過去のご法話 | |
五月宗祖降誕会法要 | |
講師 中島 昭念 先生 | |
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講師からのコメント
邂逅(カイコウ) |
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弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし (正像末和讃) 本日は降誕会のご縁でございます。普通の方は、故人の法事をしても 故人の誕生を祝うことはあまりありません。 しかし、浄土真宗には親鸞聖人のご誕生をありがたいことと 喜ばさせて頂く法要に、降誕会があります。 聖人が残した教えとはどういうものかお話しします。 今の世の中は有用性で物事を判断しています。 例えば、勝った負けた、好き嫌い、損得などです。 そして五欲を満足するための世となっています。 また私が思う豊かな人生とは、貧乏、病気、無知、不潔、怠惰を無くすことで、 ほぼ全ての豊かな人生の願望が満たされると思っています。 この豊かな人生を送ると、幸せな人生となるのでしょうか。 人間の欲望は無尽蔵です。どんなに豊かな人生になったとしても、 不安と不満が消えることはありません。そこで宗教が必要になります。 お寺は有用性ではなく、真実性で物事をみます。 ※1)真実とは如来様のことであり、「真実の経は大無量寿経(大経)これなり」と親鸞聖人は言われました。 浄土真宗の聖典は浄土三部経であり、その中に大経はあります。最近は昔と変わりました。 何かといいますとお経が短くなってきました。例えば昔では大切な方のご法事は前日の晩から 大経上巻・下巻、翌日に観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経をお勤めし、法話がありました。 今ではそのようなご法事はありません。大経に「独生 独死 独去 独来(どくしょう どくし どっこ どくらい)」 とあります。人間は、一人生まれて、一人生き、一人死ぬという意味です。 住職をしていますと、方々の火葬場に多くのご縁があります。その中で一番驚いたのは名古屋の火葬場です。 なんと五十基もの数があります。都会ではひっきりなしに霊柩車が入ってきます。 私の地元の火葬場は二基しかないのですが…。一人で死んでいくことはその通りです。 そして、一人だけなら別れもなく、悲しみもありません。 しかし、人間が生まれるには親子の縁がなければなりませんし、兄弟の縁も出来ることもあります。 また「一人生き」というのも、実際は社会で生活すると必ず人との関わりができ、一人では生きられません。 この様な多くの人との関わりのある世を「娑婆」といいます。そして人はそれぞれ違う考えを持っています。 例えば、桜の花を見ると多くの方はきれいだなと思います。 しかし、小林一茶は「死に支度、急げ急げと桜かな」と歌われています。 これは、桜の花はあっという間に散っていくように人の命もあっという間ですよという意味になります。 同じ桜の花を見ても、捉え方は違います。 ※2)幸田露伴の娘の文(あや)は「サケの目」という詩を書いています。 サケが、最後に産卵しに生まれた川に戻ってきますが、河口ですくい取られてしまいます。 目的を全うせず死んでゆくサケは最後に何を見ていくのか考えさせられます。 また、私の地元の阿東町では、この時期田んぼを耕します。耕すには目的があり、それは秋に米を収穫することです。 この世に生を受け、人間として生き、その目的は何であるのかということを 落ち着いて思う場所がお寺であります。 この不安と不満を取り除くため、成仏の道を聞かせて頂くのがお寺であります。 親鸞聖人は真実を求めて生き抜かれたお方です。 「念仏、成仏、これ真宗」とご和讃に書かれた浄土真宗の教えをお示し下さいました。 また領解文にもあるように「自力の心をふりすてて」と他力の道を進めて下さいました。 最後に聖人の有名な言葉を紹介致します。 「真(まこと)なるかな、悲しいかな、嬉しいかな」 これは、真のことを聞かせて頂くと、私は真実に逆らった 悲しい生き方しか出来ないという意味になります。 つまり、他のものの犠牲なしには生きることが出来ない私です。 そういう私をそのまま必ず救うと阿弥陀様の働きが私の上に働いて下さっている。 その働きが喜びとなるということを言われています。 本日は降誕会のご縁に際し、親鸞聖人のご誕生を祝い、 聖人の教えは世間の有用性という価値観ではなく、真実性でものをみる教えであります。 「真なるかな、悲しいかな、嬉しいかな」と味わうことの出来る教えに感謝したいことであります。
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聴聞の心得 |
一、このたびのこのご縁は初事と思うべし |