頭巾をかぶって外へ出なさいと言われて出てみると、グラマンが飛んでいる音をうすぐらい空の中で聞き、体がふるえる体験をしました。と同時に東の面には花火のようなものが次々と落ちる光景を目に焼きつけました。これが戦争なんだと。生まれてはじめての体験でした。花火の下では多くの人々が傷つき、力尽きてしまう人々の姿を想像して体がふるえました。
 今日でも岡山の自宅の上空をジェット機が飛んでいる音を聞くと、トラウマのように上空を見上げ、どこへ行くのかとたしかめることがあります。半田山の東の宿に自衛隊三軒屋弾薬庫があり、「核」兵器の貯蔵もされているのを知っている住民としては、安心して生活できません。「憲法9条を守れ」「戦争反対」の声を世界の人々に聞かせたい思いで一杯です。
 憲法9条を守る岡山市北部共同センターの活動は、2016年5月9日で開店休業中です。今後ともよろしく!105回目までは延べ52人の参加1423筆でした。ありがとうございました。
 
 
「子ども期」の体験から「子どもに豊かな子ども時代を」     旭東支部 田中 博
1,「子ども期」の引揚体験
〇母の一言が運命の分かれ道
 1945年8月12日、3歳8ヵ月の私は、1歳の弟を背負った母と新京(旧満州国の首都で現在は中国吉林省長春)駅にいました。父の勤務先であった関東軍司令部庶務課の家族(女性・子ども)約20人と共に朝鮮経由で日本に帰るためです。父を含め、男性たちは再召集され、ソ・満国境などで兵役についていました。ソ連軍がソ・満国境を越えて侵攻し、関東軍や行政機関の幹部たちは飛行機などで早々と本土(日本)へ逃げ帰りました。そして、取り残された満蒙開拓団の人々や多くの日本人の本土への逃避行が始まったのです。「ご主人のいる梅花口に行かれますか」軍関係者の問いに母は「皆さんと一緒に日本へ」と帰国組に加わったのでした。この時、父のところへ行っていたら、私は死んでいたか、残留孤児となっていたでしょう。母の一言が運命の分かれ道でした。
〇平壌で1年間の足止め
 新京駅を無蓋車(屋根がなく馬や牛を運ぶ貨車)に乗って南下しました。8月14日、一昼夜かかって平壌につきました。町は引揚者であふれていました。やっとの思いで平壌までたどり着いた人々は学校や教会、日本人の家庭を避難所としていました。母と私・弟は教会に身を寄せました。ソ連兵による日本女性に乱暴をする事件が起きていましたが、子どものいる女性には手を出しませんでした。教会へもやってきましたが私は従軍看護婦だった方の傍に座り、母は弟を抱いていました。(平壌に着くまでのことは母の記憶によりました)
〇叱るは同じ目の高さで、1回だけ、他言は決してしない。
 私の最初の記憶は友達と2人で「道路を走り、両脇の家並が後ろに飛んで行く」風景です。手には朝鮮人が営むパン屋からくすねてきたパンがしっかり握られていました。パン屋の主人は教会に抗議に来ましたが、母は行商に出ていて不在でした。(新京から持ち出したものを売るだけでは生活ができず母は行商を始めたのです。)
 応対してくれたのは夜には一緒にいる従軍看護婦でした。パン屋の主人が帰った後、教会の階段に2人で立たされ、同じ目の高さで叱責されました。私は年上だったのでそのことでも叱られました。そして「お母さんには黙っておきますよ」と。この体験から、高校教師となって、生徒を叱るときは「同じ目の高さで、1回だけ、他言は決してしない。」を守ってきました。
〇5歳以下の子どもはほとんど亡くなる
 1年後の1946年8月、私たちは38度線を越えて、仁川にある米軍キャンプに向けて出発しました。次の記憶は、母の背中を見ながら夜道を歩いている自分の姿です。「お父さんは?」の問いに母は遠くの山際の明りを指して、「あそこまで行けばお父さんがいるから」と答えました。大人に肩車をしてもらい、夜霧が立ち込める河を渡り、「右に大きな石」「左に溝」と声を掛け合い、、夜道を歩きました。子どもの足では、集団から遅れてしまい、やっと追いつくと休憩していた人たちは歩き始め、それを追いかけました。実際には7日間の行程でしたが、私は数か月歩き続けたように記憶しています。道案内は地元の方(朝鮮人)で、とても親切だったと母は回想していました。
〇物心つく時期の1年を朝鮮半島で過ごす
 米軍キャンプに1週間程度滞在の後、貨車で釜山に移動しました。釜山港に停泊している米軍艦の主砲が左右上下に動いていました。私たちを乗せた船は朝鮮海峡を渡り博多湾に入港しました。引揚者を乗せた貨物船は疫病検査のため数日間湾内に停泊を余儀なくされ、私たちも直ぐには上陸できませんでした。うす暗い船内から見上げると小さい正方形の青い空が船の甲板に出る長い梯子の先に輝いていました。10日余りののち、下船しました。子どもは大人によって抱かれてリレーされ、地上に降りたとたんに頭から白い粉をバサッとかけられました。この粉は後にDDTだとわかりました。
 岡山駅に着いたのは9月中旬の夜中の2時、平壌を出てから1ヶ月、新京からは1年が経っていました。夜が明けて、駅前に出ると、ぼんやりと遠くに焼けた大きな建物が見えました。これは後に天満屋百貨店だとわかりました。私は3〜4歳、ちょうど物心つく時期の1年を朝鮮半島で過ごしたことになります。(つづく)
 
