功山寺

鎌倉時代創建、唐様建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺様式を残しており、国宝に指定されています。
また、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。


みもすそ川別館 西山 音治翁 寄贈

高杉晋作終焉の地

天保十年(1839)八月二十日、長門国長州藩ニ百石取り 高杉小忠太の嫡男として生まれた高杉晋作は、号を東行と称し、その名は 明治維新史を彩る志士群像の中で、ひときわ輝かしい光を放っている。彼は、 萩城下の松下村塾に学び、偉大な教育者吉田松陰の憂国の情にふれるや、 その時代を先見する天賦の感性と実行力によって、維新回天の先駆となった。
 文久三年(1863)五月十日に始まる攘夷戦によって、近代兵器の前に 敗北をきっした長州藩の収拾をはかるために、同年六月六日、下関に登場するや、 ただちに「奇兵隊」を結成、以来、尊王討幕の先峰として疾風怒涛の時代を鮮烈に 生きる。
 だが、慶応ニ年(1866)の熾烈な四境戦争
(第二次長州征討)のさ中、 病にたおれ、戦列を離れた彼は、白石正一郎邸、また桜山招魂社下の庵に病を 癒すが、やがて新地の豪商林算九郎邸の離屋に病床を移す。そして、討幕の 悲願成就を目前にした慶応三年(1867)四月十四日、この地に二十七歳と 七ヵ月の波乱に満ちた生涯を閉じたのである。

桜山神社

元治元年(1864)一月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、 慶応元年(1865)八月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国 最初のものといわれている。創建当初は、文久三年(1863)五月十日に 始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、 小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死した者、さらには長州の 尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、 山県有朋らの霊も加え、今日では三百九十六柱の志士がここに祀られている。
なお、この地は奇兵隊の調練場跡でもあり、招魂場となって 以後桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い 維新史跡の中でも、ことに重要な意味を持つ聖地ということができる。

旧白石邸跡

高杉晋作奇兵隊結成の地
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが、さらに明治維新を
解明する鍵が奇兵隊にあるともいわれている
奇兵隊は文久三年六月 この地の回船問屋白石正一郎家で結成された。
正一郎は結成と同時に入隊し 高杉晋作を援けた。
年令も身分もまったく違う二人のかたい結びつきが奇兵隊をささえたと
いうことができる。

白石正一郎
文化九年(1812)三月七日、この地に生まれ、明治十三年(1880)
八月三十一日、六十九歳で世を去った。
正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として家業にたずさわるかたわら、国学に
深い関心を持ち、四十三歳の頃国学者鈴木重胤の門下に入って、尊王攘夷論の
熱心な信奉者となった。
また「橘園」の号を持つ歌人でもある。
彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれる。
その中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)のいわゆる維新の
三傑をはじめ、坂本龍馬、梅田雲浜など志士四百人余の名を数えることが
できる。また、明治天皇の叔父中山忠光卿、三条実美卿ら七卿も白石家に滞在している。
文久三年(1863)六月、白石家で奇兵隊が結成されたことおは、あまりにも
有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、また商人として高杉晋作と親交を
深めるとともに奇兵隊を援助した。
このあたりに白石家の浜門があって、海へ通じており、
志士たちはここから出入した。
白石家の海へ降りる門は新しい時代へ向かう黎明の門だったといえる。

日和山公園

市内の中心位置する日和山公園は桜の名所として有名で、春は花見客でにぎわいます。
この銅像は昭和31年に建てられたもので陶製のものです。
この像の位置から関門海峡が一望できます。

長州砲

幕末の下関戦争で使用された長州砲。
その大砲がフランスから里帰りし、長府博物館に展示されています。
みもすそ川公園に据え付けられている物(写真)はレプリカです。


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