高退教会報バックナンバー
143 201510(抄)

 

目 次
五月の福島、その後考えた事あれこれ   佐藤 静雄       
リレートーク 今話しておきたいこと
詩「部品」             くにさだ きみ      
8.30国会10万人大行動の報告 菱川勝美                                   
事務局だより

五月の福島、その後考えた事あれこれ       佐藤 静雄

2011年の東日本大震災があってから、その年の五月から震災一年目の2012年3月まで岩手に5回、2013年には5月に福島に行った。その都度、岡山に帰るとお世話になった人に報告書を届けるべく文章を記した。今年の5月に再度、福島に行く機会を得た。しかし、帰ってから何度も文を記す試みをしたのであるが、どうしても筆が進まなかった。どうしても気持ちが集中出来なかった。今、なんとかして、短文でも思いを残そうと筆を持っている。
しかし、6月から9月の4ヶ月なんと多くの事があったのだろうか。政治的には、憲法問題…・広島での豪雨被害・・・。そして、原発事故がまるでなかったの如く日々が続く。シリアの混迷は、誰も解決の方法が見いだされないでいる。わが家では、長年アレッポの石鹸を愛用し、いつの日か古代の遺跡を巡るシリアの旅を夢にみていた。イラクも含め行けそうにない。エジプト、トルコ、イランを旅した事がありシリアを見たいと思っていた。また中国の新彊ウイグル自治区でも混迷が続く。かつて、シルクロード幻想のもとウルムチ、アクス、カシュガル、ヤルカンド・・・の旅、未踏峰の山へのExpeshisyonなどでウイグルの人達と関わりを待った事があり複雑な思いになる。四半世紀前の未踏峰挑戦のおり下山後、ウルムチで開かれた自治区要人との宴で登山隊のパートナーである高名のウイグル人の登山家は、隅に冷遇されていた。漢族のウイグル人差別を見た。ただ、現状の過激な事件は、ほんとうにウイグルの人達のためになっているのだろうかと、イスラム国の報道を見るにつけ考えてしまう。情報が、中国政府からの一方通行ゆえ分からない。しかし、先日の多数派である漢族と少数派であるウイグル人の融和に力を注いできた学者であるイリハム・トフティ氏への裁判にはあきれるばかりである。
福島の事故にもかかわらず中国電力は、上関に発電所を造ろうとしている。反対の島、祝島の報道もある。平和に暮らしてきた島に突然巨大な魔物が襲いかかる。長い間。かつて、苫田ダムが出来る時幸せであった共同体を破壊した。ダム予定地の人々の心を分断した。私は、岡山にきて二年目偶然にダム予定地に2年間住んだ。ダム賛成派の<金次第>という看板を眼にした時は、やるせない気持ちになった。幸せだった共同体が破壊され、争う構図である。そう言えば、尖閣列島で日中間に火を付けた元都知事の息子である前の復興大臣も<金次第>と言った事を思い出した。
今日現在、どんどん円安が進む。円が、安くなるという事は、日本自身が安くなっている事は、自明の事であるが政府は円安を推進している。いったい誰のための政策であろうか。また、今年の米価は、大変安い。生産者の事を考えない政府は、さらにTPPを推進している。あれやこれや気持ちの沈む秋です。
5月の下旬、原発から14キロの牧場にいた。朝,素敵な牧場主の姉名義の山荘風の家のデッキに座る。犬が猫が寄って来る。朝霧の中小鳥が鳴き蛙の声もするのどかな朝である。昨夜は、同じ場所で夜空の星を眺めた。しかし、ここは避難地区住めない場所である。原発の煙突も見える。牧場主の吉沢さんが原発の爆発を見たデッキである。原発事故さえなければ、のどかな緑豊かな牧場である。牧場の手伝いは、約300頭の牛の餌やりである。牧草ロール、野菜屑、モヤシ屑など与える。牧草も汚染している。昨年より牛は太ってみえた。餌やりのほか水はけ水路の修理、牧場周りの囲いの修理など様々である。