高退教会報バックナンバー
148 20168(抄)

 目次

 
新春来福          岡山高退教会長  萱 栄次    
定年後の生活をどうする?
~「退職予定者のつどい」を開催~  
         小川澄雄   
3万円の奨学金 19人に支給           小川澄雄   
第24回全退教中国・九州ブロック学習交流集会報告 清水親義 
「古仏とたたらそして文学の道 紅葉の日野路を行く」
に参加して ~第45回自然歴史探訪~ 
     三宅幸良  
挑戦をし続ける生き方に感服
        ~「長寿を祝う会」・美作支部~   山本美佐緒     
特別寄稿 「和解」                  長岡英明  
中国での生活と帰国後の生活(第2回) 曽田康載

「分かりやすさ」の共有で

                                        岡山高退教会長 萱 栄次
近年、これほど分かりやすい政治はありません。しかし、同時に、これほど分かりにくい政治状況もありません。
 今まで、こんなにも国民の声を聞かなかった政治はありませんでした。以前は、すくなくとも、聞いたふりだけはしていました。「戦争法」の強行、これには驚きました。テレビで国会中継をみていて、とても、国の最高機関での映像とは思えませんでした。未だに多くの問題が山積している状態での原発再稼働、老後生活を破壊する年金法など、国民を無視する姿勢は誰の目にもよく分かりました。
 それなのに、政府の支持率は、それほど低下しない。なぜなのでしょうか。よく分からない部分です。
 しかし、昨年、この部分に少し変化がありました。希望がもてる現象が生じています。「戦争法」以来つづいている国会前デモでの若者の声と多くの市民の姿です。明るい未来の到来を感じさせてくれるものでした。加えて、それに呼応した野党連合による参院選挙の結果です。国民の声が、政治に反映されたのです。今の政治の「分かりやすさ」が、みんなの共有物となったのです。
 今年も、この若者や市民と野党の連帯で「福」を招きたいと思います。「教え子を再び戦場に送らない」高退教の出番です。今年も元気で頑張りましょう。 

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 定年後の生活をどうする?

―「退職予定者のつどい」を開催― 
高教組と高退教は、12月17日(土)、「退職予定者のつどい」を共催、3月末に退職予定の先生方が高教組会議室に集まりました。「全教共済」の説明と最近の退職者三人の体験談を聞き、定年後の暮らしをめぐって交流しました。
 萱高退教会長・三上高教組委員長のあいさつにつづき、藤原高退教事務局長が「高退教とは」どんな組織かを話しました。自然歴史探訪・作品展・支部の交流集会など高退教独自のとりくみとともに、教育署名・奨学会への募金活動など現職の先生方を励ます運動をしていることを紹介。「高退教はこれまで、『遊び7分、運動3分』でやってきていたが、安保法制が強行された昨年以来、戦争法廃止、憲法を守らせ・立憲主義をとりもどそうと、運動の方に力を入れてきた」と話し、“ひとりぼっちの退職教職員にならない”“ひとりぼっちの退職教職員をつくらない”をスローガンにとりくんでいる、是非入会を!と訴えました。
 「全教共済」の紹介を高教組の石原書記がした後、三上委員長が退職後の「すくらむ」について補足的に話しました。
 退職者の体験を語ったのは、①再任用(full)を経験し今年学校との縁を切った岡田憲朗先生、②若年退職し、農業をしながら非常勤講師を続けている定広輝海先生、③10年前に定年退職し、趣味やボランティアの活動に生きがいを見出している佐藤美加恵先生でした。
 退職予定者は8人が参加しましたが、親の介護をかかえ本人の体調もすぐれない一人を除き、7人が何らかの形で定年後も教職を続ける予定とのことでした。5人が再任用(フル)を希望、ハーフまたはフルが1人、ハーフ希望が1人という状況です。“定年退職”とはいうものの、退職しない(退職できない)実態が広がっています。年金支給年齢が引き上げられ65歳までの収入がなくなることから、教職員の定年が有名無実となっていることが、「つどい」の参加者の発言からもはっきり出ていました。
年金問題へのとりくみは、高退教・高教組にとって大きな課題となっています。
(小川澄雄)

