高退教会報バックナンバー


147 201610(抄)

漆の美に魅せられて
美作支部花谷純夫

1、樹液の取り方
漆器の美にひかれて、漆器の作品を製作しています。私の漆塗りは、津山に鶴山彫りというのがあって、その先生の指導を受けたのが始まりです。
はじめに、漆について述べてみると、山に生えている(あるいは栽培している)15 年から20 年経った漆の木に、V字型に漆かきによって傷をつけると、白い樹液が出てきま
すが、それは樹の傷ついた部分を守ろうとして分泌したものであって、それを人が横から失敬して精製して使用しているのです。
その傷から樹液が出なくなれば、その上にまたV字型の傷を付けて、樹液の分泌を促し、出てきた樹液をかきとる、という操作を繰り返します。



2、血が出ても直らなかったかぶれ
樹液は、白い色をしていますが、これはウルシオールという成分に水が混ざっているからです。このウルシオールという成分が人の皮膚をかゆくするのです。たとえ皮膚に付かなくても、ウルシオールがガスとなって、皮膚に触れればかゆくなります。
海水浴をすれば治ると言いますが、それ位では治るものではありません。体の中からかゆくなるので、少々かいてもそのかゆさは治りません。かきむしって血が出てもかゆさは治りません。一晩中寝られなかったこともあります。
ウルシオールに触れない工夫をいろいろやってみたのですがなかなかうまくはいきません。かぶれることがいくらか続いて、だんだんに免疫ができたのでしょう、かぶれが少なくなり、今では漆の中に手を入れてもかぶれなくなりました。

3、漆塗りの器が貴重な訳

漆の木の寿命は20 年くらいですがその1 本から取れる漆の量は200 グラムです。ですから、漆塗りの器は貴重なものです。
漆塗りには、摺り漆と塗り漆がありますが、摺り漆は白木の生地をペーパーで擦り、漆を塗り、それを布できれいに拭き取り、乾かします。
漆が乾くということは、漆が固まることであって、そのためには温度は25 度前後、湿度は80%ぐらいが一番よく乾きます。漆が乾いたらまた漆を塗って、布で拭き取り乾燥する。このことを10数回行い、木の表面に艶が出てきたら、表面の仕
つや上げを行って完成させます。摺り漆の表面は、木目が出た綺麗な表面になります。
塗り漆は、黒又は朱の漆を全面に塗って仕上げるのですが、金や蒔絵などの装飾をほどこす場合が多いと言えます。
漆による作品は、日本だけのもので、「漆」といえば「日本」という意味があるのです。ちなみに中国は陶器、ヨーロッパは金属か磁器の器を使用しています。


この連載も3回で終了する予定だったのです
が、突然の病気(椎間板ヘルニア)で自分の人
生で初めて手術・入院する身となり、今回は番
外編として「苦しんだ」経験を書いてみること
にします。
忘れもしない2月29日、同居している孫2
人(3歳と1歳)と近くの保育園へ散歩に出か
けた帰り道、雨が降り出したので2人を抱えて
10分ほど無理をして走って帰ったのが事の発
端でした。次の日から右足全体に違和感が生じ、
筋を痛めたと思ってマッサージをしてもらった
のが事態をさらに悪化させる要因となりました。
右足先がしびれ、膝の裏側、足の付け根の辺り
が特に痛み出しました。我慢できなくなり、近くの整骨院で治療を受けなが
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ら、なんとか4月、5月の総社
南高校での授業、大安寺中等学
校での部活動(将棋部)の指導
などを乗り切ってきました。
ところが、これも忘れもしな
い6月3日、保育園から頼まれ
ていたジャガイモ10数キロの
箱を持ち上げた途端、腰がギク
ッとして動けなくなり、この日
の夜は痛みで全く眠れませんで
した。ギックリ腰とは違う様子
に驚いた妻が地元の整形外科に
連れて行っていってくれ、最終
的には倉敷中央病院で診断を受
けることになりました。MRI
を取ってやっと原因が判り「椎
間板ヘルニア」(それも相当悪
化している)と知らされました。
7月6日に入院したのですが、
この間、学校へは送ってもらい、
校内は”歩行器”を押して歩き、
授業は椅子に座って行い板書もできず、夜は痛み止めの薬を飲んで”エビ”
のような格好で数時間寝るという生活でした。この頃の心境は「どんなこと
をしてもらってもよいから、この痛みをなんとかしてほしい」という悲痛な
思いだけでした。今思い出しても、よく耐え忍んだものだと我ながら感心し
ます。
その後、背中を切って、飛び出して神経に触れている“ヘルニア”を除去