作業の合間、昨年も行った浪江請戸地区を見に行った。今年の3月11日の朝日新聞一面の写真の地区である。おそらく、原発交付金?で建設されたか立派であった請戸小学校は、車が突っ込んだままの瓦礫状態そのままであった。アルバム、教材も教室の隅に置かれたままである。体育館の卒業式の垂れ幕もそのままである。地区の雑草の中の車、船もそのままである。小学校の黒板には、卒業準備の学級当番の書き付けに混ざりこの5月に、この地区の不明者の捜索をした鳥取の自衛隊の隊員の文字もあった。請戸地区は、死者不明者を180人ぐらい出したとか、しかし瓦礫の集積は少しは進んだもののあまり変化は見られない。行くごとに変わっていった岩手を思う。瓦礫と化した漁港に眼をやると海上には、海上保安庁の船が停泊していた。原発テロに備えた事か?五キロ先に原発の煙突が見える。無論、許可証を持っている吉沢さんの車ゆえ入れた。帰ろうとすると、浪江的「副町長と出会った。車から出られた副町長と話す。浪江町は、全町避難理区で庁舎は、中通りの二本松に移している。氏自身も請戸に家がありことごとく流されたとの事、今は現地の復興責任者であるとの事である。彼の言葉によると原発事故は収束している、安全な地帯と言う。そして、港から2キロあたりから土地のかさ上げをし町の再建すると言う。しかし、かさ上げの土は不足していると。かさ上げした土地に3年後には、人が帰って来ると。
しかし、打ち上げられた船、野草の土地を見ていると不可能に見える。放射能のもと漁港の再建は不可能である。私は、旅人なりてかってな事を言うのははばかられることであるが・・。再建したい気持ちは分かるというのも言えない。いよいよ東電、国に腹が立った。氏に、帰って来て米を作る人はいるのかと聞くと「そんな事は、聞かないで欲しい」とくり返される。幸い心情がみえる気がした。
映画が出来た。<福島 生きものの記録-シリーズー異変一>と言うらしい。福島から拡散した大量の放射能物質が生態系にどんな影響をもたらしたのか問う映画という。その中に牧場の牛が紹介されるという。牧場には、斑点の出ている牛がいる。6月の日比谷での上映に合わせ牛を連れて行きたいと吉沢さんは言う。しかし、原発20キロ圏内の牛は移動させてはならないとの行政指導があるとの事である。牧場の斑点牛は、ほんとうに被曝が影響しているのだろうか。昨年、某週刊誌が大きく報道した。吉沢さんは、長年の牛飼い経験により被曝の影と言う。多くの学者達は、原発事故に伴う生物の影響について関心を寄せる人が少ないとの事である。なぜだろうかと思う。多くの動植物に異常が見られるとの報道もある。斑点牛の問題も軽々に判断せず時間のかかる事であろうが。吉沢さんは、経験から被曝が斑点と確信していると言う。映画の上映に合わせ牛を東京に連れて行きたいと言う。それには、農水省、県当局などの許可を得る必要がある。そこで、相馬家畜保健所に相談に行った。家畜保健所に入る交差点には、大きな南相馬市立病院があった。
原発爆発のおり多くの若い看護婦達は我が子を連れて避難したという。それは、やむを得ない状況である。結果、少数の看護婦医者が酸素欠乏のもと頑張ったとの事と聞く。家畜保健所は、政府の被曝牛殺傷を受け持った保健所である。殺傷牛は、1800頭にもなったとの事である。保健所は、本来は牛をはじめ家畜の健康保全のための仕事ゆえつらい業務であったろうと思う。保健所では、吉沢さんに同行し所長らしき人と対面した。当然、国の決めた事ゆえ難しいとの事である。しかし、要請書類を出して欲しいとの事である。その書類は、県、都、国を回り決済が出るのでは。それでは、間に合わない事になる。所長を責めるべきではない。所長自身も原発被害に悲しみ出来るだけ早い放射能被害から解放される事を願っていると思う。その意では、福島の牛に被害が出ている事はあまり披渡したくないのだろう。そこに福島の屈折感がある。