特別寄稿 「厳島縁起」の中の大竹

広島県医師会会長
碓井静照

 広島県には様々な、歴史上興味深い伝説、民話、故事が豊富に存在する。例えば、似島から、宮島、大竹にかけての広島湾ひとつとっても、色々なドラマ、歴史絵巻が展開されてきた。有史以前、神代の時代にも市杵島姫命が似の島方向から厳島にやってきているのだが 、有史時代に入って、いや、それ以前から人々はこの広島湾を船で往来していた。

 平清盛は若い国司の頃、安芸の国に派遣され、音戸の瀬戸を開く土木工事を担当したのだが、この時、当時すでに神の島といわれていた厳島の美しさにひかれていた。そして後に太政大臣になり、権力をほしいままに使えるようになったとき、厳島神社を造営した。日宋 貿易で財政も豊かであったからでもある。清盛は京の寝殿造りの建築様式を取り入れ、宮廷でのみやびやかな弦楽、雅楽のほとんどの手法を導入している。管絃祭のおりには、幽玄な御座船が大小の飾り船を率いて宮島の大鳥居に向かった。

 1164(長寛2)年、似島から宮島にむけて、あかね色の帆船があの結爛絢豪華な33巻からなる平家納経を持って到来したのであるが、納経の表紙である「見返し」の金箔、銀箔、群青、もえぎ色をあしらった装丁は国宝中の国宝である。

 そして1177(治承元)年、清盛は自作の「厳島縁起」を御宝殿に納めたのであるが、「このことは、くれぐれも口外しないように」と 言い残している。従ってこの縁起の存在は、あまり世に知られることなく、御宝殿の中で静かに眠っていた。2004 (平成16)年、私は 「みやじま物語」を上梓したのだか、後段の「厳島の由来」の中で「厳島縁起」をわかりやすく現代語訳している。清盛は厳島大明神の由来について述べているが、厳島大明神は推古天皇の時代に日本秋津島、山陽道安芸国佐西郡鳥翔村に衆生済度、人々を救うために天上 から降りてきた神様だとじている。

 物語りは、上、中、下の三巻に分かれていて、上巻は東条国の善哉王と西城国の足引宮の恋の話。中巻では千人の后たちの陰謀による 足引宮の謀殺の話、続く下巻では王子と善哉王が足引宮を生き返らせる話から、厳島の神とじて垂迹するまでを語っている。紙面の関係上、大竹に関係ある中巻の一部のみを紹介するが、「厳島縁起」には「佐伯」とか、「西城」、「東城」、「簾(すだれ)」、「くし」 など、現代の私たちになじみの言葉が多いのに驚く。

 むかし、推古天皇のはるか昔、天竺に東城国という大層栄えた国があって、王の名を東善王といった。王は豪奢な生活をしていて千人 の后も抱えておった。そのうち、一人の后か懐妊し、王子は善哉王と名づけられ、七歳で王位を継ぎ、百人の后を与えられた。

 東善王はその国の遥か西にある西城国の足引宮という絶世の美人に惚れ、物思いに沈んでいたが、一羽の五烏の助けで足引宮を手に入れ、東城国に帰ってきた。「中の巻〜恐ろしき謀」はここからである。

 東善王の千人の后たちは足引宮のあまりの美しさに嫉妬して、皆で恐ろしい企みをはじめた。ある后などは土人形に赤い小袖を着せ、七尺の穴に逆さまに埋めて女の髪を唐輪に結い、一斉に声をあげて呪詛した。后たちの悪巧みは六人の粗暴な武士を呼び出し「からひく山という高い山があります。ここのこんどう(金剛?)が峰のじゃくまくの岩の上で后、足引宮の首を打ちなさい」と言うまでになった。

 后たちの指示に従った武士たちは足引宮を容赦なく大床からひきずり落とし、十二単衣を剥ぎ取って麻の衣に着替えさせ、髪を引きつかんで地面を歩かせた。そのため足元が血で赤く染ってしまった。足引宮が、「紅の 雲になりゆく わが身かな たなびく空に 霞ならねば」と歌を詠み、どうせ同じ事ならここで殺しなさいと言ったが、それを聞いた心ある武士が、あやし(足速?)の馬に鞍を置き、足引宮を乗せて三十日後、からひく山の岩の上に連れていった。

