盤上英雄伝説外伝


平成2年卒 藤田 勉



1.序文

 盤上英雄伝説(青葉譜第2号掲載)において、私は自己の戦略と戦術について論述を試みた。しかしながら、当時の私は余りにも未熟で考えが足りなかった上に、自己の利益のために語れない部分も大きかった。
 長い大学での生活に終止符を打つに当り、いま一度、私の将棋における戦略について論じたいと思う。なお、私は本論文で高尚なことを述べようというつもりはない。これから将棋部に入部するといった今後の上達を目指す人々に、より柔軟な発想で将棋に臨んでもらうことが、この小論の主旨である。



2.理論

2−1 基本戦略

 盤上英雄伝説における私の論旨は、「盤上での戦略的優劣は、基本的には戦闘に参加している駒の数によって決定する。」というもので、実は裏返せば、 「遊び駒の多い方は、戦略的に不利である。」となり、しごく常識的なことをいっているに過ぎない。
 しかしながら、盤上英雄伝説を書いた当時、私にとってこの考えは革新的だった。以前、私は将棋とは、良く読んで手順をつくし敵陣を破る(あるいは自陣を守る)ゲームであると考えていた。将棋の強さとは、いかに戦術的に巧妙であるか、どれほどよく研究し、先を読んでいるかであると考えていたのである。
私は入部した当初、高校時代の蓄積で研究量についてはかなり自信があり、有数の長考派といわれるほど読みを重視していた。しかし、用意していたいくつかのトリックを使い果たすと段々勝つのが困難になっていった。将棋部内で限られた相手と指す以上、一つの研究はそう長くは通用しない。長考が局面を有利に導くこともあったが、むしろ苦手の終盤戦に時間がなくなり足かせとなった。ある日、以前読んだ銀河英雄伝説という小説を読み返している際に、私はふと銀河英雄伝説に繰り返しでてくる「戦略的敗北を戦術的勝利によって補うのは不可能に近い。」という主張に注目した。私は、将棋における戦術とは、具体的には次にどの手を指すのかといった手段に相当し、戦略とは、どこでどのように戦うのかといった方針に相当すると考えた。「戦略的敗北を戦術的勝利によって補うのは不可能に近い。」とは、誤った方針(戦略)に基づいて手段(戦術)を探索しても、誤った手段しか得られないということである。私はそれまで大局的な方針の立案などほとんど考えて来なかったことに気づいた。ただ、手段のみに目を奪われ、目前の敵陣をどうやって突破するかといったことで精いっぱいであったのである。
 銀河英雄伝説において主張されている戦略的勝利の基本は「敵よりも多くの数を揃えること」である。銀河英雄伝説の作者である田中 芳樹氏は、大学院で歴史を学び文学博士号を得た人物で、いくつかの歴史小説も書いている。氏の主張によれば、歴史上少数の兵で大軍を破った例は多いが、そのような例はめったにないため歴史に残っているそうである。
 基本的に互角の戦力で戦う将棋において敵に優る大軍を動員するには、敵には遊び駒をつくらせ自らは遊び駒をつくらないことである。私は、将棋においてこのようなことが最も重要になる戦形は、最も異なった構想の対抗形である風車対居飛車穴熊ではないかと考えた。そこで、盤上英雄伝説における主題としてこの戦形を選び、「最強の囲いを誇る居飛車穴熊に対し、前線に大戦力を配置し敵の守備陣と攻撃陣を分断し、数をもって敵を圧倒するのが私の戦略構想である。」と論じたのである。
 今回の論述でも基本的な構想としては、この「数」を重視する戦略を重視する。しかし、以下ではもっと将棋に勝つという目的を意識し、一局の将棋全体の考え方を中心に述べたい。
 また、一方で、居飛車穴熊には居飛車穴熊の戦略構想がある。今回はその点も考え、居飛車穴熊による風車破りについても触れたい。



2−2 総合的な戦術および戦略

(1) はじめに
前節で述べた居飛車穴熊に対する戦略はようするに、例えば、攻め駒のみを相手に戦うことによって守り駒全てを遊び駒にしてしまおう、というだけのものである。当然のことながらこれだけで勝てるはずもなく、対局前の努力もふくめた総合的な戦術および戦略を立案・実行する必要がある。基本的に、常に自分が相手よりも実力があればさほど悩む必要もないが、そのような人物は希であろう。この節では、銀河英雄伝説の副主人公ヤン流に「なるべく楽をして勝つ」ことを念頭にし、自分より強い相手にも(楽に)勝つための私の総合的な方策について述べる。