傘寿を過ぎても昆虫少年
備北支部 岡本 忠
倉敷昆虫館勤務のきっかけ
 高齢者への仲間入りをした翌年の2004年になって間もなく、高校、大学での同級生だったH君から数年ぶりに電話がありました。それは、「倉敷のしげい病院内にある倉敷昆虫館がボランティアを探しているので一緒にどうか」というものでした。当時は定年退職後に講師、非常勤講師として数校に勤務したのち、かつて11年間勤務したことのある成羽高校の非常勤講師として勤務中であり、週2日勤務であったため倉敷昆虫館のボランティアを引き受けることにしました。
 昆虫館では展示標本や保管標本の整理や標本箱の改修等の作業をすることになり、毎週火曜日1日を昆虫標本と過ごすことになりました。作業しながら中学生の頃、自宅裏山などでの昆虫採集や当時、稲の害虫退治のための誘蛾灯での虫探しなどをしたこと、大学生になってからは倉敷昆虫同好会に一緒に入会したS君とともに大学北部の半田山や金山、鳥取県の大山などへの採集活動をしたことなどが蘇ってきました。その頃の最も印象に残っているのが、自宅近くの山で偶然採集したカミキリムシのことです。このカミキリムシは専門家により北米産の移入種であるとされ、港から離れた内陸部での発見は珍しいことなので多くの新聞に載ったり、吉備郡昭和町史にも掲載されたほどです。しかし、数年後県南のあちこちでこのカミキリムシが採集されるようになり、前記専門家によって新種ケブカマルクビカミキリ(Atimia okayamensis) として発表されました。私の標本が日本で初めての記録標本ということになり、また学名に岡山の名が使われました。
 大学卒業後は兵庫県に2年間勤めましたので、まったく昆虫のことには触れずじまいでしたが、県内の中学校に転勤し自宅に帰ることになったので、時々山に足を運ぶようになりました。その後の約40年間昆虫から離れていましたが、ボランティアをやり始めたのを機に倉敷同好会に再度入会することになりました。そして、翌年からは倉敷昆虫館にパート職員として勤務することになり、この年で高校への勤務を終えることになりました。
昆虫から離れていた40年間
 4年間の中学校勤務の後、県北の新見高校へ赴任しました。当初は教科指導や生活指導に専念することになり、また、高教組や科協教、高生研といった民間教育サークル活動に身を置くことにもなり、趣味の昆虫採集どころではありませんでした。しかし、そのような状況のなかでも余裕ができ始めたころ、再び自然を探求する意欲が沸き上がり、地学担当のS教諭にも教えを請いながら、洞くつ研究の一端を担うことになりました。新見市の阿哲カルスト台地には大小100個ほどの鍾乳洞があり、他県からも大学生などが頻繁に探検、調査に来る状況でしたので、地の利を生かした研究でした。
 私は生物クラブ顧問として生徒とともに洞くつ内の環境や生息動物の調査をするとともに、岡山洞くつ研究会の一員として、岡山大学ケービングクラブの学生らとともに、休日には暗黒の世界の生物調査に取り組んだものでした。個人的には研究会の活動とは別に同僚にもらった中古カブを駆使して北は勝山町(現真庭市)の神代鬼の穴、南は芳井町(現井原市)の蛇の穴、西は広島県東城町(現庄原市)の鬼の岩屋、東は北房町(現真庭市)の小さな洞くつへと、主に植物の繁茂していない冬期を中心に洞くつ性動物の調査に取り組みました。その中で、トビムシの仲間の一種が京都大学Y教授により新種として記載され、学名にAnurida okamotoiと発見者の名がつけられたことが活動の励みにもなりました。これらの調査結果は『阿哲台の鍾乳洞』(1971年刊 新見市教委委員会発行)で報告されています。また、韓国の洞くつ研究会との合同調査も懐かしい思い出です。