原発被害を全国に知って欲しい気持ちと、被害が流布されるほど福島の農産物が売れなくなるという二律背反状況にある。原発被害については、<美味しんぼ→問題で政府、県当局の異常な反応にもびっくりした。当局は、原発被害がないと言っているようにみえる。首相は、昨秋のオリンピック招へい演説で原発は完全にコントロールされているとして世界中から失笑を買った事もあった。高市早苗氏は、自民党政調会長の折り「爆発事故を起こした福島原発も含めて死亡者が出ている状況にない」と言う。氏は、今総務大臣どうなっているのだろうか。原発さえなければと牧場に書き残し自殺した事件を思い出すまでもなく多数の人が自分で命をたっている。福島の人達の喪失感は想像に余りある。
吉沢さんは、今全国の集会に呼ばれている。灘高校など学校での講演会にも呼ばれている。氏は、世の中を変えるには教育の問題と言う。私もそう思う。しかし、現状の教育の状況をみると暗い気になってしまう。今、中高を含め受験学力の学習に追い回されている。
教師達は、残業に追い回され休みも取れない状況にある。ゆえに、教師達は多忙で学習しない、本を読まない人種にさえみえる。学習しない教師達に本当の教育が出来るわけがない。受験学力で育った教師が教壇に立つ。いい学校?にいれる事が指導であり学習である。
英語学習は、点取り記号にさえみえる。このような状況悩む教師も多いのだろう。教師の精神障害も多い。理想と現実の帝離はあまりにも大きいように見える。教育を変えるのは、政治である。国民投票が、18歳になると聞く。私は、反対である。なんの政治教育もせず政治に参加などとんでもない。学校で政治教育を小学校から年齢に合わせすべきと考える。そこに自立としての教育があると思う。横並びで出る釘を叩くのではなく、自分で学ぶ自立的教育で欲しいと願う。疑似儒教社会の克服とも言える。
2014.9.25
附。最近読んだ本少し挙げておきます。
<フクシマと沖縄・前田哲男・高文研>前田氏のジャーナリストとしての軌跡とも言える本です。ビキニ環礁での放射能被害で除梁が出来なかった事、低線量外部被曝でも時間の経過のもと障害が現れている。ウトリップ島という500キロ離れた島でも障害が出という記述もある。
<日米〈核〉同盟一原爆、核の傘、フクシマ・太田昌克・岩波新書>いかに戦後の政治家たちが虚言のもと国民を愚弄してきたか丁寧に明らかにします。藤山愛一郎、大平首相など人の良いと見えた人も。佐藤首相にいたっては、駐日大使の面前で「比非核三原則はナンセンス」とまで言っている。ノーベル賞、遺族が返還すべきです。
<辺境からはじまる-東京、東北論・赤坂憲雄、小熊英二編。明石書店>福島の浜通りについて戦後の日本の歩みとともに明らかにします。若い学者の論考も参考になります。
<原発一揆・針谷勉・サイゾー→福島希望の牧場の本で吉沢氏の父からの歴史を描きます。満州棄民から帰国牛飼いに‥・。
<希望の牧場・岩崎書店>牧場の原発事故以来の絵本です。子ども達にもよく分かります。
附の附。朝の連続ドラマ久しぶりに観ました。そこで、<白蓮れんれん・林真理子・集英社>を読みました。愛憎劇の文章には少し疲れましたが・・。白蓮の駈け落ちの夫は、宮崎とう天の長男で、彼との白蓮の息子は終戦間際に戦死。彼女は、短歌で「人の世にあるべきものか原爆の・いくさは遠く根の国へゆけ」と記しています。永瀬清子は皇后美智子さんが<あけがたにくる人よ>を英訳した詩人ですが、最近、清子の長女の母思い出とする私家版の本を手に入れて読んでみて、清子は、白蓮と交流があった事が分かりました。
清子の<あけがたにくる人よ>の本は、晩年に清子本人からサインしていただきました。
また、日本の教育の問題は近代教育から検討すべきと考えていた時に<福沢諭吉の教育論と女性論・安川寿之輔・高文研>に出会いました。福沢の今日の評価をひっくり返す論考です。