(2) 自己分析による戦略・戦術の立案
 将棋部への入部当初に認識していた私の長所は、比較的研究量が豊富であり序盤戦術に優れていることと、防御能力がやや高いことであった。一方、短所は、長考が多すぎることと中終盤における攻撃能力が低いことであった。
 私は、同期で早指しの名手といわれた関氏に対抗するためには、まず長考を何とかする必要があると考え、短時間の切れ負け将棋などの訓練に励んだ。その結果、私は、「短時間の将棋について重要なのは、いかに時間を使わずに指すかではなく、いかに時間を使うかである。」との結論に到達した。
このことは、短時間の将棋のみならず長時間の将棋についても適用できる。我々が指す一手の指し手は無から生まれてくるわけではない。ある程度の時間及び気力・体力の消費の結果として、我々はその手を指すことが出来るのである。将棋を戦争のシミュレーションと考えた場合、持ち時間を現実の戦争における要素に例えるならば、補給物資に相当するのではないだろうか。なぜならどんな強豪でも十分な持ち時間なしには実力を発揮出来ないからである。持ち時間及び気力・体力は無限ではないため、これらの効果的な運用法の構築は非常に重要である。


以上のことを踏まえ、試行錯誤の末到達した私のシステムは次のようなものである。

 [a] 序盤戦においては、日常の研究等を強化し実際の対局における消費時間を節約する。(未知の戦形においても、上述の数の重視による戦略的思考法を依り所に消費時間の節約を目指す。)

[b] 中盤戦において膠着状態などになった場合、打開を目指さず千日手を目指す。自己の打開責任を放棄することによって、相手に打開責任を押し付け、相手のみ時間及び気力・体力を消耗させる。

 [c] 中終盤において有利になった場合には、時間を惜しまず投入し優位の確保を目指す。攻撃能力の不足は「数」によって補い、決して無理な攻撃は行わない。

[d] 中終盤において不利になった場合には、時間を温存し、比較的早いペースで指し手を進め相手のミスを待つ。基本的には、頼りにならない攻撃能力よりは、少しはましな防御能力の方に期待する。(通常、防御よりは攻撃のほうがよく読まねばならず消費時間が多い。従って、これには相手に時間を消費させるという意味もある。)


上記のうち、まず [a] の前提条件としては、私が採用する戦形が限られていることから、研究量・経験量でこちらが上回ることが多いことがあげられる。しかしながら、私は特定の戦法のみにこだわらず、なるべく広い範囲の戦法を学んできたつもりである。これは、研究中及び対局中に未知の局面が生じた際に、効果的な対処法を考案するためには、幅広い知識を持っている必要があると考えたためである。
[b] の千日手については、私は千日手を好むと公言してきた。実際には私も千日手は好まないが、持ち時間の浪費を避けるため敢えて千日手を目指すのである。仮に相手が打開を諦めた場合は、改めて打開を考えてもよいことである。
  [c] は私が最も重要と考える要素である。不利なときにいくら先を読んでも不利な局面しか出てこないが、有利なときはより良くする手段があるというのが私の持論である。中終盤は私の弱点で、時間を投入しているにも関わらず逆転負けするのが、最も多い私の負けパターンである。
  [d] はやや問題である。最悪の場合、大量の持ち時間を抱えたまま死に至ることになる。実際にこの様なことはたびたびあり、負け将棋に無駄な体力を使わなかったといって自分を慰めることになる。これを避けるためには、よく勉強して序中盤で不利に陥らないように努力するしかないと思われる。