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3万円の奨学金19人に支給

高教組修学援助会理事・事務局合同会議で選考


高教組修学援助会は、12月1日、理事・事務局合同会議を開き、奨学生の選考をおこないました。高退教からは、理事として萱会長と小川事務局次長が、また、みんなの会から高退教会員の正保さん、教育文化センターから岩佐さんが参加しました。
 今年度は25校45人(うち支援学校3校3人)から給付申請がありました。理事会では、申請者から提出された申請書にもとづき、一人ひとりの家計状況を審査、厳しい家計状況にある19人に奨学金を支給することを決定しました。当初は17人程度を選ぶことを確認して協議に入りましたが、協議を進める中で家計の厳しい状況を無視できず、19人まで支給者を拡大することにしたものです。
 理事からは「こんな収入ではとても三食食べられないよ。」「年々厳しさが増しているのではないか。格差を広げるアベノミクスの失敗が生徒を苦しめている。」「寄付がもっと集まって潤沢な資金があれば、申請者全員に奨学金を贈れるのに・・・」などの声があがっていました。給付型の公的奨学金制度の創設・拡大が切に求められます。
 なお、高退教は会員から寄せられた募金126,762円余を11月に修学援助会に届けていました。 (小川澄雄)

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第24回全退教中国・九州ブロック学習交流集会報告                                清水親義

2016年11月14日・15日、KKRホテル広島で、「第24回全退教中国・九州ブロック学習交流集会」が開催されました。岡山からの参加は、萱(会長)・小林(全退教幹事)・藤原(事務局長)・清水(備西支部幹事)の四名でした。
 開会行事の後、各県退教の活動報告が行われましたが、島根県の次の報告には注目が集まりました。
 ①会員は元組合員「以外」の方が多い
 ②会報は支部単位で分担(支部会員全員に葉書を出して原稿を募集)
 山口県の活動もユニークで、活発な支部活動が行われている支部には一万円、そうでない支部には五千円と、補助金に差をつけているというものです。
 次に、2日目のフィールドワークの事前学習として、高橋信雄前広島退教協会長による「廣島とヒロシマ」と題する講演が行われました。私のショックはここから始まりました(内容については、後のフィールドワークのところでまとめて報告)。
 1日目の最後は、恒例の夕食交流会が行われ、楽しい話だけでなく、踊り(雪の渡り鳥)まであって、大いに盛り上がりました。圧巻は山口の、エネルギー溢れるどころではないエネルギー爆発の替え歌で、一同度肝を抜かれました。
 2日目のフィールドワークでは、「広島逓信病院-広島城(大本営跡・地下通信指令室)-比治山陸軍墓地」の順に訪れ、多くのことを学びました。
 講演とフィールドワークの両方で私が感じたことは、「知ってるつもりに過ぎないことばかり!」というショックでした。
 現在も、「ゼロ戦は当時の最高性能を誇っていた」と吹聴する風潮がありますが、私はいつもそれを聞き流すだけで、もう一歩踏み込んで、「そんな高性能なゼロ戦を多数持ちながら、なぜB-29に太刀打ちできず、各都市のあの大空襲を許したのか」という単純な疑問すら持ち得ていなかったのです。実は、実は、実は、「ゼロ戦は高高度性能が低く、B-29の飛行する高度に達することが出来なかった」のです。このことさえ私は知りませんでした!
 ヒロシマと言えば原爆です。しかし、今回私が学んだことは、それを招いた日本軍国主義の一つの断面でした。 
広島城を訪れて見たものは、大本営跡に立つ碑石に残されたある痕跡でした。碑石には向かって左側(西側)に「昭和十三年三月建設 文部省」と彫られています。しかし、「文部省」という文字は、ある時期読めなくされていたことが分かります。それが痕跡として残っているのです。これは戦後、戦争責任を追及されることを恐れた文部省が、知らぬ顔を決め込むために行った卑怯な一手の痕跡です。
 比治山陸軍墓地を訪れて見たものは、数多くの輜重兵の墓石でした。輜重兵は、安倍総理の言う「戦闘行為とは一体化しない後方支援」を担う兵隊なのです。では、この墓石の多さは何を物語るのでしょうか。
 これは後で調べたことですが、日本軍には「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」と歌い、揶揄した歴史があったということです。兵站軽視の思想の表れです。
 この兵站軽視はどこから生まれたのか。それは恐らく日本軍の「現地調達主義」だったろうということ。或いはその逆で、兵站軽視だからこそ現地調達主義が生まれたのだろうということ。私は兵站軽視も現地調達主義も知らなかったのです。
 食料も燃料も現地で調達するという現地調達主義があの日本兵の残虐行為につながっていたのです。
 講演の中で、「日本兵は飯盒を持ち、アメリカ兵は飯盒を持たないのはなぜか」と問われました。
 日本軍は現地調達主義ですから、現地の水を使って現地で調達した穀物を飯盒で炊く必要があった、しかしアメリカ軍にはその必要はなかったという訳です。
 『一人の兵士が戦場で書き記した日記』には、「10月14日、朝早く裏のクリーク(註 水路)に飯盒炊さんに行く。クリークはどんより濁って青みがかった汚水であり、そこにだんだん腐乱していく敵兵の屍が浮いており、それを向こう側に押しやって水を汲み米を研ぐ」という記述があるそうです。
 現地調達主義は日本兵をも苦しめ、やがては死に追いやるものだったのです。
 極めて大切なことが学べた二日間でした。

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岡山高退教 45回自然歴史探訪 2016.11.6.