リレートーク  いま、話しておきたいこと

会員の皆さんの「いま、話しておきたいこと」を、リレートークでつないでいく企画です。今回は、くにさだ きみさんの詩「部品」をご紹介します。(次号からも、連載予定です。ふるってご投稿ください。)

部 品

くにさだ きみ

(1) 部品の記憶

「あれは 何の部品だったのだろう」

と夫はいう。

学徒動員で 『丸五ゴム』に通い

くる日もくる日も 造らされたもの。

エボナイトでこしらえる ひと抱えほどもある

細長く浅黒い物体。

何かを覆う 絶縁体?

〈中身は「人間魚雷」に積む バッテリーではないのか〉

そんな噂が ヒソヒソ。

工場や事務所の隅で 囁かれたが

それらは 言ってはならない

お国のヒ ミ ツ。

たぶん だれよりも

夫は 寡黙で口下手だったから

そこを買われての 抜擢(ばってき) だった。

得体の知れない 絶縁体の

『三井造船』への 納品の日の 朝

(学徒も社員も 総動員で

 謎の部品を トラックに積みこみ)

夫は その 助手席へ坐らされて

『三井造船』のある 玉野へむかった。

(たしか それは 旧制中学三年のとき。

 昭和二十年の 初夏のできごとだった。)

もう その頃は どこの造船所も

(極度に 鋼材が 枯渇していて)

潜水艦はもとよりのこと

低質な戦標船さえ 造れなくなり

〈鋼材の使用量 トン当り66% の〉

「コンクリート舟」 量産の時代であった。

トラックの荷台に

満載してきた 『丸五』の部品が

『三井造船所』の 大きくもない船渠(ドッグ)の底の

どんな船舶の どこに使われるかは不明であったが

中三だった その日の夫は

急拵(きゅうごしら)えの 船渠(ドッグ)(けた)

風に吹かれて 大股に歩く

(監督だろうか ? 憲兵 ? なのか。)

ふたり連れの ひとり。

木刀を持つ

男を 見てきた。

(2) 部品の記録

「あれは 何の 部品だったか。」

戦後七十年。

疑問を抱えたままで 生きてきた 夫が、

きのう

図書館で借りてきた 二冊の 記念史。

一冊は 三井造船『三十五年史』

(背表紙が 読めないほどに傷んでいる。)

あと 一冊は

同じく 三井造船の『五十年史』

(六百ページを超す(うん)蓄の社史。非売品。)

戦中・戦後を ひたすら生きた八十五歳が

いま 天眼鏡を取りだして

一字一句を 克明にたどりにたどって

そこに見つけた 真実と悲惨と。

(部品は

 回天のどこかの 絶縁体ではなかったし

 玉野では 回天なんかは 造らなかった。)

 

回天よりも ひとまわり大きく

五人も ひとを 乗せて死なせる 特攻兵器。

 『五十年史』には

 「『咬龍(こうりゅう)』断面図」というものが描かれていた。

 後方のスクリューに続く

 「電動機」とか「発電機」

 それを操作する 特攻兵士のシルエット。

 真中に ドカンと据えた 「電池室」。

 「3mペリスコープ」とそこに立つひと。

 その「風防ガラス」付きの狭い部屋には

 立ったり 坐ったり合計4人の兵の

 黒く塗られた シルエットがある。

特殊潜航艇「咬龍」(60排水トン)は

終戦までに 33隻(1980排水トン)が造られた。

 『三十五年史』では 昭和十九年末、

 新規應徴士 学徒女子 とともに

 半島應徴士 奉公隊 の

 入所のことが 書かれている。

強制連行されてきた

韓国・朝鮮民主主義人民共和国の ひとびとは

当時 「半島應徴士」と呼ばれていたのだ。

かれらに どんな労働が強いられていたのか、

強制労働と 昼夜をわかたぬ 突貫作業は

終戦の日まで続き

(ヒロポンが使われたのも このころのことだ。)