3.実験

3−1 背景

 本章では2章で述べた理論の検証のための題材として、平成4年に行われた東北六県選抜将棋大会における私と加賀屋 浩美氏(秋田県大将)との一戦を解説したい。
 東北六県選抜将棋大会は、全国的にはあまり知られていないが、宮城県でもあまり知られていない。しかしながら、東北の他の五県では、主催の地方紙などがかなり大きく取り扱うため有名な大会である。私が前年に引続きこの大会の宮城県代表となったのは、かなりの好運と共に、秋田出身の私がこの大会に大きな価値を見いだしていたためであろう。(例えば、秋田の地方紙では各県の選手が顔写真入りで紹介されるとともに、秋田県代表選手の棋譜が観戦記や自戦記つきで数日に渡って掲載される。)
前年は宮城県チームの優勝であったが、前年の勝ち星10の内、5勝をたたき出した全国的強豪の加部氏が不出場のため、今回は逆に最下位候補である。私個人の成績については、前年は副将で2勝3敗の5位、大将の今回は1勝がせいぜいであろうと考えていた。
 さて、実際の大会では、最終の対秋田戦までに、チーム・個人共に1勝3敗(5位)と、予想した通りの展開となった。一方、秋田県チームは首位の成績をあげ、最終戦の結果は明かかと見えた。しかしながら、諦めの悪い私は勝負を投げてはおらず、楽勝ムードの秋田県チームに一泡ふかせてやろうという野望を抱いていた。
 宮城県の先鋒の高橋 健志氏(もちろん東北大OB)は本大会の前半不調で、ここまで2勝2敗とふるわないが徐々に調子を取り戻している。本来の彼の強さを秋田県チームは知らないはずである。宮城県予選での私との対局では、私の指し回しが、私にとって会心のできだったにも関わらず、逆転されている。(高橋氏が最後に3手詰めを見逃したため、好運にも私が勝った。)大会前、私は、高橋氏なら先鋒戦を全勝優勝するのではないかとさえ思っていた。高橋氏が本調子なら、優勝のプレッシャーで硬くなった相手にきっと勝つはずと私は考えた。
 しかし、副将の田中 晴夫氏(東北学院大OB)は、ずっと不調でここまで勝ち星がなく、残念ながら勝てそうもない。
 したがって、勝負は大将戦にかかってくるのだが、前年の大将戦優勝者で東北でも有数の強豪の加賀屋氏と私とでは、本来比較のしようもない。だが、加賀屋氏は、その棋風から、居飛車穴熊を作戦として採用することが予想された。
 この一戦に、加賀屋氏は個人・団体ともに優勝がかかっており、そのプレッシャーからも必ず居飛車穴熊に来るに違いないと考えられる。一方、私はここまでの唯一の勝ち星は対居飛車穴熊によるもので、私の実力を十分以上に発揮できる得意の戦形である。私は加賀屋氏のプレッシャーと予想される戦形に、僅かな勝算を見いだしていた。



3−2 実戦における戦術と戦略
後手 加賀屋 浩美 五段
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △8四歩 ▲6八銀 △6二銀
▲5八飛 △4二玉 ▲4八玉 △3二玉 ▲3八玉 △5四歩
▲6七銀 △5三銀 ▲5六歩 △3三角 ▲4八銀 △2二玉
▲4六歩 △5二金右▲3六歩 △4四歩 ▲4七銀 △1二香
▲48金 △1一玉 ▲5五歩 △同歩  ▲同飛  △5四歩
▲5九飛 △2二銀 ▲5六銀左△8五歩 ▲7七角 △3一金
▲3七桂 △4三金 ▲2六歩 △9四歩 ▲1六歩 △7四歩
▲6五歩 △5一角 ▲7八金 △8四角 ▲6九飛 △3二飛
▲6六角
(第1図)

(第1図 ▲6六角まで)

後手:加賀屋

後手の持ち駒:なし

先手:藤田

先手の持ち駒:歩


 第1図までやはり風車対居飛車穴熊の対抗形となった。私は5分ほどしか使っていないが、ここまでに細かな鍔競り合いを行っている。
 私が6九の金をなかなか使わないのは、後手の動向によっては右翼に使いたいためである。にもかかわらず、△5一角に対して▲7八金としたのは、9六歩の省略により得をしようと期待したためである。▲7八金に対し後手が左翼攻撃を志向してくるならばこちらの思うつぼで、得意の駒の総動員を目指すことができる。私は▲6九飛とし戦いの準備を行った。▲6九飛に対し△7三桂などは疑問で、こちらから▲6六角と交換を挑むのが権利となってしまう。しかし加賀屋氏は△3二飛と右翼を目指し、▲6九飛は緩手になってしまった。▲6九飛では▲2五歩が正着で、△3二飛に対し▲2九飛から2筋の歩をきれば局面をリ−ドすることが可能になる。本譜の進行ではこれが間に合わず後手にかなりの主導権を与えてしまう。
 実力が上の加賀屋氏が、ここまで20分以上も費やしているのであるから、ある程度の不利はやむをえない。▲6六角は危険な勝負手である。