 後になって妻に「自分の子どもの世話をほとんどしてもらえなかった」と愚痴られる始末で、反省はしているものの、我が息子のイクメンぶりと比較されるのがつらいこの頃です。
 また、新見高校から成羽高校に転勤してからは、教育課程改定により、必修の理科Tで理科全般を扱うことになったため、地学の知識を得るため川上地方(学区)の地質や化石の調査に力を入れ、生徒に岩石を採集させて、学区内の岩石標本を作製したりもしました。
 ちょうどその頃、奈良大学のコウモリの寄生虫を研究されていたS教授からの依頼で県内のコウモリが生息する洞窟の案内を引き受けることになり、コウモリが冬眠中の冬季には主に阿哲台の鍾乳洞を案内し教授がコウモリを採集し、寄生虫を取り出す作業に立ち会うことになりました。その結果、いくらかサナダムシの新種も発見され、阿哲、羅生門、岡本などが学名に使われることになりました。これで私の名前が付いた動物が2種になりました。
倉敷昆虫同好会へ再入会して取り組んだこと
 同好会に入会したからには何か目的を持って活動しなければと、高齢者になってどんなことが出来るか考えた末、自宅周辺(総社市昭和地区=旧吉備郡昭和町=出身中学の学区)に生息する昆虫、特に甲虫の生息状況を調査することに決め、いろいろな方法での調査を行っていますが、年々活動量は減っていますがなんとか現在まで続けています。
 その間、同好会機関紙『すずむし』147号(2010年)へ「総社市北西部(昭和地区)の甲虫相」として4年間の調査結果を報告しました。掲載種は968種(後に訂正し962種)であり、当時県内での甲虫の記録種数は3,423種(2009年)であり、県内記録種の約35%に相当します。昨年度の機関紙158号では「総社市北西部(昭和地区)の甲虫(XII)」を報告しましたが、累計1,715種になり、県内の甲虫記録種3,869種(2020年)の約44%に当たります。岡山県内初記録も60種に及び岡山県の甲虫相解明に一役買っていると自負しています。
 2021年には、この調査で得られた甲虫標本1600種7000点を倉敷昆虫館に寄贈しました。
倉敷昆虫館勤務の19年
 まず、倉敷昆虫館についての紹介をしておきます。1962年重井病院(現しげい病院)を創設され、医院長(兼医療法人創和会理事長)であった故重井博氏が病院建設の際、屋上の一角に温室を備えた昆虫博物館を倉敷昆虫同好会の協力を得て開設しました。故重井博氏は1951年同好の人々(学生が中心)とともに倉敷昆虫同好会を設立し、1996年に逝去されるまで顧問とし物心両面で同好会を支えてくださった方です。