する大手術をしてもらいました。手術後2日間ほどはベッドに張り付いた状
態で寝返りもできませんでしたが、右足の痛みがほとんどなくなっているの
が嬉しくて仕方ありませんでした。2週間で退院し、コルセットも約1ヶ月
で必要なくなり、現在は背中の切り口が少し痛むことと右足先のしびれが残
っている程度になりました。
この経験を通じて、普通に起きて1日を過ごし気持ちよく寝ることがどん
なに素晴らしいことかを実感しました。授業も農作業も無理をしないよう気
を遣いながらも元通りできるようになってきました。2枚の写真は安納イモ
を掘っているところと、オレンジ白菜を植えているところです。これからも
変わった(?)野菜を作り続けるつもりです。

喜之助人形劇と出会って
旭東支部佐藤美加惠
第28 回瀬戸内・喜之助フェスティバル人形劇の祭典つきみ草「喜之助物
語」最後の上演が終り舞台を下りると、喜之助さんの娘さんお二人、林さん
…喜之助さんの幼なじみのいっちゃん…、昨年からファンになって下さった
岡山の方、2 日とも観に来て下さったお友達、そして多勢の皆様が笑顔と伯手
で迎えて下さいました。
今年は、「喜之助物語」を上演。瀬戸内市図書館その中の「喜之助シアター」
完成を記念して、平成10 年8 月つきみ草演目の再演でした。
邑久町のお友達の代理のボランティアで、喜之助人形フェスティバルに参
加したのは、平成23 年の夏。その時、人形掛にぶら下がり、長い糸の下で揺
れていた人形が、人形使いの手にその手板が持たれると、その瞬間から、人
形は目を覚ましたように、表情が出、体が動き出し、小さな舞台の中で大き
く生き生きと演技をする…糸操り人形劇に引き付けられてしまいました。
そこで13 年ぶりの知恵さんに出会い、つきみ草で活躍されている事を知り
ました。そして、「練習をみに来る?」「うん、行く!」…これが運命の会話
になりました。9 月14 日「クワンクワン」の練習を見に行ったその夜、温か
いメンバーの皆さんのご好意で、背景・小道具の出し入れ等教えて貰いなが
ら練習に加えてもらい、次の日の公演先佐伯幼稚園に連れて行ってもらいま
した。上演中私はついつい人形の動きやお話に引き込まれて道具を出すのを
こうして、岡本隆郎は、父親の反対を受けなが
たかお
らも、本当に自分が思った進路に自分をかけてみる生き方を選
んだのです。隆郎は竹田喜之助と名乗り、人形のからくりや使
用材料に画期的な工夫を凝らし今までの人形に命を吹き込みま
した。どの人形も、彼の優しく温かく厳しい人柄を映し出し、
観る者に深い感動を与え、多くのファンを生みました。人が望
む地位も名誉も必要ありませんでした。心にあるのは純心無垢な子どもの様
な心でした。その心を持った作品の中に、「雪ん子」という作品があります
が、これはまさに、彼の心そのものが表情に出ている作品と言えるでしょう。
弟子たちは彼をとても慕いました。しかし、天はあまりにも早く天国へ導か
れたのです。56 歳で交通事故に会いこの世を去ったのです。(喜之助物語
ナレーションより)
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忘れそうになりながら、昨夜の練習を思い出し一生懸命必死でした。幕間か
らちらっと子ども達の吸い付けられた様なきらきらした目をみてわくわくも
しました。終ってから1 人のお母さんが声をかけて下さいました。30 年位も
前、小学2 年生の時一緒に勉強した方、思いがけない嬉しい出会いでした。
私は「つきみ草」の仲間に入れて頂き、そこから人形使いのたまごとして出
発しました。
「クワンクワン」で、舞台のすそで出番を待っている和尚さん、おはぎを
食べてしまい舞台から颯爽と引きあげて来る時の小僧さん、人形なのにまる
で俳優さんのように感じられます。幕
をかえる準備をしている私は、和尚さ
んが「あっ」と驚く時何度も一緒にド
キッと驚いたり、人形の所作に小道具
の出し入れを忘れるくらい見とれる時
もあります。「ごんぎつね」の最後の
場面では、何度見ても、ごんや兵十の
動きに涙が出そうになります。
保育園、小学校、子ども会、町内会、
時には後楽園幻想庭園で、又、シンホ
ォニーホールで等、いろんな所に出かけ、ました。そして、フェスが終り風
が冷たくなり始めると、喜之助さんのお弟子さんそして私達のお師匠さん鈴
木友子先生のご指導のもと次の年に行う演目を決め、人形作りを始めます。
初人形は、青虫!H.24 年「野菜畑の
昼下がり」に出て来るクネクネ自由に
動き回れる青虫。私の青虫は、ピンク
色!