 いよいよ首を打とうとした時、なぜか剣が折れ曲がって打つことができなかった。すると足引宮が「私は胎内に王子を宿しています。王子は七ヵ月の胎児です。七ヵ月経てば耳が聞こえるといいます。王子に、すぐ生まれるように申しますから、お前たちは、しばらく離れていなさい」と。腹の中の王子にすぐに生まれるように足引宮が告げると、御子が誕生した。足引宮は、さらに武士たちに向かって、「あの谷に流れている水を汲んできなさい。この子に産湯をつかい、私も最後の水を飲みましょう」と命じた。足引宮は、王子が人倫絶えた山中で誕生したことを嘆き、長い髪を七つに分け、「一房は梵天帝釈に差し上げます。この子が三歳になるまで差し障りなくお守りください。一房は竜宮城に差し向けます。一房は父母に、一房は閻魔大王に、一房はこの山の虎狼野干に差し上げます。この子の守護のためにお供えします」と祈願した。

 恐ろしい謀の話だが、私はこの「厳島縁起]の中の「谷」は「大野の滝」だと長い間考えていた。 ところがある時、「大野の滝」のある大頭神社の関係者の方に尋ねたところ、「あれは大竹の松が原の湯船の滝です」という答えだった。まことに大竹はかっては佐伯の鞍職(くらもと)の領地であったし、佐伯の鞍職自身、安芸の国と周防の国の境界にあった大滝(おおたき)に流罪になってきた経過がある。

 この物語の航海のところでは、波に命を取られそうになったり、風で転覆させられそうになったり、様々な鬼に出会ったりしている。風を吹き出す鬼、剣を飛ばす鬼、磐石を砕く鬼、異型、異類の鬼など無数の鬼が登場する。また廃屋同然になった清涼殿の御簾も几帳も破れはて、軒には蜘蛛の巣がかかり、雨露もたまらないような風情が描写されている。そして死んだ人を元の姿に戻す秘術にも触れている。

 物語の後段では足引宮は蘇り、瀬戸内海に現われて、「くろますの島」を眺めて、「天竺にある島にとてもよく似ている」と言い、たき(わき)の浦の三笠の浜で神の姿となって、御宝殿と百八の回廊を建てたという。そして「いまだこれはどの美しい島を見たことがない、いつくしい島である」と言ったので、それからはこの島を厳島と呼ぶようになったのである。

 斎の島である厳島には、多くの禁忌があったし今でも気の遠くなるほどの禁忌、祭祀がある。烏に団子を供える「御烏喰式(おとぐいしき)」もその一つである。島に立ち入るためには厳重な潔斎が必要とされ、人が住んではいけない神聖な島であったと伝えられる。しかし時代が降るとともに祭祀に関わる人々が島内に定住するようになり、後には一般の人々も移住するようになった。

 厳島神社の御祭神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命は、『古事記』や『日本書紀』によると、天照大神と素盞鳴尊との誓約で、素盞鳴尊が佩いていた十拳の剣を三つに折り、かみ砕いて吐き出したその息吹から生まれた神々である。宗像三神と呼ばれ福岡県宗像郡に祀られており、古代以来水と海上交通の神として信仰されている神々である。三神とも美人で名高いが、特に美しいとされるのが市杵島姫命である。本地垂迹により七福神の弁財天と同神とされており、海上交通だけでなく、音楽や財宝の神としてもあがめられている。

 瀬戸内海沿岸の島々や内陸部には、「厳島神社」や「市杵島姫命」にまつわる伝説が数多く残されている。市杵島姫の命が安住の地を求めて諸州を見回っていた時に立ち寄った場所など、島根県の沿岸から山間部を縫って、瀬戸内海にぬけるルート沿いに点在している。出雲大社の社紋である二重亀甲剣花菱紋が本社拝殿の正面に据えられていること、宗像三神の一人である田心姫命の夫が出雲の大国主命であること、厳島神社の社紋が出雲大社の社紋を三つ重ねた三盛亀甲剣花菱紋であることからも、出雲と市杵島姫命との深い関わりが伺える。

 興味深いのは、市杵島姫命が二歳の子どもを連れて諸州を回っていることである。「市杵島姫命が子どもを連れて苦労をしたから」という理由で、二歳の子どもがいる家庭では厳島神社の参拝を避けなければならないという言い伝えも残されている。

 まだまだ話は続くのであるが、このへんで大竹にちなんだ「厳島縁起」を閉じることにします。

                                    (注:上記は大竹市医師会会報 No.86(2006.7.15発刊)に寄稿されたものです)