 倉敷昆虫館は倉敷昆虫同好会の会員が管理、運営、研究に携わる形式のユニークな昆虫館としてスタートしました。同好会のメンバーが調査活動において採集した標本の保管場所として、同好会員の活動の拠点としての昆虫館でしたが、一般の方にも標本を見てもらうという目的もありました。公開は土曜日の午後のみとし、来館者への対応は同好会員が交替で当たりました。私は昆虫館設立の時は兵庫県での勤務でしたので、全く関わっていませんでした。
 この昆虫館にも転機が訪れます。それは倉敷市役所が新しい場所に移転することになり、その旧庁舎の1つの建物(水道局)の再利用に際し、故重井博氏は博物館建設の運動を同好会とともに展開し、1983年倉敷自然史博物館が開館しました。植物、動物、地学分野のほか昆虫分野も含めた中四国地方唯一の本格的な自然科学系博物館で、博物館開設に際しては倉敷昆虫館から多数の昆虫標本が寄贈されました。
 博物館開設により、倉敷昆虫館の使命は終わったかに思われましたが、重井理事長は倉敷昆虫館を残すことを決断、常勤の職員を雇用し、その職員が再開の準備に取り掛かり、1991年の再開館にこぎつき、日曜を除いて開館することになりました。そして、1975年病院の改築に伴い昆虫館は8階に移転しました。さらに、2013年病院の改築により昆虫館も1階に再び移転しました。
 私は2005年から常勤職員(重井博氏逝去後は館長)の傍らで、所蔵標本の整理及びデータベース化の作業を中心に従事してきました。倉敷昆虫館は1日1人勤務の日勤です。入館者への対応もありますが、入館者数は1日平均10人程度と少なく、研究室での標本に付してあるラベルの読み取りとPCへの入力作業が主にやっておりました。2012年に館長が退職されたため、私が館長を引き継ぐことになりました。館長になって最初の仕事が、新昆虫館が出来るまでの休館中にやらなければならない仕事でした。展示標本棚の配置など展示室、研究室内部の設計、再開記念特別展の準備でした。
 再開館記念特別展は「自然・昆虫を愛した重井博」とし重井博氏の多数の標本展示や生前の活動及び業績のパネルでの紹介などで展示期間は1年でした。再館後は日勤のパートタイマーとして私を含めて人の職員による勤務となり、その後2015年からは4人体制となりました。私の勤務日は木曜日と土曜日の2日で、この体制は現在まで続いています。私も当館での勤務が19年目になりましたが、あっという間のような気がします。
 再館後最初に取り組んだのが、倉敷市立自然史博物館で毎年開催される「博物館まつり」への出展でした。また、倉敷昆虫館と共に医療法人創和会の運営する重井薬用植物園との共催で毎年行う3つの行事があり、多数の家族づれの参加で賑わいます。私は講師とは名ばかりで、子どもたちと一緒に虫を探したり追っかけたりで、童心に返っています。
 また、倉敷昆虫館は倉敷昆虫同好会の事務局として、同好会の活動拠点としても、昆虫に関する各種文献の集積、閲覧の場所ともなっています。また、昆虫館職員は全て同好会員で事務局員としても活動しており、このように恵まれた同好会はほかには無いと思われます
 昨年になって『倉敷写真文庫』の発行元である書肆亥工房から『倉敷写真文庫』第2号として倉敷昆虫館を取り上げたいとの要請があり、経営主体の創和会とも相談し原稿の執筆を引き受けることにしました。そして9月1日に『なぜ病院の中に昆虫館があるの?倉敷昆虫館』が発刊されましたので、昆虫に関心のある方にご紹介下さい。
 