H.25 年「フレンチ・カンカン」3
人の女の子を一つの手板で操り、ダン
スをします。
この年、岡山から玉島へ引越しする
ことになり、通う事が難しくなりまし
た。そこで、「記念に一体だけ作る」
事になっていましたが、鈴木先生が、「3体作ったら!」と!! しょんぼりして
いた私は嬉しくて嬉しくて、妹尾さんが顔型を、あっ子さん、和ちゃん、晴
美さん皆さんで布を裁断、集まったり城山さんの家にお邪魔したり、知恵さ
んと一緒に洋服を縫ったり、木の削り方から磨き方、色づけ、メイク、髪の
植え方、何から何まで教えて頂き、やっと完成。そして今もつきみ草の仲間
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でいさせてもっています。
H.26 年「おはな地藏」の男の子“ごんた”
H.27 年は「雪ん子」上演の為、練習に費やす。
「雪ん子」の素晴らしさを実感しました。
今年は「喜之助物語」を上演。
そして、「かずこねえさん」を作っています。城
山さんのお家に何度もお邪魔し教えて頂きながら
…中々難しいけど、メイクし着付けができた時の
飛び上がるほど嬉しい気分を夢見て・・・
今までできなかった事をしたいと退職してから10 年
が過ぎました。チョコチョコと色んな事をしている
中で、人形劇に出会って経験した事・経験している事
は、私にとって大きく素晴らしいものばかりです。
人・人形・所・情熱等との出会い、人形作りや練習の困難苦しさを乗り越えた時の
ご褒美の喜び等々・・・
「喜之助物語」のDVDを観ました。前屈みを解消できた!と思っていたのに、
かずちゃん人形は足が地に着かず宙を飛びフラフラしていました。あ~あ、練習不
足・・・「喜之助さんの夢と願い」を伝え、観る人に感動を与えられる糸操り劇
団を目指している「つきみ草」の仲間でいられるよう、人形達が思う通りに操れる
ようになれる様頑張らなくちゃ!
《作成中の人形》
(何時できるかな・・・?)
粘土の女の子桐の木の人形
「むうちゃん」(仮名) 和子ねえちゃん
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中国での生活と帰国後の生活
岡山支部曽田康載
「中国暮らしのきっかけ」
2004 年妻は私より1年早く定年退職となったが、つてを頼ってさっさと中
国南京市にある私立三江大学の日本語教師になって出かけて行った。
そこで岡山に残された長男とと
もに1年間、最後の教師生活を
送った。そして翌年3月定年退
職になったが、なぜか私には再
任用も非常勤講師の声もかから
なかった。県教育委員会まで出
向いて頼んでみたが駄目。すで
に就職を決めた長男も我が家を
出、すでに両親を亡くしている私はただ一人になった。かくして、仕事もな
く、世話しなければならない身寄りもなく、消極的にも積極的にも私は全く
自由になってしまったのだ。
第二の人生をどう生きるか、その手掛かりは何もなかった。
わずかにただ、私も、妻が中国に行く前に、我々夫婦の友人の退職教師の奥
さんに中国語の初歩を習っていたが、これだ。彼女は南京出身の中国人であ
る。好奇心から、私も妻と一緒に初めて中国語の手ほどきを受けたのだ。
それまでは、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語など欧米の言語しかか
じったことがなかった。朝鮮語、中国語など全く眼中になく、映画であれ、
文学であれ、意識はすっかり欧米文化にあったため、当然のこととして欧米
の言語にしか関心がなかったのだ。
習ってみると全く触れることがなかった中国語がとてもむつかしい言語だと
初めて知った。文法は英独仏語と同じく、語順はSVO「私は行く学校へ」で
あるが、文字は日本語と同じく漢字である。しかしその発音には厄介な四声
があり、いくつかを除いて漢字の発音が日本語とは全く違う。にわかに私は
この中国語に興味を持つようになった。
そこで、第二の人生は中国に渡り留学生になって中国語の勉強をすることに
決めた。知人のお兄さんがやはり定年退職後西安の西安交通大学(中国重点
大学の一つ)に1 年半留学し大きな成果を収めて帰国した、と聞いた。そこ
で、岡山市主催の中国語教室に通い彼に中国語の初歩を習った。そして授業、
寮生活など留学生活についていろいろ話を聞いた。そして私もこの大学に留
学しようと決意した。
南京にいる妻に、一応その旨を伝えて、了解を得ようとした。ところが思い
がけないことに妻はなぜか激怒し、猛反対。嘗て妻は私の了解など得ること