「古仏とたたらそして文学の道

 紅葉の日野路を行く」に参加して

備西支部 三宅幸良

 最初訪ねたのは鳥取県日南町の南部にある“野分の館”(井上靖記念館)。彼の作品はほとんど読んだことはない。しかし何年か前高教研社会科部会の巡検旅行(と記憶しているが?)で「敦煌」に行った時、ある施設で中国、特に西域と関係の深かった彼の活躍の記録や写真を見たことがある。ふと当地の莫高窟やタクラマカン砂漠が目に浮かび幻の都市「楼蘭」の姿を想像すると大作家井上靖が急に近くに感じられた。
 日野町では古代から盛んであったたたら製鉄を町おこしにする「第3回ふいご祭り」を見学。当日火入れした「ミニたたら」に砂鉄を投入する体験に高退教の人も多数参加していた。たたら製鉄については中田先生より銑鉄と鋼・還元などの用語を駆使されながら、鉄鉱石を利用した近代製鉄との違いなども含めて分かりやすい説明があった。その時川崎製鉄(現JFE)水島で鉄板の製造現場を見た時の事が思い浮かんだ。ところで係員の人に砂鉄はどうやって手に入れるのかと聞いたら、なんと磁石で集めるとの事。自分が小学生の時にやったのと変わっていない事にびっくり。
 午後ある事を思い出させたのが日南町の松本清張文学碑。高校入学後すぐ川端康成の「雪国」の感想文の宿題がでた。読後どこが良いのかさっぱり分からないし何も面白くない。これで文学作品なるものがすっかり嫌いになりその後の度重なる感想文には苦痛しか感じず読書から逃げたい思いが続いた。ところがそのころ友人の家で友人の親戚の小兄さんが清張の本をいくつか持ってきており、そのひとつをダメもとで読んでみろとすすめられた。「悪いやつら」である。ページを広げるとどんどん引き込まれワクワク感を初めて感じた。これを機に清張の作品を読みあさり今ではほぼその全部を読破。一番印象深いのはハンセン病を背景にした「砂の器」(映画化され、加藤剛・丹波哲郎・森田健作らが出演したのを見たことがある)。その舞台のひとつが出雲地方の“かめだ”。父峯太郎の出身地ここ日南町より西へわずか30kmぐらいの地、何の偶然であろうか。

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       「和解」  長岡英明

私が高教組で仕事をさせて頂いたことは、県教委との「和解」です。
昭和42年と44年の高教組・県教組が実施したストライキに対する処分の取り消しに関することです。朝の授業時間にくいこまない短時間のストに対して、昇給3ヶ月の延伸の戒告処分という、他県に例の少ないきびしいものでした。この頑迷な加藤武徳知事を倒すため、革新として長野士郎を樹てて選挙で破ることができました。公約としてこの処分の取り消しが昭和50年秋に実施され和解がなされたものです。しかし高教組では被処分者全員の了解を取りつけようとして時間がかかりました。私は関係する職場を廻って了解を取りつけようと努力しました。倉工では教頭の了解を得て、テニスの試合で横浜へ出張していた組合員に電話して印を押させてもらったことがありました。
裁判もどきで人事委員会の審査において、証人となった県北の校長が、若い前途ある教員に、大きな犠牲を払わせたと苦しい胸の内を明かしたことは印象に残りました。しびれをきらしたのか、県総評は、20人くらいで高教組に押しかけました。何も云わずに早く和解に応ぜよと圧力をかけてきました。妹尾書記長がこれに従わなかったのは立派だったと思います。
 30年代前半の勤務評定反対で、多くの県の教員組合で「教え子に銃を持たすな」と闘ったことも思い出されます。村山富市氏が自民党にからめとられ、社会党が失墜して、平和への希求が危うくなり、取って代わった民主党では正視に耐えない感があります。日本会議の策動で自民党が右翼一色に染まっているのも寒心に堪えません。

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