連載 出会いとスケッチの旅  モロッコ編(2)
備西支部 水間 正雄
エッサヴィラ
 大西洋岸の町エッサヴィラでは、3000円ほどのホテルの屋上テラスにある小屋に、1000円ほどの特別料金で泊った。何もない小屋だったが、広いテラスが独占状態で、たまに上がってくる客とも会話を楽しんだり、ビール片手に大西洋に沈む夕日を眺めたりした。
 海岸に木造の造船所があった。昔、私の街にも造船所はあって、飽きずに眺めた幼い頃を思い出した。作業員は木と木の隙間に布切れを打ち込み、詰めた溝にタールか何かを塗り込んでいた。水漏れを防ぐのだろう。
この造船所の海側には、オープン席の魚料理屋が並んでいた。それぞれの店では、俎板と包丁でさばいていたが、水を全く使っていない。アラは、海側に放り投げるとカモメが空中キャッチするのだ。
捌かれた魚に残ったアラは、網で焼くと焦げて消える。ビール付で1000円ほどだったので、夕食はここで過ごした。
サフィ
 大西洋岸をバスで北上し、サフィではベッドだけの安ホテルに300円ほどで滞在した。スケッチをしていると、しばらく見ていた初老の男性が、「家に来ないか…」と誘ってくれた。このような誘いには危険がつきものだが、「途中で考えが変われば引き返す…」と考えて付いて行った。
前日にスケッチした焼き物の集落の中に彼の家はあり、そこへ招き入れてくれた。壁にはブルーの模様のタイルが貼られていて、いかにもアラブ人の家庭の雰囲気に満ちており大きな壺なども並べられていた。「銀行員だったが、60歳の定年より前に退職している」と紹介された。悠々自適の人生を送っているのだろう。夕食になり大皿に広げられた手料理を、ご夫妻・息子さん・2人の娘さん達と6人で一緒に手で食べる初めての体験をした。
高校時代「ケセラセラ」の歌で有名になったドリス・デイの映画、「知りすぎた男」のワンシーンにあった「左手はトイレで紙を使わずに直接…」なので、不浄の左手は使わないで「右手で食べる…」は知っていたのだが…「手を伸ばして遠くのものは取らない。自分の近くのものを指で丸めて食べる…」がマナーと教えてもらって食べ始めた。「舌による味覚だけでなく指による触覚も楽しみ…」も知ることができた。
アルコール抜きだったが、楽しい時を過ごし、すぐ近くの安宿には帰らず、壁面に作り付けの長椅子に寝かせてもらった。翌朝コンタクトレンズを洗面台で流してしまい、息子さんにパイプまで外して探してもらったが見つからなかった。
カサブランカ
モロッコを発つ前日、カサブランカのユースホステルに泊まり、チュニジアの日本大使館員の青年や日本の旅人と同宿となった。チュニジアは「都市は政府が把握しているが、都市間のルートは安全ではなくゲリラに襲撃されやすい…」などと教えてくれた。
旅人の日本人青年が 「コーランを土産に買った」と見せてくれた時、話に加わっていたアラブの青年が「コーランを扱うときには手を洗い、白い手袋をするように…」と諭された。アメリカの軍人がコーランをトイレに投げ捨てたことで起きた事件の報道と、フランス文化の「エスプリ」で聖職者を侮辱するイラストによるトラブルも思い出した。
モロッコからアラブ首長国連邦のドバイへ
 カサブランカを発ったUAE機は高度を上げていたので地中海を眼下に、イタリア半島の背骨のアペニン山脈を越えてアドリア海まで見渡せた。ドバイは、同緯度の沖縄の最南端の波照間よりずっと暑いが乾燥していて過ごしやすい。
 ユースホステルへの道を聞いたイケメンインド青年は、スーツにネクタイの正装というビジネスマン、説明も的確だった。彼とは後日、バスの中でも再会し、置き忘れた私のバックの探し方を教わった。
ユースホステルでは女性のプロテニスプレイヤーに会い、世界を転戦する生活の一端を聞くことができた。私もテニスをしていたので会話も有意義だった。
アラブの若者たちとは「一夫多妻」について話し合った。「1人の男が複数の妻を持つとしたら、ほぼ男女同数で生まれる子供の数から考えると、妻を持てない男性が生じてしまうのでは… ?」には明確な答えは聞けなかったが、会話は面白く、みんなで盛り上がった。「多分男は兵士として戦いで死亡するので…」が答えで、「マホメット教が誕生した当時としては合理的だった」と解釈することにした。織田信長も夫が戦死した女性を好んだようだし、そのために夫を戦場へ駆り出したのかも…」とも邪推もした。
ドバイの港で、日本では珍しくなっている木造貨物船をスケッチしていると、デッキの手すりに腰掛けてビールを飲んでいた船員が「上がって来い」と手招きしてくれた。乗せてもらうと缶ビールを渡してくれたので、私はスケッチを見せて旅の話をした。同じ岸壁にはトヨタの車が停めてあり、その先に三菱もあったので並べて合成写真のようにスケッチした。
タイヤの空気を抜いて、設置面積を増したジープで砂丘を駆け回るスラロームを楽しむツアーに参加した。ドライバーとの話も弾んでいたので、「免許も持っているし私にも運転させてくれ」と頼んだが断られた。
私も、「そりゃそうだ。他に乗客がいるのだから…」と納得した。そんな会話をしながらのスリル満点なジーピングの後は、野外バーベキューとベリーダンスが企画されていた。肩と腰にわずかの布を巻きつけ、月夜の明かりと焚き火に照らし出されて、優雅にまた激しく腰をくねらせて舞う…まさにエロチシズム満開。王侯貴族を魅了させた宮殿の光景を想像した後で、備中玉島まつりの臍踊りを思い出した。
 