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なくさっさと南京に行ったくせに。なぜ反対かと聞くと、南京でも中国語の
学習はできるだろう、なぜわざわざ西安まで行く必要があるのか。西安も南
京も中国語は同じではないか。無駄な出費をするな、である。
「南京師範大学留学生」
かくして2005 年8 月26 日私は初
めて思いがけなくも南京にやってき
た。雨花台区鉄心橋町の三江大学か
ら与えられている妻の宿舎に同居し
た。そこに居を定めて9 月の新学期
から南京師範大学の中国語科に通学
した。バス、電車、を乗り継ぎさら
に徒歩で、計約1 時間半。南京大学
よりも教え方が丁寧だ、と言われて
いたのでこの大学を選んだ。
1 年生を1回、二年生を3 回、3 年生を2 回、計6 年間通学した。
1,2年生は日常会話的な実用中国語、3年生以上は日常会話とは異なる書
き言葉、文語が入ってくる。だから、せめて日常会話の習得をと思って2年
生を念入りに何度も重ねたのだった。
授業は午前中だけ。8 時に始まり、11 時50 分まで、3時限。授業後付近の
食堂で昼食を食べ、帰宅した。いつも同じ食堂で「青菜糸肉卵入りラーメン
(チンツアイルースージータンミェン)」を食べた。
3年時の中国語会話の授業が思い出に残っている。教師は時々我々学生に教
壇で話をさせるのである。時間はいくら使ってもよい。誰もせいぜい20分
ほどで終わっていたが。
その年、私は、日本のDCI(Defense for Children International)の1員として
6月に日本の仲間たちと、ジュネーブの国連欧州本部まで行った。そこでは、
日本政府に対する「子どもの権利条約」批准後の実施状況に係る国連審査会
(条約批准後5年ごと)、が開催されたので、その傍聴に行ったのだ。このた
め約10日間南京師範大学を休学せざるを得なかった。
中国語会話の年配の女教師は私にこの国連審査傍聴体験について中国語で報
告せよ、といった。1週間ほどの準備ののち、私は四苦八苦しながらスライ
ド、写真、なども使用し、90分間使って何とかやり終えた。そもそも「子
どもの権利条約とは何か」から始め、なぜ私たちは国連審査へ参加したか、
この条約の日本での実施状況、ジュネーブ(中国語では「日内瓦」、スイスは
「瑞士」)へどのようにしていったか、ジュネーブについて、国連欧州本部に
ついて、国連による政府審査の意義、実際の審査の概要、ミラノからフィレ
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ンツエへの旅、まで。私には中国語の良い勉強になった。驚いたことに、2
0人に満たないクラスの仲間たちではあるが、彼らの国はいずれも日本より
早い時期にこの「国連・子どもの権利条約」を批准していながら、この条約
を知っている学生は一人もいなかったことだ。
1年時の中国語は易しかった、が、2年時から俄然難しくなった。1年時に
は成績優秀賞として賞金100元いただいたこともある。中国では賞には必
ず賞金が付く。こんな体験は生まれて初めてのことだった。
生徒に還っての留学生活は楽しかった。ベトナム、アメリカ、フランス、オ
ーストラリア、、、など各国の友人もできた。
「日本語教師として」
三江大学では、南京暮らしがはじ
まってまもなく私のことを妻から聞
きつけて、日本語科の学部長が私を
三江大学の日本語教師に迎えたいと
いってきた。ネイテイブの日本人教
師が少なかったからだ(日本人教師
は妻以外に3人だけ)。日本の教員
免許状があれば資格はそれでよし、
と。日本語教師と言っても、理科や
社会科のようにむつかしいことを教
えるわけではなく日本語なのだから大丈夫、と妻に言われ、それならばと引
き受けることにした。
それによって、午前中は中国語の留学生、午後2時からは日本語教師になっ
た。
三江大学は総合大学であり学生数はおよそ1万6000人、日本語学科は南
京市及び江蘇省内では日本語を学ぶ学生が最も多い大学であった。当時、4
学年全体で約700人前後いた。学年平均5~6クラス、1クラス30人前
後。
日本語教師になった途端に生活はとても忙しくなってしまった。前述のごと
く、午前中は南京師範大学の中国語留学生、午後からは三江大学で日本語教
師だ。1年生の会話はともかく、特に4年生の高級作文を担当させられたか
らである。この高級作文には手を焼いた。会話などは授業が終わればそれま
でだが、「高級作文」は授業後、回収した作文の添削作業が必要だったからだ。
3~4クラス、100人~130人の高級作文の添削に余暇の時間(土日