第1図以下の指し手
     △7三角 ▲2七玉 △3五歩 ▲同歩  △同飛 
▲3六歩 △3二飛 ▲7七桂 △8二飛 ▲8九飛 △1四歩
▲3八玉 △3四金 ▲2五歩 △4二銀 ▲9六歩 △5二飛
▲5九飛 △5五歩
(第2図)

(第2図 △5五歩まで)

後手:加賀屋

後手の持ち駒:歩

先手:藤田

先手の持ち駒:歩


 ▲6六角には△同角が正着であろう。通常、居飛車穴熊側は角交換を避けるのが正しいが、これはタイミングが悪い。△5五歩と△3五歩をからめられ手にされてしまいそうな局面である。私が敢えて▲6六角としたのは、△同角とはしてこないと期待していたからである。
 加賀屋氏にとって、私は勝って当然の相手である。おだやかにしていれば、そのうち実力差がでて自然勝ちとなるはずなのである。この対局はぜひ勝ちたい一局であるがゆえに、有利でも危険な道に踏み込むよりも、安全な策を採ってくるのではないかと、私は考えたのである。もし、この考えが正しく△7三角として来るほど弱気なら、実力差はあっても、そのうちチャンスが訪れるにちがいない。もし、△同角ならば加賀屋氏にとって危険が増すわけであるから、負けて元々の私としては歓迎である。
 果して後手は△7三角。序中盤でリ−ドこそできなかったが、これでどうにか互角であろう。
 ここで、後手が3筋に固執してくれれば、むしろありがたかったのだが、加賀屋氏は8筋に飛車を戻す。基本的には右翼にしても左翼にしても、動員可能な戦力数はこちらの方が多い。しかしながら、戦力の展開・集中には手数が必要で、このように的が絞りきれないのはやや辛い。ともかく持ち時間を消耗させ、あせらせることが第一と考え、私は消極的な対応を行った。だが、ここはもっと慎重に読むべきであった。△5二飛に対し、一見自然な▲5九飛。負けていれば敗着の大失着である。▲5九飛では積極的に戦端を開く▲6四歩が正着であった。同歩、同角いずれにしても難解な戦いが予想される。
 後手の△5五歩に対して、私は初めての長考に入った。

第2図以下の指し手
▲6七銀 △4五歩 ▲同歩  △4三銀 ▲4六銀 △5四銀
▲4七金 △6四歩 ▲同歩  △6五歩 ▲4八角 △6四角
▲3五歩 △3三金 ▲2九飛 △7三桂
(第3図)

(第3図 △7三桂まで)

後手:加賀屋

後手の持ち駒:歩

先手:藤田

先手の持ち駒:歩3


 加賀屋氏の自戦記によると、加賀屋氏も、予想される戦形や私の消極的な棋風を、事前に分析していたようである。経験豊富な加賀屋氏は、かなり前から△5五歩を狙い、私を左右に振り回したのかもしれない。
 △5五歩は取れなくてはならない。中央はこちらが戦力を集中している所である。ここで撤退するということは、これまでの盤上における作戦が全面的に崩壊することを意味するのである。しかし、▲5五同銀は以下、△同角、▲同角、△5八歩、▲同飛、△6九銀で悪い。もう少しましな変化も考えられるが、いくら私が受けが好きといっても、入玉の手段もなく、とても支えきれそうにない。

 私は熟慮の末、▲6七銀と撤退を決意した。私が決意したのは▲6七銀の撤退ではない。以下10手前後に渡る全軍退却の方針である。

 局面は不利。具体的な駒損はないものの、どこかで決戦にでない限り、中央を制圧され、ジリ貧負けとなるのは目に見えている。問題はいつどこで決戦にでるべきかである。40分の持ち時間のうち私の消費時間は10分少々である。一方、加賀屋氏は逆に残り時間が10分少々しかない。ここでの決戦は加賀屋氏の予測するところで、残りの10分を効果的に使われ、寄せきられてしまうであろう。加賀屋氏は依然慎重で、一手あたりの消費時間は、むしろ増加傾向にある。あと10手持ちこたえることができれば、必ず時間を使いきるはず。加賀屋氏の持ち時間が0となった瞬間こそが、決戦にでるタイミング。私はそう考え、決戦を引き延ばしにかかったのである。

 △4五歩の突き捨てから△4三銀はやや変調。加賀屋氏の自戦記では、△3五歩の予定が後に気になる変化があってやめたという。労せずして3、4筋の位を得ることができ好運であったが、大勢に変化はなく、6筋の位も放棄して撤退である。加賀屋氏が万全の攻撃態勢を整えるべく△7三桂としたその瞬間に、加賀屋氏の時計の針が残り時間0を示した。