また一人 大切な仲間が天国へ旅立った(前編)
旭東支部 岸本 幹雄
残念なことに、また一人、私の大切な仲間の馬場雅洋さんが、昨年末の2023年12月27日に亡くなりました。その1年5ヶ月前の2022年8月4日には、家野淳子さんが急逝されています。今回はこのお二人のことを振り返って、追悼したいと思います。
馬場さんは、新採用の瀬戸南高校を皮切りに、備前東、倉敷南、岡山城東で定年退職した後も再任用・非常勤講師をされていました。馬場さんとは高教組青年部で知り合い、その後、岡山高生研(全国高校生活指導研究協議会岡山県支部)旭東サークルでも一緒に学習するようになりました。また、馬場さんが備前東高校に転勤して来たときには、同じ進路指導課や学年団でのいろいろな場面で助けてもらいました。また、若いときから演劇部顧問であり、岡山県高演協の事務局長としても活躍していました。
家野さんは、新採用の新見北高校を皮切りに、総社南、岡山市立後楽館、岡山操山通信制で定年退職した後も非常勤講師をされていました。高校時代の同級生でもありましたが、岡山高生研新見サークルでの活躍、高生研活動でともに学習してきました。高校・大学時代から演劇部でしたが、教員になってからは演劇部顧問として岡山県高演協で中心的な役割を担っていただけでなく、文化祭での教員劇や総社の市民演劇での演出など幅広く活躍されました。
馬場さんは、5年前に腰痛になり、その原因を調べていくうちに、腎臓がんとその転移した骨のがんと診断され、様々な治療をしながら昨年の3月までは非常勤講師として教壇に立っていました。同僚の教員や生徒にも自分の病気のことを公表して日々病気と闘っていました。この間、毎年私の栽培したブドウを持って自宅にお邪魔して、いろいろと話をして、病気に対峙している彼の強い生き方に感銘を受けてきました。
家野さんは、定年退職後も複数の公立私立の高校で2022年度も非常勤講師をしていましたが、病気(リンパ腫)のために急逝されました。あまりにも突然の幕引きでした。
家野さん、馬場さんより前に、細川公之さん(2013年4月27日没)、居郷毅さん (2019年4月23日没)と、大切な仲間の死去が続きました。細川・居郷・家野さんとは、私と同年代であり、馬場さんは私の5歳年下でした。この4人とは高校教員になった時期や知り合いになった時期はまちまちでしたが、岡山高教組青年部や岡山高生研などで一緒に活動を共にしてきた仲間でした。
細川さん、居郷さんに対しては、それぞれ「しのぶ会」が催されましたが、その際、細川さん愛用の「柝(き)」=拍子木をたたいて、演劇の舞台のように開幕と閉幕の演出をしてくれたのが、ともに高校演劇部の顧問だった馬場さんと家野さんの二人でした。(つづく)
 