も!)をほとんど奪われることになってしまった。実は授業後のこの作文添
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削こそが私の「仕事」だったのだ。
一人分600字ほどの作文ではある
が、学生たちはそれぞれ実に奇妙な日
本語で書いている。誤りの箇所には逐
一赤線を引き、そこを書き直して清書
させ提出させる。その清書の怪しげな
日本語は逐一正しい日本語に書き直し
てやり返却。
片方で中国語を習いながら、同時に
中国人に日本語を教える。午前中は語
学生で、午後は語学教師。中国語学習をしている日本語教師であることによ
り、初めて私は日本語がとてもむつかしい言葉だと分かった。SVO ではない
こと、「て、に、を、は、が」などの助詞の使い方、時制、敬語、、、、(時制と
は、中国語には過去形というものはとくにはないが、日本語にはあるので、
現在形とは明確に区別して使用しなければならない、ということ)。
空き時間は、大学と言わず宿舎と言わずいつも日本語作文の添削をしていた。
だから、中国語学習は大きな犠牲をこうむった。予習復習の時間はない。だ
から、ただその日の授業を受けるだけ。日本語教師の職に就いたからには、
仕事中心の生活になり、中国語学習は趣味の座に退かねばならなかったから
だ。かくして本来の中国来国の目的は失われ、形だけの中国語留学生になっ
てしまった。
「留学生たち」
南京師範大学では、私はとびぬけて年配の留学生であった。1年生のクラス
は20人前後だが私以外はほとんど現役の大学生。1年時にはなぜか韓国人
の学生が多かったが、2,3年時には英、米、仏、独、オーストラリア、イ
タリア、(インドネシア、ラオス、イラン、イラク)、ギリシャなど欧米系の
学生が増えてきた。日本人は1年生の我がクラスでは私ただ一人。日本人留
学生は他の学年では常時10人前後は居た。2年、3年になるにしたがって
学生数は少なくなった。時期、行事などにより激減する時もあった。教員は
私より年下であったせいか、みんな親しく、親切にしてくれた。学生、教師
たちとの会話は当然すべて中国語だった。アメリカ人の学生とも中国語で話
し、語彙不足の時には仕方なく英語で話した。フランス人の学生とは、わざ
とフランス語で話してみた。私はフランス語が好きだから。もちろんフラン
ス語で応じてくれた。しかし不思議なことに、僅かながら習い覚えていたは
ずの英語フランス語であったが、目下中国語を習っているせいかうまく思い
出せないのだ。もう少し話せたはずなのに、と、これは不思議だった。(続く)
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○「手渡し会員」について、以前は、通信費を軽減したいと
いう願いもあったのですが、「父は長期入院をしています、退
会させてください」というようなお手紙を見ると、手渡しを
しながら会員の交流をすることが必要だと思っています。会
報146 号でもお願いしましたが、会報などの手渡しにぜひご
協力ください。
○「教育署名」の用紙が高教組書記局につぎつぎ送られてき
ています。引き続きよろしくお願いします。
岡山高教組は、以下のように「教育全国署名統一行動日」を
設定しています。高退教もこれに協力しようと思っています。参加でき
る場所にぜひお出かけください。
【教育全国署名統一行動日】
10 月1日(土) 11:00~12:00 岡山市表町商店街「アリスの広場前」
10 月9 日(日) 9:30~11:00 津山市陸上競技場
10 月15 日(土) 11:00~12:00 JR 伊部駅前「備前焼まつり」
10 月16 日(日) 9:30~11:00 倉敷市「三斎市」
(倉敷駅前センター街入口集合後移動)
〃11:00~12:00 コープ鴨方店
10 月23 日(日) 11:00~12:00 「児島せんいまつり」
(祭り会場入り口付近集合後移動)
10 月29 日(土) 11:00~12:00 コープ東川原店
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◎ 「堅い内容を減らして会員の声を増やしてほしい」とい
うご要望にお応えして、今号は「私の人生散歩」と題する特集を組みました。
◎ もしこれがカラー版なら、花谷さんの「漆器の美」が伝わるのに、白黒版
なので、大切な部分が伝わりません。これが非常に残念です。
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