完成した「咬龍」は 直ちに

小豆島の 特攻基地へと回航されている。

本土決戦トハ ナンダッタ ノダロウ。

くる日も くる日も 学徒が造った「咬龍」の部品

中三の学徒が 『三井造船』 で

ハッキリと 見たもの。

脳に焼きつけたもの。

歩く 木刀

あのころ ヒトは

みな 戦争の「部品」であった。

 

*詩の中の「夫」は会員の中田啓司さんのことです。(事務局)

 

8・30国会10万人大行動の報告  菱川 勝美

 安倍内閣の成立以来、退職後の静かな生活はすっかり崩されてしまいました。早々の安保法制懇再開から特定秘密保護法、集団的自衛権容認の閣議決定、そして安保11法案の国会提出。国会の多数議席を背景にあっと言う間の変わりようで市民運動の方が追いついていません。それだけに参議院審議の山場に向けて設定された今回の抗議行動は、今後の市民運動を占う意味でも注目されました。マスコミでも報道され概略ご存じと思いますので、以下簡単に報告させて頂きます。
当日はまず正午過ぎに有楽町マリオン前でビラ配りと署名集めを行った。岡山からも高教組・県教組そして市職労から参加しており、総勢50名程度で1時間弱の活動だったが、足を止め署名に協力してくれるのは高齢者ばかり。これだけ国会審議で問題になっているのに、若者のこの冷やかさは何だろう、と軽い失望を味わった。
しかし、国会周辺は既に地下鉄構内から身動きがとれない程の人の山。歩道を少しずつ進み、開会の2時頃には国会正面に通じる縦横の道は車道まで人で埋め尽くされた。主催者によって各街路樹にスピーカーが設置され何処にいてもスピーチを聞くことが出来た。そして、スピーチが進むにつれ何故か涙があふれた。参加者の一人坂本龍一氏と同じく、全国からこれだけの人が詰めかけ、特に若者たち、女性たちが立って発言するのを聞いて、日本にもまだ希望はあるのだと、強く感じたのだと思います。
私はよく授業で丸山眞男が1960年の講演で語った「不作為の責任」の話をしてきました。何もしないことが現実を一定の方向へ動かすという話です。私一人の政治行動は、署名にしろデモにしろ、実に取るに足らないものだけれど、みんながそう考えて何もしないなら、結果として大きな違いが生じます。一人一人が、政治行動と言うものをごく平凡な小さな社会的義務の履行と考える習慣こそがデモクラシーの本当の基礎だと彼は言います。家庭では良き夫・良き父であり職場では熱心な社員であるだけでは、社会的責任を果たしていません。従って、一人前の市民とは言えません。
大阪から来たシールズの女性は「この法案を絶対に許すことは出来ない。私はこの国の主権者であり、この国の進む道に責任を負っている一人だから」と述べて、自分の社会的責任を語ります。そして「私の払った税金が弾薬提供に使われ、遠い国の子供たちが傷つくのだけは絶対に止めたい」と訴えます。これが、全国から集まった10万人を超える参加者に共通する最も根底にある思いだったのではないでしょうか。60年安保の時に較べて、確かに労組は弱くなっているが、自立した市民層が分厚く育って来ていることを実感した1日でした。
法案は国会を通ったけれども、これで終わりではありません。むしろ、これからが本番だと思います。私たちが一人の市民としてどこまで声を上げ続けられるのか、どれだけ自分の時間をそのために割くことが出来るのか、が試されるのだと思います。