  各支部「春の交流会」のご案内

支 部

日  程

内 容 概 略

連 絡 先

岡 山
旭 東

 

4月16日(火)
10:30〜14:00
烏城公園集合
雨天決行

ガイド付きで烏城公園の散策
県立図書館で昼食・徳方氏の講演参加費500円(弁当付き)
申し込み〆切3月31日

井上 俊清
(090-6438-0806)
和田 茂
(070-1877-4567)

備 南


 

3月23日(土)
12:30〜15:00
くらしき健康福祉プラザ集合

くらしき健康福祉プラザ
昼食を食べながら交流
会費1000円
申し込み〆切3月5日

綾野 保晴
(090-4657-9130)
犬飼 繁
(090-1186-8233)

美 作

 

4月11日(木)
10時 奈義現代美術館集合

奈義現代美術館
レストランで昼食
会費1000円

奧埜 貴之
(080-2908-2097)
 


備 西


 

3月23日(土)
9:30〜14:00
笠岡シーサイドモール集合
雨天決行

遍照寺・大仙院・笠岡市立郷土館・道の駅笠岡ベイファーム・若よし
会費1500円
申し込み〆切3月10日

 

清水 親義
(080-6316-4325)
西 功
(080-3875-0297)
 


備 北



 

3月30日(土)
9:00〜16:00
総社駅前ロータリー集合
小雨決行

 

吉備真備公園・矢掛ビジターセンター・旧矢掛脇本陣・矢掛郷土美術館・昼食美星中世夢が原・美星天文台・青空市  会費はいりませんが各自昼食代必要
申し込み〆切3月21日

 

土井 彰
(0866-93-3681)
(090-7126-6056)



 
参加をご希望の方は同封のハガキで申し込みをしてください。他の支部への参加も可能です。お問い合せ・お申し込は記載の連絡先へお願いします。
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※2024年になりました。このところ年齢のせいか、年号があいまいになっています。会長の巻頭言にあるように、大変な年明けです。一日も早く平常の生活が戻るように願わずにはいられません。※ボイスアクションには、たくさんのボイス(声)を送っていただきました。ありがとうございます。新しい戦前と言われる現状対する不安と怒りが伝わってきます。※島田さんの母親大会でのあさのあつこさんの講演の話。あさのさんは私と同年代で山本事務局長の高校の後輩でもあります。彼女の作品はたくさん読みましたが、どれもおもしろいです。※中山さん、佐賀での活動、お疲れ様でした。小川副会長とお二人での参加でした。※定広さんの古墳での平和の話。ぜひ支部交流会でお訪ねしていろいろなお話しを伺いたいと思います。※今回の長寿のお祝いは、岡山支部の3人の方にお送りしました。これからもお元気で過ごされることを願います。※田中さんの記事。本当に大変な思いをされたことがよくわかります。私の父親も終戦の年に旧満州から引き上げてきたそうです。帰りの船の中で腐って糸を引いている飯を食べたと言っていました。後編を次号で。※岡本さんの昆虫の話はすごい。傘寿を過ぎて頑張っておられます。頭が下がります。※水間さんはモロッコの後編です。毎回楽しみです。※岸本さんの馬場さんと家野さんの追悼文。自分より若い人が先に亡くなるのは言葉になりません。後編は次号で。この会報を編集中に鴨川先生の訃報が入りました。幹事会のグループラインに寄せられた花田さんの追悼句『散りてなほ鮮やかなりし寒椿』合掌。※今年も春の交流会の季節がやってきました。6つの支部全部で実施の予定です。ふるってご参加ください。(岡田)
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