第3図以下の指し手
▲2四歩 △同歩  ▲1五歩 △同歩  ▲2五歩 △5六歩 
▲同銀  △1六歩 ▲2四歩 △2八歩 ▲同飛  △1七歩成
▲2六飛 △2七歩 ▲1三歩 △2八歩成▲4九玉 △1三香 
▲2五桂 △2七と引▲3三桂成△同桂  ▲2三歩成△同銀  
▲同飛成 △2二飛 ▲1二歩 △同飛  ▲3三竜 △2二歩 
▲1四歩 △2一桂 ▲1三歩成△3三桂 ▲1二と △同玉  
▲2四桂 △2三玉 ▲3四金
(第4図)まで123手で藤田勝ち

(第4図 ▲3四金まで)

後手:加賀屋

後手の持ち駒:飛歩4

先手:藤田

先手の持ち駒:飛銀香歩2


 ▲2四歩から待望の反撃である。もっともそれほどたいした攻めではない。丁寧に受けに回られても、受けきられてしまったであろう。△5六歩に▲同銀と取らざるを得なく、風前の灯火である。私は以下△4六角、▲同金、△5五銀打で、先手防戦不能とみていた。加賀屋氏の読み筋は△4六角、▲同金、△3六歩、▲同金、△5五銀で、私の読み筋より筋がいいが、△3六歩を手抜く筋など変化が複雑で、秒読みでは決断しきれなかったようである。
 △1六歩は、加賀屋氏の自戦記に痛恨の一手とある。一見、△1六歩自体はたいした悪手ではないようにみえる。△1六歩以下の指し手で、後手はと金を二枚つくって先手玉を追い、攻撃には成功している。戦術的には成功しているにもかかわらず、これが失敗なのは戦略的に誤っているからである。先手の主力は右翼に集中しており、後手の主力は中央に集中している。右翼方面で戦うことは先手の主力を活かすとともに、後手の主力を遊ばせることになるのである。加賀屋氏ほどの強豪も、時間がないために戦略の立案を誤ったのである。△1六歩によって角切りのタイミングを失った後手は、それまでの優勢が嘘のようにボロボロになっていく。
 私は、まだ20分以上残してある時間の投入に入った。▲1四歩で受けがないことを読み切ったあたりで、完全に持ち時間を消費しきることができたと記憶している。



4.結果

 私が加賀屋氏を破ったのは大金星といってよかろう。副将戦はやはり敗れたものの、先鋒戦は高橋氏が勝ち、秋田県チームは優勝を、加賀屋氏は個人戦の優勝をも逃す結果となった。

 ここに掲載した加賀屋氏との対局を分析すると、次のようになろう。
最初に、先手の私が不利に陥ったのは、直接的には△5五歩(第1図参照)の見落としによるもので、読み不足が原因である。冷静にみて膠着状態とはなりえそうもないこの時点では、もっと積極性を持ってしかるべきであった。後手が△4二銀とし左翼が薄くなった瞬間は、▲6四歩などのチャンスであったかもしれない。
 △5五歩以下でこちらが不利な最大の理由は、7八の金の働きが乏しいためである。風車のような左右分裂形の将棋では、玉から最も離れたこのような駒の働きが優劣を左右することが多い。左金の動向にはいつも気を使っているのであるが、後手の軽快な動きに的を絞り切れなかったともいえる。

 以前、盤上英雄伝説では、居飛車穴熊を活かすにはゲリラ戦のような指し方をするべきであるといったことを書いた。居飛車穴熊側が動員できる戦力は、常に相手側よりも少ないとみてよかろう。少数の戦力を活かすには、相手に的を絞らせず敵戦力を分散させるような指し方が重要なのである。右翼、左翼と先手を振り回し、最終的に欠陥となった中央を突く後手の加賀屋氏の指し回しは、まさにゲリラ戦である。風車による居飛車穴熊破りは、いかに自戦力を集中させるかであり、居飛車穴熊による風車破りは、いかに敵戦力を分散させるかなのである。

本局で私が逆転に成功したのは、加賀屋氏が時間配分を誤ったためで、氏も自戦記で最大の敗因(実力では負けるはずがないということ)としている。十分な時間があれば、加賀屋氏ほどの強豪が、△1六歩のような戦略ミスを犯すはずはない。
 全体的にみて、序中盤における過度の消極性に問題があったが、本局は私のシステムが非常に効果的に働いた例といえる。



