宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたのは、 慶長17年(1614年)4月13日と言われています。 決闘の日の朝、武蔵は下関の回船問屋小林太郎左衛門方から 約束の時間より遅れて島に向かいました。 小次郎は指定された時刻に舟島に向かい、 弟子たちは対岸の彦島から小次郎の勝利を固唾をのんで見守っていました。 この場所は現在も「弟子待町」という地名として残っています。 役人立会いのもと決闘が行われ、武蔵が勝ち、小次郎が敗れました。 決闘に関する資料は数多くありますが、 決闘の際に記録された文書が存在しないため、 正確なところは謎となっています。
巌流島は伝説によれば、 古代関門海峡が洞窟によりつながっていたころ、 “穴門”と呼ばれており、ある日突然天変地異により、 同門は崩れ落ち、岩石が侵食によってできた島が、 長い年月島を取り巻く激流に削られて舟型の島となり、 下関側では舟島、小倉側では向島と呼ばれるようになったと言われています。
決闘当時、島の面積は現在の約6分の1でした。 大正時代、南側の砂洲の部分を埋め立てし 現在の形状となりました。 今では、どこから来たのか数匹の狸が住みついています。 不定期の渡船が唯一の交通アクセスで、 5月の連休時に開催されるフェスティバルでは 多くの観光客でにぎわっています。