5.考察

 私が大学で過ごした間の、我々を取り巻く環境の中の最も大きな変化の一つに、パーソナルコンピュータの著しい普及が挙げられると思う。パソコンの普及は、プロ棋士による棋譜のデータベース化及び活用など、将棋についても変化をもたらしつつある。東北大将棋部においても、次期理事長の山下 宏氏が将棋プログラムを開発し、大会で市販のプログラムに劣らない優秀な成績をおさめるなど無関係ではない。私はこの1年程の間に、山下氏の将棋プログラム開発についての話を傾聴したり、市販のプログラムや山下氏の将棋プログラムと対局する機会を持ったりしてきた。その結果、現在の将棋プログラムの実力はせいぜい4級といったところだが、初段程度のシステムを造り上げるには十分な技術水準に近づいているとの感触を得た。現状で初段クラスのシステムを組むには、おそらく膨大な資金と労力が必要となろうが、不可能ではあるまい。だが、それ以上の進歩があるには、大きな壁があるのではないかと私は考えている。現状ですらも、読みの量についてはすでに人間の遥かに上をいく。最大の問題点は大局的な観点の数値化である。当然のことながら私には山下氏ほどの知識はないので正確さを欠くかもしれないが、現在のプログラムでは、駒の損得、位置、連係の形(例えば囲いの形)などを数値化し、それに基づく形勢判断を行っている。この延長線上から、例えば、具体的な損のない先の△1六歩が悪手であるという大局観を求めるのは、極めて難しいといえる。
読みでは人間の上をいくコンピュータが人間より弱いのは、大局観が未熟なためであるが、かといって読みを軽視してよいわけでもない。私はかつては大局観さえ正確ならば、読みはほとんどいらないのではないかと思っていたが、山下氏とのコンピュータ将棋に関する対話の中で、それが誤りであることに気づいた。例えば、先に焦点となった△5五歩の局面における形勢を、読みの要素なしに、局面のみから導くのは不可能である。私にとって、本論や盤上英雄伝説で強調してきた戦略的思考法はある意味で至高なものであるが、やはり、読みと大局観とは、どちらが重要ということではなく、不可分なものなのであろう。


 本論では、盤上英雄伝説において論んじた数の論理をより進んだわかりやすい形態で記述し、時間の配分や相手の心理といった盤外の要素も含めた論を展開してきた。特に時間配分の重要性については十分理解していただいたと思う。しかしながら、私はこのような時間配分を読者に推すものではない。私の時間配分は、第2章で述べたような私の長所、短所が前提条件であり、他の要素と総合して初めて効果を発揮するもので、そのまま他の人間が用いても無意味である。

 将棋を指すもの全てにとって、どうすれば勝つことができるのかは重要な課題である。勝つために私は私のシステムを創り上げたが、その結果わかったのは、結局、確実に勝つには、正しい位置に正しい量の戦力を配置し、それを正しく運用するしかないということであり、そのための方策としては、深い読みと高度な大局観、多くの知識、冷静な判断能力などを苦労して地道に身につけるしかないということである。
 戦略的な思考法を身につけることは、大局観を論理化し実力の向上に役立つ。しかし、時間配分などのシステムは、自己の実力を十分に活用するためのものであるが、それのみに目を奪われることは、実力そのものを引き上げるにはむしろマイナスになりかねない。

 私がここで推奨したいのは、各人の長所、短所を各人が自己分析により見いだし、それに合わせた自己の将棋を創り出すことである。記憶にある限り、過去に東北大将棋部でレギュラーとして活躍した者の多くは、意識する、しないにかかわらず、自己の長所、短所に応じた自己の将棋を創り上げ、それを自己の個性として表現することに成功した人であったと私は思っている。例えば、過去には、私と同様にほとんど中飛車しか指さない者が幾人かいたが、防御中心の私に対し、ある者はさばきを重視し、またある者は攻撃を重視しとそれぞれ全く異なった表現をしていた。こうした将棋による個性の表現が可能なほどの技量の持ち主は、例外なく相応の戦績を上げていたと思う。(もちろん個性的なほどよいというわけではないが。)

 もし、盤上で自己の個性を表現できるほどの技量が身につけられるならば、結果的にあまり勝てなっかったとしても、十分将棋に打ち込んだ価値があるのではないだろうか。これを持って本論の結びとしたい。